raの日記
■ 南三陸町 志津川での出来事
南三陸町 志津川の様子


  南三陸町もこの大震災で町として大きな被害を受けたと聞いている町でした。
  東北の町はみな、海に面しているので、いつも山から町に下るよう様な形で入ります。ここは小高い場所で町までまだ下り坂があるのですが、かなりの被害。家が倒れ、2つに割れています。


  町の中に入ると、そこはもう大変な状況。そこらじゅうに、資材や車、建物の残骸がちらばって、こなごなでした。
  奥に見える建物は、できたばかりの老人福祉施設です(グーグルマップにもまだ未登録)。 町の中でも少し小高いところにあるので、そこは大丈夫と思いましたがそうではありませんでした。
  その右奥、木の陰にあるのは学校施設で、そこの体育館は避難所になっていました。

老人福祉施設

  この丘まで来て見ると、資材残骸が散乱していました。建物はいいように見えますが、中を見ると中まで津波がやってきたようで、残骸や泥で汚れていて、使い物になりません。
  建物の中には、だれもいませんでした。
  こんなところまで津波の影響があるとはびっくりです。ここは、海抜25m以上はあります。

南三陸町を一望

  上記した福祉施設の丘の上から南三陸町 志津川を一望した写真です。
  遠方にビル群が残っているのが見えますが、中はもぬけの空。人は一人もいません。町が壊滅してしまった様子がわかるかと思います。
 ビル群とその向こう山並みとの間が内海です。

  右側に見えるマンションのような建物に注目してください。

 これが、上記写真の右側の建物をアップしたものです。
 この建物の屋上をみてください。これは、なんと車の残骸です。そして、木の柱と舟が屋上に載っていました。
 すべての窓は壊され、布切れや材木がのぞいています。この高さまで海水が来た事がよくわかります。  

 丘を下って、破壊された町の中に入ると、町中を流れる川がありました。この川の中に、転覆した車が見えるます。奥には、堤防が決壊して土嚢が積んであるのがわかります。

 一番の注目は、水面の高さです。これは、川の水の高さではなく、海水の高さです。
  相馬市と同様、地盤沈下をしたと思えます。車のラジオの東北放送でも、海水満潮のための警戒情報を何度も放送していました。


 南三陸町では、高校、中学校、小学校とみな、学校施設が避難所になっていました。都合のいいことに、すべての学校施設は高台にありました。
ここは、町民体育館アリーナの前です。ボランティアセンターがテントを張り、ボランティアの受付をしていました。  メディア、マスコミの放送車も来て、さかんに取材をしていました。
 ここで、ボランティア登録をして、食事の配給や被災した人の話を聞かせていただくことをさせていただきました。

 町民アリーナの中です。被災した方々は、体育館の中かと思いましたが、外のフロアが使われていました。中は、食事、物資倉庫、医療施設などに使われていました。

 この写真のように、ダンボールで仕切られ、それぞれのところで寝泊りされています。このようなダンボール仕切りの方式は、阪神大震災のときに考案されました。しかし、長期間となると、ストレスが増しそうです。 


 アリーナの入り口には、行方不明の方々に対する遺体収容情報が張り出されています。
収容場所、服装、遺体の特徴、発見状況などが記入されていますが、ほとんどこれだけではわかりません。
 遺体確認がなされた一覧表も張り出されていましたが、悲惨な状況です。 

 医療スタッフが、きりきりまいの状態で、健康管理をしていました。
 ちょうど、私がここへ来ているときに、三陸町の小学校で、東北の被災地の中で一番遅い入学式が行われたと、ラジオニュースが流されていました。


 三陸町のボランティアを終えて、気仙沼に向かいました。その道中の途中の小さな町です。
 高台に神社があったので車を止めました。右側の斜面を見れば、どこまで波が来たかよくわかります。下の木々は海水で多少枯れていましたが上のほうは大丈夫です。
  その奥の宅地を見てください。木々に取り囲まれているところ宅地は、ほとんど被害にあっていません。

高台の手すりを見ると、どこまでの高さのものだったかがわかります。 


 この丘の上の神社です。
 鎮守八幡神社とありました。昔ながらの大地、自然にはぐくまれた木々、そのようなものはほとんど何事もなかったかのように存在していました。
 これは、本当に考えさせられることです。
 

 この八幡神社から見下ろした風景です。

 いかに広範囲に被害が及んでいるかということが、わかるかと思います。
  従来の自然は、なんともなかったかのようにというのが、わかりますでしょうか。

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