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■2000年~ ■2010年1月~ ■2011年1月~ ■2012年1月~ |
地震や津波 先人の智恵・先人の教え・先人の教訓と「東北関東大震災」 3.11現代の「貴重な体験」の記録・保管方法 その② |
霊的史実
主として
活躍した年代
西暦年 |
精神世界的、歴史・政治史的見地からみた重要史実
地球環境的見地からみた重要史実
経済史的見地からみた重要史実
その他の歴史的史実
内容 |
オーパーツ
・「場違いな工芸品」という意味。それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の Out Of Place
Artifacts の頭文字をとったもの。日本語では「時代錯誤遺物」と意訳される。 |
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霊的見地からみた史実とは
霊界通信=霊界から地上界へ通信が届けられる方法が存在する
(1) スピリットが語る。
霊言現象 スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で「お告げ」とか「口寄せ」と呼ばれているもの。変性意識、トランス状態、トランスパーソナル
自動言語・直接談話現象 霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもので、霊媒から離れた空中から直接声がする。
(2) スピリットが書く。⇒エリザベス・キューブラー・ロスと死亡した元患者
自動書記現象 通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合で、「おふでさき」と呼ばれているものはこれに属する。
直接書記現象 神と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもので、絵画や記号、暗号などの場合もある。
(3) 人間の幽体離脱(体外離脱)による旅行探索体験がある。
音響現象、物体の出現・消失・物体を通り抜ける、物品引寄せ、化学的現象(発光・芳香・心霊写真)、耐火現象、浮揚現象、物質化現象、塑型、人体の変化、心理的心霊現象
アクシデントによる体験(臨死体験) ⇒ 実験的・訓練的体験 ⇒ 日常的な体験へ
=体外・幽体離脱 ⇒ 死後の世界(霊的世界)探索、探求。
チャネリング 常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人など)とコミュニケーションをすること。
1980年代以降米国でさかんにこの意味で使われるようになり広まった。チャネリングを行う人をchannel(チャネル、チャンネル )、あるいはchanneler(チャネラー) と呼ぶ。 |
予知夢
・意思とは関係なく、夢の中で未来を見る手法。明晰夢(眠っている者が夢を見ていることをはっきりと意識できる夢)
リモートビューイング(遠隔透視)
・量子物理学の「並行宇宙(パラレルワールド)」と似ている原理
・空間ばかりでなく時間をも超越し、未来を透視したり過去に起きたことを追体験できる。⇒ヘミシンク、ジョー・マクモニーグル
リーディング(催眠透視)
・エドガー・ケイシー
・フィジカル・リーディング(病気診断)、ライフ・リーディング(生まれ変わり解明)、リサーチ・リーディング(未来予言)
占星術(ホロスコープ)
・古代バビロニアから世界各地へ |
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気づき
偶然と必然
摩訶不思議
哲学
悟り
宗教
超宗教
スピリチュアリズム |
・明晰夢、白昼夢
・臨死体験
(幽体離脱、
体外離脱(体脱)体験)
・輪廻転生
(過去世~未来・来世)
降霊、交霊会
前世療法(ヒプノセラピー)
変性意識 |
スピリット
高級霊
死者・意識体・地球外生命体とのコミュニケーション
Higher Self(ハイヤーセルフ)
オーバーソウル
ディスク(※この色:独立した意識的存在)
I/There
大いなる自己
神、
源、生命エネルギー
something great、
未来人・宇宙人(5次元)が関与
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地球や人類全体に関すること
・アカシックレコード(人類の魂の活動による情報が蓄積される記録の概念)
・チャネリング(常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(高次の存在など)から、特別な能力によって情報を交信すること。)
・リーディング |
| 46億年前 |
地球誕生 |
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45億年前
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月誕生 |
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太陽系は星間ガスの渦から始まった。重たい物質だけが渦の中心に集まり太陽のもととなった。太陽に近い場所では、比較的重い物質、鉱物や岩石などがぶつかり合いながら大きな結晶に成長していく。太陽を中心にさまざまな重さの物質の塊が惑星となり、軌道を描くようになっていった。
・太陽系で生命が誕生したのは地球だけ。太陽からの距離、惑星を構成する成分、その他さまざまな条件が奇跡的な確率で積み重ねられた結果だった。
・原初の惑星に水はなかった。宇宙空間で水分は軽石のようなものにしみ込み、凍結していた。それがカイパーベルトと呼ばれる彗星の巣となった。氷の塊は大きくなると、太陽の引力に引き寄せられ、彗星となり太陽系の惑星に降り注いだ。細かな水の塊が惑星に降り注ぎ海をつくり出す。水が液体の状態を保っていられるのにちょうどよい距離に位置していたのが地球だった。
・原初の海で最初の生命が生まれた。藻のような植物性プランクトン、光合成により酸素⇒。動物性の微生物⇒循環
・植物が海岸から少しずつ陸上に進出、地球誕生から地表の大部分が植物によって覆われるまでに要した時間は8億年
・生命体は「地球の環境バランスを整える。生命体はよりよい循環を地球上にもたらすため存在する」というたった一つの目的のもとに増えていった。
・太古の地球は植物中心の生態系。適度な死が必要。肉食獣は体内に植物を栄養化する酵素を持っていないため、草食獣の内臓を食べることによって生命を保っている。⇒進化論では生命体は自らの種をより繁殖させることが可能なように、厳しい自然環境に適応していくかたちで自らの肉体を進化させていったという言い方をするが、私が見てきた世界は、自らの種を繁栄させるためではなく、地球環境のバランスを整え、より長く生命が循環し続けられることを目的に進化していた。そして、種々雑多な生命のバランスを管理するものとして、進化の最終段階で生まれてきたのが人間だった。自ら学習し、物事を考え、発想し創造する能力をもつ生命体がどうしても必要となってきたのだ。それはちょうど縁のないお盆の上に置かれたビー玉を落とさないようにバランスをとりつづけるビー玉に似ている。たえずそのときの状況や変化に合わせてバランスをとりつづけなければならない。地球の歴史を見ることによって、膨大な意識のなかからこのことを読み取った。⇒こうして「人は何のために存在しているのか」という問いに対する答えを手に入れた。 |
『生き方は星空が教えてくれる』木内鶴彦より2003年3月 |
| 40億年前 |
宇宙の奇跡である生命誕生(HOME ~空からみた地球~) |
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| 6500万年前 |
恐竜絶滅。1億数千万年もの間繁栄 |
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| 300万年前 |
人類誕生 |
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わずか20万年前? |
人間誕生 |
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| 約5万年前 |
ムー(レムリア)の人々の多くが北アメリカへ⇒南アメリカへ |
『バシャール×坂本政道』 |
| 3万5000年前 |
初期の楽器
ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟の遺跡で人類がハゲワシの骨やマンモスの牙を彫って作った”フルート”をドイツの大学の研究チームが発掘し、2009.6.25付けのネイチャー電子版に発表。アフリカから欧州に到着したばかりのクロマニョン人による最も初期の楽器とみられる。3本のうちのほぼ完全な形でみつかったものはハゲワシの骨でL22センチ×φ8ミリ、一方の端はV字形の切れ込みが入り、指で押さえる穴が五箇所あけられ、末端は穴の部分で折れていた。 |
ネイチャー電子版
新聞より |
約3万年前~
1万2000年前 |
ムー(レムリア)の人々、アトランティスへ
・アメリカの東海岸、キューバ、プエルトリコ、フロリダの一部、バハマ
・アトランティス時代、地球は氷河期⇒海面は約300フィート低かった。
・科学技術は約2万年前~1万5000年前にピーク
・空中浮揚について理解。クリスタルを振動させて電力や光をつくる方法
・空気よりも軽い船、長距離コミュニケ―ションの手段
・ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーに分裂⇒軍事的征服者⇒崩壊 |
『バシャール×坂本政道』 |
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フランス、最古の洞窟画 |
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| 約16,500年前~ |
縄文時代
子ども向けの本だったが、『縄文人の智恵』に感動 |
『縄文人の智恵』 |
| 15000年前 |
人類誕生と最初の試練
当時は海対陸の比は1:3⇒現在は3:7(月は存在していなかった)。質量が少ないため、重力も弱かった。水圧から解放された動物は重力の弱い陸上で巨大化していった。体のわりに足が小さいため、うまく歩けなかったのでは…?という疑問も解決。
最初の試練が訪れた。
大量の水を含んだ巨大彗星が地球に大接近した。火星付近まで到達したとき、水分が気化して太陽よりも巨大なガス状の天体に変化した。ガスは地表に近づくにしたがい冷え、雨となって降り注ぎ、大地の三分の一が水底に沈むほどの大雨が地球に降り注いだ。⇒人類は避難するも大多数が死亡。恐竜は絶滅。⇒月誕生後にわずかに生き残った人類は山を下り、再び文明を築く努力を重ねたが文字通り、ゼロからのスタートだった。
(木内鶴彦) |
『生き方は星空が教えてくれる』木内鶴彦より2003年3月 |
| 15000年前 |
月の誕生
月誕生は15000年前、すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいた。
大量に増えた水は地球の質量を変化させ重力を増加させた。
月の誕生により、地球は月の引力の干渉を受けることにもなった。海の潮の干満もこのときから始まった。(木内鶴彦) |
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暦年較正年代法による。従来の放射性炭素測定年代では約13,000年前から。)約3,000年前
(紀元前10世紀)、 |
約10000年前、人類は農耕とともに母系制から父系制へと移行したと言われる。(高群逸枝 女性の歴史)
約6000年前、急激な乾燥化による飢饉が引き金となって、ついに人類初の略奪闘争=戦争が始まった。(河合隼雄説?) |
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| 紀元前10,000年 |
古代エジプト文明が存在していた。集合意識ハトホルは地球と関わりを持っていた。
・ピラミッド建造に関与はない。ピラミッドには埋葬室を備えたものも少なくないが、第一の目的はエネルギー発振装置としての機能にあった。当時の秘儀参入者たちは特定の数学的比率で地取りされた指定場所に入った。そのようなエネルギー生成母体に入ることでそうでなければとうてい不可能な「大いなる宇宙」や「大いなる神秘」の知識の伝授を成し遂げられた。
・エネルギー網、すなわちグリッドの創造を促進させることができた。地球上のこのグリッド構造は新たなグリッドを支えるという明確な目的ですえられた。今日ではキリスト意識のグリッドと呼ばれ、ナザレのイエスとして知られるあなたがたの師が献身的努力を手向けたおりに顕在化したもの。この大いなる存在が務めに着手したとき、複数のピラミッドからなるグリッドが、その新しい波動を支援した。そして、そのキリスト意識の波動をもつグリッドは今日まで継続的に強化をされてきている。ピラミッドはいくつもの意識レベルにまたがる多目的な機能をもつ装置だった。(P31~)
・中央アメリカとメキシコ全域には何百基ものピラミッドが散在しているいに関わらずまだ、存在さえ知られていないといいますが。
・ジャングルにすっかり覆われていますからもっともな話です。
・ピラミッドは地球全域にわたりあらゆる場所に建てられていたのでしょうか。
・そうです。一つの文明によってではなく、多くの様々な文明によって造られました。それでも建造にたずさわった存在ないし文明は、直観と「大いなる神秘」に関する知識によって、みな深い意識レベルでつながっていたのです。そして自分たちのしていることをエネルギーという見地からきちんと理解していました。特定の指導的な建築家によってすべての施工が行われたわけでもなく、3次元的時空間で特定の指導者たちのあいだに示し合わせがあったわけでもありません。ピラミッドはすべてそれぞれの場所ごとに建造されましたが、明らかに同じ源を共有し、いずれの場合も外部からの支援を受けていたのです。
・惑星外からの支援ということでしょうか。
・そうです。プレアデス人やシリウス人などから支援を受けていました。
『ハトホルの書』より |
『ハトホルの書』 |
| 紀元前2600年頃4600年前 |
マヤ文明-太陽崇拝
中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」
―― それがマヤ文明。
ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのか。
・1つはマヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないこと。
・2つめはマヤ文明が「考古学の常識を超えた古代文明」だったこと。
・3つめは、最も重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って「予言のテクノロジー」を操っていたこと。
・巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていました。
・マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らか。
たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡。紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。
ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。その中心に華麗な都があった。大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていた。その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがありません。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7~8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物である。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかる。メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもありました。考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいる。こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきた。
・「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」
・「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」など
・古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していた。
・古代マヤの地で「白人の到来」が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実。
・古代マヤの予言者たちはこうも予言。「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、1バクトゥン=14万4000日です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなります。
「この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう」
予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのでしょうか。答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されている。 |
オーパーツ
クリスタル・スカル
『謎のクリスタルスカル』
ボブ・フィクス著
『時を超える聖伝説』
マヤ神話
『ポポル・ヴフ』
ククルカン
マヤカレンダー
マヤピラミッド-大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群
ティカル遺跡
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| 約3600年前 |
ネブラ・ディスク
ドイツで発見された人類最古の天文盤。
青銅器時代に太陽太陰暦が成立したことを表すものと考えられ、従来の説を覆すものではあるが、場違いとは言えない。 |
オーパーツ
ネブラ・ディスク |
| 紀元前3114年 |
第五の太陽の時代のはじまり~2012年12月22日
・マヤ文明の流れを汲むトルテカ族の記録『クアウティトラン年代記』にはこの年に一つの時代が始まり2012年末に終わるとした。1サイクル=5128年として5つの時代、最大時間=25640年と考えた。
『チラム・バラムの予言』には600もの予言が明記され、的中している。
『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』 |
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約3,000年前
(紀元前10世紀)頃~3世紀中頃まで |
弥生時代
北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つ |
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| 紀元前2000年 |
ミノア文明(ミノア文明・クレタ文明)とアトランティス
(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれるが、クレタ文明と呼ばれる事もある。
軍事的になったアトランティスとの衝突 |
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オーパーツ
メキシコ北部で恐竜土偶 |
| 前1500年頃 |
ヒンドゥー教
バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。
紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。
彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。
その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 -
5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
・ブラフマー:宇宙の創造を司る神
・ヴィシュヌ':宇宙の維持を司る神
・シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神 は一体をなすとされている。
・現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。
・ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。
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| 紀元前14世紀 |
アメンホテプ4世とアテン・アメン信仰
アテン、アトン (Aten) は、エジプトの太陽神。動物的、
人間的形態である他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現される。
初期には従来の太陽神ラーと同一視されるが、その後神性は薄れ、天体としての太陽を表すようになった。ツタンカーメンの父でもある、アメンホテプ4世が特に崇拝した。
アメンホテプ4世の治世に於いて、アメン信仰は全盛期を迎える。
だが、アメンを讃えていたエジプトの神官たちがファラオをも凌ぐ権勢を誇ったために、王権を強化する目的でアメンホテプ4世はアマルナ宗教改革を断行した。
妻ネフェルティティの影響もありアテンを唯一神とし、自分の名も『アクエンアテン』に改めた。
しかし他の神々の祭祀を停止したり、アメンの文字を削ったりするなど、その改革があまりにも急激だった上に神官団の抵抗が激しく、最終的に宗教改革は失敗に終わる。
アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、ツタンカーメン王の時代にアメン信仰に戻り、アテン信仰は消滅した。
同時にアテンは、アマルナ改革以前の天体としての扱いに戻された。
事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、この時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。
ちなみにアクエンアテンの治世年と、出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤハウェ(ヤーウェ)の原形とする異説も存在する。
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| 紀元前13世紀頃 |
バラモン教
・紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
・紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
・紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。
・しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。
・新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
・1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
・1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
・4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。 |
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紀元前1300年頃
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第19王朝のファラオ、セティ1世と巫女、オンム・セティ(ドロシー・イーディー)
1903年生まれ
考古学者。古代エジプトのファラオ「セティ1世」の寵愛を受けた巫女の記憶を持つ不思議な女性。
オンムセティの言う通りに掘って嘘だった事が無いというほど、そこから古代エジプトの遺物が出てきている。 |
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研) |
| 紀元前13世紀頃 |
モーセ
・(ヘブライ語: מֹשֶׁה Mōšeh、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses, Moses、アラビア語: موسىٰ Mūsā)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー※トーラーとは、旧約聖書の最初の5つの書である。モーゼの五書、律法(りっぽう)とも呼ばれる。これらはモーセが書いたという伝承があったのでモーセ五書と言われるが、近代以降の文書仮説では異なる時代の合成文書であるという仮説を立て、モーセが直接書いたという説を否定する。)の著者であるとされてきた。
・『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトのヘブライ人家族に生まれたが、新生児を殺害することを命じたファラオの命令を逃れるためにナイル川に流され、王族に拾われて育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた。エジプトから民を率いて脱出したモーセは40年にわたって荒野をさまよったが、約束の土地を目前にして世を去ったという。
『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄と姉がいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親を乳母として王女に雇われることができた。
・成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗った。
・エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、ヘブライ人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶し、なかなか許そうとしなかった。そのため十の災いがエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が撃たれた。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と酵母を入れないパンを食べた。神はこの出来事を記念として行うよう命じた。これが「過越祭」の起源である。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。紅海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた。しかし、後を追って紅海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ。
・その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられた蜜入りのウェファースのような味の白い食料を人々は「マナ」と呼んだ。やがて人々がシナイ山に近づくと、神が山上に現れ、モーセは山に登って十戒を受けた。さらに神はヘブライ人と契約を交わした。
正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと
- 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
- 隣人の家をむさぼってはいけないこと
カトリック教会・ルーテル教会の場合
わたしはあなたの主なる神である。
- わたしのほかに神があってはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の妻を欲してはならない。
- 隣人の財産を欲してはならない。
・1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。
・ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝している。
『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。
・続く『レビ記』『民数記』『申命記』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。モーセは石版の破片を入れた『契約の箱』を先頭にシナイ山を出発し、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上ではモーセとアロンへの反逆が行われたり、不平を言う民を罰する民に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たため、モーセが青銅の蛇を示して民を救った出来事などがあった。
・モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。「メリバの泉で神が聖なることを示さなかった」ことにより、約束の国に入ることを許されず、ヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている。
・モーセの死後、その従者であったヌンの子ヨシュアが後継者となり、神の民を導いた。
・ムーサー(モーセ)はイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。
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| 紀元前10世紀 |
古代核戦争説
・核爆弾が空中で爆発すると、数百万度という超高温の火球が出現し、超高温の熱線と致死量の放射線が周囲に放射される。同時に空気が一気に加熱されることで爆発的に膨張し、衝撃波が発生する。この衝撃波が地表に達すると、地表の土や埃が舞い上がるため、地表ではあたり一面が暗くなる。さらに、爆発時の放射線により土壌等が汚染され、放射能を持つようになる。
・紀元前10世紀頃に起きた大戦争を語り伝えた「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味する『マハーバーラタ』をはじめ、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』、『リグ・ヴェーダ』には、この大気圏内核爆発を想像させる記述が見つかっている。
・超高温の火球=太陽が一万個集まった光り輝く柱
・強烈な熱線=池の水が蒸発、猛火に焼かれた木々のように倒れる戦士たち、火傷で逃げまどう戦象(軍事用の象)、灰と化す住民
・衝撃波=恐ろしい風、うなる雲、揺れ動く太陽
・衝撃波で舞い上がる土埃=方向感覚を見失うほどの濃い闇
・放射能汚染=髪の毛や爪が抜け落ちた死体、毒された食物、鎧を脱ぎ捨てて体を水で洗う生存者
以上のように、記述は具体的で、広島での被爆体験談とも酷似しており、とても想像だけで書いたとは考えにくいというのが肯定論者の主張である。(Wikipedia) |
『バシャール×坂本政道』
⇒核兵器の使用はアトランティスよりももっと以前にあった。
ガラス化した遺物、核シェルター |
紀元前1280年頃
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ユダヤ教の成立
・モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。
・カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。
紀元前1020年頃
イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分立する。
紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。
バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。
この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。
紀元前539年
この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。
死生観
ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂(来世)を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄(来世)に落ちると考えられている。
問題点
欧人がユダヤ人を差別するのは、西欧人がローマ帝国によってキリスト教を押し付けられ、元来の民族宗教を捨てさせられ、元来の神々を悪魔とされたところに起源がある。
そこで本来ならローマ帝国とキリスト教に向くはずの恨みが、転移のメカニズムによって、強者とつながりのある弱者に向かう。強者に攻撃を向けることは危険だからである。ローマ帝国や、自分たちがどっぷりつかっているキリスト教を攻撃できず、キリスト教の母胎となってユダヤ教を攻撃するのである。
つまり反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義であるという。
ユダヤ人差別の深層心理 『影の現象学
(講談社学術文庫) 』
ナチスドイツは、すべてをユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団のまとまり、統一性を高めた。集団の影の面をすべて、いけにえの羊に押し付け、自分たちはあくまで正しい人間として行動する、と。
ユングは、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりに抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現と見ていた。本能の抑制を徳とするキリスト教への、影の反逆であると理解したのである。
『一神教vs多神教 』
一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする(攻撃者との同一視のメカニズム)。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。 多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。
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キリスト生誕は太陽暦4月7日であるとの研究結果がある。
仏教の開祖とされる釈迦も、その誕生日は4月8日であるとされるが、これも歴史的に裏付けがない。 |
仏陀(ブッダ、buddha)
・釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。
・35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。これを成道という。
・仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)。
・仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。
・釈迦の一切経では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事を説かれている。(たとえば、阿弥陀経)
・この地球上には釈迦以外に仏の悟りを開いた人はいない。
・近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けてニューエイジと呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在をブッダと呼ぶ伝統が一部に広まった。 |
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| 紀元前550~ |
ゾロアスター教
・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。
・開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。
・光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。
・ただしアケメネス朝の宗教をゾロアスター教ではないとする立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。パーシ(パールシー)教徒とも呼ばれる。
・記録で確認できる世界最古の創唱宗教
・開祖はゾロアスター、聖典は『アヴェスター』
・「ヨハネの黙示録」と『アヴェスター』の「ザームヤズド・ヤスト」の記述と酷似
・紀元前7世紀頃に成立。人類史上初めて明確に「終末」を未来の出来事として語るようになった。「聖戦」「世界の終末」「死者の復活」「最後の審判」「最終戦争」「神の勝利」「永遠の王国」といったセム系宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に共通する終末イメージのほとんどのパターンが含まれている。⇒このイメージは3000年近く人類の終末論に影響を与えつづけてきた。(小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN
MOOK』) |
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前469~
前399.4.27 |
ソクラテス
・古代ギリシアの哲学者。
・ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は、弟子の哲学者プラトンや歴史家クセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ紹介されている。
・「汝自身を知れ」(古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのはソクラテスを含み、少なくとも6人いるといわれている。)
・ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑を言い渡される。
・神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだ。「悪法もまた法なり」
・紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして毒ニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にくわしく書かれている。(※ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想が、かなり強く反映)
・著述をしなかった理由-ソクラテスは、書記言語が野放しの状態の普及を激しく非難していた。話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。
ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからだという。ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。
・後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことが伺える)。
・一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。
・このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまづき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。
・無知の知、ソクラテスの弁証法、産婆術(助産術)、
・名言-「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」「だが、良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる」 |
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在位期間
前246年 - 前210年7月 |
秦の始皇帝
元来は秦王として紀元前246年に即位。
・秦は前221年、戦国六国の中で最後に残った斉を滅ぼし、中国統一を達成した。
・家臣たちは古の天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇の中で最も尊敬を集めた泰皇の使用を上奏したが、既存の称号に満足しない政は泰皇の「皇」と太古の「帝」号を複合した皇帝の称号を使用することを宣言した。
・郡県制を採用した始皇帝は全国を36郡(後に48郡)に分割し、それぞれに守(行政担当)・尉(軍事担当)・監(監察担当)を設置し、郡の下部に県を設置して統治した。
・交番を制度化して街道の10里ごとに設置、人夫徴発や治安維持、官吏用宿泊施設として活用した。また都城・咸陽には全国の富豪12万戸を強制移住させた。さらに滅ぼした六国の王宮に模した建物を咸陽に建てた。
・民間の武器所持を禁止して没収し、中国統一の象徴として巨大な像を作った。
・度量衡(度=長さ、量=体積、衡=重さの単位)、貨幣、車の幅を統一。漢字はそれまで地方ごとに異なる字体が使用されていたが、これを改め、秦の字体を標準字体として採用した。ここに、後世の中国統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を有する中央集権国家が誕生した。
・容貌や性格について、史記には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されている。
・前214年、北方の匈奴による進入を防ぐために万里の長城を修復し、将軍蒙恬に命じて30万の軍勢で匈奴を討伐させ、オルドス地方に版図を広げ、さらに箕子朝鮮を服属させた。
・また罪人を兵として徴兵し、南の嶺南(ベトナム北部)を征服して郡を設置した。その際に揚子江の支流と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河を築いた。
・紀元前213年、儒者を牽制するため、医書や農書などの実用書を除く書籍の焼却処分を実施している(焚書)。翌年には不老不死の仙薬作りを命じられていた侯生と盧生が、仙薬が完成できないことを恐れて逃亡、これに怒った始皇帝は咸陽の学者たちを拘束し、460人を穴埋めにした(坑儒)。
・5回に及ぶ大規模な巡幸を行い、同時に全国の交通網整備(古代道路)が推進され、中国国内の長城を破壊した。この巡幸は項羽と劉邦も見物しており、項羽は「いずれはやつに替わって天下を奪い取る」と述べ、劉邦は「男に生まれたからにはああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。
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秦の始皇帝の兵馬傭坑出土のクロムメッキの剣 |
| 紀元前246~221年頃 |
秦の始皇帝の兵馬傭坑出土のクロムメッキの剣
西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代。
それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明。 |
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| 紀元前150~100年 |
アンティキティラ島の機械
ギリシャ人によって作られた世界最古の歯車式アナログコンピュータが発見された。 |
アンティキティラ島の機械 |
| 紀元1世紀中頃 |
キリスト教
・「キリスト教」の発生時を決定するのは難しい。今日の学問は、イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。イエスはキリスト教の基盤を用意した人物であり、教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。
・教会の伝承は、自らの始点をエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。
・今日の学問は、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くエルサレム神殿崩壊の後と推定する。
・当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。
エルサレム教会とアンティオキア教会の対立
・エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。かならずしもヘレニストではないと思われる新約聖書筆者もギリシア語で著述しているのはこのためと今日では考えられている。
・アンティオキア教会の後援で宣教活動をしたパウロは、異邦人改宗者に対して割礼、食物禁忌、律法遵守を免除したため、エルサレム教会から猛反発を受け、各地のキリスト教共同体で論争や分裂が起きた。
・当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。
イエスの兄弟ヤコブの仲介と管区の分割
・イエスの兄弟ヤコブはキリスト教共同体の最長老格として、エルサレムで使徒会議を主宰し、異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法の厳格な遵守を重視するエルサレム教会の間の激しい対立を仲介し、妥協案を提示して解決を図った。その内容は、異邦人改宗者は「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されるというものである。
・この妥協案成立以降、エルサレム教会とアンティオキア教会はそれぞれ別個に管区を設置し、相手の管区に対しては干渉や越権行為を行わないこととした。
・パウロの用語で「自分の割り当てられた範囲内で誇る」と言われる管区の独立性と自治性は、その後設置されたアレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマの各管区の在り方を基礎付ける原則となり、さらに、古代教会における教区裁治権の前提となった。正教会では今もこの主教区の自治と独立を互いに尊重保持している。
ユダヤ教からのキリスト教の自立
・紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。
エルサレム教会の没落と福音書の出現
・ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。
・ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。
・新約聖書学者の多くは共観福音書、ヨハネによる福音書、ヨハネの黙示録、公同書簡の成立をユダヤ戦争以降に見ているが、これには異論もある。
・イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源
・キリスト教の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。
・理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。・『新約聖書』のほか、ユダヤ教の聖典でもある『旧約聖書』を教典とする。
・新約聖書の大枠は、4世紀ごろ確立されたが、旧約聖書の範囲は教派により異なる。
・一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。
・現在、キリスト教の教派はおもにギリシャなど東地中海沿岸諸国およびロシア、米国に広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントがある。ほか数は少数ながら、エチオピア・エジプト・イラク・シリア・アルメニア・インドに跨がって信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。
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| 紀元前60年 |
ミトラス教
・ミトラ教またはミスラス教(英語:Mithraism)は、古代ローマで繁栄した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
・牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。
・信者組織は7つの位階を持ち(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)、入信には試練をともなう入信式があった。
・ミトラス教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが、ローマ帝国で確認されるミトラス教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラス教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。
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| 紀元前4年頃 ~ 紀元後28年頃 |
イエス・キリストとキリスト教
・キリスト教においては、カトリック、正教会、プロテスタントの多くにおいて三位一体の教義(キリスト教で、父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。
大多数のキリスト教が受け入れる中心的教義・教理。
)の元に、神の子である救世主として信仰の対象となっており、他の宗派でも最高の預言者、開祖とされている。
・イスラム教においてはマルヤムの子イーサ(マリアの子イエス)として、ムハンマドに先立つ偉大な預言者の一人とされる。
・現在では消滅した世界宗教マニ教においても、釈迦、ザラスシュトラ(ゾロアスター)と並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。
・西方グノーシス主義においては、イエスはアイオーンであり、悪であるこの世に落ちて苦しむ霊を救うため、プレーローマの永遠世界より訪れた真実開示者(救世主)とされた。
・バハーイー教やシーク教においても、偉大な預言者であり聖者として高い尊敬を集めている。
・イスラム教においても、ユダヤ教の預言者とともにイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れている。
・イスラム教では、「マルヤムの子イーサー」(マリアの子イエス、 (??s? ibn Maryam))と呼ばれるが、『クルアーン』の記述によればアッラーフの奇蹟によってマリアの体内に創造された特殊な出自であるが、他の預言者同様「アーダムの子=人間」のひとりであって、決して「アッラーフの子キリスト」とは認められていない。
・『クルアーン』はイーサー(イエス)をたびたび記載しており、死者蘇生や誕生直後に口を利いたといった奇蹟の数々が明言されている。
・一方でアッラーフは人類を含め一切の被造物を超越した存在でありかつ創造主であり、アッラーフ自身が「子を産みもしなければ産まれもしない」ために、イーサーが「アッラーフ」であることも「アッラーフの子」であることも明確に否定している。 |
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三大預言書と諸書の一つ、「ダニエル書」
「イザヤ書」
・アモツの子イザヤは神に幻を見せられる。神からの預言はほとんどが明確なヴィジョンをともなった幻として示めされる。
「さあ、わがわが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで、見よ、主はその御座を出て、地に住むものにその罪を問われる。」(「イザヤ書」26章)
「エレミヤ書」「エゼキエル書」
『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』より |
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| 210年(~275年)ごろ |
マニ教(摩尼教、英: Manichaeism)
サーサーン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。
ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)代表的な宗教とされてきたが、中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている。
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234年
8月23日 |
諸葛孔明-「誡子書」-「その時歴史は動いた」タイトル-死せる孔明・中国を動かす
・蜀(しょく)の丞相だった諸葛孔明(しょかつこうめい)が子孫に残した家訓。その家訓は「誡子書(かいししょ)」-「子を誡(いまし)める書」として、今も諸葛孔明の子孫が住む 諸葛鎮という村の大公堂に保管されている。
・中国南部に孔明の子孫が暮らす諸葛鎮という村が見つかった。
・住民はほとんどが「諸葛」姓で、村は迷路として作られている。
・路地の奥の不思議な文様に秘められた孔明の教えとは何か。
1)優れた人は静かに身を修め、徳を養う。
2)無欲でなければ志は立たず
3)おだやかでなければ道は遠い。
4)学問は静から、才能は学から生まれる。
5)学ぶことで才能は開花する。
6)志がなければ学問の完成はない。
「世界ふしぎ発見」より
・ Q愛妻家だった孔明が、遠征のおりに留守を守る妻が退屈しないようにプレゼントしたものとは?
⇒A九連環(知恵の輪)
・ Q孔明は、長期遠征(戦)になる際、兵士に戦場で農業をさせ、食糧を自給自足していた。中でも、必ず畑に植えるように指導したといわれるその野菜は、胃腸によく、痩せた土地でもよく育ち、捨てるところがないので兵士が育てるのに適した野菜だった。中国では今でも”諸葛菜”と呼ばれている。その野菜とは?
⇒A蕪(かぶ)
・Q孔明の教えで、諸葛村の人たちが代々受け継いでいる職業とは?
⇒A”良き宰相(政治家)になれなければ、良き医者になれ”。
現在もそれが守られ、諸葛村の人々は漢方薬などの輸入も仕切っているとか。
・9世紀、忽然と消えてしまった諸葛一族が1000年後の1992年に発見された。それは諸葛村(諸葛孔明の子孫の村)と呼ばれる八卦の陣形をした村で、 村の周囲にある八つの山(外八卦)に隠れていたため、長期間発見されなかった。八卦の陣形の村の設計図や諸葛家の系図が公開され、諸葛孔明の子孫と認められたとか。現在、人口4,000人。
→村全体が八卦の陣形に設計されており、初めての者は迷子になる。
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| 3世紀半ばすぎ~7世紀末までの約400年間 |
古墳時代
卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。
封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。
姫・彦制
霊能を活用した政治(高群逸枝) |
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4世紀~
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サンマリノ(San Marino)
イタリア半島の中部に位置する国家。首都は国名と同じくサンマリノ。周囲は全てイタリアで、世界で5番目に小さな国(ミニ国家)である。また、現存する世界最古の共和国。
イタリア半島の対岸ダルマツィア地方出身の石工マリヌス(聖マリノ)が、ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を逃れるために、仲間と共にチタン山(現サンマリノ市のティターノ山)に潜伏。
伝説によれば、キリスト教への迫害を逃れるために、石工マリーノによって西暦301年に建設された信徒たちの共同体が起源。
1291年に教皇によって独立を認められている。
つまりは中世~ルネッサンス期にイタリアに乱立した小国家の最後の生き残りにして、現存する最古の共和国。
1862年にイタリア王国と条約を結んだことで近代主権国家としての地位を確立。1992年に国連加盟。
・周囲をイタリア共和国に囲まれた小国が、今のいままで存続してきたのは、何も偶然ではなく、建国以来のこの国の精神が今なお息づいているためということが出来ます。
・そこで、ここではサン・マリノ共和国の建国のいきさつと、共和国の歴史上のエピソード。
4世紀初頭、アドリア海に浮かぶアルベ島の出身の石切工レオとマリオが、リミニの城壁修復工事のためにイタリアにやって来ました。その当時の皇帝ディオクレティアヌス帝がキリスト教徒の迫害を始めたために、キリスト教徒であった二人はその迫害から逃れるために、レオはフェレトリオ山へ、マリオはティターノ山へと逃れました。その後、この2人が聖人化されたためにその名をとって、レオが逃れたフェレトリオ山の町にはサン・レオと、マリノが逃れたティターノ山の町にはサン・マリノという名前が付けられたそうです。
・何よりも平和を、そしてその平和を守るために自由と中立を志す国という方向性があるようです。・軍隊らしい軍隊も持たず、隣国の争い事には中立であり続け、侵入者に対しては山頂の砦で防御を固めることにより、自国を守り抜くスタイルを貫き通しています。
・また、フランス革命後の混乱にあったフランスにおいて、イタリア方面担当の軍総司令官としてイタリア半島へとやってきたナポレオン・ボナパルトが、サン・マリノ共和国に共感し、食料と武器を届けたとこ、平和を目指すサン・マリノは食料はもらったものの、武器は丁重に返したそうです。
・現在でも、ひとりの人間に権力が集中しないよう国家の代表は2人で半年交代という体制になっている。
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574.2.7
~
622.4.8 |
聖徳太子と仏教
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| 610~ |
イスラム教
・唯一神、アッラー(一般名詞です。日本語で「神さまー」)という。
・神様の名前はあえて言えば「ヤハウェ」。キリスト教徒が信じているのと同じ神さまをイスラム教は信仰している。
・イエスはユダヤ教を改革しようとし、キリスト教の神さまはユダヤ教と同じ「ヤハウェ」。
・同じ神をイスラム教も信じ、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えている。
・ムハンマド(マホメッド)が神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちだ。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認め、さらに、イエスも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。
・ただし、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではなく、言い残した言葉がたくさんあったという。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」。神さま今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはないという。
ムハンマドが他の人間と違うのはそこだけで、他に奇跡を起こしたりとか特別な能力を持っていたりということはない。
・イスラムとは「神への帰依」という意味。帰依とは「深く信仰し、その教えに従う」という意味。「イスラム教」とは「神を信仰する宗教」という意味。
・イスラム教徒のことを「ムスリム」といい、意味は「神に帰依した人々」。
・神がかり状態のムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」。この「コーラン」は、「コーラン」は神の言葉そのもので、神がムハンマドの肉体を通じて語りかけ、それをリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたもの(アラビア語)。
・「啓典の民」とは、イスラム教徒が同じ神を信仰しているユダヤ教徒、キリスト教徒を呼ぶ言い方。
イスラム教徒の義務---ムスリムの「おつとめ」は「六信五行(ろくしんごぎょう)」
・「六信」とは「神」「天使」「啓典(コーラン)」「預言者」「来世」「天命」の六つ。
・イスラムでも最後の審判はあり、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」。
・「五行」は、「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。
・「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えること。声に出さなければダメ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれる。
・「礼拝」のシーンは資料集にもあり、テレビでも見たことのある人は多いのでは。正式には一日五回、メッカの方向を向いておこなう。ムハンマドはイスラムの教義を作り上げていくときに礼拝の方向を決めた。はじめはイェルサレムに向かってとか、いろいろ試行錯誤するが、最終的にはメッカのカーバ神殿に向かって礼拝することにきめまた。世界中のムスリムが礼拝の時間にはメッカのカーバ神殿に向かって拝む。
・このカーバ神殿は、ムハンマドが生まれるずっと前からメッカの町にあった神殿で、多くのアラブ人の信仰を集めていた。イスラム教の登場以前のアラブの宗教は多神教なので、カーバ神殿にはたくさんの神さまの像が祀られていた。
・630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊した。イスラム教の特徴の一つに偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのだが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は、当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかだ。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになるから、一神教の教義に反することになる。
聖職者の存在を認めない
・イスラム教ではお坊さん、聖職者はいない。信者はすべて対等で牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていない。
・商人の倫理を重視。商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。
・バザールでさまざまな取引がおこなわれ、隊商宿、公衆浴場、公衆便所、賃貸アパート、貸店舗などが整備されていた。
・都市の公共施設は、富裕な商人たちが拠出した信託財産(ワクフ)によって維持されている。
・ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していた。ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよい。
・イスラムでは女性はヴェールをつけるのか?人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。結婚の前に離婚の条件を決めておく。夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしている。人は弱いから決して、永遠の愛は誓わない。同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つので、弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す。
・ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。【参考図書】片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書)
・ムハンマドは預言者であった。〔神の言葉を預かり、それを人々に知らしめる人を指す。⇔予言者は将来の出来事を予め述べる人 とは異なる〕だが、奇跡は行なわなかった。
彼は世間からあざけられ、精神病患者と決めつけられてしまった。10年間にわたる彼の布教の報酬は追放と貧困と嘲笑だけだった。
・それから10年後には彼は全アラブの指導者となり、メッカを支配し、…広大な地域に強い影響力を持つ世界的宗教のリーダーになっていた。この宗教の教えは基本的に「言葉の力」「祈りの力」「神と人間との触れ合い」、この三つの要素から成り立っていた。
・610年のある夜(当時四十才)ムハンマドは、ヒラーの洞穴で祈りや瞑想していた時、「読め(アラビア語の〈イクラア〉」という耳にした。ムハンマドは、驚いて平伏し、「私は読むことが、できないのです」とその声に答えるも、ムハンマドが最後に「私は何を読んだら、よいのでしょうか」と震えながらたずねるまで、その「読め」という命令はくり返された。
・「読め、創造したまえる方、なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもうた方、何も知らなかった人間に、教えたもう方であられる。」(クルアーン第九六章 第一-五節)
・これは、ガブリエル大天使が目前に現れ「ムハンマドよ。汝は神の使いである」と告げた。上記コーランの冒頭の言葉によるとガブリエルが現れ、巻物で彼の喉首を押さえるようにして「これを誦め」と言ったという。これが最初の啓示だった。
・ムハンマドは恐れおののいてすぐ家に帰り、妻のハディージャにその日の出来事を話した。
・その後まもなく彼の妻ハディージャは、イスラームに帰依した最初の人になった。
・この最初の啓示があってから、アッラーは天使ガブリエルを通してムハンマドに啓示を与え、彼がアッラーの教えを広め、誤った人々に正道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられた。
・この時からムハンマドはイスラームの布教活動をはじめ、神の唯一性、アッラーへの帰依、偶像崇拝のおろかさ、及び現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来を人々に説きはじめた。その当時の宗教はただ単に信心だけでしたが、イスラームは、行動を伴わない単なる信心は全く無意味で人間生活には無益なものであることを人々に強く説いた。
・クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言している。「言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アッラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る何ものもない。」(クルアーン第一-二章 第一-四節)
・アッラーからのお告げはきわめて簡単で基本的なものだったのですが、メッカの多くの偶像崇拝者たちには、きわめて危険な挑戦と脅威に感じられた。彼等はこれまでの自分達の生活様式変えたくはなく、また偶像をすててしまっては自分達の力も失われるものと心配して、ついにきわめて残酷で執拗なやり方でムハンマドを迫害しはじめた。しかし、アッラーに守られている人を実際に傷つけることは誰もできなかった
・630年1月カーバの神殿にある360個の偶像をすべて破壊。
・ムハンマドはユダヤ教徒やキリスト教徒にも門を開き、唯一の神を信ずる人なら誰でも迎えいれた。
しかし、彼らはムハンマドの説く「人は皆平等」という信念すら受け入れようとはしなかった。それゆえ、ムハンマドの信念のために殺された人間は一人だけではなかった。
・その後何世紀も過ぎてから、十字軍がエルサレムを侵略し、男女を問わずイスラム教徒を殺戮した。しかし、キリスト教徒は一つのイスラムの教えを受け継がなければならなかった。それは学問の場、すなわち「大学」を作る必要性についてである。『思考は現実化する-携帯版』 「最後の預言者 トーマス・サグリュー」P315~319より一部抜粋 |
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ソンツェン・ガンポ
チベット統一、仏教を導入 |
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| 839年 |
アマルフィ
その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。
839年、ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。
872年にはサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績でビザンツ帝国からカプリ島を譲渡された。ただし、イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナの都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。
アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。
これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。
アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。
1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。
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| 10世紀初頭~12世紀末 |
ヒンドゥー教と寺院
10世紀初頭から12世紀末ごろのチャンデーラ朝時代
カジュラーホ(ー)では、85ヶ所に及ぶ寺院が建設されたと考えられている。カジュラーホーの寺院群は細い釣鐘状の塔の上部全体をシカラと呼ぶ北方式の典型例を示している。現存しているのは25ヶ所のみ。
東西約2キロ、南北約3キロの約6平方キロの範囲に分布し、2か所のヒンドゥー教寺院で構成される南グループ、ジャイナ教寺院が主体の東グループ、ヒンドゥー教寺院のみで構成され、もっともよく建造物が残存している西グループの三つの寺院群にわけられる。ヒンドゥー教寺院は、ヴィシュヌ派の寺院が主体となっている。またヒンドゥー教かジャイナ教かによって建築や彫刻に極端な差はほとんどみられず、ミトゥナ像(男女交合彫刻)を含む官能的なレリーフ群も共通して見られ、いずれも豊穣祈願が込められていると考えられている。 |
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| 13~15世紀 |
ナン・マドール遺跡(ナン・マトール遺跡・Nan Madol)
ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の巨石構築物群である。なおナン・マトールとは「天と地の間」「神々と人間との間に広がる空間」という意味。総面積40m2の92の人工島からなり、伝承によると行政、儀礼、埋葬などそれぞれの島で機能分担していたと言われる。伝承や遺物の検証からすると政治・宗教の拠点となった水城であったと考えられる。 |
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| 1128~1307 |
テンプル騎士団
ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔は金融機関としてのものだった。
もともとは入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。ここで特筆すべきは、巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出したことである。
このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行っている。
1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された
さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いた会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定。
フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった。
資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちは処刑された。
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| 1310.61 |
マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」
数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」 ( Mirouer des simples ames ) は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていました。
どの写本も著者の名前を伝えておらず、ラテン語訳,
英語訳写本では、最終章に三人の聖職者の推賞が添えられており、そのうちの一人は、パリ大学神学部教授フォンテーヌのゴドフロワ ( 1250以前~1306/09年 )
だと言います。
この著作の著者が、マルグリット・ポレート ( Marguerite Porete 1310年6月1日没
)であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者
R.グァルニエーリによる1946年の論文でした。
マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されています。
異端審問の裁判記録によれば、マルグリットは、エノー
( Hainaut ) 出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年、カンブレ ( Canmbrai )の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ (
Valenciennes )
広場で焼かれました。
1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となりました。フランス管区総審問官パリのギョーム ( Guillaume
de Paris 1314年没 )
の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が、審理されました。
マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えませんでした。
5月31日、再背教者
( relapse )
として有罪の宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が、執行されました。
ある年代記は、彼女の毅然とした態度が、群衆の涙を誘ったと伝えています。 |
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| 15~18世紀 |
魔女狩り
かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、もともと民衆の間から起こった魔女狩りはこの間にかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑されたと考えられている。 |
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| 15世紀~ |
植民地政策
15世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を植民地という。 |
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1425~1428
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ジャンヌ・ダルク
ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる。
後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。
ジャンヌは「声」に従い、1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
到着直前に伝令使は、ジャンヌの手紙を持って一足先にシノンに入った。その知らせを聞いた王太子シャルルは、ジャンヌと会う際にちょっとした芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、二人きりで話をすることになった。
そしてジャンヌはシャルルに、「声」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をしたと言われている。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。
ジャンヌは後の処刑裁判でも、この時の秘密の話についての内容を証言することをかたくなに拒み続けたため、どのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、王太子であったシャルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。
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| 1371~1434 |
鄭和(ていわ)
中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったとされる。
彼がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
・歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっているが最近、マゼランよりも100年ほど前の14233年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。
・世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。
だが、イギリスの退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジース(Gavin Menzies)が、現存する鄭和の航海記録を調べなおしたところ、艦隊は1421年3月から1423年10月にかけて世界一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったという。
・明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を奨励したのに、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。なぜそんなことになったのか。それは、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことと関係していると思われる。色目人はペルシャ・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指す言葉で、明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位の人々だった。中国人の圧倒的多数を占める漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。
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1517.11.1
⇒1534年へ |
マルティン・ルターと免罪符
煉獄の霊魂の贖宥(しょくゆう)の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。
ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端となった。⇒宗教改革へ
贖宥(しょくゆう)状とは
元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。
西方教会で考えられた罪のゆるしのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全にゆるされると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」である。
⇒1534年へ
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| 1452年4月15~ 1519年5月2日 |
レオナルド・ダ・ビンチとダビンチコード
ルネッサンス(文芸復興運動)-三大発明は印刷・火薬・羅針盤。
宗教以前の時代に回帰する必要があった。
ダビンチの魔方陣とは??
⇒蒸気機関車の発明により産業革命へ |
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| 1531~ |
聖母予言
聖母マリアが、ある特定の選ばれた人物の前に現れてメッセージを告げる「聖母預言」が始まったのは、残っている記録によれば、5、6世紀ころからである。
このような聖母出現は記録に残っているだけでも数千に及ぶ。
聖母預言抜粋
1531年 メキシコ 、ホアン・ディエゴの前に聖母出現の事件
1830年 フランス パリ 、ゾエ・チャサリン・ラブレの前に聖母出現の事件
1846年 フランス ラ・サット、マキシマン・ジローとメラニー・マシューの前に聖母出現の事件 「ラサッ(レ)ト36の告知」 終末預言⇒
1858年 フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件 有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」 |
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| 1534 |
マルティン・ルターと聖書
ルターは精力的な活動の一方で聖書の翻訳事業も続けており、1534年に念願だったドイツ語旧約聖書も完成し、出版された。ルターは旧約聖書の諸書の選択において、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ:ギリシア語旧約聖書)にあってマソラ本(ユダヤ教徒によって編纂されたヘブライ語聖書)にないものを、聖書正典でないと確認して旧約聖書から排除した。
ルターの新約聖書観については二種類の見解がある。
ルター
ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。
もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。
宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。
元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる(なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)。
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| 1539~ |
マルティン・ルターと地動説
最初に宗教的な問題として地動説を批判した。
ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。 |
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| ~1543 |
ニコラウス・コペルニクスと地動説
(ラテン語名:Nicolaus Copernicus、ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者である。
当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。
これは天文学史上最も重要な再発見とされる。
コペルニクスはまた、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。
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| 1549 |
フランシスコ・ザビエルと日本人、ヤジロウ(ヤジロー)
・弥次郎。または当時の音韻からアンジロウ[アンジロー]、洋風にアンジェロ[天使の意]という。
1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される。
・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本(西日本)で布教・宣教活動に従事した。出自や本名などについては研究者によって区々であるが、一説として豪族禰寝氏庶流池端氏の可能性が指摘されている。もっとも不確かなことは、このキリスト教徒、カトリック信者が、ザビエル離日後、フロイスなどに証言があるものの、いかなる人生を送り、いずこで亡くなったかである。
・薩摩国或いは大隅国(両国とも鹿児島)の出身。彼自身やザビエルの書簡に寄れば若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れていたがその罪を告白するためザビエルを訪ねてきたという。もとは貿易に従事していたと考えられている。ルイス・フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったとも。
・ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。霊名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」(聖信のパウロ)。また、同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。
・日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
・1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。
・その晩年についてはザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り最後は中国近辺で殺害された、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたとも。 |
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| 1555 |
ルターと宗教改革
ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。
宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持を得た。農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったトマス・ミュンツァーがこれに呼応し、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いたが、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。
ルターの貢献は、聖書の自国語(ドイツ語)訳にある。当時、カトリック教会では、ラテン語がミサにおいて使用され、一般大衆には理解できなかった。ルターは聖書を、学者の手から一般人の手に取り戻したのである。また、音楽を好むルターは賛美歌の作詞・作曲をしたことにおいても知られている。
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| ~1572 |
インカ帝国滅亡
南北4000km、人口1000万人にも及ぶ強大な国として繁栄。
・1533年、侵略を企てた、わずか168人のスペイン人たちによって、アッサリと滅ぼされた。
・時は、アタワルパ王の時代、インカ帝国は天然痘などの病気が流行り、内戦が勃発するなど治安が不安定になっていた。インカの預言者によると、「顔の色が白くて、アゴひげを生やした人間」が、救世主として現われるとされていた。
その予言通りに、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人たちが現われ、フランシスコ・ピサロは、王を捕らえる。囚われの身となったアタワルパは、言われたとおり部屋一杯の「金製品」を身代金としてスペイン人たちに差し出すが、処刑されてしまう。こうして、南米一繁栄した「インカ帝国」は、スペイン人たちによって滅亡させられた。
インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。 |
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| 16~17世紀 |
魔女狩り
16世紀から17世紀、さらに限定すると1590年代、1630年ごろ、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。 |
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| 1564年 ~1615~1642 |
ガリレオ・ガリレイと地動説
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。
1616年に、ローマ教皇庁はコペルニクス説を禁ずる布告を出した。
1616年と1633年の2度、地動説を唱えたガリレイは、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。
しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている |
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| 1631年 |
姦淫聖書
英国で出版された聖書で、「not」を書き漏らし、「汝、姦淫すべし」との版が流通したためこれをそう呼ぶ。 |
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1678~
1681
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カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot)
イングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。 |
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1686~
1768
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白隠 慧鶴(はくいん えかく)禅師と健康法、内観法
駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。
また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
彼は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自らの悟りの機縁となった「隻手音声」と「趙州無字」の問いを、公案の第一に位置づけ、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。
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| 1690年ごろ |
アイザック・ニュートンの科学革命とキリスト教
・地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。
・また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道(楕円、放物線など)について示した。
・また、光の粒子説を唱えたことでも知られている。
・また、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。
・ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。
・また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
・これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。
・あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。
・万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示した、ともされる。
・後の時代に、科学者らは上記のような方法論が、「実証主義による近代科学の礎になった]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。
・これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とも言う。
・ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。
その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』に纏められた。
この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。
・絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。
・ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。
「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。
またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定はニュートンが異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派に属していた事を示し、ケインズは「恐ろしい秘密」とコメントしている。
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| 1692.3.1~ |
セイラム魔女裁判と集団ヒステリー
・アメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で200名近い村人が魔女として告発され,無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として著名 |
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アーミッシュ
電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話等)も家庭内にはない。
原則として、現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を営む。
服装はきわめて質素。
ペンシルバニア州のアーミッシュは、日常生活ではきわめて古い時代の技術しか使わない。このため自動車は運転できない(ただし旅行の際は別)。商用電源は使用できないが、風車・水車によって蓄電池に充電した電気は利用できる。本段落が伝聞調になっているのは、アーミッシュがあまりその生活について語らず、写真撮影は宗教上の理由から拒否されることが多い。ただしこれらの宗教上の制限は、成人になるまでは猶予される。したがって、未成年ならば自動車運転免許を持つアーミッシュも存在する。成人になる際、アーミッシュであり続けることを拒否することもできるが、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。
政治的には、「神が正しい人物を大統領に選ぶ」との信条から、積極的に有権者として関わることはなかった。しかし、2004年の大統領選挙では、激戦州となったペンシルバニアやオハイオのアーミッシュに共和党が宗教的紐帯を根拠とし支持を広げたという。専用の教会建物はなく、民家の家具を片付けて利用する。
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| ~1714 |
貝原 益軒(かいばら えきけん)
江戸時代の本草学者、儒学者。
益軒といえば『養生訓』。これは江戸時代に出版された本のなかでロングセラー第一位であり、現在でも買える凄い本で、85歳で亡くなるすこし前(1713年頃)に書かれたそうである。
今から約300年前の江戸時代に、心身相関を説いている。
益軒はこの本の執筆態度として、「古典にある説を簡単に解説したもので、一方自分で試みて効果のあったことを記した」との旨を語っている。
生き方を説く場合には避けて通ることの出来ない基本となっている本だと言える。
中村天風にも影響。 |
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| 1736.1.19~1819.8.25 |
ジェームズ・ワットと産業革命
スコットランドの発明家、エンジニアであり、トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず世界中で産業革命の推進に貢献した。 |
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| ~1744~ |
安藤昌益(あんどう しょうえき)-八戸で講演。身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張。平等思想。
『自然真営道』の内容は、共産主義・農本主義・エコロジーに通じるとされている。
日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判。
発見者・狩野亨吉(こうきち)をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。 |
安藤昌益
『自然真営道』 |
~1772
1744.4
83歳没
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エマヌエル・スウェーデンボルグ(イギリス)
・最初のスピリチュアリスト
・アンドリュー・ジャクソン・ディビスが師と仰いだ。
・多彩な科学者だったが、55歳で科学者であることを断念した。
・父はスウェーデン王室の祈祷所の牧師で、生まれながらにしてキリスト教と深いかかわりがあった。
・幼くして霊的な素質を持っていた。神がかりになったことも…
1759.9.19(71歳)のときに旅先で自宅近くの火災を霊視した。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P49~)
・83・4年の生涯の前半を科学者、後半を神学者として過ごす。
(・科学者時代には多々の不思議なインスピレーションも??)
・52?54?56?歳ごろから幻視体験(幽体離脱、自らは「死ぬ方法」と名付けた)をいくどとなく体験。百回以上とも。
・1744年4月、ロンドンで最初のキリストの幻視を体験する。
キリストが現れ、「人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。
・1743.7月~1年以上体験した「夢日記」を記録。
(※・1745年の4月にもキリストの再来。今までの世間向きの学問をいっさい捨てて霊的な仕事に専念するように命じられたという. 『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P47)
・それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく膨大な量の神学的著作を残す。
・神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。カントが「それが霊界についてであるという点を除けば、これ以上理性的な本はないくらいである」と述べたほど、その内容からうかがえる著者の精神は健全そのものである。
すでに人望厚い科学者として、押しも押されもしない専門的地位と社会的名声を築いていた。
・晩年こうした体験に基づき16冊の大著を書き記した。
『天界と地獄』
・科学者としての丹念な分析と論理性をもった死後の世界観は、それまでのキリスト教の考えを根本から覆すような画期的なものであった。
死後の世界をはじめて科学者の目を通して研究したもので、人類思想史上大きな足跡を残した。
・その内容は、今日のスピリチュアリズムと比較しても大枠で一致する。ただ時代の影響で、その貴重な体験とみごとな分析にもかかわらず、キリスト教の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあることも事実である。
・キリストが肉体を通じて人間と繋がっていることは認めるものの、あくまでも神の現れとしてキリストを見、キリストに帰依する以外に人間の持つ汚れを清める方法はないと考える。
・キリストは肉体という地上の部分を持ち、聖霊はキリストの「働き」。「神」は「愛」に対応、「子」は「叡智」、「聖霊」は「働き」に対応。
この「愛、叡智、働き」の三位一体は人間レベルにおける「魂、心、体」に対応する。
・照応の理論
・地上にあるもので天上にないものは何もない。自然界に存在するものはすべて天上(霊界)に本の姿を宿している。
・人間が考えることはすべて天界にその因子を有する。
・天界の主はキリスト。…
・霊界には時間も空間も無い。すべては心の状態の変化のみ。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P55~)
・1772.3.29、83歳で、メソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーに手紙を送り、予告通りの日にこの世を去る。
・スウェーデンボルグについてはその巨人的な才能や霊界探訪者としての側面ばかりが強調されがちだが、人物としては愛の人であったことを多くの人は知らない。その神学的な反対者たちでさえ、彼の誠実で勤勉で親切な人柄を攻撃することはできなかったという。
・ただ時代的影響は免れえず、その貴重な体験と見事な分析にもかかわらず、キリスト教思想の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあります。霊性進化の道より |
カントが『ある霊視者の夢』発行
※カントは調査のため会見を申し込んだが断られたとも言われている。 |
1771~
1776~ |
フリーメイソンとイルミナティとグラントリアン
・フリーメーソンーは大別して、英米系と大陸系に二分される。ドイツでは、インゴルシュタット大学の教員アダム・ヴァイスハウプトによって1776年にイルミナティという秘密結社(「啓明結社」とも「光明回」とも訳される。渋澤龍彦は著書『秘密結社の手帳』のなかで「バヴァリア幻想教団」と呼んでいる)が創設された。
この結社はイギリス系のフリーメーソンリーとは違って、超越的存在(神)を認めず、君主制を妥当し、急進的に共和制の政権を樹立しようとする純然たる政治的秘密結社であった。このイルミナティをフリーメーソンリーの一つとみなす論者は少なくないが、メンバーが重複していただけで、別の結社であると考えるのが適切なようである。
「バヴァリア幻想教団とフリーメーソンとを混同する歴史家もいるが、両者はまったく別のものである。ただ、フリーメーソンの非政治主義にあきたらず、メーソンのなかから幻想球団へ加入した者も、大勢いたらしい」と、渋澤龍彦も前掲書のなかで述べている。結局、このイルミナティは1785年に、バヴァリア選挙候カール・テオドールによって禁止令が出され、90年にはほぼ消滅したといわれている。
グランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリー
世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。
日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。言い換えるならば、イギリス系の「正統」フリーメーソンリーは、一世紀近くもの間、グラントリアンを「承認」し続けてきたわけである(その後、フランス・グランド・ロッジとグラントリアンが再統合して1914年にグランド・ロッジ・ナツィオナルが創設され、イギリス系メーソンリーとの間に承認関係が復活した)。一時絶縁したとはいえ、歴史的にこの無神論的政治結社と「まったく無関係」とは言い切れないだろう。 |
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| 1773 |
フランツ・アントン・メスメルとメスメリズム
「動物引力」による治療を開始。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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| 1776~1849 |
調所 広郷(ずしょ ひろさと) 『薩摩燃ゆ!』
薩摩藩の財政立て直し
安永5年(1776年) - 嘉永元年(1849年)
⇒村田清風(長州藩) |
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| 1789~ |
サミュエル・ハーネマンとホメオパシー
(1755年ドイツ、マイセンに生まれる)によって始められた。
ハーネマンは科学に関する多くの書物を著した。中でも最も有名なものは、砒素中毒に関する専門書。批評家達は後に、あんなインチキ医者にさえならなければハーネマンは偉大な科学者になっただろうにと言ったとされている。
1789年に彼はライプチヒに引っ越し、梅毒に関する専門書を出版。同種療法、同毒療法、同病療法)を確立。 |
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| 1795 |
葛飾北斎 北斎宗理の号も
彼は生涯に30回と頻繁に改号。現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星及び北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。
この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
また、93回に上るとされる引越しの多さも有名(一日に3回引っ越したこともあるという)。
当然、食生活も大変乱れていたが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑(くわい)だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。
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『ライフ誌-この1000年で最も重要な業績を残した世界の人物100人』-に選ばれた唯一の日本人 |
1744~
1812没 |
ロスチャイルド家と金融業
初代のアシュケナージ・タルムードのユダヤ系ドイツ人であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年)がドイツのフランクフルト・アム・マインで開いた古銭商・両替商に端を発し、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世との結びつきで経営の基礎を築いた。ヨーロッパに支店網を築き、彼の5人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築いた。 |
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| 1807 |
ヘーゲル-精神現象学、ヘーゲルの体系は神の体系に代わる物。「われは人間なり」
カント、デカルト、ルソーら近代西欧思想の祖 神に対して人間一般を対置。
近代(西欧)合理主義により労働は報酬を出来高払い制に。
労働⇒国家⇒世界
賃金のために働き、生き甲斐は他のところで⇒レジャー、サービス業の発展⇒人は機械にあらず |
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| 1820~ |
フローレンス・ナイチンゲール(イギリス)
イギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者、近代看護教育の生みの親。
本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。 |
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| 1760年~1834年 |
水野 南北
江戸時代中期の頃の観相学の大家。当時、日本一の観相家といわれ「節食開運説」を唱えた人物。
大坂阿波座(大阪市西区)に生まれたが、幼くして両親を亡くし鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職鍵錠前造りから「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となった。刃傷沙汰を繰り返し、 18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。
出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。
こうした体験から観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究を実施して観相学を究め、南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
しかし、そこまで研鑚を 積み重ねても従来の観相学では百発百中とはいえず、悩んだ末に伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い断食を続けるのさなか天啓が訪れる。
『食は命なり!』~「人の命運は総て食にあり」南北は喝破した。
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| 1769~1814 |
ナポレオンの欧州席巻とロンドンのネイサン、パリのジェームス、ロスチャイルド
特にロンドンのネイサン(1777-1836年)とパリのジェームスが成功を収めた。ネイサンはナポレオンが欧州を席巻する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通した。
ジェームスは当時の成長産業だった鉄道に着目し、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していった。 |
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| 1783 |
塙保己一と群書類従
幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。
手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ。
天明3年(1783年)に検校となる。天明4年(1784年)、和歌を日野資枝(ひのすけき)に学ぶ。寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。
『群書類従』666冊が完成したのは、保己一が74歳のときである。34歳のときに決心してから41年後となる。
また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になり、同年9月に死去。四男忠宝が跡を継いだ。
嘉永4年(1851年)、保己一が編纂した『令義解』に女医の前例が書かれていることを根拠に女医の道が開かれ、荻野吟子が日本初の国公認の女医第一号となった。それまでは医者は男性しかなることができなかった。
ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、1937年に来日した際、記念館を訪れている。
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伊能忠敬(ただたか)、 地図作りのために江戸を出発
・江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的状態。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域窮民を救済。
・こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。
・50歳を迎えた忠敬は、家督を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。
・浅草に星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、 高橋至時(よしとき)32歳の門下生となった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだった。
・至時は昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“ 推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、 日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
・この頃、暦局の人々の関心ごとは、“ いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、 至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。)忠敬は幕府に手紙を送った 「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と。
・1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「 測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。(しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠。)
・半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量は多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった。
・1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
・1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
・1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
・忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったという。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。
・忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線を徒歩で一周という偉業。彼は地図と共に人間の底知れぬ可能性を後世の私たちに残した。
・地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)より
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214枚の日本大図
※’04年、名古屋ドームにて
(撮影kooichi.ikaiさん) |
| 1806 |
ルイス・クラーク探検隊(発見隊)
アメリカ合衆国陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられ、太平洋へ陸路での探検をして帰還した白人アメリカ人で最初の探検隊である。
探検隊は出発地へ帰還する折り返しの旅を1806年3月23日に開始した。
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1780~
1814~
1850 |
黒住宗忠-黒住教(くろずみきょう)
岡山県岡山市今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に日本三大新宗教の一つに数えられる。
黒住 宗忠 (くろずみ むねただ)
1780~1850
神道系の新宗教のさきがけとなる黒住教を開いた幕末の神道家。 備前の神社の神職だった。
黒住宗忠は、安永9年11月26日の冬至の日に、現代の岡山県に位置した備前国御野郡中野村の今村宮に仕える禰宜の家に三男として生まれる。
幼名を権吉(ごんきち)といい、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったといい、「黒住の孝行息子」と周囲からあだ名されたという。神職を継いでからは、左京宗忠と改名している。
文化9年(1812年)8月、実母・黒住つたが腹痛のため寝込んでしまい、次いで実父・黒住宗繁も同じような腹痛となる。宗忠は懸命に看病を行なうが、次々と両親を失う結果となり、極度の絶望状態に陥り、やせ衰えて行く中で翌年の11月頃には自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまう。
しかし、文化11年(1814年)11月11日、病気のため死を覚悟したは太陽を拝む(日拝)中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したと言われる。
以後、嘉永3年(1850年)に死ぬまで、布教や病者の救済をした。享年71。
皇室や公家の中に宗忠に帰依する者が多く、宗忠の死後、神道の権威とされた吉田家より「宗忠霊神」、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都神楽岡に宗忠神社が創建された。宗忠神社は慶応元年(1865年)4月18日、孝明天皇によって勅願所となり(孝明天皇が定めた勅願所は宗忠神社のみである)、翌年2月7日従四位下の神階を宣下された。
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1820
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仙童 寅吉
文政3年(1820年)の秋、天狗小僧と呼ばれたひとりの少年が脚光を浴びた。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのだ。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものであり、多くの人々がその情報を求めて彼の話を聞きにやってきた。平田篤胤もそのひとりだった。寅吉15歳、平田45歳のことだった。
勝五郎再生記聞
文政5年(1822年)、武蔵国多摩の百姓の倅、勝五郎(当時8歳)が何気なく発した問いがこの事件のきっかけだった。勝五郎は生まれる前のことを誰もが記憶しているものとそのときまで信じていたのだ。自分が人と違っていることに気付いた勝五郎は誰にもいわないよう懇願するのですが、やがて家族にも知られるところとなり、前世での出来事、命を落としたときのこと、死後に出会った謎の人物のこと、この家に生まれたいきさつ等をとつとつと、しかし詳細に語る。半信半疑の祖母に手を引かれ、とうとう前世に住んでいたという村へ出かけたところ、そこには勝五郎が語ったとおりの風景があり、家族が暮らしていたのだった……。江戸の世を騒がせた輪廻転生の話です。http://d.hatena.ne.jp/supernil/20091210/1260352735 |
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1830
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モルモン教
・末日聖徒イエス・キリスト教会は、ジョセフ・スミス・ジュニア(1805年 - 1844年)によって1830年アメリカ合衆国にて設立された。
・ジョセフ・スミス・ジュニアによれば、彼は14歳の時(1820年)、当時の教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、新約聖書ヤコブの手紙一章5節を読み、どの教会が真実であるかを神に祈り求めたところ、実際に神とイエス・キリストを見、言葉を交わしたとされる。ジョセフによれば、彼はどの教会にも加わってはいけないと告げられ、イエスキリストの教会を再び地上に回復するために神から召されたとされる。教会の信条によると、回復が必要であったのは、イエスキリストと12使徒(イエスの弟子)の死後、神の神聖な儀式を行うための神権(神の権能)が地上から失われており、完全なる教義や儀式も聖書の人の解釈によって失われていたからだとされている。
⇒一夫多妻について。
創始者ジョセフ・スミスは、教義として、一部の指導者は神により多妻を認められているとし、教会員は一夫多妻を実施していた。 これは当時の倫理感から一般市民の強い反発を招いた。その後合衆国にて一夫多妻を違法とし、一夫多妻者の移民を禁止する法律ならびに、一夫多妻を指導する宗教の財産を没収するという、モルモン教を対象とした法律(Edmunds-Tucker
Act :エドモンド/タッカー令)等が成立すると、教会は信教の自由を根拠に裁判で争ったが敗訴し、破産の危機に陥った。
・神権は1832年のサスケハナ川のほとりで、イエス・キリストの弟子であるヨハネ、ペテロ、ヤコブがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーに天使として現われ按手により再び回復されてからいまだに受け継がれており、そのことによりジョセフ・スミスから生ける預言者による神の啓示は続いていると信じている。
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| 1837~1851 |
パックス・ブリタニカ
英国によるビクトリア女王の治世と世界平和の時代 |
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| 1838年(江戸-天保9年)~ |
中山 みき-天理教
金光教・黒住教とともに日本三大新宗教の一つに数えられる。
「みき31才(文政11年)の頃のこと、みきは、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が、当時絶体絶命と云われたほうそうにかかるという事件に遭遇することとなった。
計らずもみきの子二人と預かり子が、当時の流行病であったほうそうに罹かるという事件がおこった。どうしたわけか、みきの子供はどの子も快癒に向い無事となったのに対し、預かり子の方は熱気がずっと続き、一心込めての看病にも拘らず、回復の気配を見せず、みきの大いに慌てることとなった。「無理な願いでは御座いますが、預かり子の身の上難しいところ、どうかお助け下さいませ。その代わりに、この子の命を助けてもらうためには、願わくば世継の男の子一人を残して頂けさえ致しますれば、娘二人の命まで召されるとも厭いません。更にご無理を云わして頂けますなら、この預かり子に80迄の寿命を授かり下されませ。このようなお願いをお聞き届け頂きますにつき、もし娘二人の命にて不足で御座いますなら、願満ちました暁には私の命をも差しだします。私の身命を差し上げます以上、爾来、お召しまされようとも御用にお使いあそばされましょうとも不足を申しません」。と、概ねこのように誓ったと云う。
他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出すというのである。みきは、この預かり子救済の過程で、各地の神仏にすがり又一心不乱に祈り、この預かり子の命さえ助かるならば、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となった。こうしたみきの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。
長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みきみずから加持代となり、このとき、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。 (天理教では、この日を「立教の元一日」としている)
みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民におしみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。
教祖中山みき亡き後、本席という立場の飯降伊三?に同じ霊が降霊、自動筆記による教典有り。
世界(鎖国の世において)一列皆兄弟、他人というはさらにないぞやといい、心の埃を取れという。
神がかりとなる前の逸話、教祖となってからも天理にのっとった生き方、人々の規範となりうる生き方が示されている。 |
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| 1846 |
アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis)
米国の霊覚者。
キャッツキル山で啓示を受ける。(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表)
思想的にスピリチュアリズムを先取りした哲学書を出版して後のスピリチュアリズムに多大な影響を与え、「スピリチュアリズムのヨハネ」と言われた。(下記#スピリチュアリズムの勃興を予告した人物を参照)。
奴隷制度廃止運動家、女性開放運動家、禁酒運動家でもあり、スピリチュアリズムの思想によって社会に影響を与えた最初の人と言える。
ニューヨーク州のオレンジ郡ブルーミングローブ生まれ。家が貧しく、教育はほとんど受けていない。成長すると、靴屋の徒弟となった。生まれつき霊視能力があったらしく、母が死去したときに輝くような野原に美しい家のビジョンを見て、母が行ったところだと思ったという。
1843年、17歳で近くの町の講演会に出かけて催眠術にかけられ、催眠状態で透視能力や読心能力を発揮できることに気づく。さらに実験を続けるうち、特殊な能力が発達した。(メスメリズムとの邂逅)
この能力を生かすべく最初は(※ウィリアム・リビングストンと共に)病気の治療を始め、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。しかし、催眠状態に入ると演説することが多くなり、入神講演と出版がライフワークであることを認識して治療院を閉鎖した。
1846年、20歳で入神講演の内容をまとめ、
第一部「大自然の摂理-※その聖なる啓示と人類への声」、
第二部「大自然の啓示」、
第三部「人類に告ぐ」の三部作として出版した。(原文:The principles of nature, her divine relations, and a voice to
mankind)
1847年、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが『自然の原理』The Principles of Natureという本を出版した。 デイヴィスは入神状態を経験し、入神状態で口述した内容が他の人によって15ヵ月にわたり書き留められ、それが『自然の原理』としてまとめられた。
本は反響を呼びロングセラーとなり30年間で34版を数えた
『自然の原理』は三部構成-、
第一部の「自然の原理」では、世界は心と物のふたつから成り立っているが、物質も心も本質的には霊的である。
第二部の「自然の聖なる啓示」に、宇宙の創造、星雲の形成、太陽系の誕生、地球生命の発達などを説明しており(ダーウィンの『進化論』の発表より10年以上も前の段階でデイヴィスはこうした説明を行った)。
そしてスピリチュアリズムの重要な部分、つまり霊界とは何か、霊界はどういう構造なのか、人は死ぬとどうなるのか、といったことが書かれている。
そのためこの本は、後に「スピリチュアリズムのバイブル」と呼ばれるようになった。
肉体と霊とはもともと一体であるが、年をとるにつれて肉体は衰えて霊(精神)の思うとおりには動かなくなるので、霊はそれまで肉体に充満していたエーテル的な物質を吸収して霊体をつくり霊界での生活に備えるのだ、とした。
そしてこうしたことは霊が低い次元から、より高い次元へと移動することであって、死とはそうした次元の移動にすぎない、とした。そして、死とはあらゆる現象の中で最も賛美すべきものであって、皆がその到来を楽しみに待ち、それに感謝すべきだ、と述べた。肉体を脱してまず入る世界をデイヴィスは「第二界」と呼んだ。
その後に第三界から第七界まである。第二界では肉眼の代わりに霊的な視力を得ることになり、地上の人間を見ても肉体は見えず、霊体しか見えない、と述べた。
同じ第二界にいるもの同士は声を使わず思念だけで交流できる。
第二界には3つの社会(グループ)があり、宇宙の目的、宇宙の役割、人間の宇宙における役割などといった宇宙の真理を学ぶとする。 また、霊界全体は、魂同士が引き合う力、および魂が向上を目指す力が原動力となって発展してゆく、とした。
これは大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えたといわれる。
「大自然の摂理」では個人的な意識の死後存続、霊こそが実在であること、霊や霊界の描写、イエスは神ではなく規範とすべき人間であったことなどが述べられ、現在のスピリチュアリズムとたいへんよく似ている。
「大自然の啓示」では宇宙、太陽系の歴史や人類にいたる生命の進化について書かれている。この中で海王星と冥王星が発見される前にその存在を指摘したことは話題になった。
「人類に告ぐ」では理想的な経済・社会基盤について述べている。
後にスピリチュアリストたちの活動が盛んになってくると喜んで支持し、自らを「スピリチュアリスト」とした。
しかし、哲学的思想をなおざりにして物理的現象にばかり夢中になる傾向がスピリチュアリズムに出てくるとこれを嫌い、1880年には自分の哲学は「調和哲学」(※54歳のとき。この頃には自力で入神状態に入ることも出来るようになっていた。自分を霊的感応状態におくことによって霊界から自由に情報を入手できた。欲しい知識が自由に流れ込んでくる。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P47)だと宣言して、スピリチュアリズムと袂を分かってしまった。
その後も精力的に出版を続け、1910年に死去。
1848年のハイズビルのフォックス家事件以降に起こったスピリチュアリズムの勃興を予告した人物としても知られている。『スピリチュアリズムの真髄』(ジョン・レナード著(国書刊行会発行))に詳しい説明があるが、この本は現在絶版となっている。
彼の著作である第二部「大自然の啓示」には、後のハイズビル事件(フォックス家事件)を予言する記述が見られる。
・肉体の中にいる霊と、より高い世界にいる霊とが交信する。…間もなくそれは生きた人間がやってみせる形で行なわれるだろう。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P35)
・…。その時、現在火星や木星や土星の住民たちの間に行なわれているように、人間の内部が開かれて霊的な交流が達成されることになる新時代の到来を、世界の人々は大歓迎するだろう。(〃 P45)
・聖書の言葉には誤謬があり、全体は不完全な物語。
・キリストについては「三位一体」説にある「神の子」であることを否定し、比類ない高潔な人格と抜群の霊能力を持った宗教改革家としている。(〃 P55)
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『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P38にて補足
デ-ビスの著述がすすむにつれて、協力者だったブッシュ教授の態度が一変。敬虔なキリスト教徒である教授がスピリチュアリスト的な考え方についていけなくなったためだと言われている。
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| 1846.9.19 |
フランス、ラ・サレット他各地で予言を託す聖母
・聖母マリアの顕現は5世紀までさかのぼる。
・初期は主に正しい信仰の在り方と指針を人々に教戒していた。
・フランス南東部の、ラ・サレットに聖母マリアが出現。
ラ・サレットは標高 1,000~2400メートルの高地にあり、現在でも人口わずか 70人ほどの小村ながら、ルルドに次ぐフランスの聖母マリア巡礼地となっている。
・二人の子どもがサレットの山中で、見慣れない服装をし、輝く光に包まれた貴婦人に出会った。貴婦人は岩に腰掛け、顔を手で覆って泣いていた。
・人々の犯しつづける罪があまりに重く、もう支えきれないと嘆いた。
このままでは世界は破滅する、…他36の預言を残した。←1531年へ
・転換点となり、もっぱら終末預言的な内容が増え始めた。
その後も聖母の出現は続き、現在も世界各地から報告されている。この200年間聖母マリアは一貫して言いつづけているのだ。「悔い改めよ」と。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』 |
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1848.3.31~
現代スピリチュアリズム元年 |
近代心霊研究の始まり-一般霊との交霊
アメリカのニューヨーク北部の小さな村で起こったフォックス家事件(=ハイズビル事件とも言う)に始まる。
ハイズビルに住むフォックス夫妻には、マーガレット(11歳)とケート(9歳)という二人の娘がいた。いつの頃からか、夫人と二人の娘は夜になると不思議な物音がすることに気づくようになる。やがてラップ音やノック音がしたり家具が動いたりするようになる。
1848年の3月31日の晩、前夜の騒音で家中の者が不眠になっていたので、その日は早くから床に入った。するとまたコツコツと窓を叩く音がする。はじめは怖がっていたが、今ではもうすっかり慣れた娘の一人が、パチンパチンと指を鳴らして、「お化けさん、真似をしてごらん」と言うと、同じ数だけ叩く音がする。娘たちは面白がって遊び始めたので、夫人が試しに、その場の誰にも答えられないような質問をしてみようと思いつき、「私の子ども全員(前夫との子供も含めて)の年齢を上から順番にラップ音で答えてください」と言った。すると即座にすべての子どもの年齢が正確に返ってきた。そこで夫人は、「正しい答えをしていますが、あなたは人間ですか?」と尋ねてみた。ラップ音はない。「あなたは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」ラップ音二回。さらに質問を続け、「もし傷ついた霊ならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、即座にラップ音が二回鳴って家全体が振動した。
それで驚いて近所の人達を呼び集め大騒ぎになった。ドゥラスという人が中心になって、アルファベットを早口で言って、霊に望みの箇所で音を鳴らしてもらうといった繰り返しで、とうとう一つの通信文を獲得する。それによると、音を鳴らした霊は、五年前にこの家に泊まって殺されたチャールズ・ロズマと言う名前の31歳の行商人で、五百ドル奪われ地下室に埋められた、というのである。
それで翌日、皆で地下室を掘ったら水が出ていったん作業を中止したが、その年の夏、水が引いたので再掘したら本当に毛髪と歯と骨が出てきたという。
(この事件に自作自演説もある。)(ニューヨークでも新聞はこぞって姉妹を嘲弄した。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P18)
フォックス家の知人であるアイザック・ポストは、ロチェスターのリーの家でアルファベット表を使って交霊実験を行ったところ次のような霊界からのメッセージを受信した。
「友よ。あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光なのである。それを、あなた方はもはや圧し隠そうとしてはならないのだ。あなた方がその義務を行うとき、神はあなた方を護り、善き霊たちがあなた方を見守るであろう」(「新霊交思想の研究」田中千代松著、37頁)
その後このメセージを実行しようとする人が増えていき、1849年11月14日、ロチェスターのコリンシアン・ホールで最初の公開交霊会が開かれた。
地球上のあまりの惨状を前にして、霊界では高級霊達が結集し、一致団結して「地球人類救済」に乗り出すことになりました。そのための大プロジェクトが立案され、計画にそって綿密な準備が進められました。
そして1848年に、地上世界に向けて計画が実行に移されることになりました。
それが地上のスピリチュアリズム運動の開始だったのです。
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| 1848 |
・米国史上初の男女平等、婦人の投票権を求める運動
・女性が霊能に気付き神からの贈り物と思い、社会での独立や地位向上のために最大限にりようしようとしたとしても不思議ではない。
・社会の良識に背く新しい女たち
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P29
・弁証法的唯物論
・カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによる弁証法的唯物論『共産党宣言』 |
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| 1850年代 |
パリの上流社会では「お宅のテーブルの具合はどうですか?(降霊会における招霊実験をテーブル・ターニング)」というのうが挨拶代わりとなった。 |
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1854~1856
の2年間 |
フローレンス・ナイチンゲールと看護学と赤十字
wikipediaより
・裕福な家庭で両親の(※補足-1818年に結婚、1821年帰国。先に姉が誕生)2年間の、新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで次女として生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。
・幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。
・しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
・その後ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
・ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給で、生活費は、年間500ポンド、数少ない理解者の父が出していた。
・就職に反対する母、姉と険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。・・しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員・により、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
・事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。
・11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出した。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
・スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。
・後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
・ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
・この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。
・1856年3月30日パリで平和条約が締結される。4月29日クリミア戦争終結。
7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。
・11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。(※皆を納得させるための手法として考案)これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。
・ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
・ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。(※ナイチンゲール記章-二人は面識はなく手紙のやりとりをしていた。ボランティア活動には否定的だったため、デュナンの活動には非協力的だったようだ)
・ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。
・超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。
・戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられる。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。
・その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。
・彼女自身が負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争の2年だけであり、むしろその象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。彼女自身はクリミア戦争で熱病にかかり37歳(1857年)の頃から虚脱状態になやまされ残り55年間は病床の日々を送った。(以上Wikipediaより)
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フローレンス・ナイチンゲールが聞いた「神の声」とは
まず彼女は「神の声を聞いた人」です。
彼女は生涯に4回(1837,1851,1854, 1861)神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕を するためでした。
1)運命の1837年2月7日。フローレンスは神の声を聞きます。神は彼女 にこう言いました。『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはど うすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。
彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。彼女は修 道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。そして
翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の 病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。1847年からはローマ
の保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。
2)その後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて2回 ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びます。
そして1851年「他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という2度目 の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。
3)現地に行ってみるとそれはひどいものでした。彼女らのチームは野戦病院の 衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。この時
彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計 グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なものでした。単 なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフ
の様式は今でも使われています。彼女はこの手法の考案者として後に英国統 計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
このクリ ミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。
帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛 生管理についても助言をしました。しかしこのクリミア戦争ではさすがに激務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。
4)この頃から彼女は夜の時間に文筆活動をするようになります。昼間は看護活 動や後身の指導に当たり、夜は本を書くというのは大変な負荷ですが彼女は 公的な場所への出席をできるだけ減らして、そういった時間にあてていきま した。彼女は生涯に150冊の本と12000通の手紙を書いています。その手紙の大 半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答でした。(※⇒ナイチンゲール書簡集) 1860年6月24日にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにで きました。彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をは
らいます。
翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について 質問を受けています。
その年彼女は4度目の神の声を聞きました。
1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する 声明を出しました。1887年には英国看護協会の設立に助力しました。そして
1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。そして 1910年8月13日、90歳の高齢で亡くなりました。
彼女は25歳の時の最初の求婚の他に2度プロポーズをされています。2度目 はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭 の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断 っています。3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノー プに譲って(!!)しまいました。 彼女は病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境であるとして、近代的な看 護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。彼女はまた 自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということ
を実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。彼女はまた女性にも家庭に 引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだという ことを実践してみせてくれました。彼女はそういう意味でクリミアの天使で
あっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもあ りました。 以上、フローレンス・ナイチンゲールより
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「ナイチンゲールの年表」より 神の声についての調査
1820年、両親の新婚旅行中のフィレンツェ(英語名:フローレンス)で次女として生まれる。現在「看護の日」(ナイチンゲール記念日)になっている。
1829年、カトリック解放法が成立。国教会徒でない人でも公職に就けるようになる。
1830年、父はハンプシャー州の州長官に就任し、州の行政と治安の責任者にる。
1832年、父は自らがケンブリッジで習ったような教育を娘達に授ける。
1)最初の神からの啓示を受ける。自らの寝室に茨の冠をかぶったキリストが光り輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(「To My Service」)」と言われる。
1839年、一家はヨーロッパ旅行から帰国。フローレンスとパーテノープはビクトリア女王に拝謁。
1840年、イギリスでは大変な飢饉と不況に襲われる。ナイチンゲール家の人びともリーハースト荘の近くの農村地帯を病人を見舞って歩く。
毎日のように自分に語りかけてくる神の声を自覚。「私を愛せ!」
日常生活を送る中でも突如トランス状態になり、白昼夢を見、恍惚とする。胸の中から声が響いてくる。そうした経験を日記に記す。
1844年、看護婦として病院で数ヶ月働きたいと言い出す。その後、隣の村の自分の家に自立して、「教養ある女性のための誓約によらない、プロテスタントの婦人団体のようなものを」設立したいと言い出す。家族に大反対される。
1845年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断る。
1847年、ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと出会う。帰国後ハーバート夫妻との親しい交際が始まる。
1848年、チャドウィック(イギリスの都市の人口の死亡率の高さと平均寿命の短さを調べて、衛生改革を訴えた運動家)をリーダーとして保険局が作られて全国的な衛生活動を行なう。その頃イギリスは大規模なコレラの流行に見舞われ、二度のコレラで両方とも2万人を超える死者を出す。
2)1852年、再びキリストが現れ、「救助者になれ!(To Be a Deliverer)」という二度目の啓示を受ける。
1854年、ロンドンタイムスの特派員ウィリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の後方部隊が如何に悲惨な状況にあるかということがを新聞に載り、世論は沸騰する。
1854年10月21日クリミアでの奉仕を申し出るフローレンスの手紙と、同じく奉仕を彼女に求めるシドニー・ハーバートの手紙が郵便局ですれ違う。「
トルコにおけるイギリス陸軍病院看護婦監督 」の公式任命が下り、シスター24人、職業看護婦14人の計38人の看護団を組織して出発。
1854年11月、当初医師達は看護婦を病室入れることを拒んでいたが、インカーマンの激戦で大量の傷病兵が送られてきたため、入院者が12,000人以上に増え、スクタリの病院はパニック状態となる。フローレンス達は看護に没頭する。
3)クリミアで彼女は3度目の神の声を聞く。
1855年、2月旧友のパーマストン卿が首相となる。首相は二つの委員会、補給問題を査察する『マクネル・タロッチ委員会』と、『衛生委員会』を戦地に派遣する。衛生委員会の働きで給水・排水と換気の問題が改善され、この後死亡率が急激に下がる。
・スクタリの病院の死亡率42パーセント。一方、もっと劣悪な補給と看護状態だったバラクラヴァは死亡率13パーセントであったことが後にわかる。
・娯楽施設をつくり、兵士がお酒や売春婦に走らないようにし、節約した金を本国の家族に送金できるようにシステムを作った。その後半年の間に7万1千ポンドが送金された。
・病院の修復を一旦裁可されたが、150名の職人のストライキで大蔵大臣が手を引いたため、新たに200人の職人を雇い、自分の財源から費用を支払い、期日までに病室を増やし新たに500人の傷病兵を受け入れる。彼女がクリミアに滞在中に、支出した個人財産は7000ポンドに及ぶ。
・前線の病院を視察。その後クリミア熱(チフスか?)で倒れる。二週間危篤の状態になって生死の境を彷徨う。このニュースにイギリスの世論は沸騰する。
シドニー・ハーバートの呼びかけによって『ナイチンゲール基金』が集めらる。
1856、ジョン・ホール医師とフローレンスとの深刻な対立は、ホール医師が本国にむかってフローレンスを中傷する文章を次々と送っていたため有名になる。
同年3月、陸軍大臣のパンミュア大臣から、フローレンス・ナイチンゲールの指揮下に全て従うようにという手紙が届く。パンミュア大臣から密命を帯びて派遣されたレフロイ大佐の報告からフローレンスの方が全て正しいという判定が下る。
・バラクラヴァの病院に乗り込む。この旅行の際、ホール軍医は「どんな種類の食糧も彼女に供給されないように、命令を出す。」 しかし先見の明のあるフローレンスは大量に食糧を用意し、10日間の旅中、食事をすることが出来た。アイルランドの修道女達は国に帰る。
・4月29日クリミア戦争終結。
・この戦争の死者は2万1千人。内、病死した人が1万6千人。多くは伝染病による死亡者。この間、フローレンスは2千人を超える人の臨終に立ち会う。
・同年7月、スクタリを後にして帰国の途に着く。自分が偶像化され、虚像が一人歩きすることを恐れ、スミスという偽名を使用して人知れず帰国するなど、人前に出ることを避けた。本国で民衆は熱狂して迎える。女王はブローチを贈り勲功を讃える。
1857、スクタリの死亡率の高さは、衛生状態の悪さが原因であることを理解したときにフローレンスは壊れ始める。自分がよかれと思ってした活動によって結果的に大勢の人びとを死に至らしめてしまった。フローレンスは自分の責任を感じて苦しむ。全く食事を受け付けなくなり、衰弱する。
1861、自分がスクタリの病院に送られた意味を考える。これは間違いなく神の意志だった。自分が間違いを犯すことさえも神の計画の一部だったのだ。神は私が間違いに気づき、間違いから教訓を学ぶという方法で私を教育なさろうとしているんだと信じる。
・インドのための『ロイヤル・コミッション』を立ち上げる。衛生学者であるファー博士とサザランド博士を委員に任命し、インドの衛生改善を指導。兵士の死亡率を下げていく。現地の人達にも各地に衛生委員会を作ることを呼びかける。カルカッタやマドラスなどの大きな都市に下水道を引こうと努力する。飢餓から救うために政治家達にインドに灌漑用水を引くことを呼びかける。のちにフローレンスは『インドの母』と呼ばれるようになる。
1893、シカゴ博覧会で、看護の本質に関するナイチンゲールの信念を明確にした演説が行われた。「この職業は一つの芸術であり、科学」であると記述している。
1907、女性としては初めて、メリット勲章を授与される。
1910、90歳で死去。 「ナイチンゲールの年表」より
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ナイチンゲール ナース志望の学生さんのレポートより
…ところで、私はお金持ちのお嬢様である彼女が、なぜ、看護師になろうと思ったのか、なぜ、戦場に行ったのかということを、彼女について調べながら探って行きたい。…
ナイチンゲール ~なぜ彼女は戦場に~ ナース志望の学生さんのレポート
・彼女を調べていて思ったことは、調べる前に持っていた彼女のイメージとだいぶ違っていたことである。私は人から聞いたことで勝手にイメージを作っていたのである。だから、自分で調べることの大切さをこの課題研究が教えてくれた。そして、この課題研究を通して、調べることが楽しくなった。今回、フローレンスを調べたけれど、まだまだ知らないことが沢山あるので、これからも調べて行きたい。
・この論文を作成中に、看護学校のオープンキャンパスへ数校行った。やはり、学校にはフローレンスの銅像があった。そのほとんどが、あのクリミア戦争中に、ろうそくを持って患者の見回りを行っている彼女の姿であった。
・この時、研究テーマに「フローレンス・ナイチンゲール」を取り上げて本当に良かったと思った。そして、私の看護師を目指す気持ちが更に高まったのである。
・ところで、序章の「はじめに」で私が書いたことを思い出してほしい。
なぜ、フローレンスは看護師になり、そして、戦場に行ったのかということだ。私は彼女が看護師になろうとしたきっかけが、「神の声」だったとしても、彼女の人々の役に立ちたいという思いが、彼女を看護師にさせたのだと思う。そして、その思いが彼女を戦場に行かせ、多くの人々を助けたのだと考える。
最後に、私は更に目標を高く掲げ、フローレンスのような看護師になることを誓う。
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現役ナースさんのHP ナイチンゲールのお話より
1)一般論的ナイチンゲール
1848年から1849年にかけてイギリスのロンドンでは、2回にわたりコレラが大流行します。その頃彼女は、エジプトへ旅行をした後、1850年から1851年の間、2回ドイツの看護学校へ行き、看護理論を学びます。そして、1851年に『他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい』と、2度目の神のお告げを賜ります。彼女は、その後も貧しい人や病む人のために奉仕を続けます。
1853年、ナイチンゲール33歳のときに、病院の看護監督に就任します。
ナイチンゲールは、イギリスで看護監督に就任後、病院の環境管理に力を注ぎます。また、施設が軌道に乗ると、看護婦を訓練するプログラムを計画します。いくら建物が清潔でも、りっぱな看護婦がいなければだめだと考えていたのでしょう。
そんな頃に、『クリミア戦争』が勃発したのです。イギリスも多くの兵士をクリミアに送り込みました。陸軍事務局ではいつも人手不足でした。戦場では負傷した兵士たちがお互いに助け合って世話をしており、多くの兵士がたいした手当ても受けれないまま死んで生きました。
1854年、ナイチンゲール34歳のときに、その当時の軍務大臣であったシドニーと義援金募集係のマクドナルドは、彼女に看護婦として戦場へ行って欲しいと頼みました。彼女はすぐに38名のボランティアの女性を引き連れ戦場へ向かいました。実際に戦場に行ってみると野戦病院の衛生環境は、それはそれはすごい有様だったようです。当時は、戦傷死者よりも戦病死者の方が多かったそうです。しかし、そんな現場であっても、最初は戦場に女性が入ることには抵抗があったようで、現地では相当な反発を受けて、なかなか彼女が思うような活動ができませんでした。ですが、彼女は少しずつ少しずつ医師や周りの人たちに受け入れられるように努力をしました。野戦病院の清潔が保てるように環境の整備を行い改善に取り組みました。彼女は、悲惨な戦場の現状をレポートにまとめ、これを統計グラフで表にして軍に報告をしました。彼女が考案した統計グラフは、後にかなりの評価を受けることになり英国統計学会の会員になり、また、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
ナイチンゲールは、戦場で負傷した兵士や病気になった兵士たちには献身的に奉仕し心に安らぎを与えていました。しかし、戦場で奉仕をする女性たちには『鉄の女』と呼ばれるほど、厳しかったそうです。夜は女性たちを部屋に閉じ込め鍵をかけたり、彼女の意に添わない女性はイギリスに送り帰されたりと・・・。でも、つれてきた女性たちのため、また女性たちの親を納得させるために、彼女はわざと鉄の女を演じていたのです。
ナイチンゲールは、従軍中の1854年の冬に大病を患い、自ら生死の境をさまよいます。奇跡的に一命をとりとめ、兵士への看護に復帰を果たします。彼女が罹った病についてはいろいろな説がありますが、はっきりした病名は明らかにされていません。ですが、この病のために看護の現場生命が短くなったともいわれています。 1856年、パリで平和条約が交わされ、クリミア戦争は終結します。1857年、そしてナイチンゲールは3年ぶりにイギリスに帰国します。
帰国後、ナイチンゲールはさまざまな病院の改革にあたります。また、このころから執筆活動を積極的に行います。彼女は、生涯150冊の著書と、12,000通もの手紙を書いています。その手紙のほとんどは、世界各国から届いた看護と衛生に関する質問状の回答だったそうです。日本でも、『ナイチンゲール書簡集』として翻訳された手紙が、まとめられ1冊の本として発売されています。
1859年、ナイチンゲールは“看護のバイブル”といわれる『看護覚書き』を刊行します。また、同じ年に『病院覚書き』という本が刊行されました。彼女は、看護に貢献しただけでなく、『病院覚書き』を発表したことにより、これが医学の大発展につながり、医療全体にもかなり貢献しています。
そして翌年の1860年、イギリスのロンドンにある聖トーマス病院に、彼女は最初の看護学校を設立します。1861年には、助産婦養成所を開設しますが、こちらのほうは7年後に閉鎖されました。1860年は、アメリカで南北戦争が勃発しており、彼女はアメリカから衛生管理についての質問もいけています。また、彼女はこの年に4度目の神のお告げを賜ります。彼女は、生涯の中で4度“神のお告げ”を賜ったといわれています。
1872年、国際赤十字のアンリー・ジュナンは、ナイチンゲールを高く評価する声明を発表しました。
ところで、ちょっと余談になりますが、アンリー・ジュナンについては、私は小学校の国語の教科書でこの方の功績についてお勉強しましたが、皆さんはご存知ですか?!アンリー・ジュナンは『赤十字の父』ともいわれ、医師の資格を持っているわけでなく、看護の勉強をしたわけでもありませんが『病気や怪我に国境はない』として、自ら戦地へ赴き、敵・味方に関係なく戦病傷者の方々を介抱したことで有名な人です。彼のお陰で現在の国際赤十字社が存在し、現在でも世界各国でさまざまな活動がされているわけです。
1887年、イギリスでは『英国看護協会』が設立され、ナイチンゲールも設立に助力しています。そして、1907年には、イギリスではこの章を頂くことはかなり名誉なことといわれている『メリット勲章』なるものを、女性では初めて授与されています。
ナイチンゲールは、クリミア戦争後看護のみならず医療全体においてかなりの貢献をしてきました。しかし、数多くの彼女の功績は全てベッドの上でされたことでした。残りの54年間の生涯をほとんど人とは会おうとしないで引きこもりの生活をしていたようです。彼女は周りの人たちにはよく「私は心臓病で死にそう」と訴えていたそうです。
1910年8月13日、こうしてナイチンゲールは90年の生涯に幕を閉じました。イギリスでは、ロンドン市内にある著名な人たちを葬る墓地に彼女も加えられる話も出ていましたが、自らの希望で彼女の両親が眠るイングランドのハンプシャー州にあるロムジィ近くのイースト・ウィロー教会の墓地に、彼女は両親と共に眠っています。
2)ナイチンゲールのもう一つの顔
ナイチンゲール家はとても裕福でした。しかし、彼女はすでに6歳のときには、その裕福な生活に不安や罪悪感を抱いていました。そして、『白日夢癖』・『食卓恐怖症』が出現します。白日夢とは、簡単に言うと空想のことで、現実に満たすことができない欲求を、空想で満たすことでストレスを解消しようとする現われのことです(※いろいろな解釈があるようです。もっと重要な意味がある場合があります。⇒ブルース・モーエンと白昼夢)また、食卓恐怖症とは対人恐怖症の一種で、人前に出ると意識してしまい緊張感が増して対人関係を避けようという行動が出てきます。彼女は、他の人たちと同じように振舞えないのではないかと不安を抱き、食事のときもナイフやフォークで何か過ちを起こすのではないかと思い込み、皆といっしょに食事をとることを拒否していました。これらの症状は神経症の類で、神経症はまだ自分自身で症状を自覚して病識がある状態のことです。彼女は、晩年自分を振り返ったときに、「幼い頃、自分は他の人と違うのではないか、と強迫観念に捕われていた」と語っています。彼女は夢の中へ夢の中へと逃げていってしまったのでしょうね。
3)看護覚書とナイチンゲールの理論
看護の要素は『新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること』と書かれており、療養環境を整えることが大切であると語っています。それは、人間の健康を回復する目的であると語っています。つまり、彼女は看護の目的とは、『健康の増進』とはっきりと述べています。そして、病気の治癒力とは人間がもっている『自然の力』であると語っています。
ナイチンゲールは『看護の仕事は、快活な、幸福な、希望にみちた精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、快活な女性こそ、本当の看護婦といえるのです(ナイチンゲール書簡集より)』と、言葉を残しています。彼女の生きた時代には、身分階級というものがあり、看護の仕事をするものは下層階級の女性であり、暗いイメージがつきまとっていたことも影響しているかもしれません。現在でも、看護というお仕事は3K・5K、もしかしたら9Kなどといわれており、過酷な仕事であって自分に犠牲をはらってでも『奉仕の精神』で務めるようなイメージがつきまとっています。彼女は、その象徴のようにあがめられてきました。ですが、彼女はそのようなイメージとは違い、看護という職業を確立しようと考えていた人です。彼女は、看護の原点をみつめ、看護の歴史を築き、世界中に看護の独自性を広めました。そして、彼女の理論を超えてさまざまな看護理論が発表されている現在では、残念ながら彼女の理論は忘れ去られていることも事実です。現在の、看護理論の主流はアメリカの看護理論です。日本でも、アメリカの看護理論を取り入れており、そのままの理論を取り入れようとしているために、さまざまな問題が生じているのも事実です。つまり、日本人の生活環境にそぐわないということです。その点、彼女の理論は『看護とは何か』ということを突き詰めていて、単純といえば単純であり、基本といえばこれが基本なのです。
またナイチンゲールは『日々の健康上の知識や看護の知識は、つまり病気にかからないような、あるいは病気から回復できるような状態にからだを整える知識は、もっと重視されてよい。こうした知識は誰もが身につけておくべきものであって、それは専門家のみが身につけうる医学知識とははっきり区別されるべきである(看護覚え書より)』と書き残しています。彼女の時代には、まだまだ看護婦という職業は確立されてはいませんでした。そんな状況の中で、彼女は看護の知識と医学の知識をはっきり別けるべきだと既に考えています。そして、看護の視点で病気をみつめるように訴えています。彼女自身の生命観から看護独自の視点で『病気とは何か』ということを説いています。彼女はこんなエピソードも語っています。「ある非常に優れた医師が、肺炎をどう治療するかと聞かれたとき『私は肺炎は治療しません。私は肺炎にかかっている人を治療するのです』答えたのであるが、それにもかかわらず、病気でなく病人を看護するということは、看護そのものと医師との違いのひとつである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)」と。彼女の看護のあり方は、からだの中には自然に回復する治癒力があり、その回復していく道程が順調に進むように療養の環境を整えることによって、生命力を支えることと説いています。それと、彼女は『看護は生きた身体と生きた心と身体と心が一体となって表現された感情とに働きかけるのである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)』と、説いています。こうして、彼女は『何が看護で何が看護でないか』ということを、明確にしていきました。
『看護覚え書』の第1版が印刷されたのはクリミア戦争から帰還して2年後の1859年12月のことでした。クリミア戦争前は、上流階級の人々の周りで生活していたナイチンゲールは、クリミア戦争を機に下層階級の人々のために尽くします。ナイチンゲールの理論には、単に病人を対象にしただけでなく、兵士・貧民・インドの人々といった存在が大きく影響しています。ナイチンゲールの著書150篇のうち、4分の3にあたる48篇が、1850年代の末から1860年代の末までの10年間に書かれています。しかも、この48篇のうちにはナイチンゲールの代表作も多く、ナイチンゲールはこの10年間で勢力的に執筆活動を行い、この期間にナイチンゲールの理論は形成されたといってよいでしょう。
『全ての人たちが健康への最善の機会を与えられるような方法が学習され実践されますように!』と1893年にナイチンゲールは夢を語っています。世界でも、医学への考え方は変化してきており、疾患を直す医学から疾患を予防する医学へと徐々に移りつつあります。看護も傷病者だけを看るのではなく、疾患を持っていない人に対しても必要なのではないかと考えられるようになってきて、今もなお看護学の中ではいろんな看護理論が生まれています。彼女の夢は、世界中の人たちへのメッセージではなかったかと思います。誰もがいつも健康でいられますようにという彼女の願いは誰もが想うことですよね。看護には知識や技術は当然備わっていなければならないものではあるけれど、私自身が看護する心を失わないでいたいものだと思います。
ナイチンゲールのお話 現役ナースさんのHP
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| 1859~ |
金光大神(こんこう だいじん) - 明治16年(1883年)10月10日)は宗教家・金光教教祖。戸籍名は金光大陣。
備中国浅口郡占見村字香取(現岡山県浅口市金光町)の農家・香取十平(かんどり じゅうへい)・しもの次男として生まれる。
幼名は源七(げんしち)。1825年11月26日、同郡大谷村(現浅口市金光町)の農家・養嗣子に迎えられ、川手文治郎(かわて ぶんじろう)と改名した。
1831年(天保2年)、浅尾藩主に蒔田広運が就任し、藩主の幼名(荘次郎)と同一音の「次郎名」が禁止されたため、文治郎も川手国太郎(くにたろう)と改名した。
1836年(天保7年)8月6日、養父が死去した。臨終に際しての養父の遺言により、赤沢姓に改め赤沢国太郎となった。
1844年(天保15年)、赤沢文治(あかざわ ぶんじ)に改名した。
他の村人から「信心文さ」と呼ばれるぐらい、当時の民間信仰に手厚く丁寧で、人望もあり、田畑も増やし村の自作農家では十指に入るほどの成功を収めたが、三度の自宅建築のたびに家族や飼牛を亡くし、村人等は金神の祟り「金神七殺」と恐れたという。
1855年(安政2年)年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」(てんちかねのかみ)の声を聞いたとしている。
1857年(安政4年)、実弟の香取繁右衛門(かんどり しげえもん)に金神の神懸かりがあり、その後金神の祈祷者となったことから弟を通じて金神を主として信仰しはじめ、次第に自らも金神の啓示が分かるようになり、数々の不思議な体験をした。
1859年(安政6年)10月21日、神示(立教神伝)により農業をやめて「取次」業に専念するようになった。
1868年(明治元年)、神から「生神金光大神」という神号を受けたとされる。明治新政府が戸籍を編成する際、名前を「金光大神」と届け出たが、戸籍には「神」の代わりに同音の「陣」を用い「金光大陣」と記載された。1883年(明治16年)10月10日に死去した。
なお、篤信者に与えられる神号としての金光大神は他にも、斉藤重右衛門(笠岡金光大神)、片岡次郎四郎(才崎金光大神)に与えられており、区別して教祖金光大神または生神金光大神と呼ぶ場合がある。
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| 1851~1879 |
ダーウィンと種の起源と宗教観
・典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。
・彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。種の変化を調査しているとき博物学の友人たちがそのような考えを、神授的な社会秩序をむしばむ恐るべき異教で、英国国教会の特権的な地位を批判するための反国教会主義者か無神論者による急進的な主張の一種だ、と考えていることを知っていた。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると思っていた。
・1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した。
・1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。このセクションは『自伝』が出版されるときにエマと息子のフランシスによって削除された。
・1958年に孫娘ノラ・バーロウによって出版された新しい版では削除された全てのセクションが元通りおさめられている。
・1879年に書かれた書簡では、自分はもっとも極端な考えに触れた時であっても神の存在を否定すると言う意味における無神論ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べている。
・晩年のダーウィンの友は、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れるダーウィンの遅疑逡巡を回想している。
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| 1852~1904 |
宮地 水位
1852年(嘉永5年)12月18日土佐国潮江村(現高知市土居町)で潮江天満宮の祠官(しかん)の家に生まれる。父は常磐、母は熊沢弥平の次女。幼名は政衛(まさえ)。本名は堅磐(かきわ)。
1862年(10歳)父常磐の影響で、この頃より異界に出入りする
1864年(12歳)潮江天満宮の神主となる。以降、神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞を広める。
1869年(17歳)手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝。途中鉱山を発見。
1873年(21歳)東京下谷の学舎で一時期講授補役を勤める。
1882年(30歳)皇典講究所の委員に任じられる。
1892年(40歳)この頃顕微鏡を入手して昆虫や粘菌類を研究
1904年(53歳)晩年の5年は病床に伏す。明治37年3月2日帰天。
<後世に与えた影響>
* 異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖。神格概念の骨格は平田篤胤の“仙境異聞”の世界に負っているが、神集岳神界、万霊岳神界の概念は先人未発のもの。本来、機密である神界の情報を書物で公にしたのは、人間界にも神界を知らしめるべきとの使命によるものでその意義は大きい。
<特筆すべき生活>
* 10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回にわたって肉身のまま異界を往来し、その記録を「異境備忘録」に残す。死去の際は、棺が大音響とともに閃光を発し、その棺は軽く、尸解(しか)の特徴がでていたという。(尸解とは、肉体の死を待たずに法術により肉身を消し、自己の本体たる霊物を神仙界に遷すという)
* 幽界交信者には無学や独断的傾向の人が多いが、水位は和漢洋の学問を修めた博識多才の人で、門人は3,000人以上いたという。
友清歓真によると、 1922年(大正11年)から 宮地水位からの霊啓が始まったという。
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| 1852~ |
W.R.ハイデン夫人の渡英により英国にスピリチュアリズムが飛び火
・メスメリズムの講師とともに渡英
・優れたサイコメトリスト
・叩音によってアルファベットを確かめながら、霊と交信
・数学者のオーガスタス・ド・モーガンと社会主義者のロバート・オーエンに影響
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P68 |
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| 1849~1912 |
ウィリアム・ステッド
ステッドは、イギリスの著名なジャーナリスト。
その彼が1892年、自分に自動書記の能力があることに気がつく。
その後、彼はスピリチュアリストとしての人生を歩むようになる。
霊媒としての彼の傑作は、『ジュリアからの音信』としてよく知られている。
1893年、彼は自分がスピリチュアリズムを信奉していることを公の場で告白した。
それに先立つ1883年、彼は自身で創刊した『レビュー・オブ・レビュー』誌の中で、大西洋の氷山に大型定期船が衝突して沈没するという作品を書いている。その29年後、その記事がまさに予言となったようなタイタニック号の沈没事故が起きた。ステッドはニューヨークのカーネギーホールへ招かれて講演するためにタイタニック号に乗船していた。そしてタイタニック号とともに大西洋に没することになった。
その後、ステッドは霊界から、ウッドマンという霊能者を通じて娘のエステルに通信(自動書記)を送ってきた。彼自身の他界直後の状況や幽界の様子がリアルに伝えられています。それが『ブルーアイランド』として出版され大反響を巻き起こした。
スピリチュアリズム普及会(旧・心の道場)第1公式サイトより |
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| 1854 |
スピリチュアリズム究明の建議書が米国国会に提出される。13,000人が署名。 |
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| 1855 |
シアトル首長の手紙-「父は空 母は大地」
1854年アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスはインディアンたちの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。
翌年それに対しインディアンの首長シアトルはこの条例に署名し、大統領に宛て手紙を出した。 |
「父は空 母は大地」 |
| 1855~ |
霊媒の王、ダニエル・ダングラス・ホーム(D・D・ホーム)
・少年の頃から透視能力。
・22歳でアメリカから渡英、ロンドンへ。
・「食客」となり、次第に時代の寵児となる。
・彼の降霊会と知識人によるその反応をコナン・ドイルが報告
・離れたところに置いたアコーディオンを手を触れずに演奏、物品や自身を浮遊させた。著名人に大々的な浮揚を証言させた。
・潔白、オープンな態度で人気。
・自分の霊能に対してもてなしとか個人的な贈り物以外、報酬はいっさい受け取らなかったと言われる。1857年にパリのユニオンクラブで公開実験が行なわれたとき、5万フランという巨額な謝礼を、自分は生命が永遠であるということを知らせる使命のために来ているのだからと言って断った。そのときもその日暮らしの風来坊で健康に不安があったのである。
・ナポレオン三世とアレクサンドル2世に贔屓を受けた。
・霊能が1年間停止される、というメッセージが霊界から届き、ローマ・カトリック教に改宗するなど受難の後半生が待っていたが、最後まで霊能を飯のタネにせず、潔癖な暮らしぶりで53歳で亡くなった。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P81~ |
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1856(7年は改定版)
10年間 |
アラン・カル(ー)デック(イポリット・レオン・デニザール・リヴェイユ)と『霊の書』
フランスの心霊運動の基礎を築く。
スピリティズムという用語。フランスからラテン系諸国に広まった。
・天体には全て生物がいる。各天体の物理的構造は皆違っている。
・地球は、その居住者の肉体的・精神的資質の点では、この太陽系の惑星の中でも、最低のものの一つである。 火星は、ある点では、地球の人類よりも低い。
・木星は、あらゆる点で、地球人よりはるかに優れている。
・太陽は肉体をもつ者の住む世界ではないが、高級霊達の集まる場所である。天体の大きさ、太陽からの距離は、その天体の進歩程度とは必ずしも関係はない。即ち、金星は地球よりも進歩しており、土星は木星よりは進歩していない。
・再生はすべて地球上とは限らない。多くの天体で再生が行われる。現在我々が生きているこの地球は、我々にとって最初の地上生活でもないし、また最後でもない。しかし、最も物質的な生活の中の一つであり、完全からは最も遠いものである。
「アラン」も「カルディック」も彼の前世のときの名前として降霊会のときに示されたもの。
高級霊たちがカルディックに重要な宗教的役割を与え、指導するとのメッセージを送ってきた。カルディックはさまざまな質問を用意して霊との対話を繰り返し、2年後に新しい宗教観とそれを伝道すべき自分の使命とを確信するに至った。
1856年に『霊の書』、翌年に改訂版を刊行
「スピリティスム」と名乗った。
フランスはもとより、南米にも伝播、とくにブラジルに信奉者が多い。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P187 |
アラン・カルディック
『霊の書』 |
| 1856~ |
エマ・ハーディング・ブリテン(Emma Hardinge Britten,
イギリスの霊媒兼作家、編集者、音楽家。精力的な講演活動や出版でスピリチュアリズムの普及に大きく貢献した。
幼い頃から音楽の才能があり、劇場にも出演し、11歳で人に教えるほどだった。
宗教的にはオルペウス教の結社などに親しんで育ち、スピリチュアリストとして活動するようになってからも古代のシンボルや秘儀に関する発言がみられる。また、子供の頃に夢遊病でメスメリズムによる「磁気治療」を受けたことがあり、これは後のスピリチュアリズム信奉の基礎になったという。
直接のきっかけとなった事件は1856年に起こった。エマは米国の劇場に出演するため、母と共に汽船「パシフィック号」に乗って海を渡った。
後日、エマはパシフィック号が運んでくる予定の小荷物を受け取りに港に行ったが、「嵐のため船の到着が遅れている」と知らされ、手ぶらで宿に帰った。その晩エマは霊の存在を感じて驚き、母に相談した。すでにハイズビル事件を知っていた母はテーブルの上にアルファベットを書いた紙を置き、エマに霊と交信させた。得られたメッセージは、
「パシフィック号のフィリップ・スミスだ。エマ、私が死んだことを知らせに来た。パシフィック号は遭難して、乗員は全員死亡した。船と乗員の行方については、今後いっさい何の手がかりも得られないだろう」というものだった。エマはメッセージを疑ったまま眠れぬ一夜を過ごし、翌朝霊媒のケロッグ夫人のところに行ってみた。夫人はエマに会うなりトランス状態になり、同じメッセージを語った。パシフィック号の遭難は後に確認されたという。
この事件の後、エマはスピリチュアリズム運動に身を投じ、霊媒能力とパフォーマンスの才能を生かして積極的に交霊会や講演旅行を行った。(※「スピリチュアリズムの女パウロ」と言われるほどの第一流の伝道師となる『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189)
なお一時期、神智学の創始者ヘレナ・ブラバツキー夫人にも接近するが、すぐに疎遠になっている。
やがて米国の保守的な地域を中心にスピリチュアリズムに対する反対運動が起き、嫌がらせや脅迫で危険を感じた母の勧めで英国に戻った。
1890年には数多いスピリチュアリスト・チャーチの連帯を目指してNational Spiritualists' Federation(後のSpiritualist's
National Union, SNU)を創設。旗印として掲げられた7ヶ条は、エマが理想的社会主義哲学者のロバート・オーエンから自動書記で得たものであるという。
1890年「スピリチュアリスト国民連合(NFS)」設立とその綱領で今日に至るまで「スピリチュアリズムの七綱領」として認められている。
キリスト教国以外に広まるにつれて全部を容認できないスピリチュアリストも出てきたために、現在では以下の最も基本的な二つの綱領を認めることとなっている。
- 神はあらゆるものの源である。
- 人間はみな同胞である。
- 人間の個性は死後も存続する。
- この世とあの世とは交信可能であり、人間は天使(守護霊)の指導を受ける
- 各人にはそれぞれ果たすべき責務がある。
- 生きている間も死んでからも、行なったことには必ず報いがある。
- 人の魂は永遠に向上することができる。
1892年にアメリカで「全米スピリチュアリスト連合」設立
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189
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「原罪」「人間の堕落」「永遠の劫火」などの教会のドグマに強い敵意
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P79 |
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1858
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フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件
有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」
南フランスのスペイン国境に近いピレネー山脈の麓に、人口一万五千人のルルド(Lourdes)という町がある。
そこの洞窟から湧き出す「聖なる水」で病気や身体の障害が治るというので、非キリスト教徒を含めて毎年数百万人にのぼる巡礼者が世界中からこの地を訪れる。
(1972年の統計では三百五十万人でしたが、そのうち八万人が、身体障害者や病人)
洞窟の内部には有名なマリアの聖堂があり、重病人や松葉杖をつきながらやって来た人達が泉の「聖なる水」を飲み、「聖水浴」をして、聖母マリア様に祈りを捧げると奇跡が起こって病気が治り、また歩けるようになって松葉杖を残して国に帰るのだそうです。
・ルルドが名高い巡礼地になったきっかけは、1858年2月11日に当時十四才の貧しい粉屋の娘マリー・ベルナデットが、薪拾いに行ったマッサビエル洞窟の中で聖母マリアを見たことから始まります。
2月25日に聖母は娘に「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇跡が起きる」と告げました。
翌日ある盲人がこの泉で水を飲み、顔を洗うと目が見えるようになり、その事実が知れ渡ると、大勢の病人がこの洞窟を訪れるようになりました。これがルルド巡礼の起源ですが、聖母マリアはベルナデットの眼前に、合計18回出現したと言われています。
この泉の水を科学的に調査したところ、特別な成分は含まれておらず、山から流れ出る清水と全く変わらぬ成分なのだそうです。にもかかわらず、多くの重病人の奇跡的治癒が実際に起きるといわれています。
この現象はカトリック信者と医者を含む科学者との間で、またカトリック教会とフランス政府との間でそれ以後、論争の種となりました。 |
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| 1859~ |
赤沢文治(川手文治郎)と金光教
安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である。(金光町の町名は金光教の本部があることから付けられた。)
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長がいる。日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者を有する。
従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという特徴を持つ。信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。
(本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)
・他の村人から「信心文さ」と呼ばれるぐらい、当時の民間信仰に手厚く丁寧で、人望もあり、田畑も増やし村の自作農家では十指に入るほどの成功を収めたが、三度の自宅建築のたびに家族や飼牛を亡くし、村人等は金神の祟り「金神七殺」と恐れたという。
・1855年(安政2年)年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」(てんちかねのかみ)の声を聞いたとしている。
・1857年(安政4年)、実弟の香取繁右衛門(かんどり しげえもん)に金神の神懸かりがあり、その後金神の祈祷者となったことから弟を通じて金神を主として信仰しはじめ、次第に自らも金神の啓示が分かるようになり、数々の不思議な体験をした。
・1859年(安政6年)10月21日、神示(立教神伝)により農業をやめて「取次」業に専念するようになった。
・1868年(明治元年)、神から「生神金光大神」という神号を受けたとされる。明治新政府が戸籍を編成する際、名前を「金光大神」と届け出たが、戸籍には「神」の代わりに同音の「陣」を用い「金光大陣」と記載された。
・1883年(明治16年)10月10日に死去した。
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| 1860~ |
国安 仙人
11歳のとき、聖良仙人が来訪。それを転機として12年、岩木山、八甲田山、開聞岳、国見山などを渡り歩き、五穀断ちをはじめとする仙界修行をし、海上歩行をはじめ、物品引き寄せ、千里眼、念力、テレポーテーションと、神仙家随一の神通力を発揮した。―
『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)
著者の不二龍彦氏が、「この章で扱う神仙家(①~④の4人)のなかでも、真に神通力第一と呼ぶにふさわしいのは、明治期の大仙人・国安仙人である」と述べているほどの人物なのです。
その国安仙人の生活ぶりは、ある意味では今日の日本人と正反対の内容となっています。次の文章にお目通しください。
彼のふだんの生活ぶりをザッと紹介しておこう。そこには、なるほどそれでこそ仙人といったエピソードが充ち満ちている。
中国の神仙関係の書物を読むと、仙人修行者は肉や魚の類はもちろん、穀物を断って心身を浄化するということが必ず書かれている。そして、仙人になると、ほとんどものを食べる必要がなくなるというのだが、国安仙人もまさにそうだった。魚介鳥獣を食わず、穀類・野菜類も食わず、もっぱら木の実を常食としていて、それも、あれば食し、無ければ自分から買って食べることはなかった。
しかも国安仙人の買い物というのは、すべて売り手のいいなりで、決して値切るということがない。そのため高く売りつけられることもあったが、仙人はまるで意に介することはなかった。
そもそも国安仙人には、物欲というものがまるでなかった。自分を飾るとか、うまいものを食うとか、神仏のためと称して豪壮な家を構えるといった俗情は完全に欠落しており、寄進にしても、信者が惜しんで出す金は受けつけなかった。信者がそのそぶりを毛筋ほども見せない場合でも、仙人には相手の心の内が手に取るように見えていたらしく、黙って返してよこしたという。
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『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)
この国安仙人は幼名を米太郎といい、万延元年(1860年)に江戸深川に生まれています。そして明治3年、11歳の年に人生の転機が訪れるのです。米太郎の前に聖良仙人と名乗る白髪の老人が忽然と現れて、「我は前世からの約束で、今日、汝を訪れたのである。これより行を積み徳を積んで、人助けをせよ。そのために汝を時々仙界に呼んで修行をさせるであろう」と告げたのです。以下は本文を引用してご紹介します。
こう語り終えるやいなや、聖良仙人はためらう米太郎の襟首をつかみ、あっという間にいずこかの山中に連れ去った。かくして米太郎の仙界修行が始まったのである。
仙童寅吉や宮地水位も語っていたことだが、仙人に導かれて仙境に入るという場合、それは霊体や幽体を飛ばすとか、意識だけを飛ばすというのとは違う。そうしたケースもあるにはあるが、多くは体ごと異境に参入してしまうらしいのである。
合理的に解釈したいタイプは、こうした異境へのトリップを、何らかの特殊な意識体験だろうということで片づける。麻薬などのトリップと同じ体験と見なすわけである。しかし、実際に仙境に遊んだという者は、そんな合理的解釈を拒絶する。水位も体ごと移行するといっているし、寅吉も杉山僧正のもとに出向くときには旅支度をしている。
のちに国安仙人は、弟子の前でトリップの現場を何度も実地に見せているが、そのときには必ず「体ごと消え失せた」と弟子や信者は報告している。今流にいうと、テレポートしてしまうらしいのである。 ―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)
実はこれと同じ出来事が、『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(ベアード・T・スポールディング著/霞ヶ関書房)の中に載っているのです。
この本の第3章「肉体の自由自在なる出現・消滅」のなかで、エミール師という人物が、著者をはじめとする調査団の目の前で、自由に肉体を消したり、現したりした事実が述べられています。その「肉体の出現・消滅の原理」を、エミール師は次のように述べています。
‥‥わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料が存在する「普遍なるもの」の中にいったん奉還したのです。
それから私の神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、ついにこの部屋の此処で具体化し再現して、皆さんにも見えるようになる――というわけです。
この過程のいったいどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。
―― 『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(霞ヶ関書房)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/apocalypse2012/karma24.html |
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| 1861~63 |
ウィリアム・マムラーと心霊写真
ボストンで彫金仕事をしていたマムラーが友人の写真スタジオで自分の写真を撮ったところ、12年前に死んだ従妹が写っていた。
このことが評判になり、やがて、心霊写真に専念するようになった。
「門前市を成す」ありさまとなり、ほかにも心霊写真家たちが輩出するようになったが、いわゆる生き霊が写るようになって風向きが変わった。
1868年にはニューヨークに移住し、仕事は繁盛したが、やがてある新聞記者に訴えられ、長い裁判沙汰となり1884年に貧困の中で死を迎えるに至った。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P177 |
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| 1860年代 |
ウィリアム・クルックスと心霊研究とケイティ・キング(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏)
物理学に留まらず、様々な分野における研究を行った。
例えば、テンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究といったものである。
1860年代の後半から心霊現象の研究をはじめた。「心霊研究はこの人から始まる」と言われた。
「心霊現象研究協会」(SPR:Society for Psychical Research)の創設メンバーに加わり、1896年には会長に就任した。
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| 19世紀半ば~ |
ニューソート(New Thought、新思考)
米国で始まった宗教運動の一。
谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるという考え方。
マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する。
・間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
・原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
・全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
・人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
・正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
・愛の力は神の意志の地上的表現である。
日本でも著作がベストセラーになっている英国出身の牧師ジョセフ・マーフィーなど、いわゆる成功哲学の著者の多くが、これに属する人々である。
また、ニューエイジの源流のひとつである。
ニューソート団体の多くは、お互いに緩やかな結びつきの単立のキリスト教会の形を取ることが多く、その結果、海外ではニューソートの一派としても知られている日本の新宗教、生長の家は、世界最大のニューソート団体ということになっている。
近年ではニューソート思想にニューエイジ(「チャネリング」と呼ばれるシャーマン的な入神行為によってもたらされる「神からの啓示」を教義とする神秘主義思想)の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。日本ではA Course in Miraclesの分派、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏(神との対話シリーズ)の一派、分派など判別が付かないほどに入り乱れている。
各々の信奉者が集まり勉強会と称した読書会なども盛んである。
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『マーフィーの法則』
『超意識』坂本政道 |
| 1861~1863 |
アメリカ大統領リンカーン-霊界通信に大変関心をもち霊媒を通して交霊会
フォックス家事件後約十年の1861年(南北戦争が始まった年)から三年間、リンカーンは、ネティ・コルバーンという若い女性霊媒と交流している。交霊会には常に大勢の同席者がいた。はじめての交霊会で、霊側は一時間以上国事についてのアドバイスをするが、霊媒ネティに意識が戻ってから、リンカーンは彼女に次のように言っている。
「あなたは大変非凡な才能をお持ちのようだが、それが神から与えられたものであることに、わたしは一点の疑いも抱いていない。わたしはおそらく、ここにいる誰よりも、いま伝えられたことの重要性を理解しているつもりですよ……」
霊側がリンカーンに勧めたアドバイスの一つは、奴隷解放の実施を遅らせないことであった。
彼は結果的に霊界通信に従って六百万人の奴隷を解放した。また霊側は、南北戦争で士気の低下した北軍兵士を元気づける一番の方法は、大統領自らフレデリックスバーグの前線に赴くことであると説得した。リンカーンがそれを実行すると、兵士たちの戦意が驚くほど向上したという。
⇒映画「ナショナル・トレジャー」-リンカーン暗殺者の日記 -目と脳が痺れる、ものすごい映画だ!リンカーン暗殺事件も自由の女神像の秘密も歴代大統領までも暗号の共犯者だと知らせ、人類最大のミステリーの真相を明かしたのだから…荒俣 宏
歴史学者であり冒険家のベン・ゲイツは、テンプル騎士団の秘宝の秘密を受け継ぐ一族の末裔。秘宝は、当時のフリーメイソンらによってイギリスの手に渡らないようにアメリカ建国時に封印されたという。 |
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P19
映画
『ナショナル・トレジャー』
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| 1862 |
アンリ・デュナンと国際支援組織・赤十字国際委員会
アンリ・デュナンはソルフェリーノでイタリア統一戦争に遭遇し、自ら救援活動を行いました。1862年、彼はその体験を「ソルフェリーノの思い出」に書いて出版し、国際的な救援組織の必要性を説きました。この本がきっかけとなり、ヨーロッパ各国は史上はじめての国際支援組織・赤十字国際委員会を設立。
「ソルフェリーノの思い出」の中で、デュナンは「平和愛好者団体が抱く希望や期待は実現し難いだろう」と書いています。デュナンがその平和愛好者の1人として文中に記したサン・ピエール師は、ヨーロッパの戦争を防ぐには国家連合が最善だと主張した作家でした。デュナンは戦争が避けがたいものならば、せめてその被害を少しでも防ぐための組織が必要だと主張した。⇒EUへ |
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| ~1867 |
江戸幕府終焉、大政奉還
・徳川家の人がむなしく亡びなかったのは、天璋院(篤姫)の働きによるところが実に大きい。二百数十年続いた徳川幕府の体制が崩壊しようとする時、徳川家の人々はもちろん、それに連なるどれほど多くの人々が、動乱のあおりを受けて苦しむことになっていたか。
・その時に当たり、天は人を見捨て賜わず、篤姫なる人物を、徳川の大奥に配し、局面を大きく動かし賜うた。
・島津の分家に生まれ、将軍の正室「御台所」に登りつめた。夫の徳川家定は心身ともに虚弱だったため、ただでさえ多くの人々の想念渦巻く中で、動乱がいっそう人心を惑乱させる中で己を持し、官軍の江戸総攻撃をくい止めて、江戸城の無血開城を実現する陰の力となった。自分が嫁いだ徳川の家を保持し、徳川宗家十六代の家達(いえさと)を養育し、大奥女中たちの生活の面倒をみ、篤姫によって、日本国が利益を得た。
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徳川 家達(とくがわ いえさと)
・徳川宗家16代当主で、もと田安徳川家7代当主
・幼名は「亀之助」。号は「静岳」。従一位大勲位公爵。第4代貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、第6代日本赤十字社社長などを歴任するほどの優秀なる人材だった。
・「天璋院篤姫」の英才教育を受け続けただけのことはある、素晴らしい人生であった。
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明治維新
1867~1872 |
開始時期については諸説あるが、狭義では
明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い。
日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする。
終了時期についても、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説ある。
薩摩藩の調所(ずしょ)笑左衛門広郷(ひろさと)と同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風がいる。
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福沢諭吉
・文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた。
・福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。 |
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大隈重信 |
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安政6年
明治3年
1870
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中村正直とサミュエル・スマイルズと「天は自ら助くるものを助く」
スマイルズは自立した個人の勤労倫理を説いた。その主張は「天は自ら助くるものを助く」という格言に要約される。『セルフ・ヘルプ=Self-Help (西国立志編 原名 自助論)』はこの格言を引くことで始まるが、産業革命後に登場した中産階級の人々に向けて、市民社会を生きる上で大切な市民道徳とその実践を、平明な言葉と実例で説き、19世紀の後半から20世紀の初めにかけて世界的に読まれた。日本人はその影響感化をもっとも深く受けた国民である。
「天は自ら助くるものを助く」は中村がスマイルズの『セルフ・ヘルプ=Self-Help (自助論)』として日本語に訳したとき巻頭に掲げた。
朗々たる響きも手伝ってこの格言は明治日本の人口に膾炙した。日本語の諺と化したといってよい。それというのも、この自助の教えこそ、明治日本に高らかにこだました時代精神ともなったからである
「余を作りし者はこの書なり」とは国木田独歩の短編『非凡なる凡人』の主人公が『西国立志編』に対して感謝の念をこめて発した言葉である。(『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク 中村正直と西国立志編』平川祐弘 P3~)
今では二人とも忘れられた啓蒙思想家、19世紀のベストセラーとなってしまった。日本で官学の諸学校が整備される以前は中村の私塾同人社は福沢の慶応義塾と並んで日本で最も評判の高い学校であった。
人口3000千万の頃に出版部数は100万部に達した(〃) |
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| 1870 |
パリのロスチャイルドとバチカン
資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたバチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。
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ハンフリー・デービー
化学者。ファラデーを見出した。
マイケル・ファラデー
貧しい階級出身。
数々の業績で知られるイギリスの化学者・物理学者。
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| 1864~1912 |
ジェームズ・アレン(イギリス)-『考えるヒント・生きるヒント』『原因と結果の法則』(聖書につぐロングセラーの一つ)
「私たちは、自分が考えたとおりの人間になる」
「思考は現実化する」
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。-喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果
アレンにとって、彼の哲学はもはや哲学ではなく、真実そのもの、つまり明確な経験的知識であった。
彼の妻リリーによれば、アレンは、「人々への何らかのメッセージがあるときにだけ書き、それがメッセージであるためには、彼が人生の中で実際に試してみて、良いものであることを確認したものでなくてはならなかった」という。彼自身、『As a Man Thinketh』の前書きの中で、「この小冊子は、私の瞑想と体験の結果である」と明言してもいる。
イングランド南岸の静かな保養地、イルフラクームに住み、毎朝夜明け前に、近くの小高い丘の中腹までゆっくりと登っていく。それが、アレンの一日の始まりだった。その丘からは、自宅と海が一望できたという。そこに一時間ほどとどまり瞑想した後で、家に戻り、午前中を執筆活動にあて、午後になると家庭菜園での農作業に精を出す、というのが彼の日課だったようだ。
夕方以降は、知人や友人たちとの会話に興じることが多かったらしい。彼の哲学に興味を持った人たちの訪問を、頻繁に受けていたようである。
成功哲学の祖、ナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに強い影響を与えた。
- 心は、創造の達人
- 「心は、創造の達人です。そして、私たちは心であり、思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、さまざまな喜びを、また悲しみを、みずから生み出しています。私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。私たちをとりまく環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません」
- 人生の創り手
- 「自分こそが自分の人生の創り手である」
- 思いと人格
- 「私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません」
- 思いと環境
- 「自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれるものである」ということを熟知しています」
- 思いと健康
- 「きれいな思いは、きれいな習慣を創りだします。自分の心を洗わない聖者は、聖者ではありません」
- 思いと目標
- 「人間を目標に向かわせるパワーは、「自分はそれを達成できる」という信念から生まれます。疑いや恐れは、その信念にとって最大の敵です」
- 思いと成功
- 「人間は、もし成功をめざすならば、自分の欲望のかなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです」
- ビジョン
- 「気高い夢を見ることです。あなたは、あなたが夢見た人間になるでしょう。あなたの理想は、あなたの未来を予言するものにほかなりません」
- 穏やかな心
- 「穏やかな心は、真実の海のなか・・・・・・水面から遠く離れた、いかなる嵐の影響もおよばない永遠の静寂のなか・・・・・・に住んでいます」
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『考えるヒント・生きるヒント』
『原因と結果の法則』
『As a Man Thinketh』
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| 1867 |
大政奉還(たいせいほうかん)
江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件。
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| 1870~ |
九鬼 盛隆
日本における断易(五行易)の中興の祖。
九鬼盛隆は1870年(明治3年)、三重県の熊野九鬼の浦に生まれた。
彼の一族は、戦国時代に活躍したあの九鬼水軍の子孫であり、彼自身23代目の嫡流であった。
幼児期から漢文を学び、中国の思想に強い関心を持った。
青年時代には仏教、神道、キリスト教を学んだが、これに満足せず、最も真理に近い思想は中国哲学、特に「易経」にあると考えるに至る。そして、大陸に渡り、研究を深めた。
1904年、漢学の大家で、明治天皇に「易経」の講義をしたことでも知られる碩学、東京帝国大学教授の根本通明に師事し、内弟子となる。
そして、「易経」すなわち「周易」の研究に全霊を注ぎ込み、独自の理論を築いて行く。そして、国学院大學の講師として教鞭をとった。根元教授の著書とされる「周易講義」も、実は多忙な教授に代わり、彼がゴーストライターを勤めて書いたものらしい。
しかし、当初彼は「易経」すなわち「周易」の研究が中心であり、「断易」(五行易)の類は、「古来多くの儒者等の排斥論に気触れ」まったく興味をもっていなかったという。
だが、ある日、ふとしたきっかけから、断易の書を読み、その魅力に取り付かれたという。そして、周易から断易へと倉変えをする。そして、後半生を断易の研究に捧げることになるのである。
彼の最大の業績は2冊の名著、「断易精温」と「断易真義」を著したことであろう。
当時の断易は、江戸時代の誤訳の多い本や中国であっても内容の混乱した本などが参考にされ、混乱状態にあった。九鬼以前にも優れた研究者は居たが、正確な占法は普及するには至らなかった。
彼は、そんな中、中国の書籍の中でも理論的に優れた書物を選抜し、これを整理統合し、上記の大冊にまとめあげたのである。
現代の断易の研究者達は、彼の著書にも暦などには若干のミスがあるとしながらも、彼を「断易の中興の祖」、「正確な断易の普及のきっかけを作った大恩人」と、その業績は高く評価している。
(が、初心者向けには、今ではもっと親切な本が出ており、ある程度慣れるまでは、彼の著書は読まない方が良いという。これには私も同感である。)
彼は、易とは「神からの託宣」であると考えた。この点においては、周易の高島嘉右衛門と同意見であった。実際、嘉右衛門も、彼を高く評価しており、彼に卦の解釈を依頼したケースからも明らかだ。
しかし、九鬼は、「神」に関しては、高島嘉右衛門以上に、深く関わった。
彼は「神がかり」を経験し、それに深く耽溺してゆくのである。
きっかけは、大本教である。それ以前にも、彼は神と感応する機会はあったらしい。だが、それはさほど深いものではなかった。しかし、大正8年頃、大本教の機関紙「神霊界」を読み、それが真実であるかを占ったところ、「魔の眷属である」との結果を得て、これを退けたが、これは彼が鎮魂帰神やお筆先に関心を持つきっかけとなった。
翌年、隣家で起こったポルターガイスト現象がきっかけとなり、霊現象の存在を確信する。
劇的な事件が起こるのは、その年の10月である。
宇都宮に松川勇という敬神家が居て、本田亀次という霊媒を通じて神がかりを行っていた。しかし、松川は古典や神道に関する知識が少なく、審神者(さにわ)をうまく勤められずにいた。
すると、突然、本田にかかった神は、「静岡市に住む友清歓真を呼べ」と託宣した。この時、松川は友清のことは全く知らなかったという。
こうして、古神道の大家、友清が呼ばれると、続いて神は、友清に対して「九鬼盛隆を呼び、ここに参列させよ」と託宣した。
かくして、面識の無い友清と九鬼が、そこに呼び出されたわけであるが、二人は本田の語る託宣の内容に感動し、驚愕する。そして、これは本物であると確信するに至る。
そして、神は霊媒の本田を九鬼にゆだね、審神者(さにわ)の役を務めるように命じたのである。
こうした九鬼の古神道関係の記録は、「惟神本道」という著書に書かれている。
さらに、夏目漱石や平田篤胤の霊も降り、この交霊記録は「未耕地の開拓者」や「本道真義」などにまとめられた。
彼は一種の終末論にも近い思想を持っていた。彼は、「使命を忘れ、迷妄に陥った日本はその報いを受ける。」と。既に大正14年に日米開戦と日本が壊滅的打撃を蒙った後、敗戦することを予言していたと言われる。
しかし、本田との共同作業も大正15年をもって終わる。
その後、各地を転々とした後、自分の娘に霊媒の才能を見て、彼女を霊媒として育てようとしたが、本田ほどの成果を挙げることはできなかったらしい。
その後、彼は多少の門人を育てながら、静かに余生をすごした。
彼もまた、高島(※嘉右衛門)同様に、他人から乞われて易を立てても、報酬を要求することは一切なかった。
昭和16年に、彼は予言していた日本の敗戦を見ることも無く世を去った。
「断易精温」 九鬼盛隆 八幡書店、「断易真義」 九鬼盛隆、「日本神人伝」 不二龍彦 学研
「断易入門」 菅原壮 東洋書店
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/kuki.htm |
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1872~1892
約20年間
『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。 |
スティントン・モーゼス(イギリス)『霊訓』(『The Spirit Teachings』)
『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。
アラン・カーデック(カルデック)の『霊の書』、モーリス・バーバネルの『シルバー・バーチの霊言』と並んで世界の三大通信と言われている。
特長は(1)大小の敲音、(2)種々の光、(3)種々の香気、(4)種々の楽声、(5)直接書記-文字が直接現れた(6)卓子、椅子其他物品の浮揚、(7)物品引寄、(8)直接談話、(9)霊言と複数の人格、霊
スティントン・モーゼスを霊媒とした霊界通信
『霊訓』 HPで解説しているのはどういいう立場の誰??
解説
第一章 幽明の交通とその目途
第二章 健全な生活
第三章 幽明間の交渉
第四章 各種の霊媒能力
われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天の星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それ丈けそう言った人格は尊い。友よ、落ついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心を以て心とせよ。又慈悲深く、寛厚にして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心を以て心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神の僕の克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、聖く、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意を以て之を監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、亦常に温顔を以て之を迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。
第五章 幽明交通と環境
交霊には『肉体が健全で、感覚が鋭敏で、その上心が受動的』な人が選ばれる。
第六章 夫婦関係
第七章 真の宗教
第八章 神霊主義
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イ、自己の肉体を守る。
ロ、自己の知識を開発す。
(三)ハ、真理を求める。
ニ、善行を励む。
ホ、幽明交通を講ず。
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……自己に対する責務。 |
第九章 啓示の真意義
主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、悉くあてはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代の関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』――これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
第十章 進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
※キリスト教の牧師であると同時に強力な霊媒だった。
さまざまなメッセージの送り手が現れ、その数は49名になったが、それを統括するのは「インペレーター」と名乗るものだった。いわゆる「背後霊団」がこの事業を組織的に行なっていたということになる。
署名に添えて十字の印を残した。現在は「心霊研究大学」に1冊欠けて24冊のノートブックのうちの23冊が残っている。
送られてきた内容は牧師として自分の意志にまったく反するものであり、しばしば反対意見を述べたが、それに対してさらに強い意見が送られてきた。…対話体で書かれている。
重要な主題は現存するキリスト教の錯誤や迷妄を正そうとするところにあり、まさにモーゼスのような熱心なキリスト教徒なら飛び上がりかねないような内容であった。
「…われわれの仕事は、イエスがユダヤ教に対してしたと同じことをキリスト教に対してすることである。形骸化した内容を精神的なものとし、新しい生命を吹き込むのだ。」というのが霊団の賢人たちの趣旨である。
あらゆる行為は絶対不変の因果律の支配を受けるが故に「地獄」とは自分の行為がもたらす魂の苦悩の状態であり、それがすなわち「罰」なのであって、神が下す復讐の鞭などではない。日常の幸福は… 宗教的信条とは関わりのないものである。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P191~ |
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| 1875 |
スエズ運河と英国
ロンドンのロスチャイルドは、政府に運河買収の資金を提供。
1875年サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった。この決断をした首相のベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された。
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| 1877(明治10年) |
ライブツィヒ大学物理・天文学教授ヨハン・ツェルナー、ヘンリー・スレードの霊能を調査
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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| 1879.3.14~1955.4.18 |
アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein) |
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| 1882(明治15年) |
心霊研究協会(SPR)設立。初代会長ヘンリー・シジウイック。現在に残る世界最古の心霊研究機関(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表) |
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1863~
1888~
1907 |
長南 年恵(ちょうなん としえ)
明治時代の霊能者、超能力者。現在の山形県鶴岡市出身。本名、登志恵(鶴岡市戸籍研究による)。
20歳のころからほとんど食事をとらず、口にするものは生水程度であったという。また、空気中から神水などの様々な物を取り出すなど、多くの不思議な現象を起こしている。
弟の長南雄吉は、大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役で、雄吉が見た年恵の20歳以後の超常現象などの記録を、後年、心霊研究家の浅野和三郎がまとめて発表している。
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| 1884 |
ヘンリー・セイバートとセイバート委員会
遺言により、ペンシルベニア大学に寄付された6万ドルを資金として、スピリチュアリズム調査研究を目的として出来た委員会
トーマス・ハザードが顧問として加わった。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P148 |
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| 1884 |
ペンシルヴァニア大学内に心霊現象調査のためのセイバート委員会設立。
井上円了「妖怪学」を始める。日本の心霊研究の先駆け
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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1856.7.9~
1884~
1943 |
ニコラ・テスラ
ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)で生まれる。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会司
祭。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。
1880年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見。1881年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営電信局に就職。23歳でプラハ大学を卒業したらしい(その後、エジソン社のフランス法人に勤めたともされている)。
1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用される。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失うこととなる。
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| 1885 |
ボストンにアメリカ心霊研究協会(ASPR)設立。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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1885~
1887~ |
ホジソンとパイパー夫人
ASPRの役員を務め、併せてパイパー夫人の調査をするため、ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ・ペラムと知り合い、親しい友人となった。
1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、英国に招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くのSPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた。
パイパー夫人は、心霊研究史上、最高の霊媒と言われている。彼女は、実に多くの科学者たちの調査実験の対象となって、近代心霊研究成立のために大きな貢献をした。
夫人は1885年に、有名な心理学者W・ジェームズ博士の調査を受け、多大な成功を収めました。それ以来45年間に数百回にも及ぶ調査実験を受けています。
1889~1890年には、オリバー・ロッジやマイヤースの監視の中、きわめて厳格な条件下で88回の実験を受けています。この実験の結果が、オリバー・ロッジをスピリチュアリストに転向させるきっかけとなりました。
1892年、ジョージ・ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼はパイパー夫人の交霊会に登場した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった]。
1897年、パイパー夫人を通じて現れる霊が「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となる。
調査は15年間続いた。
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1888~
1952 |
友清 歓真(ともきよ よしさね)
新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。
元名は友清九吾(ともきよ
きゅうご)。号は磐山(ばんざん)、無方斎(むほうさい)、半仙老人(はんせんろうじん)、如甕道人など。
初期の頃には、天行道人(てんこうどうじん)、未孩子(みがいし)、晩年には玄扈老人(げんころうじん)、安安先生(あんあんせんせい)とも号した。この他に神から授かった神名として気玉彦(おきたまひこ)とも称した。
友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。
また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている)
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| 1889 |
ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール
(en:Max
Dessoir)により「超心理学」という言葉が造語された。
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1856~
1939 |
ジークムント・フロイトと精神分析
ユダヤ系オーストリア人の精神分析家、精神科医。
人間の無意識に注目し精神分析を創始した。
無意識の発見は数多ある人類の発見の一つであるが、「実在」としてとりだせないために批判も多い。しかし、戦争や宗教を考えるに当たっては避けては通れない道である。
フロイトの生い立ちから人生に数々の考えるべきヒントがある、と言う学者もまた少なくない。
フロイトのような心理学者の場合、その人がどのように育ち精神的発達をしたかは、精神分析学を提唱する上でかなり関わってきます。なので、フロイトについて学ぶなら、生い立ちも知っておく必要があるのです。
フロイトは両親がどちらともユダヤ人で、フロイトも当然ユダヤ人の貧しい家庭に育ちました。
とても複雑な家庭で、フロイトが生まれた時、父親であるヤコブ・フロイトは3度目の結婚でした。
なので、フロイトが生まれる前から、ヤコブには2人の息子がいました。フロイトが生まれる頃には彼らの子供が生まれていて、その子供がフロイトにとっては遊び相手でした。
フロイトは甥と遊んでいた事になります。
母親であるアマリエにとって、フロイトは長男でした。その後、男の子が2人、女の子が5人生まれ、中にはユリウスという生後8ヶ月で死んでしまった子もいました。
普通弟や妹が生まれると、上の子は親の愛情を求めて嫉妬したりすることもありますが、フロイトの場合は弟や妹達が生まれた後も、子供達の中で1番かわいがられました。
フロイトは賢い子供でした。
フロイトは多くの書物に目を向け、8才の時にはすでにシェークスピアを原文で読んでいました。
文学、歴史、武勇伝など、さまざまな書物を読むことが好きだったようです。
さらに、ギリシア語、ラテン語、英語など、言語においても優れていたようです。
また、フロイトはユダヤ人であったためさまざまな差別を受けました。 考え方なども大きく関わっています。
フロイトが生まれた当時、オーストリアではまだ「ユダヤ人迫害」が禁止されたばかりで、
まだまだ何をするにも許可がいったり、「よそ者」扱いされる事がたびたびありました。 そしてユダヤ人であった事が、フロイトの人生に大きく関わってきます。
ユダヤ人であったため、嫌な思いをする事もたびたびありました。
例えば、フロイトは電車に乗っていて、
窓を開けようとしたら「見下げたユダヤ野郎!」とはきすてるように言われました。
このことは相当ショックだったらしく、フロイトはその後『汽車恐怖症』になってしまいました。
また、フロイトが父から聞いた話しで、ある日父親が歩道を歩いていると、
キリスト教徒にぶつかられ、帽子を橋の下のぬかるみに投げられました。
「それでどうしたの?」とフロイトが聞くと、何も抵抗せずに帽子を拾って帰った、と言われました。
フロイトは父の行動に対してショックを受けたそうです。
これら以外にもさまざまな差別やショックを受け、フロイトは「いつか見返してやる」という気持ちになったそうです。
そしてフロイトにとって憧れのヒーローはハンニバルになりました。
ハンニバルの父親はハンニバルに、ローマ人への復讐を誓わせました。
父の復讐に燃えるハンニバルが、フロイトにとっては、ユダヤ人がカトリック社会にはむかうようなものと重なって見えたそうです。
フロイトが成長するにつれて、ユダヤ人迫害はますます強くなりました。
そのため、彼は長期にわたって、ウィ-ン大学医学部の講師として働いていましたが、ずっと教授にはなれませんでした。最終的に、フロイトの患者が絵画を文部大臣に献上したので、フロイトはやっと教授になれたのでした。
ナチスの迫害によってロンドンに逃れそこで癌のため亡くなった。
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| 1875~1961 |
カール・グスタフ・ユングの治療法
精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。
フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906-13年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。
またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較、・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「性」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。
・ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。
ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。
晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性(シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。
ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。
ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。
夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している唯一の現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。
夢の分析はフロイトが既に重視していたことであったが、フロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
ユングはフロイトとの決別以後も治療を続けた。ただ、彼は人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的創造力を信頼した。
また、日本のユング心理学はその心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れたことでも知られている。
ユングの自伝
「私は存在したものの、成就したものの束である」
ユングも、その晩年にの臨死体験をしている。彼の場合は、「宇宙との一体感」を語っているわけではないが、自己への囚われや執着からの解放という点ではかなりはっきりとした自覚を持っている。
自伝『ユング自伝―思い出・夢・思想 』のなかで、69歳でのその体験をつぎのように語る。 (自伝は、全二巻に分かれており、この体験が語られるのは二巻目である
ユングは幼少期からかなり特異な体験をしています。牧師の子として生まれながら、伝統に染まったキリスト教徒としての生活には違和感を覚えていました。また、霊的な要素を強く有しており、そうした側面がユング心理学を形づくっていったことは間違いありません。子どものときから自分の中に二人の人格(スイス人の少年としてのNo.1と老賢者としてのNo.2)がいることを自覚しています。
幼少期からたびたび象徴的な夢を見ており、それを詳細に記憶しています。自伝を書いたときすでにユングは80歳を超えていたわけですから、これほど鮮明にそれらの夢を覚えているのは驚くべきことです。
ユングの霊的な素養は母方から受け継いだもののようです。両親の結婚生活はあまりうまくいっていなかったと書いていますが、父は牧師でありながら、本当の意味での霊的な生活や信仰を体験として持っていたとは言い難かったようです。
ユングが精神医学者になることを決意する契機となったのは、自宅で起こった霊的な現象でした。母の隣にあったテーブルがいきなり大きな音を発して割れたり、自宅の棚にしまわれていた鋼のナイフが砕けるという事件があったのです。こうした素養が彼を優秀な精神分析家にした面は少なくないと思われます。
69歳のときに心筋梗塞と脚の骨折によって臨死体験と思える経験をしています。地球をはなれ高みから見下ろしているユングを連れ戻すために、主治医が原初的形態としてやってきます。これで彼は生き返るのですが、そのことに不満を抱くと同時に主治医の命が危ないと危惧します。そして、間もなくその心配どおり主治医は亡くなるのです。
「死後の生命」という章をもうけてそのことについても考察しています。死後の生活について、そういうものがあると欲しているわけではないが、それらは存在し、偏見によって抑圧しなければ、表現力を与えられると述べ、次のように言っています。
----批判的な合理性は、死後の世界についての考えを多くの神秘的な考えと共に、除去してしまったようである。これは、現代では殆どの人が、自分と意識を同一視し、自分について自ら知っていることのみが自分であると考えているためにこそ、生じたことである。
しかし、このような知識がいかに限定されたものであるかは、心理学を生かじりしたものでさえ明らかである。合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。しかし、多くのことが未だに見出されるだろうに、それを、われわれの現在の限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ
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| 1875~1965 |
アルベルト・シュヴァイツァー
・ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。
・30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている。「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれている。
・他に音楽にも精通し、バッハ研究でも有名。
・20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。彼は生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。
・1875年に当時、ドイツ帝国領だったカイザースベルク、(現在のフランス領アルザス・オー=ラン県のケゼルスベール)で牧師の子として生まれる。
・当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類であった。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をして、相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」と叫んだ。これを聞て心に激しい衝撃を受け、「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」と、子供心に本気で苦悩したという。
この時に抱いた苦悩こそ、その後の彼の一生を決定付ける重要な出来事であった。
・7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。ストラスブール大学で、神学博士・哲学博士を取得する。哲学博士の論文は『カントの宗教哲学』であった。
・21歳の時、「30歳までは芸術と科学を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意して、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に学ぶ。これは、キリストが30歳から布教活動を始めたという故事に倣ったものであった。
・38歳の時に医学博士を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。
・41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュヴァイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。
・保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。
・第二次世界大戦後は広島と長崎に原子爆弾を落とされたのを知り、核問題を中心に反戦運動を展開。1953年には、ノーベル平和賞を受賞する。
・晩年もランバレネにおいて医療活動を展開していた。
・1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。
・思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも日本語訳あり)があるが、いずれも一級の研究書として、研究者らに受け入れられている。
・神学者としての著作の『イエス伝』は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価が高い。
・他にゲーテやインド思想などにも言及しており、なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。
・その一方で、一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュヴァイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない。
・自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実である。現に、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため、アフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義・侵略戦争・植民地支配のシンボルと見なしている者も少なくない。とはいえ、「黒人は人間ではない」と見なして露骨に差別・排除する習慣が当たり前であった当時のヨーロッパ全体の風潮と比較すれば、曲がりなりにも白人と黒人を「兄弟」として位置付けていたシュバイツァーの思想はそれなりに進歩的だったとも言える。
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| 1877~1945 |
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| 19~20世紀 |
チャネリング (channeling) とは、常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の存在・神・死者(霊界人)・未来人・宇宙人など)から、特別な能力によって情報を交信すること。チャネリングを行う霊媒者をチャネラーと呼ぶ。シャーマニズムの一種。
古代の多くの聖典と呼ばれる書物は、チャネリングによって書かれたともいわれている。チャネリングは瞑想状態(変性意識状態)で行うことが多いが、それは限定条件ではなく、通常の意識状態でも可能とされる。日本では特にバシャールや神との対話が知られる。また、これを行う人物としてエドガー・ケイシーが知られる。
19世紀から20世紀に掛けてイギリスを中心に西洋諸国に普及したスピリチュアリズムでは、シルバーバーチ、ホワイトイーグルが知られている。チャネラーとして、モーリス・バーバネル、グレース・クックなどが存在した。
スピリチュアリズム
これは新しい時代の科学だった、少なくとも科学の仲間入りをしようとした、ということである。19世紀の科学の誕生と発展を抜きにしては考えることが出来ないことだ。
ナンダ・フォダーは彼の『心霊科学事典』の中の「スピリチュアリズム」の項で、スピリチュアリズムの最も簡潔な定義はかつて全米スピリチュアリスト連盟が採択した「スピリチュアリズムとは、霊媒が霊界の住人たちとの交信によって一般に提供した事実に基づく科学、哲学、宗教である。」と真っ先に「科学」を挙げている。さらに「スピリチュアリズムが『科学』になるのは、霊媒によって提供される事実や幽霊やポルターガイストなどの自然発生的霊現象を調査し、分析し、分類するからである」と言う。…スピリチュアリズムの誕生が当時発展途上にあった科学(特に物理学と化学)と密接に結びついたことは疑いのないことである。
叩音(…)と共に霊界からの通信が送られてきたというのは、当時始まったばかりのモールス符合による電信になんとよく似ていることだろう。実際霊媒たちが叩音と共に降霊会を始め、「叩音霊媒」という名さえもらったのはこの頃だけで、今ではほとんど稀な現象である。また、科学実験の対象として有名な人体や物品の空中浮揚や幽霊の出現などのいわゆる「物理現象」が盛んに起こったのもD・D・ホームが活躍した1850年代~70年代にかけての初期の頃である。
彼らはなぜ夢中になったのか。
「人間はどこから来てどこへ行くのか、という今まで人類が解けなっかた疑問を解決する鍵になるかもしれない」とスピリチュアリズムに期待した…。
30年もの研究の後で言ったシャルル・リシェの言葉を借りれば「私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである」
しかもこの言葉を理解するのに現代まで一世紀以上の歳月がかかっている。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P209~
スピリチュアリズムとキリスト教とは微妙な関係にある。
当時の思想的危機は今日の人間の想像を上回るものだったと思われる。唯物論が盛んになって、今まで平穏だったキリスト教社会を揺るがせ始めたのだ。唯物論を推進した最大の原動力は進化論だった。…。それに加えて『共産党宣言』や『資本論』の発表…世はまさに唯物思想一色になるのではないかと思われた。これに真っ向から立ち向かったのがスピリチュアリズムである。人間の魂は肉体とは異なり霊界に根拠を持ち、霊的に進化したものだという考えは、同じ「進化論」でも根本的に違う。一方スピリチュアリズムはキリスト教会に不満を抱くものの福音ともなった。その最大の理由は神の罰が無いことである。スピリチュアリズムの説く死後の世界では同じ考えや好みを持つ者同士が集まって社会を作る。…。人間同士が地上の思いを死後まで引きずってきて自分で作り出す因果応報の世界なのである。したがって「最後の裁判」のような神の怒りと罰などは無い。神は常に愛の心を持って人間を救おうとしているというのがスピリチュアリズムの霊界である。
死後の世界でも人間はすべて自分に責任を持たねばならない。神の指図ではなく、自分の考えと行為とが霊界における自分の立場を決める。その人間の魂の精進によってより高い世界に行くことが出来るので、神の世界に近づこうと永遠に努力を続ける。これがスピリチュアリズムの「進化論」である。
ナンダ・フォダーは『心霊科学事典』の「スピリチュアリズム」の項でコナン・ドイルの次の言葉を引用している。
「スピリチュアリズムはどの宗教の中にも入って行けない者のための宗教である。」
「どの宗教を信じていても、その信仰を強める働きがある。」
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| 1891 |
二宮 尊徳(にのみや そんとく)
天明7年(1787年) - 安政3年1856年)
没後の1891年に従4位が追贈された。 |
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| 1891~1892 |
ユーサピア・パラディーノとダミアニ夫人とキアイア博士とチェザーレ・ロンブローゾ
ユーサピア・パラディーノはナポリ在住の女性霊媒
それまでに著名になったのは主としてイギリスとアメリカだった。
キアイア博士から手紙をもらった犯罪心理学者のチェザーレ・ロンブローゾが数人の科学者と共にナポリを訪れ、ユーサピアの霊能を調査。
彼女はインドのゴム人形のように奇妙な人体部分を作り出す新種の自動創生装置です。いったい彼女には幾つ手足があるのでしょう。…
彼女をめぐって17回にも及ぶさらに大掛かりな実験が行なわれた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P149~ |
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| 1892~ |
地質学者のアルベルト・ハイムと臨死体験の研究
というのは、欧米ではが登山時の事故で自身 臨死体験したことをきっかけに行い
1892年に発表し先鞭をつけた。
その後、アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが1918年に、
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto
Bozzano)が1923年に、
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが1926年に、
それぞれ無関係に研究を発表したものの、その後1970年代までは(ごくわずかの例外を除いて)研究は途絶えた。
⇒エリザベス・キューブラー・ロスやレイモンド・ムーディへ |
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本居宣長
山岡鉄舟
晴れてよし、くもりてもよし 富士の山
もとの姿はかわらざりけり |
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| 1892 |
アルベルト・ハイムと臨死体験の研究
欧米では地質学者のアルベルト・ハイムが登山時の事故で自身 臨死体験したことをきっかけに行い1892年に発表し先鞭をつけた。 |
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1890年代
~1900年代 |
『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)
・「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。
・1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。
・ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ドイツのナチスに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」とも呼ばれている。
・この文書は1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている。そして、1890年代末から1900年代初めにかけてロシア帝国内務省警察部警備局により捏造されたとする説が有力である。1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死したため(実は原因は伝染病)、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。
・ロシア革命によって、日本を含め世界中にこの文書は広がった。一般人だけでなく、ヒトラーやヘンリー・フォードなどもこの文書を熱狂的に支持した。ロシアではソビエト時代になると発禁本とされた。
⇒日本への影響は1918年へ
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| 1892年(明治25年)~ |
出口なおと大本(おおもと)教
出口なおに降りた国祖・国之常立神の神示を立教の原点とする教派神道系の教団⇒出口王仁三郎へ
明治25年(1892年)2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」と呼ばれるものへとなって行く。
大正5年(1916年)10月の神島参拝で、出口なおの筆先に「未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊・・・」という神示があり、これによって出口なおは、婿養子の上田こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る。教団では、この時を境に未見真実から見真実となったと言われているが、なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある。
出口王仁三郎-『伊都能売神諭』
大本神諭(おおもとしんゆ)
お筆先を編集した文書集 1892年(明治25年)、現在の住居表示で言うところの京都府綾部市本宮町に住む女性、出口なおに、艮の金神(うしとらのこんじん)という男性の神格を表す高次の神霊が神懸りし、出口なおに筆と紙をもたせ、その神霊が出口なおの身体を駆使して文字を記していくという現象自動書記があったと伝えられている。その量は膨大であり、半紙にて5万枚以上にも及んだと伝えられている。 当時、行政当局により宗教法人設立が厳しく監視され制限されていたので、出口なおは一時同じく神道であるところの金光教の地方教会の世話になり、名を借りて活動を進めていた時代があったと記録されている。その後、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が活動を補佐するようになって組織的に発展していった。宗教法人大本(以下、大本と略す)では、このとき書かれたものをお筆先と称して、大本の最高聖典となって残されている。
大本神諭は非常に疑問の多い文書である。この文書は実際、出口王仁三郎のみにしか、筆先の編集作成は出来ないとされていたにも関わらず、海軍出身の浅野和三郎が筆先から神諭への編纂に携わったという逸話もあり、その真偽が問われている。浅野和三郎が編纂した箇所がどの部分で、どれだけの量、またはどれだけのパーセンテージで編纂したのかは正確に判明していない。つまり、それは大本神諭が艮の金神を含めた神霊たちのそれであるという確証は薄らいでくることを意味している。
また、出口王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である出口王仁三郎も疑問に満ちたことを発言している。 『年月日と組立等を、開祖なおに尋(たず)ね乍(なが)ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』
ということを大正8年、京都府警に発言しているが、この発言自体が物議を醸している。
神諭は筆先がベースであるとは公然として発表されることでありながらも、この発言内容をみると出口王仁三郎の創作であるという可能性も浮上してきており、大本にとっては大本神諭の存在意義そのものが疑問視される。
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| ~1893 |
フォックス姉妹晩年のスキャンダルと3姉妹の死、そして『スピリチュアリズムに対する死の一撃』
長女リーをはじめとしてケイト、マーガレットと続いて他界した。
ナンダ・フォダーによれば死の床にあったマーガレットを看取った女性医師の証言が1905年のニューヨーク法医学会の会合であったそうで、手も足ももはや動かすことのできぬマーガレットの霊界への問いかけに対して天井から、壁から、叩音が鳴り続けたという。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P199~ |
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| 1896 |
宮沢賢治と三度の大地震
宮沢賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。
誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。
死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。
誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。
地震直後に詩人の大木実へあてた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。 |
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1879.12.30~
1896.6.17
~1950.4.14 |
ラマナ・マハルシ
・南インドのタミル・ナードゥ州のマドゥライ市のティルチュリ村で生まれる。
ヴェンカタラマン・アイヤルと名付けられる。生家は現在、父の名スンダラム・アイヤルにちなみスンダラ・マンディランと名づけられ、聖なる場所として残されている。
・1896年6月17日、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、肉体を自分とみなすエゴとしての「私」が消え、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(アートマン)または真実(理)こそが私であると悟る。
・土日ごとに寺院を訪れ、熱烈な宗教的な喜びをもって寺院の周りを回る敬けんな性格であったが、特別に宗教的な書籍に親しんだり、瞑想などの修練をしたことはなかった。
・同年8月末、巡礼都市であるティルバンナーマライの古来よりシヴァ神の顕現とされるアルナーチャラの丘に呼ばれるように家を出て、生涯をアルナーチャラから離れることはなかった。ティルバンナーマライに来た当初、沈黙を守っていたが、自然とその存在は知られるようになり、次第に多くの人々が訪れるようになった。
・ラマナ・マハルシという名前は、1907年ごろに訪問したガナパティ・サストリによって命名され、以後広まった。最初の頃は、アルナーチャラの周辺にある寺院や洞穴に住んでいたが、1922年12月ごろから、アルナーチャラのふもとにある、母親のアルガンマルのお墓がある場所に定住し、そこが現在のラマナ・アシュラムに発展した。
・午後8時ごろに死去。亡骸はサマーディ・ホールの地下に安置されている。現在のアシュラムはマハルシの実弟の孫にあたるV.S.ラマナンにより管理されており、世界各国から訪問する信奉者を受け入れている。
・マハルシの教えは、不二元論にたどれるが、自身は何らかの思想や哲学を教えているという思いはなく、ただ自らの体験を語っていた。難解な聖典の教えを、その本質を把握して明確に説明することができ、数多くの質問者の疑問を晴らした。
・言葉での教えより、モウナ(沈黙、静寂)こそが最も力を持っているとたびたび語っている。ここでの、モウナは単に言葉を発っさないことではなく、こころがその源(真我)に溶けこみ、別に存在していない在り方を意味している。
・マハルシは、モウナは「永遠の雄弁」であると表現し、言葉を発することはその力の妨げになると言っている。実際に、マハルシに会いに来た人が、目と目を合わせるだけでこころが落ち着き、今まで味わったことのない幸福感に包まれたというような話が、マハルシとの思い出を収録した『FACE TO FACE WITH SRI RAMANA MAHARSHI』などの本の中でよく語られている。(Wikipediaの写真を見て納得!!)
・「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、エゴが消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我こそ私であると悟る。これは、ヴィチャーラ・マッガ(探求の道)またはジニャーナ・マッガ(知恵の道)と呼ばれる。この悟りは、常に自らが真我であることに気づくことであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。探求は、真我を見えなくしている障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議とあらわしている。
・悟りへのまっすぐなもうひとつの道として、バクティ(献身、帰依)も教えている(バクティ・マッガ)。バクティは神などの至高の存在に自分自身を明け渡す(委ねる)ことである。その達成において、自分自身の欲望は完全に消える。バクティとジニャーナには優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質による。マハルシは、バクティはジニャーナの母という表現をしている。ちなみに、神・師(グル)・真我は同じものの異なる呼び名である。
・他の修行の道を否定せず、自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。『ウパデーサ・マンジャリ(英:Spiritual
Instruction)』のなかでストゥーティ、ジャパ、ディアーナ、ヨーガ(プラーナーヤーマ)などが説明されている。それらの伝統的な修練でつちかった一点への集中力は、真我の探求を容易にする。
・マハルシは、真我を悟るために、大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。今世で修練なくして悟ったものは、前世ですでに必要な修練を終えているからである。悟るための助けになるものとして菜食(ニンニクなどは除く)を最も優れたものとして勧めている。菜食により、心に落ち着き(サットヴァ)の性質が増す。
・マハルシの教えは、ヨーガの一種として、ジニャーナ・ヨーガとあらわされることもある。ジニャーナは、「Knowledge」と英訳され、日本語では「知識」や「知恵」となる。このジニャーナは主体(私)が対象を知ることで得られる相対的な知識とは異なり、主体と対象という二元性を越える「真我もしくは神以外何も存在しない。私や私のものは存在しない」という体験的知識である。この絶対的な知識も含め、すべての知識は最終的に放棄される。絶対的な知識は無知を破ることで役目を終える。
・アシュラムの周りに住む動物にたいして優しく接していた。アシュラムの敷地内には現在もマハルシが作らせた鹿、カラス、犬、牛のお墓が大切に残されている。アシュラムで飼っていた牛のラクシュミが亡くなった際、マハルシはラクシュミは真我を悟ったという内容の詩をうたった。
・聖者として特別扱いされることを好まず、平等を重視していた。食事のお布施のある場合は、かならず皆で平等に分配し、特別に自分だけに用意された食べ物は受け取らなかった。自分の食事が人より多く盛られているのに気付くと、厳しくしかった。医療もアシュラムに住む人が自分と同じ扱いを受けられるようになってはじめて、受けるようになった。
・キリスト教やイスラム教をはじめとする様々な宗教・宗派にたいして非常に寛容であり、宗教間の優劣を説かず、それぞれに通底する真理を説いた。対話しに来た相手の信仰を傷つけないで導くよう配慮していた。 |
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| 189712.4~1963 |
岡本天明と日月神示(ひつきしんじ)
・神典研究家で画家
・日月神示は明治30年12月4日~1963年(昭和38年)4月7日に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊より自動書記によって降ろされたとされる神示、神典である。原文はほとんどが漢数字、かな文字、記号の混じった文体で構成され抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。
・その難解さから当初は書記した天明自身もほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者の協力などで少しづつ解読が進み天明亡き後も妻である岡本三典、1917年(大正6年)11月9日-2009年(平成21年)6月23日の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われている。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれている箇所もあり解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的で、その為に仮訳という副題を添えての発表も有った。
・日月神示の構成は本巻38巻と補巻1巻の計39巻から成る。
・別名「ひふみ神示」または、「一二三神示」とも呼ばれる。
・上記の他にも神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻有り、天明は「これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかった。
・1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになった。
三千世界の大洗濯と大峠
神示には過去にも世の建替は6度あったとあり、今後に起こるとされる大建替で7度目だという。そして、これが最後なのだとも書記されている。過去6度のそれぞれについてはその全てが現界のみの建替でしかなかった為に、すぐに元に戻り根本的な大建替にはならなかったのだという。そして、今後に起こるとされる大建替では過去にあったそれらとは全く異なり、この現界はもちろんの事、神界、霊界、幽界等も含めた全ての世界に起こり、天明が最初に麻賀多神社の社務所で書記させられたように、文字通り「この世始まって二度とない苦労」になるのだとされる。
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中矢伸一 |
1900
心霊研究の黄金時代終わる |
SPR初代会長ヘンリー・シジウイック死去
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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| 1900 |
ヘレン・ケラー
ラドクリフ大学(現ハーバード大学)へ入学。
Life is either a daring adventure or
nothing.
「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か」
・ヘレン・ケラーにスウェーデンボルグを紹介したのは「ジョン・ヒッツ」という人物である(故鳥田四郎牧師はジョン・ヒッツを「牧師」と呼んでおられるが、彼が牧師であったかどうかは定かでないことから、敬称を省略する)。ちなみに、このヒッツという人物、ヘレン・ケラーの伝記類のほとんどに登場してこない。唯一『世界の伝記42 ヘレン・ケラー』(山主敏子著 ぎょうせい)にその関係が書かれていた。本書を参考にヘレン・ケラーがスウェーデンボルグを知る経緯について要約して紹介する。
・幼い頃からヘレンは、この世のすべてのものを創造したのは誰だろうという疑問を持っていた。それに対してサリバンは、「母なる自然が創った」と話して聞かせていた。最初はそれで納得していたヘレンであったが、自ら手に触れるものには「みんな生命がある」と感じ、創造主に対する好奇心は増すばかりであった。そして神について考えるようになり、フィリップス・ブルックスという神父から「神は愛なり」というキリスト教の教えを学んだ。しかしそれでもヘレンは神の愛と「物質世界」との関係がはっきりつかめずにいた。そんな時、ヘレンはジョン・ヒッツに出会うのである。十三歳の時であった。これから先のエピソードは『世界の伝記』からそのまま紹介する。
・ヘレンはこの人から、スウェーデンボルグの『天国と地獄』という本を貰って読み、すっかりその思想に魅せられて、スウェーデンボルグの考え方をもっと研究したいと思い、ヒッツに頼んだ。ヒッツはヘレンの役に立ちそうなものを点字に打って、送ってくれた。
・ともあれヘレンは彼の宗教書にすっかり心酔してしまった。彼女は自分もまた霊的な体験を持ったと信じ、それをサリバンに語ったこともある。 日本スウェーデンボルグ協会 HPより
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1877~
1901~
1945 |
エドガー・ケーシー(アメリカ)
7・8歳の頃-両親に”人の姿をした幻”を見たり、彼らと話したりすることができると話している。最近死んだばかりの親戚が現れて彼の生まれる前に起こった事柄を教えてくれたと言って両親を面食らわせることもあった(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P22~)
9歳の頃、ついに父親は息子に新品の聖書を買い与えた。…
祈る機会さえあれば「病人を癒す機会が与えられますように」と少年は神に訴えかけた。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P22)
13.4才のころに「神がもし自分のことをちゃんと見守ってくれているのなら、その証を示してください。」「これこそ神の愛の表れにほかならないというようなことを、人々
のために、自分ができるようになりますように」と祈っていたという。⇒この祈りの最中に最初の不思議が起きる。
いつもの隠れ家で聖書の「マノアの夢想」を読んでいると、突然ハミングが聞こえ、…光輝く姿(※女性)が見えた。「汝の祈りは聞き届けられた。汝は何を欲するのか」
敬虔な気持ちで答えた。
「病気の人々、とりわけ病気の子どもたちの助けとなることを。また、仲間たち、人々を愛することを……」後に彼は「汝が正しく力を使う限り、人助けをするための力が与えられるだろうと、そのとき告げられた」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P24~)
1901年3月31日父母の見守る中で催眠術の暗示を受けて自分の声を取り戻すための治療法を試した。アラン・レインという催眠術師も立会い、声が戻った。このことがホプキンスビルの新聞に報道された。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P28~)
彼の得意とする手法はリーディング。
まず、彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識を引き出す。
次に、それに基づいて個人の体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。彼のリーディングの(速記等の)記録は約14000件(1901~1944年の間に全16000件以上)にもおよび、米国のAssociation
for Research and Enlightenmentで利用可能な状態で保管されている。彼の表層意識が答えているわけではないので、予言者というより、治療者・回答者であるとされる。
そして、未来のことは確定しているわけではなく、人の意思にかかっているときっぱり言い切っている。「眠れる心霊診断家」。
第二次世界大戦の勃発と終戦をズバリ予告
「もし人々が祈り、また祈ったように生きるならば、無事に過ぎるだろう」という神の声であったが、その声は人々には届かなかった。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P34~)
1910.8.10娘を助けてもらったもののお金を受け取らないケイシーに対し、C.H.ディートリッヒは感謝の気持ちを公証人作成の口述書にすることにした。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P69~)
この仕事(リーディングのこと)の動機が邪悪な場合は、逆にエドガー・ケイシーの肉体は危険にさらされることになるというのだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P74)
ケイシーはリーディングが本当に神の意志に従うことなのか、自分が本当に神の意志を伝えるに相応しい人物なのか、という問題について、生涯、疑問や不安を持ち続けていたが、家族にふりかかった問題を解決したときには、無条件に自分の幸運に感謝した。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P77)
近年彼の方法でALS、リウマチ、MS、エイズ、パーキンソン病、がんなど難病を治癒した人が何人も出てきている。また、彼の方法を利用しがんなどの手当てをしている療法に、ホクシー療法がある。この彼が言った心、体、魂を治し健康な体と精神をこの世に存在させる療法をケイシー療法と呼び、それを応用しているクリニックも米国にある(AREクリニック)。
ケンタッキー州ホプキンスビル出身。 幼少期より予言を行い始める。 保険のセールスをしていたが、咽頭をこわし、会話がままならなくなり写真家に転向。
ノストラダムスやジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われているようだが、彼の予言者的な部分は一部分であり、半数以上が病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるもので自己治療に貢献している。
ケイシーの勧める物理療法は大きく分けて4つ。ケイシーの死後もレイリーがそのリーディングを研究。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P140~)
1923年にオハイオ州に住む裕福な印刷会社の経営者アーサー・ラマーズが「人生の意味はそもそも何なのか?個人の才能や欠陥、罪や徳は一体どうして現れるのか?生まれたときから死ぬときまで、人間に不平等がついて回るのはどうしてなのか?…」これがのちの2500件にのぼるライフ・リーディングとよばれるものの始まりとなった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P88~)
1923.8.10アーサー・ラマーズの依頼を受け、「生まれ変わり」の事実を語っている。
リーディングができるようになったのは”神の意志”によると考える以上、それぞれの時点ではどんなに”常識”に反するように感じられたとしても、謙虚な気持ちで受け止めるべきであるという結論を彼は出していた。このエドガー・ケイシーの大決心によってわれわれは人類誕生の謎も、現代の人類が抱える危機をも知ることができたわけである。
リーディングによれば、すべての人間は、利己的な心を捨て、自分より不幸な人を助けたいという気持ちを持ち続けることによってのみ、自分の可能性をフルに開花させることができるというのである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P145~)
1936.6庭園を耕していて真昼の幻影を見、書斎にこもり、何時間も後に姿を見せたケイシーは第二次世界大戦が近づき、何百万人もの死者が出る兆候があったと説明した。それは、意識のある彼に対する神からの緊急メッセージだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P102~)
1936年
「地球が神の地上として真理で満たされた時代に、この肉体、エドガー・ケイシーは復活され、浄化され、解放されよう。」つまり、この時こそケイシーはこの物質現象界へ輪廻転生してくる必要性から解放される。
ケイシーと妻と秘書の3人が医師の資格がないのに医療行為をしたとしてデトロイト警察に逮捕され、判決が出た夜に夢を見た。
「汝の同胞になすことは、汝が汝の神と汝自身になすことであるゆえ、汝が自我を捨てて他人に尽くすなら、神は汝に栄光を与え、汝の行為と汝の同胞との関係において『解放者』としての資格を与えるだろう。忘れぬように心せよ。どんな裁きの時も、誘惑の時も、神は常に汝の側におられることを。また、汝が滅びることを望んではおられないことを。意志を強く持て。神は常に汝とともにおられる。恐れてはならない」
すべての結果には原因がある。
もし、人が現在の自分の考えや行為は、前世の代償を払わされているのだと感じたとしたら、カルマの法則に諦めを感じるのではなく、将来(来世)のために正しい生き方をしようという勇気が湧いてくるに違いない。
カルマの法則の目的は、モラルを高め、精神的な成長を助けることにある。
カルマは”生きる条件”を作り出しはするが、そこから自分に相応しいものを選択して行動に移すのは人間の意志である。その意志の力によって、その霊魂が前世で作り出したカルマ的パターンも変えることができる。
カルマには各集団に共通なものがある。民族・人種にもカルマがある。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P158~)
宇宙に最初に存在したのは唯一の精神(スピリット)であった。心の力、生命のエネルギーの巨大な海が全宇宙のすみずみにまでいきわたっていた。それは全知全能で、すべての根源であった。「宇宙の力」「すべてのもの」「生命のエッセンス」--こうした言葉で表されるものが永遠の神であり宇宙と人間生成の「第一原因」であった。
「第二原因」は願望であった。精神は活動し、自分自身を自分の外へ発展させることで個々の生命のうごめきを示し、いろいろな形に自分を現す。この生命の震えの中にアミリウス=光が生まれた。光こそ、精神が最初に形をとって自己を現したものである。…
最初の創造物は”考え”である。
光は自由な意志と理性を付与されていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P168~)
すべての物質は精神を持ち、その精神は、創造者と別だとはいえ、創造者の意志を体現したものであった。
創造の力は宇宙全体に及んでいる。
第一の法則は愛。
第二の法則は繁殖。
第三の法則は進化、成長、発展
意識のレベルとして3つのものを生み出した。
第一の意識
第二に潜在意識⇒記憶の貯蔵庫、第一と第三の意識の架け橋となる。
第三に超意識⇒魂そのものとつながる
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P171~)
現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。
核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。
人類のカルマ、神のカルマ
「…。神が障害を取り除いてくださるかもしれない。それはあなたが信仰、愛、忍耐、親切、柔和を持った時である」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P184~)
1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)
「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。
ライフ・リーディングは2500件を数え…、…ありとあらゆるテーマについてリーディングを与え、トータルでおよそ50000ページ近くの資料が今に残されている。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P29)
・宇宙について
ケイシーの説く輪廻転生によると、私たちは死後、それまでの霊的成長に応じて、また次回の転生に必要な精神的特性を培うために、ほとんどの人は太陽系内のいくつかの惑星に霊的次元において滞在する。 これは太陽系内のそれぞれの惑星が、魂の成長にとって必要な学びの場を提供してくれるためである。
現代に生きる私たちは、平均すると数十年から数百年の周期で生まれ変わっている。 この転生期に、私たちは平均して4つくらいの惑星に滞在するという。 ただし、この惑星滞在はあくまで霊的次元の話であって、肉体をもって各惑星で生活しているわけではない。
『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』より |
エドガー・ケーシー
『奇跡の生涯
』
エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について |
| 1901 |
マイヤーズ病死
人間の意識を顕在と潜在(サブリミナル)とに分けて考察した最初の一人。
複数潜在意識説⇒1903年に遺著『人間個性とその死後の存在』出版 |
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| 1901 |
ミルトン・エリクソン(Milton H〔yland〕 Erickson,
催眠療法家として知られる精神科医、心理学者。 彼はアメリカ臨床催眠学会の創始者で、初代会長も勤めた。アメリカ精神療法協会、アメリカ心理学会、アメリカ精神病理学会などのメンバー。晩年は催眠の臨床性・実践性向上のため、精力的にワークショップを開き世界各国を行脚した。にもかかわらず、日本への訪問は3度目のポリオ発病のため、ついにかなわなかった。そのため、日本人で彼の教えを受けた人間は高石昇、柴田出など数少ない。
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| 1905 |
ポーツマス条約と小村寿太郎
1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを
日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 |
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| 1905 |
シャルル・ロベール・リシェ(Charles Robert Richet)はフランスの生理学者。
1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父
心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の会長もつとめている。
1893年には話題になっていたイタリア人霊媒エウサビア・パラディーノを調査する過程で、ギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせて「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。
・晩年の感想-「私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである。」『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P25
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| 1906 |
地球の平均気温上昇問題が始まっていた。
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0220a/start.html |
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| 1902~1925 |
ルドルフ・シュタイナー-神秘学など(ドイツ)
20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた。
アントロポゾフィー(人智学)発展の第一段階 1902~1909
1900年代からは神秘的な結社「神智学協会」に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。
「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同会を脱退。自ら「人智学協会」を設立した。「アントロポゾフィー」(人智学)という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。
シュタイナー教育、バイオダイナミック農法
アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
晩年 1924-1925
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う。(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後のは人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)⇒いかにして高次の世界を認識するか |
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1904.2.8~1905.9.5
日露戦争 |
日露戦争とロスチャイルド家
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争
日本が戦争を行う際、膨大な戦費をまかなうため日英同盟を根拠にして外貨建て国債をロンドンで発行した。当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を断わったが、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフを紹介した。そして、氏が支援を申し出たため、外債募集に成功した。
日本は戦争に勝ったがロシアから賠償金を獲得できず、ジェイコブ・シフに金利を払い続けた。この為に、「日露戦争で最も利益を得たのはジェイコブ・シフ」と言われ、一時はジョン・モルガンのモルガン財閥と並立する存在になった。
バクー油田
一方で、ロスチャイルド家はロシアの石油開発に巨額の投資を行っていた。
バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭には、世界の石油生産の過半を占めた。
この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼルバイジャン人やアルメニア人の政治・経済・文化活動の中心となった。アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『ノーベル兄弟石油会社』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。
この活況は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧まで続いた。 |
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| 1904~81 |
オンム・セティ
本名をドロシー・ルイーズ・イーディーというイギリス人白人女性。
オンム・セティとは、「セティの母」という意味である。彼女は一度結婚し、セティという名の一人息子がいた。その息子の名は、3千年前の恋人、セティ1世からとられたものである。
彼女は、3歳の時に自宅の階段で転げ落ちて意識を失うという事故に見舞われた。 かけつけた医師は、両親にドロシーの死亡を告げたが、奇跡的に息を吹き返したという。
この事故を契機に、古代エジプトのヴィジョンを見るようになる。
やがて自分が三千年前に、エジプトのアビドスの神殿の巫女であったこと、そして時のファラオのセティ1世と道ならぬ恋に落ち、彼の子を身ごもってしまい、巫女の身でありながら妊娠したことを追及され、相手の名前を告げることなく自殺したという事実を知ることになる。
さらに、三千年前の恋人であったファラオのセティ1世の霊と交友、対話するといった前世体験を、その死の時まで持ち続けたのである。 また、古代エジプトの宗教を信じ、三千年前と同じように、神殿に香や供物を捧げ続けたのである。
その晩年は、収入も財産もほとんどなく、質素な服をまとって、掘っ立て小屋でネコやガチョウと同居しながら送った オンム・セティの表の顔は、エジプト考古局の職員であり、ヒエログリフを解し、高度なドローイング技術を持ち、セティ一世神殿のレリーフの理解度の深さにおいて、エジプト学者たちから一目置かれる存在であった、という。 とはいえ、その生涯は、傍目には、決して幸福といえるものではなかったようだ。 |
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研) |
| 1910 |
福来友吉が念写発見
四国、丸亀にて長尾郁子念写事件 |
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| 1912~ |
ウッドロウ・ウィルソン
第28代アメリカ合衆国大統領 |
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| 1912.4.14 |
タイタニック号
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(他に1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)であり、当時世界最悪の海難事故であった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
事故の前に巨大船沈没の詩や小説が発表され、ウィリアム・T・ステッドはタイタニック号の乗客として事故死。短編小説『アドミラル号』が発表され、その細部があまりに一致していたため、事故後に書かれた小説だと勘違いされたほどだった。
予知的小説として、1898年に発表されたモーガン・ロバートソンの『タイタン号の遭難』が最も的中率が高いとされた。⇒モーガンは後にピストル自殺
「タイタニック号のシンクロニティ」として数々の不思議な一致が起こっている。
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1912~1995
83才没 |
スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生)
・元キプロス政府印刷局の労働者だった男性
・スピリチュアリズムに関わる人々の間では「ザ・ヒーラー(世界一のヒーラー)」
・「20世紀における最も偉大な霊性の教師」と呼ばれ、最大限の尊敬を集めている人物。
・彼は生涯を通じて無償で多くの人々を癒し、無条件の愛を示し続けたヒーラーであり、霊的な真理を教え続けた教師でした。
・ダスカロスは1912年、キプロスという島国に生まれ、95年に亡くなるまで首都ニコシアにほど近い、ストロヴォロスで生活
・自分の名前が知られないように努めていた彼は生前から、周囲の人々にただ「ダスカロス」 ( ギリシャ語で「先生」を意味する ) と呼ばれていました。
・幼少期から目に見えないガイドと会話し、またごく自然に他人の考えていることがわかった。卓越した意見を述べて大人を驚かせることも多く、小学校ですでに先生たちの学問上の問題を助けることもあった。
・すべての過去生を覚えていて現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、トルコ語、ラテン語、ロシア語、英語、フランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラム語、そして古代エジプトの象形文字など数多くの言語に通じ、イギリスに留学した際には、哲学博士と神学博士その他の学位も取得しています。
・キリストであるジョシュア・イマヌエルが生きていた時代に最年少の弟子だったダスカロスには、生涯を通じてヨハナン ( 福音書の著者であるヨハネ
) が霊的なガイドとして連れ添っていました。
・立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生するなど、奇跡のようなヒーリングを行なうこともできました。しかし、ヒーリングは聖霊によってなされるもので自分はそのチャンネルにすぎないと考えるダスカロスは、大勢の人を癒しながら決して謝礼や治療費を受け取ることがなかったといいます。
・彼の家はそんな噂を聞きつけた人であふれ、時には一日に80人以上の人々が癒しを求めてやって来ることもありましたが、ダスカロスはどんな時も拒むことなく人々を受け入れ、“神聖なる計画”の一部である本人のカルマが許す限り、その人は必ず癒されたそうです。
彼が行なう驚異的なヒーリングを目にして「奇跡だ!」と騒ぎ立てる人も少なくありませんでしたが、そんな時、決まってダスカロスは「奇跡でも何でもない。自然の法則を知っていれば、誰にでもできることなんだ」と語り、また人々が感謝しようとすると、いつもこう言って遮りました。
「私ではなく、神に感謝してください」と。
・世界中から様々な人々が教えを求めて訪れました(多くの著名な霊的リーダーたちが欧米から彼のもとを訪れました)。しかし、こうした“教え”に関しても、ダスカロスは「自分は単にヨハナンや他のマスターたちのチャンネルに過ぎない」と強調していました。
・また口ぐせのように「真理の探究者にとって、名声とは罠なんだ」と語り誰にも自分のことを書かせず、インタビューも受けつけませんでした。こうして彼は細心の注意を払って脚光を浴びる危険性を避けながら、83年の生涯を他者への愛に捧げ、市井の人として生きたのです。
・そんなダスカロスが、取材の申し出に「(ヒーリングや教えについて)私の手柄にしないという条件を守るなら」と名前を伏せて書くことを許可した唯一の相手、それが過去生からの縁があったキリアコス・マルキデスでした。アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)は85年に出版されると欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えました。
・ダスカロスは第一級の覚者であり、真のヒーラー、魂の医師でしたが、中でも人生の関心事は周りの人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある人々の手助けをすることだったといいます。
・そのため、彼は定期的に「サークル」と呼ばれる勉強会を開き、“旅立つ準備のある人々”を対象に、自由な雰囲気の中で真理について、聖霊との共同作業であるヒーリングや精神修養の具体的な方法について、やはり無償で教えていたのです。
・このサークルは彼が亡くなった今も世界的に広がり、欧米を中心にたくさんのサークルが、ダスカロスの遺した著作や講義のテープやビデオを使っての自主学習を続けています(ヒーリング同様、天から受け取ったものは無償で与えるべき…、というダスカロスの教えに従って、これらのサークルも無償で運営されています)。
・また、生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めませんでした。それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからでしょう。
・ダスカロスは矮小化された、特定の宗教的イメージがつきまとう「神」という言葉も極力避け、“絶対無限の存在”という表現を好んで使っていました。真理の探究には宗教や民族の違いはもちろんのこと、時間や場所さえも超越した愛と理性、そして“神聖なる計画”を理解することが重要だと、彼は考えていたのです。
・ダスカロスはよく、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思います。
・ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くうエゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めました。多くの人々にアピールする意識の覚醒、ヒーリングや霊的能力の修得といった華やかな表の部分ではなく、奥深く地道な
― だからこそ確かな力となる ― 真の霊的教えの実践を説いた教師、それがダスカロスだったのです。
・ダスカロスは7歳のときにヨハナンから<7つの約束>を授けられ、その導きによって自分の学校の先生たちを相手にサークルを始めたといいます。
<7つの約束>を読むと厳しい戒律のような印象を受ける人がいるかもしれませんが、これは戒律でも、破ることが許されない誓いでもありません。ダスカロスはサークルに入門する生徒たちを「真理の探究者」(Researchers
of
Truth)と呼んで、7歳のときに自分が授けられたものを、彼らと分かち合いました。それは、真理の探究者ならば心に刻むべき“約束”、それが<7つの約束>だと考えたからなのでしょう。
ダスカロスは7歳の時に、指導霊であるヨハネから7つの約束をさせられます。
彼はその約束を生涯守り抜いたそうです。
7つの約束とは
1、いつどこにいても、私もその一部である絶対無限の存在に、心をこめて奉仕します。
2、いつどこにいても、私には神聖なる計画に奉仕する準備ができています。
3、いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖な贈り物」である思考と言葉を正しく使います。
4、最も賢明なる神聖なる法則が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を言うことなく、忍耐を持って受け入れます。
5、私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意を持って兄弟姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。
6、私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に一致することを目的にして、毎日絶対無限の存在について瞑想し、熟考します。
7、私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか毎晩、確認します。
<7つの約束>の中でも、とりわけダスカロスが重要性を強調したのが、7つめの約束である「内省」です。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも賞賛することもなく、第三者として客観的に点検する。不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる。これを習慣化することによって、「感情と思考をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは考えていたのです。
7番目のエクササイズ
日々の内省は毎晩、眠りにつく前の、潜在意識に入りやすいタイミングで行います。
ベッドに座ってもいいし、眠ってしまわなければ、横になっても構いません。
完全にリラックスして、まず、朝起きた時から順を追って、今日一日にあったことをすべて思い出します。
一つひとつの出会い、出来事をもう一度見つめなおしてください。
この時、自分自身や誰かを責めることなく、客観的な第三者の目で見つめることが大切です。
そして、慈悲と寛大な心を持って、自分自身に次のように質問します。
思ったり感じたりすべきでなかったことで、思ったり感じたりしてしまったことは何か?
思ったり感じたりすべきだったことで、思ったり感じたりしなかったことは何か?
言うべきでなかったことで、言ってしまったことは何か?
言うべきだったことで、言わなかったことは何か?
すべきではなかったことで、してしまったことは何か?
すべきだったことで、しなかったことは何か?
内省の目的は、自分自身や他の人々を責めることではなく
(ましてや賞賛することではなく)ただ公平な目で、自らの思考や行動を観察することにあります。
その上で、気付いた点から自らの言動を改めるように努力しましょう。
こうして内省を続けていくと、だんだんと自分自身を観察することに熟達していきます。
そしてやがて、道徳面においても、霊的、神秘的な人生の側面においても成長を加速していることにづくはずです。
ダスカロスの教えの多くは、かつてキリストが12人の弟子に与えたものと同じ、<エソテリック・ティーチング>(秘儀的な教え)と呼ばれる内容だといいます。
<エソテリック・ティーチング>とは、古代エジプトの時代から高位の僧だけに脈々と伝えられた秘儀・秘教です。なぜ、こうした教えが一般の人々に長く隠されてきたというと、霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうからだとダスカロスは語っていました。
(どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合のダメージや“負債”はいっそう大きくなってしまうのです)
自身も、修養を重ね、着実に意識の覚醒に向かいながら大きく階段を踏み外した人々を、実際にたくさん見てきたのだと思います。
そして、そんな彼らの姿に胸を痛めていたからこそ、「内省」の重要性を説き、<7つの約束>によって日々エゴイズムを減らしながら、急がず一歩ずつ確実に意識の階段を昇っていくように警笛を鳴らし続けたのでしょう。
……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさいと優しく囁き続ける人、それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。 |
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| 1913~ |
ジョージ・ヴェール・オーエン牧師と『ベールの彼方の生活(全4巻)』
キリスト教の牧師であるジョージ・ヴェール・オーエンは聖職者で「霊団」の指示による自動書記によってこの本を書いたことなど、モーゼスとよく似ている。
最初は亡くなった母からメッセージが伝えられたが、そのうち母に代わって何人もの「霊」が通信してくるようになり、1913年にはオーエンの守護霊の「ザブディール」と名乗る人物がメッセージを送ってきた。高級霊たちの一大階層があり、自分は彼らの代表者としてオーエンに霊界の真実を伝えるのだという。
新聞王のノースクリフ卿が感銘を受け、日曜週刊紙『ウィークリー・ディスパッチ』に連載(1920年)売り上げを急速に伸ばしたが、いっさい原稿料を受け取らなかった。この大反響を快く思わなかった英国国教会はこれを快く思わず圧力を加えた。オーエンはついに、自らその職(イングランド北西部のウォーリントン近郊の町の副司祭)を辞した。その後スピリチュアリスト教会の牧師として生活するようになった。
この『ベールの彼方の生活』でモーゼスの『霊訓』と違う点は、
各層に分かれている霊界の構造とそれぞれの状況が詳しく色彩豊かに目の前に浮かぶように書かれていることだ。それと共に宇宙創造の過程を視野に入れた想像力の広さや鉱物界、植物界、動物界、人間界などに関する知識の豊富さ等の点でスウェーデンボルグの記述が彷彿され、この巨人の霊的な影響下で書かれたのではないかという憶測を生んでいる。古典的な文章の美しさも第一級のものだ。
読者は
全宇宙が各界における高級霊団によって組織され運営されていること、
至高の界からの霊的エネルギーによって各界が創造され、統一されていること、
存在の原理である「光」と「波動」が物質や霊にどのように作用し、その進歩にどのように関わっているか
等を知ることができる。また、地獄や極楽の様相についても、実際にその場にいるかのように生き生きと書かれている。さらに霊界の上には光も届かぬほどの遥かな高みがあり、個々の霊の無限の進歩が続いていることを知るのである。 |
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1832.12.24~
~1914.10.17 |
高島嘉右衛門
~1914年(大正3年)10月16日)は横浜の実業家および易断家。
伊藤博文に指南。暗殺も予言
占いは売らない
易と横浜港第二次工事の資金調達のエピソード
明治18年、請われて皇典講究所で行った「神道実用論」と題する講演の中で、嘉右衛門はこう語っている。易を「神と人をつなぐ電信機」と見、「占告神示説」(卦を神のお告げとする説)の立場を貫き通した嘉右衛門の、生涯変わることのない信念だった。
明治21年7月21日の大雨の話 「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」より
自らの死期を予言して位牌を作らせ、持っていた。観相学の大家桜井大路とのやりとりのエピソードが残っている。
高島嘉右衛門 「日本神人伝」不二龍彦著より |
『高島易断』
「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」 |
| 1914(大正3年) |
アルバート・シュレンク・ノティング『物質化の諸現象』を出版
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
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| 1914 |
エヴァンジェリン・アダムズとホロスコープ
・1914年に運勢の占いを禁じていたニューヨーク州の法令違反で告訴されたが、裁判で占星術の正しさを証明し、撤回させたという逸話を持つ。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN
MOOK』・当時開業していたニューヨークの町の「まじないを禁止する」と法律に違反するとして逮捕されたが、裁判所で裁判官にホロスコープを渡され、それを読み解くように言われたという。
・それを、何の予備知識もなしに、ホロスコープを読み解き(裁判官の息子の物で、見事にその性格と人物像について述べた)、これを契機に、占星学はでたらめではないという認識が成立し、裁判で見事勝利を勝ち取った。この実績により、アメリカでは、占星術をいかがわしい占いの類とは一線を画した科学的なものという見解がひろまった。 |
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| 1914 |
宮沢賢治と法華経
1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。
退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。 |
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| 1914~1918 |
第一次世界大戦( World War I)は、にかけて戦われた世界規模の大戦争。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。第二次世界大戦が勃発する以前は大戦争(The
Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in
Europe)とも呼ばれる。当初には諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった。
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| 1915 |
浅野和三郎と三男の病
3男が原因不明の病に⇒女行者に11.4日に完治するとのお告げ
妻の多慶子に霊能、昭和4年には二男新樹の死をきっかけに霊言現象がおきるようになった。⇒『新樹の通信』(約6年間に及ぶ)
英文学者を止めて大本教に入信。
1923.3発起人となって東京に「心霊科学研究会」設立
1925.7大本教脱退
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P276~ |
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| 1918~ |
『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)の日本への影響(⇒シオニズム(ヘブライ語: ציונות,
Zionism 英:ザイオニズム)とはは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。)
・1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。
・シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。
・後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させた
・自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。
・海軍の犬塚惟重も独自に訳本を出版している。
・安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。
・また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。戦前戦中は少年向け小説にもユダヤの陰謀をネタに使った物が多数あり、一般に広がっていた。
・1986年宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた。
・近年でも、太田龍の補訳による『シオン長老の議定書』(2004年)が出版され、反ユダヤ主義者の根強さを語る。
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第一次世界大戦の影響と『レイモンド』ベストセラーに
スピリチュアリズムは一部の社会的に余裕のある人間や好事家や研究者の対象ではなくなり、生活上の必要事となっていた。
戦争で家族のメンバーを失った人々が戦死した肉親と交流したいと願い、霊能者の許を訪れるようになった。
その傾向に拍車をかけ象徴的な出来事となったのがオリヴァー・ロッジの『レイモンド、または生と死』の出版だった。
ロッジは英国を代表する物理学者だった。理論物理学の功績で「サー」の称号を授与され英国における心霊研究の重鎮だった。
『レイモンド』は戦死した陸軍少尉だった彼の息子のレイモンドとの霊媒を通じての対話を柱として書かれたものである。霊界におけるレイモンドの身元証明と霊界で彼が見聞したことを父に伝えるというもので、それを通じてロッジ自身が信ずる死後の世界の存在の具体的な証拠を示そうとするものである。通信を媒介したのはレナード夫人やパイパー夫人という当時最高と言われた霊媒たちだった。
…。霊界にあるシガーや…があまりにも具体的に書いてあるために、ロッジは世間から嘲笑され非難を受けた。親子の情がこういうものを書かせる免罪符となっていいものだろうか、と皮肉る科学者もいた。ロッジはしかし、自分の心霊研究は長い経歴を持つものであり、以前は他人の経験を対象としたのだが、今回は自分自身の経験に代わっただけに過ぎない、自分の立場に変わりはない、と述べている。実際『レイモンド』によって、彼は霊魂説を受け入れる立場を今までになく明確にしたのである。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P202~ |
オリヴァー・ロッジ
『レイモンド、または生と死』 |
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バルフォア宣言とイスラエル建国
ロスチャイルド家は第一次世界大戦の際にユダヤ人国家の建国を約束させる(バルフォア宣言:後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。 |
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| 1917 |
ルシア他3人の幼女とファチマ(ポルトガルの中央部)の大予言
コンノケンイチ-今野健一『月のUFOとファティマ第3の秘密』
縄文人(なわふみひと)解説
2012年の黙示録
7/13以降毎月ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
・第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。
第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
・第三の予言は、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。
私たちは一体何のためにこの世に生まれてきたのか?
私達のこの生の目的は何なのか?
私達はなぜ今ここにいるのか?
私達の存在利する理由は何なのか?
聖母はすぐにそれを教える。
私達は天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、そうすることによって、天主と共なる永遠の福楽を得るために創造された。私達は永遠の生命を得るために生まれてきた。この地上の生活においてただ一つのことだけが本当に重要だ。
つまり、永遠の生命を勝ちうるか否か、ということだ。
私たちの主はこう言われた。
「たとえ全世界を儲けても、魂を失ったら何の益になるだろうか?」と。
そして第三の予言とは。今はそれが明らかにされたが、その中に教皇の暗殺も含まれていた。現教皇は1981年5月13日の暗殺未遂事件ががそれに当たると話しておられる。教皇様は聖母の御保護で、凶弾がわずかに急所を外れたと言っておられる。
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| 1918 |
ジェームズ・ヒスロップと臨死体験の研究
アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが発表 |
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| 1918 |
ギュスターブ・ジュレー-フランス
もともとは内科の医師だったが、若くして生命界を支配する“魂の力”とでもいうべき未知の原動力の存在を確信し、生物の発生や進化の現象は、すべてこの神秘的な力のなせるわざにほかならないと主張した(すでに31歳のときに、このテーマについて著書を発表している)。
ジュレーはやがて自説を裏づける心霊現象の研究に没頭するようになり、1910年代にエバ・Cによる物質化現象を目のあたりにすると、医者の道にキッパリ別れを告げて、心霊研究の道一筋にうちこむようになった。
そして1918年にパリで公の設立をみた「国際心霊科学研究所」の初代所長に迎えられてからは、深い学識に裏打ちされた思想性豊かな心霊研究家として、国際的にエネルギッシュな活動を続けたが、1924年に惜しくも飛行機事故で急逝した。 |
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| 1918~19 |
スペインかぜ
全世界的に流行したインフルエンザのパンデミックである。
感染者6億人、死者4000~5000万人。
発生源は1918年3月米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近。
その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。CDC によれば、既に1915年にインフルエンザと肺炎による死亡率が米国で増加しているが、発生源は依然不明としている。
新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
米国発であるにもかかわらずスペインかぜと呼ぶのは情報がスペイン発であったためである。当時は第一次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり大戦とは無関係だった。
一説によると、この大流行により多くの死者が出たため、第一次世界大戦終結が早まったと言われている。 |
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近代史で習わない
人々 |
水野 広徳(ひろのり)
第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を私費で視察。
戦時下である1度目の視察の後に1917年(大正6年)に東京朝日新聞に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京や大阪が灰になる可能性を早くも指摘。戦後の2度目の際にはその惨状を目の当たりにし、一転して反戦思想家に転じ反戦・平和論を説いた。
1921年(大正10年)には東京日日新聞に文章を発表して謹慎処分を受け、この問題をきっかけに、慰留する海軍を自ら退役。
1941年(昭和16年)2月26日、遂に軍部の執筆禁止者リストに載る。
1945年(昭和20年)、腸閉塞を発症し、10月18日、遺書に「百年後の知己を待つ」と書き残し生涯を閉じた。
高群 逸枝
民間での研究家。母系性、結婚の形態の研究、卑弥呼の時代の姫彦制の研究、母性我的世界観を提言
杉山 茂丸~泰道~龍丸 親子3代
1955年、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。
インドの飢餓を救うため私財を投げ打って植林。グリーンファーザーの異名。
国際会議に出るも日本国と時の首相佐藤栄作の支援無し。
友人に借金の末、大役を果たす。 |
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1859~
1918~1930 |
コナン・ドイル(イギリス)-『人類へのスーパーメッセージ』
1859年生まれ。
イギリスのエディンバラ大学医学部卒業。開業医となるが32歳で執筆活動に専念。『シャーロック・ホームズ』のシリーズは世界的に有名。歴史小説、科学小説でも知られる。
20代のときから心霊学に関心を抱き、研究を続ける。
1918年以降は心霊主義者として執筆、講演などに活躍。
晩年は第一次世界大戦での息子の死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。
交霊会や心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。
そして、コティングリー妖精事件において大失態を演じてしまった。
彼の行動は当然学者であるロッジとは大いに違っていた。「スピリチュアリズムのパウロ」と言われたほどに精力的に世界各地を行脚して回り、講演に、討論に、執筆に、スピリチュアリズムこそは人類の福音であり、愛する者を失った人々の最大の慰めであることを説き続けた。
1916年にはすでに「死者との交流を信じる」一文を書いているが、『新しい啓示』と『生命の言葉』を出版してはっきりとスピリチュアリズムのために闘うことを明言し、伝道の行脚を始めたのは1918年息子が死の床にあった年のことである。
これ(スピリチュアリズム)が心の底から受け容れられると世界の全思想に徹底的変化を与えて練りなおすことになるとに相違ないと知った瞬間から、私は、このことのために働くのはよいことだと思い、またこれと比べれば、私の過去の仕事は無にひとしい、と知った。『ホームズ物語』
あるスピリチュアリストの名誉がSPRの機関誌によって傷つけられたことに強く反論し、SPRとの36年間の縁を断ち切る手紙を病の床から書いて送り、世間を驚かせた。
1930年7.7没。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P205~
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コナン・ドイル
『新しい啓示』と『生命の言葉』 |
| 1919 |
山田 治朗吉
明治から大正・昭和初期にかけて活動した剣術家
1919年、雑誌『新時代 第3巻第1号p.
154』において、関東大震災の到来を予言する。 |
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1847~1931
1920年代~ |
トーマス・エジソン と オカルト研究
エジソンはオカルト・超自然的なものに魅せられるという一面もあった。
ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じていて、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席した事もある。
来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置 (Spirit Phone) を研究。
エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた。エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。
エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだと考えていた。
エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録する事で発明としていたに過ぎない」のだという。「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意(真意は天才は1%汗と99%のひらめきだった) |
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| 1921.6.30 |
アルフレッド・ワトキンスとレイライン
・ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディンを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。
・彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた。
・しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry
Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and
Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。
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1921.10
(大正10年) |
第一次大本弾圧事件による検挙
・その数年前から、大本は出口王仁三郎二代教主輔を中核として教勢を拡大させていた。
・1919年(大正8年)11月18日には亀山城(明智光秀の居城)を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。
・また1920年(大正9年)8月17日に大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する。
・一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎や谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた。社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた。
・日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた。そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威を脅かしかねなかったのである。内務省は一部の著作を発禁処分とし、京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告した。原敬総理大臣は1920年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した。
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1922
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臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)とレイキ(霊気)
・現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者。
・生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)。
・職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざま。
・その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。
・断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。
・悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。
・1922年4月に指導法や五戒
今日丈けは 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけ(げ)め 人に親切に
朝夕合掌して心に念じ 口に唱へよ
を定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
・現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。
・日本式と西洋式
・日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、臼井甕男から林忠次郎へ(21もしくは20人のうちの一人)から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨ(たかたはわよ)から海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」と区別する。
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| 1923 |
関東大震災(かんとうだいしんさい)
(大正12年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)
・千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害を与えた。
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| 1923 |
ボッツァーノと臨死体験の研究
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto
Bozzano)が1923年に研究成果を発表 |
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1923~
1937~ |
国際スピリチュアリスト連盟(ISFというの略称の国際組織で、二、三年に一度の割で不定期に開催)の総会開催
第一回は1923年にベルギー
第二回は1925年にパリで(名誉会長はコナン・ドイル)、
第三回は0928年にロンドンで、といったぐあいに開かれ、その後は2年に一度のペースで開催されている。
第三回総会には日本から浅野和三郎と福来友吉が出席して演説し注目を集めた。
浅野は海軍機関学校(現防衛大学校)教授。心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。
さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。
伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春氏が居る。
1937年、スコットランドのグラスゴーにて、
シルバー・バーチは特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。
十七章 スピリチュアリズムの第一線で働く
人々への励ましのメッセージ
スピリチュアリズムが地上に展開を始めてからしばらくの間(1930年頃まで)は、物理的心霊現象が頻出していました。まさに奇跡の連続と言ってもいいような状況でした。
そしてその不思議な現象を、当時の一流の科学者達が調査実験に乗り出しました。ほとんどの科学者は初めは心霊現象に懐疑的でしたが、研究を進める中で生々しい現象を突きつけられ、例外なく霊の存在を認めるようになっていきました。
より内面的な現象へ、より精神的・霊的要素の多い現象へと変化していきます。それが「スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)」だったのです。
1930年頃より、スピリチュアリズムの中からスピリチュアル・ヒーリングが起こされるようになりました。そしてその後、スピリチュアル・ヒーリングはスピリチュアリズムの中心的な心霊現象に発展して現在に至っています。
スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)の目的は、いまだに霊の存在を知らない人々にそれを教え、人間は死後も“霊”として生き続けることを示すことです。霊が霊界から地上人に働きかけることができる事実を伝え、地球人類の「霊的覚醒」を促すことにあります。これがスピリチュアル・ヒーリングの目的です。スピリチュアル・ヒーリングは“病気治療”という医学的手段を用いて「霊的覚醒と霊的救い」をもたらそうとするものであり、病気を治すことが本来の目的ではありません。これが一般の治療(ヒーリング)と心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)の根本的な違いです。
スピリチュアリズムの初期には、物理的心霊現象という華々しい現象が演出されましたが、スピリチュアル・ヒーリングの世界でも、霊性が未熟な地域では派手な心霊治療が演出されます。それがフィリピンやブラジルなどで見られる“心霊手術”です。こうした人目を惹くようなスピリチュアル・ヒーリングは、いつまでも存在する必要はありません。やがて手当てや軽い接触といった一般的なヒーリング形式に変化していくようになります。
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| 1926 |
ウィリアム・フレッチャー・バレットと臨死体験
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが研究成果を発表 |
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| 1926 |
コナン・ドイル、『スピリチュアリズムの歴史』出版
念写の写真術も記述 |
コナン・ドイル、『スピリチュアリズムの歴史』 |
| 1857~1926 |
エミール・クーエと潜在意識と自己暗示
フランス人
サジェッション(自己 暗示法)の創始者、暗示で奇跡的治療を行なう。
暗示は、潜在意識へインプットするためのプログラムであり、この鍵である暗示を適切に潜在意識へインプットできれば、潜在意識はそのプログラムにしたがって、全力をあげて動き出す。
①
ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神状態となって現われる。
②
ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。 |
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| 1927 |
ウィリアム・マクドゥーガルとJ.B.ライン
ライン革命と超心理学
スタンフォード大学での研究
霊媒を頼るのではなく、学生などの普通の人間を使って研究⇒「心霊研究のアマチュア化」、霊能は万人のもの
心霊セミナー、心霊治療
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P? |
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| 1927~ |
ロバート・ハロルド・シュラー
アメリカの牧師。ニューソート(米国の新しい宗教運動家)の第一人者。
では、実際に取りかかることが出来る好機や可能性とはどんなもので、どこに潜んでいるのだろうか?
たとえば、明日にでも、もっと情け深くなれるではないか。また、明日からさっそく、人を裁いたり、批判したりする悪癖を抑えることが出来るではないか。そして、そのような姿勢こそが、心の平安と愛とを、ますます豊かに与えてくれるのである。
困っているときこそ人を助けよ。なぜなら、他人のために尽くすことによって、初めて自分の運勢も好転できるのである。人生(宇宙)には、このような見えざる真理が厳存しているのである。 |
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| 1928 |
マージェリ・クランドンとジョージ・ヴァリアンタインと浅野和三郎
浅野は日本の心霊研究の基礎を作った。
マージェリはハーバード大学医学校の外科教授の妻でボストン在住。夫がアイルランドの心霊研究家クロフォードの著作を読み、興味を持ち、自宅で降霊会のまねごとをし、霊能が開発されるに至った。
浅野は11.17の夜、当時有名だったもう一人の霊媒ヴァリアンタインと他の実験の証言者と共にクランドン家に招待された。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P160~ |
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| 1928 |
アンドリュー・カーネギーとナポレオン・ヒル
・1908年、新聞記者として世界の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにインタビューをした事をきっかけに、「20年間無償で500名以上の成功者の研究をして、成功哲学を体系化してくれないか」と頼まれる。・彼は「やらせてください」と即答。
それから20年間苦悩の末、約束通り、
1928年に『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow
Rich)を執筆。
・ウッドロウ・ウィルソン大統領の補佐官、フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問官を務めた。
1937年『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow
Rich)を発行。
1970年に87歳で死去。
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ナポレオン・ヒル
『Law of Success』(16セッション)をまとめる
『成功哲学』
『心構えが奇蹟を生む』
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ウィリアム・ホープと福来友吉
9.19日と29日の2回心霊写真をとってもらうために訪れた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P181~ |
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1893~
1930~1985 |
谷口雅春と生長の家
1929年12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたということを機に仕事の傍ら神から受けたとする啓示等をまとめて
1930年3月1日に自費で修身書として雑誌『生長の家』1000部を創刊した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。
「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」の主張を雑誌で発表し、多くの購読者・賛同者を取得していく。 |
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| 1931 |
アーサー・フィンドレーと「直接談話」のしくみ
・実業家で経済や財務、心霊問題について数多くの著作を残した。
・自分の館を寄贈してスピリチュアリストの活動拠点「アーサー・フィンドレー・カレッジ」を作った。
・ジョン・C・スローン(支配霊はホワイトフェザー)という直接談話に優れた霊媒による降霊会での詳細な報告
亡くなった自分の父との関係を明かされ、彼の霊能を信ずるようになった。
クロフォードが説くように、すべての物理的心霊現象はエクトプラズムによるものだという。
叩音、テーブルの浮上、霊の物質化などみなそうだが、「ダイレクト・ヴォイス(直接談話)」にもこの物質が大きく関わっているという。
エクトプラズムは霊媒や降霊会のメンバーの人体から出るだけでなく、霊界(フィンドレーの言う「エーテル界」)からも供給されるという。その成分については地上の言語で説明することが出来ないと言う。
①エクトプラズムが直接霊人と霊媒の発声器官とを繋いでいる場合で、麗人が話すとその振動がエクトプラズムを伝わって霊媒の器官を動かし、声となって出る。(「異言」)
②「エーテル界の化学者」が霊媒や参加者、エーテル界から集めて作ったエクトプラズムを使って、まず手を造り、次にその手によって口や舌などを持つマスクを造る。それから「直接談話」をしようと思う「エーテル界の住人」がそのマスクに顔を突っ込み、口や舌や喉が自分に合うように調整してから話し始める。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174~ |
『エーテル界の縁で』アーサー・フィンドレー
年に10回以上も増刷され続け、20カ国以上に翻訳された大ベスト・ロングセラー
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174 |
| 1931 |
福来友吉、『透視と念写』をロンドンで出版
三田光一(福来が出会った日本最高の霊媒)と念写の実験-弘法大師と月の裏側の写真
⇒1985年のNASA撮影の月の写真へ
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P240、P268 |
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| 1931.5~ |
ハロルド・J・レイリー
博士は、アメリカのマッサージセラピー分野では開拓者的存在だった。彼は、ロックフェラーセンターのレイリー健康研究所の創設者で、カイロプラクターであり、物理療法士、自然療法の先駆者として世界的に知られていた。彼の顧客には、世界的な富豪や有名人(グラディス・ディビス・ターナー、ジャネット・トーマス、ジェームス・C・ウィンドサー他)がいた。
ケイシーのリーディングにより、さまざまな患者が、1931年の5月から彼の元に送られてくるようになり、彼はそうした患者をリーディング通りに治療した。
「しばらくやっているうちに、私は治療者がなすべきことは、肉体自体が自らを治し始めるようにしてやるだけだということに気づいた。ひとたび血液やリンパや神経伝導のインパルスが組織に流れるようになると、肉体はその防衛線が打ち破られた箇所すべてで反撃を始めるのだ」
これが有史以前からの歴史を誇る東洋医学(漢方)やヨーガの思想と一致していることはまことに興味深い。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法、
ケイシー自身は毎朝、垂直の姿勢から立ったり座ったりを繰り返し、その後、ストレッチングに似た床運動を行なっていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P132~)
実際にケイシ-と会ったのは、治療開始から2年後ことだった。彼は、9000以上のケイシーメディカルリーディングを45年以上にも渡り、研究し、活用した。
そして、ケイシーリーディングからのマッサージを「新しいヒーリングアート」と定義し、ケイシー・レイリーマッサージスクール(アメリカ・バージニア州)の開設に力をつくした。
レイリー博士の治療は、湿布やサウナ、入浴療法などの水治療法も含む。 |
『エドガー・ケイシーの超能力健康法』 |
1930年代の初め頃~1979年
女史が他界するまで
約50年間 |
グレース・クック女史とホワイトイーグルの霊示
・この霊示は、女史をチャネラー(霊媒)として約50年にわたって通信されたもの
・女史の口を通じて伝えられるイーグル霊の霊示は完璧に近いと考えられます。
・なぜかというと、2人は太古から二度にわたり、親子として次に師弟関係として再生するという深い霊縁を作ったのです。
・イーグル霊は太古に既にイニシエーション(魂が一段一段と目を覚まして進歩の階段を上ること)を通過している覚者です。クック女史は一つ前の前世で、イニシエーションを通過し、地上に再生する必要のない者になりました。
しかし、死の時、イーグル霊は女史の魂をはるか上方に連れて行き、地球の様子を見せました。女史はそこに渦巻く地上の混迷と苦しみの様を見て、もう一度地上転生を決意しました。これがグレース・クック女史で、この霊格の高さがホワイト・イーグルの高い霊示を伝えやすいものとしています。
・その霊示の本質は、「人は神の子である」ということ。それをイーグルは「キリスト神霊の子」と表現します。キリスト神霊とは霊太陽(宇宙を維持して生かしている根源の光)のことで、その分霊を受けているのが人間だというのです。
この「神の子」がスピリットで、それは心臓チャクラに鎮座すると明言しています。これが「内在の神」です。 |
光への道
ホワイト・イーグルの霊示
桑原啓善・訳 でくのぼう出版 1994年刊
光への道――ホワイト・イーグルの霊示
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| 1931ごろ |
長井 津(わたる)と真向法
・明治21年(1889年)10月福井県の越前岬に近い勝鬘寺と言う浄土真宗の寺に、9人兄弟の3男として生まれる。中学を中退して商売で身を立てようと単身上京し、大成建設の前身である大倉組に入社し、大倉財閥の大倉喜八郎に師事。
・30歳で呉支店長に出世して財を築くが、34歳の時に妻に先立たれる。
・多忙とストレスの続く生活の中、42歳の時に脳溢血に倒れ、左半身不随の身となる。
・医師からは不治と診断されて悶々と日々を送る中、精神の安定を求め、実家の勝鬘寺の経典の中から勝鬘経を紐解く。その中の「勝鬘及一家眷属頭面接足礼(勝鬘婦人と一族・従者達は、頭を仏の足に接して礼拝し、清浄な心を以て仏の真実の功徳を嘆称したてまつった)」と言う一節が目に留まった。この「頭面接足礼」とは五体投地礼の一種であり、両手を伸ばして相手の足を取り、腰を曲げて相手の足に自分の額を押し頂いて拝む最上の礼拝である。
・しかし、実際に行ってみると長井は全くこれを行うことが出来なかった。礼拝とは、釈迦の教えをありのままに拝聴する身構えが出来ていると言う意志表示であり、頭面接足礼が出来無ければ、素直に教えを聞く準備が出来ていないのだと考えた長井は、この礼拝の練習を毎日行う。
・これは後に真向法の第一体操と呼ばれるものになるが、この練習を3年の間行い、更に第二体操を編み出して練習に加えて繰り返している内に、次第に体が柔軟になり、不自由だった体が元の通り動いて、以前にも増して健康になっていった。
・この二つの体操に驚嘆すべき自然治癒力のあることを確信した長井は、これを世に広めようと努力するようになる。当初は「念仏体操」と称していたが、「礼拝体操」、「日本国民体操」、「昭和体操」、「中和柔和法」と名前を変えて行った。体操が二種類から四種類になるのは昭和18年頃から。
・昭和21年の正月に、長井津は二首和歌を詠み、その内の一首が
「真澄空 唯一つなるみ光を 仰ぎ拝(おろが)む 今日のたのしさ」と言う和歌であった。
・これを1月12日に「真澄空 唯一つなるみ光を 真向仰げ 四方の国人」と改作し、ここから取って最終的に体操法を「真向法」(4種の体操)と名付けた。
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| 1932 |
ジェラルディン・カミンズ女史と『永遠への道』
フレディック・マイヤーズが通信霊となって、自動書記霊媒として有名なカミンズという女性の4番目の作品としてこの年に発表された。
マイヤーズはまだ知己も地上に残っているいわば新参者からのメッセージだが、
7層に及ぶ霊界の構造や各界の仕組みを説く構想力の壮大さと重厚な文章による説得力は『ヴェールの彼方の生活』に劣るものではない。
オリバー・ロッジは序文を寄せ、死後30年間にこれだけの理解に達した親友のなおも止まらぬ情熱と研鑽を讃えている。
生前彼が展開した「サマーランド」や「類魂」「複数潜在意識」説を思わせるものが記述されている
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P197~ |
『永遠への道』 |
| 1930年代 |
チャールズ・シェリントン卿とノーベル医学生理学賞
・人間は「心」と「脳」という二通りの基本要素で構成されているという可能性を認める考え方を正当だと考えた。
ワイルダー・ペンフィールドと脳の構造と機能、臨床神経外科的研究
・「コンピュータ的機構」と名づけられた部分は頭頂葉に位置し、脳の運動感覚機能を司っているのに対して、「心的機構」と名づけられた部分は、脳の解釈的能力を担っている。
国際臨死体験研究学会設立(アメリカ) |
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| 1933 |
ディール・カーネギー
人を動かす原則1 批判も避難もしない。苦情も言わない。
人を動かす原則2 率直で誠実な評価を与える。
人に好かれる6原則
1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔で接する
3.名前は当人にとって、最も快い、最も大切な響きを持つことばであることを忘れない。
4.聞き手にまわる。
5.相手の関心を見抜いて話題にする。
6.重要感を与えるー誠意を込めて。
人を説得する原則10 人の美しい心情に呼びかける
人を変える9原則
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| 1934 |
ジョセフ・バンクス・ラインとライン革命と超感覚的知覚と超心理学
「ESPカード」を使って実験
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P229~ |
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| 1934・5年ごろ |
K・スチュアートとマラヤの夢理論(1951)
・スチュアート(1902-65)は1924-40年の間世界放浪
・その間1934、5年頃マラヤ(現マレーシア)に滞在し、そこの山地民セノイ族の夢の技法の調査をしたとされる。その調査に基づくというこの論文の趣旨は、セノイ族が平和な争いのない部族で、それは彼らが夢を共有するテクニックを有しているからだ、という所にある。
・この論文は、1969年にタートの『意識の変容した状態』という話題となった論集に掲載されたことをはじめ、1970年代以降もしばしばニューエイジャーから称賛を以て言及されている(ローザック、環境音楽のJ・ハッセル
etc.)。
これに対して配布資料のドムホフは、彼の調査報告をでっちあげだと論じ、1960年代の米国の社会情勢によってこの論が注目されただけだと位置付けた。 |
『明晰夢―夢見の技法 スティーヴン ラバージ』 |
1935.12
(昭和10年) |
第二次大本弾圧事件
12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。
王仁三郎は巡教先で検挙された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。
取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で起訴61名中16人が死亡している。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる。 |
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| 1936.7~1939.3 |
スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española)
第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
エドガー・ケイシーのリーディングの記録の中には16世紀のスペイン人たちがした代償に関するものがある。
過去にスペイン人はアステカ文明を破壊し、殺戮をほしいままにした。その結果、カルマの報いをいけることになった。内戦は起こるべくして起こった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P183~)
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| 1937.4.17 |
中村久子とヘレン・ケラー
41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛したという。
翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。
1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。
65歳の時厚生大臣賞を受賞した。
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は以下の言葉を残している。
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
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| 1937 |
日本レイキの後継者、林忠次郎と高田ハワヨ
・彼女は日系二世として日本とアメリカの言語と文化に通じていたため、西洋に日本のレイキを伝えるという役割に適しており業績は広く認められている。しかしながら高田はレイキを彼女の影響下に於て、ある意味「フランチャイズ」的に守ろうとしたとしてレイキ界では今なお論争が続いている。
・高田は日本生まれの両親の下に生まれ、カウアイ島の彼女の父が働く砂糖きび農園で育った。
・1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていた高田サイチと結婚。1930年10月東京でサイチは肺ガンの治療中に34歳で死亡。この時高田夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのため肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重いうつ病にもなり苦しむことになった。
・この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、高田は両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。
・手術が始まる直前の手術台の上で、ハワヨは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。
・高田は手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎(臼井甕男の直弟子)の診療所を教えてもらった。林は後にレイキの「グランドマスター」とされた人物で、林の治療により高田は毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと望むようになった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、高田は病院の手術医と話し、この医師が高田がレイキを学ぶことを許すように林を説得。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたことと、高田がとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。
・彼女は林の下で1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。
・1937年健康になった高田はレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。
・林は自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、彼の娘と共に高田を訪ねた。
・1938年の冬、高田は林から神秘伝(師範として他人にレイキを伝授できる)の伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。
・高田は夢に林が現われたと言い、1940年第2次世界大戦が迫っていた東京に戻った。そこで林は高田の実績を評価して自分の後継者とした。
・林は日本海軍の予備役将校であり軍に復帰するように求められていたが、仏教徒であり平和主義者として多くの血が流される戦争に加担するよりはと切腹した。
・高田はハワイに戻ってから30年間レイキを教えたが、1970年まではファーストとセカンドディグリーのみを伝授した。彼女は多くのレイキのプラクティショナー(開業者)を養成したが、マスターは育てようとしなかった。
・1970年以降、亡くなる1980年までの間に高田はレイキのサードディグリーを伝授し、22人にマスターを伝授した。
・彼女はマスター伝授の指導に10,000USドルを科したため、レイキマスターを富裕層のためのエリートクラブにした、と非難された。林は妥当な「エネルギーの交換」だと弁明して、林に言われたとする、治療のためにお金を支払わない者は良くなろうとする動機を持てない、という趣旨の言葉を引き合いに出した。
・彼女の残したものは今は様々な形で混在している。
・現在、日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、林から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨから海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」と区別する。
・日本国内では林忠次郎から師範の伝授を受けた最後の1人である山口千代子が長年、家庭生活の中で実践してきた靈氣(レイキ)がある。それが現在の「直傳靈氣研究会(じきでんれいきけんきゅうかい)」(山口千代子の息子、山口忠夫設立)が普及しているレイキであり、「直傳靈氣(じきでんれいき)」という名称が使われている。
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1877~
1945 |
エドガー・ケーシー(アメリカ)
主要な部分は1901年へ
1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)
「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。 |
エドガー・ケーシー『奇跡の生涯
』
エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について
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| 1939~1945 |
第二次世界大戦
1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争)より後を指すことが多い。 |
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1905~
1939~ |
ヴィクトール・フランクルと『夜と霧』
・ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
・「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。
・フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。
・第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られ、恐怖の3年間を生き延びた。
・この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は英語版だけでも900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという。
・読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査でも、翻訳ドキュメント部門の第3位となったという。
・よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
・極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。
・学術関連などで度々日本にも訪れていた。
ロゴセラピーとは
「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意。
ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。
- 意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
- 意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
- 人生の意味 -
それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとする。人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。
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『夜と霧』 |
1893~
1940~1966 |
マクロビオティック(正食)の祖、桜沢如一(ゆきかず)
・和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士の家系に生まれる。
・14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。・その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。
・1924年には同会会長となり、同会の復興・指導に専念する。
・1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le
Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient
(東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。
・1937年に帰国、『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
・1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、
・1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。
・その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。
・戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。
・1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
・1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
・1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
・後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜⇒妻大森一慧(かずえ)⇒「穀菜食」「食で運命が変わる」⇒宇宙法則研究会、岡田周三、菊池富美雄らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
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1941
昭和16年 |
土光 敏夫と 母 登美
明治4年8月8日生まれ。土光敏夫の母。
昭和16年、亡夫の一周忌に念願であった女学校の創設を宣言。その当時の御年70才というから驚きです!
「人間生きているうち一度は鬼の口に飛び込まねばなりません」という覚悟で、戦時中学校教育の重要性を説き、無一文から「自分が死んでも香典は要らないから生きているうちにください」とまわりの農家を口説いて回り、とうとう念願であった戦争をしない国づくり、幸せな社会づくりのための女子教育を実現すべく奔走したそうです。
ほとんど独力で寄付集め、諸交渉をおこない、とうとう、戦争真っ只中の昭和17年 橘女学校創立 校主土光登美。17年横浜鶴見に橘学苑(現橘女子高)を開校する。戦時下、教育方針は、成績第1主義ではなく、「正しきものは強くあれ」という登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。
一、 心すなおに真実を求めよう
一、 生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう
一、 正しく強く生きよう という三つの言葉を遺した。
しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、73歳で他界。
夫もであったが、日蓮宗に深く帰依した女性。(温厚な夫に比べると厳しい女性であったという。親戚の土光●●さんの記憶より)。土光は母の気性を強く受け継いだ・・・ (テレビ朝日、9月4日 10時~「サンデー・フロントライン」 特集より)
その他の登美の名言
・国の滅びるは悪によらずして、その愚による。 |
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| 1944.6.10~1961 |
岡本 天明と日月神示
・本名は信之。天明は「雅号」である。雅号とはいえ、「天明」とは!(後に「日月神示」へ)
・昭和19年-4月18日 - フーチ(扶乩)の実演会の審神者兼司会役を務める。
この際出てきた神名が「天之日月神」。後日、麻賀多神社の末社の神と判明。
・6月10日 - 天之日津久神社に参拝した折に自動書記現象がおきる。(日月神示「上つ巻」第一帖・第二帖を書記する。
・矢野祐太郎氏の奥さん(新(シン)女史)が大切なものと判断。
・1961年(昭和36年)9月1日- 最後の自動書記現象。 |
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| 1945 |
初めての核実験
・開発は1942年からのマンハッタン計画で進められ、1945年7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット
(Gadget) と呼ばれた。
・1945年に原子爆弾はアメリカ合衆国が最初に開発に成功。
・初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ合衆国・ソ連を中心に約2,000回の核実験が行われている。
・詳細は「核実験の一覧」を参照(Wikipedia)
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1945
(昭和20年) |
白州 次郎
1945年吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。
当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP某要人、マッカーサーをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。 |
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| 1946 |
手塚治虫(17才)マンガでデビュー |
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| 1947~1956 |
死海文書(しかいぶんしょ、しかいもんじょ)、または死海写本(しかいしゃほん)
1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。
文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる。
西暦の世紀の初め、キリスト教が教会の創健者たちによって一般に広められた頃に、生まれ変わりの法則は教義の中から脱落してしまった。
エッセネ派の信仰が”生まれ変わりの法則”を根底に据えていたことが解明されてきている。
ユダヤ人の秘教カバラやグノーシス派の『聖書』の中にだけ生まれ変わりの法則が残されることになった。
リーディングによればバチカンにもピラミッドの中にも霊の永遠の進化を語る完璧な物語が現存していると言う。
イエスの奇跡=「復活」という言葉の本来の意味は”生まれ変わり”ということだったという。
カルマは行為の因果関係についての法則(カルマの法則)で、「汝が他者になせしごとく汝も他者からなされん」といったもの
・人間としての誕生の際にもたらされる。
・霊の心の内部の衝動で肉体の外で宇宙的世界において体験したものから生まれてくる。
・もう一つの感情や情緒は地上における生存の中で形作られたものである。
・カルマの目的はモラルを高め、精神的な成長を助けることにある。
・条件が揃うのにはたいへんな時間を要するが、それでも状況設定は正確になされていく。
「神はだまされない。人は蒔いた種は自ら刈りとらねばならない」
他人の重荷を分かち合い、悪いことを正そうとすることはただ他人のために善いことをしているというだけではない。同時に、自分のためにも善いカルマを作っているのである。すべての人間がこの考えに従って生きていけば、それは、よりよい世界を作ることにつながるはずである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P161~)
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1869~
1880~1948 |
マハトマ・ガンジー
弁護士。インドの非暴力運動の指導者、政治家。
・「世界に変化を望むのなら、まず、あなた自身が変化を望むのなら、まず、あなた自身が変化しなければならない」
『明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ』
"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live
forever."
・『あなたの夢は何か、あなたの目的とするものは何か、
それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。』
・「目的を見つけなさい。そうすれば大義はついてくる」
"Find purpose, the means will follow."
『善きことは、カタツムリの速度で動く。』
『世界に変革を求めるなら、自分自身を変えることだ。』
この世界の内に望む変化に、あなた自身が成ってみせなさい。
・"You should be the change that you want to see in the world."
「眼には眼を」で行けば、しまいには全世界が盲目になってしまう。
"An eye for an eye makes the whole world blind."
- 『我々の信念は、常に燃え続ける灯火でなければならない。
それは我らに光明を与えるだけでなく、周囲をも照らすのだ。』
『束縛があるからこそ 私は飛べるのだ、
悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ、
逆境があるからこそ 私は走れるのだ、
涙があるからこそ 私は前に進めるのだ。』
『非暴力とは、
悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、
暴力者の意志に対して全霊をなげうつことである。』
『もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならば、
それは数百万の人々との憎しみを打ち消すに十分である。』
「競争ではなく、協力こそ人間本来の生き方である」
「敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい」
「君のすることはほとんど無意味だが、それでもしなくてはならない。なぜなら、それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためだからだ」
「重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにも分かるとは限らない。だが、正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ」
西洋文明
ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである。
- "It is my firm opinion that Europe does not represent the spirit of God or
Christianity but the spirit of Satan. And Satan’s successes are the greatest
when he appears with the name of God on his lips."
西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリストの[実践した]キリスト教の否定だと思う。
"I consider western Christianity in its practical working a negation
of Christ’s Christianity." |
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1947.6.24
初めて空飛ぶ円盤目撃情報 |
ケネス・アーノルド事件
初めて空飛ぶ円盤が一般的に知れ渡るようになったのは、1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、アメリカ、ワシントン州のカスケード山脈にあるレーニア山付近の上空を自家用飛行機で飛行していた際に、レーニア山の上空を飛行する9機の奇妙な物体を目撃し「投げた皿か円盤が水面上をスキップするように凄いスピードで飛んでいた」と報告したのが最初といわれている。地元アメリカのマスコミはその物体を空飛ぶ円盤(Flying
Saucer)と名付けて大々的に報道し、その後同様の目撃談が相次いで報告された。
この事件を受け、アメリカFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官は直後の6月30日にUFOの目撃例を調査するプロジェクトを発足させた。
・アーノルドは未確認飛行物体の形状ではなく、その飛び方を説明するためにSaucerという語を使ったのであるが、報道で「空飛ぶ円盤」という呼び方が定着して以降は円盤型のUFOの目撃例が多くなったのは注目すべき点であろう。
・この事件以降、目撃談が多く報告されるようになり、冷戦下のアメリカは一大UFOブームとなった。またこの事件を記念して6月24日はUFOの日とされている。 |
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1947~
1989
(42年間)
1991.8.29 |
カザフスタンのセミパラチンスク核実験場
・旧ソビエト連邦の核実験場のひとつであった。カザフ共和国(現カザフスタン)の北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km²(四国の面積にほぼ等しい)。
・1949年から1989年の間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。
・1947年にラヴレンチー・ベリヤによってこの場所が選ばれた。核実験の準備に伴い、実験場郊外に秘密都市セミパラチンスク-21(現在のクルチャトフ市)が建設され、関係者が集められた。
・ソ連最初の核実験RDS-1は1949年8月29日に行われた。
・実験を指揮した核物理学者のイーゴリ・クルチャトフは、後に、もし核実験が失敗したらスターリンの命により銃殺刑に処されることを覚悟していた、と述懐している。実際に秘密警察は逮捕の準備をしていたといわれる。
・その後、1953年8月12日の水爆装置実験(核融合そのものは失敗)、1955年11月22日の初の水爆実験、核の平和利用実験(下記参照)などが行われた。なお、RDS-6の実験に当たっては、付近の住民のうち一部の成人男子を放射能汚染地域に滞在させた(人体実験説)。
またベトナムの枯れ葉剤のようにここでも奇形児が生まれ、ホルマリン漬けで保存されている。
・その後放射能汚染による住民の健康被害が次第に広がり、地元の研究者たちによる調査が行われたものの、核実験を優先するソ連当局に黙殺され続けた。
・ソ連末期のグラスノスチにより実験の実態が明らかになると国際的な非難が高まり、1991年8月29日に実験場は正式に閉鎖された。
・セミパラチンスクの核実験で120万人が被爆し30万人ほどが放射能の後遺症を受けているが、結局ソ連政府(宗主国ロシア)から補償はなく、ソ連時代には訴えを一切聞いてはもらえなかった。
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| 1948 |
5月14日、ユダヤ民族はイスラエル国家を再生 |
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| 1948 |
エッセネ派と死海写本の発見
1936年、エドガー・ケイシーのライフリーディングで予言。
この年、聖書考古学史上最大の発見と言われる「死海写本」がケイシーリーディングが言った正確に同じ場所で発掘され、その近くで古代エッセネ派の修道院跡が掘り出されて世界中の聖書学者の注目を浴びた。『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P31~) |
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1948
近代スピリチュアリズム百年祭 |
1948年の近代スピリチュアリズム百年祭(ロンドンのアルバートホール)という大イベントにおいて、霊媒の代表として公開実験を行った。
エステル・ロバーツ夫人
サイキック・ニューズの編集長であったモーリス・バーバネルは、その著書『これが心霊の世界だ』の中でエステル・ロバーツ夫人の多彩な霊能力を絶賛し、それについて詳しく述べています。彼女は、直接談話・霊視・霊聴・サイコメトリー・アポーツ・心霊治療などのすべてに優れた霊能力を発揮している。
指導霊(支配霊)であるレッド・クラウドというレッド・インディアン霊が関わっている。指導霊レッド・クラウドによってあらゆる心霊現象が演出されているという。彼女は数千人の聴衆を前にして公開交霊会を催し、そこで霊視・霊聴力を発揮して、一面識もない参加者に関係する霊たちの特徴を細部にわたるまで指摘した。そして、すでに他界した家族や知人が確かに霊としてそこにいる証拠性のある事実を示した。
ヘレン・ヒューズ夫人
彼女は毎年、英国内を講演旅行し、家族や知人との死別を悲しむ人々に霊からのメッセージを伝え多くの慰めを与えてきた。彼女は特に霊視・霊聴能力に優れていた。公開交霊会では必ず、確実な証拠性を示す事実(*当事者しか知りえない事件・習慣・癖など)を提示し(シッティングという手法)、通信してくるのが紛れもなくその当事者に関係する霊であることを明らかにした。
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| 1951(昭和26年) |
手塚治虫と『鉄腕アトム』
教育者や父母から批判が集中。荒唐無稽、ロボットなんてできっこない。デタラメを描く、子どもたちの敵だ… |
『ガラスの地球を救え』
P15 |
| 1951 |
サンフランシスコ講和条約
日本が主権回復に臨んだ締結の場では、白洲次郎の発案で英語の演説原稿を直前に巻紙に毛筆で書いた日本語に差し替えさせ、羽織袴姿で吉田茂に読み上げさせた。 |
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1926~
1951~ |
久司 道夫(くし みちお )とマクロビオテック
アメリカ合衆国のボストンを拠点に自然食のマクロビオティックの研究、発展、普及に努めている。クシインスティチュートインターナショナル代表、久司財団会長、イーストウエスト財団会長、社団法人日本緑十字社社長。
・食養研究家・思想家の桜沢如一に師事したのち1949年11月にアメリカ合衆国へ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本などでも普及活動を行う。
・1949年ごろから、道夫は食事をマクロビオティックの方向へ改めていく。
・1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物と環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べている。 |
アレクシス・カレル
『人間-この未知なるもの』 |
| 1951 |
ゲシュタルト療法(ゲシュタルトりょうほう) 心理学。
ユダヤ人の精神科医、フレデリック・パールズ(フリッツ・パールズ)とその妻のローラにより、ゲシュタルト心理学、実存主義思想などを手がかりにはじめられたものである。"Ego,
Hunger & Aggression -- A Revision of Freud's Theory and
Method"(1942)が、その基本を述べた最初の著作とされ、1951年には"Gestalt Therapy -- Excitement and Growth
in the Human Personality"が出版されている。彼は、その後日本にもやってきて、京都の大徳寺で禅の修業もしている。
「ゲシュタルト」(Gestalt)は、ドイツ語で「かたち」「形象」をいう言葉。直接は「ゲシュタルト心理学」から由来した言葉と思われるが、その意味づけは参禅体験などと深くつながっている。彼の考え方には、エーリヒ・フロムや鈴木大拙などの影響も色濃く見られる。東洋的な瞑想や精神統一の体験を基盤に取り込んだという点では、ユージン・ジェンドリンのフォーカシングと似ている。セラピーの姿勢としては、カール・ロジャーズの来談者中心療法などと一緒に人間性心理学(アブラハム・マズローの流れ)の中に分類されている。
このセラピーでは、過去になにをしたか、それはなぜなのかを問うことはしない、「今・ここ」で、「いかに」・話しているか、「なにを」・話しているかを問題にする。
それを気づき、体験すること、そこから全身全霊的な気づき、覚醒を目指し、そこで自分自身であるという自由を取り戻すことを目的とする。やり方としては、グループワークショップとして行われることが多い。
ゲシュタルト療法の手法というのは、心理学や哲学の手法を広く取り入れており、それらを精神と身体の完全統一という考え方に基づいて、セラピーの療法として統合したものである。この療法の目的とは、活動におけるより確立した独立と、自然な成長を阻害する障害物に対処する能力を、患者自身が獲得することを助けることにある。
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| 1952 |
比嘉良丸の母と大国ミロク大社 |
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| 1952~ |
水爆
・第二次世界大戦末期のマンハッタン計画後、アメリカ合衆国でエドワード・テラー、スタニスラフ・ウラムらによって開発が進められ、1952年11月1日、エニウェトク環礁で人類初の水爆実験、アイビー作戦
(Operation Ivy)
が実施された。この作戦でアメリカはマイク (Mike) というコードネームで呼ばれる水爆の爆発実験に成功した。マイクの核出力は10.4メガトンであったが、常温常圧(例えば25℃, 1気圧)では気体である重水素や三重水素を零下二百数十度に冷却液化しなければならないため、そうした大規模な装置類の付属により、マイクの重量は65トンに及び、実用兵器には程遠いものであった(気体のままでは密度が低く、核融合反応が起きない)。
・ところが、翌1953年、ソビエト連邦が重水素などの熱核材料をリチウムと化合させて重水素化リチウム(固体)として用いた水爆の実験(RDS-6)に成功した(実際には水爆ではなかったといわれている)。この型では大掛かりな付属装置が不要なため水爆を小型軽量化できた。その後アメリカも熱核材料をリチウムで固体化した水爆を完成。
1954年、キャッスル作戦
(Operation Castle) が実施された。作戦の一つ、ブラボー (Bravo) 実験の成功により大幅な小型化に成功した。
・1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー
(BRAVO) 、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被爆した。実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。…
・第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言を遺して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へと移行することを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。
・更に米ソ両国で核実験が続けられ1955年から1956年には爆撃機にも搭載可能になり核兵器における威力対重量比が格段に増大する結果となった。いわゆるメガトン級核兵器の登場である。
・中国は1966年5月9日に120キロトンの最初の水爆実験に成功している。
1976年11月17日には4メガトンの実験に成功している。
この後中国では重水生産工場の運転が開始されている。
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| 1955~ |
日本空飛ぶ円盤研究会(にほんそらとぶえんばんけんきゅうかい、Japan Flying Sauser Research Association:JFSA)は、日本最初のUFOの研究団体設立。
同研究会は太平洋戦争で日本陸軍航空隊でレーダー装備を担当し、戦後は大蔵省印刷局に勤務していた荒井欣一が中心となった。
・三島由紀夫や石原慎太郎らが参加し、1955年に設立された。
・国内外の情報を収集する研究活動や講演活動、機関誌の発行を行う傍ら、その後の日本で設立されたUFO研究団体と関わりを持ち、影響を与えた。
・最盛期には約1,000名を超える会員を擁し、三島や石原のほかに北村小松、徳川夢声、糸川英夫、星新一、黛敏郎などの著名人も会員であったことで世間に知られるようになった。
・1960年代から団体としての活動は低下したが、荒井は2002年に死去するまで活動を続けた。
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1952~
1956 |
モーリー・バーンスタインと催眠術とブライディ・マーフィー
・コロラド州の実業家でアマチュア催眠術師でもあったモーリー・バーンスタインは、地元に住む当時29歳の主婦、ヴァージニア・タイに催眠術をかけてみた。
・バーンスタインは、次第に年齢を下げていく退行催眠といわれる手法を試みていたのだが、さらに一歩進めて誕生前まで彼女の記憶を引き戻してみた。
・すると驚くべきことに、ヴァージニアは静かなアイルランド訛りで話し始め、「ブライディ・マーフィー」と名乗るアイルランド人女性の人格が出現したのである。
・催眠下の話によると、彼女は1798年にアイルランド南部のコークで、プロテスタントの法廷弁護士、ダンカン・マーフィーとその妻キャサリーンの娘として生まれたという。
…
・ブライディは60代の始めに転落事故で腰を骨折。ブライアンはよく面倒をみてくれたが、いつもひどく疲れた様子だったという。そしてついに1864年のある日曜日、ブライディは66歳で静かに息を引き取った・・・。
・この話を聞いたバーンスタインと証人として立ち会った人々は、ブライディの語った内容は詳細を極め、圧倒的な説得力があると感じた。アイルランド訛りも本物のように思われたし、あるときには、話だけでなく「モーニング・ジグ」というアイルランドの踊りを踊ったり、歌を歌ったこともあった。
・またバーンスタインによると、ヴァージニアは百科事典やその他の参考にできる本を一切持っておらず、図書館のカードもなければ本を読む習慣もなかったという。
・さらに、その後の調査ではヴァージニアがカトリックの式を挙げたという、聖テレサ教会の実在が確認されている。
・その後の調査の結果事実とは違うことが判明
・後にメルヴィン・ハリスという放送作家の調査によれば、アメリカ人には19世紀のアイルランドの生活や習慣に詳しくなる機会があったのだという。
それは、1893年にシカゴで開催されたコロンブス記念世界博覧会。その目玉の一つに巨大なアイルランド村があったという。村は大変人気を博し、閉会するまでのあいだに350万人もの入場者を記録。
・このときのアイルランド村が大成功だったため、1904年にはセントルイス博覧会でも村が建設された。おそらくヴァージニアは、人格形成期にこれらのアイルランド村を訪れた多くの人たちに会ったのだろう、とハリスは指摘している。
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『ブライディ・マーフィーを探して』
1956年に出版 |
| 1953 |
REM睡眠の発見 |
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1954~1985
(28年間) |
マーシャル諸島、ビキニ環礁と水爆被災
・マーシャル諸島には、自らの土地が核実験場の風下地域にあたり、「死の灰」を直接浴びたり、島々に残る「死の灰」を体内に取り込んだりして被害を受けた人たちがいる。ビキニ環礁とエニウェトク環礁で行われた67回に及ぶ核実験の「死の灰」は、風に運ばれ、マーシャル諸島民が暮らす島々にも降下していた。
・当時、ロンゲラップ環礁には82人が暮らしていて、母親の胎内には4人の子どもがいた。
1954年3月1日の早朝、ロンゲラップ環礁の西空一面にせん光が光った。それは「まるで太陽がもう一つ昇ってきたようだった」。「三度ぐらい、今まで聴いた事のないような爆音」が轟いた。
・爆心地から強い風が吹き、地面も揺れ「ヤシやタコノキの葉が激しく揺れ」、「押し倒されそうになった」人もいた。「戦争が始まったと、ヤシの茂みの方に逃げていく人もいた」。
・3月1日の昼頃、ロンゲラップ環礁の上空から、「死の灰」が降ってきた。
「死の灰」を浴びた住民は、夕方ごろから体にかゆみや痛みを感じ始め、発熱や吐き気など放射線の早期障害の兆候が見られ始めた。
・翌日、ほとんどの住民は、体調不良で寝込み、外に出られず、島の初等教育学校も臨時休校となった。しかし人々は、放射能汚染された食糧を口にし、汚染された水を使い生活せざるをえなかった。こうして住民82人と4人の胎児がヒバクした。
・人々は、実験の2日後に避難させられたものの、住民の間には「なぜ事前に避難をさせなかったのか」、「遅すぎた避難だった」との批判がある。
・ロンゲラップ環礁民は、3年間に及ぶ避難生活の後、アメリカが「安全宣言」を出したため、ロンゲラップ環礁に帰島した。しかし帰島者は、再び自らの島々を去る1985年まで28年間、ロンゲラップ環礁で残留していた「死の灰」によってさらなるヒバクをさせられたのであった。
米ブルックヘブン国立研究所による追跡調査のなかでも、帰島から約1年で、帰島者の体内蓄積量は放射性セシウム137が100倍、放射性ストロンチウム90が10倍に達していたことが確認されている。(原水爆禁止日本国民会議HPより) |
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| 1955 |
ローザ・パークス事件
米国公民権運動の活動家、縫製に従事した裁縫労働者である。1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。
これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件(Montgomery Bus
Boycott)が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。⇒キング牧師へ |
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| 1955~ |
水俣病と公害
環境汚染による食物連鎖によりひきおこされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)
1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。
この後、昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。
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アルバート・アインシュタインの言葉
科学を真剣に追求している者は誰であれ、宇宙の法則の中に神の霊が顕在していることを確信するに至る。神の霊は人間の霊をはるかに凌ぎ、神の霊を前に人間は、自らの力のささやかなることを知り、謙虚にならざるを得ないのである。 |
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アール・ナイチンゲール
1921年生まれ、
自己啓発の祖。
『人間は自分が考えているような人間になる!!』――このタイトルを見て、ナポレオン・ヒルの古典的名著『思考は現実化する』(成功哲学の祖)を連想する人は多いだろう。それもそのはず、本書の著者、アール・ナイチンゲールは、ナポレオン・ヒルの教えを受け、自らも「人間開発の神様」と呼ばれた人物。
幸せとは、現在進行形で理想の世界を実感することだ。 |
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1882~
1926年(昭和元年)~1955 |
岡田茂吉と世界救世教
大本に入信するも、
12月のある晩、神秘体験をし、自己の使命を悟る。
昭和9年、大本を離れ、世界救世教へ
全人類の病貧争からの脱出、
すなわち健康の実現、貧苦からの脱出、安全の実現を基礎として、新文明世界(=地上天国、理想世界)を創造することを目指した。
そして、そのような新文明世界は、3つの活動理念
「精神性」「美」「自然力」を培い発展させることによって達成される、と説いた。
後に分派して崇教真光、など |
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| たった50年前 |
とてつもない変化を地球にもたらした。 |
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| 1956~ |
第七光明期 地球最後の時(M・ドーリル 秘教真義より) |
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| 1957 |
アジア風邪
4月頃香港で流行が始まる。
東南アジア各地、日本、オーストラリアなどへ広がる。
後に北米、ヨーロッパなど世界各地へ広まった。
世界約200万人が死亡
日本約300万人が罹患、7,700人以上が死亡 |
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| 1956.10.10 |
イギリスのウィンズケール火災事故と放射能汚染
・1947年、核兵器の材料となるプルトニウムの生産を行うため、ウィンズケール原子力研究所が着工された。近くにあるプレストン市のウラン処理工場 Springfields
と名前が似ていることから、混乱を避けるためにセラフィールドではなくウィンズケール (Windscale)
の名前を採用した。こちらも付近の村の名前に由来する。
・1954年、英国原子力エネルギー機構 (UKAEA: United Kingdom Atomic Energy Authority、現在は AEA Technology plc.) が設立されるとともに、ウィンズケール原子力研究所より所有権が移動された。
・1956年10月17日、ウィンズケールに隣接するコールダーホール原子力発電所が、マグノックス炉の方式で世界初の商用発電を開始し、名称も「ウィンズケール・アンド・コールダー研究所」 (Windscale and Calder Works)
となった。
なお、世界初の原子力発電所は旧ソビエト連邦のオブニンスク発電所である。
・1957年10月10日、ウィンズケール火災事故が起きる。この事故は世界初の原子炉重大事故となった。英国北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理工場)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。
・避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け、数十人がその後、白血病で死亡した。
・現在の所、白血病発生率は全国平均の3倍。当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。なお、現在でも危険な状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロを汚染し、ヨウ素(ヨード)の危険性を知らせたことで有名である。また水蒸気爆発のおそれから、注水に手間取った。
・1971年、核兵器の研究および生産拠点としての操業終了に伴い、新たに設立された英国核燃料公社 (BNFL: British Nuclear Fuels Limited) に生産部門が吸収統合され、ウィンズケールの施設の大半が BNFL の管理下となった。
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| 1957.9.29 |
ソ連 ウラル核惨事(ウラルかくさんじ)
・ソ連ウラル地方チェリャビンスク州で発生した原子力事故(爆発事故)。
また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生する事故等も包括することも多い。
・オジョルスク市(Ozyorsk)にある「マヤーク」(灯台の意味)は、兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための原子炉5基および再処理施設を持つプラントであり、1948年から建設された。プラントの周囲には技術者が居住する都市が造られ、チェリヤビンスク65という暗号名を持つ秘密都市として形成された。事故は、この施設を中心に発生した。国際原子力事象評価尺度でレベル6(大事故)。 ⇒1967年春 放射性廃棄物の飛散
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| 1958(昭和33年) |
吉田正一と「超自然科学研究会」とアメリカ人霊能者K.M.ラインハートの物理現象の実験研究
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P285 |
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1950年代後半
1961年 |
グレイス・ローシャーと『ゴードンから愛を込めて』
1950年代後半
・最も広く知られているイギリスの自動書記ライターの一人
・私がケンジントンの彼女のアパートを訪問したとき彼女は、自分は霊媒者ではないし、これまで交霊会に行こうとは考えたこともなかったと、きっぱりと言っていた。彼女は1950年代後半のある日までは、ごく普通のクリスチャンであった。
・その日、彼女は座って友人に手紙を書いていた。突然、彼女は心的メッセージを受けたように感じた。「あなたの手をそこに置いたままにして、何が起きるか見ていなさい」という声がした。ほとんど同時に、彼女の手はただペンを握っているだけなのに、勝手に文字を書き始めた。そして“ゴードンから愛を込めて”と文字が記された。
・「誰がこれを書いているの?」と彼女は思った。するとペンが答えた。「私です。ゴードン、ゴードンです」四日後、彼女は勇気を奮い起こして再び同じようにペンを握った。すると三十分にわたってペンは書き続けた。彼女には、それは「ゴードン・バーディック」と全く同じ筆跡のように思われた。
実は彼は15カ月前、彼女と結婚するためにカナダのバンクーバーを出発する準備をしていた。しかし乗船予定の前夜、彼は急死したのである。
・彼女は教会の仲間に頼んで、自動書記によって書かれたサンプルと、生前のゴードンの書いた手紙を一緒に筆跡鑑定の専門家「F・T・ヒリガン」のもとへ送った。後日、ヒリガンは二つの筆跡は同一人物によって書かれたものであると報告してきた。
・1961年、彼女は、『バーディックが死んだとき、彼に何が起きたのか』という本を出した。これは自動書記によって彼から送られてきたあの世の体験談をまとめたものである。
・自動書記によって送られてきたバーディックの内容と、直接談話によって送られてきた内容を比較したとき、どのような違いがあるのだろうか?http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/life-after-death-25.htm |
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| 1960 |
イアン・スティーヴィンソンと「過去生の記憶とされるものから得られた死後生存を裏づける証拠」という論文
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248 |
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| 1960~1975 |
ベトナム戦争
・ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。1975年4月30日のサイゴン陥落時が終戦である。
・ベトナム戦争の本質として、独立戦争の終結時にフランスとアメリカ合衆国がベトナム全土の共産化を抑止するために、傀儡国家の南ベトナムを建国し、ジュネーヴ協定が定めた統一選挙が行われず、分断国家状態が継続されていたので、アメリカ合衆国の傀儡国家である南ベトナムを打倒してベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求める戦争という観点と、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」という観点もあり、二つの本質を合わせ持った戦争だった。
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1944.6.10
~
1961.9.1 |
岡本天明、最後の自動書記現象となる。
五十黙示録第7巻五葉の巻(ひふみ神示 第三十七巻)
第十六帖
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄(いやさか)の仕組。昭和三十六年九月一日(9月1日)、旧七月二十二日(7月22日)(1961年)
最後に、五十黙示録第8巻(補巻)紫金の巻(ひふみ神示 第三十八巻)全14帖あり。
第十四帖
現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、生きることは死に向って進むこと、マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、神示を始めから読めば何事もありやかぞ。奥山はあってはならん無くてはならん存在であるぞ。善人の住むところ、悪人の休む処と申してあろう、奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ。八尋殿の左と右に宮が建つ、奥にも一つ。
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| 1906~1980 |
ルース モンゴメリー(Ruth Montgomery,1912)の予言
ワシントンD.C.通信社のリポーターや新聞のコラムニストの経歴を持つ。
心霊現象の取材を行ううちに自動書記能力に目覚める。高名な霊能力者であったアーサー・フォードや他の存在がガイドとなって、自動筆記による数々の霊的な事象や超常現象を説明し、それらの書籍が次々とベストセラーとなる。
モンゴメリー女史は、1960年代から1980年代の半ばまで、多くの指導霊に助けられて著した
『真理の探索(ASesrch tor the Truth)』、
『未来への敷居(Threshold to tomorrow)』、
『我々の間の異邦人(Strangers among Us)』などの著書を通じて、極移動の実像を詳細に伝えている。
これは、まさに今まで言い続けてきた恐ろしい開闢の姿です。
即ち、宇宙一年の中で夏から秋に変わる時期に起こる秋開闢です。
しかし、終末ではなく、季節の変化で変わる新しい始まりなのです。
■ 極移動が起こる前に、地球には様々な先触れが現れる。豪雪、暴風、洪水などが頻繁に発生し、気温をもさらに乱れてくる。実際的な地軸移動の前に、二つの特別な警告がある。地中海岸の島々、南アメリカ、カリフォルニアに散在している古い火山で爆発が起り、次いで悪性伝染病が蔓延るようになるだろう。その後、地球の大部分の地域で単発的な地震が発生し、北アメリカとアジア、そして南アメリカにわたる広範囲な地域で、古今未曾有の大きな津波が起るだろう。極移動が起きる数日間は、地球全体がまるで揺り篭で寝ている赤ん坊をあやすような振動を感じるだろう。-『Strangers
among Us』
■ 地球上で生き残る人の数字は、一万人に一人を足し、それに一万を掛けたもの[(10.000+1)×10.000]である。
■ 極移動は地球が成熟する延長線上で起きるものである。地球の極移動は自然摂理で、地球自体の浄化(cleaning)のための必然的な過程である。-『Threshold to Tomorrow』より-
■ ニューヨークは水面下に消えてしまうだろう。フロリダ地域の大部分は沈み、点々と浮いている島地帯と化するだろう。ワシントンDCは荒廃化するものの、完全には破壊されない。
ほとんどの行楽地がなくなるが、バージニア海岸はわりと安全であろう。米国の東部と西部、英国、南アジアとヨーロッパの全地域はアトランテスの隆起によって氾濫され、大平洋ではレムリア大陸の一部が浮き上がるだろう。また、ハワイは海の底に沈むだろう。-『Strangers
among Us』(p.228)
■ これまで神として崇められた霊魂が地球に戻って、生き残った人々が新しい秩序に適応するように助ける。その時の人類は、今と変わった人体構造を持ち、闘争と憎悪から解放され、霊的な成熟のために邁進するだろう。新時代の人たちは生命の存在意味を悟り、人間界と霊界の障壁がなくなる。極移動の後に繰り広がる新時代(New age)は、最高の喜びと幸福の時代となるだろう。-『Threshold to Tomorrow』より-
■ その世界には究極的に統一した一つの政府が誕生する。戦争武器がなくなり、人類には二度とない幸福の時間帯になるだろう。未来の世界は、統治方法と信仰方法が一致する政教合一の様相を呈するだろう。-『Strangers
among Us』(p.228)
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1907~
1962年『沈黙の春』を出版
1964 |
レイチェル・ルイーズ・カーソン
1962年、沈黙の春を出版
幼少時は作家を志望。学生生活を経てアメリカ連邦漁業局に勤務。1941年『潮風の下で』、1951年『海辺』、1962年『沈黙の春』等の作品を発表。当時まだ顕在化していなかった、州当局によるDDTなどの合成化学物質の散布の蓄積が環境悪化を招くこと等の啓蒙活動に取り組んだ。
特に『沈黙の春』は、農薬類の問題を告発した書としてこれを読んだケネディ大統領が強く関心を示し、大統領諮問機関に調査を命じた。これを受けアメリカ委員会は、1963年農薬の環境破壊に関する情報公開を怠った政府の責任を厳しく追及。DDTの使用は以降全面的に禁止され、環境保護を支持する大きな運動が世界的に広がった。ただし後の研究では、「DDTの危険性」には疑問の余地もあり、その禁止によりマラリア患者激増という事態を引き起こしたとされる。
『沈黙の春』の執筆中に癌宣告を受け、病と戦いながらの執筆活動であったが、1964年4月14日に癌により死去。 |
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| 1966 |
イアン・スティーヴィンソンと『生まれ変わりを思わせる20例』の出版
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248 |
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| 1969 |
ラインが退職し、この超心理学研究室は現在は大学からは独立した超心理学研究所として存在している、というが、ラインが主導して1957年に設立された「超心理学協会」は、1969年に米国科学振興協会の下部機関に認定された。
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| ~2009.7.31 |
コラソン・アキノ |
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| 1963~ |
七沢賢治と伯家(はっけしんとう)神道
「言霊の第一人者であり、天皇家の祭祀システムだった白川神道の継承者」(「天皇祭祀を司っていた伯家神道」序文にて)。伯家神道とは何か。
※天武天皇が乱れた日本の国を建て直すときに、古から日本に伝わっていた教え(古神道)を、信仰として核心に持たなくてはいけないと気づき、その時信仰を受け持つ官職、即ち『神祇官』を定めました。
またその長官を『神祇伯』と言います。神祇官は、教義によって信仰を説くのではなく、宮中祭祀を司っていきました。これを称して伯家神道と言います。
神祇官は白川家が相伝していったため、白川神道とも言われます。この神祇官は、国家神道に取って代わる明治時代に終わりを告げます。そして最後の神祇伯である白川資長郷が昭和三十六年に帰幽し、白川家は途絶えます。
ところが、伯家神道で伝えられてきた貴重な教えは、井上正鐵(いのうえまさかね)や鬼倉足日公(おにくらたるひこ)らの精進によって今に伝えられております。
・七沢氏は昭和22年(1947)、甲府生まれ。早い時期から学校の勉強はそっちのけで、文学や哲学の本を読みあさっていた。特に高校時代に読んだ三島由紀夫の小説「英霊の声」に強い衝撃を受けた。その内容は、木村先生という審神(さにわ)者が主催する「帰神(かむがかり)の会」で、盲目の少年に二・二六事件で散った青年将校の霊をおろし、その霊の思いが切々と語られていくという内容である。
*審神者とは、祭祀を仕切り、神代(かみしろ)が受けた神意を解釈する役割を担う人。
・また、七沢氏は小さい頃から、自分がいつの間にか体から抜け出ていて、あわてて戻るという奇妙なこと(※体外離脱)がしばしばあった。そのような少年期を過ごす中で、16歳のとき、啓示のような直観を受けた。「宇宙には意思がある」と。
・やがて東京の大学へ。東京にやる条件として、「宗教と哲学だけは専攻しない」というのが父親との約束だったが、当時は学生運動の真っただなか。学生運動でほとんど授業がなかったこともあり、水を得た魚のようにありとあらゆる宗教の門を叩いたという。
大学院時代は宗教学を専攻。・・・
・この頃に「小説すめらみこと」(森佐平著)で、「伯家神道」(はっけしんとう)の存在を知る。
“ここに大きな宝があるに違いない”と直感し、かつて伯家神道の調査にかかわった神社本庁の岡田氏、行法を受け継いでいる安見晴子氏、高濱浩氏と出会っていく。特に高濱氏は、自身の定年後に七沢氏に行法を授けることを約束する。
・七沢氏は1980年に結婚、1982年に甲府に戻り、奥様の久子さんは医療クリニックを開業。七沢氏は、久子さんともども「おみち」の修行を始める。白川の行法は一般的に「白川神道」、「伯家神道」と呼ばれ、門人たちはその行を「おみち」、「御修行」と呼ぶのだという。
・1982年4月18日、定年となった高濱氏は、約束通り七沢氏の自宅を訪れ、八畳の和室にしめ縄を張り、神殿、神前を設けた。それからおよそ7年間、毎月七沢邸に4、5日滞在して、七沢氏に行を授け、1989年「あなたに、三種を伝授します」と伝える。
その翌月、かねてから体調を崩していた高濱氏は、他界した。
・七沢氏は今、「言霊学」においても第一人者といわれる。
大学院生時代に、国会図書館で小笠原孝次の著作「言霊百神」に出合い、日本語の一音一音を中心にした整然とした世界観に強い衝撃を受け、すぐさま小笠原孝次氏に電話し、その足で自宅を訪ね、その日から毎日のように通って教えをうける。
「言霊学」の中心は古事記の解釈で、七沢氏は次のように言っている。
私たちが普通に接している古事記は、江戸期の国学が生まれて以来の解釈で、端的に言うと、古事記には「言葉が神である」というメッセージが設立期から隠してある。ものすごい直感を持った人が、言葉が神だということを実感し、それを五十音に並べて、それを残すために、古事記に編みこんだに違いありません。
七沢氏が、著者佐々木重人氏の「生きている目的とは何ですか」の質問に答えた文のなかに、次の言葉がある。
高濱浩先生は、最初に言いました。「あなた、神をこの手で掴(つか)みたいですか?」と。私は、ああ!いいなと思って、「はい、掴みたいです。」と答えて、それから御修行が始まりました。
自分で神を掴まないと信仰になってしまいます。お拝んじゃ駄目なんです。祈ってすがるんじゃなくて、決意を表明して、神の働きのひとつになるためにご加勢くださいという姿勢です。
七沢先生が高濱浩先生から受けた教えは、実は一つだけだったという。
それは、「慢心してはいけません」ということでした。高濱先生は行法を伝えるたびに、毎回必ずこう言われていたそうです。神に通じ、言霊がわかればわかるほど出てくる感情かもしれません。
「慢心(まんしん)」は、「満心」とも表現できます。主観的な心で満たされることが「慢心」につながります。慢心している自分を客観視することが必要になってきます。
結局、一人一人が神となるしかない。もともと、そういう存在としてあるのが人間であり、人間とは創造主の仮の宿りです。だからこそ自分自身で神をつかまないと信仰になってしまう。拝んではいけない。神にすがりつくのではなく、決意表明をして、神の働きの一つとなるためにご加勢くださいという姿勢が大事です。ですから、伯家神道には(祈願文としての)祝詞はなく、四つの祓があるだけなのです。 ―― 七沢賢治
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1901~
1963 |
M.ドーリル博士と秘教真義
1901年アメリカに生まれ、1963年11月の感謝祭の日にこの世の肉体を捨てられました。本書第一部「聖者の教え」に出てくるセートンは、M.ドーリル博士ご自身のことを象徴的に書いておられる。
本書第一部は若干、自伝的な面も含んでいるのです。M.ドーリル博士は、生まれながらにしていくつもの前世の記憶を保持してこられた稀有な方ですから、この世での学校教育は受ける必要は無かったのです。ですが、義務教育を受けないと父親が処罰されるというので、小学校の6年生のときだけ通学したといっておられます。
ドーリル先生は、23歳のときから8年間にわたってチベットと印度で偉大なる聖者たちから秘儀の奥義を学んでこられ、聖シャンバラの大師の使命を帯びてアメリカで、ブラザーフッド・オブ・ザ・ホワイト・テンプルという州公認の教会と大学とを創設されました。
我々の地球は、これから二千年続く、地球最後の第七光明期に入っており(1956年から)、それに対する準備として聖シャンバラの計画のひとつとして作られた諸団体の一つがブラザーフッド団なのです。宗教的なことにあまりなじみの無い読者には、本書の内容の一部には信じ難い面や難解な点もあるかもしれませんが、世俗的常識にこだわらず心読することと、読み重ねることとによって徐々に視野が開けてくることでしょう。
宗教的知識の豊富な読者には、本書の内容で反発を感じられる面もあるかもしれませんが、先入観と既成概念にとらわれず虚心坦懐に読んでもらいたいと思います。
ドーリル先生の書いておられることは、全てご自身で実際に見聞体験されたことばかりなのであって、推論憶測や受け売りで書いておられるところは一箇所も無いのであるということを強調しておきます。
秘教真義-訳者(林 鐡造氏) はしがきによる
しばしば、我々は何かいやなこと、、聞きたくないこと、思いたくないことから心も意識も遮断し始めるものだということを知っていませんか。
世の中には、忘れてしまいたいこと、記憶から抹殺してしまいたいことが多いものだから、我々の記憶の中にはブランク(忘却)があるのである。
しかし、これは正常な方法での悪念の除去法ではないのである。
我々が意識の全力を挙げて、その悪念を変化させ、変質させ、ついにはそれを愛するようになるという方法で、その嫌な念を除去したわけではないからである。それが憎いからというので、何だろうと、追放し、消し去ってはいけないのである。その嫌なものに我々の創造意識能力を振り向けて変化変質させて、それから神聖法則に生きなければならないのである。
光を求める全ての真の求道者は、真理を系統的方法で探究することから始めるべきである。
誰に対しても最終的には宇宙意識と同調させるように導く、よく計画された方法に従うべきである。 |
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| 1963 |
「最後の奇蹟」、「ファティマ第三の預言」
青山圭秀著 幻冬舎文庫 265P~
1963年、あるドイツ系の新聞に掲載された記事がある。外交関係筋から入手したとしている。
そこの収められた「ファティマ第三の預言」は、いつものように、悔い改めを求める聖母の言葉から始まっていた。
「愛しいわたしの娘よ、心配はいりません。神の母であるわたしは、わたしの名において世界が次のことを知るよう、願っているのです。
それにより、あなたは激しい敵意を買うことになるでしょう。でもこれからわたしの言うことに耳を傾け、深く心にとどめなさい。
人類は善良にならなければなりません。これまで犯してきた、そして今も犯し続けている罪の許しを、願わなければならないのです。」
「さあ、いよいよわたしの名において、はっきり宣言するのです。
すべての人類の上に、大いなる罰が降りかかるでしょう。このことは、すでにラ・サットで二人の子供を通じて告げましたが、今、あなたの前で繰り返します」
「人類は、神が期待されたように進化しませんでした。御父に対する冒涜の態度をとりつづけ、今もなお、その恵をないがしろにしています。秩序の支配する場はどこにも見当たらず、悪魔は国家の首脳さえ支配し、世界の行く末を決定しています。
サタンは実際、教会の最高位まで首尾よく迎えられることでしょう。
サタンは偉大な科学者をそそのかし、人類を数分で滅ぼす兵器を開発させます。
権力者を影響下に置き、それを大量生産するよう仕向けます。
もし人類が拒否しないのであれば、わたしは、御子の怒りの腕を振り下ろさせないわけにはいきません。
世界や教会の指導者たちがこの動きを阻止しないのであれば、その仕事はわたしが引き受けることになります。
わたしは、御父にお願いし、裁きが人類に下るがままにするでしょう。
そしてそのときは、よろしいですか、神は、ノアの洪水よりも厳しく、仮借なく人類を罰したもうのです。偉大な者も、力ある者も、とるに足らぬ者や弱い者と共に、非業の死を遂げるでしょう。」
11月22日のジョン・F・ケネディ(アメリカ)暗殺。
アメリカ政治および国際社会の大転換点となった。黒人の公民権法も関連か?
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| ~1966 |
桜沢如一(ゆきかず)-マクロビオテックの創始者
「無双原理・易」
「この世を幸せな世界にしようと思うと必ず食に突き当たる。」 |
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| 1967 |
ソ連 放射性廃棄物の飛散
・放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されていたが、1967年春に干魃が発生した際に湖底が干上がって乾燥した。
・放射性物質を含む砂や泥が風にのって空気中に飛散したため、汚染地域が広がり周辺住民に放射物質による新たな健康被害を生むこととなった。
・また1950年代に河川に投棄されていた放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の健康被害を深刻なものとしている。
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| 1880~1968 |
ヘレンケラー
社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。
また、著作家としても書き続ける。 |
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| 1929~1968 |
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。
キング牧師の名で知られる、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者的役割を果たした活動家。
「I Have a Dream」 |
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1919~
1940~1968 |
中村天風(てんぷう)
日本の元祖「プラス志向」-三忽三行「怒らず、怖れず、悲しまず」「正直、親切、愉快」-人生は心一つの置き所
「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している
日露戦争で113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。
日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。
33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。
結核を治すため世界を飛び回り「 世界一の大学者ですらそう言うんだからもう駄目だ 」と失望のどん底で「 せめて日本で死のう 」とマルセイユの港を後にしますが、偶然にエジプトで停泊中、船に同乗していたヨガの大聖人カリアッパ師にめぐり会うのです。
「おまえはまだ死ぬ運命にない。
おまえが知らない方法で、助かる方法がある。
私について来なさい。」
その言葉に「サーテンリー。(かしこまりました。)」
と一言答えて、行く先も知らないのに天風はカリアッパ師一行について行ってしまいます。
このカリアッパ師は、実は、「カルマッパ・カキャブ・ドルジェ」(1871~1922)でラマ教カルマ・カギュ派の第十五世管長でありヨーガの大家だったのです。
吐血ばかりでやせ細り、死へ向かっていた中村天風はインドと東ネパールの国境に位置するカンチェンジュンガの山麓のコーグ村で厳しい修行に入ります。
滝の前で瞑想したり、師に出された課題をひたすら考えたり・・・。
それは、生きるために行なう背水の陣のごとき修行でした。
ヨーガでは、悟りや奥義を師から弟子に口で教える事はほとんどありません。
課題に関しての答えは、自分で見つけ出さなければいけないのです。
初めは、身体の調子にばかりとらわれていた天風。
師に「元気か?」と問われても
「どうも、調子がすぐれません。」と返す。
「私は、お前の体の状態を問うているのではない。」とカリアッパ師。
瞑想と師とのやりとりの中で天風は、身体ばかりを意識するのではなく、「心の持ちよう」で生きていることそのものが変わってくる事を体得するのです。
やがて、インドの山奥で無の境地を悟った中村天風。
それを悟ると、身体はみるみる良くなっていったそうです。
後に、中村天風は上海で孫文を助け革命運動に加わり帰国。
実業界に進出し、東京実業貯蔵銀行頭取、大日本製粉(いまの日清製粉)など数社の重役として活躍するのですが、
天風43歳のとき突然すべてを投げ打って、日比谷公園で大道説法をはじめるのでした。『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』より
1919年(43歳)突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。
1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。松下幸之助他門下生多数。
1968年12月1日死去。享年92。
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| 1968 |
カール・ウィックランドと除霊治療
アメリカ人の精神科医ウィックランドは、早くからスピリチュアリズムへの理解があり、交霊会を持っていました。あるとき霊界から提案を受けました。それは彼が扱っている精神病患者の多くが低級霊による憑依が原因となっているので、その霊を患者から引き離し、霊媒者である妻アンナに乗り移らせるので、霊と対応して目覚めさせ救ってほしいというものでした。そうして始めた除霊治療は30年間にわたり、おびただしい数の憑依霊と精神病患者が救われました。
この除霊治療についてまとめた著書『死者と交わる30年』が1968年に出版されました(*初版は1924年)。これはスピリチュアリズムの心霊研究上、きわめて貴重な資料と言えます。
スピリチュアリズムの歴史より
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『死者と交わる30年』 |
| 1968~1969 |
香港かぜ
H3N2が引き起こしたカテゴリ2に価するパンデミック。
H3N2とH2N2の抗原不連続変異が新型ウィルスとして一連の流布を引き起こした。
香港かぜでは1968年から1969年にかけて少なくともおおよそ50万人が亡くなったと考えられる。
また、アメリカでも500万人の罹患者が出ており、33000人が亡くなった。
この流行ではH3N2とH2N2の両方がトリインフルエンザと共通する遺伝子を含んでいたとされる。
この新型は豚が人型と鳥型の両方に感染して、すぐに人間に感染するようになった。
豚は彼らに分岐している亜型の再分類を証拠付けたため、豚はインフルエンザの中間的宿主であることを暗示した。
しかしながら、他の宿主も同様の複数の感染をすることができ、鳥から人間への直接感染も可能である。H1N1は鳥から直接人間に感染するようになった可能性もある。
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| 1969 |
チャールズ・タートと『変性意識状態 Altered States of Consciounsness』
この著書で一躍有名になった。
「変性意識状態」(日常的な意識状態、睡眠状態以外の意識状態)という言葉の生みの親。
サイキック(超能力)の実験的研究に取り組んでいる。テレパシー、夢、予知、遠隔視、肉体離脱などの現象の解明に取り組んでいる。
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『変性意識状態Altered States of Consciounsness』 |
| 1969~1974 |
終末医療
1969年、アメリカの有名なフォト・ジャーナリズム雑誌『ライフ』がキューブラー・ロス博士の授業に注目して紹介し、全米に大反響を呼び、死にゆく人の心のケアを医療の課題として正面から訴えたキューブラー・ロス博士の名は全米に知れ渡った。
・アメリカではこれが契機となり、医大に終末医療の講座ができたり、 1974年にはアメリカ初のホスピスが誕生し、1976年には延命治療を望まない権利を認める自然死法が成立(カリフォルニア)。
・1982年には老人保健でホスピスケアが認められた。 |
ジャーナリズム雑誌『ライフ』がキューブラー・ロス博士の授業に注目して紹介 |
| 1970.1.3 |
ケイ・オバラの娘、エドワーダ・オバラが長い眠りにつく。
エドワーダは、妹のコーリンと仲良く遊ぶ、とても従順なカソリック教徒だった。
1970年1月3日、わずか16歳の時に糖尿病で昏睡。以後、母親のケイが、自宅で看病を続けていた。看病をはじめて39年目に入った2008年3月7日、ケイは天国へ旅立ち、その後、妹のコーリンが母の遺志を継ぎ、自宅で看病を続けた。
エドワーダは、2011年3月27日で58歳に。
ウエイン・W・ダイアー博士が『 "A Promise is a Promise" 眠りながら奇跡を起こす少女』として出版 |
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| 1970~ |
ウィリアム・マクギャレー医博夫妻、エドガー・ケイシー医療リーディング診療所建設
のちに保養所、更正センターも備えた統合医療施設となり多大の成果 |
ウィリアム・マクギャレー
『奇跡のエドガー・ケイシー療法』 |
| 1971 |
コリン・ウィルソンとウィリアム・ジェームズの法則
1971年にコリン・ウィルソンは出版社の依頼で『オカルト』を発表した。「オカルト」ブームの発端の一人である。この時期のウィルソンは宗教や心理学には強い関心を抱いていたが、オカルティズムに対しては懐疑的だった。ウィルソンはラスプーチンとグルジェフを、オカルティズムを超えて評価できる思想家であると考えている。
ウィリアム・ジェームズの超常現象に対する考察「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」に対し、コリン・ウィルソンは、これを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけた。
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| 1970~1980 |
「ニューエイジ」(New Age)(ニューエイジ・ムーブメント、ニューエイジ運動)
アメリカ合衆国、とりわけ西海岸を発信源として、1970年代後半から80年代にかけて盛り上がり、その後商業化・ファッション化されることによって一般社会に浸透、現在に至るまで継続している、霊性復興運動およびその生産物全般、商業活動全般を指す場合が多い。
・字義通りには「新しい時代」であるが、新しい世界、新しい思想を含意する。
この表現の背景には、ヨハネの黙示録に見られ、一部のキリスト教徒が採用している千年思想がある。すなわち、神と悪魔の戦いが千年続き、最後に神が勝利して、ニューエイジ=新しい世界がやってくるというものである。
・基本的には、伝統的な教えの中から、古くて役に立たない教えを廃し、真の意味での教えを明らかにしようという運動である。
・ニューエイジ運動は、60年代のカウンターカルチャーをその直接の起源とする。物質的な思考のみでなく、超自然的・精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放された、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする運動である。
・その中には、以下のような共通項をもつ、新旧の多様で雑多な要素が、互いに力動的に関わり合いながら共存している。
- 反近代、反既存科学、脱西欧文明(禅や道教、チベット仏教などの東洋思想やネイティブ・アメリカンの思想、あるいは“異教”的文化への親和性)
- ポジティブ・シンキング(個人に内在する力と可能性の強調)
- 五感や身体性・主観的体験の重視
- 論理的思考に対する直観的理解(「気づき」)の優位、
- 快の感覚や欲望の肯定、
- 旧来の社会道徳の否定と極端な自由主義の思想、
- 汎神論的・宇宙神的存在あるいは「大いなる意志」への信仰と、万象に対するその介在を根拠とする「偶然性」の否定
- 自然への回帰(しばしば人間以外の生物との精神的な交感を含む)
- 女性性の尊重、など。
・具体的な構成要素としては、チャネリング/リーディング、瞑想法、前世療法・催眠療法等の心理療法、ヨガや呼吸法・さまざまな整体術等の身体技法、ホーリスティック医療、心霊治療、アロマテラピー、オーラソーマ、パワーストーン、輪廻転生信仰、さまざまな波動系グッズなどを挙げることができる。
・これらのうちのいくつかの物は一般に「オカルト」と呼ばれる領域に属する。?
・その裾野部分では、ニューエイジは現代の行き過ぎた消費文明や経済的効率主義に対して警鐘を鳴らし、これを中和しようとするようなオールタナティヴな社会思潮として機能する可能性を期待されている。しかしその一方で、しばしば、その信奉者の理性的・論理的・科学的な思考力を鈍化させて批判力を鈍らせ、また極端な場合には、破壊的カルトやオカルト商法といった反社会的な形をとって立ち現れる。そのようなわけで、ニューエイジの功罪について、明快な評価を下すことは容易ではない。
・ニューエイジ的な価値観を信奉する人のことをニューエイジャーという。
・「ニューエイジ」という呼称は、具体的には「みずがめ座の時代」(age of aquarius)を意味する。
・この呼称は西洋占星術に由来し、地球の歳差運動によって黄道上を移動し続けている春分点が、ちょうど20世紀の後半に、黄道十二星座のうお座からみずがめ座に入るとの主張による。ただし、実際には21世紀においても春分点はうお座のままである。
・上述の主張では春分点がうお座にあった時代は、ほぼキリスト生誕から現在までの約2000年間と重なる。
・さらに、キリスト教には、イエスを魚によって象徴させる慣わしがある。このことから、「ニューエイジ」という言葉には、今こそ既存の西洋文明・キリスト教の支配する時代が終息し、自由で解放された「新時代」(=みずがめ座の時代)の幕が開いた、という意味が込められている。
・この思想の内容として主要なことはone ness(ワンネス)といわれる。つまり、この宇宙は唯ひとつであるというものである。ニューエイジの本質は破壊的なものではなく、新しい人類のライフスタイルの提案と、今の社会システムが完全ではないという問いかけ、また新たなライフスタイルはいつでも実現可能であるという積極的な働きかけにあるというのがチャネラーによる見解である。
しかし一方で、一見もっともらしいと思われる内容とひと目で分かる形式的・論理的破綻がニューエイジと呼ばれる運動の顕著な特徴であるという批判もある。
・ニューエイジャーの間で流行った占いのようなものがある。ニューエイジを理解するひとつの例として紹介する。
・何をするべきか迷ったとき-手近な本(または雑誌)を手に持ち、適当なページを開いて見る。適当なページを開くと、そこに人生のヒントとなることが書かれているという。ニューエイジャーいわく「偶然というものはない」。つまり、適当なページを開くことも偶然ではなく、そこにヒントが書かれているのも必然であるという。またゴータマ・ブッダの教えを引用し、たとえ、すごいヒントにであっても、またそれがヒントにならなくても、どちらにも「こだわるな」という。
・またニューエイジでは、しばしば宇宙人もしくはエンティティーという存在について語られる。これらの存在は神ではなく、信仰の対象ではないと説く。一部では熱狂的に信仰する人もいるが、ニューエイジャーにいわせれば、そういう依存する信仰はオールドエイジであるという。
・ニューエイジの特徴には「一元論」「汎神論」「自己聖化」「自己実現」などがある。
- すべてでひとつである。
- 偶然というものはない。
- 弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
- しなければならないことというものはない。
- 善悪というものはない。
- 信じる必要はない。
- 努力はしなくてもよい。
- 与えたものが返ってくる。
- すべてのものは聖なるものである。
- 人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
- どんな現実も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。
- アファーメーション(確認する)
やや共通認識事項
・輪廻転生とカルマの法則
・地球外知的生命との接触
・過去の文明の周期と埋もれた文明の実在
・人体におけるチャクラや霊的諸次元の存在
・水晶・音・香・場所などが持つ神秘力
・指導霊の実在
・体外離脱や誕生前記憶の体験による霊魂の存在の確認
・チャネラーやシャーマンの真正性
その他
・超常的感覚や能力の実在
・思考が現実を変える
・現代こそ意識進化の時代
・意識変化は宇宙的進化過程のひとこま
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・ディヴッド・アイクの著書『大いなる秘密』に書かれている内容で、注目したいのは『ニューエイジ運動』の真相である。
1970年代後半から80年代にかけて、アメリカを中心に世界的なブームとなったニューエイジ運動の仕掛け人は、誰あろう、『バビロニアン・ブラザーフッド』そのものであったということだ。
しかもその中心人物が悪名高き「キッシンジャー」であったこと。
1970年代からその活動がなされてきたことであった。彼らの常套手段はいくつかの真実に多くの嘘をまぶし、人間の正しい判断基準を狂わすことであった。ニューエイジ運動もまたそのひとつであったようだ。
私も80年代のニューエイジ関連の書物には影響を受けた。ニューエイジ思想の代表的な著書も多数読んだ。しかし、その思想を知れば知るほど一種の違和感が芽生えてきたのである。とりわけ私が最も危惧したのは、ニューエイジ思想が持つ現実感覚の喪失であった。
・知人の中にもいたくニューエイジ思想にかぶれた者がいた。瞑想三昧の生活をし、あちこちで開かれるセミナーに参加しているうちに、彼が社会生活から遊離していくのが傍目にも感じられた。逢うたびにオーラの輝きは消え失せ、空ろな目をした無気力な人間となっていた。私が危惧したとおり、仕事はおろそかとなり、経済的に困窮し、最後は先物取引やマルチ商法に手を出して自己破産した。彼にとっては何のためのニューエイジ思想だったのだろうか。
・私は若い頃、故あって出家を真剣に考えたこともあったが、仏教の持つ厭世的で隠遁的な側面に嫌気がさして、考えを変えた経験があった。ニューエイジ思想の新しい概念は当初は新鮮に感じられたが、やがて自己の内面だけに閉じこもりがちになり、現実とのギャップが深くなることに気づき始めた。また私のような原日本人には、西洋的な神や天使達の名前は生理的に受けいれられなかった。ある日、私はそれまで読んだ総ての本を捨ててニューエイジとは決別した。今考えてみれば、正しい選択であったようだ。
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霊的戦いの対象/ ニューエイジ運動(New Age Movement) (1)
ニューエイジが迫っています。誰も、どんな勢力も、突進してくるこの巨大な台風の進路に立ったら、災いを免れることはできません。ニューエイジ運動は、色々な服を着て、既に私たちの横に近く来ています。ただ私達が知らないだけなのです。敵が近くにいるのに、目に見えないのです。
ニューエイジの思想は、癌細胞のように地球の文化の中に深々と広がっていっています。カトリックは言うまでもなく、このまま行けば、キリスト教文化もまもなく犠牲になって消えるはずです。ニューエイジ運動は、小説の話ではありません。単純な文化運動でもなく、イスラム教圏の世界を掌握する祈りとも、そのスケールが違うのです。全人類を惑わし、創造主なる神様と救い主イエス・キリスト、そして救われた民を導き守って下さる聖霊の存在を知らなくさせることが、ニューエイジ運動の隠された目標です。
ニューエイジは、神智学(Theosophy:
神に対する知識を研究する分野)を土台にして、新しい時代を開こうという運動です。ニューエイジ信奉者は、神々に関する霊的な知識を、神に接する行為(チャネリング)を通じて得ます。ニューエイジの予言者は、チャネリングを通じて、悪霊が言ってくれるとおりに、助詞や助動詞のひとつも漏らさずに、本に編集して出します。その内容は、地球上のあらゆる宗教を統合(キリスト教以外のあらゆる宗教は、被造物崇拝であるから、これが可能)して、単一世界政府、単一世界経済体制、新時代指導者(反キリスト)を誕生させるということです。自分の終末を知っているサタンの最後の陰謀であり、作戦です。その計画と戦略の緻密性は、想像を超越するほどです。
これまでの6千年間の原始宗教から現代宗教に達するまで、数多くの宗教で人間を惑わしてきたサタンが、今は全世界に分散しているその勢力を一つに固まて、神様に敵対する一大宗教的クーデターを起こすということです。
しかし、ニューエイジ信奉者は、一様に平和と愛と一致など、美しいスローガンを掲げて人間は、みんな無限な可能性と創造力を持っていると主張します。彼らはまた、いままで人類は進化論的輪迴(カルマ)を通じて、これくらい発達したが、これからは各自が瞑想を通じて、個人の精神(consciousness)を一つに集めて、集団的、宇宙的精神の次元で昇華させて、新しい時代を開くべき時だと主張しています。
このために
ニューエイジ運動は、アダムが堕落した以後、人間がやみの中で行なってきた(特に、バビロンとエジプトの)
秘密儀式、神秘主義、魔術、占術、心霊術、チャネリング、瞑想、フリーセックスなどの方法を動員しています。彼らは、これを通じて悪霊の世界と接して、人間の肉体的な限界と世界を抜け出して、神的な境地に到達するということです。
別の言い方をすれば、新時代運動は創世記3章事件の以後に現れた神様の救いの働きとともに並行してきたサタンの運動です。このニューエイジは、現在西洋の服を着ているのですが、実際には、仮装した最も古い宗教であるヒンドゥ教にその根をおいています。
ニューエイジ運動は、1875年ヘレナ・ブラヴァッキーというロシア出身の女性が米国でいろいろな霊媒者と神智学(接神学)協会を創設して、本格的に開始しました。その後に、英国出身の女性アーニー・ベサント(この協会の2代目会長)は、サタンの指示で宗教統合の実質的な基礎と運動の理論を体系化して、隠密に準備してきました。1975年にはマリリン・ファーガソンが彼女の本'水瓶座のたくらみ(アクエリアン革命)'で、自分の主張を全世界に公開しました。
もうひとりの重要な人物は'マイトレーヤの使命'
の著者、ベンジャミン・クレームで、彼は1982年 ニューヨークタイムズ等 20個の主要新聞に
"キリストは、今ここにいる"と宣言する全面広告を出しました。彼は新時代を開いて導いていくキリストは、既に用意されていて近いうちに現れるはずで、その日には世界中が直感的に彼が新時代を導いていく世界の指導者であるということを知っているようになることだと大言壮語しました。ニューエイジは、人類の人間性回復、汚染された環境の回復、真の平和と幸福を叫んで、新しい世界秩序、新しい世界化、新時代革命、新意識
などのスローガンを全面に出して、政治、経済(金融)、社会、文化、教育等に既に深く食い込んで、かたい組織を築いています。
彼らニューエイジ信奉者達は、イエス・キリストを話す者を最も恐れて憎みます。救い主イエス・キリストを否認して'人間がすなわち神である'という主張を展開して、創造主なる神様を否認するようにさせます。これは、すなわち創世記
3章に現れて'善悪を知る木の実を食べれば、あなたは神様のようになる'とエバを惑わしたサタンの声です。人間の自尊心を極大化させて、神様を否認するようにさせるサタンの戦略、これがまさにこんにち米国などの先進社会を握っている最もかたい壁です。
こんにち、彼らの正体を知らなくて、ニューエイジに陥って苦しんでいる人々が、全世界で随所に広まっています。しかし、彼らは既に自分たちの力だけでは、この巨大な網から抜け出す力を失っていまる人々です。"きて私たちを助けてください!"
"助けてください!"という心を痛める霊魂の泣き叫びが聞こえてきます。その霊魂をサタンの手から取り出して来る者はだれでしょうか。
ニューエイジの周辺部
ニューサイエンス
この考えの基本は、すべてがつながり合い断片的に切り刻むことができない包括的な全体であり、全体には部分総和以上のものがあるとし、関係性や全体に重点を置く全体論的(ホリスティック)な世界観と呼ばれるもの。ニューサイエンスは従来科学の対象になりにくかった生命現象や意識、心などもその範疇とした。
トランスパーソナル
心理学この代表がカウンセリングの創始者であるカールランソン、ロジャーズであり、また、生まれつき持っている能力を発揮するのが自己実現であるとの提唱者たるアブラハム、マズローであった。さらにユングの心理学や東洋思想が影響を及ぼしあって、1960年代後半にトランスパーソナル心理学がアメリカで誕生した。この心理学は、宗教における悟りや神秘体験とその意義を心理学の枠内で考え研究し、霊的次元の存在を前提とした人間理解に立って治癒を実践しようとするもので、精神科医療や臨床心理の実践に一定の影響を及ぼしている。
ヒューマン・ポテンシャル運動(自己啓発セミナー)
心理学の知識や技法、を用いて参加者の自己啓発や自己実現を目指すもので、日本では1980年代後半以降、自己啓発セミナーの名で広まった。セミナーを体験して、より宗教的、神秘的な自己変革に進んでいく参加者が少なくないといわれている。
ホリスティック医療運動
近代医療が人体を機械に見立て病気とは部分を直すこととしていたのに対して、その部分の欠陥であるとして、治療はその全体としての身体、身体の一部の異常は全体の異常の現れと考えて全体論的(ホリスティック)医療を目指すもの。(世界保健機構)の健康の定義に、「霊的に健全な状態」という言葉を追加する提案がなされている。ホリスティック医療の登場に、医学界が根本的に変わろうとしている。ホスピス運動とも関連している。
マクロビオティック
厳格な玄米菜食を実践して、肉や果実を避ける独特の自然食の運動。東洋哲学に基づいて陰陽のバランスを重んじて現代病や成人病を治そうとする運動。
超越瞑想(TM)-インドのヒンドゥー教導師マハリシ・マヘーシュ・ヨギが1958年に始めた瞑想法の運動。1日朝夕2回15分から20分間、マントラを唱えて瞑想することによって、潜在能力が開発するという。ある都市の1%の人がTMを実践すると社会環境が改善するという「1%効果」という考え方がある。東洋的瞑想法を、万人に受け入れやすい仕方で広めようとしたところにTMの大きな特徴があるといわれている。
神智学
ブラヴァァツキーやオルコットらによって1875年に神智学協会が結成された。西洋の神秘思想とスピリチュアリズム、さらにインドのヒンドゥー教や仏教、チベット密教の影響を受けて独自の秘教的な体系を打ち立てた。
日本における「精神世界」とアメリカの「ニューエイジとその周辺」はほぼ重なり合う。精神世界という用語を日本版ニューエイジ運動として使用されている。なお、1970年代以降、ニューエイジ運動は、「新しい意識や文明への移行が近い」という多くの人々の期待を集めて、先進国にとどまらず第三世界も含めて消費文化が発達した大都市において同時多発的に、多様な形態で展開している運動であるという。日本、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ大陸、オーストラリア、ニュージーランド韓国、ブラジル、タイ、ナイジェリアなどにその現象が見られるという。
「実はここで問題になっている運動、ないし新しい文化は、アメリカや日本の地域的な現象なのではなくグローバルな現象としてとらえた方が妥当であるというのが筆者が強調したい点である。過去の歴史上の宗教運動はいずれもある地域で発生して、他の地域に伝播するという形をとった。ところが、この運動は世界の各地で他の地域の運動の影響を受けつつも、それぞれ自生的に多様な形で展開しているのであり、相互影響的・同時多発的な運動と見るべきものである」(島薗進著「精神世界のゆくえ」P.48 |
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| 1970~1989 |
国営農地開発事業
・旧農林省が1970年代、食料自給率アップと農業の大規模化を目指して始めた。公費約1兆8000億円を投じ、全国で農地の造成や区画整理、水利施設整備などを進めたが、土壌や水利不備の問題などから、事業は2003年に完了した。この間、国は減反政策や農産物の輸入自由化を進め、農家の高齢化もあって耕作放棄地が増えた。事業費負担は、国が約70~75%、都道府県が約20%、市町村と農家がそれぞれ約3~5%。負担金償還の影響を受け、岩手県藤沢町は05年、他市との合併協議が一時頓挫し、群馬県嬬恋村は09年、「早期健全化団体」に転落したこともあった。
農地整備、土地改良、農道整備、農業用水確保のダム建設などが展開され、事業化されたのは全国で176地区。農業用ダムを含んだ場合の事業費の平均額は368億円。 |
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| 1971~ |
ロバート・モンローとモンロー研究所
・ロバート・モンローという実業家が1971年にアメリカのバージニア州に体外離脱体験(OBE)とその先にある世界を研究する施設としてモンロー研究所を設立。
・エリザベス・キューブラー・ロスも体験談を自伝に綴った。
・『光の剣』の著者、クリスチアン・タル シャラー博士も在籍 |
『体外への旅』
『魂の体外旅行』
『究極の旅』 |
| 1972 |
『セスは語る -魂が永遠であること』-9冊のうちの最初の本
・セスの9冊の本の最初の本で、約30年前に出版された。米国では今も出版されている古典。
・チャネラーのJaneは1984年に55歳で死亡するも、セスがJaneを通して口述し、それを速記して出版まで努力した夫のRobは80歳を超えましたが健在。
・本の副題にあるように、魂は永遠であり、その証拠に魂であるセスが本を書いている。
・セスがJaneとは別の人格であることを確かめるために、Jane/Robは種々の心理学実験をやっている。詳しくはこの本で言及されている”Seth
Material(1970)”という本に書かれている。(和訳なし。我々が死を迎えた後どうなるのか、もう一度生まれ直す自由があること、にも拘わらずどうして我々は前の人生を簡単には思い出せないのか…。セスは、アトランティスの前にすぐれた3つの文明が栄えたことを伝えている。3人のキリストの話も。
・9冊の本には数え切れないセスの知恵が在る。『あなた達各一人一人は、魂が生きながらえるためには肉体的には死ななければならないことを生まれながらにして知っているのです』、というメッセージです。ならば、当のJaneの魂は今でも生きているの?
・Janeは1993年に米国の女性のチャネラーを通してRobにあてて1冊の本を書いている。その中で、彼女は、『こちら側には時間の概念がありません。そのため、ここに来て思うことは、地球上で最も貴重なものは時間です』と言っている。
・死、輪廻、過去の文化、多次元的人格存在など広範囲に及んでいる。
・過去を書き換える、確率的偶然という概念についても書かれている。
現在は、過去の積み重ねの結果である。だとしたら、現在が良くなっているのは、既に過去を良いものに書き換えたからに他ならないかもしれない。つまり、誰でも普段から無意識にやっていることを、意図的にやってみることを勧めているようです。
・ニューエイジの原点-1972年アメリカで初版発行以来、世界中で時代を超えて読み継がれている20世紀の歴史的名著。詩人ジェーン・ロバーツを通して美しく語られた「セス」の言葉が日本語にもなっている。
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『セスは語る -魂が永遠であること』 |
| 1972 |
アポロ17号、
ハリソン・シュミットの撮影した地球 |
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1972
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ジェームズ・ラブロックとガイア仮説
・地球全体を1つのシステムとし、物理、化学、生物、人間といった多くの構成要素と考え、それがシステマティックに連動しているという考え方=これがまさにガイアだ=は1972年に「ガイア仮説」にまとめ上げた。
・そもそもの始まりはアポロ宇宙船が月に到達し、そこから美しく、鮮明な地球の写真を地上の人類に送りつけて来たことだった。人類は自らが住む地球像に大感激をした。無辺の空間にぽっかりと浮かぶ地球は、まるで生きた有機体ではないか、と感じ始めた。
・この考えに、汚染された地上の環境に関心を持ち、我らの地球は病みつつあるのではないか、それもそこに住む人類の手によって。そして、きわめて環境コンシャスな考え方「ガイア仮説」が生み出された。
・ラブロックによれば、およそ10万年前に一握りのヒトの集団が、動物を追い込むために森林に火を付けたことがすべての始まりだという。無精だが効率的な方法だった。狩猟の捕獲量は飛躍的に増えた。そして森林は焼けただれた地肌をさらすようになった。ヒトはこの時点で地球の破壊に着手したわけである。⇒それぞれの意識は全体を作り上げるうえでみな自分の役割を果たしている。だから、ガイアのある一部が、ガイア自身の別の一部に対して復讐をするなんていう考えは誤解だろう。(ブルース・モーエン死後探索4 P141より)
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『ガイア仮説』 |
| 1970年代 |
ナンシー・アン・タッぺとインディゴチルドレン
(アメリカの超心理学者)が1982年(今から20年近くまえに!!)に「色(オーラの?)を通してあなたの人生を理解する方法」という本のなかで、色によって人間を分類した中で、藍色(インディゴブルー)がある。
1970年代に始めてインディゴの色を持つ赤ちゃんを見てから、そういう子供たちを探しつづけてきました。
そして4種類のタイプを発見しました。彼女の考えでは、10歳以下のこどもの90%はインディゴだといいます。
※1970年は地球が大きく変わった年だとか…
詳細が全く思い出せないのですが、今日インディゴチルドレンのことを知りました。
新しい価値観、新しい時代に向けて大きなうねりができつつあるのかもしれません。
いつの世も子どもは希望、未来です。 |
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1970年代
~1980.12.8 |
ジョン・レノンとキリスト教に対する発言と平和運動
1960年代に世界的人気を得たビートルズの中心的メンバーであり、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。
1970年のビートルズ解散後はソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。
1980年12月8日(現地時間)、ニューヨークの自宅アパート「ダコタハウス」前においてファンを名のる男性により銃撃され死亡。
キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。
「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」
最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。
「僕がもし、“テレビがイエスより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。
僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。
僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」
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| 1973(昭和48年) |
ユリ・ゲラーの「スプーン曲げ」が有名になる。 |
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1954~
1973~ |
ジュセリーノの予言(ブラジル)
1954年生まれ。9歳の頃から予言が始まり1973から予言を記録 |
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| 1973 |
カトリック教会公認の聖母出現
日本の秋田の聖母。
1973年、アムステルダムの聖母像をモデルに作られた聖母像から涙(秋田大学が調査)、人類に回心を警告。
1984年、教区司教が認可。
1988年ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が「信ずるに値する」との最終判断を下す。
秋田の聖母ホームページ。 |
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| 1973~ |
五島勉と日本におけるノストラダムスブーム
1973年11月25日に初版が発行されると、3ヶ月ほどで公称100万部を突破した。これは『朝日新聞』1974年3月2日朝刊の広告によるものだが、同広告ではこの本が戦後のミリオンセラーとしては15冊目であることも謳われている。出版ニュース社の調査では、1974年のノンフィクション部門ベストセラー1位、総合部門2位(1位は五木寛之訳『かもめのジョナサン』)となった。1998年8月時点で発行部数は209万部、450版となった。
こうした売れ行きによって何冊もの続編が刊行された。第五冊目の『ノストラダムスの大予言 5』(1986年)で一応「完結編」と銘打たれたものの、その後もなし崩しに『ノストラダムスの大予言・最終解答編』(1998年)までシリーズは続き、全10冊のシリーズとなった。
初巻の売れ行きには到底及ばなかったものの、シリーズ作品はいずれも売れ、ベストセラーランキングにもしばしば登場した。
本来「百詩篇集」などと訳されるべき『予言集』の主要部分の名称が、英訳からの転訳によって生じた誤訳である『諸世紀』となっていたり(ここでは『予言集』そのものの換称として用いられている)、架空の研究家の名前や創作と思われる詩や史料が登場していたり、いたずらに「1999年7の月」の詩を誇張したり、ノストラダムスの生涯に関する記述などにもかなりフィクションが含まれているなど、実際にはノストラダムスの予言解釈本というよりも、五島勉の小説という色合いが強いと指摘されている。
だが、と学会関係者が本格的に俎上にのせるまでの長い間、そういった問題点はほとんど指摘されることがなく、ノストラダムスの予言を扱ったテレビ番組などでも五島の著書に沿う形で紹介されることがあったため、この著書による誤ったノストラダムス像が多くの人びとに影響を与える結果となった。
また、『大予言』第一作は、当時の「終末ブーム」への便乗という執筆動機は明らかであるものの、地球規模の環境汚染や全面核戦争など、真摯な近未来の危機への警告書という体裁を一応はもっていた。反面、予言が間違いなく当たるものだということも強調されるという矛盾した姿勢が存在していた。これについては、外れたときの弁明の余地を残したのではないかという指摘もある。後のシリーズでは、中国人民解放軍のヨーロッパ侵略を予想するなど、国際情勢の読みを大きく誤った記述が見られるほか、ユダヤ陰謀論への言及などが見られるようになり、さらには(五島の著書に通底する)白人および欧米文明への嫌悪感などもより強く現れるようになった。
そして、続編でも創作と思われるエピソードが多用される傾向は変わることがなく、特に、「ブロワ城の問答」と呼ばれるエピソードは、他の多くの信奉者たちの著作にも影響を及ぼした。これは、ノストラダムスがカトリーヌ・ド・メディシスに対し、「恐怖の大王」の正体は目に見えないものだと語り、「恐怖の大王」の出現の前に「別のもの」が現れれば人類は救われると語ったとするエピソードだが、裏付けとなる史料が確認できておらず、五島の創作と指摘されている
宮崎哲弥や山本弘は、ベストセラーになったこの本が1980年代以降の新興宗教に少なからぬ影響を与えたと指摘している。実際、この時期の新興宗教には、自分の教団(もしくは教祖)こそが、上記の世界を救う「別のもの」であると主張するものも見られた。さらにこうした影響がその後のオウム真理教による地下鉄サリン事件発生の遠因になったと指摘する者たちもいる。
その他の影響としては、キリスト教やユダヤ教の終末論とはかけ離れた終末思想を生み出し、深刻に受け止めた若い世代の読者が、世界や日本の未来のみならず自己の未来をも暗澹たるものと考えてしまったため刹那的な行動に走ったり、将来設計を怠るなどの問題があったという見方がある。
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| 1975 |
レイモンド・ムーディが『かいまみた死後の世界』を出版
たちまちベストセラーに
1982年に行なわれたギャラップ世論調査によれば、生死の境をさまよっている間にいわゆる「臨死体験」者は3~4%もの確率だったが、ムーディが発表するまでは社会の意識には上らなかった。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P244 |
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| 1903~1981 |
オンム・セティことドロシー・イーディーと前世の記憶
・ドロシー・イーディーは、3才の時、階段から転げ落ち頭を強く打って意識を失ったことがあった。医者が駆けつけた時は、彼女は間違いなく死亡状態と思われた。そこで、死亡診断書を書こうとして、医者が再び遺体の安置されている部屋に戻ったところが、死んだと思われたドロシーは、息を吹き返し何事もなかったように無邪気ではしゃいでいたのである。
・これをきっかけに、ドロシーは、毎晩同じ夢を見るようになった。その夢の中には、果実のなった樹木がたくさんある庭と石の柱がたくさんある建物が頻繁にあらわれた。彼女は、ここが私の生まれた所だと信じ込むようになった。両親がイギリスのここがお前のうちだと何度言っても否定した。時には、最後に泣き出すこともしばしばだった。
・7才になった時、雑誌に掲載された古代エジプトの写真にセティ1世の神殿を見つけたドロシーは、毎晩、自分の見る夢に出てくる建物はこの神殿に間違いないと言い張った。
そして、樹木の一杯ある庭はどこで、どうして、みな壊れてしまっているのかと親に質問を繰り返す始末だった。
・成長するにつれて、ドロシーは、自分が生前古代エジプト人だったという確信に取り憑かれるようになった。そして、転生に関心を持つグループに加わるようにもなった。
・27才になった時、彼女は若いエジプト人の教員と出会い結婚した。そして、ついに荷物をまとめてエジプトに移り住んでしまった。 エジプトに住んでからも、近代的なカイロに住みたいという夫の希望に対して、彼女はピラミッドの見える場所に住居を構えたいと主張した。
・まもなく、夫妻には子供が生まれたが、彼女は夫の意志に逆らって自分の息子にセティと名づけてしまった。セティという名は紀元前1300年頃の第19王朝のファラオ、セティ1世にあやかったもの。
・結婚後、夫は、真夜中に起き上がるドロシーにしばしば眠りを中断させられた。彼女は、トランス状態になって、月明かりの中でひたすら紙面に何かを書きなぐるのである。彼女の書いたものはヒエログリフという古代エジプト文字で、彼女の生前における自分の体験を著わしているというのである。ドロシーの奇怪な行動はその後、一年あまりも続き、書き著した内容も、紙面にして70ページにも及んだ。
・彼女が後に語ったことには、前世では、自分は14才のベントレシュトという女神官だった。
・彼女は、ふとしたことからセティ1世と恋に落ちた。やがて、彼女は妊娠したが、それは純潔を守るはずの神官にとって、掟を破る重罪に相当するものであった。…
・死んで変わり果てた彼女を目の当たりにしたセティ1世は、決して忘れはしないと涙ぐみながら誓ったらしい。彼女の話は、こうした過去のいきさつだけに留まらず、ドロシーが14才の頃になると、実際、セティ1世が毎夜、自分の枕元に訪れたと言い放った。逢瀬は何度も繰り返され、夫を持つ身になってもそれは続いたと言う。
・彼女が言うには、やがては、神殿のあったアビュドスの地に戻って、今度こそ神官として義務を全うすれば、自分が死んだ時、すべての罪は忘れられて今度こそセティ1世と永遠に結ばれるというのであった。
・結婚から3年後、夫と別居状態になったドロシーは、幼い息子を連れてギザの大ピラミッドの近くに移り住み、そこで、考古関係の助手をすることになった。それから20年も発掘と記録の作業に明け暮れたのである。そして、長い年月の後、とうとう念願のアビュドスの地に落ち着いた彼女は、セティ1世の神殿の遺跡に向かうと、香を焚き一晩中過ごす有り様であった。彼女が20年間もアビュドスの地に来なかったのは、何かが自分を妨げていたからだと述べている。
アビュドスで神殿の壁面のレリーフを記録する仕事に就いた彼女は、まもなく神殿の庭の位置を言い当てることになった。
発掘してみると、切り株が多数見つかった。それは、かつて、ここに庭があったことを物語るものであった。その庭は、まさしく彼女が幼少の時から夢に出て来た庭だったのである。
・その後も、彼女は神殿の北側で地中に走るトンネルも発見した。
・彼女は、また神殿の地下には秘密の文書庫があり、ここにはいろいろな文書がたくさん詰まっていると言った。もし、これが発見されたら、ツタンカーメンの発見以上の価値があるだろうと述べている。
・彼女はその後、1981年に77才で亡くなるまでアビュドスの地に25年間留まった。周囲の人々は彼女のことを敬愛の意味を込めてオム・セティ(セティの母)と呼んだ。 |
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研) |
| 1908~1974 |
オスカーシンドラーとシンドラーのリスト
10月、シンドラーは、没収前はユダヤ人の所有になっていた落ちぶれたほうろう容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人の会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。クラクフの近くのザプロヴィツ
Zablowic
の小さな工場は、軍の厨房用品を製造して、急激な成長を遂げた。わずか3カ月で、工場は250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。
妻エミーリエとは1957年以来疎遠となっており、離婚こそしなかったものの終生出会うことはなかった。ヴァルトクライブルク にある彼女の墓には、次のような言葉がドイツ語で刻まれている。
「たった一つの命を救うものは、全世界を救うのである。」 |
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1912~1995
83才没
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スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生)没
……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。
このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさいと優しく囁き続ける人、
それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。 |
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| 1974~ |
ベンジャミン・クレーム
1922年生まれの英国人の画家。
1959年1月、その声はヒマラヤに住む覚者のものであると告げられた、それから連絡が始まった。
何週間かテレパシー交信の訓練を行った後、クレーム氏は覚者の中の覚者、マイトレーヤご自身、キリストであり、世界教師である方に話しかけられた。今から約20年以内に、私自身がやって来る。そして、もしあなたがそうすることを選べば、あなたは私の帰還にある役割を果たすようになるだろう」。
伝導瞑想は1974年、ベンジャミン・クレームによって初めて世界に紹介されました。
以来この伝導瞑想は一切組織を作らず、無料で、完全な自由意志参加に基づく伝導瞑想グループとして、世界中に光のネットワークとして広がっています。クレームは毎年来日の際に、公開伝導瞑想会を通して伝導瞑想の普及にあたっている。
クレームの携える話を端的に言えば、今日の世界の激動と混乱は宇宙的なエネルギー(新しいエネルギーと古いエネルギーの間の)の相克が関係している。古いエネルギーの影響下で極限に達した人間の貪欲と行き過ぎた商業至上主義のためにこのままでは地球破滅へと向かいかねない困難な時代にわれわれはいる。しかし幸いにも今、われわれには人類を破滅から救うべく新しい時代の偉大な教師方の存在がある。世界の行く末は、究極的には民衆であるわれわれの選択にかかっているのですが、人類はすでに正しい選択をすることを、これらの存在はすでにご存じだというものです。世界が危機を乗り越えた時、人類を待つ輝かしい未来とは、いかなるものでしょうか?
大宣言の日、人類救済の日
人々は幼子に戻ったような気持ちになる。
世界中の人々がマイトレーヤーの呼びかけに応える、どう応えるかにかかっている。 |
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| 1974~ |
ビル・モリソン(オーストラリア)
パーマカルチャー=「パーマネント(永久)」、「カルチャー(文化)」、「アグリカルチャー(農業)」の3つの単語を組み合わせた造語。農作物、建築、エネルギーなどの要素を巧みに調和させ、自然界よりも効率のよい循環系の生態系の形成を目指している。
クリスタルウォーターズという集落では、81世帯220人のパーマカルチャーがコミュニティを築いて生活している。環境を考慮したエコハウスが立ち並び、パーマカルチャーの壮大な実験場とも呼ばれる。電気やガスはほとんど使わず、ゴミもほとんどない生活が送られている。年間1000人もの見学者が訪れる。
マレニーという町は、オーストラリアの地方の町としては他に類を見ない活況を呈している。特に産業があるわけでもなく、一時はかなり衰退したが、パーマカルチャーの思想を社会システムに導入。住民の共同組合の設立、住民主体の銀行の立ち上げ、地域通貨の導入などにより、活気を取り戻した。 |
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1974.10.14~
1975.7 |
有吉佐和子
『複合汚染』を朝日新聞に連載。連載中から大反響。連載終了前の1975年4月に新潮社から単行本上巻が出版され、7月に出版された下巻とあわせてベストセラーーに。 |
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| 1974.11 |
カレン・シルクウッド(Karen Silkwood)
アメリカ合衆国における労働組合活動家であり、原子力関連企業のカー・マギー社の核燃料製造プラントで行われていた、安全規則違反と不正行為を巡るスキャンダルの中、28歳で謎の死をとげた。
・カレンのプルトニウム汚染発覚から不審死に至るまでの一連の事件は、いわゆる「シルクウッド事件」として、一大原子力スキャンダルに発展し、1983年には『シルクウッド』というタイトルで映画化もされている。 |
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| 1975(1977日本語訳) |
レイモンド・ムーディ(アメリカ)と 『かいまみた死後の世界』(Life after Life)
150名にインタビュー、実例として紹介したのはその一部 |
『かいまみた死後の世界』(Life after Life) |
| 1975 |
エリザベス・キューブラ・ロスと『死ぬ瞬間』
約200人の臨死患者に聞き取りし、まとめたもの |
死とその過程『死ぬ瞬間』 |
| 1975 |
福島正信とわら一本の革命
自然農法家・福岡正信氏の覚醒体験
そのとき思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」とい うことだったんです。"ない"ということがわかったような気がしたんです。
今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくな ってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかった
のだ、ということがわかったような気がしたんです。 |
『わら一本の革命』 |
1976.5~1981.3
5年弱、調査研究
1982、出版
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マイクル・B・セイボムと『「あの世」からの帰還』 -臨死体験の医学的研究-
⇒15年後に『続「あの世」からの帰還』 -新たなる真実・47名の臨死体験-へ
メソジスト教会の日曜学校にて同じ大学で精神医学ソーシャルワーカーのサラ・クルージガーがレイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』を紹介
レイモンド・ムーディの出版の影響を受け、より科学的に臨床調査を開始。
フロリダ大学~アトランタのエモリー大学と職場の異動に伴い住居も移転
調査項目-補足-(ウィキペディアの臨死体験まとめとの比較)
- 自分が死んだという感じ-幻覚や夢との比較-(死の宣告)
- 主な感情内容-自分の肉体が見えた時-(心の安らぎと静けさ)
- 肉体から離れる感じ-(物理的肉体を離れる、体外離脱をする)
- 事物や出来事を見聞きしたか-具体的内容-
- 暗い空間-暗い空間へ移行する感じを体験したか-(暗いトンネル、トンネルのような筒状の中を通る)
- 走馬灯的体験(人生回顧(ライフレビューの体験)
- 光-明るい光の存在に出会ったか、どう感じたか-(光の生命、光の生命に出会う。神や自然光など)
- 超俗的世界に入ること-肉体に戻れない地点や境界線を感じたか-(境界あるいは限界、死後の世界との境目を見る)
- 別の存在との出会い-他の霊的存在を感じたり見たりしたか-(他者や死者との出会い)
- 肉体に再び戻ること-自らの意思か、たまたまの結果か-(蘇生)
・3番目にインタビューした中年女性患者本人は、助かったことより自分が意識を失い臨死状態に陥っていたときに体験した事柄の方が死の淵から蘇ったことより重い、という。⇒数年を挟んで2度臨死体験
・60歳の白人男性患者は、この体験の中で生死の謎を解く「とてつもない秘密」を教えられたような気がした、という。
・大半が、その体験を的確に表現する言葉がなかなか見つからない、という。「説明すらできません」「この時のような感じは、日常生活ではまずまずありませんね」
まとめ
自己視型臨死体験
・時間を超越した感じ
・現実の出来事のような感じ
・自分が死んだという感じ-突然の心停止お起こした患者「俺は今死ぬところだ。自分が死んでくのがわかる。何でみんな死をそんなにこわがるんだ。何でだ。こりゃあすばらしいことじゃないか」
・支配的な感情-穏やかさ、安らぎ、落ち着きといった感情が支配的
・肉体から離れる
・物音が聞こえる
・「思念の旅」のような形で瞬間移動
・肉体に戻る-
超俗型臨死体験
・暗い世界ないし空間
・光-太陽光、夕焼けの美しさ
・この世のものならぬ世界-有刺鉄線で分けられた世界、田園風景など
・他者との出会い-交信
・自分の一生を振り返る
複合型臨死体験
・116名にインタビュー、臨死状態の中で臨死体験をしたのは34/78≒43%(普通におこる)
・1分以上にわたって意識不明の状態を病院の中で続け、何らかの蘇生処置を受けたものでは臨死体験を起こすものがそれ以外のものと比べると多かった。
・臨死体験群は死に対する不安が減少し、来世信仰が強まった。(体験しなかった群と回答がかなり異なる)
・こういう経験をさせていただいて、死後の世界があって死んだら何もなくなってしまうわけではないということがわかりました。
・余波体験-臨死体験後の体脱経験は3例、3人とも複数回
・常々「ぼくはまだ死にたくない。死ぬにはまだ早すぎる」⇒43才で体験⇒「できる限りのことをしようと思ってる。それでその時がくればその覚悟はできてる」と変化⇒3年後に若くして他界するも、自他ともすっかり覚悟し、覚悟させて亡くなった。
・来世に対する「新しい考え方」が定着すると毎日を懸命に生きようとする気持ちが表出することが多い。さらに死や未知なるものに対する恐怖にとらわれることがなくなるのである。
・生や死を理屈抜きに受け入れるようになり、結果、「死の意思」が強まるのではなく、「生きる意志」があらためて強化されるのである。
・「人間はきのうやあしたには生きられない。今日この日のためにしか生きられない。…死を一度経験していますから、死ぬことは心配の種にはならないんです。」
・「すべての出来事はある目的に沿って起こるんだと思います。…この世の次にも何かあります。…あの世界は何か違ってましたね。…それがどういう命であれ、どういう形であれ、あの時も生きていたんです。」
・臨死体験を通じて信仰心が高まるのが通例である。
・「でも、今はただ漫然と死ぬ時を待つんじゃなくて、生きがいにすべきことがたくさんあると思っています。」
・「私たちがこの世に生まれてきたのは、お互いに助け合うためだと思います。…私たちの世界で一番大切な法則は、愛です。」
・臨死生還者の大多数はこうした出来事を「死神」との遭遇としてどころか、静かで安らかなものとして語る。このような「データ」は医療制度の基本的姿勢や目的を明確化し、リードしていくうえで、もっと真剣に考えるべきものではなかろうか。それにより、重症患者や末期患者の要求を満たすことはできないものであろうか。
・生死の境目にある患者の生命を左右する強力な心理的要素-「生きる意志」-あるらしいことがわかる。⇒やり残したことがある、というような思い、残された家族に対する心配など… |
『「あの世」からの帰還』 -臨死体験の医学的研究 |
| 1975 |
ダニオン・ブリンクリー(アメリカ)『未来からの生還』
雷にうたれて黒焦げになって「死亡」した1975年の死亡体験(臨死体験)の際に、向こう側の「光の存在」から百以上の予言を与えられ、それらがどんどん現実になりつつあること、またその体験の際に与えられた指示に基づいて、すべての人間が「霊的世界の実在を経験できる」ヒーリングセンターを建設中であることなどが紹介されていた。
28分後に生還。
臨死体験者の意味
臨死体験者がもたらす知識として重要なのは、『パノラマ的人生のレビュー』の経験だ。苦痛に満ちた死の経験をくぐり抜けた後、そこにはすばらしい安らぎの感覚が訪れる。トンネルをくぐり抜けて光の中に出、そこで光の存在に出会う。そしてこのレビューで、自分の人生を振り返り、自分が感じたすべての感情を感じ、自分がこれまで行ってきたすべての行為を目のあたりにするんだ。自分と関係のあった自分以外のすべての人間や動物にもなり、その感情も経験するんだよ。これは僕にとっては特につらいことだった。1つのいいことに対して20の悪いことをしてきた、そんな人生だったからね。 大事な情報 リンク |
『未来からの生還』 |
1954~
1976~ |
木内鶴彦
30分死亡体験(臨死体験)で得た情報(立花 隆著『臨死体験』に詳しい)
以下の内容は上記著書より書き換えたほうがよいかも…
1954年6月4日、長野県南佐久郡小海町生まれ。
木内さんは22歳の時に臨死体験をしたそうである。一度死んで、約30分後に蘇生した。普通では考えられないことで、立花隆さんに言わせると「臨死体験」ではなく「死亡体験」だと。そのとき木内さんは、死んでいる間に、どういう体験をしたかというと、過去未来をいろいろ旅をしてきたそうである。そこには、膨大な意識の情報があった。
まず死という体験をしてみて、最初に解ったことが、肉体と意識とは別であるということ。犬や猫や植物やバイ菌や、いろいろなすべての生き物は、実はひとつの意識体だということが解った。
臨死体験の中に、中年の自分がいて、あるお寺の畳の大きな部屋でアジアの留学生に星を通じて地球の大切さを一所懸命に話す自分がいた。また60歳くらいの自分の姿を見た。荒れ果てた大地、木もなんにもない砂漠のような状態のところにたたずむ自分。そこにかすかに、同じ時刻の同じ場所の映像があった。それは、緑の多いところで子どもたちに星を見せているじいさん。そのじいさんが自分らしい。これは割合でいうと99.999%は砂漠のようなところにたたずむ自分、0.001%は緑の中にいる自分。
そして、自分が中年になったとき、実際に高野山のお寺の畳の大きな部屋で、アジアの留学生に話す自分がいた。臨死体験のときに見た光景と、まったく同じ経験をしたそうである。木内さんが60歳になるのは、あと10年くらい先だそうだが、砂漠のようなところにたたずむ自分もたぶん現実になるだろうと言っていた。が、0.001%はすばらしい世界になる可能性もあるそうで、それはまったくお金のいらない社会、これが実現すると人間の進化の道となるそうだ。さて、私たちはどちらを経験するのだろうか… |
立花 隆著
『臨死体験 上下』 |
~
1936~1976
83才没 |
ハリー・エドワーズと心霊治療
・世界にその名を知られた英国の心霊治療家。
・83歳で他界するまでのほぼ半生をスピリチュアリズムの普及活動と心霊治療による治療活動に捧げた。
・特に後半生の治療活動は目覚ましく、世界各地からの治療申し込みの手紙が30年間に延べ1400万通にも達している。その全てが実際の治療を受けたわけではないが、統計によると、氏の治療を受けた患者の80パーセントが“好転”し、そのうちの30パーセントが“完治”している。そうした患者はすべて医学によって“不治”の宣告を下された人ばかりであることを忘れてはならない。
・エドワーズ氏の無二の親友であり、ジャック・ウェバーの実験会の推進に終始協力した心霊ジャーナリストで霊媒のモーリス・バーバネル氏が、のちにエドワーズ氏の治療所を引き継ぐことになったレイ・ブランチ氏に対し「私が思うに、ヘンリー(ハリーのこと)はイエス・キリストが地上で行なったことよりも大きい仕事をしていると思う」と語ったことがある。
世界最高のヒーラー。
1976年に83歳で亡くなるまで、何百万人もの人を、ハリー・エドワーズは治療しました。
ハリー・エドワーズが癒した人の中には、末期がん患者や歩けない人もいたそうです。
また、ハリー・エドワーズは、奇跡的な治療を行っても、報酬を一切受け取らず、無償で行っていました。
1946年に、イギリスのサリー州に治療院を創設して、直接、あるいは、遠隔で人々に心霊治療を行いました。
最盛期には、遠隔治療を希望する手紙が、週に一万通も届くほどの人気を集めたのです。
(ハリー・エドワーズが亡くなった後は、バートン夫妻がその治療院を引き継ぎましたが、現在は別の人が運営しています)
ハリー・エドワーズは、積極的に公開治療を行って、心霊治療を世に広める努力をしました。
そのため、英国医師会が、1959年には、英国心霊治療家連盟に、病院での心霊治療を許可しました。
また、1977年には、英国総合医学評議会が「英国心霊治療家連盟会員による心霊治療を患者に紹介したり、許可してもよい」という声明を出しました。
どちらも条件つきではありますが、心霊治療の効果が認められた証です。 |
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| 1976.4.5 |
四五天安門事件(第一次天安門事件)
天安門広場に捧げられた献花の撤去に怒った民衆と軍や警察との衝突。 |
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| 1976 |
日月神示と原典
次の資料には23巻までの原文が掲載されている模様。
「原典日月神示(第一巻~第二十三巻)」岡本天明書記 岡本三典解説 新日本研究所 1976 |
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| 1937~1976 |
高橋信次-GLA、正法-『心の発見』
10歳頃(1937年頃)から現在で言う「幽体離脱」現象のような霊現象を体験するようになり、その肉体の自分とは違う霊体の自分を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち、以来約32年間、電子工学や物理学を修めつつ、探求を続けた(ただし、宗教には興味は向かわず、本人は全くの素人だとした)。
そして1968年頃から本格的な霊現象が起こるようになり、「ワン・ツー・スリー」や「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る霊からの通信を受け、それから、まもなくして執着を捨てた心の安らぎのある境地に到達し、その後、それらの霊魂は後のGLAの教義で言う「守護・指導霊」であったと明かされたという。
「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「守護霊」であるとし、後に歴史上のイエス・キリストその人であると知らされた。また、「ワン・ツー・スリー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「指導霊」であるとし、後に歴史上のモーゼその人あると知らされた。
その後、彼らからの指導を受けて本格的に悟りの境地に到達した信次は、宗教家としての道を歩み、その経験を著作として著し始めた。また、人々の過去・現在・未来を見通す能力によって講演会等信次の下に集った人々を導き、また肉体を持たない「霊」を霊視(文字通り霊を目視すること)し、これと会話したり、人々に憑依している不調和な霊を取り除いたり(ただし、よほどでない限り、これらの霊に対して「神理」を説き、その非を悔い改めさせることが一般的であった)等、自身の講演会等において数多くの奇跡を残したとされる(高橋信次『心の発見 現証篇』参照)。
また、古代エジプト語、ヘブライ語、5世紀の中国語、古代マガダ語(マガダ国)等を話した。ただし信次は、これらはあくまで人々を救うため、天上界で予め約束されていた(また証明としての)「方便」であるとし、特に興味本位的に過度に現象にとらわれることを戒めた。これらは、モーセの時代にも、イエス・キリストの時代にも、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)の時代にも、現れた現象だとされる(「現証」)。著書や講演会での発言等から見るならば、信次は「慈悲」と「愛」、そしてその実現のための実践として「八正道」、「反省」を重視し、これを説き続けたといえる。また、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの精神は、「法」(自然の法則、宇宙の法則)に発するものであると説いた。
会社経営や教団運営、信者の個人指導や著作の執筆等により、信次の睡眠時間は一日3-4時間という生活であったとされる。
1976年6月25日午前11時28分に、極度の疲労によるとされる肝臓と膵臓の悪化により、自身の予言通り(今回は48歳までしか計画していないとする)48歳で逝去した。
(ただし、信次48歳の1976年3月21日、和歌山での講演「魂の仕組みと正法」において、あと五年間、この世にとどまるとした)。 |
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| 1976~ |
ムハマド・ユヌスとグラミン銀行
・銀行の起源はチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌスが銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げたことにさかのぼる。
・銀行の創設者であるムハマド・ユヌスは、合衆国のヴァンタービルト大学で経済博士号を取得。
・1974年、バングラデシュで飢饉があった際、42の家族に総額27ドルという小額の融資をした。・それは高金利のローンによる圧迫で、売り物のための小額の支出にも金貸しに頼らざるを得ないという負担を無くすためである。ユヌスは、そのような(金利は年率20%近く、複利ではなく単利である。利子の総額は元本を上回ることがない。)小額融資を多くの人が利用できるようにすることで、バングラデシュの農村にはびこる貧困に対して良い影響を及ぼせると考えた。
・チッタゴンにあるバングラデシュ大学の地方経済プロジェクト、貧困者向けの金融サービス拡大理論の実証調査として銀行は始められた。
1976年に、ジョブラ村を代表とする大学周辺の村が、グラミン銀行からサービスを受ける最初の地域となった。銀行は成功し、プロジェクトはバングラデシュ中央銀行の支援もあって首都ダッカの北方にあるタンガイル県でも1979年に始められた。
銀行の成功は続き、バングラデシュの各地に広がるのにそれほど時間を必要としなかった。1983年10月2日のバングラデシュの政令によって、プロジェクトは独立銀行になった。
1998年のバングラデシュ洪水で同行の返済率は打撃を被ったが、システムの改良によってその後数年のうちに回復した。
銀行は今日全域に拡大し続け、農村の貧困者に小規模ローンを提供している。その成功を受け、40カ国以上で類似のプロジェクトがなされるようになり、世界銀行がグラミンタイプの金融計画を主導するようになった。
・銀行は複数のドナーから資金提供を受けていたが、主要な提供者は時間とともに変化した。初期には、非常に低い利率でドナー機関から資本の大半を提供されていた。1990年代半ばには、バングラデシュ中央銀行から資本の大部分を得るようになった。最近は、資金調達のために債券を発行している。債券はバングラデシュ政府より保証、援助されているが、なお公定歩合を上回った利率で売られている。
・グラミン銀行の特徴はそれが銀行の貧しい借り手によって所有されることである。そのほとんどは女性である。借り手が銀行の総資産の90%を所有し、残りの10%はバングラデシュ政府が所有している。
・2009年5月現在、銀行の借り手は787万を越え、2003年の312万人から2倍以上となった。その内97%が女性である 。銀行の成長は、カバーする村の数でも確認できる。
2009年5月現在、銀行の支店がある村は2003年の43,681村から、84,388村まで増え、2,556の支店に23,445人以上の従業員がいる。銀行は総額約4515億8000万タカ(約80億7000万ドル)を貸付、約4016億タカ(約71億6000万ドル)は返済されている。銀行は、1998年の95%の返済率から上昇し、97.86%になったと主張している。
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1976
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アンネリーゼ・ミシェルと悪魔祓い
16才の頃から震えなどの異変が身体に出始め、精神科医に「てんかん」と診断される。
薬を処方され暫くは落ち着いていたが、やがて普通のてんかんの症状を逸した症状が出始め、幻覚を見たり、身体を何かに持ち上げられベッドに何度も叩きつけられる。彼女の意思とは関係なく物凄い力で体を動かされたりする。
薬を飲んでも治まらず、やがて蜘蛛や蝿を食すようにもなり、自傷行為が酷くなる。とても本人の声とは思えない声で汚い言葉を吐いたり、彼女が知りもしないラテン語を喋るようにもなった。彼女は自分が悪魔に取り憑かれたのだと考えた。
1973年(20歳)の時、両親はついに教会に悪魔祓いを頼むが拒まれる。
医者にかかり再び薬を処方されるも症状とその現象は悪化していった。
1975年、22歳の時、ようやくヴュルツブルク司教会は悪魔祓いの許可を出し、カトリックのエルンスト・アルト司祭(41歳)とアーノルト・レンツ(67歳)がエクソシズム(悪魔祓い)を行う。司祭が「お前は誰だ?」と心に思うと、悪魔は返事をし、名を名乗った。アンネリーゼにはなんと6体もの悪魔が取り憑いていた。この際の肉声テープも存在する。(2011.4.12 テレビ番組で実際に聞いた)
6体の悪魔
- ルシファー(堕天してサタンとなったとされる地獄の王)
- カイン(アダムとエヴァの息子。アベルという弟を殺し、人類最初の殺人者とされる)
- ユダ(十二使徒のひとり。キリストを裏切った)
- ネロ(キリスト教徒を迫害し後世暴君と評されたローマ皇帝)
- バレンティン・フライシュマン(1572年から1575年にかけてエットレーベン教区で司教を務めたが堕落した聖職者であった。4人の子供を持つも、女、酒、暴力に没頭し、司教館で撲殺事件を起こしたという記録を残す)
- ヒトラー(近代史のドイツの悪名高い独裁者)
2時間以上にわたるエクソシズムでマリアに関する言葉を悪魔に言わせて悪魔祓いは成功する。
しばらく後、アンネリーゼ・ミシェルはマリアに出会い、「悪魔に取り憑かれて苦しんでいる人が大勢居る。その為にもう一度悪魔に憑かれたまま、命を捧げてくれ」と頼まれる。 彼女は悩んだ挙句、マリアの言葉に従うことにする。そして悪魔に再び憑かれ食事も摂らなくなり1976年7月1日他界した。23歳であった。
まだ若いのに聖母マリアや悪魔に取り憑かれた人達の為に命を捧げたということで、彼女のお墓には沢山のキリスト教徒が来るという。 尚、その後彼女の両親と神父は起訴され、裁判の結果両親と神父は過失致死で懲役刑、執行猶予6ヶ月という判決を受ける。
この経緯は「エミリー・ローズ」という映画にもなった。(2011.4.12 テレビ番組で知った)
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| 1977 |
イアン・スティーヴンソンと『前世を記憶する子どもたち』 |
『前世を記憶する子どもたち』
“生まれ変わり”の存在を科学的・論理的に追求し、ひたすらに現実を見つめ続けるイアン・スティーヴンソン達研究グループ。
彼らが、長年の研究により構築・洗練されたメソッドを用い集め続けたデータを細心の配慮を持って提示、検証する。 事実、そこから導き出された可能性は明確に何かを物語る。 |
| 1977 |
ケン・ウィルバーと『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)
1973年に完成し、20以上の出版社に断られた後、1977年にQuest Booksより出版される。 |
『人は死ぬ時何を見るのか』 |
| ? |
テイヤール・ド・シャルダン神父と『現象としての人間』
オメガ点
・人間の進化は精神の生成発展
・超人類的状態へと向かっているとする説
・根本的神性を自覚する、統一的な地球的精神が誕生すること。
この収束的な最終的状態たる地球での人類進化の頂点を「オメガ点」と呼んだ。
テイヤールの主張は、進化に関する科学的事実に基づいた記述を行いつつ、科学では実証されていないし、確認もできない想像領域で臆断的な命題を導入し、論理的誤謬の上に、その進化論を築いていると言うものである。
実証科学においては、テイヤールの誤謬は明確である。しかし、哲学的ヴィジョンとしては、オメガすなわちキリスト、全知全能の神が、進化の目的であり、進化の極致にあって神が生まれるとの思想は、二十世紀にあって独自な思想であった。
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マンリー・ホール 神智学者 |
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| 1978 |
精神世界という語は、1978年6月の新宿の紀伊国屋書店でのブックフェアの名称「瞑想の世界特集・精神世界の本」として使用されたのが最初といわれる。 |
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| 1977~1978 |
ソ連かぜ
ソ連で流行したA/USSR/90/77 (H1N1)によって起こったインフルエンザのエピデミック(局地流行)である。
よく似た株によるインフルエンザが1947年から1957年にも流行したため、免疫を持たない23歳未満の子供や青年に感染した。パンデミックと言われることもあるが、主に青年のみに感染したため厳密にはパンデミックではない。1978年から1979年にかけて製造されたワクチンにはこのウイルスが含まれている。日本ではH1N1をソ連型、もしくはAソ連型と呼ぶこともある。 |
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| 1978~1980 |
ラブキャナル(建設が中止されて使用禁止になっていた同市の運河のこと)事件
・1978年に米国ナイアガラ滝近くのラブキャナル運河(ニューヨーク州)で起きた有害化学物質による汚染事件。ラブキャナルは19世紀に水路として用いられたのち、1930年代以降は廃棄物の投棄がされていた。この運河を購入した地元化学合成会社が同運河に投棄した農薬・除草剤などの廃棄物が原因物質だった。1940年代から50年代にかけて酸や農薬などさまざまな化学物質を2万t以上投棄。当時の法律では合法な行為で、同社も1950年頃に大量の有害化学物質を廃棄していた。同社の廃棄物の中には、BHCやDDM、TCP、ベンゾクロライド、ダイオキシンやトリクロロエチレン等の猛毒物質も含まれていた。
・その後、運河は埋め立てられ、土地は同市にわずか1ドルで売却され、小学校や住宅などが建設された。埋立後約30年を経て投棄された化学物質等が漏出し、地下水や土壌汚染の問題が表面化して、地域住民の健康調査でも流産や死産の発生率が高いことが確認され、周辺で降雨のたびに汚水の流出や悪臭の発生がみられるようになり、ガンにかかる住民が続出、社会問題となった。調査の結果、80種類を超える有害な化学物質が検出され、同州が政府の緊急財政支援を受けて土地の買い上げを行った。小学校は一次閉鎖、住民の一部は強制疎開、一帯は立入禁止となり、国家緊急災害区域に指定された。
・ギブス,ロイス・マリー(1952年生まれ、アメリカの環境運動家)。1978年に表面化した「ラブキャナル事件」の中心人物。小学校に通うわが子のために、住民を率いて市、州、連邦政府と戦い、処分場跡地に開発された住宅地から全戸避難を勝ち取り、「スーパーファンド法」の設立に寄与。
1980年には、独自の住民組織(現「健康・環境・正義支援センター」、CHEJ)を設立、今なお地域住民を助けて環境正義の実現のために行動している。多くの環境賞を受賞している他、いくつかの大学から名誉学位を受けている。2003年にはノーベル平和賞の候補者になった
・1980年にはマスコミを通してロイスの言動に心を動かされたジミー・カーター大統領(当時)が一計を講じた。その後、非常事態宣言を発令。同地から約900世帯の住民が移転し、汚染地の浄化対策が行われた。
・事件の原因となった有害な化学物質を含む廃棄物は、投棄された当時は適法な許可に基づき埋め立てられたものであり、企業の責任を問うことは難しかった。しかし、同じように過去に投棄された有害物質による土壌・地下水汚染が相次いで発覚したため、米国では1980年、直接関与したかどうかにかかわらず、過去の汚染についても企業の浄化責任を問うことができる「スーパーファンド法(包括的環境対処補償責任法)」が1980年に制定、信託基金が設立された。環境goo、『ラブキャナル―産廃処分場跡地に住んで』主婦がホワイトハウスを動かした600日。書評より |
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1897~
1945~
1979 |
清里の父 ポール・ラッシュ
GHQ将校として再来日
清里のもう一人の父、
安池興男「感激の至情、楽土を拓く 興男」 |
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1920~1980
約60年間 |
シルバーバーチと霊性進化の道
3大霊訓の一つ
霊媒モーリス・バーバネル(イギリス、79歳没)を通して約60年間にわたって「霊的真理」を語り続けた霊界のメッセンジャーとスピリチュアリズム
・「私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。」
シルバーバーチは語る Teachings of Silver Birch A.W.オースティン編 / 近藤千雄 訳
希有の霊界通信、シルバーバーチの霊訓シリーズの一つ。その内容の深さ広さは人類が手にした最高の真理と言えます。 中でも本書は最も分量が多く、テーマが多岐にわたり(23章)、シルバーバーチの思想の全体を知るのにふさわしいものです。
まさにシルバーバーチの入門書と言うべき一冊。
1920年~の10年は霊言の記録なし。
1938~1993年 世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが交霊会に出席したことで事態が一変、毎週定期的に交霊会、速記によって記録をとり『シルバーバーチの教え』として16冊が刊行された。
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| 1980年代 |
ダリル・アンカとバーシャル
彼らの交霊の記録が残っている。
バシャールの2012年についての考え方は極めて明確で、大きく言って3つある。
1つはエネルギーの変化。
1つはオープン・コンタクト。
そして
もう1つはパラレル・アースへの分化 である。
バシャールによるチャネリング(霊界通信)の内容は、チャネラー(霊媒)であるダリル・アンカの潜在意識にある知識がトランス下で吐き出されたものか、あるいは単なる低級霊のからかいか?⇒「霊性進化の道」より |
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| 1981~ |
土光 敏夫と母登美 ⇒ 女学校創立(昭和16年へ)
土光 敏夫と第二次臨時行政調査会
・この時、土光さんは石川島芝浦タービンの専務で大変な激務での中、お母様の遺志を継いで二代目学園理事長に就任。
・土光さんは、その後石川島播磨・東芝の重役、経団連会長になってからも、横浜鶴見区の学校から近いご自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通っていた。
このころの年収は5千万円はあったというが、その多くは、母が創立した女学校「橘学苑」(現在は共学)の支援にあてられていたという。
・自宅の応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、決して会社を私利私欲のために使わず、学校教育に力を注いだ。自身の生活費は月10万円と言われていた。
・敏夫は中学校の受験に3度失敗。関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。
1936年(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946年(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
・1950年(昭和25年)、経営の危機に本社に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。
・1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959年(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
・1965年(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966年(昭和41年)に再建に成功する。
・1974年(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。
・1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
- 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
- 増税によらない財政再建の実現。
- 各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
- 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
の四箇条の申し入れを行い実現を条件とした。
行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄-JR・専売公社-JT・電電公社-NTT)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。
謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。
・行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念
行革の顔 土光敏夫』(1982年(昭和57年)7月23日)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。
敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
・戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
・穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
・とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシにキャベツの外葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。
昭和61年、電電公社や国鉄の民営化をやり遂げた臨調は解散したが、その功績を認められ、土光さんは民間人では初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章された。
*-*-*
受勲の際、土光さんが「個人は質素に、国は豊かに」と、おしゃったのは有名な話だ。
そんな土光さんの、座右の銘は、『日に新たに、日日に新たなり、また、日に新たなり』
という、中国古典の「大学」に出てくる言葉です。
この言葉について、土光さんは以下のようにおしゃっていたそうです。
「一日の決算は一日のうちにやる。失敗もあるであろう。
しかし、昨日を悔やむこともしないし、明日を思い煩うこともしない。
新たに今日という清浄無垢な日を迎える。
ぼくはこれを銘として、毎朝『今日を精いっぱい生きよう』と誓い、全力を傾けて生きるのだ。」
昭和63年8月4日、土光敏夫さんは91歳で老衰のため没。 |
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| 1981.5 |
ファティマ第三の預言
・ダブリン発ロンドン行きアイルランド国際航空737型旅客機がロンドンのヒースロー空港に着陸寸前、ある男にハイジャックされた。
・当初、亡命か政治犯の釈放要求かと思われていたが、世界中が見守るなか事件発生から8時間後、犯人から奇妙な要求が出された。
・その要求とは「ファティマ第三の預言を世界中に公開せよ!」というものであった。逮捕された犯人は以前ローマ修道院にいた事があるジェームス・ダウニーというオーストラリアの修道士だった。・世界中に数ある奇蹟や預言の中でカトリック派の総本山バチカンが正式に認め、その内容をひた隠しにする「ファティマ第三の預言」というものがある。このことを世にしらしめることになったのがこのハイジャック事件だった。
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| 1981 |
酋長ツイアビの演説集-日本語で初版出版された。
『パパラギ』 岡崎照男・訳-はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
つまり、白人の世界でひとりの人間の重さを測るのは、気高さでもなく、勇気でもなく、心の輝きでもなくて、一日にどのくらいたくさんのお金を作ることができるか、どのくらいたくさんのお金を、地震があってもびくともしない、がんじょうな鉄の箱の中にしまっているかなのである。
他の人にかせいでもらったお金をためている白人が、たくさんいる。彼らはその金を、しっかりと守られたひとつの場所ヘ運んでゆく。ますますたくさん運んでゆく。するとある日、自分のために働いてくれる人はひとりもいらなくなる。というのは、お金そのものが、彼らのために働いてくれるのだ。魔法でもないのにどうしてそんなことができるのか、私にはどうしてもわからない。けれども、本当にそうなのだ。お金は幹から木の葉が生えるようにふえてゆき、たとえ眠っていてもこの人はますますお金持になる。… |
酋長ツイアビの演説集-日本語では初版出版された。
『パパラギ』 |
| 1981 |
大川隆法-幸福の科学
信仰の対象は、地球系霊団の最高大霊、主エル・カンターレ。
基本教義-正しき心の探究と四正道(よんしょうどう)-愛・知・反省・発展
実在世界のほうが本当の世界であることは事実。
しかし、この世の世界を無駄にすることなく、この世の生き方が、あの世の生き方と合致し、一貫した生き方になるようにしなさい。この世とあの世を貫く生き方になるように生きなさい。
死んでから後悔することのないような生き方をしなさい。
各人は仏の生命の一部である。ただ、みんな、まったく同じであるかというと、そうではない。同じような素質は持っていながら、その発現の仕方、現れ方は違う。その活躍の仕方は違う。その幸福の求め方は違う。そこに個性というものが百花繚乱に花を咲かせる必要がある。個性的でありながら同時に仏の子として同じ使命を持っていなければいけない。 |
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1981~
10年後にソビエト崩壊のフラッシュ |
高木善之『転生と地球』
1981年4.27、社会人10年目の33歳の時に交通事故に遭い、意識不明の重体になりました。夢と希望を打ち砕かれて、病院のベッドで寝ながら、生き方や地球のことを真剣に考えました。「自分とは何か」「本当の幸せとは何か」、
そのときに見た未来において、ソ連が10年後、アメリカが20年後、地球が40年後に崩壊するという映像を見てきたそうで、見た後に意識を取り戻した。そして、彼が生き方を変えると心に誓うと不思議にも…
子ども時代からの謎の答えが得られました。(詳しくは書籍「転生と地球」へ)
『私の目的は地球を守る事ではありません。私の目的は幸せの実現です。幸せとは何でしょう。自分だけのしあわせはありません。本当の幸せとは自分が幸せであり、みんなが幸せである事です。私は交通事故の体験で、全てのものが一つにつながっていること、ワンネスであることをしりました。一見バラバラに見えても本当はすべて根っこのところで一つにつながっていて、すべては調和の中でしかいきられなのです。それが自然というものです。しあわせは自然のなかにありしあわせは調和の中にあることに私は気づいたのです。自然のなかにすべてがあります。反対に自然を越えてはいかなるものも生存出来ないし、しあわせはない。自由はない、安心そのことをわかれば、人はしあわせになれます。』 ネットワーク『地球村』設立 |
高木善之
『転生と地球』 |
| 1982頃 |
大徳寺昭輝(伊藤さん)と氷川神社で奇跡的な体験
・明治時代、食肉業で財をなした伊藤家の四代目の後継ぎとして多くの従業員やお手伝いさんに囲まれ、広いお屋敷の中でお金というものを手に取ったこともなく、全くの「箱入り」状態で幼年期を過ごすも、中三の時に家業が傾きその生活が一変した。
・貧しいながらも楽しい高校生活を送り、大学入試を前にした十八歳の大晦日。近くの氷川神社にお参りをした彼の身に、常識では考えられない出来事が起こった。
・その日から三日間、赤い着物を着た見知らぬおばあさんが夢枕に立って「おぢばに来なさい。天理に来なさい」と真剣な顔で呼びかけた。
・その頃、大徳寺さんのお母さんは親交がある人の影響でどこに行けばよいのかすぐにわかったという。
・ご縁により、夢に出てくるおばあさんの言葉に従って初めて天理市にある天理教の本部に行くと奥の御殿で夢に出てきたおばあさんが待っていた。隣の人に誰ですかと尋ねたが、その人には何も見えない。ところが、彼には赤い衣を着たきれいなおばあさんが壇上から降りてきて、目の前でにっこり笑って「よく来たね」といった声まではっきり聞こえたのである。
しかし、その時は夢の約束を果たしたという安堵感だけで受験のためにすぐに東京に戻った。
・ところが、受験前のある日、いつもの神社で柏手を打ち、合格の祈願をして手を合わせていると、急に血の気が引き、心臓の鼓動が大きくなって、その場に倒れそうになった。
・そして、別の声が彼の口から出てきて「我は元の神である。約束の年限が来た。お前を神の社(やしろ)として貰い受ける」という言葉を発したのである。
・この日から食べ物は一切受けつけず、体は小刻みに震え続け、血を吐くような苦しみが三日三晩続いた。それが治まった時、天理教の教祖・中山みきが示したという教義を、老婆の声で語り始めたという。
・「神の社になれと言われても当時十八歳の私には何がなんだか分かりませんでした。言葉が勝手に出てきてしまうのです。父は私が気が違ったといって怒鳴りましたが、母はかぼってくれました」
・結局、彼はその後、天理教の修養科に進み、東京に戻ってからは親神様の命ずるままに従って多くの人に神の言葉を取りつぎ、迷っている人の相談に無償で乗るという「おたすけ」の道に入ることになる。「『おたすけ』ではお金は取るなという親神様の命令で、母は脳溢血で倒れた父の看病で一家の生活は長男である私の肩にかかっていました。生活は苦しくアルバイトをしながら家族を支えるのは正直言って大変なものだった」
ほどなく元日本ペンクラブの会長で有名な芹沢光治良さんと運命の出会いをすることになる。
晩年の芹沢さんが、九十六歳で亡くなるまでに毎年一冊ずつ書き上げた「神の微笑」全八冊は、大徳寺さんの存在なしには完成しなかったと言える。
天界と地上界の関わりを見事なまでに書き表し人々を魅了したその作品の中に出てくる「神の言葉を取りつぐ伊藤青年」こそが大徳寺さんその人なのである。
その後、天理教という組織からも離れ、神奈川県湯河原にある天命庵で毎月八のつく日に訪れる一人一人に丁寧に神の言葉を取りついで「おたすけ」をしている。
・この数年、釈迦やイエスの教えを取り違えた宗教者たちが、多くの若者に間違った教えを説いています。私は決して非難しているのではありません。「神とともに歩む」。そのことを多くの人は誤解しています。
神の啓示を受けた者はあたかもスーパーマンか超人のように思うでしょうが、それは間違いです。本当に神の啓示を受けた者は、神の豊かで偉大な力が、あらゆる万物に働いていること、自分がその力によって生かされていることを知り、自分の無力を悟るのです。
今こそ一人一人が魂の救いの世界が本当にあることを信じて立ち上がってもらいたいのです。
その意味ではすべての人が神懸かって生きてほしいと思っています。
これからも、どんな人の中にもある「神の光」を見つけ出し、育てるお手伝いをしていきたいと思っています。
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芹沢光治良
『神の微笑』
全八冊
■神の波動を感じて生きる
■いい話の新聞記事 |
| 1982 |
エドワード・B・ルウィン医師
1982年に、「昏睡からの覚醒」という画期的な著書を執筆、出版しました。人間能力開発研究所は、優れた神経外科医で、当研究所の研究チームの重要な一員でもあるミハイ・ディマンチェスク医師の協力のもとにその業績を引き継いでいます。
1994年の人間の可能性に関する世界会議での講演で、ディマンチェスク医師は、昏睡から覚醒させる技術が、地元レベル、全国レベル、および国際レベルで受け入れられるようになるまでの、彼自身の長い旅路について語りました。 |
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| 1982 |
アルバート・エリス(Albert Ellis)
アメリカの臨床心理学者。論理療法(Rational
Therapy:RT)の創始者。
1982年、アメリカ心理学会による調査「20世紀に最も影響の大きかった心理療法家」ではカール・ロジャーズに次いで、堂々2位に選ばれた。また、1957年以降、論文への引用頻度でも一位を続けていた。
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| 1983 |
立花 隆 『宇宙からの帰還』 中央公論社
以下の内容は著書より書き換えたほうがよいかも…
・ミッチェルは、アポロ14号に乗り込み透視の実験。
翌年、NASAをやめると、サンフランシスコに移り住んで、ESP研究所を設立。
・シュワイカート「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない」
・エド・ギプスンは物理学者。スカイラブ4号。
宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は1人もいない。 |
『宇宙からの帰還』 |
| 1983 |
脳内モルヒネが発見され、ネイチャーに掲載された。
2004 9月21日発行の『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)に掲載されて決着 |
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| 1983年 |
ハワイ少数民族に伝承される、問題解決法
―― ホ・オポノポノ ――
モナ・ナラマク・シメオナ女史((1913-1992)がネイティブハワイアンの伝統的高度医療専門家カフーナ・ラパアウとして、インスピレーションを得て、ホ・オポノポノの伝統を発展させたトレーニング法を編み出す。
これを、モナ女史が、現代社会で活用できるようアレンジしたのが「セルフ、アイデンティティ、スルー、ホ・オポノポノ(SITH)」。
最初の指導教育者として、医療施設や大学機関を含めた世界中でこのトレーニングの講演、指導にあたり、なかでも国連に招聘されて行ったトレーニングは3回。
1983年には、本願寺ホノルル別院とハワイ州議会により、その業績が讃えられ「人間州宝」を授与された。
多様な文化的・社会的背景からなる南北アメリカや欧州で実践されつつ、さまざまな国際会議、高等教育の場へも紹介されてきた。(国連、UNESCO、WHO(世界保健機関)、ハワイ州立大学ほか
⇒K.R女史、
イハレアカラ・ヒューレン博士へ継承⇒1983~博士はハワイ州立病院触法精神障碍者収容病棟へ
ホ・オポノポノの問題解決の基本は、
「どんな目の前の現実も、100%自分の記憶(潜在意識)の現れである」
として、その記憶を「クリーニング」するため、
自分の記憶に向かって
「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」「ありがとう」の4つの言葉を唱えること
これによって、問題の根本である自分自身の記憶を「クリーニング」すると、現実にも変化がもたらされるというもの。
⇒イハレアカラ・ヒューレン博士の活動
数年間ヨーロッパで活動⇒「日本に行きなさい」という声⇒博士「まだヨーロッパが終わっていないから行きたくない。」⇒上の方から「まずは日本から。後の世界へは日本から自然に発信されていく」と、何度も何度も聞こえたとのこと
今、世界中で「宇宙」との交信を始めている人々が続々と現われて、日本を訪れる人が増えている。
「まずは日本が変わるのだ。それがなければ、世界が変わらない」
「宇宙」だけがその答えを知り、「宇宙」だけがすべての疑問に答えを出せる。
何かちょっとした「疑問」が一つでもあれば、「わからない」をクリーニングする。
セルフアイデンティティ ホ・オポノポノとは
その目指すところは、「この地球上に人間として生を受けたことの個人的な意味」をより豊かに理解し、さらなる気付きへと歩みを深めること。
2日間の基礎
I
クラスを通して、
・自己の存在を根源から観て、許し、受け入れ、大切にすること。
・「問題」の本質を知り、どんなレベルにおいても根本的・日常的に解決する方法を学ぶ。
一例として:
・自己-スピリチュアル、メンタル、エモーショナル、フィジカルなあらゆる側面
・家族、親族、先祖との関わり
・「いのち」ー妊娠、中絶、流産、自殺、死とその過程について
・経済事由や学業、不動産、物質のすべて など
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『ウニヒピリ』
ホ・オポノポノ アジア
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| 1983~1987 |
イハレアカラ・ヒューレン博士とホ・オポノポノの実践始まる
・ハワイの州立病院触法精神障害者病棟にて入院していた患者(法を犯しても罪を問えないような重度の精神病患者)に対して1度の面接もせずに、カルテに目を通し、ホ・オポノポノを実践することにより、ついには患者の変化、職員の変化、患者の退院、ひいてはその後入院患者が来なかったため、1年半後には病棟そのものが閉鎖されたという。
・モーナ・ナラマク・シメオナ女史もサポートしていたという。 |
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| 1980年代 |
インドのヒンドゥー教導師マハリシ・マヘーシュ・ヨギと超越瞑想(TM)
・日本のサラリーマンのストレス解消法として企業が導入。
・井深大、稲盛和夫らが影響をうけた。(ジョン・レノンとも関わり) |
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1934~
1983~ |
シャーリー・マクレーンと3部作
『アウトオンアリム』
全米で300万部を記録し、精神世界ブームを巻き起こした本。
世界的な宗教ブーム、精神世界ブームの発端となったのが、本書。
1983年にアメリカで刊行され、またたくまに300万部のミリオンセラーを記録。日本語版は1986年に刊行。
現在までに60刷りを販売し、日本でもベストセラーになった。
「愛と追憶の日々」で、アカデミー主演女優賞を獲得した著者は40代初めに世界中を飛び回る。
その中で、インドのヨガ教師から前世のあることを示唆され、ヒマヤラのラマ僧との会見で、デ・ジャブを覚え、スウエーデンの霊媒師から、精神世界の説明を受けるなど、奇妙で不思議な体験を繰り返す。
その結果、自らのこれまでの即物的な生活を反省し、ついには、俳優ピーター・セラーズの突然の死を予知したり、体外離脱を経験するまでになる。
それまでは「実利的な合理主義者」だった著者が、オカルテイックな領域の存在を認めるに至るまでの経緯が、平易な文章で書かれている。それだけに、精神世界に対して疑いの目を向けるであろう大多数の人々にも、納得のいく仕上がりになっている。
『ダンシングインザライト』
『オールインザプレイング』
『ゴーイングウイズィン』
『ダンスホワイルユーキャン』
『カミーノ』
アメリカの女優で有名。
インスピレーションを受けて執筆。
チャクラやサムシンググレートについて
シャーリーとチャネリングする宇宙意識について
彼女が巡礼地スペインに行った旅について書かれている。そこで起こる不思議な体験。生まれる前の記憶。カルマのことなど…宇宙ができ始めたことなどまで書かれている。
アメリカのチャネリングブームの草分け
・シャーリー・マクレーン「惑星生命体を語る」(You Tube)
・シャーリー・マクレーン「体外離脱体験」(〃) |
『アウトオンアリム』
『ダンシングインザライト』
『オールインザプレイング』 |
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| 1984 |
中田正一とNGO「風の学校」
千葉県大多喜に事務局がある。
初代代表の故中田正一さんが、国際協力のための若い人の人材育成の場として、1984年「風の学校」を始める。その母体の「国際協力会」は、1967年に設立された。
今は、妻の中田章子さんが、代表をしている。
中田正一さんは、第二次世界大戦後、農林省で日本の農業の技術指導に力を注いでいたが、工業化と経済成長をまい進する日本での農業に失望し、アフガニスタン、バングラディッシュで、農業の技術指導に情熱を傾けるようになる。干ばつのため、水不足に苦しむ人々を見て、70歳で、井戸掘りを勉強する。
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| 1984 |
寺山心一翁(しんいちろう)と右腎臓ガンの自然治癒
・1936年東京生れ。
・早稲田大学第一理工学部電気工学科卒業後、東芝に入社。半導体素子の研究、開発、試作に従事する。その後独立し、寺山コンサルタンツオフィスを設立(1980)。
・1984年に右腎臓ガンを患い、手術、抗がん剤、放射線治療という現代医学による治療にもかかわらず、ガンが右肺など他部位へ転移し、末期と診断されたのを機会に自宅で死を迎えるために退院。
・やがてガンに愛を送ることで深い気づきを得る。その後は、自らの直感に従い、副作用のない様々な自助療法などを取り入れ、からだとの調和をはかりながら自分に合う方法を統合的に取り入れ、やがてガンは自然治癒していった。
・現在は、朝日カルチャーセンターでの毎月一回の講義、国内外でのワークショップや講演をはじめ、がんの回復過程で自らが得た智慧として、すべての鍵は愛であること、意識を高め、感じる力を呼び戻すことの大切さを説き続けている。 |
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| 1985 |
ダスカロスとメッセンジャー
アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)出版。
欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えた。 |
邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行 |
| 1985 |
福来友吉死後に後藤以紀が『月の裏側の念写の数理的検討』を出版
福来のもと、三田光一が念写した写真をNASAが作成した写真で検討。月面地図に31箇所の地点を定め、三田の写真と計算によって判定し確かめていったところ、31箇所すべてが一致。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P267 |
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| 1986~ |
ダリル・アンカとバシャール(BASHAR)
1986年に初来日し、日本の精神世界・ニューエイジを信奉する人々の間に大ブームを起こしたアメリカ人のダリル・アンカ(1951年10月12日生)は1984年以来バーシャルという宇宙存在とチャネリングしている。
バーシャルはオリオン座近くの惑星エササニに住んでいて、個人ではなく複数の意識が合わさったような存在。エササニは物理的には不可視であり、エササニ星人はテレパシーで意思疎通するため言葉や名前も存在しないという。
バシャールという名前は本名ではなく、チャネラーのダリルがアラブのバックグラウンドを持つことに関連して、バシャール自身が、アラビア語で指揮官、存在、メッセンジャーといった意味を持つ「バシャール」という名前を付けたのだという。
インドの維持神ヴィシュヌの読み方を変えたものではないかともされている。
ワクワク(わくわく)
情熱(excitement, joy, love, passion)などを意味する言葉。
しばしば「ワクワクすることをしよう」という提言がなされる。
バシャールによれば、「ワクワクする」というのは「人生の中で真の自分を表現することの出来る波動」を表し、その波動は同じような波動を引き寄せるという。
自分のワクワクする気持ちに従って生きることが人生の目的であるとも発言している。
並行世界と選択
人間は何かを決断(選択)するたびに、その決断をした地球に意識のフォーカスを合わせているということ。
無時間
バシャールによれば、時間や時間の連続性といったものは人間が作り出した概念で、過去や未来などあらゆる時間が「いま、ここ」に同時に存在しているという。
2012年
バシャールの2012年についての考え方は極めて明確で、大きく言って3つある。
1つはエネルギーの変化。
1つはオープン・コンタクト。
そしてもう1つはパラレル・アースへの分化である。
パラレル・アース(地球)への分化
2012年にはポジティブなエネルギーが加速する一方で、パラレル・アースへの分化が始まる。加速するエネルギーはあらゆること、困難や苦悩といったネガティブな面も拡大するので、人によっては逆にブレイク・ダウンとなってしまう。
だからこそ、本来の自分を表現するワクワクする気持ちに従って生きることが重要となる。
現在地球には様々な観念、様々な波長が(自分の好きな波長も、そうでない波長も)同時に存在しているが、2012年を境に各々の波長に基づいてパラレル・アースへの分化が始まり、2015年以降はこの分化が加速する。
(2012年あたりに、今は1本でしかないエネルギーの光線が、人間の集合意識を象徴するある特殊なクリスタルに当たり、パラレル・アースへの分化が始まるとする。)
そして2025年~2035年には、それぞれの世界が遠く離れてしまい、最終的には自分の波長以外の現実を体験することは不可能になる。
具体的には、自分と異なる波長の人間とは離別する、死別する等して、様々な方法でそれらの人間が周囲から消えていなくなってしまい、ポジティブな世界ではポジティブなことだけが、ネガティブな世界ではネガティブなことだけが起きるようになる。
体験可能なパラレル・アースは無限に存在するが、自分がどのパラレル・アースへ移行するかは、2010年~2015年の5年間の過ごし方が最も重要となる。
パラレル・アースのポジティブな一方の極は、やがて宇宙文明の一員として迎えられるが、ネガティブな一方の極は、完全な破壊、破滅を体験することになる。
(その世界は核戦争で自らを滅ぼしてしまい、バシャール達が呼びかけても誰の返事もない、とても静かな世界だという。)
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パラレル・アースへの分化については、本田健との対談「未来は、えらべる!」に詳しい。 |
1900~
1940~1986 |
杉原千畝
日本軍の樋口季一郎陸軍中将と共に、多くのユダヤ人を救った日本人として知られている。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られ、勇気ある人道的行為を行ったと評価されている。
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| 1980年代後半~ |
ミハイル・ゴルバチョフとペレストロイカ
1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。
ロシア語で「再構築(改革)」を意味する(“пере”〔ペレ〕は「再び」を意味する接頭辞、“стройка”〔ストロイカ〕は「構築」「建設」を意味する単語)。
ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。
しかし結果として、高まる民主化圧力により一党独裁制は破綻し、ソ連崩壊へと到った。
現在では、共産圏の民主化を進めるとともに冷戦を終結させた政策として、主に旧ソ連以外の各国で高く評価されている。
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| 1986.4.26 |
チェルノブイリ原発事故による放射能汚染
1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)に換算して約500発分の原爆投下に相当する量の放射性物質が撒き散らされたことから、「核戦争」とも表現された。
後に決められた国際原子力事象評価尺度(INES)において最悪のレベル7の参考事例として知られている。
4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れも相まって被害が拡大・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。現在は分離独立したウクライナに処理義務がある。
ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。
長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも言われるが、事故の放射線被曝とがんや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある(詳しい議論はロシア語・英語版参照)。
直接チェルノブイリ原発をコントロールしているのはウクライナ共和国の陸軍で、軍人の話では3,000人が事故当日に即死した。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。
1986年8月のウィーンでのIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァシリー・レガソフは、広島原爆での結果から、4万人ががんで死亡するという推計を発表した。しかし、会議では4,000人と結論され、IAEAの公式見解となっており、2005年にも同じ数字が公式発表された。 |
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~
1986
~ |
ダリル・アンカとバシャール(BASHAR)
・1986年に初来日し、日本の精神世界・ニューエイジを信奉する人々の間に大ブームを起こしたアメリカ人のダリル・アンカ(1951年10月12日生)がチャネリングするとされる宇宙存在。
・HPを公開し、今もってダリル以外の人とも交信可能という。⇒坂本政道
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| 1986~ |
スローフード
1986頃、ローマの名所の1つのスペイン広場にマクドナルドが開店した。それが「ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる」という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。1986年、イタリア北部の町ブラ(Bra,
ブラッとの表記も)で「スローフード」運動が始まった。当時、『ゴーラ』という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニがイタリア余暇・文化教会(ARCI=アルチ)という団体の一部門として、「アルチ・ゴーラ」という美食の会を作ったのが始まり。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁するイタリアの文化復興運動組織である。土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりを持つ。 |
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| 1986 |
ブライアン・L・ワイスと退行催眠療法とソウルメイト
アメリカの精神科医であるブライアン・L・ワイスによって催眠療法中に偶然発見され、1986年に出版された『Life Between Life』という本で世に知られるようになった。
退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(日本語では前世記憶という。以下この記事で記述。)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったりと治療に役立つともされ、多くのケースで施行された。(前世療法、退行催眠)⇒たけしのアンビリーバボーで治療の一例が紹介され、「ソウルメイト」という言葉が広く?知られるようになった。 |
『Life Between Life』 |
| 1987 |
イアン・スティーヴンソンと『前世を記憶する子どもたち』の出版
600例⇒2000例に。アメリカやカナダからの事例はほとんどなく、大部分はアジア(インド、セイロン、タイ、ビルマが約半数)
この研究により、ジョン・ベロフは『超心理学史』の中でスティーヴンソンの調査によって人間の記憶が大脳以外にも保持される証拠を得たことを高く評価。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248 |
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アルフレッド・エイヤーと臨死体験
1989年の彼の死の少し前、エイヤーは尋常ではない臨死体験をした後、メディアの取材を受けた。これが生涯にわたり有名な宗教的懐疑主義からの離反の一歩ではないのかと誤って解釈されたためである。その経験について、エイヤーは、「死が私という存在の終わりを意味することになるだろうという私の信念を揺さぶるものだった、最も私はそれが終わりであることを希望し続けるつもりだが」と語っている。
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| 1928~1989.2.9 |
手塚治虫と火の鳥、三つ目がとおる、ブッダ |
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| 1989(平成元年)4.5 |
手塚治虫と『ガラスの地球を救え』 |
『ガラスの地球を救え』 |
| 1989.4.16 |
1989年4月16日にはこの地球上の物質の結晶構造全体と住人のすべてがライトボディ化第三レベルへと活性化された。『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
| 1989.6.4 |
六四天安門事件(第二次天安門事件)
民主化を求めるデモ隊と軍や警察との衝突。多数の死傷者を出した。 |
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| 1989.9 |
この惑星(地球)はあなたがたに対する敵対パターンを解き放った。(P104~)
いままで地球に起こると予言されていたカタストロフィの多くが回避されたことを意味する。たとえ地震や噴火、洪水などという自然災害が起こっても命を失う人の数はたいてい最小限ですむでしょう。土地は大きく破壊されるかもしれませんが、これは物質から離れよという合図です。
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
| 1961~1989 |
ベルリンの壁崩壊
1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁。
東ドイツが建設した。冷戦時代の象徴、そしてドイツ分断の象徴とも言われたが、1989年11月10日に破壊され、現在は一部が記念碑的に残されている以外存在しない。ベルリンの壁は両ドイツ国境の直上ではなく、すべて東ドイツ領内に建設されていた。 |
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| 1990 |
キューバとスペシャル・ピリオド
・キューバの社会主義経済型適応について
・ソ連崩壊に伴い、1990年代にエネルギーの供給遮断を経験した。ソ連圏からの補助金付のエネルギー供給は100%止まったし、CIAによれば、1989~1993年で燃料輸入が71%と衰退したと評価している。米国エネルギー情報局(US
Energy Information Administration)の最も控え目な見積りでさえ、キューバの石油や電力消費は1989~1992年で20%も下がった。
フィデル・カストロは1990年に「スペシャル・ピリオド」国家非常事態を宣言。
燃料やスペアパーツ不足で、機械は遊休化し、公共や民間交通も麻痺し、労働者は失業し、全国の工場も家庭も予測できない停電にさらされ、キューバ経済は事実上破綻した。
・最も深刻な状況となったのは食料問題だった。
・平均的なキューバ人たちの栄養摂取量、とりわけ、タンパク質や脂肪摂取量は、基本要求水準以下まで落ち込む。牛肉の代わりにグレープフルーツの皮を細かく刻み、アパートで鶏肉を育てたり、バルコニーで家畜を飼育する人もいた。
・都会でも、ホームレスやストリートチルドレンが現れることはなく、暴力、犯罪、自暴自棄、希望喪失もキューバの地区生活にはなかった。
・「スペシャル・ピリオド」の生活は困難ではあっとはいえ、その種の状況はほとんど起きなかった。
・温暖な気候や観光収入、海外からの送金、対外投資、国際援助もある程度は、危機に対処する助けにはなった。カストロ政権は北朝鮮の政権よりも人間味があり、試行錯誤をへたうえで、慎重な改革を実施し、国を観光のために開き、インフォーマル部門を合法化し、様々なローカルな自助支援が奨励された。
・だが、本当の奇跡はキューバ人々たちによってなされた。
・キューバは非常に都市化が進んでいるが、典型的なバリオは都会の中の村、アーバン・ビレッジなのだ。各家庭は地区生活の中にしっかりと埋め込まれ、ほとんどが数世代の同居家族で、典型的な家庭には、おば、おじ、いとこも含まれ、バリオ内外の友人や親類との関係も緊密だ。
調査によれば、ハバナの脆弱な地区の86%の人々が親戚、97%が友人、そして、89%が地区からの支援に頼っていると言う。キューバ社会はコミュニティレベルでの団結が目覚ましい。
・ほとんどのキューバ人たちは、家族、友人、隣人に頼ることができ、このローカル・レベルでの連帯感、ソーシャル・キャピタルが、スペシャル・ピリオドへの対応の一助となった。
・「お互いが助け合わなければならず、危機は人々を団結させたのです」ある地区の住民は語る。人々を養ううえでは、伝統知識も決定的だった。
・農地のほとんどは1959年の革命後に集産化されたが、約4%のキューバの農民たちは自分たちの土地を保ち、11%は民間協同組合として組織化されていた。こうした独立農家は、国営農場よりも少ない燃料や農業化学資材の投入で運営され、危機への弾力性があった。
・家族農家は、貴重な伝統知識を保存しており、この知識が回復され、国営農場や都市農業での自給に貴重なノウハウを提供したのだった。地域自助努力の支援運動、有機農法、そして、キューバ在来の伝統知識を組み合わせることで、都市農業が促進されていった。
・家屋に近接した空き地や遊休地を人々は菜園に転換し、都市内のコンクリートブロックや都市周辺の遊休地が有機菜園へと変わった。野菜他の食料を生産するため人々は都市を耕し始め、1990年代半ばには、ハバナだけで何百個もの園芸クラブが設立された。あるハバナの都市生産者は「スペシャル・ピリオドが始まると、自分たちで園芸クラブを組織した。活動に家族全員がかかわることが強調された。私どもは、相互扶助を発展させたいと願い、種子や品種、そして、経験をわかちあいました。相互扶助、連帯の精神を達成し、農業生産について学んだのです」と。
・エコロジストたちは、スペシャル・ピリオドによるキューバ農業の転換を「有機農業の社会的実験、オルタナティブ・モデルとして絶賛している。だが、実際のところ、キューバの低投入型農業への転換は、エコロジー意識の高まりによってではなく、必要性によって突き動かされていた。1990年代後半に経済状況が改善され、化学投入資材が広く利用できるようになると、キューバは工業型農業へと後戻り始める。革命後にカストロ政権は私産財産を凍結し、人々は狭い空間に閉じ込められた。そして、政権は政治的統制を強化するよりも、社会的なつながりを創り出すため、コミュニティ開発にかなりの投資をしてきた。かくして、庶民は何とか暮らしてきた。
・「これは理想化すべきでことではない」と教授は何度も繰り返す。キューバ人たちが、1990年代初期から半ばにかけ、コミュニティの意識によって、悲惨な資源供給のショックをなんとか緩和したことは重要だし、北朝鮮と比較すれば、これがささやかな成果ではないことがわかる。(教授=ヨーグ・フリードリッヒ教授)
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| 1990.3.26 |
林陽と『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』
…。このような警告がどのようにして私たちのところに着たか、それは問題ではありません。私たちは今まさにそのような状態のまっただなかにあって、すべてのしるしに取り囲まれています。変化はおころうとしています。やがて、地上のいくつかの部分はぬぐい去られてしまうでしょう。私はこのことを確信しています。現在私たちはそれが自分たちのいる場所に起こるかどうかを知りたいと思っています。しかし、私たちが正しく生きているかぎり、それがどこであろうと、大した違いはないでしょう。
『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P32~)
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林 陽
『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』 |
| 1990(平成2年)8.15 |
五十嵐康彦と『エドガー・ケイシー日本人へ最後の警告』
1934.1.19の予言
「1998年、日本の大部分は海中に没するはずである」という予言をもとに現代を考察。
現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。
核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。
「年と季節と場所については神の御名を呼び求めてきた者たち--神の召名のしるしを持ち、神から選ばれた体を持つ者のみにそれは告げ知らされるであろう」
「われわれは今や新しい天の配剤の転換の時期のただ中にいる。時々刻々と古いサイクルは終局に近づいていて、正しい者だけが地球を相続することになる。」
「すべての原子も細胞も、それ自身が一つの世界であり、生命を与える同じ”精神”によって生かされている。そして、その精神は創造者の意志を体現したものである」
「人間はなんでも力を問題にする。金の力、地位の力、富の力、この力、あの力点。しかし、これは神の道ではなかったし、今後も神の道ではあり得ない。もし、本当のリーダーの資格を試すテストがあるとすれば、それは、
彼が人間の高い考えに奉仕し、人類全体に奉仕する道を選ぶかどうか、というテストであるべきだ」
「神が示された生きた見本のように誰かの幸福のための道筋になってやることが、この実体(霊魂、ここではリーディングの対象)の地上における役割である。
『弱きものよ、重き荷を背負う者よ、すべてわれわれのもとに来たれ。わが十字架をとりて汝が身に背負い、われに学べ』--これである。そして、実体はそれを見事にやり遂げるだろう。もし、できなければ、実体自身がアトランティスでそうだったように、また現代の多くの人たちがそうであるように、悲惨な間違いをすることになるだろう」
「この記録(アカシック・レコード)は各人の生命的実体(霊魂)が忍耐をもって時間と空間の中に書き記したものである。やがて自己が永遠なる存在(神)と同調一致できたときに開かれるのである。そして、この神の意識に同調することができた人たちにも、それは読み取ることができる。」
すべての時間は一つであり、過去・現在・未来は一体だからである。
「永遠なる法則である根本法則は、蒔いた種はいつか必ず刈り取らねばならないということである(霊魂不滅とカルマの法則)」とリーディングの中で繰り返し、主張した。
「人間の生きる目的は、自分自身の心を完璧な一つの『全体(the whole)』と協調できる高さにまで高め、進化させることにある。そして、そうなった段階は、同時に自己の独立した個体性を認識している状態でもある。」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P191~)
アトランティスのカルマの刈り取りの場が日本とアメリカであるに違いないと感じた。
勤勉で合理主義、自然の法則に従うことよりも物質至上主義。歪められた純血主義。
「アトランティス人の霊魂は両極端で中道を知らない。」
「神は、その霊魂が耐えられる以上の重荷を背負わすものではない。」
願わくは日本に救世主(メシア)が現れんことを…。
”その人”が日本に再臨せんことを…。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P226~) |
『エドガー・ケイシー日本人へ最後の警告』 |
| 1990年代 |
臨死体験研究 第1回国際会議
1990年、ワシントン、ジョージタウン大学で。
13カ国300人の研究者と体験者を集め臨死研究の第1回国際会議開催。
立花隆氏はその国際会議に出席するとともに、NHKの大型ドキュメンタリー番組【臨死体験】を制作。その番組は1991年3月17日「NHKスペシャル」で放送された。
立花氏はテレビでは時間枠に相当影響があり取材した資料の1パーセントも番組で使われなかったと語っている。
『臨死体験』-文芸春秋でこの現象に関する連載を始めたことで臨死体験の存在は一挙に知られるようになった。
⇒一種の臨死体験ブーム到来 |
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| 1990年代 |
新世代ベア
・2009.9月、乗鞍岳の山頂付近で熊が人を襲い、9人が重軽傷を負った事故はまだ記憶に新しい。
本来熊は臆病な性格で人間が生活するエリアに姿を見せないとされている。なぜこのような事故が起きたのか。
・専門家に聞くと1990年代から熊に異変が起きているという。人家のすぐそばに暮らす熊がいるというのだ。それが「新世代ベアー」と呼ばれる若い熊だ。人里の周りには柿や栗など食べ物が多い。だんだんと生活圏が人間と近くなり、行動が大胆になってくる。そして、そこで生まれた子どもはもっと大胆になるという。メーテレHPバックナンバーより
なぜこのような事態となってきたのか。今後の対策は?⇒知床自然センター |
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| ? |
ジャスムヒーン(?)
・十数年間、ほとんど何も食べずに光(プラーナ)だけで生きている女性。その不思議な人は、世界各地で講演活動をし、日本にも来日したことのあるオーストラリア人。「プラーナ(光)」の研究をしている。
・メタフィジックス(形而上学)について20冊以上の本を出し、プラーナの栄養について調査し、
国際的にレクチャーを行っている。
・彼女が本当に伝えているのは「断食」をすることではなく、瞑想などを通して宇宙の大いなる源とつながることで、とてつもない高い周波数のエネルギーを受け取ることができ、それによって、肉体自体も多大な滋養を得ることができること。
・彼女が開催するレクチャーのなかでは、「決してすべての人が、プラーナだけで生きていけるわけではないこと」を何度も強調している。
その人の魂の成長段階において、その人が受け取れるプラーナの割合も変化していくため、いきなりの「不食」は危険であるという。
・個人によって肉体的にも「食する」ことで栄養をとることも必要だという。
・そんな彼女のように「不食」という生き方をしなくても、高い周波数のエネルギーを受け取れるような「幸せレベルを上げる方法」がある。
■1つ読むたびに、それをしている自分を想像して、ひと呼吸してみることがポイント。
・顔が痛くなるほどたくさん笑う
・素敵な道を散歩する
・お気に入りの曲を聴く
…
・眠りから目が覚めたとき、あともう何時間か眠れる時間が残っているのがわかる
・新しい友達をつくる。もしくは長い付き合いの友達と時間をすごす …
そして、結果を夢みること
・「素晴らしい!」「気持ちいい!」とたくさんの喜びを感じられるほどに周波数が上がっていって、生活スタイルもいい方向へシフトしていく。
・日々「幸せ!」と感じることで、私たちの波動が上がり、自然とまわりの波動もあがり、地球全体の波動もあがっていくと語っている。
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1991
高木善之氏の臨死体験と符合?
事故後10年後ソビエト崩壊
20年後アメリカ崩壊
40年後世界崩壊 |
ソ連崩壊
党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、自らを大統領とした。
1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、同年12月26日にソ連は崩壊した。ロシアは旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(СНГ)加盟国のひとつとなった。ロシアは旧ソ連が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持し続けている。 |
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| 1991 |
中村雅彦『臨死体験の世界』 |
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| 1991~ |
中矢 伸一と日月神示
・東京生まれ。米国ワシントン州立コロンビア・ベースン・カレッジ卒。
「日本弥栄の会」代表。三年に及ぶ米国留学生活を通じ、日本と日本民族の特異性を自覚。
帰国後、英会話講師・翻訳・通訳業に携わる一方、神道系の歴史、宗教、思想などについて独自に研究を進める。
1991年、それまでの研究をまとめた『日月神示』(徳間書店)を刊行。
以後、関連した書籍を相次いで世に送り出す。これまでに刊行した著作は40冊以上 |
『日月神示』(徳間書店) |
| 1991 |
片桐すみ子『輪廻体験 過去世を見た人々の証言』 |
片桐すみ子 『輪廻体験 過去世を見た人々の証言』 |
| 1991 |
井深 大(まさる)とエスパー研究所
1991年(平成3年)にエスパー研究所をソニー社内に設立した。自称「超能力者」による透視能力やテレパシーの実験をはじめ、「気」の科学的な検証、幼児教育の研究などを行っていたという。
もともと井深は従来の科学の枠を超えた東洋的な思想に強い興味を持っていたとされるが、これを単なるオカルト的な疑似科学への傾倒と見るかどうかは見解が分かれる。
1998年(井深逝去の翌年)、同研究所は閉鎖された。
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1991~
2003~ |
戦争と劣化ウラン弾
・1991年の湾岸戦争で、米軍がイラク戦車部隊に使用した。使用量は公式には約300トン。
・その後、NATO
による PKF 多国籍軍がボスニア紛争およびコソボ紛争に介入し、ボスニアで約1万発、コソボでは約3万発の劣化ウラン弾を使用したことを公式に認めている。
・2003年3月以降のイラク戦争でも、米軍は劣化ウラン弾を大量に使用したといわれている。人道支援・戦後復興支援のためにイラクに派遣された陸上自衛隊が駐留したサマーワ郊外においても、米軍がイラク戦争時に使用したものとみられる劣化ウラン弾が複数発見されている。
・劣化ウラン弾頭が着弾し、あるいは劣化ウラン装甲に被弾することによって劣化ウランが燃焼すると、酸化ウランの微粒子となり周囲に飛散する。これが体内に取り込まれた場合、内部被曝や化学的毒性による健康被害を引き起こすとして、その影響が懸念されている。
・湾岸戦争後の米軍の帰還兵などに「湾岸戦争症候群」と呼ばれる健康被害が確認されており、劣化ウランがその原因の一つではないかとする説がある。また過去にも劣化ウラン弾頭が使用されたボスニアやコソボ等の地域においては、白血病の罹患率や奇形児の出生率が増加した等と主張する健康被害が報告されている。
・これらの懸念や報告に対し、劣化ウラン弾頭や劣化ウラン装甲を使用する当事者であるアメリカ政府は劣化ウラン弾による健康被害を否定しており、この症状は劣化ウラン弾による影響ではなく、フセイン政権がかつて用いた化学兵器の残留物の影響という公式見解を発表している。
・また「湾岸戦争症候群」についても、イラク軍による油田破壊によって放散した化学物質の影響や、戦争前に兵士に投与された対化学戦用ワクチンの副作用によるものであるとする説もある。湾岸戦争に限定したそれらの説に加え、ボスニアやコソボを含む「白血病の罹患率や奇形児出生率の増加」に関するデータも、当事者として医療現場が主張する統計的な根拠や信頼性に対しては疑問があり、UNEP
の公式報告書でも、ボスニア・コソボにおける劣化ウラン弾使用の放射線による影響を懸念・重要視しておらず、WHO は
UNEP の収集したデータを基に「DU が紛争で使われた地域の住民や滞在していた民間人に対して、DU
毒性に関する医学的スクリーニングを行う健康上の理由はない」と結論づけている。これらは主に、DUの汚染が現場から数十m単位に限局されており一般住民が継続的にDUに曝露される可能性が極めて低いことが理由である。
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| 1992 |
百匹目の猿とシンクロニティの証明 『ワンダーゾーン』 よみうりテレビ・編 青春出版社
・「なにか新しい行動を受け入れた生物が少しずつ増え、ある一定の数を超えると、その行動はその生き物全体にまで爆発的に広がっていく」という。
・この論になぞらえていうなら、芋洗いするサルは99匹目までは、ポツポツとしか増えなかったが、100匹を超えたとたん、いっぺんに島じゅうのサルが芋を洗うようになり、その行動は海を越えてなんらかの仕組みで別の群れにまで伝わってしまったというわけだ。
こうした、離れたところで同時に起こる出来事にはなにか意味があるのではないか、という考え方を「シンクロニシティ=共時性」と呼ぶ。
・私たち人間のあいだにも見えないネットワークがあるのかどうか、イギリスBBCの科学番組「トゥモローズワールド」が大がかりな実験を行った。そして、「人間の経験は、言葉や文字を使わなくても、一瞬にして国や人種のちがいを超えて世界中に広まってしまう」ことがわかったのである。 |
『ワンダーゾーン』 よみうりテレビ・編 青春出版社 |
| 1992 |
セヴァンカリス=スズキと伝説のスピーチ
6月11日。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連の地球環境サミット。カナダ人の12歳の少女が、いならぶ世界各国のリーダーたちを前にわずか6分間のスピーチをした。そのことばは、人々の強い感動を呼び、世界中をかけめぐり、いつしか「リオの伝説のスピーチ」と呼ばれるようになった。「私たちひとりひとりの力が世界を変えていける」ということを、いまも世界中に伝えつづけている少女の言葉が残っている。 |
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| 1992.9.27 |
木内鶴彦、4つ目の彗星、スウィフト・タットル彗星を(再)発見-130年ぶり |
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| 1993.1 |
地球は第7レベルへと突入した。(P108)
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
| 1993 |
1992年に京都の朝日カルチャーセンターで著名な哲学者や心理学者や精神科医がそれぞれの立場から臨死体験について講演し、『人間終末の風景』という本にまとめられた。 |
『人間終末の風景』 |
| 1993 |
赤十字とEU設立
赤十字組織が設立された後、2度の世界大戦が起こり、ヨーロッパはいずれの戦争でも主戦場となりました。ヨーロッパは2回目の戦争の後も、長く冷戦の舞台となり、武力行使による危険にさらされ続けました。しかし、ヨーロッパ諸国は1993年にヨーロッパ連合(EU)を設立しました。
これにより、通貨と安全保障が統一され、EU域内では戦争が起こる危険が消滅しました。サン・ピエール師の理想は実現され、アンリ・デュナンが困難と予測したことが現実になったのです。 |
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| 1993 |
アーヴィン・ラズロ博士と「ブダペストクラブ、世界賢人会議」発足
・内なる平和の達成こそ永遠平和の鍵 リンク |
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| 1993 |
エリン・ブロコビッチ(Erin Brockovich, )
正式な法律教育を受けていないにも関わらず、1993年にカリフォルニア州の大手企業PG&Eを相手取って訴訟を起こし、3億3300万ドルの和解金を勝ち取った女性。現在の肩書は環境運動家。その生き様は映画にもなった。 |
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~
1992~
2000~2007
~ |
ニール・ドナルドウォルシュ(アメリカ・ウォルシュ)『神との対話』1(日本語訳は1997)~3、『神との友情』(Friendship with God)(日本語訳は1998)⇒チャネリング
1992年のある日、行き詰まった人生に憤怒し、テーブルに置いてあったノートに怒りや失望の思いを、神に当てて書きなぐった。
書き終えてしばらくすると、自分のペンを持つ手が、何者かの力に拘束され、神の言葉が、自動的にノートに書き始められた。それは、「まるで口述筆記をしているようだった」と著者は述べている。彼の質問に、神が答えるという対話形式で書かれている。
・著者は、小学生時代、神父のような聖職者になることが夢だった。それは父親の反対でかなうことなく、マスコミ関係の仕事を手始めに、医学、政治などいろいろなことを経験している。
・私生活では、複数回の離婚を経験し、時にはホームレスの生活をしたこともある。まさに聖職者からホームレスというありとあらゆることを経験し、波乱万丈の人生を送っている。
・彼は、『神との対話』をおこなって、「自分の人生は、今のためにあったと気付いた」と述懐している。
魂には、無数の神性が、概念としての知識として付与されている。
人生は、魂が、その宿った人間の生活活動を通して、神性を実体験して、体験としての知識に変えていく過程である。
すなわち、現実の生活に起こるさまざまな出来事をツール(道具)として、人間が考え行動することによって、概念としての神性を体験して、体験としての知識を体得していく。
人間関係は、自分と他人との関係性の中で、自分自身を表現し、経験することのできる重要な場である。
人間関係の目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、本当の自分になっていくことである。
宗教はどの宗教も、神に至る道を教えているといっている。
しかも、どの宗教にも優劣はなく、すべての宗教が、神に至る道を示す、一つの教えだといっている。(※注 宗教と宗教団体や組織は違うのではないか)
『神との対話』の内容とキリスト教教理の相違点
・堕落と原罪
・キリストと救済
・輪廻と地獄
・選民と宗教
2001、「神とひとつになること」(Communion with God)
2003、「新しき啓示」(The New Revelations)
2006、「明日の神」(Tomorrow's God)
2007、「神へ帰る」(Home with God)に執筆出版し、神との対話シリーズを完結
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『神との対話』1~3、
『神との友情』 |
| 1990年代~ |
中矢伸一と日月神示
1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになって来た。
三千世界の大洗濯と大峠
神示には過去にも世の建替は6度あったとあり、今後に起こるとされる大建替で7度目だという。そして、これが最後なのだとも書記されている。過去6度のそれぞれについてはその全てが現界のみの建替でしかなかった為に、すぐに元に戻り根本的な大建替にはならなかったのだという。そして、今後に起こるとされる大建替では過去にあったそれらとは全く異なり、この現界はもちろんの事、神界、霊界、幽界等も含めた全ての世界に起こり、天明が最初に麻賀多神社の社務所で書記させられたように、文字通り「この世始まって二度とない苦労」になるのだとされる。
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中矢伸一 |
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『死後の生命の事実』
ジョン・アンカーバーグ
ジョン・ウェルドン
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| 1980年代~ |
レイキ
・1922年より創始者臼井甕男から2世代目直伝弟子林忠次郎へ。林が独自に発展させた霊氣がハワイ在住の日系二世の3世代目弟子高田ハワヨをとおして世界に広まり、日本に逆輸入されたもの。
高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」と区別する。
・日本国内では林忠次郎から師範の伝授を受けた最後の1人である山口千代子が長年、家庭生活の中で実践してきた靈氣(レイキ)がある。それが現在の「直傳靈氣研究会(じきでんれいきけんきゅうかい)」(山口千代子の息子、山口忠夫設立)が普及しているレイキであり、「直傳靈氣(じきでんれいき)」という。 |
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| 1993~6 |
マンドー・ゴーナム
アメリカの博士(UCLA)。世界的な免疫学、ナチュラルキラー(NK)細胞の権威。 |
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| 1993 |
バーバラ・ハリスの臨死体験
全米で最も著名な臨死体験者の告白。
これは現実離れした夢や幻の類ではない。臨死体験によって、深い精神性と価値観と人生の目標を持って生まれ変わり、劇的にその人生が一変した、一人の女性の魂の遍歴の書である。
彼女が臨死体験をしたころに、どんなひどい状態にあったかは本書に詳しいが、そのときの彼女と今の彼女は、これが同じ人間かと驚くほど違う。彼女は、臨死体験による人格変容の見事な実例なのである。
臨死体験前は、バーバラは大金持ちの実業家の有閑マダムでしかなかったが、体験後は、彼女の価値観はガラリと変わり、物質的価値に一切興味を持たなくなる。それまでの華美で安楽な生活を捨て、ひたすら苦しむ人の救済に身をささげるようになる。そして、価値観が全く違ってしまった実業家の夫とは離婚してしまう。
本書は、臨死体験によって、劇的にその人生が変わってしまった1人の女性の魂の遍歴の書であるが、同時に、アメリカの臨死体験研究の歴史を伝える書でもある。──(あとがきより) |
『バーバラ・ハリスの臨死体験』 |
| 1993 |
キューバとスペシャル・ピリオド |
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| 1994 |
『発芽玄米』
あらためて脚光を浴びた。 |
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| 1994.5.30 |
地球は第8レベルへと突入した。(P108)
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
| 1994.10.15 |
地球は第9レベルになりました。ここにきて「聖なる計画」が劇的にスピードアップしていることに気づくでしょう。(P108)
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
『ライトボディの目覚め』(改訂版) |
| 1994.12 |
木内鶴彦講師
第1回「将来世代フォーラム」 |
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| 1995.1.17 |
阪神・淡路大震災
戦後最大の都市型大災害。
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、明石海峡を震源地とするマグニチュード7.3の直下型地震。死者6,433名、行方不明者3名、負傷者4万人以上、家屋の全半壊24万軒(世帯としては約44万世帯)。地震による火災での全半焼約6,200軒超。
また地震発生直後から長期間にわたるライフライン(上下水道・電気・ガス・電話)の不通、消防・救急体制の混乱、各種産業・企業への被害、文化財への被害など、被害総額はおよそ10兆円。
この大震災の教訓としてその後、政府や行政、企業等では危機対応力の強化、災害時の連絡体制の確保、災害関連法の整備などがはかられ、この震災をきっかけに被災者生活再建支援法が制定された。
数十万人の被災者が出た被災地では体育館などにもうけられた避難所や仮設住宅への長期避難生活、その後の震災住宅への入居など被災者の苦痛は大きく、被災者や救援者に対するメンタルヘルス・ケアの必要性や一般市民による継続的な被災地災害援助ボランティア活動の重要性が認識された。これらの経験を通じて、日本では一般にじゅうぶんには普及していなかった新たな分野への注目や関心が高まる契機ともなった。(日本におけるボランティア元年)
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1948~
1996年 |
ラビア・カーディル
人権運動家・実業家、ウイグルの母と呼ばれる。
・ラビアは、中国における最も著名なウイグル人として活躍すると同時に、新疆におけるウイグル人の人権状況改善を党・政府に対して積極的に訴えた。1996年の政治協商会議では、漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行い、注目を集めた。
・同年には、ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジが行った書籍の翻訳、政協会議でのラビアの演説が公安当局の間で問題となった
・1997年に全ての公的役職から解任された(シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命)。
・1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。
・ラビアの逮捕は、中国内外のウイグル人社会に大きな衝撃を与え、国外のウイグル人を中心に、中国政府にラビアの釈放と、ウイグル人への人権侵害の停止を要求する運動が展開された。
・ライス米国国務長官の訪中を控えた2005年に、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に、「外国での病気療養」を理由にラビアを釈放した。ラビアは米国に亡命することとなった。
・米国では、国際ウイグル人権民主基金を設立し、2006年には、米国ウイグル人協会会長に就任した。ラビアは世界ウイグル会議の議長に選出された。
・2009年7月下旬にも来日し、講演や自民党議員らとの会談が予定されているが、ウイグル自治区で同月に起きた騒乱の直後の来日となったこともあり、中国政府は不満を表明している。ラビアは来日が実現したことに対し、「ウイグルの主張を世界に伝える道が開けた。対応が冷たい欧米へのメッセージにもなり、日本の政治決断に感謝したい。中国が各国に外交圧力をかけるなか、日本は独立主権国家としての意思を国際社会に示した」と日本の対応を評価した。
2009年10月にも来日し、鹿児島大学などで講演をした。 |
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| 1995.4~ |
ブルース・モーエンと執筆活動
ロバート・モンローのモンロー研究所で学ぶ。
オクラホマシティの連邦ビル爆破事件直後に執筆開始 |
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1995.4.27 19:00
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レイモンド・ムーディと『生命、死、あの世の問題について』
ジョージア州アトランタのセンター・ステージ館にて
死別による悲しみサポート・セミナー(悲嘆カウンセリング) 全席75ドル
霊通館を開館するまでの経緯を語った。 |
『生命、死、あの世の問題について』 |
| 1995 |
日野原重明と聖路加病院
・日野原は、東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」と言う批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設した。
・この備えは1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
・院長であった日野原の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がった。この時の顛末はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』などでも取り上げられている。
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| 1995~ |
アンドルー・ワイル
アメリカの健康医学研究者、医学博士。伝統中国医学など代替医療の伝統も取り入れ、人間に本来備わっている自然治癒力を引き出すヘルスケア・システムである統合医療を提唱。
アンドルー・ワイル(アメリカ)-医学の革命書といわれ世界的ベストセラーとなった「癒す心治る力」が上野圭一訳、角川書店より初版本出版。人間を精神的、身体的、霊的側面からとらえ自発的治癒力について述べ、患者と医師の理想的立場を明らかにしている。 |
『癒す心治る力』 |
| 1996年 |
ティク・ナット・ハンと『生けるブッダ、生けるキリスト 』(春秋社、1996年)
ヴェトナムの禅僧。ヴェトナム戦争中に事務所に手榴弾を投げこまれなどしながら、反戦と和平のために奔走、アメリカで行った率直な 和平提案を理由にヴェトナムへの帰国を拒否されて亡命した。南フランスに仏教者
の共同体を開設し、「行動する仏教(エンゲイジド・ブディズム)」を提唱して活躍。
なによりもまずキリスト教と対話する姿勢が印象的だ。キリスト教の宣教師たち がヴェトナムの植民地化に加担し、仏教徒にいかに横暴な態度をとったか、その生々しい体験を超えて、なおかつキリスト教のもっとも真実なものに深く共感する姿。キリスト教との対話を踏まえて、以下のように語る。
「対話とは一方の側が自己拡張して、相手方を自分たちが主張する『自我』にとりこんでゆくという意味での、一方による他方の吸収同化手段ではありません。
対話には自他の区別を超えた『無我』という視点が必要です。
相手が基盤としている伝統が持っているよいもの、美しいもの、そして味わい深いものに心を開いて、それを自分が変わってゆく力としてゆかねばなりません。 ‥‥たとえば、もしも両親や家族、社会、あるいは自分の宗派と教会とのあいだに争いが起こったときには、おそらく自分の心のなかに波風がたっているはずです。
したがって、最も大切な平和の仕事は、まず自分に戻って、自分の心のなかで起こ っているさまざまな現象、すなわち感受作用、認識・判断作用などの心の状態をじ っと見つめてみることです。
自分の内部を深く見つめる瞑想の練習が大切なのはこのためです。」 |
『生けるブッダ、生けるキリスト 』 |
| 1996(平成8年) |
「超自然科学研究会」創立50周年とイギリス人物理霊媒コリン.フライ(通称ミスター・リンカーン)を招き3回にわたる公開実験
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P285 |
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1996.5.28
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O-157(オー157)
・1982年(昭和57年) - アメリカ合衆国のオレゴン州・ミシガン州などでハンバーガーによる食中毒が発生した。この時O157が原因菌として初めて特定された。
・1984年(昭和59年) - 大阪府下の兄弟(2才と5才)が腹痛と水様性下痢を発症し、血性下痢(出血性腸炎)になる。当時はEHEC(腸管出血性大腸菌)の存在が知られていなかったので、これらの検査は実施されず、原因不明の下痢症として処理された
・1985年に保存されていた糞便が再調査され、弟の糞便からO157が検出され、兄の糞便からはベロ毒素活性を中和する抗体が培養細胞の試験で確認された。また川崎市の下痢患者の糞便からもO157が検出されている。
・1985年に東京都の小学校ではO145による集団下痢症が発生している。
・5月28日に岡山県邑久郡邑久町(現在の瀬戸内市邑久町)の学校給食に起因するO157食中毒事件を、岡山県保健福祉部環境衛生課が発表した際に、マスコミを通じて名称が知られるようになった。
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| 1996.8.8 |
森田健と不思議研究所より-中山ミキが降りたつ大徳寺昭輝
私は平成8年8月8日に湯河原に行った。(※2009年7月18日に2人で行くことは行ってきました)
天理教の教祖、中山ミキがその体に降りると言われている伊藤青年については第二号に書いた。彼は大徳寺と名前を変えて湯河原にいる事を読者の古川さんが教えてくれた。そして8のつく日にお話が聞けるという。
私は中山ミキになっていない状態の大徳寺さんと話をすることができた。彼は30歳を少し過ぎた年齢で体格もよい。優しそうだが歴然とした男の声だ。私は、きょうが第二号の発行日(8月8日)であることを告げ、あなたのことを書かせてもらったと言った。すると是非その本を読みたいので頂けないかと言う。私は私についての情報を前もって持ってほしくないので、悪いがあげられないと答えた。
中山ミキが彼に降りたったとき、解決すべき問題を持っている人には的確に答えてくれると言う。その信憑性を試したくて、私は本をプレゼントしなかった。
さて、1時の開始時刻ピッタリに大徳寺さんは、襦袢と足袋を付け、顔かたちも女性になって現れた。私は200人もいる人たちの末席にいたのだが、大徳寺さんは私の目の前に座った。そしてまったく女性の声になってしゃべり始めた。
「あんさんの中には3次元だとか4次元だとかの色々勉強なさっている方もおりますやろけども、ほんとうに喜ぶ次元というのが必要なんです。喜ぶ次元ということは何次元だとかいうことは関係なくなります。限りがない世界です。無限なんですね。無限だから決めることがない。無限だから境を作ることがない。
人というものは形にとらわれてくると、こうかしらああかしらと形の世界にはいってくる。あたかも神様の教えを勉強すると、自分たちが信仰する神様のお名前は何かしら、名前が知りたいわ、だれか教えてちょうだいと思うてくる。しかし知らないほうが幸せです。
神様はこう言います。我が名前はあってあるものである。あってあるものというのは、この世界ですよということですね。この世界のあらゆるものですよということです。
あなたがたが物や形にとらわれて、神様を一つの姿やだれかに化身したような姿にどうしても考えてしまう。それがだんだんまちがってへんな信仰や宗教のようなものを作っていくんですね。
すべてこの世の中に現れているあらゆるもの、お釈迦様にしてもまたキリストさんにしても、またワシにしても、人の姿だったころは、その姿を通じて示したもうた神の実相があるんです。
そやから
人であることの喜びを知ること。人であることの喜びを知ると、中に生命が輝いている。あなたがたの中にも生命が光かがやいているんですよ。
この生命はすべての次元を越えて、過去も現在も未来も行き来することができます。想いが飛ぶんですよ。想いは時を越えているんです。そやからそこの世界にはどのような難しい次元も存在しない。あるのは愛の世界です。愛の世界がわかっていれば、とらわれることがなくなってきます。
すべてとらわれがはずれて、はじめてそこに本当の神の世界が現れます。神の世界というのはすべてのものに力を貸す世界。神は一部のものにだけに話かけたりはしません」
私は大徳寺さんに私に関する情報はまったく知らせていない。私の目の前50センチのところに来てしゃべったことも、この内容のことも、私にターゲットが向けられていたと思う。そしてこれは私が研究中の次元の事や、時間のことや、願望実現のことや、そしてサイババのことなどに対する中山ミキの見解であろう。 |
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| 1904年1月3日[公称] ~ 1997年1月25日) |
ジーン・ディクソンとジーン・ディクソン効果
・ケネディ暗殺を予言したとして有名になったが、外れた予言も多いことで知られ、当たった予言は覚えているが外れたものは忘れられがちなため、実際より的中率が高いように思い込まれることが"ジーン・ディクソン効果"(マスメディアが予言者が当ててみせたわずかな予言を誇大宣伝して大衆に記憶させる、外れた予言は忘れたり無視したりすることにより、的中率が高いように見えることである。)と呼ばれたりしている。
・ジーン・ディクソンはウィスコンシン州メドフォードにドイツ系移民の子として生まれ、8歳の頃カリフォルニア州に移住した。この頃、ロマの占い師に、自身の予知能力を指摘されたという。第二次世界大戦当時すでに予言者としての名声を確立しており、ルーズベルト大統領やジョン・ケネディ大統領の暗殺を予言していたことでも有名である。彼女は生前、世界中の新聞に、ジーン・ディクソンの名で西洋占星術のコラムを掲載していたが、実際は別の占い師が内容を執筆していたようである。ジーン・ディクソンは晩年、第40代大統領ロナルド・レーガン夫人ナンシー・レーガンからの相談も受けたと言われている。
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| 1997 |
ポール・ソロモン『メタ・ヒューマンへの道』─右脳主義・脳内革命を超えて─
サザン・バプティスト派の牧師の家に生まれ、非常に宗教的な環境で育った。
子供の頃から超常現象にみまわれ、現実生活は困難なことが多かった。しかし、14才での神秘体験から、神の存在を伝える仕事を選び、最年少のバプティスト派の牧師となった。しかし、軍隊から帰ってみると、妻が出奔。家庭と仕事を同時に失うことになる。バプテスト派の牧師は結婚していることが条件であったのである。
彼はそれで初めて酒を飲み、タバコをすい、ドラッグも、ありとあらゆるやってはいけないことに手をそめる。
何と多くの仕事についたであろうか。長い魂の暗い夜を経験。
その自暴自棄の苦しみから脱皮するために、藁でもすがる思いで催眠療法をうけた。その時、彼は突然深いトランス状態でチャネリングを始めたのである。彼はチャネリングによって、人生の意味や神の存在について問うたのである。エドガ-・ケイシ-の再来とも騒がれはしたが、彼の願いは、私たち皆、内なるところに神の存在があることを伝えたいということであった。
また彼はあらゆる宗教に学び、秘教というエソテリックな教えが伝えようとしたことは一つであるとに気づいたのであった。彼は、そこで単にキリスト教という立場を越えて、あらゆる文化宗教を統合した手法を編み出し、人間の可能性の開花にのりだしたのである。
その手法をインナ-・ライト・コンシャスネス(Inner Light Consciousness 内なる光りの意識)と呼んだ。
実際彼は日本の盆栽の師につき学び、人間の育て方を学んでいる。
マザ-・テレサの手伝いにも行き、深いその愛の行為に感銘をうけている。
ユダヤ伝統のカバラはシモン・ハレビ師に学んでいる。聖書にみえかくれする古代のエッセネ派での教えと生活からも教えを取り出している。西洋にも東洋にも共通する、師と弟子の出会いによって脈々とうけつがれてきたエソテリックな伝統をILCにプログラムしたのである。
それによって、人々の意識の変容をもたらし愛にみちた社会の実現に献身する人間を世におくりだしたかったのである。
それはカルメル山にあったと伝えられる預言者の学校、ミステリ-・スク-ルを現代に蘇らせることでもあったのである。彼はイエスの言葉『あなたがたは、私と同じことができる。いや、それ以上のことができる』という言葉を私たちにも言い続けたのである。そして『全ての源は愛なのである。愛・光り・真実・生命は同じものである。愛がなければ全ては無に等しい』というのが、ポ-ル・ソロモンの生き方であり、終生のメッセ-ジであった。
フィリング
カルメル山にあった古代の叡智の学校、預言者の学校の復興に挑戦したポ-ル・ソロモンのもとに集まった日本人30人によって1993年にスタ-トした。
メタ・ヒュ-マンとは、大いなる存在とともに歩む人です。愛そのもので生きる人です。
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| 1997.1 |
エリザベス・キューブラ・ロス、自伝『人生は廻る輪のように』を執筆
家や何より貴重な研究の資料などが全て灰になるという体験後、移住。その直後、脳梗塞に倒れとうとう人の手助けなしには生活できなくなってしまった。そんな生活の中で、自分の死をみつめ、どのようにしてか?まとめ書いたのがこの自伝であった。
医者になるまで、そして、その後の人生もまさに「不思議」。「奇跡」に満ちていた。そして、坂本政道から、ブルース・モーエン、ロバート・モンローとつながり、もう一度きっちりと「モンロー研」にたどりつくことができた。人生後半の部分にでてくる「亡くなったはずの元患者シュウォーツ夫人」や「死後の世界がある証を見せることを約束して亡くなりその約束を果たした、離婚した元夫マニー」や「妖精」の話を書きとどめている。
(この話がやっとしっくり来た。これを書きとどめながらもう一度読み直したいと思っている。)
モンロー研究所で体外離脱の体験を記述 |
『人生は廻る輪のように』 |
| 1910~ 1946~1997 |
マザーテレサ
上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。自身の言葉によると、
1946年9月10日ダージリンに向かう列車の中で「最も貧しい人の間で働くように」との「神の声」を聞いた、とマザーは後に語っている。
■この後、マザーが36歳のときに、霊視現象・霊聴現象・接神現象(イエスとの合一体験)が集中して発生した。こうした霊界から引き起こされた心霊現象を通して、マザーは新たな人生を歩み出す決心を固めていくことになります。マザーに修道院を出る決心をさせるために、霊界側はさまざまな心霊現象を起こしてマザーに働きかけました。マザーの決心を促すために、リアルで実感的なイエスの姿を見せ、イエスさながらの声を聞かせ、イエスとの触れ合いをさせてきました。もちろんそのすべてがイエス本人のものではなかったのですが、マザーは心の底からイエスであると信じ込んだのです。
■この36歳のときの神秘体験が、マザーの心に大きな刻印を残すことになりました。それはマザーにとって、決して忘れることのできない人生最大の出来事だったのです。マザーは神秘体験を通して現実そのもののリアルなイエスと出会い、イエスと触れ合い、イエスと一体化しました。この体験の衝撃があまりにも強すぎたため、それが失われたとき、言葉にできないほどの喪失感とショックがマザーを襲うことになりました。リアルなイエスとの触れ合いが失われたとき、“神(イエス)の不在感”という苦しみが心を占めるようになりました。実はこれこそが“神秘体験”から始まったマザーの「心の闇」の正体だったのです。
⇒マザー・テレサの「心の闇」の問題-スピリチュアリズム的解釈へ
マザーが1950年に設立した修道会Missionaries of Charity(神の愛の宣教者会)では、この日を”決意の日(Inspiration Day)“として、毎年祝っている。(「その時歴史が動いた」より)
1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。
1950年、カルカッタで協力者たちと共に精力的な活動を行っていたテレサはバチカンから修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の宣教者会」である。テレサによれば同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされない人のために働く」ことであるとされた。
「死を待つ人々の家」というホスピス施設を開設。
1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。
1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラ。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。マザー・テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。
1969年、アメリカ人のマルコム・マゲッリッジが撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful
for God)および同名の書籍によってマザー・テレサの活動はアメリカ合衆国のみならず、全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマゲッリッジはマザー・テレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっている。
1971年、教皇パウロ6世は自らが制定した勲章「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者としてマザー・テレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、シュバイツァー国際賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ上院議会金賞(en:Congressional
Gold Medal、1994年)、アメリカ合衆国名誉市民権(1996年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。
1979年にノーベル平和賞受賞。マザー・テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断ったが、賞金6000ドルはカルカッタの貧しい人々のためにうけとった。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと言う。そのときのインタビューの中で「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたマザー・テレサの答えはシンプルなものであった、「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。
1982年にはマザー・テレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。コルカタの施設で死にかけている子どもたちのため、ローマから医薬品を運んだ際には、乗り換えのインディラ・ガンディー国際空港で多くの空港関係者が搭乗券の手配や荷物の搬送で、果ては国内線のパイロットまでが管制塔の警告を無視して自機を国際線スポットへ移動させ(コルカタの出だった)、協力したという。このような逸話はいくつもあり、マザー自身は「ミラクル」と呼んでいた。
1983年、高齢のマザー・テレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。
1991年にはペースメーカーをつけた。この年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。また同じ年、健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため、全会員による無記名投票が行われた。結局賛成票を投じたのはマザー・テレサ本人だけで、あとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意した。
1997年4月、マザー・テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていた。
1997年9月5日、世界が見守る中、マザー・テレサは87年の生涯を終えた。最後の言葉は「もう息ができないわ」であった。マザー・テレサが亡くなったとき、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたマザー・テレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた。インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女だけである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。
1997年、テレサの死後、すみやかに列福・列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのだが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに始められたのである。
2003年10月19日、教皇ヨハネ・パウロ2世はマザー・テレサを列福し、福者であると宣言した。通常は死後、福者にされるまで50年の審査が必要とされていることを考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては100年ほど時間をかけて審査される。 |
意外な情報リンク
マザー・テレサの「心の闇」の問題-スピリチュアリズム的解釈-「体外離脱」シリーズ他 坂本政道の本(絵でみる「死後の世界」)を読むとマザー・テレサの「天啓」と「心の闇」の話がとてもわかりやすくなる。
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| 1997.2 |
ジョージ・マクガバンとマクガバン委員会
1968.7に低所得層の飢えが社会問題になり、「栄養と所要量に関する上院特別委員会」 (Select Committee on Nutrition and Human
Needs) の議長にジョージ・マクガバンが任命される。
マクガバン委員会とも呼ばれる。
この年までに何度も公聴会を開き、そのまとめを「米国の食事目標」(Dietary Goals for the United
States)として報告する。これはマクガバン報告、マクガバンレポートとも呼ばれる。
報告にはハーバード大学公衆衛生大学院の栄養学の教授であるマーク・ヘグステッドも関わっている。(ヘグステッドは全国栄養協会(National Nutrition Consortium)の会長でもあった)
10大死因のうち6つの病気が食生活に大きく関連することがわかり、栄養の問題は栄養不足だけではなくなった。そして、病気にならないための食生活の目標が6つ設定された。
- 炭水化物の比率を(全カロリーの)55-60%に増やす。
- 現在40%の脂質を30%に減らす
- 飽和脂肪酸を10%に減らす。多価不飽和脂肪酸、一価不飽和脂肪酸を10%にする。
- コレステロールを1日300mgに減らす。
- 砂糖を15%に減らす。
- 塩分を3gに減らす。
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| 1997.3 |
東電OL殺人事件
東京電力の従業員だった女性が東京都渋谷区にあるアパートで殺害された事件。被害者女性が東京電力従業員であったことから、この名が付けられた。一部では「東電女性社員殺害事件」とも言われる。
被害者女性は東洋経済新報社が主宰する東洋経済新報社論文-高橋亀吉賞佳作に入選したことがある。
女流エコノミストとして知られる存在だった。(スパイシーより)
※20才のときに亡くなった、父親の影響も強かったのではないか。
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| 1997.5 |
フィリス・アトウォーターと『臨死体験 未来の記憶―精神世界への新たなる光』『光の彼方へ』
世の中には未来を先取りする能力、何年もたって初めて現実のものとなる出来事を記憶する能力をもつ人々がいるという。著者アトウォーターは、臨死体験の経験者に対する調査を始め、この能力を備えた人が意外に多いことに気づいた。
さらに彼女は、この能力が学習可能であることをつきとめ、さまざまな研究成果を駆使してこの現象を科学的に説明しようと試みた。
単なる臨死体験集にはない、人間の新たな可能性をも予感させる。 |
『臨死体験 未来の記憶―精神世界への新たなる光』
『光の彼方へ』
3千人以上の体験者へのインタビューを行い、臨死現象、その後の後遺作用を紹介。
著者は臨死体験研究家。角川春樹訳。
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1994~
マイクル・B・セイボムと『「あの世」からの帰還』出版の15年後
~
1998
~
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マイクル・B・セイボムと続『「あの世」からの帰還』 -新たなる真実・47名の臨死体験-
・『「あの世」からの帰還』後、15年以上の間隔、2年間で160名以上の調査、うち47名に臨死体験(Near Death Experience=以下NDE)
※体外離脱
【目次より】
はじめに
第1章=アトランタ研究――臨死体験の再検討
宗教を素通りする/信仰という要因
・NDEは科学のお眼鏡にかなった。
・新たな発見-多くの人たちが死に近づくと、その本質というか霊魂が実際に肉体から離れたように感じられること
・宗教を素通りしたこと-臨死体験やその後の研究で伝統的なキリスト教の教えと食い違う”啓示”が含まれていた。それは死者に助言を求めるのを奨励する啓示であり、生まれ変わり教える啓示であり、誰もが絶対に天国に行けることを約束する啓示だった。
・地獄の物語がほとんど登場しないため、一部のキリスト教徒は、地獄の存在を否定しようとする”陰謀”に加担しているのではないかと非難した。キリスト教徒を批判する者もあった。
・患者はNDEの後に信仰が深まり、伝統的な宗教的実践にそれまで以上に熱心になった。
・患者の信仰の深さは治療の場で生きながらえ、病気が治る見込みを左右する有力な要因になるらしい。
・患者たちが「祈り」は救命や回復、治癒に重要な役割を演じ、様々な効果があることを明かしてくれた。
・自らの神学観を掲げて諸々の疑問を追究することにした。それまでの私は臨死体験の背後に深い霊的な意味が潜んでいることをほとんど理解していなかった。
第2章=ダレル――心臓と心の医学的、霊的変化
急いでダレルを助ける/病室に現われた光/変身した女性/変身した男性/ダレルと対面した朝/永続的な変化/ダレルの面接を振り返る/「アトランタ研究」を立ち上げる
・初めてNDEがあった後、信仰が劇的に強まり、今では以前にはなかったほどしっかり自分を支えてくれるという。妻も夫の治癒を真剣に祈り、自分がイエスと呼ぶ霊的な光によって、夫が救われることを確信した。
・NDEが本人の宗教信仰や宗教活動に影響を与えることも明らかになった。
第3章=死――最後の前線を定義する
死の影の谷に入る/死と「臨死」体験を再考する
・最も深いNDEを体験したパム・レイノルズ(ミュージシャン)の場合
・臨死の危機状態にある時に入院した患者や意識不明の状態が長かった患者、医学的な蘇生処置が必要だった患者は(…)蘇生処置を必要としなかった患者よりも、臨死体験を報告する比率がはるかに高かった。
・心肺蘇生法により蘇生可能に。全脳すべての機能が停止(平坦脳波、脳幹の生存の可能性、脳への血流の3通り)
・死はいったいいつ起こるのか?という疑問
第4章=生き延びる――心停止の背後にあるもの
意識ある患者に除細動をかけるという惨事/恐怖から平安へ/死よ、お前のとげはどこにあるのか
/患者の命を救う命令/「生きる意志」/「確信のさなぎ」に包まれて/生命が燃え尽きる寸前に救われる
・天国で、とてもきれい、イエス様、すばらしいお髪、長い髪にローブ、天使たち⇒向こうに行きたかった。
・廊下の先にはとっても明るい光があって、何もかもだいじょうぶ…。気分は最高でひたすら光に向かってまっすぐ歩いてた。…(現世に)戻りたくなかった。
・誰かが、何かが死に向かって突進するのを妨げていた。
・霊的な権威はいつもその場を最終的に支配しているように感じられた。
・医師からの肯定的な言葉や否定的な言葉の影響力に関する研究⇒フラシーボ効果
第5章=治癒――信仰、意味、愛、家族の力
内面的信仰/人生の意味/愛する力/家族とのかかわり/がんの治癒に関係する心理的要因/
アトランタ研究とNDEの治療効果(内面的信仰、人生の意味、愛する力、家族とのかかわり)/対照群/付記
・グロリアの体験-神はある目的のために私を残しておかれた感じがすごくします。
・生きる意味を失うと心身の健康状態が著しく悪化する。生きる意味が増すとともに愛が深まった。
・NDEを体験したことで前よりもっと思いやりのある人間になった。前よりも寛容で、忍耐強くなっています。
・大きな成長、階段を3、4段上がったところ
・日本、九州大学医学部-末期癌が退縮した5人の患者の事例の鍵は「信仰」
「運命ないし、神のご意志に自らを完全に委ねる。」「起こるべくして起こる」「神に感謝する」⇒患者に内在する自然治癒力を完全に活性化
・デイジーの言葉-私たちは理由あってここにいるんだと思います。私がここにいることを神がお望みになる限り、一瞬一瞬をおろそかにしないで、できる限り最善を尽くすつもりでいます。くよくよ思い悩まないようにしたいと思っているんです。神が、何かの理由で私をここに置いてくださる限り、どなたかが私の病気を治してくださるか、新薬か何かで治していただけるはずだと思っています。
内面的信仰(「人間や儀式」への奉仕には関心がなかった。敬虔なカトリックの家庭で育ったが臨死体験後は組織化された”宗教”には関心がなくなり神に奉仕するという)
・レイ・アンの言葉、詩-私のためにいてくださることを神に感謝します………
・ジェイミー(プロの霊能者=サイキックでNDE3回のうち2回目が最も意味深かった)
「人生の内的意味」の実感と「個人的意味の探究」の双方が高まった。
NDE中に14歳くらいの時からの指導者マイクル先生からの指導
①最善を尽くして生き抜き、素直に人のお世話になること
②毎日、小さな出来事にも笑いを絶やさないこと
③兄弟姉妹や人類の-犬猫などの動物たちの魂を向上させること
④皆さんのの勉強のお手伝いをして、真理の光で照らしてあげ、お手本になって、それまで勉強してきたことをお教えして、私のもとへ来る人たちにそのことをお伝えすること
そうするとその人たちの本来の姿がわかる。
⑤人を無条件に愛すること
・プリシラの言葉-NDE中、それまで生きてきた中でこれほどの愛と安らぎを経験したことは家族とも、私の愛する誰とも、それまで一度もありませんでした。
・ボビー・ジーンの言葉-NDE中一目でイエス様だとわかりました。…それまで一度も感じたことのない種類の愛を感じていました。
家庭生活が破たんしていたが、回復後離婚、再婚、その後32年間自殺企画は一度もなかった。
・家庭生活へのかかわりは50%が大幅に増加し、40%はやや増。18%が不変。この結果は大手術をうけながらもNDEを体験しなかった人たちの割合とも差。
・NDEを理解しようとしない医師や医療関係者は体験蘇生者のカルテに「先端医療の生き証人である」と書いていた。
第6章=祈り――霊的医療の効果
祈り、癒し、臨死体験/アトランタ研究と祈り/臨死体験中の祈り/とりなしの祈りと臨死体験 /祈り、救命生存、臨死体験
・ゲイリーの心臓カテーテルで患者に「祈り」を求められ、エフェソの信徒への手紙。第6章10-18節
・霊的信仰調査(1.神は存在する、等、11項目を「はい」「いいえ」「?」で回答し、得点化)
NDEの前後で信仰内容に高い一貫性、霊性(内面的信仰)が深まり、宗教的活動が増加
・聖書の神に祈りを捧げることの優越性は未だ確認されておらず、祈りを捧げないよりも、何らかの神に祈りを捧げたほうがよい、と言える以上のものではない。
第7章=教会――NDEの戦場
オメガへの道/玉にきず/生まれ変わりという問題/アトランタ研究と宗教的信仰
NDE後に宗教のグループや所属を変えたのは8%。このことは同じNDEの30%近くが体験前に少なくとも一度はその信仰を変えているという事実とは対照的だ。NDEは正規の宗教活動を減少させることはない。
第8章=心霊現象――虫の知らせ以上のもの
体脱体験/幻/予知/まとめ
・天使を見る。大きな光の男。主が自分と夫を教会に導いてくれる幻を見た。
・「イエス・キリストの御名においてこの悪魔に部屋から出て行くよう命ずる」と言い、指を鳴らすとその男は消えた。
・真剣に祈りを捧げている最中に光を見た。
・もし息子が助かったら…と祈っていたらいきなり、白い光が息子のまわりを取り囲むようにして降り注ぎ、助かることがわかった。
・ベッドに横になって祈ると部屋が照らし出され、主が「わが子よ、心配せずともよい、…」といい、NDEの中で天国に行ったときとちょうど同じような姿にみえた。⇒回復した。
・このような幻との遭遇はNDE体験者の40%、非NDE心臓疾患の場合、15%
・NDEを報告した人たちでは、宗教的信仰に関係なく、心霊現象に対する関心が明らかに高まっていた。心霊体験も多かった。だが、NDE後にはさほど起こらなくなっていることがわかった。
第9章=地獄――珍しい臨死体験
・地獄への旅
・医師モーリス・ローリングス『地獄へ墜ち、そして戻る』の天国的、地獄的NDEの実例に不整合性がみつかった。本人も認め、追記を書き訂正したいという話があったが、まだ出版されていない。
・ジョージ・ギャラップの全国的調査で地獄や苦悶を感じたと報告した者はNDE体験者の18%
・私のアトランタ研究では2例。1例は自殺を図った男が地獄的体験をし、一生懸命に神に助けを求め、祈ったところ、NDEを体験し、薬を吐き出し、完治したというもの。もう一例は間違って地獄に落ちそこには酒浸りだった亡き義兄に会った。手違いだったため、天国に移動し、天国の守護天使にあなたは孫や子どもたちのために戻らなければならない、と言われた。戻る途中でいくつか話をしてくれたが、ふたつのことを除いてこの出来事を後ですっかり忘れてしまうだろうという。
ひとつは天国があり、地獄があるということ
もうひとつは自分がしてもらいたいことを人にしてあげた人が、天国に行けるということ
第10章=科学的説明――不可能なことを試みる
平坦線患者(フラットライナーズ)/「死につつある脳」理論/体脱体験中の「視覚的」知覚/パムの臨死体験/不可能なことを試みる/
・レイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』は国際的なベストセラーになったが、科学的欠陥があった。私の場合はNDEは適切に研究すれば単純な科学的説明に帰着することを確信していた。⇒5年後、116件の面接調査後、自分のまちがいに気づいた。
・カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部の医師たちが延べ22回の死を実験的に引き起こしてもNDEは1件も報告されなかった。
・臨死体験の場合には87%が「信じがたいほどの安らぎや無痛状態」を喜び
第11章= 終章――聖書と臨死体験
私の案内役としての聖書/臨死体験は、死後の生命をかいま見せるものか/NDEは霊的体験か/「体脱」体験は肉体から離れたところで起こるのか/聖書から見たNDEの後効果/神の啓示/NDEの内容は予言的なものか/NDEの霊的内容の分析/それは天使と悪魔なのか/まとめ
・前作はすべてのキリスト教徒の琴線にふれる大切なテーマを扱っていた。
・自身、前作出版以来、ますます聖書を愛するようになり、キリスト教の信仰をより深く理解し、霊的にも成熟した。
・アトランタ研究の臨死体験者のうち75%がNDE死後の生命が実在するという確信が高まったことに気づいている。残る人tたちはやや高まらなかったか変わらなかったか。
⇒人間はただ一度死ぬ。(ヘブライ人への手紙第9章27節)わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のような(サムエル記以下第14章14節)
もし、モーセと預言者に耳を傾けないのならたとえ死者の中から生き返るものがあってもその言うことを聞き入れはしないだろう(ルカによる福音書第16章26-31節)、旧約聖書にも新約聖書にも神が介入し、死者をよみがえらせた7つ特例がある。
・NDEの体験中にもその体験が想起されるときにも、それが霊的現実だと感じられること。
・NDEは”現実的”であると同時に”あの世的”なものにも感じられる霊的体験
・死後の生命や神や祈りに対する信念が深まることなど、無視できないほどの後効果がある。
・NDEは霊的体験
①NDEは霊魂ないし魂の世界で起こるのであって物質界で起こるものではない。
②NDEは本質的に宗教的なものであり、物質界を超越する宗教的事象に関係している。
③NDEは科学的な数量化にはなじまない。どのような装置であってもNDEの検出分析に成功したためしはない。
④NDEは現実的なものであり、空想的なものでも幻覚的なものでもない。体験者は単なる夢のようなものではないと強く主張。
・神は「永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレトの言葉第3章11節)
・神は霊であり、「人間を照らす光」であり、「死の陰の地に住む者に射し込んだ光」(マタイによる福音書第4章16節)
・NDE体験者たちは「地にひれ伏して拝し」、というよりは神の前で「愛され」「喜び」「安らぎ」「驚き」「高揚感」「完全さ」「心地よさ」を感じている。
・神のことを「近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることもできない方」(テモテへの手紙一第6章16節)
・NDEでは神を見たという主張は普通のこと。
・神の実在を否定する人のNDEは不合理なことに無限の力を持つ存在を神と認めるのを拒絶した。
・パウロが語る(パウロ コロサイの信徒への手紙第二章18-19節)「ほうび」とは蘇生がせいこうし、この世の生活に戻ることではなく、神の御前で永遠の命が得られること。神の愛と真理の中で成長するのに必要なすべてを与えてくれる頭(歴史上のイエス、キリスト)にしっかりと結びつく時に得られる。(?)
訳者後記
付録(表1・臨死体験者の個人的背景表/表2・非NDE対照群の個人的背景表/表3・霊的特性/表4・生活の変化調査表での純得点の変化/表5・統計的比較の「指標」となる臨死体験/表6・霊的信仰調査表)
原註
・索引
【著者紹介】 マイクル・B・セイボム(Michael B.
Sabom)
医学博士。心臓専門医として開業するかたわらアトランタにあるノースサイド病院とセント・ジョセフ病院に勤務。レイモンド・ムーディーの『かいまみた死後の世界』を読み、科学的分析を行なっていない点に疑念を抱いたことから臨死体験研究に入る。
1982年“Recollections
of
Death”(邦訳『「あの世」からの帰還』、日本教文社刊)を出版して高い評価を受け、以来二十数年にわたり臨死体験研究の第一人者として調査を続けている。
パム・レイノルズの事例
ケネス・リングとの論争も有名に。しかし、ケネスの完敗と奇妙な幕引きに終わる。
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続『「あの世」からの帰還』
『奇跡的治癒とは何か』
バーニー・シーゲル
ガンから生還した奇跡的患者は、特殊な治療を受けたのではない。
人間の潜在的な自然治癒力を引き出して、ガン細胞がなくなったり、余命を伸ばしたりした患者たちだ。
ヴィクトール・フランクルの言葉を引用
苦しまなければ変われない。病気の症状は自己発見と精神的変化を始めるための「入場券」にすぎないケースが多い。病気を成長のための精神的糧として捉えるのだ。
生きることは苦しむこと。生き残ることはその苦しみの中に意義を見出すことだ
『信仰という要因』
デヴィッド・ラーソン
デイル・マシューズ
コンスタンス・バリー
健康に及ぼす宗教の影響を調べた158件の医学的研究
この要因を調べた研究の89%で生存率が上がっている。
特に内面的信仰
『意味による癒し』
ヴィクトール・フランクル
アウシュヴィッツ強制収容所で恐怖の3年間を生き延びた精神科医
・生きる理由を模索する者は、ほとんどの生きかたに耐えることができる。
アレクシー・カレル
ノーベル医学生理学賞受賞者
祈りは、人間が発することのできるエネルギーの最強の形態である。それは、地球の引力と同じくらい現実的な力なのである。
『USAトゥデイ』の調査
自分が治療を受けるときに祈りや瞑想を行う
・女性医師75%
・男性医師635
これらの医師の多くは自分の患者にも回復を願って祈りを捧げる。
『南部医学雑誌』
「とりなしの祈り(人のために神に祈ること)」
ランドルフ・バード、心臓病専門医
自分の病院の冠疾患集中治療病棟に入院している患者を対象に祈りの効果を調べ、とりなしの祈りは有益だったと結論
ただし、対象者は「日常的に敬虔な祈りを捧げる、積極的なキリスト教徒として生活し、地元のキリスト教会に所属して積極的な連帯感を持っている"新たに生まれた"キリスト教徒のとりなし役」だった。
『癒しのことば』
ラリー・ドッシー
内科医
根本主義プロテスタントの家庭に生まれるも青年期に宗教の出自を捨て、無神論者になった。
↓
「ランドルフ・バード研究」に衝撃を受けた著作
「女神、神、アラー、クシュリナ、ブラフマン、道(タオ)、宇宙心、全能の神、永遠、一なるもの」という一群の神に祈りを捧げている。
「祈りは特定の宗教にしか存在しないわけではなく、すべての宗教、宗派、階級にもある。科学は祈りを普遍的なもの、民主的なものにする。祈りは、宗教的な寛容さを認める宣言なのである」
合衆国最大のワクチン販売会社、ジェネラル・インジェクタブル・アンド・ヴァクシーンズは顧客の納品書に祈りの要請を募集するちらしを同封している。⇒研究
『アメリカ医学協会誌』
デヴィッド・ラーソン医師
「医師は、健康のための祈りを処方すべきか-心身の安寧の霊的側面に関する検討」という論文等で医学研究者たちが祈りが医学的に重要であることを裏付ける確たる証拠を提出
アメリカ、国立健康研究所(NIH)の下部機関として代替医療局(現、国立補完代替医療センター)を創設
国際臨死研究協会(IANDE)
会長の経験者
ケネス(ケン)・リングとの論争
フィリス・アウトウォーター
『この世に戻る』
R・C・スプロール
改革派神学者
『キリスト教信仰の基本的真理』
…魂は信者のものであれ、非信者のものであれどちらも生き続けるのである」
ブルース・グレイソン医師の臨死体験の基準、NDE尺度
型と深さを数値化
①時間の知覚や思念や理解力のような心的機能が中心になった"認知的"体験
②喜びや楽しさや安らぎという感情が重要な位置を占める”感情的”体験
③体脱的要素とESP的要素を主とする超常的体験
④この世ならぬ別世界へ入るという点が際立つ”超俗的”体験。
『死んで私が体験したこと』
ベティ・イーディー
・イエス様のご使命はこの世に愛を教えるために生まれてこられたことです。
・私たちはどのような教会や宗教に対してもどのような形であれ、批判する権利を持っていないのです。
・生まれる前の世界で霊として存在するすべての人はこの世を創造する役割を担っていました。
・私たちはこの世での自分の使命を知っていたし、自分でも選択もしていたのです。…そして、私たちは誰もが、今、自分が置かれている立場を自ら進んで選択してきたのです。⇒聖書との矛盾
たとえわたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
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| 1999.1.15 |
最古のネイティブアメリカン ホピの長老ダン・エベヘマから全人類へのメッセージ
アリゾナ、ホテビラのホピ族チーフ、精神指導者にして、長老の中の長老、
ホピの父にして、ヘビ族の司祭、そして霊人カチナの父であるダン・エベヘマから。
ここに全人類に宛てて最新のメッセージを送る。
http://hyla.jp/dan.htm
*長老ダン・エベヘマ氏は、1999年1月15日永遠の旅に発たれた。
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http://hyla.jp/dan.htm |
| 1999.5 |
WHO(世界保健機関)が健康憲章を改革、審議
Health is a state of complete physical, mental and social
well-being and not merely the absence of disease or
infirmity.
(健康とは、完全に、身体、精神、及び社会的によい(安寧な)状態であることを意味し、単に病気でないとか、虚弱でないということではない。) 1948(昭和23)年
↓
健康とは身体的・精神的・霊的(スピリチュアル)・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。1999年
※平成11年5月17日から5月25日まで、スイス・ジュネーブにおいて開催された第52回WHO総会で、欧州連合(EU)、アルゼンチン、中国、日本、オーストラリア、ロシア、バーレーン、リビア、スリランカの代表によって審議されたが実質的改正には至っていない。
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| 1999.5.2~8/11 |
NHKスペシャル『人体 Ⅲ』シリーズにて
『1/4の奇跡 「強者」を救う「弱者」の話 』(山元加津子)さんがこの番組を見て改めて感動し、講演のタイトル、内容、テーマとして取り入れていること
・昔、マラリアが大発生し、絶滅の危機にさらされながらも、なんとか持ちこたえることができた村がアフリカにあった。
後に科学者らが絶滅せずに済んだ理由を調査したところ、鎌状赤血球症の遺伝子を持っていたためにマラリアに対して抵抗力のあった人がいたということが分かりました。
ただし、この遺伝子を両親のどちらか片方だけからもらった場合はよいのですが、両親双方からもらってしまうと、重篤な障害である鎌状赤血球症が発症してしまうのだそうです。
・つまり、両親双方からもらってしまう、その確率が1/4。
別の言い方をするなら鎌状赤血球症の人が一人存在するとき、マラリアに対して抵抗力のある人が二人存在するということになります。抵抗力のある二人を存在させるために、鎌状赤血球症を請け負った一人がいると言うことができるのです。
・これは、ちょっとものの見方が変わってしまう話だと思うのです。全体からみたとき、健康な人のために鎌状赤血球症を請け負った人がいるということですから。
・もしかすると、鎌状赤血球症だけでなく、他の病気や障害も解明されていないだけで同じような仕組みのものがあるのかもしせれません。また、病気や障害だけでなく、運動能力や芸術のセンス、記憶力などの個々人による違いだって同じ仕組みだったとしたら……。
・全体のために個性というものが存在しているということなのでしょうか。
・講演会後に購入したCDを久しぶりに聞く機会があり、この話を思い出しました。(2011.2.13) |
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| 1999.9.30 |
東海村(茨城県)JCO臨界事故(とうかいむらジェイシーオーりんかいじこ)
・1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料サイクル開発機構の高速増殖実験炉「常陽」向けの燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。この反応は約20時間持続した。
・これにより、至近距離で致死量の中性子線を浴びた作業員3人中、2人が死亡した。
・事故は、製品であるウラン溶液(硝酸ウラニル)を均質化する工程で発生した。溶液は本来、中性子が外に抜けやすいよう細長く作られた(形状制限された)「貯塔」で均質化を行う事になっていた。しかし、実際には「沈殿槽」と呼ばれる、ずんぐりした形状で、周囲を冷却水のジャケットに包まれた装置を使用したために、発生した中性子による反応の確率が高くなり、臨界状態に至った。
・世界でも例のない衝撃的なこの事件が起きたのは、1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設「JCO東海事業所」だった。
信じられないほど杜撰な作業工程が原因で臨界事故が起き、作業員の大内久(35歳)と篠原理人(39歳)が被曝した。
・二人が被曝しただけでなく、臨界状態はその後も継続し、まったくコントロールのきかない「裸の原子炉」が19時間40分もの間中性子線を出し続けた。東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に避難を要請し、茨城県も半径10キロメートル県内の住民約31万人に屋内退避を勧告する事態へと発展した。
NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命──被曝治療 83日間の記録』
・この日、大内は午前10時に事業所内の転換試験棟という建物で作業を始めた。
・核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だった。
大内にとって、転換試験棟での作業は初めてだった。上司と同僚の三人で9月10日から作業に当たってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。(中略)
バケツで7杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内はパシッという音とともに青い光を見た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。(11~12ページ)
・事故の直接の原因は、安全性を無視した「裏マニュアル」が公認され、実際には「裏マニュアル」さえ無視した危険極まりない作業が、そのことを知らされないまま作業員によって行われていたことによる。
・大内が浴びた放射線量は20シーベルト前後(致死量)と見られていたが、東大病院に転院してきた時には、目に見える外傷もなく元気そうで、二次被曝を恐れていた(が、その可能性はなかった)看護師たちを意外に思わせたほどだった。
・しかし、被曝から6日目。3日前の転院時に採取された大内の骨髄細胞の顕微鏡写真が届けられると、《写っていたのは、ばらばらに散らばった黒い物質だった。(中略)
・染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。》(56~57ページ)
・リンパ球はまったくなり、免疫力が失われてしまっていた。
《基底層の細胞の染色体が中性子線で破壊されてしまい、細胞が分裂できなくなっていた。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚ははがれ落ちていった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が大内を襲い始めていた。》(74ページ)
・ヒロシマやナガサキの被爆者にどれほどの地獄が待ち受けていたのか、改めて私たちは知ることになる。《浸み出した体液はこのころ、一日1リットルに達していた。(中略)
・このころの大内は目ぶたが閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。ときどき、目から出血した。(中略) 爪もはがれ落ちた。》(110ページ)
・被曝から50日目の11月18日。下痢が始まってから約3週間後のこの日、ついに下血が始まる。
《下血は1日に800ミリリットルに及んだ。(中略)
・翌19日には胃や十二指腸などからも出血が始まった。
・下血や、皮膚からの体液と血液の浸み出しを合わせると、体から失われる水分は1日10リットルに達しようとしていた。》(118~120ページ)
・被曝から59日目の11月27日、ついに心肺が停止する。
《心臓が停止していた時間は合計で49分、自発呼吸が停止していた時間は1時間35分だった》(143ページ)が、医療スタッフの蘇生措置によって自発呼吸は再開する。
しかし、この状態を「生き返った」と呼ぶのは難しいだろう。
・大内自身が、まだ意識があり、言葉を話すことができた時期にこう何度も叫んでいたとナースの記録にある。
《「こんなのはいやだ。このまま治療もやめて、家に帰る。帰る。」》(76ページ)
《「おれはモルモットじゃない」》(78ページ)
・そして、被曝から83日目。《1999年12月21日午後11時21分。 大内久、死亡。享年35だった。》(169ページ)
・遺体は司法解剖されることになる。司法解剖というのは、犯罪と死因との関係を明らかにするためのものだと思っていたのだが、83日間集中治療室にいて亡くなった患者も解剖するものなのか。
・そして、大内と一緒に作業していて被曝した篠原も、《被曝から211日目の4月27日午前7時25分、死亡した。40歳だった。》(193ページ)【WEBより一部転載】 |
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ネルソン・マンデラ 「自由への長い道― ネルソン・マンデラ自伝」
「楽観的であるということは、顔を常に太陽へ向け、足を常に前へ踏み出すことである」
「勇者とは、何もおそれない人間ではなく、おそれを克服する人間のことなのだ」。
「南アフリカでアフリカ人であるということは、自覚のあるなしに関わらず、生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する」。
アフリカ人専用病院で生まれ、アフリカ人専用バスで自宅に連れ帰られ、アフリカ人専用地域で育ち、アフリカ人専用学校に通う。就職も、居住区も、汽車やバスも「専用」の差別――アフリカ人の人生は、成長をむしばみ、可能性を狭め、生活を妨げる差別的な法律や規則でがんじがらめになっている。この現実こそ原因だと指摘する。
また、マルクス主義から大きな思想的影響を受けたことを素直に述べている。マンデラは当初、共産党員のひたむきさに敬意を表しながらも、政治的に一線を画する態度を保ち続ける。だが、闘いのなかで、闘いの発展の必要さから、マルクスやエンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の著作を学びはじめ、「偏見」を払拭する。
「弁証法的唯物論には、人種抑圧の闇夜を照らす探照灯と、その闇を終わらせるのに使える道具という、両面が横たわっているようだった。これを知ったおかげで、黒人対白人というプリズムを通す以外の見方で、状況をながめられるようになった。闘争を成功させる鍵は、黒と白の関係を超えたところにあるのだ」。マルクス主義を闘いの武器として徹底的に使おうとする実践的態度に学ばされる。
こうした闘いと学習、組織的訓練をへて、マンデラはANCの指導者として成長を遂げる。
⇒マンデラは彼の看守を動かした。
映画『マンデラの名もなき看守』
→マンデラの息子の交通事故死→看守の息子の交通事故死→マンデラの孫の交通事故死
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| 2000~ |
2000~2010年にかけての意識の変化の量は1900~2000年にかけての変化の量に相当(藤崎ちえこ『魂の帰郷』より) |
『魂の帰郷』 |
| 2000 |
バリー・R・キャシレス 『代替医療ガイドブック』
霊性、祈りのパワーの研究 |
バリー・R・キャシレス
『代替医療ガイドブック』 |
| 2000.7.25 |
ホゼ・アグエイアスと国連に対する平和文化の提言
平和の文化は、一般的に運用されている、現在の価値観とはまったく異った価値観の設定を前提としています。価値観というものは全て時間のことであり、使われる暦により束縛されているのです。本物の平和文化に基づいた新しい価値体系があることを知らしめ、また、本物の平和文化を確実に広げるためにも、暦を替えましょう。今ほど改暦にふさわしい時、それが必要とされている時は過去にありません。だからこそ、平和文化を促進し、創造する2000年・緊急改暦対策をここに掲げるのです。改暦を行って、新しい時間に向かって旅立ちましょう、調和、文化、平和の時間に向かって進みましょう。 Y2K問題は過ぎ去ったけれども、それ自体、ほとんど社会的に波紋をなげかけることはありませんでした。2000/1/2は、新千年紀であるというだけでなく、今までと同じ戦争基調・・・とうの昔に「さよなら」を言ったと我々は考えていますが・・・
を持つ千年紀の始まりでもあるのです。
平和とは戦争をすることではありません。平和は文化なのです。真の平和文化というものは、武力を避け、あらゆる形態の軍国主義を捨て去ることなのです・・・世界的に、無条件に、そして今すぐ、そうすることが必要なのです。
では、どのようにそれを行うのか?そのためには、暦を替え、新しい時間・・・調和のとれた時間、平和の文化・・・を設定すればよいのです。暦を替えようとせず、物事の成すがままにしていれば、私たちは地球市民としての権利を失うことになるでしょう。
http://www.async.ne.jp/cosmic/j/msjose007.html |
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2000.11.2
~2001.3.24 |
ジョン・タイター掲示板に足跡を残す
米国の大手ネット掲示板に、2036年からやってきたと自称する男性が書き込みを行った。
男性はジョン・タイターと名乗り、複数の掲示板やチャットでのやりとりを通じて、タイムトラベルの理論や自身のいた未来に関する状況、未来人である証拠などを提示していった。(その過程でアップロードされた資料は、
現在も閲覧可能である)。
タイターは、最初の書き込みから約4か月後の2001年3月に「予定の任務を完了した」との言葉を残し書き込みをやめ、現在は消息を絶っている。また、2003年にアメリカで発行された、タイターの発言ログをまとめた書籍「JOHN TITOR A TIME TRAVELER'S TALE」にはタイターの母親を名乗る人物から寄せられた手紙や、彼女からタイターに関する全資料を受け取った弁護士の話などが掲載されている。母親を名乗るこの人物は、ジョン・タイターが自分の息子であることは否定していないものの、平穏な生活を送りたいとの理由から彼との関係の一切を断ちたいと語っている。…
時間にはいくつもの「世界線」が存在し、それぞれの進む方向が変わる。そのため過去にタイムトラベルしても問題はないという。
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ケネス・リングと臨死体験者にインタビュー
コネティカット大学心理学ケネス・リング教授は、故:エマヌエル・スウェーデンボルグ氏の体験にも興味を寄せている学者
博士は目の不自由な臨死体験者約30人にインタビューをとった結果、回答者の80%が臨死体験中に「視る」ことができたことを認めた(なお、ケネス・リングは臨死体験の研究に科学的・統計的な方法を導入した人物である)。この結果は、臨死体験者が現実の状況を生前以上に正確に把握できる例として、臨死体験の「客観性」をある側面から裏付けるものとなった。
1994年~1997年にかけて行われた調査をまとめたもの。
ケネス・リングの著作 Lessons from the
Light(2000)では臨死体験者に起こる変化が次のようにまとめられている(レイモンド・ムーディもほぼ同様の報告をしている)。
- 【人生への評価】-何気ない会話、行動、自然など、日々の生活にある《当たり前のもの》を評価するようになる
- 【自己受容】-他者からの評価を気にせずに、ありのままの自分を認められるようになる
- 【他者への気遣い】-他者への思いやりが増大する
- 【生命への尊敬の念】-特に環境問題や生態系への関心が強まる
- 【反競争主義】-社会的な成功のための競争への関心が弱まる
- 【反物質主義】から【精神性への移行】-物質的な報酬への興味は薄れ、臨死体験で起きた精神的変容へ関心が移行する
- 【知識欲求】-精神的な知識への強烈な渇きを覚えるようになる
- 【目的意識】-人生は意味に満ちており、すべての人生には神聖な目的があるという意識が育つ
- 【死の恐怖の克服】-死への恐怖は完全に克服される。死のプロセス自体への恐怖は残る傾向もある
- 【死後の世界の確信】や【生まれ変わりの存在についての肯定的な信頼】が育つ
- 【自殺の否定】
- 【光への信頼】
- 【自己超越】-小さな自己という殻を破り、宇宙全体へと開かれていく心の成長をのぞむ
- 【サイキック現象】-ヒーリング・予知・テレパシー・透視などの体験が数多く起こることが確認されている
このような「知覚の拡大」は臨死体験においては珍しい現象ではなく、「体験者が昏睡状態にある手術室や、そこから離れた遠隔地の出来事を正確に描写できた」「自分の周りを背中なども含めて360度同時に眺める事が出来た」「自分の生前の身体のまわりに集まる人々の思考が読めた」「生前に手足を切断された者が体験中は四肢を取り戻していた」「遠隔地で自分とほぼ同時に死亡した友人と臨死体験中に遭遇した」などの現象も数多く報告されている。
ロバート・サリヴァンの研究では、とある軍人が臨死体験後に「視覚の拡大」の能力を持ちかえり、第二次大戦中にその能力を用いて激しい銃撃戦から生還した例などが紹介されている。
・臨死体験者は既成の特定宗教の立場を離れ、より普遍的な宗教心の探究へと向かう傾向にある。
オーストラリアのシェリー・サザーランド(Cherie Sutherland)の研究によれば、臨死体験者は臨死体験をスピリチュアル(霊的)なものとして認識しており、宗教的な体験だと感じるものはゼロであったという。
・臨死体験者の多くは、体験後の自分の肉体的・心理的な変化を明らかに自覚している。ケネス・リングの研究によれば、臨死体験者の50%が体験後に「生体エネルギー」が増加したことを報告している。
・また、自ら臨死体験者であり研究者でもあるフィリス・アトウォーター(Phyllis Atwater)が700名の臨死体験者にアンケートを行ったところ、臨死体験者は全体的に健康状態が向上する傾向にあることが判明した。
また、同じくケネス・リングやサザランドの研究によると、何割かの臨死体験者は、体験後に癒しの能力やヒーリングの能力が身につき、「他人への同情心が深まり、他人の手助けをしたいという願望が強まった」と回答したという。
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『Lessons from the
Light(2000)』 |
| 2000 |
坂本政道と変性意識の研究
死後世界を超えた先は宇宙につながっていた!
2000年5月、変性意識状態の研究に専心するために退社。
2005年2月、ヘミシンク普及のため(株)アクアヴィジョン・アカデミーを設立。 |
『死後体験』
『死後体験Ⅱ』 |
| 2000 |
山口千代子・忠夫
直傳靈氣研究会発足・セミナー開始 ⇒ 3年後の平成15年山口千代子逝去 |
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2000.5
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ファティマ第三の予言を公表
教皇パウロ6世は第三の予言のあまりの内容に卒倒したと伝えられている。
第三の予言の内容は秘密にされ、長らくバチカンに封印されていたためにその内容について様々な憶測を呼んだ。
ところが2000年5月になって教皇庁はファティマ第三の予言の内容を公表。
それによると第三の予言は1981年5月13日の教皇ヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件を予言するものであったという。
しかし、暗殺未遂事件後、公表まで20年を要した点は不可解であり、他に何か重大なことが書いてあるのではないかという考えをもつ人も多い。一体何が書いてあったのか。謎は深まるばかりである。 |
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| ~2008.6.18 |
ターシャ・テューダー
16時半、庭先のポーチでお茶を飲むのが日課。日記代わりに周りの草花や動物達をスケッチした。毎日のように歩いて10分ほどのところに住んでいる長男のセスが訪ねてきて水遣りや買い物や力仕事など甲斐甲斐しく母を助け、高齢の母親の暮らしを見守っていた。2008年6月18日に自宅で家族、友人に囲まれて逝去。92歳没。 |
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| 2001.1.1~2008.10.3 |
岡本せつ子とアセンションと地球大変革
http://www.pleiadesgrin.net/default.htm
私は今回の地球のアセンションに向けて、チャネリングを受けています。
私がチャネリングしている存在達は神様と宇宙存在達(プレアデス、シリウス、オリオン、ベガ)です。
彼らは、人類がアセンションという地球の大変革を迎えるにあたって、人類がこの時をどう生きて、地球と共にアセンションできるかについて、メッセージを送り続けています。
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| 2001.1.23 |
天安門(てんあんもん)焼身自殺事件
中国北京の天安門広場起きた焼身自殺事件 |
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1913~
2001 |
ルース・モンゴメリーと『来るべき世界』
有名な通信社のワシントンD.C.のリポーター、新聞のコラムニストのキャリアを持ち、心霊現象の取材をしているうちに、彼女自身、自動書記能力に目覚める。高名な霊能力者のアーサー・フォードや他の存在たちがガイドとなって、数々の霊的な事象や超常現象を説明する書籍を次々と刊行し、ベストセラーとなる。ノストラダムスやエドガー・ケイシー、(ジーン・ディクソン)と並ぶ予言者ともいわれている。
[要約]
自動書記を通して霊界のガイドからもたらされたこれから起こるだろう驚異の地球のシフト。ウォーク・インの大統領とは?反キリストとは?そして21世紀に現われるキリストとは?米国きっての預言者が語る衝撃の近未来。
[目次]
来るべき世界;あの世からのメッセージ;シフトの遅れ;神の計画内容;地球の変化;人類の準備;ペットと野生動物;エイリアンの訪問;ウォーク・インの大統領;反キリスト;シフトの余波;使徒たちの帰還;他のパレスチナ人たち;ラザロの再生;千年期
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| 2001.7 |
キャロルとトーバーとインディゴ・チルドレン
この本には次世代の子供というか、本来あるべき自由な人間の姿というか、「インディゴの子供達に共通する10の特徴」が載っている。(一部引用)
1.インディゴは尊厳を漂わせながらこの世に生まれてくる(多くの場合、生まれた後もそのように振舞う。)
2.彼らには「自分は存在するべくして存在している」という気持ちがあり、他人にそれを理解されないと、気が動転してしまう。
3.自己評価には重きをおかない。彼らはよく親に「自分は誰なのか」を語る。
4.絶対的な(説明や選択の余地を与えない)権威を受け入れない。
5.特定のことをあっさりと否定する。例えば並んで待つ事は、彼らには難しい。
6.創造的思考を必要としない儀式的なシステムには、欲求不満を募らせる。
7.家庭でも学校でも、物事のよりよいやり方を見つけ出すので、「システム・バスター」(いかなるシステムにも従わないもの)のように思われてしまう。
8.インディゴの仲間と一緒にいるとき以外は、非社交的であるようだ。自分に似たような意識のものが周囲に誰もいないと、しばしば内向的になり、誰からも理解してもらえないと感じる。そういう子供達にとって、学校生活は非常に難しくなる。
9.罪悪感を持たせるようなしつけ方、例えば「そんなことをして、お父さんが帰ってきたら怒られるわよ」といったような説教をしても効果がない。
今までの「問題児」も「天才児」も実は「インディゴ・チルドレン」だった?
新しく登場したと言われている、インディゴ(藍色)のバイブレーションをもつ子どもたちについて、各界の専門家が注目、詳しく解説。
人類は新たなステージへ進化していくのか...?
ADD、ADHD(注意欠陥多動性障害)の子どもも、実はインディゴだった.....?
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2001.9.11
高木善之氏の臨死体験と符合? |
9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件。
日本では、この事件を「同時多発テロ事件」または「911テロ(事件)」と呼ぶ。
ただ2005年にイギリス、ロンドンでロンドン同時爆破事件が発生したため、「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ぶことが増えた。
9・11テロは、アメリカ政治および国際社会の大きな転換点となった。それまで「アメリカ国民の記憶に残る日」は1963年11月22日のジョン・F・ケネディ暗殺であったが、それはこの日をもって終わり、代わってアメリカ国民はこの2001年9月11日を永遠に記憶にとどめることになった。
後に「アメリカ政府の自作自演」=陰謀説などもあり、テレビ番組にもなった。
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| 2001.10.17 |
気になる事件
NHK解説主幹の長谷川浩さん(55)が十五日に死去していたことが十七日分った。 NHKなどによると、長谷川さんは十五日午前、東京都渋谷区神南のNHK放送センターの敷地内で倒れているのが見つかった。転落死とみられ、代々木署は原因などを調べている。
『日本経済新聞』(2001.10.17.夕)とはてなブックマーク |
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| 1944~2002.7 |
藤本敏夫-「大地を守る会」設立。
83年に同会代表を退き、千葉県鴨川市に移住して農的フィールド「鴨川自然王国」に立ち自給的生活。地球社会観。「人間は万物に謝らねばならない」
氏によると1960年代を堺にして日本は「飢餓」の時代から「飽食」の時代へ。魯迅『吶喊(とっかん)』 |
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| 2002 |
ポール・フェリーニと『無条件の愛-キリスト意識を鏡として』
・あなたは自分がこの世界にいるのは、有意義でかっこうのよいことをあれこれ達成するためだと思っているでしょうが、それはあなたのエゴが人々に認められようとして叫んでいるにすぎません。
・あなたがここにいるのは、何かをなしとげるためではなく、自分や他人について抱いている、まちがった観念や信念をゼロにもどすためです。
・だれも、あなたの代わりにそれができる人はいません。あなたがそれらの観念を受けいれたのですから、こんどはあなたが拒否する番です。偽りを拒否することは、別段かっこうのよい仕事ではありません。実際それは地に足のついた、とても地味なプロセスです。
・どうか、ちょっと時間をとって、あなたの立てた目標の数々をながめてみてください。世間的に何かをなしとげることにかかわる目標がいくつあるでしょうか。ほとんどがそうかもしれません。しかし、それを恥じることはありません。あなたの注意が、ひたすら外界に向かっていることに気づいてください。そして気づいてほしいのです。かりに、それらの目標がぜんぶ達成されたとしても、あなたは幸福にならないだろうということに。
・幸福はいま現在の瞬間にしかありません。いまあなたが幸福であれば、それ以上に、何か達成すべきことはありません。もしあなたが明日幸福になれるとか、五分後に幸福でいられるかとかに心をわずらわせれば、いま幸福になる、ということを忘れてしまいます。計画や願いごとのすべてが、あなたを現在の幸福から遠ざけてしまうのです。(p156-157) |
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| 2002~ |
重症急性呼吸器症候群(じゅうしょうきゅうせいこきゅうきしょうこうぐん、Severe Acute Respiratory Syndrome、SARS)
SARSウイルスにより引き起こされる新種の感染症。新型肺炎(Atypical
Pneumonia、非典型肺炎)とも呼ばれる。
2002年11月(広州市呼吸病研究所は7月と発表)に中華人民共和国広東省で発生し、2003年7月に新型肺炎制圧宣言が出されるまでの間に8,069人が感染し、775人が死亡した。
2002年11月16日に広東省で40代の農協職員が発症した例が最初とみられているが、2003年5月6日までに報道されたところによると、広州市呼吸病研究所は最初の患者は7月にさかのぼると発表しているとのこと。
2002年11月の発症後、中国政府はこの疾患が広まらないように対策をとったが、WHOにこの情報を知らせたのは2003年2月であり、名誉と信用を落とさないよう報道を規制した。この結果、国際的な対応が遅れた。中国は後にこの初期の対応の遅さを謝罪した。
4月上旬にSARSがきわめて大きな問題としてメディアで取り扱われているころ、中国政府の公式方針は変わったが、北京の軍病院で実際の患者数より少なく発表していたのが判明したのもこのころである。
極めて強い圧力の後で、中国政府は国際公務員がこの件に関する調査を行うことに同意した。これにより、過度の分散、形式主義、コミュニケーションの不足など古くなった中国の医療制度が暴かれた。
4月下旬に中国政府は、患者の数のごまかしは医療制度上の問題であることを認めた。蒋彦永博士は中国のもみ消しを暴露した。彼は、彼の病院だけで発表されている中国の患者数よりも多い患者がいたと報告した。保健相と北京の市長を含む多くの関係者が解任され、SARSを調査し、コントロールするよりよいシステムが作られた。
これ以降、中国はより積極的かつ透明性を高めたSARS対策をおこなった。
対策
汚染された物を触ることによる感染のリスクを減らすために、CDCは石鹸と水で十分に手を洗うことを勧めている(WHOのFAQより)。日本では感染の疑いがある人がいたものの感染者が出なかった。手洗いやうがいが慣行されているためという習慣もいわれたが、以下の理由も指摘された。
日本人が常食している発酵食品(味噌、醤油、納豆、漬物など)に含まれる乳酸菌が、SARSに対する免疫機能を果たしたともいわれる。また、後述するように、キムチを常食する韓国や、チーズ、ヨーグルトを常食する一部のヨーロッパ諸国でも感染者は圧倒的に少なかったことから、乳酸菌がSARSを防ぐのではないかと喧伝され、中国ではヤクルトやキムチ、味噌などが飛ぶように売れたという。
カルロ・ウルバニ
重症急性呼吸器症候群 (SARS) をはじめて新しい感染症と認定し、国際社会へ報告したイタリア人の内科医である。国境なき医師団イタリア支部の会長を務め、1999年に同組織がノーベル平和賞を受賞した際には、授賞式に参加する代表団の一人であった。大学卒業後、世界保健機関に採用され、ベトナムのハノイで主に寄生虫感染症の対策に取り組むことになる。
2003年2月の後半、中国からの旅行者を治療したベトナムの医療従事者の間で急速に重度化する肺炎が見られた。彼は、この症候群を従来にないものと判断し、SARSという新病だと認定した。さらに、これが飛沫感染によるものと判断し、病棟の隔離処置を行った。この前後に彼はSARSに感染したものと思われる。
同年3月11日にタイのバンコクを会議出席のため訪れた際に発症し、同地で46歳でこの世を去った。
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20033.20~
2010.8.31 |
イラク戦争
アメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。
正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となりイラク国内での戦闘は続行した。
2010年8月31日にオバマ米大統領によって正式にイラク戦争の終結が宣言された。
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| 2003.323 |
『ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ』
トム・ケニオン、ヴァージニア・エッセン著 ナチュラルスピリット社 2003年改訂版 日本語訳 |
『ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ』
トム・ケニオン、ヴァージニア・エッセン著 ナチュラルスピリット社 2003年改訂版 |
| 2003.9.5 |
『9・11陰謀は魔法のように世界を変えた』
原書名:TOTAL
TRUTH:The World Trade Center Conspiracy and Beyond:America’s Blueprint for the
New World Order,One World Goverment(Coleman,John) |
『9・11陰謀は魔法のように世界を変えた』
ジョン・コールマン著 |
| 2003~2006 |
『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)
・ダン・ブラウンの長編推理小説。アメリカで2003年に出版された。『天使と悪魔』に次ぐ「ロバート・ラングドン」シリーズの第2作目。
・『ウィトルウィウス的人体図』、『モナ・リザ』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などのレオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎にはじまり、多くの流説を結びつけた内容は世界的にヒットし、44言語に翻訳され7000万部の大ベストセラーとなった。
・筆者が(フィクションであるにも関わらず)事実に基づいていると述べたため、多くの研究者による論争が行われている。
・フィクションであるにもかかわらず、冒頭に実在の組織名を挙げ、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と述べているために、扱われている内容の真偽について議論が起きた。例えば、冒頭に登場するオプス・デイは実在する組織であるが、「秘密結社」のシオン修道会やその「秘密儀式」は想像上のものである。
・とりわけキリスト教、とくにカトリック教会の教義に深く関わる部分は大きな反響を巻き起こし、2006年3月には米国カトリック司教会議(USCCB)が、教義について反論するウェブサイトを開設している。…
・批判の一環として、特別番組『ダ・ヴィンチ・コードの嘘』が放送された。また、「日経エンタテインメント!」は『大名所で原作のウソを発見!』と題し原作で描かれている名所と実際の名所の相違点を挙げている。
・また、レオナルド・ダ・ヴィンチ作品の謎、キリスト教における異説や、聖杯伝説に関する解釈、メロヴィング朝の由来などの多くは『レンヌ=ル=シャトーの謎』からの借用であることが問題となった。プロットの下敷にアイデアが盗用されたとして、ノンフィクション、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちから訴えられたが、ロンドンの高等法院は原告側の訴えを退ける判決を下している。
・日本では、2004年5月に角川書店から上下巻で刊行された。(その後、角川文庫版も)。
日本国内での単行本・文庫本の合計発行部数は1000万部を突破。
・2006年、映画化。関連テレビ番組も。
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| 2003.11 |
藤崎ちえこと心の森研究所
ロバート・モンロー研究所で体外離脱を経験
日本人初のトレーナーとなる。 |
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| 2003~ |
江原啓之
ドリス・コリンズに出会う。奥様との出会いのエピソードが面白い。
2003年(38歳)、テレビ東京の番組『えぐら開運堂』に毎週レギュラー出演、2年間に渡って女性視聴者に対して人生相談を行った。
同年6月より東京を皮切りに2004年5月まで『江原啓之スピリチュアル・トーク』を全国で開催。2005年4月より2009年9月まで「オーラの泉」に出演、日本におけるスピリチュアリズムブームの火付け役となる。
後に制作スタッフ局と共にいろいろなバッシングもおこった。
木村藤子
母に次いで青森の生き神様と呼ばれる。テレビにも登場。
・自らの転生と神の働き、「気づき」について
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木村藤子
『幸せの絆』
主婦と生活社
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| 2003.7.31 |
ルース・モントゴメリー『来るべき世界』
ルース・モントゴメリーが自動筆記し、出版した本(10冊?)のうち、『来るべき世界』だけが日本語訳され、出版された。 |
ルース・モントゴメリー
『来るべき世界』 |
| 2003.8~ |
カルキ・バガヴァンとワンネスディクシャ
・1949年3月7日に南インドの小さな村に生また。
・生まれた時から、きらきらした瞳と独特の神聖な雰囲気が人々の注目を集めた。彼の周りはいつも不思議な出来事がたくさん起きましたが、中でも両親を一番驚かせたのは、あるお寺に彼を連れて行った時。クリシュナ神の像の周りを一度回ると、バガヴァンは両親に質問しました。「どうして僕の周りを回っているの?」さらに「その像の中にいるのは僕なんだよ!」と言った。
・バガヴァンはとても鋭い知性と驚くほどの記憶力とを備えた賢い子供で、唯一の関心は、人類のあらゆる苦悩を終わらせる方法を見つけ出すことだけ。
・2003年8月から「ワンネスディクシャ」によって人々にそのエネルギーを伝授して、努力なしに悟りの状態を与えている。
・彼が始めたゴールデンエイジ・ムーヴメントと呼ばれる運動は現在、「全人類に悟りを当てること」のみに徹底的にフォーカスしています。
すでに、数千万もの人々の間に広がっているスピリチュアルな運動の一つ。
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| 1961~2004 |
エリザベス・キュブラー・ロス
1961年の死と死ぬことについての講義
1963年には、コロラド大学で精神科医の単位を取得。
死をテーマにして20冊もの本を書き、世界各地で数多くの講演などを行った。
1969年(1965年?)『死ぬ瞬間』
1974~1996年の間にそれらの業績に対して、複数の大学、単科大学から20の名誉博士号を授与されている。
私財を投じて死に向う患者のための施設(センター Center)を開設。現在、この活動はホスピス運動の嚆矢のひとつと考えられている。彼女が、ホスピス運動を創始したわけではないが、それを推進した人々は、まさに彼女によってこの運動がいのちを与えられたのだと異口同音に語っている。
やがて、彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。
自身も幽体離脱を体験したと主張し、霊的存在との交流に傾倒していった彼女を崇める人々もいた一方、彼女の夫のように、彼女から離れていった人々も少なくない。⇒元夫の死の間際の約束
モンロー研究所でも体外離脱を体験
晩年にはエイズ患者へのかかわりを深め、エイズ患者のための新たなセンターの開設を計画したが、そのために近隣住民との深刻な軋轢を生み、最終的に拠点センターの閉鎖、移転を余儀なくされた。拠点センターは原因不明の火事により全焼したが、彼女はこの事件を対立する住民による放火であると認識していた。
この事件後脳卒中?にて7年?にも及ぶ長い寝たきり生活を余儀なくされる中で、神との対話をしつつ自伝をまとめ上げた。その『人生は廻る輪のように』では亡くなったはずの患者が物質化して現れての助言、元夫との死を目前にしての約束、いわゆる妖精を写真に撮った体験、人生を青虫からさなぎ、蝶への進化になぞらえるインスピレーションなどの霊的体験も取りあげられている。 |
『死ぬ瞬間』 |
| 2004 |
実在するエクソシスト
・司教の許可を得て悪魔払いを行うキリスト教カトリック司祭を指す。エクソシストの語源は”強く誓う”というギリシャ語。「ヨハネ伝」の最初に、「神は言葉と共にある」と記されているように、言葉が特別な力を持つのが祈りの語源で、言葉によって、悪魔に対し神の優位性を証明するエクソシズムは、信仰を表明することでもある。
・80年代から現代にマッチしたエクソシストを育成しようという考えが広まり、南米の信心会が運営するバチカン市国の神学校では、04年度からエクソシスト養成講座も開かれた。基礎知識に始まり、聖書解釈学や精神分析、サタニズム、経験を積んだエクソシスト同士の対談など週1回、全5週の講義である。…。現在イタリアに約300人、アメリカには14人のエクソシストがいる。
・ノンフィクション作家の島村菜津は取材で悪魔払いの現場に立ち会い、『エクソシストとの対話』(21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作を受賞)にまとめあげた。『エクソシスト急募』もシネコン2011.3月号より
著者の島村菜津氏はノンフィクション作家で、以前にも『エクソシストとの対話』(小学館)という本を著しています。「エクソシスト」というと、普通の人は昔ヒットしたオカルト映画を思い出すことでしょう。この映画は実話をもとに制作されており、悪魔祓い師は今でも存在します。
悪魔祓いの本場はイタリアで、なぜイタリアなのかというと、カトリックの総本山であるバチカンがあるからです。悪魔祓いはキリスト教と密接な関係があります。イエス自身が強力なエクソシストであり、福音書にはイエスが悪魔を追い払う場面が幾つも出て来ます。
教会公認のエクソシストの数は、1970年代にはイタリア全体で僅か20名ほどでしたが、90年代には200人を超え、現在は300人を数えます。それだけ需要が多いということで、ある調査によれば、イタリア国内だけで年間50万人もの人々がエクソシストのもとへ相談に訪れるそうです。
これは悪魔が跳梁跋扈しているからではありません。そういう面もあるかも知れませんが、もっと実際的な理由は、イタリアには精神病院がないからです。昔は他国並みにありましたが、精神病院は非人間的な環境であり、むしろ病状の悪化を引き起こすということで、1978年に廃止されたのです。精神病院を廃止しても、それで頭のおかしな人が減るわけではありませんから、そうした人たちがエクソシストのもとへ駆け込んだのです。変になったのは、悪魔のせいだというわけです。
我国で悪魔に責任をかぶせたら人格を疑われますが、イタリアにはカトリックの総本山があります。そういったことを言う人に対して、頭ごなしに否定するわけにはいかないのです。通常だったら精神科医に相談するでしょうが、人々がエクソシストにかかりたがるのは次のような厄介な事情があるからです。著者は、この辺の事情に詳しいイタリアの心理学者アレッサンドロ・タミーノ教授の説明を紹介しながらこう述べています。
肝心の悪魔祓いについてですが、著者の島村氏は悪魔の存在について半信半疑です。ここで言う悪魔は、勿論キリスト教に出てくる悪魔(サタン)です。キリスト教の悪魔は天使が堕落したものとされており、人霊ではありません。悪魔祓いの過程でこの悪魔が出現するのですが、その正体が怪しいのです。
我国でも妖怪変化の類は昔から語り継がれていますが、どこか愛嬌があったり、怨霊のように怖ろしいものでも元々人霊ですから、人間的で哀れですらあります。ところがエクソシストが対峙する悪魔はカトリックの教義に沿った性質を持っており、人工的な感じがして不自然なのです。だから著者が悪魔の実在性について疑念を抱いて当然なのです。
悪魔祓いで出現する悪魔は、教会で清められた聖水や十字架を嫌います。そしてイエスを極度に恐れています。悪魔が普遍的な存在であれば、これは明らかに変です。つまり、カトリックの教えの普及にとても都合のよい存在なのです。
と言って、エクソシストたちが信者を騙しているわけではありません。彼らは聖職者であり、至って真面目に職務を遂行しています。悪魔に憑かれたとされる人たちも、本当にで苦しんでいるのです。
悪魔憑き現象は心理学でも説明可能なようですが、悪魔祓いの過程で被害者たちは実に様々の物体を吐き出しています。例えば、40㎝もある鎖やプラスチック製のドラゴンやワニ、4㎝もある釘やヘアピンなどです。本書にはそれらの写真も添えられていますが、自分で飲み込んだにしろ異常行為で、悪霊の仕業というエクソシストの説明には説得力があります。
悪魔憑き現象は一体どう解釈すればよいのでしょうか? 次の3つのパターンが考えられます。
①カトリックの教義は正しく、聖書に描かれた悪魔は実在する。
②悪霊が、人間たちをからかうためにキリスト教の悪魔を演じている。
③カトリックの教義に沿った霊界が形作られており、信者たちの思念が霊的に悪魔を作り出した。
①は、キリスト教の形成史を一瞥すれば判りますが、こんなに人工的で不合理な教えが真実であるとは到底思えません。不合理だから信じるという人もいるかも知れませんが、信者ではない一般の人には受け入れがたい話です。従って、これは有り得ないと筆者は思います。
②の可能性も有り得ますが、古代から一貫して悪魔憑き現象は見られますから、単なるいたずらにしては念が入り過ぎています。出現する悪魔も至って真面目(?)ですから、違うのではないでしょうか。
考えられるのは③で、カトリックの教義に沿った悪魔が霊的に作られているならば、全ての辻褄が合います。これは突飛な考えのようですが、9月19日に紹介した『真実への完全ガイド』のペトル・ホボット氏の説に基づいています。
人間の思念が霊界に影響を与えて実体化したわけですが、カトリックの信者が死んでその世界へ行くと、教会の教え通りの世界が形成されていますから、やはり正しかったんだと思ってその場所に安住してしまいます。そこにはちゃんとサタンもイエスもいるわけです。
しかし、その世界は現世の人間が作り上げた幻影の世界であって、そこに安住してしまうと霊的に進歩できなくなります。それはまさしく地獄でしょう。カトリック教会とエクソシストたちは、作り出された悪魔と協力する形で信者を出口のない世界に幽閉する役割を果していることになります。もしこの考えが正しければ、とんだ罪作りの所業と言えましょう。陽光堂主人の読書日記 |
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2004.12.26
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スマトラ沖大地震と津波
午前7時58分(インドネシア西部時間・日本時間午前9時58分)、インドネシア西部スマトラ島北西沖のインド洋を震源とするM9.0の地震が発生。この地震による揺れはスマトラ島バンダ・アチェ付近で震度5強~震度6弱だったが、直後にインド洋を大津波(波高2~10m)が襲った。津波はインドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマー、スリランカ、インド、モルディブ、ソマリア、ケニアなどに押し寄せた。この津波により死者約22万人、行方不明者7万7千人、負傷者13万人という大惨事に発展した。
(世界最悪の地震は、1976年7月・中国河北省・唐山地震・死者242,000人、日本では1923年9月・関東大震災・142,000人の死者・行方不明) 稲むらの火より |
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| 2005.2.13 |
ファティマ第三の秘密
ヤシンタとフランシスコはまもなく病死。
ルシア・ドス・サントスは修道女となり2005年2月13日に97歳で死去した。 |
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| 2005 |
日経BPネット、10月27日の米山公啓の記事の一部。
一時期、“右脳ブーム”というのが起きた。これは、大脳の機能が左半分と右半分で違うという、比較的最近の発見に端を発したものです。… ⇒七田 真とチャイルドアカデミー
男の脳と女の脳は、価値観が違うといってもいいくらい、多くの面で異なっている。
そのことは、最近の脳科学研究でも、次々と明らかにされています。この「脳の壁」を超えて、お互いの感情や行動を理解することは容易ではないでしょう。
ですから、男と女がいい関係をつくっていくには、こうしたお互いの違いを「認め合う」「補い合う」「助け合う」ことが何よりも重要といえるのではないでしょうか。
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| 2005 |
川島隆太
「脳トレ」ブームの火付け役。DS専用ソフトで著作権から多額のお金を得るも個人的に受け取る権利のあった金は研究室建設にあてられた。 |
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2006
2007.1.20 |
アル・ゴア
地球温暖化の問題に熱心に取り組んできたアル・ゴアのスライド講演の様子を、自身の生い立ちを辿ったフィルムも交えつつ構成したドキュメンタリー映画。
タバコ農家に育ち、姉の喫煙による死の衝撃は切ない。
環境と経済の問題に翻弄される人間の姿をあらわしていないか?
過去の豊富な気象データや、温暖化の影響を受けて衝撃的に変化した自然のフィルムを数多く使いながら、この問題を直視しない政府の姿勢を批判し、人々が生活の中で環境を守る努力を続けることの重要さを訴えている。第79回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー映画賞・アカデミー歌曲賞を受賞。またこの映画が契機となり、ノーベル平和賞受賞。
一方でいまだに地球温暖化説を否定し、地球氷河説も⇒「不都合な真実の真実」説
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| 2007.3.23 |
日本発芽玄米協会は、「おこめを変えると、あなたが変わる。」をスローガンとし、発芽玄米普及に尽力。 |
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| 2007 |
ブルース・モーエン(Bruce A. Moen)とフォーカス27
アメリカの死後の人間意識の研究家。非物質的な世界への好奇心からロバート・モンロー研究所におけるヘミシンクを使った体外離脱による死後の世界の探索を行ってきた。
その経験を「死後探索」シリーズとして出版した。モンロー研究所のモンローの「魂の体外旅行」米国では5冊が刊行され、日本語版も翻訳されている。
最新刊「死後探索マニュアル」は2009年2月に出版された。
フォーカス23
・各人が自分の想念の創り出した世界の中に囚われている状態。
・死ぬときの恐怖心のままの状態に囚われた者、死んだことがわからず体の傷の激痛に何百年も苦しんでいる者、瓦礫の下敷きになったまま助けが来るの待っている者、戦場を友軍を求めてあてどなくさまよい続ける者、最後の審判のラッパの音が鳴るのをただひたすら待ち続けている者など。
・俗に言う幽霊がいる層。地縛霊-自分の住んでいた家にいつまでも住み続け新しい住人を驚かす幽霊なども。
フォーカス25(信念体系)
・似たようなことを信じている人が集まってその想念が生み出した世界。
・たとえば、キリスト教の天国の存在を信じている人たちの思いが造り出した世界。
・他人をだますのを喜びとしている者が集まって互いにだましあい続けている世界。
フォーカス27
モンローが公園(Park)と呼んだ場所。暖かく迎え入れる人達が待っている世界。次の輪廻転生先に行く準備をする。霊的に進化した人達によって造られ維持運営されている。
以下のセンターがある。
・Reception Center(受け入れセンター:死者の受け入れ場)、
・Rehabilitation Center(再生センター:死のショックを癒す場)、
・Education Center(教育センター:過去世データの貯蔵場、新しいアイデアが生み出される場)、
・Planning Center(計画立案センター:次の生について計画する場)
フォーカス34・35(ギャザリング)
・『魂の体外旅行』-第16章では「大集合」と記述。
・このレベルに多くの異エネルギー生命体が集まり、これから地球生命系で起こる大きな変化(Earth Change)を目撃しようとしている。
・地球生命系が人間を含め次の段階へ進化するらしい。
・こういった変化は数百万年に一度しか起こらないため、宇宙中の生命体の興味を集めている。
・人類が次の進化を遂げた後は地球生命系から卒業する。
・モンローの著作に若干の記述があるが、詳細は今TMI(The Monroe Instituteの略称) で探索中。
コロラド州デンバーで技術コンサルタントとして働いていたが 現在はフロリダ州在住。
現在、ヘミシンクを用いないでモンロー研究所でいうフォーカス27のレベルまで到達できる独自の手法を開発しワークショップを行っている。
2007年から来日してワークショップを開催している。
2010年は5月に開催。 http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-633-1.html
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『死後探索1:未知への旅立ち』
『死後探索2:魂の救出』
『死後探索3:純粋な無条件の愛』
『死後探索4:人類大進化への旅』
『死後探索マニュアル』
モンローの『魂の体外旅行』 |
| 2007 |
メキシコで起きた集団ヒステリー事件
・2007年、メキシコ・チャルコのカソリック系の学校で600人もの少女が次々に膝がねじれて歩けないという症状を訴える異常事態が起こった。綿密な検査の結果、肉体的・環境的な原因は解明できず集団ヒステリーが原因だとされた。
・集団ヒステリーは親密で規模の小さい関係の中で起きやすく、特に若い女性の報告例が多いという。「奇跡体験!アンビリバボー」より |
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2007.10.9
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ジョン・レノンとオノヨーコとイマジン・ピースタワー
完成点灯式はジョン・レノンの67回目の誕生日である2007年10月9日の夜、イマジン・ピース・タワー前にて、ヨーコ、息子のショーン・レノン、元ビートルズのリンゴ・スター、同じく元メンバーの故ジョージ・ハリスンの妻オリビア、レイキャヴィーク市長Vilhjalmur Vilhjalmssonらが参列し行われた。
ヨーコらは車で塔の前まで行き、到着する間には現地語による「イマジン」が現地の子どもたちによって合唱された。その後市長による式辞のあと代表であるヨーコの式辞が行われた。途中、オノ・コードによる「I
LOVE YOU」の点灯サインも行われた。その後オリジナルの「イマジン」「平和を我等に」が流れ、塔が点灯された。
ヨーコは記者会見で“世界の人々の心が、この光を思い起こすことで1つになれれば…”とコメントした。
私たちは、それぞれこの時代に、偶然ではなく、使命を果たすために生まれてきました。私たちの仕事はまだ終わっていません。その日、10月9日に、ジョンのスピリットは、レイキャビクにいる私たちと一緒になることでしょう。あなたが望めば、戦争は終わるのです。(オノ・ヨーコ)
毎年、10月9日(ジョンの誕生日)から12月8日(ジョンの命日)まで点灯され、その光は天高くまでとどきます。加えて、タワーは冬至(12月21日〜28日)、大晦日(12月31日)、そして春の第一週目(3月21日〜28日)にも点灯します。タワーは日没2時間後から夜12時まで点灯します、元日には日の出まで点灯します。
平和の願いを送る方法
平和の塔「イマジン・ピース・タワー」に永遠に保管されるみなさんのウィッシュ(願い)を募集しています!
http://www.dreampower-jp.com/peace/page97/page97.html より
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| 2007年11月19日 |
奇跡体験『アンビリーバボー 僕はまだ生きている!』より
「脳死の人は、二度と回復しない」とされてきたが、アメリカ合衆国で2007年に脳死と判定された21歳のザック・ダンラップ Zack Dunlap 青年が臓器摘出手術直前(脳死宣告40時間後)に手足を動かし、最終的に意識を取り戻した。
⇒2年後に結婚、番組が調査した2010年現在1児の父となっている。
2007年11月19日、アメリカ、オクラホマシティ。
この日、一人の青年がバイク事故により、死亡宣告を受けた。彼の脳は取り返しのつかない損傷を負っていた。
だがこの時、恐ろしい事態が起きていた!「ちょっと待って!僕はまだ死んでない!」なんと、彼はまだ生きていたのだ!
そして生きているにもかかわらず・・・臓器移植まで行なわれようとしていたのだ!!刻々と迫る、本当の死へのタイムリミット。
オクラホマ州在住のザック・ダンラップ青年は、11月17日午後7時30分頃に四輪バイクを運転中に交通事故に遭い、90キロメートル離れたテキサス州の町ウィチタフォールにあるユナイテッドリージョナル病院に搬送された。頭蓋骨複雑骨折で重篤状態が続き、11月19日午前11時10分(事故から40時間後)にレオ・マーサー医師が、脳血流検査と脳死判定基準により、ザック青年が脳死であると判定した。臓器提供の意思表示が示された運転免許証を患者が所持していたということで、臓器摘出手術に向けて準備が進められる。
そこへ、従兄弟夫婦のダンとクリスティもザックのともとへやって来た。看護士である二人は、職業経験から、各種の検査結果が脳死状態を裏付けていることを確認した。だが、二人はザックは生きているという奇妙な感覚に捕われていた。
がポケットナイフでかかとから足先までに引っ掻いたときザック青年の足が上に動き、手の爪の下に痛み刺激を与えると手を強く動かした。マーサー医師が来て手を自発的に動かすことを確認し、摘出手術の準備が中止された。
救命処置の結果、11月24日(5日後)に目を開き、11月26日自発呼吸の回復が確認され、人工呼吸器のチューブがはずされ。その後12月2日に言葉を話すまでに回復して、翌年2008年1月6日に退院。死亡宣告から3年。ザックは事故からおよそ2年後の2009年12月に結婚をし、2010年10月には女の子が誕生した。肩の痛みや聴力など、僅かな障害が残っているが、普段の生活に支障がないところまで回復した。
なお、ザック青年は、脳死と判断したときの時刻など、医師の言葉を聞いて記憶していた。
この事故後、全米で脳死をめぐる法律を一部改正した。
日本と比較してごく早い時期から脳死を一律に人の死とする法律をつくり、臓器移植を行なってきたアメリカでは、2008年末に、大統領生命倫理評議会の白書『死の決定をめぐる論争』が出された。その白書では、従来の脳死を人の死とする論拠が成り立たないことを認めたが、他方で、「現行の脳死判定基準が臓器摘出の条件として厳し過ぎる」「脳死基準を満たす前でも臓器摘出を認めるべきだ」とする声が高まっていることも指摘し、大きな問題として取り上げている。
2008年には国際移植学会が「臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言」をまとめました。「宣言」では、「自国民の移植ニーズに足る臓器を自国または周辺諸国の協力を得てドナーを確保する努力をすべき」ことが明記されており、自国内で臓器移植を行うことを勧告。
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奇跡体験『アンビリーバボー 僕はまだ生きている!』2011.2.10放送 |
2008.1
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がん難民 ⇒ 2007.4月「がん対策基本法」施行
順天堂大学医学部附属順天堂医院に樋野興夫(おきお)医師、がん哲学外来開設-30分で核となる「言葉」の「種」を渡す。
東京大学による国内初の「がん患者の死生観」を把握する調査開始
がん相談支援センター
・目下の急務について順位をつける
・人生いばらの道、にもかかわらず宴会
・あるようでないのがお金、ないようであるのが悩み
・人間死ぬのは100%確実、いつ死ぬかは確率。
・「今日が人生最後の日」と思って「今」を生きる。
・使命感-使命を果たすまでは死ねない。この病気では絶対に死なない。死ぬわけにはいかない。
・がん細胞に学ぶ。-自分の形に固執せず、置かれた環境に合わせて自分を変化させ、たくましく行きる。
・いかに自己変革できるか。そのために必要のないものは潔く捨てる。-意識の持ち方
・200もの組織・器官でできている。元をたどればたった1個の細胞から分裂した自分。全て一つ。調和。
・「なすべきこと」と「和解」、「癒し」、「事実を事実として自分の荷物として腹をくくって背負う」
・人間は自ら変わらなければならない。
・がんは「人間力」を鍛えるチャンス、病床でも学べる。
・人間関係には鏡のような働きがある。まず大前提として信頼してみる、自分から信頼してみる。
・セカンド・オピニオンを嫌がる医者はやめる。
・どうしてものときは受け入れる-「あの病院とあの先生が大好きだ!手術も大好き!入院も大好き!」⇒自分が変わる⇒優先順位を理解する⇒決心・決意
・無駄な議論を終わらせて「目下の急務」に専念してもらう。「この治療法でいい!」という確信にたどりつき、毎日の生活を楽しみ、「がんのことを考える」のは最後にする。
・察しないで確認する。患者の不満や不安の代弁者はまず家族。手順を踏む。
・許し合うという最後の仕事が残っていないか。清算の「とき」が自然に与えられる。
・八方塞でも天は開いている。「天」を知らない人間はいない。「天」は常にそこに開いている。
・「淡々と生きる」「どう生きたか」「人生は達成(成功)すべき目標ではなく、生き方を示すこと」
・人間には誰にも「役割」や「使命」という立派な理由があってここにいる。それを遂行する立派な理由がある。それが「生きる」こと=「生かされている」こと。
・人生は「質」、本当の意味で「考える」と自分の世界が質的に変わることがある。
・「与える」と必ず入ってくる。
・笑顔は笑顔を生む。
・「天寿がん」にしてしまう。 |
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2001.1.1~
2008.10.3 |
岡本せつ子とアセンションと地球大変革
http://www.pleiadesgrin.net/default.htm
私は今回の地球のアセンションに向けて、チャネリングを受けています。
私がチャネリングしている存在達は神様と宇宙存在達(プレアデス、シリウス、オリオン、ベガ)です。
彼らは、人類がアセンションという地球の大変革を迎えるにあたって、人類がこの時をどう生きて、地球と共にアセンションできるかについて、メッセージを送り続けています。
・アセンションとは、自分自身の波動を上げる事により、人間が今迄の三次元の存在としてではなく、五次元にアセンションする事です。五次元にアセンションするとは、三次元だけの空間に存在するとした人間が、実は、多次元空間の中に存在するという真実に気づく事です。
★人間は、三次元空間の五感で知りうる世界だけでなく、多次元空間の世界の中で存在する素晴しい存在
★人間は、三次元空間の中だけの薄っぺらな存在ではなく、多次元空間の中の深くて、広い存在
★人間は、多次元存在と交信できる存在
★多次元存在と交信して生きていく事が本来の人間の姿
・今、地球上に存在する人間は全て、今回の地球のアセンションへ参加するために地球で生まれています。
・五次元へアセンションする為には、自分自身の波動を上げる事が必要とされます。
・地球がアセンションする事により出来る新しい世界では、人間が何かによってコントロールされているのではない本当の姿を、素晴らしい愛の姿を見る事になるでしょう。
・宇宙の流れの中で、地球がアセンションに向けた波動上昇により、波動の低いエネルギーは地球上に存在できなくなります。
・そのため、今、地球上に大きな変化が起きています。これはどうしても人間が越えなければならない、人間にとって、地球にとって大きな浄化であります。これからしばらくは、大きな混乱を経るでしょうが、この時が無いと、次のステップ、アセンションへは進めません。⇒一つの進化の姿
・全ては人間のカルマの浄化の時である事をよく認識して生きて欲しい。
・浄化がなければアセンションする事は出来ない。
・人間一人一人が、自分の作ったカルマに気が付かなければ、アセンションはありません。
・アセンションへ向けて、全ては Good Timing で進んでおります。
・全て偶然なんていうものは無く、 起きるべきして起きており、そして、今、この時がある。
・人間は今迄、たくさんのコントロールする波動をたくさんの人間達から受けて来ました。
・コントロールしている波動を出している人間も、実は遠い過去から続いているコントロールの波動の中でコントロールされている。
・このコントロールされた低い波動の中から抜け出して、高い波動の世界を生きる事は、ある意味でとても勇気のいる事になります。それは、人間は長い間コントロールされた低い波動の中で生きる事に慣れてしまって、高い波動の、自分で自分を創造できる世界の事をすっかり忘れてしまったためであり、その低い波動の古い世界から抜け出る事は、今迄地球上で、誰もやってない、全く新しい世界である。
・古い世界の中にあなたの生活があるため、生き方や考え方を変える必要や、色々な物や人との別れが必要になる。
・人間は、今回地球と共にアセンションする事により、新しい世界を創っていくのです。
・その世界では、シンクロニシティーが起こり、思う事が現実となり、今は無くても必要なものは必要な時やってくるので、足りない物は無くなるのです。
・人間が多次元の中に存在している事を知る事により、実は地球での生活は全然変わるという事です。
・死についての考えも変わります。
・輪廻を知る事になり、死を恐れず、死を悲しまなくなり、たくさんの輪廻を繰り返していくうちに全ての魂は実は、親であり、子であり、兄弟でありというふうに、全ての魂は繋がっている事を知るのです。これだけでも人間の生活を大きく変える事になります。
・宇宙の法則である『出したものは返ってくる』という事を知れば、愛を出したら愛が、怒りを出したら怒りが返ってくる事を知れば、自分で自分の世界を創る事ができる事を知る事になります。
・愛に満たされた世界で生きたいか、怒りに満ちた世界で生きたいか、全て自分の選択という事になるのです。この事を知れば、やはり人間の生活は大きく変わるでしょう。
・新しい世界を創る事は、あなたたちにかかっています。そのために、今、地球にいる。
・究極的には、Be Here Now を信じる事、自分が喜ぶという感情を信じる事などです。
・人間は幸せになるため、自分を思う存分体験したくてこの地球に生まれてきたのです。誰かの言いなりになって、自分を押し込めて、自分を生きないために、生まれたのではありません。
・自分を生きれない程のストレスは、この世にありません。自分を生きれないで、社会システムの中でロボットになって生きる事が素晴らしいとされる今の地球で人間達はおかしくなってしまっています。この状況の中で、本来の人間の生き方を取り戻していくのです。
・地球の波動は上がっています。人間が、人間の本当の姿を思い出して生きる事は、地球の波動の上昇とシンクロしています。そして、これは大きな宇宙の流れなのです。
・新しいエネルギーの世界を生きる事は、地球を含め、宇宙の全ての存在がサポートしています。
・低い波動の中で存在し得た人間が三次元だけの存在であるとする虚構の世界が、高い波動の中では存在する事が出来ません。波動が高くなると人間は多次元世界に存在するという真実に気がつくのです。
・本来の自分の姿の大きさに驚く事になるのです。宇宙の全ての多次元の存在と繋がっていて、自分の想いが宇宙のはてまで届いているという事を知ることになるのです。
・想いはエネルギーであり、時も場所も関係なく瞬時に多次元世界に届くのです。
・人間がどれ程素晴らしい存在であるのか、あなたたちが生きて示すのです。
・人間の本来の姿を示すのです。
・アセンションすることにより、人間世界に変化をもたらすのです。
・地球を、愛と平和の素晴らしい惑星にするのです。
あなたたちは、そのために、今の地球に生を受けたことを忘れないで下さい。
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| 2008.2.26 |
スバルバル世界種子貯蔵庫
ノルウェー領スバルバル諸島スピッツベルゲン島のロングイェールビーンに建設されたスバルバル世界種子貯蔵庫の開設式がとりおこなわれた。
スヴァールバル諸島は、北極圏のバレンツ海にある群島。ノルウェー領。ノルウェー本土との約中間地点には属島のビュルネイ島がある。人が定住する地としては最北に位置する。最大の町はロングイェールビーンである。その他の主な定住地にとしてロシア人の町バレンツブルクや炭鉱の町であったニーオーレスンがある。法的には自治領ではなく、ノルウェー本土の一部であるが、バレンツブルクは独立性がかなり強い。総面積は61,022㎢、人口は2,756人(2004年現在)である。
「地球最後の日」に備えて世界で最も重要な種子を保管するため北極の永久凍土層に設けられた「箱船」、「Svalbard Global Seed Vault(スバルバル世界種子貯蔵庫)」が26日、運営を開始した。 |
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| 2008.3.8~20 |
マヤの神官、ドン・アレハンドロ来日と講演等 ⇒ ブログ
日本の祈り人との祈り
ドン・アレハンドロ氏を招聘したのは、日本興和損保の役員、浅川嘉富。
自らのライフワーク(地球・先史文明の探求)を完遂するため1999年退任。
今回のドン・アレハンドロ氏の招聘を自費でおこなった。
浅川氏はペルーの小学校建設に尽力されたり、ご自身で取られたアマゾンの動植物の美しい写真集を出されたり、久高島のシャーマンの研究をされている。
沖縄の神人・ユタ比嘉良丸(比嘉良丸とその母と大国ミロク大社)とを結びつける役割を果たした。 |
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2008.4~5
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死者は10万人超?
・ベンガル湾で発生した熱帯低気圧は4月28日、発達して「サイクロン・NARGIS・ナルギス」となった。サイクロン・ナルギスは30日まで消長を繰り返しいったんは衰えるかに見えたが、5月1日午後から急激に回復し上陸直前の気圧は962ヘクトパスカルと、一気に大型の猛烈サイクロンに発達していった。
・5月2日18時30分(日本時間同21時)ごろ、ラングーン(ヤンゴン)から約220Kmのイラワジ(エーヤワディ・Ayeyawady)河口付近(エーヤワディ管区)に上陸。ナルギスはその後2日かけてエーヤワディ管区、ヤンゴン管区、カイン(カレン)州などを蹂躙しながら、高波と暴風で甚大な被害をもたらせタイ国境に抜けた。最大風速51m/s~61m/sと推定される暴風と、12フィート(約3.6m)の高波が低地帯を襲った。国営放送は5月7日、死者22,464人、行方不明41,000人を確認したと伝えた。
一連の推定でも死者10万人、行方不明22万人とも言われた。 |
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| 2008.5.2 |
チリで400年以上休止していた火山の大噴火
2日に噴火したチリ南部のチャイテン(Chaiten)火山は、現在も周辺地域に大量の火山灰を降らせている。火山から約10キロの位置にあり、4000人の住民ほぼ全員が避難したチャイテンに続き、フタレウフェ(Futaleufu)でも避難が始まった。 |
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| 2008.5.12 |
四川大地震(しせんおおじしん、しせんだいじしん)
中華人民共和国中西部に位置する四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で現地時間(CST)2008年5月12日14時28分(UTC6時28分)に発生した地震。死者6万人。行方不明者2万人とも
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| 2008.8 |
『ラー文書』
ドン・エルキンズ著
カーラ・L.ルカート著
ジェームズ・マッカーティ著
・注目すべきことに、1996年に出版された本書において、マンデルカー博士のインタビューを受けたワンダラー(異星人)達は、「2010~12年頃のアースチェンジ」を口々に語っている。
「地球は一大転換期にある」(ビッキー)
「地球規模のエネルギー転換期だ」(ビリンダ)
「惑星全体の意識が高揚している」(バーバラ)
「来るべき地球の精神的変化」(バリー)
「地球の意識は急速に進化している」(ポーリン)
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| 2008.914 |
9月14日、アメリカで4番目に大きな投資銀行であるリーマンブラザーズ破綻。
リーマンは、米の不動産相場の悪化を受けて商業不動産関連投資の損失が拡大し、デリバティブ資産の価値も下落し続けていた。
今週末、他の金融機関に買収してもらうことで破綻を回避しようとしたが、失敗。リーマンの持ち株会社は15日未明(日本時間15日午後)、破産申請することを発表した。 |
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| 2008.10. |
ジュード・カリヴァン博士と船井幸雄、高校一年生のT君との対話より
ユニヴァーサル・ハート(すべてを含む宇宙的な心)
・胸と喉の間、個の意識が全体の意識とつながっているところ
・人によって光の色が異なる。大きさや透明度なども⇒船井幸雄などの、霊格を見分ける方法
・カリヴァン博士はアインシュタインの言葉を引用「…。問題を発生させたのと同じ集合意識のままでは、新しい解決法は見付けられない」と
・私たちは宇宙において単に「創造されたもの」であるだけにとどまらない。この現実というものを、共に創造している存在だ。このことを思い出すことによって、ユニヴァーサル・ハートが開かれてきます。そうすると、私たちは一つになることができるようになるのだ。
・恐怖に閉じこもることなく、愛の次元に自分を飛翔させてください。…協働して創造するものとして生き抜く道を選んでください。…愛の次元から選択してください。
・この時代において、日本のみなさまが担っている役目は大きいと私は思います。日本人は世界的な存在で、平和を作り出す素質があり、スピリチュアルなものを融合させるのに長けている。…あなたが抱くすべての感情、すべての考え、あなたの発するすべての言葉、すべての行動において、あなたが発するすべての言葉、すべての行動において、あなたが人からしてもらいたいように、人にしてあげてください。 |
船井幸雄
『超効率勉強法』⇒『二つの真実』(2009.6) |
| 2009.1.20 |
バラク・オバマ
アメリカ初の黒人系大統領となる |
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| 2009 |
豚インフルエンザ、新型インフルエンザ、パンデミック
久保田競・カヨ子、横峯吉文テレビ番組に登場 |
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| 2009 |
『エンダル』-介助犬「エンダル」とアレン
・イギリスで昨年(2009年)に発売され、大きな反響を呼んだ、介助犬「エンダル」の感動の実話の邦訳版。
・湾岸戦争中の不慮の事故で脳にダメージを負った軍人の男性・アレン。両脚の自由を失い、家族の記憶・人間的な感情すら失い、仕事も誇りも生きがいも奪われ、絶望の淵に立たされるアレンと、一家崩壊の危機に直面するパートン家。
・彼らに再生の光を投げかけたのは、みずからも不自由な足をかかえる1頭の介助犬エンダルの、見返りを求めない献身だった。(きっかけはアレンの妻が見つけた介助犬の新聞記事だった。)
……エンダルは迷うことなく本能的にその場にいるもっとも傷つきやすい人に近づく ……
人がもう一度温もりや愛情を感じられるよう元気づける--
……エンダルはこの世でいちばん私利私欲のない生き物だ。
たとえ足を怪我していても、私のためにベッドから飛び降りて電話帳を取ってくれる。……
(本文より)
・アレンはエンダルの無垢の愛情と献身に支えられ、いつしか笑顔を取り戻し、エンダルを通じて愛という感情を取り戻していく。そして壊れかかった家族とも絆を結びなおしていった・・・。
・アレンと妻の二人は新たな思い出を紡ぐために、再度結婚式をあげ、エンダルに14年という歳月の間力を借り、更にはエンダル2世との出会いも得て、父母としても幸せにくらしているという。 奇跡体験アンビリーバボー!2011.10.6より |
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『天才、志村どうぶつ園!』という番組のなかにハイジという米国人女性と動物とのスピリチュアルな対話のコーナーがある。不思議だが、とにかく彼女の通訳のおかげで相談者も、動物たちもハッピーになっているようだ。http://www.ntv.co.jp/zoo/haiji/index.html 2006.10.26~ |
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| 2009.4 |
株式会社バンクシアによるバンクシア・ブックス創刊-近藤洋一
バンクシアとはオーストラリアの森林に自生する植物。固い殻に包まれた種ができ、山火事後に芽を出し、燃え尽きた森に代わって新しい森が再生していくきっかけになる植物。
自らの役割を終えて燃え尽きた古い森とは、日本では資本主義。競争を前提とした経済システム。
「奪うことによって豊かになろうとする経済システム」
新しい森は「愛と調和」「互恵と共生」「与えることによって豊かになろうとする人たちが創る社会」 |
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| 2009.5.23~6.14 |
船井幸雄と『二つの真実』 |
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55歳
2009.6.5
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世界環境デー
世界88カ国で映画館・TV・DVD・インターネットで一斉公開
『HOME ~空からみた地球~』ヤン・アルテュス・ベルトラン監督
http://home.asmik-ace.co.jp/ |
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| 2009.6.23 |
岡本 三典(みのり)死去
・故・岡本天明の妻。三重県菰野町で「至恩郷」を主宰していた岡本三典氏、6月23日午前4時頃、ご逝去。92歳。前日までお元気で、いつものように床につかれ、そのまま安らかに、文字どおり眠るように逝ってしまわれたとのこと。
・日月神示の原文(天明が自動書記したそのままの原文)は、もはやどこに保管されているのか、どなたか信頼のおける方に託されたのか、わからない状況。 |
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| 2009.7.22~ |
木内 鶴彦(つるひこ)2度目の臨死体験
1954年長野県生まれ。彗星捜索家。小学生より彗星、宇宙に興味をもつ。
22歳航空自衛隊運航管理者として勤務中奇病にて臨死体験(30分間の死亡体験、カルテに記載された)をする。
回復後は、航空自衛隊を退官し、彗星捜索を再開、当時行方不明になっていたスウィフト・タットル彗星を再発見するほか彗星を3つ発見して、全世界から一躍注目をあびた。
太古の地球の水の性質を再現した「太古の水」や太陽光を利用した「炭素化炉システム」を考案。
2009年7月、皆既日食観測のため訪れた中国・杭州近くにて、胃からの大量出血による吐血と下血のために倒れた。その後、中国政府の援助もあり、約1カ月の入院ののち、日本への帰還を可能にした。その間、再びの臨死体験をした。
・木内さんは、皆既日食を上海で見ようと、中国へ渡りました。そこで木内さんを待っていたのは、600人という観客。前日から過剰なストレスに襲われていて、意識がなくなりそうな程にフラフラ状態だったという。皆既日食を無事に見ることが出来た直後、ストレスが頂点に達し、急激にやってきた安堵感を伴って、意識を失いかけた。その翌日の朝、ホテルのエレベーターの中でとうとう意識を失い、脳震盪を起こして救急車で運ばれ、胃の下にある静脈が破れて、病院で3000ccの吐血。その後に下血を起こし、全部で8000ccの血液が流れ出たという。(2回の心肺停止があったとも)。
・瀕死の状態で生死を彷徨っている時に、中国政府から「この日本人は死なせてはならない」という報告を受けた病院は、中国人のVIPしか治療をしないという中国科学省の医者を派遣させ、成功率3%という状態の木内さんに、神業のような治療を施した。そのお陰で、中国の3大新聞に掲載されたとか。
・驚くべき事は、瀕死状態の時にまたしても自分の未来を見てきたという事。宇宙の真理、生命のしくみが分かってしまうというというような事にも似ていて、自分ががやって来たことは間違っていなかった、という事が分かったという。 中国の新聞記事
・木内さんが22歳の1度目の臨死のときは1つ目の未来が強かったのだれど、2度目のときは2つ目もはっきり見えたという。
何かが変わってきている。
・大きな変化をともなう“未来”が、間もなくやってくる。「循環型社会」の様子を“結果”として見てきた木内さんは、常々、「“結果”は見てきたんですけど、そこに至る“過程”を見てこなかったんですよね」なんて笑っていた。
“明るい未来”作りへの過程を見てきたことにより、より“何をすればよいか”が明確になったとも。
・実は、今回のことは、中国で倒れたので、よかったらしい。これが、日本なら、開腹しても、お医者さんが手をつけないほどの重症だったのだとか。(極度に成功確率の低い手術のため、日本では決してやらないと。)他にも、さまざまな、“偶然”や“不思議なこと”が重なり、生還できたという。
・その後も劇的な回復力を見せ、手術の傷口の治りが早いという事や、木内さんが打ち出していた研究が、今まで他の人の手に渡りそうだったのが、自分の特許として申請を出すことが出来るなど、様々な展開が起きているとか。明らかに自分に何かが起きた。これは必然の事故だったのだと感じるという。
2010年、活動再開。現在、全国で講演会・観望会を行い、天文や環境問題を説いて回っている。
著書は「宇宙の記憶」(龍凰書房)、「生き方は星空が教えてくれる」(サンマーク出版)。このコーナーは複数サイトより
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1996
2009.7.23 |
スコット・マンデルカー博士と『宇宙人の魂をもつ人々』
慣れない地球環境で悪戦苦闘しつつ、来るべき「アースチェンジ」の衝撃をやわらげるため、地球生命系の片隅で待機している仲間である。
来るべき地球の大変化は、地球人の想像を絶するものだ。彼らだけでは、間違いなく大混乱になる。気楽に受け入れられるのは我々、宇宙人しかいない・・・。
注目すべきことに、1996年に出版された本書において、マンデルカー博士のインタビューを受けたワンダラー達は、「2010~12年頃のアースチェンジ」を口々に語っている。 |
『宇宙人の魂をもつ人々』 |
| 2009 |
現代の魔女狩り
インド農村部や一部のアフリカの国などでは未だに妖術の存在が信じられており、一部の暴徒によって私刑という形で魔女狩りが行われている。
インドでは、2008年3月ごろにテレビで農村部の魔女狩りの様子が放映され、女性を暴行したとして6人が逮捕された。また、ナイジェリアでは魔女の疑いが掛けられた子供たちが魔女ではないとして抗議活動を行ったり、さらにはガンビアでは魔女の疑いがかけられ千人ほどが拘束され、大統領自身が魔女狩りへの関与をしていると、アムネスティ・インターナショナルから報告されている。
2009年現在でもサウジアラビアでは合法的に魔女狩りが行われており、イスラム宗教省の魔法部で魔法使いに魔法をかけられた場合にどうしたらよいか電話相談を受け付けている。冗談のようにしか聞こえないが公的機関で本気で実施されており、相談内容に信憑性がある場合には実際に調査、逮捕、起訴が行われ、実際に魔女とされる人物が死刑執行されている。
また、魔女の摘発は宗教警察である勧善懲悪委員会が行っている。サウジアラビアの法律では直接的に魔術の使用を犯罪として定義した法律そのものは無いが、人間が魔法などの超自然的な力を持つと主張したり、信じることはアラーへの冒涜であるとされており、アラーへの冒涜には死刑が適用される。
魔法が死刑適用もありえる重罪ではあるが、現在でも地方では土着信仰の魔術を行う人物が居いて、年に数件は摘発されている。 サウジアラビアの裁判制度は2009年現在でも政教一体のイスラム法に基づく宗教裁判であり、イスラム教ワッハーブ派の信仰に対する異端審問としての性格を持っている。実際に2005年5月に魔術を使用した霊媒師の女性に死刑が執行されている。 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチは魔女への死刑撤回を求めている。
2009年11月9日にもレバノンの霊能力者が死刑判決を受けている。
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| 2009.7 |
ジュード・カリヴァン博士と『あなたはまもなく銀河人になる』
・4歳の頃、就寝中、肉体をもたない光の存在と出会う。以来、そのガイドスピリットによる指導と教えが始まる。5歳にして、既にこのガイドスピリットから最先端の科学及び古代の叡智の訓えを学ぶ。…
・私たちはより意識的になればなるほど、もっとも高次元の自分自身と整合し、つながることができるための力が与えられます。愛というのは、最高次元の自己と自分とが整合することで生まれる振動だと感じます。
・私たちは特別であり、普通である。神聖なものであり、普通の人間である。そして、私たちの存在の中の人間の部分は、たしかに怒ったりもします。でも、その怒りを否定あるいは拒絶するのではなく、怒りという感情が、なぜ、どのように自分の内側で起きてきたのかということに意識をむけることによって、より楽に怒りという感情を手放すことができるようになります。しがみつくのではなく。
・私たちが人間としての体験をするために、この世に生まれてきたときに、いわゆる人間としての旅の非常に重要な側面は、私たちの感情です。そういう感情が私たちの中を流れていくと、流せてしまえばいいのですけれども、私たちは流せずにその感情にしがみついてしまいます。感情にしがみつくと、それがトラウマとして私たちのエネルギーフィールドに残ります。トラウマというのは非常にパワフルなもので、簡単には手放せない。1つの転生が終わっても、次の転生、また次の転生と持ち越されていきます。
・そして、私たちは今生に生まれて、ほかの転生からのトラウマを持ち越してくるだけではなく、また今生のトラウマが引き金を引く。私たちがそういうトラウマのエネルギーをリリースしようとするときに、それを人格(パーソナリティ)のレベルでの意識で開放しようとすると、とても困難です。なぜなら、そのレベルの意識の中で実際にトラウマは起きたので、問題をつくり出したのと同じ意識状態でそれを解決しようとしても、それはなかなか難しいのです。
・でも、我々の中でユニヴァーサルハートが開きはじめると、私たちは、いわゆる人格のレベルを超越することができるようになります。それは、無条件の愛のレベルまで広がっていきます。そこからは、私たちのトラウマのパターンを認識することができるようになるのです。
・アカシックレコードは、意識とか宇宙が体験したものすべての記録が刻印されたものです。アカシャの中に、過去の記録として刻印されたものという意味です。
その他に2008.12『超効率勉強法 』ビジネス社⇒『二つの真実』船井幸雄より
・全人類的な意識の変換が今起きつつある。私たちがいったい何ものであるか、というスピリチュアルな目覚めを、どのように呼び起こしていくか。
・私たちは、宇宙の意志(コスミック・マインド)による単なる被造物であるばかりではない。宇宙の意志によって創られた存在であると同時に、宇宙の意志と協働して共に創る存在、つまり「共同創造者」であるということ。
・意識の研究によってわかってきたことは、あらゆる存在……極小の存在から極大の存在に至るまで、五感で捉えられる存在から五感では捉えられない存在にいたるまで、この宇宙に存在するすべてが、時間と空間の制限を超えて互いにつながり合ってあっていることです。つまり、私たちが頭で考えること、心の中に湧き出した感情、発する言葉、振る舞いや行動、それらはすべて、私たちを取り巻く存在に大きな影響を及ぼしているのです。
・私たちは何ものなのか、という答えがそこに見い出されるでしょう。「私たちは創造する存在である」ということですね。この世界を創造しているのは、神や宇宙の意志ばかりではなく、まさに私たち一人ひとりであるという事実。私たちは、神や宇宙の意志にも匹敵する”創造者”である。それほど大きな力を有している存在、それが私であり、あなたである。その気付きへのサポートが、いま急激な勢いで地球に降り注いでいるのです。(~P104)
・おっしゃるとおり、今は大変重要な時期です。私のガイドのスピリットからも今年は非常に重要な変化の年になるだろうと聞かされています。
・私たちはつながった存在であり、協働して共に創造する存在であるというスピリチュアルな認識を、地に足をつけて、いかに実生活に役立てていくか。
・人類的危機という、まさに分岐点に立たされている現在、このような気付きをもっと多くの人に広げ、意識の拡大を起こすことが、次の時代への抜け道となることでしょう。
・混乱的現象があたかも大海の表面に立つさざなみのごとく、見られます。…注目すべきは海の奥深くを流れる潮流のほうです。…本質では何が起きているのか。従来のあり方や考え方は脇に置いて、新しいビジョンのほうに向かっていきましょう。 |
『あなたはまもなく銀河人になる』 |
| 2009.10.9 |
オノヨーコと3Dイマジン・ピースタワー
2007年にアイスランドの首都、レイキャビクで披露されたオノ・ヨーコの公共芸術作品である光の塔“イマジン・ピース・タワー”が、インターネット上の3D仮想世界「セカンド・ライフ」内に完成!
オノ・ヨーコによる除幕式が、ジョン・レノンの誕生日である10月9日午後10時30分(アイスランド時間/日本時間10月10日午前7時30分)に、仮想世界にあるイマジン・ピース・タワー・アイランドで行なわれ、この除幕式は誰でも参加でき、オノ・ヨーコは参加を呼びかけた。 |
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| 2010.1.1 |
新年 明けましておめでとうございます。 |
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| 2010.1.12 |
2010年ハイチ地震
ハイチ時間の2010年1月12日16時53分(UTC21時53分)にハイチ共和国で起こったマグニチュード (M) 7.0の地震。
地震の規模の大きさやハイチの政情不安定に起因する社会基盤の脆弱さが相まり、死者が31万6千人程に及ぶなど単一の地震災害としては、スマトラ島沖地震に匹敵する近年空前の大規模なものとなった。
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| 2010.2.27 |
2010年チリ地震
チリ中部沿岸で3時34分14秒に発生した地震。
地震の規模は、USGS(米国地質調査所)によれば、モーメント・マグニチュード(Mw)で8.8。
1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模。
世界でも発生当時では5番目の規模の地震。
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エハン・デラビイと『人類が変容する日』
・人類の起源やDNAの情報
・いろんな異端とされている(主流の学説などから抹殺された)興味深くて納得もいく説をいろいろと紹介している。
・モンロー研究所のヘミシンクへはエハンさんは奥さんを実験として参加させた。
・エハンさんによると、ヘミシンクで体験する次元は人工的な次元(インターネット世界のようなもの)のように思えるそうで、本当の異次元への変性意識になるときに見られるような反省や謙虚さがなく、自分が何十次元に行ったという報告ばかりで、とても怪しげに感じられるという。 |
『人類が変容する日』 |
| 2010.3 |
『 あなたはスピリチュアルな錬金術師になる 2012年の銀河サポート』
・ジュード・カリヴァン、エハン・デラヴィ共著
古代シュメール人の神話には、爬虫類に属するアヌンナキという地球外生物が、太陽系の果てにある惑星ニビルから地球にやってきたと記されています。こうした神話の研究や、与えられたみちびきなどから、彼らは当初、金を掘削するために地球にやってきた、と私は理解しました。急速に悪化するニビルの環境を守るため、彼らは金を必要としていたのです。
最初は自力で金を掘り起こしていましたが、そのつらい労働を肩代わりさせるため、ある時点で、アヌンナキたちは人間を創ることにしました。シュメールの神話にも、聖書にも、そうした「神々」が「人間の娘たち」と交わったと記されています。二○万年前に現代人の人類を形成するにいたる遺伝子の突然の変化も、これによって説明がつくと考える研究者たちもいます。(徳間書店「あなたはスピリチュアルな錬金術師になる」ジュード・カリヴァン/エハン・デラヴィ著) ブログより転載 |
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ロザンヌ・ハガティと世界のホームレス10億人の救出活動!
・ニューヨークのスラムで殺人を100%減らした方法とは
このアメリカに住む女性は、20年前からニューヨークのホームレスを87%減らすことにより、窃盗を80%殺人を100%減らした「ニューヨークの奇跡」と言われる実話を作った方だという。
・彼女は市長と投資家を説得して、廃墟となった古いホテルを改装して652世帯のホームレスが住める住居を作りました。家賃は固定せず入居者の収入の応じて収入の約3分の1を設定し、就職に必要な健康を作るために施設内にジムや健康的な食事を提供し、再就職の手助けになるような職業訓練も施設内に作った。
・家賃を支払う事で、責任感が生まれ、市民の自覚が生まれ、行動や態度そして価値観まで変化しだした。自信が生まれだすと、人は態度が颯爽とし、笑顔が生まれると言う。
・驚いたことに世界には10億人のホームレスがいるというのです。なんと世界の6人に1人が家がない生活を強いられていると!!
・路上生活者いわゆるホームレスは日本に約3万人。
・アメリカはニューヨークだけで約4万人、全米で約23万人。
■社会起業家になるきっかけ
・ホームレスへの支援を通じて、地域社会の活性化に貢献するプログラムを独創的な手法で実現している、コモン・グラウンドの創業者。
・名門アマースト大学を主席卒業後、ニューヨークの教会で1年間ホームレス支援のボランティアをした。
・当時彼女は、「このままでは問題の根本的な解決にはつながらない」と考え、一つのアイデアを思いつきました。それはニューヨークの中心であるタイムズ・スクエア付近にあった中古ホテルを改装し、ホームレスに安価で住居を提供するというもの。
■コモン・グラウンド:ゼロからのスタート
・何のバックグラウンドも資産も持たない彼女は、その資金の融資を市に申請します。
・粘り強い交渉の末、市長直々に融資の承認を受けたコモン・グラウンドの取り組みは、現在ではニューヨーク市を中心に他地域にも展開し、現在ではその規模は2000室以上に及ぶと言われています。
・この活動の結果、最初に取り組んだタイムズ・スクエア周辺では、ホームレスが87%減り、同時に犯罪率も激減(殺人100%、窃盗80%減少)、安全な街として生まれ変わり、周辺の不動産価値も上がるなど、大きな成果を生み出しました。
■ビジネスと社会福祉の融合
・この取り組みの特筆すべき点は、その事業性にあります。非常に快適な部屋や充実したサービスを提供しながらも、市が刑務所、病院でホームレスを受け入れるコストよりも格段に安いコストで運営を実現しています。
・当初、タイムズ・スクウェアーのホテル購入に充てる資金援助を市に申請した際、彼女は「このプロジェクトによって、行政コストが65%削減できる」と主張したらしい。
・また、予算交渉においては、犯罪率の低下など見えづらい活動の成果を数値化し、ミュニケーションすることで社会的投資を呼び込むという事業が非常に独創的であるといえます。
・何よりも、実施されるプロジェクトの進行において、効率的な運営、持続的活動が行える体制、社会的な課題を根本から解決する活動展開、といったまさに事業と社会貢献活動を融合させた社会起業家の好事例であるといえます。
■本質をついた活動
・コモン・グランドでは
ホームレスの入居にたいして、
1.メンタルを含めたヘルスケア、
2.就業支援サービスを行うことで、単に受け入れ施設にとどまる事なく、ドラッグ、エイズ、精神障害など状態の改善とともに、社会復帰が可能なように、就業機会の創出まで行っている。
そこで得られた資金は、入居者の賃金となり、或いは彼等コモン・グランドの活動原資に充てられると言う、画期的な活動を行っています。
■ハガティ氏より
「ホームレスの人々は、社会から追われた社会弱者です。幼児期の虐待、性犯罪、貧困、ドラッグなど社会の片隅に追い込まれて、ホームレスとなっている。また彼等はドラッグ、エイズなど患っています。単に安価な家を提供するだけでは、社会復帰は望めません。何よりも彼等は社会から疎外感を強く認識しており、これを取り除く作業から始めないといけません。」
・現在、彼女はこのビジネスモデルをもって世界中を飛び回っているそうです。ちなみに、公的支援については、ジュリアーニ市長時代に大幅な予算削減の憂き目に会い、それ以来、ビル・ドレイトン氏創設のアショカ財団からの融資や、事業による収入によって、自立した経営を実現させています。
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| 2010.4.3 |
16:00~18:00 NHKの番組 あすの日本「無縁社会」-私たちはどう向き合うか
12年連続で3万人をこえた自殺、最近さらに深刻化する児童虐待、そして若い世代に広がる孤独死。私たちは、こうした問題を別々の事柄として日々取材してきました。しかし、そこには、何か共通するものがあるのではないか、そう考えて、議論し、さらに取材を続けました。そして、見えてきたのが、家族、ふるさと、そして会社とのつながりが急速に切れている社会でした。私たちは、こうした社会を「無縁社会」と呼ぶことにしました。
そして、今年の1月から2月にかけて、この「無縁社会」をテーマにNHKスペシャル、ニュースウォッチ9、おはよう日本などで、キャンペーン報道を行いました。この放送に対して、視聴者の方々から、メールや手紙、電話など、合わせて2,300を超えるたくさんの反響を頂きました。
その一部をご紹介いたします。…
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| 2010.5 |
坂本政道と丸善での講演
・ヘミシンクとピラミッドを使うことにより、意識の振動数が高まっていく。
・「バシャール」によれば、振動数が18万ヘルツに達すれば、覚醒して第四密度に上昇できるという。
・14万4千人が覚醒すれば、アセンションの起爆剤として十分。
・究極の世界に至る前には、最後の関門が待っているという。覚醒への扉は、カンヌキがかかった重い鉄の扉のように、ふだんはピタリと閉ざされている。押しても引いても動かず、ウンともスンとも言わない。
・ところが、「開け、ゴマ!!」というような、特定の波動をもつ声を発したときだけ、扉がビーンと反応して、自然に開かれるという。
・古来から唱えられてきた真言(マントラ)は、このためにあるらしい。真言は、単なる呪文みたいなものではなく、見た目より重要な意味があったという。転載 |
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| 2010.6.13 |
惑星探査機、はやぶさ帰還
・はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日13時29分25秒(日本標準時、以下同様)に宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機.
・ひてん、はるかに続くMUSESシリーズ3番目の工学実験機。
・イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星 (25143) イトカワに到達し、その表面を詳しく観測してサンプル採集を試みた後、2010年6月13日22時51分、60億kmの旅を終え、地球に大気圏再突入した。
・地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンは、世界初の快挙。
・はやぶさを支えた日本の中小企業の技術力にもスポットがあたっている。
⇒映画『はやぶさ』2012.2.11公開 |
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| 2010.8.10 |
船井幸雄と「日月神示と縄文時代」
ジュード・カリヴァン博士
(イギリス在住の白人女性で、4歳のころ肉体を持たない光の存在と出会う。いろいろなことを教えてくれるようになった。そのガイドの指導を受けて、植物や動物と話したり、銀河系の生命体と長い年月コミュニケーションをとってきた。このとき言葉は使いません。心を使って、「愛」という言語で話をする。love(愛)とlive(生きる)、live⇒evil(邪悪)『二つの真実』P107~108)
(オックスフォード大学で、量子力学を究め、ビジネスの世界でもトップの業績をあげ、更に考古学でも博士号を取得。1996年の終わりにビジネス界を離れ、かねてより希求していた新しい科学の領域を極めつつあり、ヒーリング能力にも優れている)
彼女によると、「人類には大きなトラウマがある。その一つが人類の出自に関することである。人類は、爬虫類人によって影響させられたという事実を受け入れなければなりません」と言います。 |
船井幸雄.com
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| 2010.9.16 |
ザ・ベストハウス123(2010.9.15放送)にて
茂木健一郎vs世界のびっくり記憶脳!驚異の記憶超人たち壮絶人生SP
・すべての曲を一度で記憶しピアノで奏でる!人間iPodと呼ばれる青年
・トランプ1400枚の順番を完璧に覚えるオタク男!驚異の脳を徹底解明
・世界にたった4人しかいない超記憶症候群の1人。
・10歳のときの交通事故により記憶力を失ったまま出産した母!
壮絶育児に起きた脳の奇跡
※脳の働きと人格とは
「自分」はいったいどこにいるのでしょう。
・体と心と想いと魂と。
まず自分の全てが一体となり、調和し、今日1日の奇跡をゆっくりじっくり味わい、感謝して終わりたいものです。
・そして、内省・内観。
・感謝と幸せな眠りにつき、おぼし召しあれば、命をいただき、よりよき楽しき明日につなげたいと思います。 |
2007年10月29日(月) 午後10時~10時49分
総合テレビ |
| 2010.8.5~10.13 |
・チリ鉱山落盤事故、33人無事全員生還。『33人』というタイトルで映画化予定。 |
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| 2010.10.23・24・25 |
「アセンション」につながる、「超宗教である究極の祈り」「ホ・オポノポノ」が降りてきた日。 |
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| 2010.12 |
ジョン・レノン生誕70年、没後30年
ジョンの歌「マザー」
ジョンのキリストにまつわる発言
オノ・ヨーコとの結婚
Imagine there's no Heaven
It's easy if you
try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...
Imagine there's no countries
It isn't hard to
do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the
people
Living life in peace
You may say I'm a dreamer
But I'm not
the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or
hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the
world
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope
someday you'll join us
And the world will live as one
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想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん
みんなが
ただ今を生きているって...
想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん
みんなが
ただ平和に生きているって...
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界は1つになるんだ
想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっと1つになるんだ
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| 2011.1 |
チュニジアと革命とベンアリ政権崩壊
・発端は、2010年12月17日のこと、一人の青果物を売る行商の若者が荷車を警察に取り上げられたことに抗議して焼身自殺をはかり、2011年1月4日19時ごろにチュニジアの病院でその青年が死亡したことから民衆の怒りは爆発した。
「チュニジア革命の発端は抗議の自殺」(「REUTERS」のビデオ)に紹介されている。
発端は、2010年12月17日のこと、一人の青果物を売る行商の若者が荷車を警察に取り上げられたことに抗議して焼身自殺をはかり、2011年1月4日19時ごろにチュニジアの病院でその青年が死亡したことから民衆の怒りは爆発した。
・チュニジア国民の蜂起を引き起こした抗議デモの発端は、小さな町シディ・ブジドで起きた。
・野菜売りの青年モハメド・ブアジジさんが、女性警官と口論となった。警官に、野菜と秤(はかり)をまたも没収されたからである。
・警官は、ブアジジさんの顔を平手で叩き、死んだ父親を侮辱する言葉を使ったという。
・ブアジジさんは怒り狂い、警察本部の外で焼身自殺を図り、それが革命への引き金となった。
・母親のマヌビア・ブアジジさんによると、
「彼は、地方警察本部へ行きました。……『もう疲れた、たくさんだ、頭にきた、切れた』と言いました。
誰も耳を貸さなかったので、行動に移ったんです。
『辱められ、殴られて、俺の名誉は傷つけられ、親父も侮辱された』『俺の人生は終わった』と叫びました。誰も注意を払いませんでした。
彼が炎に包まれたので初めて警報が鳴らされました。消火器を持ってきましたが、中は空でした」
・イスラム教を信仰するする人たちにとっては自殺と自身で体を焼くことは魂の救済や永遠の命を手放したこととなり、彼の深い絶望を物語り、それがチュニジアの人たちを動かしたのだと池上彰がテレビで解説していた。それをすご~いタイミングで知ることになり、初めてネットで検索して上記のような情報を探し出した。
・ジュネーブ条約(戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約 第1回-1864、第2回-1906、第3回-1929年)違反-イスラム教では遺体は土葬。(民間人はもとより兵士といえども)遺体を焼く行為は条約違反である。
・同じように失業や物価高に悩む若者たちがこの事件に触発され、各地にデモが広がった。…
・国民の怒りは、ベンアリ大統領の独裁体制と腐敗体質に向けられた。数千人が内務省を取り囲み、危険を感じた大統領は国外逃亡して、23年に及んだベンアリ政権はあっけなく崩壊した。
・チュニジアの政変は、周辺のアラブ諸国に大きな衝撃を与えている。北アフリカや中東には、リビアやエジプトなど強権的な専制国家が多い。こうした国家の支配者たちは、民主化要求が自国に飛び火することを恐れている。
・米国や欧州先進国は、アラブの独裁政権が一方でイスラム原理主義勢力も抑え込んできたことから、専制や言論弾圧には目をつぶってきた側面がある。もっと強く民主化を促すべきではなかったか。日本にとっても反省すべき課題だ。
・アラブ諸国は、チュニジアの政変を警告と教訓として受け止めた方が良い。言論統制や野党への政治弾圧を撤廃し、汚職体質を改めるなど、政治改革に踏み出す契機となる。ネットを介して市民が世界の情報に触れて、デモに参加する時代に、いつまでも市民を無視した政治を続けられるものではない。(2011/01/22付
西日本新聞朝刊)
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| 2011.1.7~8 |
ワイタハ族に伝わる伝承
「長い間続いたストーンクロック(石の時代)は2009年の8月辺りから閉じられ始め、今年(2011年9の1月の7日から8日にかけて、地球は新たなウォータークロック(水の時代)に入ったのです。
ウォータークロックの時代に入ると、女性や調和が大事にされ、肉体と意識(ハート)のバランスが保たれる時代になりますが、この時代が始まる前には、宇宙から氷の塊が落ちてきたり、地上の水が蒸発して大量の蒸気が出たりして、各地で洪水が発生することになります・・・・・その他にもたくさんの苦しみが人類を襲うことでしょう」『世界に散った龍蛇族よ!』より |
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| 2011.1.11~ |
エリザベス・キューブラー・ロス
ロバート・モンロー
坂本政道
ブルース・モーエンのつながりについて
高群逸枝と橋本憲三と母性我的世界観、世界愛
坂本政道とロバート・モンローとブルース・モーエンと『死後の世界』探求 |
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| 2011.2.11(?) |
あすの日本「無縁社会」(若い世代の無縁かが深刻化)-私たちはどう向き合うか?
ニートの行く先は?
NHK総合 2010.4.3の番組に対する反響により14000人からのメッセージで番組を構成
スタジオでも |
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| 2011.2.12 |
エジプトとムバラク大統領の退陣
エジプトのスレイマン副大統領は11日夜(日本時間12日未明)、国営テレビで声明を発表し、ムバラク大統領(82)が大統領職を辞任し、全権限を軍に移譲したと明らかにした。
これに先立ち、ムバラク氏は同日午後、家族とともに首都カイロの大統領宮殿を離れ、同国東部の保養地シャルムエルシェイクに移った。 |
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| 2011.2.22 |
2011年2月22日午後0時51分(現地時間)にクライストチャーチ近郊で発生したm6.3no カンタベリー地震で市中心部の建物が被害を受けた。 |
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| 2011.2.22 |
リビアとカダフィ政権
・リビアの最高指導者カダフィ大佐が22日、国営テレビで姿をみせた。アルアラビーヤテレビによると、大佐は「私は(首都の)トリポリにいる。ベネズエラではない」と述べた。…
・中東の衛星テレビ、アルジャジーラの報道によると、リビア軍の将校グループは声明を発表し、カダフィ大佐退陣を求める「国民に参加」するよう兵士らに促した。
・クリントン米国務長官は21日、リビアでの反政府デモに対する武力による弾圧を強く非難するとともに、リビア政府に対し、国民の人権を尊重するよう要請した。…
・政権内でも亀裂が生じている。アブドルジャリル司法書記(法相)がデモ隊に対する「過度な暴力の行使」に反対して辞任したほか、インドに駐在するリビア大使も暴力的なデモ弾圧に抗議し職を退いた。
・ベンガジでは、民間人への発砲を拒否した兵士が部隊長によって処刑されたとの報道もあり、地元の元裁判官は「民間人への発砲を拒否しカダフィ支持派の当局者に処刑された兵士11人を埋葬した。遺体は切断されていた」と語った。
・フランスに本部を置く人権団体の国際人権連盟によると、ベンガジを含む少なくとも東部の9つの街をデモ隊が掌握している。
シリアとアサド大統領
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ヤフーニュースより |
| 2010年末?~2011年初め |
デンマークの無政府状態
・議員定数150に対し選挙により、少数多政党に分散
・大きな混乱はない? |
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生命の不思議
・ハダカデバネズミ-長寿、老いてもガンにならない。階級社会
・ベニクラゲ-ストレスを感じると3日で若返る。
・クマムシ-地球最強か?乾燥すると石のごとく干からびる。水をかければまた蘇る。 |
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| 2011.3.9 |
クリント・イーストウッドが監督する映画『ヒア アフター』観賞
・『ゴースト』以来の、死後の世界とこの世との繋がり方に関するアメリカ人の認識の仕方、進化を見たくて…近場の映画館で公開されたので家族の体調を確認しながら、仕事の後で見に行ける日を決めた。
・スマトラ沖地震を想像させる大津波のシーンがあります。ネタバレするので後はすべて内緒です。
・「2004年に太平洋で津波が起きたときに、その場に居合わせた人たちが携帯電話などで撮影した映像や写真なんかを、片っ端から見ていったんだよ。実際に人々が逃げ出そうともがいていたり、木や建物など、すべてが流されていた。とてもショックを受けたと同時に、その資料が、本物の津波とはどういったものなのかというインスピレーションも与えてくれたんだ。劇中で、津波に襲われながら、なんとか生き延びようとする人たちの壮絶なシーンは、そうやってできたんだ。」(監督の言葉)
3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震を連想させる場面があるという理由から、日本での上映中止を決定した。3月15日よりアメリカで発売開始となったDVD・ブルーレイの収益を日本赤十字社へ寄付しようと、現在オファーを出している。シネマトゥデイ映画ニュースより |
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| 2011.3.11 |
地震の概況(気象庁発表)
発生日時 平成23年3月11日(金) 午後2時46分頃(日本時間)
震央地名 三陸沖
震源の深さ 約24km
規 模 マグニチュード9.0(M) ※ 観測史上過去最大 ※ 8.8 から再修正(観測史上過去最大)
震 度 七ヶ浜町 震度【5強】(観測計 5.4) 宮城県(最大) 震度【7】栗原市
その他 宮城・東北を中心に北海道から九州にかけて震度【6強】
大津波の被害に加えて東京電力の福島原発汚染も大問題となる。
2011年東北地方太平洋沖地震という大規模な災害(※敢えて自然の文字をはずした)が起こってしまいました。気象庁地震予知情報課課長は「5分前後かけて連続して発生するという、複雑な起こり方をしている。極めてまれで、気象庁の観測で初めての経験」(Wikipediaより)だといいます。そして、今も継続している記録的な余震。そして、何よりも、福島第一原発による環境汚染と廃炉問題が余談を許さない状況にあります。(2011.4.1)
20年ほど前だったでしょうか、どういうきっかけだっかも覚えていたないのですが、最寄の図書館にあった、エドガー・ケイシーが残したリーディングに関する本が3、4冊あり、その中で、英語音痴・浅学な私が唯一ひっかかって未だに覚えていた言葉がありました。
「Japan must go into the sea. 」 なぜ、「must」という言葉が出てきたのか、というものでした。 |
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| 2011.3 |
市議と命の橋
岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。
海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。
平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(※副校長が非常通路の鍵を開けたという)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。 |
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| 2011.3.27 |
ケイ・オバラの娘、エドワーダ・オバラが58才に。
エドワーダは、妹のコーリンと仲良く遊ぶ、とても従順なカソリック教徒だった。
母ケイは結婚にあたり、聖家族にならって生活しようとしていた。エドワーダは聖アンナと聖母マリアの二人を信仰していた。
※聖アンナ(ヌ)-新約外典「ヤコブによる原福音」による伝承では、アンナと夫のヨアキムは、老齢に達するまで子供がなく、初めての子供を授かることを天使から告げられた。アンナは子供を神に捧げることを約束した。アンナとヨアキムは、エルサレム神殿のおかげでマリアを授かったと信じており、3歳に達したマリアをエルサレム神殿に奉献した。
※聖母マリアは、カトリック教会用語でイエス・キリスト(ナザレのイエス)の母、ナザレのヨセフの妻を指す最も一般的な称号である。ヨアキムとアンナの娘、(サンタ-)マリアとも。
ノートルダム大学が女子学生の入学を許可した最初の年に入学を認められた。
軽い糖尿病があったが、誰もこのような重大な事態がおこることを予見できず、1970年1月3日、わずか16歳の時に糖尿病で昏睡状態に。
エドワーダが最後に母親に残した言葉は「ママ(普段はお母さんだった)、私をおいていかないでね。約束よ」でした。ケイは「決してあなたをおいていったりはしないわ。約束は約束よ。もし約束を守れないなら、なるべくそうすると言うけど、絶対においていかないわ。エドワーダ。決しておいていかないって約束するわ。約束は約束よ」この言葉を聞くとエドワーダは長い眠りに静かに入っていった。
ケイと父ジョーは教師で以後、家計を支える父は6年後に心臓麻痺で急死。母親のケイが、自宅で看病を続けていた。
看病をはじめて39年目に入った2008年3月7日、ケイは天国へ旅立ち、その後、妹のコーリンが母の遺志を継ぎ、自宅で看病を続けている。
1982年、ケイは激しい心臓発作に襲われ、過去26年間でただ1度の休暇は10日間の入院だった。
看病をするようになって22年たった1992年の秋に2日連続して聖母マリアの来訪を受けた。「この子は祝福されています。」「清められし子です。」「この子は犠牲の魂です」
一緒に祈るように言われた。
「犠牲の魂」という言葉の意味を教えてくださるようにお願いすると、
「それは言えません。調べることがあなたのためになります。心配はいりません。悪いことではありません」とおっしゃった。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP86~
2日後にその方がまたいらっしゃって犠牲の魂とは何かわかったかとたずねられた。
犠牲の魂とは特殊な殉教者、人々の心に神の言葉をよみがえらせるために喜んで苦しみを受けるかと神にたずねられた人のことだと枢機卿から教えられたことを話すと
「そのとおりです」と言われた。
エドワーダはこの役割を断れることを知っていたし、もし断っていたら、普通にそのままの毎日を続けることができることも知っていたという。
エドワーダは何のために苦しみを受けているのか教えてほしい、と言いました。それがわかれば早く苦しみを終わらせてやれると思ったからです。しかし、
「早く終わらせることはできません。この子はそのために苦しんでいるのです。それを知らしめなければなりません」と言われました。また、生きている者はあの子の代わりに苦しみを受けることはできないとも。歌うような静かな声で話された。
そのとき、エドワーダの苦しみを手伝わせてほしいと懇願した。
ケイはひどく気分が悪くなった。血圧は高くなるし、。すると、その方が近づいてきて、
「それはあなたの望んだことです。何を祈るか、気をつけなければいけません」と言われた。
そのときから6週間エドワーダはまったく苦しみませんでしたが、私(ケイ)はその苦しみを耐えることができませんでした。…エドワーダの調子が良かった間、私はずっと具合が悪かったのです。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP94~
ケイは、(その方が聖母マリアだと思い)何度も聞いたが、その方に答えてもらえなかった。
その方は二色の違う色に光り始めた。私は色盲ですが、暗い色と明るい色が見えました。それは美しくて、声も心地よくて天国でも最高の天使かそうでなければ…
ある夜のこと、その方は
『私の息子。私が息子を育てたように、あなたはこの清められし子の世話をしなさい』とおっしゃいました。その方はエドワーダのことを『あなたの娘』とは言わずに、いつも『この清められし子』と呼んでいました。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP98~
(著者ダイアー)その方がおっしゃった「それを知らしめなければならない」という言葉の意味を聞いてみましたか
ええ、もちろん。あなたがいらっしゃる前にも、おたずねしましたが、
それを知らしめなければならないとおっしゃいました。ですから、AP通信が記事にしてくれて、とてもうれしかったんです。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP100~
マリア様は助けてくれる人を遣わしてくださいました。長年の間にいろいろな人たちが現れてはあれこれ手を貸してくれて、そして姿を消していきました。
あなたがたおふたりが来てくださって、本を書いたら、その著作権料をエドワーダの基金に支払ってくれると言ってくれたんです。…そのことで、あなたはマリア様に聞いてくださいとおっしゃいましたね。その夜、いらっしゃったのでお聞きしたところ、
「正しい者を遣わす」と私は言いましたね。そうです。彼らは正しい者たちです(…)。…彼らのやり方はすばらしいものになることでしょう」と話されました。
マリア様は恐れることはないとおっしゃったので、すぐにお二人に電話をかけたのです。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP101~
ある日、私を訪ねてきたご近所のメアリー・アンに昨夜の部屋の光は何だったのかと聞かれたことがありました。彼女はその光をアーク灯だと言いました。そして、前の晩に見たのと同じものがほしいと言うんです。…。マリア様が前の晩にいらしたまさにその場所で光を見たというんです。そこには電灯などはありません。彼女はきっとマリア様の光輪を見たに違いありません。」
「…。あの方とは普通にお話をします。他の人たちには私の話すのは聞こえますが、あの方の声は聞こえません。」
(ダイアー)「声に出してお話するんですね」
「ええ、そうですよ。友人が来ていたとき、みんなでお祈りをしていたら、急に私がお祈りをやめて、何かに向かって話し始めたそうです。あの方が現れると、他の人のことは目に入らなくなってしまうんです。話し終わると、またやめたところからお祈りを続けました」
「涼しいそよ風のような、本当に心が安まる感じです。あるときなど、友だちのメアリーが私がひとりでしゃべるのを聞いたのですが、他に誰もいないので、エドワーダに話しかけていると思ったそうです。…20分ぐらいのことだったそうです。…誰かがバラを持ってきてくれたのかと言いました。…彼女はバラの香りがすると言って、家の中を探していました。…。マリア様が発するバラの香りに気がつく人もいますね。気づかない人もいます。でも私のようにそのお姿を見たという人はいません。…光を見る人もいます。」
「(こんなに長い昏睡状態のままなのか)一度も理由を聞いたことはありません。…あの子が何のために苦しみを受けているのかということは、何度か聞いたことがあります。あの方はにっこりして、エドワーダが目覚めたら話してくれると言われました。…、『エドワーダは長い旅の話をするでしょう』とおっしゃいました」
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP103~
病気になる半年前に、ケイはエドワーダに
「お母さん、神様は私のことを怒っていると思う?」と聞かれた。
「だって、神様は私に修道女になってほしがっていると思うの」
何か神秘的な方法によってエドワーダは自分の運命について薄々と気がついていた。
ある日、ケイは何気なく、聖母マリアが彼女に言ったことの中で一番印象的だったことを教えてくれた。
あの方は、「このことが世間に知れわたり、エドワーダが目覚めるとき、世界にはあふれんばかりの愛があるだろう」とおっしゃいました。
おそらくエドワーダは世界変容のために重大な役割を果たしており、彼女の沈黙と苦しみから、人は愛の道という今とは別の道を見出さなければならないということを学んでいくのだろう。
その実践方法はさまざまで、…普通の感覚なら彼女は「病気」であり、…人生を無駄に過ごしていることになる。しかし、それがエドワーダが選んだ”愛の実践方法”なのだ。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP107~
ケイはこれまでの長い年月の間、ふくれあがる借金を抱えながら生きてきた。…
「マリア様にそのことをお聞きしたら、こうおっしゃいました。
『私の息子はあなたに考える頭を与えました。あなたは賢い人です。心の声に耳を傾けるようにすれば、必要なものは手に入ります』とおっしゃいました。
…あなたはいつも人に手を貸しているのだから、自分が助けを求めることは一つも恥ずかしいことではないとおっしゃいました」
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP112~
(ダイアーの妻マーセリン)宗教的指導者も自分の教会や寺院にいるよりもこの家のほうが神の存在を強く感じることがあると言う。それがどういうことか私にはわかります。
そこは特別な場所だということがわかりました。(訪問を終え帰るとき)私は感謝の気持ちでいっぱいになり、「ありがとう」という言葉が口をついて出てきました。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP128~
神に説明を求めることのない信仰。神から与えられたものを受け入れ、自分にそれだけの強さがあることを信じること。ウエインと私(マーセリン)はケイが身をもって示している信仰に驚きと称賛の気持ちを覚えずにはいられなかった。
夫妻も子供たちも「エドワーダと話をするのに言葉はいらない。心で話ができるから」
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP131~
(1992年の)あの秋の夜、聖母マリアがその姿を現したことによって、彼女(ケイ)は驚くべき信念と尽きることのない愛に加え、自分の人生にそれまで考えていたよりも大きな目的があることを感じ取った。
■ドクター・ルイス・チェイキンは長年にわたって診察し、一切報酬を求めなかった。
■1995年の初め、二人のスペイン系の女性の訪問を受けた。…妹の脳腫瘍を治すため南アメリカの寺院を回り、フロリダへ行けと言われ、今度は何度もマイアミに行くようにと言われた。そしてある夜、姉に「マイアミに行って病気の娘のいる女の人-その女性はマリア様に会ったことがあるとも-を探すように」というお告げがあった。それで、二人はマイアミ一帯を車で回り、スペイン語で話している教会を探し、聞いて回ったという。そしてケイとエドワーダを見つけだし、その傍らで祈りを捧げて帰ると、奇跡的に脳腫瘍が消えているとかかりつけの医療チームから診断をもらったという。
そして、お礼にとカーペットと家具を買い揃えて届けつつ、この不思議な話をしていった。
■エドワーダが病気になって以来、一時期ケイはクレジットカード32枚持っていて限度いっぱいの借り入れをしていた。自宅を抵当に入れて借金をしていた。無担保ローンにも手を出した。
マリア様が現れる直前(1991年)(?)、2ヶ月前、お金のことで絶対的なピンチに。、一心不乱に祈ったケイが必要とした金額ぴったりのお金を持った男が、しかも向かいの家の住人の目には見えないような男が現れ、全く不思議なタイミングで現れ、約束の日にに600ドルを払うことができた、という。
■ある日のこと、5色(ラベンダー、赤、ピンク、白、黄色)に咲くトゲのないバラの木が届けられた。後にマリア様はそれはみなが見えるように表に植えるようにと言われた。エドワーダが目を覚ましたとき、花の前で写真を撮ればいいと言われた。
■ハリケーン・アンドリューが上陸したとき、エドワーダのベッドのすぐそばの窓が割れ、ガソリン発電機がダウンし、家計は危機的な状況になった。それでも、家中雨漏りだらけでしたが、奇跡的にエドワーダの上には一粒の雨も落ちてきませんでした。
■ケイは生まれたときから色盲だった。聖母マリアがこれからは色を見分けることができるようになると言った後、検査をすると彼女は、どのテストにも合格した。
■ケイが教えた生徒が家に来て共に祈るようになった。この生徒の子供が嚢胞性繊維腫の子供をふたり抱えながらエドワーダの介護に熱心だった。ケイがマリアにお願いすると「彼らは大丈夫です。私とともにずっと祈ってきましたから」とおっしゃった。すると、子供たちは完全に治ることはなかったが、成長につれ症状が進んでいくのが普通だが、病状は改善されたという。
■この本の表紙の天使の絵はクリスティー・アリソンがエドワーダの物語を聞いてからスタジオで数時間のうちにデザインを仕上げてしまった。「この表紙(原書本P172に掲載)はどこからともなく浮かんできたみたい。こんなに早く、しかも苦労しないでできあがったのは初めてです。自分ではないみたいな感じがして、ただ私を通して流れ出てきたもののような気がします」
ケイは表紙の天使はエドワーダが幼かった頃にそっくりだと言ってきた。
彼女(アリソン)は驚き「この表紙は私がつくったんじゃない。私の中を通ってきただけよ」と言い続けていた。
『眠りながら奇跡を起こす少女』ウエイン・W・ダイアーP143~
まず、奇跡を知り、信じることには無限の力がある。そうすることによって五感を通して経験できる以上のものが人生には存在するということを思い出すことができるからだ。そうすることによって、一歩を踏み出そうとする者、あるいは少なくとも開かれた心と愛に満ちた心を持ってかいま見ることを恐れない者に、別の次元の現実があることをわからせることができる。
次に、「守護天使」はあなたを守り導いてくれる。こうしたすばらしい助けの手をさしのべてくれる存在に対して心を開くことができれば、私たちは道しるべを与えられ、天使たちが手をさしのべ、その意味を教えてくれる。
ケイが何度も言った言葉
「神様は私たちの手にあまるような試練を与えることはない」
エドワーダは眠りながら、無言のまま自分の使命を果たしている。
そこから学ぶべき教えをあなたのまわりにも広げていただきたい。そうすれば、あなたと交流のあった人たちは無条件の愛の効果によって、きっと力を得ることだろう。
あなたの人生に祝福のあらんことを。
エドワーダは、2011年3月27日で58歳に。反応するようになり、笑顔も見せ、覚醒に近づいているという。
アメリカ東部時間で毎月15日の夜の8時に、祈りの時間を儲けています。どうぞご参加ください。
* お祈りの方法はご自由に。お一人でも、お友だちの皆様とご一緒でも。ほんの短い時間でも、長い時間でも。ただ私たちと一緒に祈るだけです。
アメリカ東部は、只今、日本と14時間の時差があります。日本時間で言うと、16日の朝の10時です。
http://d.hatena.ne.jp/EdwardaOBara/
エイン・W・ダイアー博士が『 "A Promise is a Promise" 眠りながら奇跡を起こす少女(Word)』として出版 日本語版は2003年6月出版。私が偶然の必然、図書館で借りた日が2011.3.27(日) |
エイン・W・ダイアー博士が『 "A Promise is a Promise" 眠りながら奇跡を起こす少女』 |
| 2011.3.30. |
2012年の黙示録を書いた縄さんの「なわのつぶや記」 |
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| 2011.3.31 |
日本と言霊について
伯家神道の継承者であり、波動学というか言霊について詳しい七沢賢治氏、伯家神道のみならず、日本語の五十音の深い意味や、言霊(言語エネルギー)について、また客観視の重要性、伯家神道を理解する上で重要なキーワードだという「体感」。
七沢氏の師である高濱浩氏は伯家神道の行法を始めるとき、手の平を見せ、握る動作をされて「七沢さん、神をこの手でつかみたいですか?」と聞いたという。そして、この行法は「神をつかみ、神をたべる」ことであると伝えたという。さらに「おみち(伯家神道)は神が修行する」とも。
七沢氏は本当の意味で、すべては平等であるということを伝えたいという。
※私に許された時間があるかぎり、日本語と日本人としての特性について、そして今この時に日本人として生まれ生きていること、「日本が変われば世界が変わる、といわれる訳」について知りたいものです。
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| 2011.3.31 |
足立育朗(いくろう)と宇宙からのメッセージ『波動の法則』、20数年ぶりに再読。
・地球よりはるかに調和のとれた文化を持ち、この銀河系の知的生命体が住む、700億以上の星からの情報や他の銀河系からの各種情報の一部を報告し、あとは実現できるよう実行あるのみです。現在の地球にはいたずらに議論をし、時間を浪費している余裕がないようです。…
・来るべき素晴らしい真の宇宙時空間時代に間に合うよう、地球の人間の一人でも多くの方が、宇宙の法則の本質に気づき、一時も早く意識(と意志)の変換が行なわれ、行動をとられるよう、心を込めて愛の振動波を送らせていただきます。信じる必要も、説得される必要も全くありません。ただただ深く気づくのみです。新世紀のために。1995.11.8(まえがきより) |
足立育朗
宇宙からのメッセージ『波動の法則』 |
| 2011.4.4 |
古のネイティブアメリカン ホピ(平和の民)の長老ダン・エベヘマから全人類へのメッセージ http://hyla.jp/dan.htm より一部抜粋
ここに、あなた方に向けてメッセージを送る機会を得たことを、大変嬉しく思う。
ホピはこの喜びと悲しみに満ちた世界を祝福する。
私は、ヒンズーの兄弟たちが私たちと同じ気持ちを分かち合ってくれたことを喜んでいる。
多くの人々が同じ災難に直面しているのだ。
■これが、はるか1000年以上前にオールド・オライビ(この世の始まりの地)で創造主と私たちが出会ってから、私たちが通ってきた旅路の話だ。
その出会いの時に彼が残した予言こそが、第4の世界が破壊され、第5の世界が始まろうとしている今、現在のあなた方の身に起こる出来事に関するものなのだ。
彼はあなた方に降りかかる数々の出来事を予言し、すべては現実のものとなってきた。
それを見た私たちは、今こそが最後の警告と教えを全ての人類に明らかにしなければならない時であることを悟ったのだ。
■今日私は、ここホテビラの家から願いを届ける。
悪い噂話に明け暮れ、家族とさえいがみ合っている人々へ。
来る日も来る日も、盗み、戦争、嘘ばかりが繰り返されている全ての世界へ。
背を向け合っていては、何も解決しない。
戦争はまた新たな戦争を生み出すだけだ。
すぐ目の前まで迫っている恐ろしい清めの日から救われる方法は、
お互いを愛し合う気持ちと、大霊と母なる大地に心からの愛を持って、魂の安らぎの中に集うことしかない。
■世の中には、正直な人もたくさんいるはずだ。
私たちは心であなたとつながれている。
なぜならば、私たちこそが、「人類社会の祖父」であり、儀式において、何人もどんなものも決して忘れないように、あなたと生きとし生けるもの全てに祈りを捧げることを課せられているからだ。
私たちは、素晴らしい幸せな生活を祈り、穀物の豊作をもたらす、やさしい豊富な雨を祈っている。
私たちは、地球のバランスが保たれ、平和に暮らせるよう、また、これから生まれてくる子供たちのために美しい世界を残せるよう祈る。
今、あなたの助けが必要なのだ。
■私たちの前に立ちはだかるこの大いなる試練の中で、大切な役割をあなたが果たせるよう、神に祈りなさい。
地球に平和をもたらすため。
私たちホピは、今でも聖なる石版を守り、真の白い兄弟を待っている。
他にも、地上に創造主の平和を取り戻すため、真剣に取り組んでいる人たちがいる。
善き人でありなさい、我が子たちよ。
そして、平和と和合を見据えた善いことを考えなさい。
地上の全ての生命が平和でありますように。
家族や親族や国同士がお互い平和でありますように。
創造主のもとでなら、それはさほどむずかしいことではない。
住む場所や種族が違っても、私たちは毎日、同じ父なる太陽の愛の光を受け、母なる大地の恵みを受けているではないか。
結局、最後には私たちはひとつなのだ。
ホピ(平和の民)の予言
Hopi Survival
Guide
ホピの生き残るための智恵
-大地との調和と生命への祝福- ※http://hyla.jp/guide.htm より一部抜粋
1.箱船に乗ったら、創造主とマサウウに、あなた自身の誓約を立てなさい。
それはあなたの宗教を変えることではない。
箱船が創造主とのつながりを持つための働きをするからといって、特定の宗教の場ではないし、また他の宗教に優る宗教だと見なされることもない。
あなたは特定の宗教に加わる必要さえない。
神聖なる創造主を信じるだけで充分。
このメッセージは、永遠がどうこうとか、来世はどうとかいう類のものではない。
ただひとつ「生き残り」のためのものなのだ。
2.質素に生きよ。マサウウがそうするように。物質文明に溺れてしまってはならない。
3.自制しなさい。
4.自給自足しなさい。
ホピは長い経験から、環境というものは1年1年大きく変わりうることを知っており、毎年秋には翌年1年間充分に食べてゆけるだけの食料を備蓄する。
だからもし何か悪いことが起きても、大丈夫なのだ。
我々も予言にあるような災害に襲われた時に備え、家族が生き延るために充分の腐らない食物を備蓄しておかねばならない。
5.優先すべきものを、見直せ。注意深く選ぶのだ。
6.創造主の願いは、我々を救うことにある。ホピと共に世界を救おう。
7.心で思うことは、それを実行することと同じだと思え。
何かすることを頭に思い浮かべるのは、それを実際に行動におこすより重要な意味を持つこともあるのだ。
8.命を尊重し、環境を神聖なものと考えよ。
9.一連の儀式を通じて、箱船でダンスをすることがある。
10.12月の初めには、全世界のために祈りをささげよ。
この季節に行われるのは、翌年を迎えるために、気持ち、心の準備をすることなのだ。
この期間、あなたは世界と調和することになり、この時の意識があなたを包み込み、翌年のあなたの行動に影響を与えるのだ。
もし世界中の人々がこれを行えば、どれほど素晴らしいことになるか。
11.12月21日、他の人たちを「ホピの魂の箱船」に案内しなさい。
詳細はこちら http://hyla.jp/guide.htm
今日は多くの日本人のもう一つの新しい門出の日、4月1日もしくは4月4日です。
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| 2011.4.4 |
「エドガー・ケイシー療法」
エドガー・ケイシーのフィジカルリーディング全体を調べると、ケイシーが病気全般に対して、ある共通の治療原理を適用していることに気づきます。ケイシーの研究家たちはそれを四つの治療原理にまとめ、その頭文字をとってケア(CARE)と呼んでいます。
ケイシーの治療原理からすると、
■C (Circulation)-体液(血液・リンパ)の循環と神経の流れ
■A (Assimilation) -食べ物を消化吸収する同化作用
■R (Rest / Relaxation)-休息およびリラクゼーション
■E (Elimination) -老廃物などの体内毒素を排出する異化作用
これらの四つの機能が正常に働いているかぎり、私たちは健康を維持することができるわけですが、これらの一つでも不調をきたすと体の具合が悪くなり、病気を引き起こします。これらの四つが正常に機能するよう、ケイシーはさまざまな方法を提案しています。そしてケイシーのリーディングに基づく治療法はと呼ばれるようになっている。 |
マリー・エレン・カータ/ウィリアム・マクギャリー共著
『ケイシー・ヒーリングの秘密』(たま出版)-
http://edgarcayce.jp/
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| 2011.4.4 |
『がん哲学外来』の話 |
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| 2011.4.4 |
マヤの暦が予告しているように2012年の12月に、さまざまな次元が地球に固定されることになるでしょう。
これによって存在の背後にある神秘が明らかにされ、地球の一部はその時点までには破壊されているにもかかわらず、地球はまるで一夜にして花開いたかのような状況になるでしょう。
・・・・・あなた方が故郷である地球を尊重するようになるにつれて、地球のさまざまな神秘がつぎつぎに明かされ、あなた方を畏敬の念で満たすでしょう。
・・・・・新しい周波数が地球で完全に支配的になり、それによってあなた方の世界のひとつのヴァージョンが新しい周期へと飛躍し、もうひとつのヴァージョンは完全な終焉と破滅に導かれることになるでしょう。
マヤのカレンダーが終わっている2012年12月22日までには、極の変動のピークが来ることは確実で、その後、新しいサイクルが始まるかもしれません。
ケイシーは予言はあくまでも未来の可能性を示すだけであって、未来は確定しているわけではなく、人間の自由意志は予言を超える力を持っていると強調しています。
エドガー・ケイシー「人間の選択が予言に勝る」
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| 2011.4.4 |
船井幸雄の「生と死の真実を正しく知ろう」
私たちの故郷は、どうやら「あの世」らしい。そして私たちの本体は、霊魂=意識体である。この地球という学校へ勉強にきて、いま寄宿生活をしている。故郷へ帰りたがってはいけないから、学校へ入る前に一時的に故郷の記憶はみんな消去される。
この学校での生活は、制約があって、努力しないと非常に生活しにくいように仕組まれている。だから、誰もが、いやおうなく勉強する。…『船井.com 2011.4.4 』 |
『船井.com 2011.4.4 』 |
| 2011.4.7 |
コートジボワール:バグボ前大統領 権限移譲を拒否
西アフリカ・コートジボワールの武力衝突で、バグボ前大統領は5日、フランスが仲介する和平交渉に対し、反大統領派のワタラ元首相への権限移譲を否定した。仏テレビの取材に答えた。一方、仏のサルコジ大統領は同日、元首相に早急に新政府の組織を要請しており、仏軍の軍事介入で始まった紛争解決の試みは、前大統領退陣に向けて水面下で折衝が続いている模様だ。…(毎日JP)
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| 2011.4.12 |
野口嘉則と『3つの真実』
ゆるぎない自分の中心軸が定まっていること-自分の最も望むものは何か?
それを知らないがゆえに、起きるできごとに振り回され、感情や衝動に流されてしまう。
一番大切なものを大切にするためにはどうすればよいのか?目標や計画ができる。修正する。
目に見える結果によって、人から認められようとする限り、比較の世界にはまり込んでしまう。
行動の動機は愛か、怖れか。
愛に生きる。愛に生きるときに幸せに人とつながることができる。
自尊心=自分のことを価値ある存在として認め、尊重し、信頼する心で自分を満たす。
まず、自分と家族に対して愛を実践すること。優先順位をまちがえない。
その愛を身近な人たちに、周囲へと広げていく。
愛は言葉や態度で表現して初めて相手に伝わる。
相手に感謝の言葉や愛の言葉を頻繁に伝える。
①人間は肉体を超えた存在である。宇宙の無限の宝庫とつながった存在である。
万物みな我に備わる。
すべての人間は意識の深いことろでお互いつながっている。
意識の海のようなもの=集合的無意識(ユング)
細胞の数は3兆個、大人になると60兆個。
細胞1個に含まれる遺伝子には30億の化学文字で書かれた情報が入っている。
遺伝子には細胞の1個1個に全く同じ情報として組み込まれていながら、それぞれの細胞が全く違う役割を果たす。
遺伝子に書かれている人体の設計図は1000ページの本で1000冊分
設計者はサムシング・グレート、宇宙の意志
宇宙はあり得ないほどの確率で絶妙なバランスを保ちながら、生命が生きるのに最適な構造を維持している。
自分は宇宙から無条件に愛されている存在。
②人生は鏡の法則=自分の心を映し出す鏡である。
■心の底で認めたものが現実化する。-幸せを感じる。ツキがツキを呼ぶ法則
■心の波長と同類の出来事が引寄せられる。-引寄せの法則
与える気持ちで生きていく。愛を動機に行動する。
③感情は感じれば解放される。⇒感じて、気付き、味わう。
ネガティブな感情もそのまま感じ、解放し、思考を変え、「幸せな生き方」を保つ
過去の自分の感情を救出する。
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「3つの真実」の内面化ワーク(知ったことを心の深いレベルに落とし込み信念にまで育てる)として、日々実践する。1日24時間の1%≒15分(朝目覚めの時と夜就寝前が効果的)を確保する。
1)自分が宇宙とつながった偉大な存在であると感じる。
「私は宇宙の叡智とつながった偉大な存在だ。愛に満ち、喜びに満ち、生命力に満ちている。周りを幸せにする力と、この星に貢献する力にあふれている。
2)感謝できることを探し、心から感謝する。
3)自分が生活の中でどんなことを感じているかに意識を向ける。
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人生の遠大なる自分自身の意識による計画⇒選択は自由意志とサポート・メッセージ |
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| 2011.4.13 |
エドガー、ケイシーのリーディング
「Japan must go into the sea.」について
この言葉は20数年前に出会っていましたが、未曾有の東北関東大震災の大津波の映像と津波後に残された海岸線の土地の様子とちょっとした偶然とすれ違いからまた、急に気にかかるようになってしまいました。ケイシーのリーディングに関する本を近場の図書館で探しました。 |
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| 2011.4.18 |
ブルース・モーエンの死後探索3『純粋な無条件の愛』について
まさにちょうど読み始めたこの夜、私は思いがけない事故を引き起こし、家族をはじめ、沢山のかたのお世話になりました。JAFの到着を待たずして、見も知らないご夫妻の援けをいただき、どしゃぶりの雨の中で車を持ち上げて脱出させていただくことができました。
過ぎてしまえば、ごく普通の日常に戻ることができましたが、できるだけ沢山「気付き」「意識」を変えなければこの事故の意味がなくなってしまいます。申し訳がなくなってしまいます。
雨の中、車を止めてくださった皆様、本当にありがとうございました。 |
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| 2011.4.19 |
震災と発酵食品・酒醤油造り
男山本店
「津波を生き延びたこの『もろみ』は絶対に守る」――。被災した宮城県気仙沼市の老舗蔵元「男山本店」 が酒造りを再開した。ライフラインが途絶える中、地域の協力で水や電力を調達。5代目社長の菅原昭彦さん
は「気仙沼の地酒を造り続けることが復興につながるはず」と町の再建に懸ける思いを語る。
瞬時に有数の漁港都市をのみ込んだ津波は、国の登録有形文化財にも指定されていた老舗蔵元の店舗も破壊。 売り上げの大半を占める市内の小売店も軒並み流された。
菅原さんはやや高台にある近くの酒蔵に駆け込み難を逃れた。だが電気や水道などは壊滅状態。酒蔵のタンクには 約1500リットルのもろみを仕込んだばかりだったが、停電の影響で温度管理に必要な冷却機が稼働しない。 一時はもろみの廃棄も覚悟した。
だが、タンクに耳をあてると発酵して気泡がはじける「プシュップシュッ」 という音。音は日ごとに力強くなった。「津波に負けず、よく生きていてくれた。このもろみは気仙沼の復興を 願う自分たちの希望そのもの」との思いがこみ上げた。「これだけは絶対、酒にしてみせる」
杜氏(とうじ)らは車や酒蔵に泊まり込み、タンクに氷袋を巻いて発酵を見守った。菅原さんは知り合いの建設会社 や電気工事業者など地域の協力を取り付け、トラックや発電機を調達、新酒の搾り出し作業に備えた。
親や兄弟を失った社員もいた。「たかが酒のために続けていいのか……」。迷ったが、残った社員には 「会社のためでなく町の復興のために酒を造ろう」と訴えた。
被災から約2週間。ついにもろみが熟成、最終工程にまでこぎつけた。搾りたての新酒を味見した菅原さんは 「これまでで最高ランクに近い出来栄え」と目を潤ませる。
復興への道のりは容易ではないが、菅原さんは「全国に通用する気仙沼の地酒を造ることが、町の復興にも つながるはず」と決意を新たにする。そして、復興の願いがかなった暁には「被災した気仙沼の人たちと、
思う存分酌み交わしたい」。
酔仙酒造
おびただしい数の酒造タンクが、無残な姿でがれきの中に横たわっていた。土ぼこりに混じってかすかに漂う酒の香りがなければ、そこに酒蔵があったことは分からないほどだ。陸前高田市高田町の酔仙酒造。その年の酒造り終了を祝う行事のまさにその日、東日本大震災の大津波に襲われた。
「どうにもならない…」。壊滅した酒蔵の前で、営業部の和田浩之さんがつぶやく。がれきの中に看板商品「雪っこ」の缶が埋まっていた。同僚の佐藤充夫さんが、少しへこんだ缶を取り出し、静かにブロックの上に置いた。
同社は1944年、陸前高田市と大船渡市の造り酒屋8軒が一つになって誕生した。日本酒だけで年間約100万リットルを出荷。半数は北海道、首都圏など県外に流通し、中国にも進出している。
酒造りは通常10月から3月ごろまで。同社は県内で最も早く、お盆明けには雪っこを造り始める。毎年3月に酒造りを終える時には、杜氏(とうじ)や蔵人をねぎらう行事「甑(こしき)倒し」をする。今年は震災が起きた11日の午後4時から始めるはずだった。
地震が起きた午後2時46分、金野靖彦社長は会社の事務室で突然強い揺れに襲われた。石油ストーブに乗せたやかんの湯を足に浴びた。建物は何とか持ちこたえ、中庭に集まった従業員にすぐ帰宅するよう指示をした。
「津波が堤防を乗り越えた!」。防災無線から響く絶叫を聞き、中学生の時に経験したチリ地震大津波の記憶がよみがえった。自宅から駆け付けた妻陽子さん、社員の長男泰明さんと車で国道を山に向かい、逃げた。橋までたどり着き、振り向くと会社の辺りが海になっていた。
地震から2日後、高台から会社の方向を見下ろすと、約150本あったタンクは全て流されていた。
16日、地震後初めて会社の敷地に足を踏み入れた。がれきの中に酒瓶やケースが散らばっていた。空に向かって突き出た酒蔵の鉄骨に「酔仙(しかもラベル№1)」と書かれた四斗樽がひっかかっているのを見て、涙をこらえ切れなかった。だが再建への道をあきらめてはいない。幸いにも西に隣接する一関市に、15年間使っていない自社の蔵が残っている。やれることはやるつもりだ。「絶対再建できる」。そう自分に言い聞かせている。
(金野常務さんは『みのさんの朝ズバ』で「ただならぬものを感じましたた」と表現していた。「甑(こしき)倒し」をあと1時間早く始めていたら…。人が一番。人が助かったことにもただならぬものを感じたとも。とにもかくにもまず「11月上旬に出荷する」という目標が定まったという。2011.4.19)
⇒間借りしながらも、例年より2週間遅れで雪っこ1銘柄を販売にこぎつけた(2011.10.17)
新澤醸造店(伯楽星・愛宕の松)
社員全員無事。酒蔵は倒壊していないものの被害大。
びん貯蔵酒の被害大。
【宮城県 伯楽星・あたごのまつ 酒蔵に関するお知らせ】
宮城県では、水没した仙台空港が明日より再開され、東北新幹線も来月には復旧する見通しとの事です。
この1 カ月、皆様のご協力、励ましのお陰で蔵の復旧が早く進むことが出来ましたが、余震のたび、蔵中に砂埃が舞い、蔵が一層傾き、未来が欠けていく現状を見続けてきました。
補強でどうにかなる状態では無い事を理解しました。
何度も考えた結果、来季以降、現蔵での醸造継続は不可能と判断致しました。
現在、同土地に蔵を新設する他、様々な方法を模索し、来季の製造に間に合わせるべく1 分1 秒を大切に過ごしています。
3年前の岩手・宮城内陸地震では、被災時に精米機械を導入し、復旧だけでなく、品質向上を使命として、乗り越えてまいりました。
その気持ちは今回も変わらず、新設・移設・どちらにしても億単位の判断となりますが、「究極の食中酒」の品質を上げ、伯楽星・愛宕の松を造り上げていきたいと考えています。
※現蔵での酒造りは、5 月10~31 日の間で、危険ながらも、思い出ある蔵で最後の仕込を行い、次の造りまでの在庫を確保し、現状については幕を下ろす事を予定しております。
来季の酒造りに向けて、随時、正確な情報をご連絡させて頂きたいと思います。
今後共よろしくお願い申し上げます。
宮城県大崎市三本木
伯楽星・あたごのまつ醸造元
杜氏 新澤巖夫 http://blogs.dion.ne.jp/misora/archives/10090291.htmlより一部抜粋
割れた瓶を黙々と片づける、宮城・大崎市で酒造りを行う「新澤醸造店」の新澤巌夫さん。
新澤さんは「つらいですけども、とにかく前に進むために、この瓶を片づけていかなければいけないということです」と話した。
3月11日も、新澤さんは、搾りたての新酒が積み上げられた酒蔵にいた。
新澤さんは「あんまり覚えてなくて。すごく長かったような。でも、記憶にあんまりなかったりとか...。あまりよく理解できなかったです」と話した。
140年の歴史を持つ老舗酒蔵の蔵は、激しく損傷した。
いつ倒壊してもおかしくない状態で、従業員は、危険を承知でヘルメットをかぶって働く。
さらに、7割近い酒が割れ、出荷できなくなった。
しかし震災前は、この蔵から「きらめき」が生まれていた。
純米大吟醸「伯楽星(はくらくせい)」は、日本航空の国際線ファーストクラスの機内で提供されていた日本酒。
新澤さんは、タンクをのぞきながら、「これは開いていたので、土とか入ってしまったりとか、駄目なもろみなんですけど」と話した。
新澤さんが見ていたものは、「もろみ」と呼ばれる酵母とこうじ、水、蒸したコメをタンクで発酵させたもの。
「伯楽星」を造るには、フレッシュな若いバナナのにおいがする、もろみが必要となるが、震災後に新澤さんが見たもろみは、無残なものだった。
新澤さんは「心が痛みましたし。あふれ返って、海のような状態になっていた。その海のような状態のもろみが、すべて発酵している音が、蔵中に響き渡っていたもんですから」と話した。
しかし、タンクの中には、わずかに生き残ったもろみがあった。新澤さんは、残ったもろみを搾り、日本酒を造った。
新澤さんは「震災後に搾ることができまして、すごく感慨深いものというか...。ただあとは、これがきちんと蔵の味として出せるのかというのは、やはり甘えになってしまうので、いつもより厳しく、また選別していきたいなと思っています」と話した。
震災後にできた酒は、「伯楽星」として認められるのか。厳しい選別を行う、「利き酒」が始まった。
新澤さんは「今、12本ある利き酒のうち、出せるのは5本。なんとか出せるかなと」と話した。
地震を生き抜いたもろみで、震災後初めての「伯楽星」ができ上がった。
この日、再開した配達のため、街に出た新澤さん。
宮城を代表するブランドである「伯楽星」は、今、復興の明かりとなっている。
酒店の店主は「新澤さんのお酒を、とにかくこれからも頑張って、一緒に伝えていきたいと思っていますし」と話した。「伯楽星」が、東北の街を再び輝かす。
地震後にできた「伯楽星」は、ラベルが張られ、出荷を待つだけとなった。
しかし、この蔵での酒造りの終わりも近づいていた。
酒蔵の土台は、ひときわ損傷が激しい。
新澤さんは「この蔵自体も、ずっと140年続いてますので、ここでやりたい気持ちは一番なんですが、もう限界はとっくに超えてきたかなという」と話した。
140年続く酒蔵を維持させることは絶望的で、数億円規模に及ぶ建て替えなど、厳しい現実と向き合っている。
しかし、どんなにがけっぷちに追い込まれても、新澤さんは前だけを向く。
新澤さんは「今回の地震で、確かに損害は大きくあったんですけども、僕らのこの心が折れているわけでもまったくないですし、よりいっそう強い気持ちというのは、蔵人全員一致して持っていることなので。さらに飛躍させて、飲んでいただく方への満足感へと、きちんとつなげていけるように頑張っていきたいなと思っています」と話した。
八木澤商店
陸前高田市には、200年以上にわたって醤油や味噌を製造している老舗企業がある。八木澤商店だ。岩手県産の大豆や小麦を使った「生揚醤油」、陸前高田近郊の大豆やコメを使った「おらほの味噌」など、無添加の醤油や味噌で全国に根強いファンがいた。
品質に対する評価も高く、2009年の全国醤油品評会では、同社の醤油が日本一に相当する農林水産省の筆頭に選ばれたほど。白壁のなまこ壁と、店構えも創業1807年に相応しいものだった。だが、今回の東日本巨大地震によって、八木澤商店は工場もろとも瓦礫の山と化した。
「陸前高田は全滅しました。さっき、テレビの映像を見ましたが、私の家も、会社も、(かつて会長を務めた)酔仙酒造もなくなりました。もう終わりです」。
東京出張のため、奇跡的に難を逃れた八木澤商店の8代目、河野和義氏は電話先でつぶやいた。200年以上、営々と積み上げてきた生産機能は失われた。
「陸前高田にリーダー」がいると聞いて陸前高田に
八木澤商店の取材で陸前高田を訪ねたのは昨年3月のこと。陸前高田に行動力と決断力を併せ持つ地域リーダーがいると聞いたためだ。事実、河野氏は民間のリーダーとして太鼓の甲子園と言われている「全国太鼓フェスティバル」を立ち上げるなど、様々な街作りに取り組んできた。
「まっとうなものをまっとうに作る」。昨年3月にこう語っていた河野氏。その言葉を象徴するように、原価が7~8倍も違うにも関わらず、輸入の脱脂大豆でなく県内産の大豆を使い続けた。「搾り」も香りを重視するために、梃子の重石で時間をかけて搾り取る古くからの製法を取っていた。すべて、まっとうなものを作るためだった。
もろみにアミノ酸液を加えて熟成させる混合醸造方式や醤油にアミノ酸液を加えた混合方式が増える中で、もろみを長時間熟成させる本醸造にこだわったのも、熟成に2年の歳月をかけているのも、本物の醤油を作るためだ。
「本醸造は80度を超えると本当にいい香りになるんだよ。化学調味料や糖分が入っていると焦げ臭くなるが、本醸造だと焦げてもいい香りなんだ」。河野氏はそう言うと、実際にホットプレートに醤油を垂らした。辺り一面に、香ばしい醤油の香りが漂ったことを思い出す。
河野氏が原料や製法にこだわった醤油造りに取り組んだのは今から29年前、昭和57年(1982年)のことだ。その目的は技術を後世に残すためだった。初絞りは2年後の昭和59年。原価を無視して作った醤油だったため、贈答用として知り合いに配った。すると、「もっとほしい」「いくらなのか」という声がいくつも上がった。
「こんなの値のつけようがねえよ」。苦笑した河野氏だったが、試しに逆算してみると、一升3000円は必要だった。父親の7代目に相談すると、「昔は醤油一升と男の散髪代は一緒だった。お前はまともなことをしたんだよ」。この言葉に背中をされた河野氏は「生揚醤油」の商品化を決めた。
独自の醤油造りを始めようとした当時、「若社長の道楽」と思った工場長は反対した。確かに、当時は輸入産の脱脂大豆を使った醤油造りが全盛期。いかに早く、安く作るか。それが、醤油メーカーの当然の発想だった。国産原料を使用し、熟成に2年かけるという河野氏の構想に、不安を覚えるのも無理はない。
「ついていけない」。辞表を出そうとした工場長に、河野氏は粘り強く説得した。「今やらなければ、9代目、10代目に技術を伝承できない」。その言葉に打たれた工場長は職人魂を発揮。機械搾りを想定していた河野氏に、昔ながらの梃子を使った絞りを提案したという。
「まっとうなものを、まっとうに作れば自給率も上がる」。そう語っていた河野氏のモノ作りは丁寧だった。
八木澤商店はコロプラが認定した日本の逸品の1社。同社の醤油や味噌を買えばコロプラの「コロカ」がもらえるためだ。ものづくりに対する河野氏の哲学が広く理解され始めていただけに、店の消滅が惜しい。
河野氏は八木澤商店の永続と技術の伝承を願っていた。河野氏は自根キュウリを復活させるべく土作りに尽力していた。河野氏は陸前高田をもり立てるために半生をかけていた。だが、今回の地震と津波ですべて灰燼に帰した。その心中、筆舌に尽くしがたい。
3月14日時点の間接的な情報だが、家族は避難して無事という情報が入った。河野氏は陸路、愛する故郷に戻った。だが、河野氏が半生をかけた陸前高田は存在しない。自然に対して、時に人間は無力である。それでも、前を向き、歩を進めなければならない。生きている我々にできることはそれしかない。http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110313/218969/より一部掲載 |
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| 2011.4.22 |
大震災 津波から紙一重で生還 運命の岐路
多くの人命を奪った東日本大震災の巨大津波から紙一重で逃れ、あるいは、死のふちから生還を果たした人がいる。運命の分かれ道はどこにあったのか。迫り来る津波を前に、理屈では説明し難い生死の境目に立った人たちの体験談を集めた。
◎乗れなかった送迎バス、県道で巻き込まれる/国道から「水の壁」/宮城・山元
携帯電話から緊急地震速報を告げる警告音が鳴ったのは、路上教習の帰り道だった。
教習車を運転していた相馬市の専門学校生高山直樹さんは、小さな揺れを感じた。「地震ですね」と教官に声を掛けた途端に、大きな揺れに変わった。
「危ない。止めて」。教官の指示で道路脇に車を寄せた。揺れは3分ほども続いたように感じた。揺れが収まってから、宮城県山元町の自動車教習所に戻った。…
午後3時半ごろ、教習中止が決まった。教習生らは相馬市、角田市など行き先別に送迎バスに乗り込み始めた。
相馬市方面行きのバスに乗ると、職員に「 方向が違うよ」と言われ、降りるよう促された。バスには相馬市と同じ方角の福島県新地町から通っている人の姿があった。渋々バスを降り、相馬市へ向かうという教習車に乗せてもらった。
教習車は海岸線に近い県道を南下し、途中で国道6号方面に右折した。後方から来たパトカーに拡声器で「大津波警報が出ている。早く逃げてください」と呼び掛けられた。慌てて海岸線に目を向けると「水の壁」が見えた。
「先生、津波が来ています」。運転していた教官は国道6号沿いの少し小高い場所に車を止めた。建物の隙間から、津波に押し流されるがれきが見えた。…
乗り損ねた送迎バスは、海岸線に近い県道を走っていて津波に巻き込まれ、教習生らが亡くなったと聞いた。教習生、職員合わせて教習所の死者・行方不明者は40人近くになる。
バスに乗ろうとした時、なぜ職員は「方向が違う」と言ったのか。職員も行方不明という。
「 何かに導かれたとしか思えない」。それ以外の答えを見つけられない。(若林雅人)
◎一緒にいた母と祖母が犠牲に「2人が力貸してくれた」/陸前高田
震災から1カ月がたった11日。祖母が、その2日後には母も遺体が見つかった。…
「あれだけの津波だったのに、流されなかったんだ」。陸前高田市の会社員鈴木泰治さんは、少し意外だった。
地震発生時は、仕事で気仙沼市唐桑町にいた。避難した高台から見下ろすと、海の底が顔を出していた。「津波が来る」と直感した。
車を飛ばして自宅に戻った。祖母ニシエさんと母しげ子さんの手を引っ張って約100メートル先にある本丸公園に向かった。
途中、背後で黄色い砂煙が舞った。「バキバキ、バキバキ」。何かが家をなぎ倒す音がした。同時に、黒い水が見上げるような壁となって襲ってきた。とっさにニシエさんを抱えた。
しげ子さんは流されてきた軽乗用車に足を挟まれ、動けなくなった。そこに再び津波が押し寄せ、しげ子さんをのみ込んだ。
ニシエさんを抱えて陸地を探したが、がれきに引っ掛かって思うように泳げない。握り締めていたニシエさんの襟が破れ、離れ離れになった。
水から顔を出そうとしても、がれきが邪魔をして息が吸えない。 「もう駄目だ」。力が抜け、体が沈み、意識が薄れた。波の中を約200メートル漂い、愛宕神社まで流されたようだった。「 自分は助かったのか」。現実感はなかった。
…悲報は友人が知らせてくれた。13日に2人の火葬を済ませた。生き残った者の責任を果たせた気がする。
平たん部が津波でほぼ全滅した陸前高田市。死者・行方不明者は2000人を超える。自分が助かった理由は分からない。単なる運か。そうではなく、2人が身代わりになってくれたのか。「悲しいけど、 2人が力を貸してくれたと考えた方が救われる」
身辺整理が一段落したら、救援物資を運ぶボランティアに参加する予定だ。「このまちが好きだから、少しでも復興に力を尽くしたい」。拾った命は、人のために使う。(宮崎伸一)
最終更新:4月22日(金)6時13分 河北新報
□3月11日の地震発生時、仙台市内で仕事中だった西條さんは、海辺にある水族館の様子が気になり、車で松島町に向かった。過去の経験から、警報が出てもさほど大きな津波は到来しないと思っていたが、「高さ10メートル」と伝えるラジオに危機感が募った。
停電で信号の消えた幹線道路は大渋滞。同県多賀城市内で身動きできずにいた時、ショッピングセンターの屋上に避難した人々が車列に向かって「逃げろ」と手を振る姿が見えた。その数分後、目の前の車が横転し、視界から消えた。
西條さんの車は近くの木に衝突して停止。天井付近まで水が入ったが、割れた窓から脱出して車の屋根にしがみついた。車ごと漂流した後、民家の屋根上に飛び移った。約1時間後、近くの民家の2階に引き上げられた。生後数カ月の子を抱えた母親らも同じように避難しており、震えながら翌朝まで救助を待った。 毎日新聞 最終更新:4月14日(木)10時50分
□「津波で押し流されそうになり紙一重で助かった命。今度は被災地の人たちの手助けを」。
東日本大震災の津波被害を受けた仙台空港(宮城県名取市)に3日間取り残された大阪の男性会社員が、宮城県内の避難所を訪れ、「心も体もホカホカになってほしい」と、焼き芋を配った。…
男性は、サツマイモを加工した菓子店を全国展開する白ハトグループ(大阪府守口市)の営業社員、高田隆彦さん。3月11日、仙台市内の得意先との商談を終え、昼食をとろうと空港ビルにいたとき、大きな揺れに襲われた。…
その直後、サイレンが響き、「大津波警報が出ました。3階まで上がってください」と空港職員らが拡声器で叫んだ。3階へ上がって数十分後、東の海岸から白い帯のような津波が防風林のはるか上を越えて押し寄せた。
津波のしぶきとともに、周囲の民家や車がゴロゴロ転がるように迫ってきた。空港ビルも、津波で流された家などが次々とぶつかって揺れ始めた。「津波は、瞬く間に目の前を通り過ぎた。ものすごい速さだった」と高田さん。滑走路はがれきが流れる大河のように一変した。
ビルの1階が浸水。千人以上が孤立し、停電したビル内で2晩過ごした。みやげもの店にあった菓子などで空腹をしのぎ、貨物梱包(こんぽう)用のクッション用ビニールを体に巻いて寒さを防いだ。大阪に戻ったのは14日だった。
勤務先が焼き芋を被災地に届けることになり、19日には…小型トラックで同僚と一緒に再び被災地へ。…避難所を4日間回った。
焼き芋を温めるには30分以上かかるため、避難所では1本ずつ手渡しで配るつもりだった。しかし「温かそうなにおいにつられて並びにきた」と被災者は笑顔で列をつくった。「私も仙台空港で…」と話しかけると、被災者から「助かって本当によかったね」と励まされたという。
「 震災当日、あと30分商談が長引いたり、空港に行く前にどこかで昼食をとったりしていたら、自分も津波に流されていたかもしれない」と高田さん。「これからも被災した人を応援したい」と話した。 産経新聞 4月6日(水)0時32分配信
■危険を省みず職務につき最後まで全うされた方、壊れた屋根に乗って海を漂流中に通りがかった船に奇跡的に携帯電話の灯りに気づいてもらい助かった方、出産が早まりそのタイミングで赤ちゃんとお母さんはもとより、家族が助かった方…被災された方々には命の数だけ、大なり小なり運命の岐路があったようです。
私たちはどこにいても皆「 宇宙船地球号」の上にいて、今日もそれぞれのテーマで「 命の学び」をしているのではないでしょうか?
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| 2011.4.22 |
世界で最も影響力のある100人のうちの2人の日本人
アメリカの雑誌「タイム」が毎年発表する「世界で最も影響力のある100人」に 東日本大震災の被災地から日本人2人が選ばれた。
■南相馬市の桜井勝延市長はインターネットの動画サイトを通じて福島第一原発の事故での日本政府の対応を批判し、屋内退避措置などの影響で物資が届かなくなった市の窮状を訴え、反響を呼んだ。タイム誌は「彼の訴えは、能率の良さで知られる日本が、なぜ最も弱い立場にいる市民の力になれなかったのかを考えさせた」としている。
■宮城県南三陸町にある志津川病院の菅野武医師については、津波が迫る中、多くの入院患者を上の階に避難させ、救助を待ちながら診療を続け、(※最後に救出された)としている。数日後長男誕生!!(22日12:50)
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| 2011.4.22 |
アメリカ合衆国と福音派の影響力についてテレビで取り上げていた。
・聖書と「進化論より創造説」を信じている人が全米で30~40%とも
・学校教育を拒否し独自の学習プログラムを作成、使用する子どもが全米で100万人とも
・CMのない宗教的な内容ばかりを放送するテレビ局を持っている。
・大規模教会もあり、若い人も多く集め、寄付金も多く集めている。 |
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| 2011.4.26 |
今年の4月はチェルノブイリ25年、福島元年
1986年のチェルノブイリ原発4号炉爆発事故から満25年がたつ。
それでも今なお続く放射能汚染を封じ込めるための対策が、今計画されているという。
ひまわりや菜種の栽培によって汚染物質を吸い上げ、土から汚染物質を少しでも早く除去しようという試みもしているとのこと。(2011.5.14ウェークアップ)
そして、それでも自身の体への影響を感じながらも、そこに住み続ける人たちがいます… |
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| 2011.4.21~26 |
ユッケで食中毒死
4月 - 焼肉酒家えびす砺波店(富山県)および福井渕店(福井県)において、21日から26日にかけて焼肉やユッケなどを食べた6歳から70歳の24人が食中毒症状を発症して医療機関を受診し、28日までに24人が入院、2名の男児がO111で死亡した。入院患者の中にはO157が検出された人もみられた。 |
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| 2011.4.28 |
アセンションについて |
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| 2011.5.2 |
ビンラデン氏殺害を米国が発表
・米国は、元々親米家だったビンラディン氏を殺害した。
・イスラムの世界の考え方を認めるどころか、敵にし、テロリストというレッテルを貼って彼を追い詰め殺害した。9.11の真相とは何だったのか。
・ブログ等では「またしても米国の自作自演の可能性が強いなと感じた。」という説も。
・憎悪や憎しみの連鎖がはじまらないことをただただ祈るのみ。
・キリスト教の真理だけが世界の価値観ではないし、正義というものも、アメリカの正義と、イスラムの正義とは違っているのではないだろうか。
宗教や民族により価値観が大きくくい違うことは当然ながら、あまりに排他的では、永遠に争いはなくならないのではないか。
・そんな中で非対立で人類共通の価値観となり、人類共通の理解ができることというのは「超宗教」であり、「循環可能な経済活動」なのではないだろうか。
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| 2011.5.13 |
中部電力浜岡原子力発電所 4号機が運転停止
中部電力浜岡原発(御前崎市)の4号機が13日、止まった。5号機も含めた全面停止が近づく中、帰路に就く協力企業やグループ会社の社員は「転勤かも」「止めなくてもいいのに」と先行き不安や複雑な思いを口にした。一方、地元自治体などからは地域経済や雇用への影響を懸念する声があらためて上がった。(中日新聞より)
東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、定期検査の終了予定を過ぎてもなお、営業運転再開を延期している原発が7基にのぼっている。
今夏までに6基が定期検査に入る。再開できなければ国内の商用原子炉54基のうち、停止要請を受けた浜岡原発をはじめ42基が止まる事態になり得る。火力や水力も含めた全電源の約2割で、夏の電力供給が各地で切迫する恐れもある。
稼動を続けるのは12基(54-42=12)となる。 |
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| 2011.5.15 |
プライベートでちょっとした話し合いの場がもたれる。
予定していたテーマでの話し合いはほとんどできず、根本からの問題の理解と落とし所を考えなおすことから始めることに。
祈りと瞑想の時間も大切。この5年間、大切にしてきた。
現代社会ではいかにセルフ・スルー・アイデンティティー「ホ・オポノポノ」が大切か、をあらためて感じた。「ごめんなさい。許してください。ありがとう。大好きです。」
解決には「ホ・オポノポノ」と少人数でのコミュニケーションと時間が必要。 |
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| 2011.5.22 |
アイスランドで空港閉鎖
ロイター通信などによると、アイスランド南東部で21日夜、火山が噴火した。噴火による火山灰の影響で首都レイキャビクのケフラビク国際空港が22日、閉鎖された。
同国では昨年4月に別の火山の噴火で火山灰が広範囲に広がり、欧州の航空網がまひ状態になった。 |
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| 2011.5.24 |
図書館でルース・モントゴメリーと『来るべき世界』を借りる。
なかなか集中できない。何度も何度も開く。 |
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| 2011.5.24 |
菅首相、G8サミットへ出発
菅直人首相は24日夕、東日本大震災後初めての外国出張となるフランス、ベルギー訪問のため、政府専用機で羽田空港を出発した。26、27日(現地時間)に仏ドービルでの主要国首脳会議(G8サミット)に出席し、震災と福島第1原発事故で各国から受けた支援に謝意を表明。原発の安全性向上に取り組む日本の立場に理解を求める。(毎日JP)
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| 2011.6.2 |
地球の(ポール)シフトとアースチェンジ、アセンションと2012年以降の『来るべき世界』のまとめ
フォトン・ベルトについては??のまま
テレビ各局での「菅内閣不信任案」否決に至る顛末についての報道の仕方を比べる。 |
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| 2011.6.4 |
チリ南部火山の噴火
・4日、チリ南部のプジェウエ(Puyehue)火山(標高2240メートル)が半世紀ぶりに噴火した。
・海外メディアによれば、噴煙は上空10kmまで舞い上がっており、3500人以上の人が避難したという。また、火山灰はアルゼンチンまで到達するなど、多くの人たちを現在もなお恐怖の渦に巻き込んでいる。
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| 2011.6.5・6・7 |
「来るべき世界」のイメージとより具体的な「想いと言葉と行動」について |
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| 2011.6.7 |
ハトホルの書より
■他者に癒しのエネルギーを与えようとするとき、 ヒーラーは前もって自分のエネルギーや感情の状態をチェックすること。
■そしてヒーリングのセッションを終えたあとも、ヒーラーは自分自身のエネルギーレベルをチェックし、ヒーリングによってレベルの高さが影響されておらず、エネルギーを少しも失っていないことを確認すべき。
■ヒーラーは自分自身の活力である「カー」への気づきを養う必要がある。
また、エネルギーを受けとるためにお互いが物理的に近接している必要はない。
そうした行為は何千キロ離れていても可能。
人へのヒーリング・セッションの最中にヒーラーが自身の活力をモニターできる技能というのは、かなり高度なレベルの熟達が求められる。
※「カー」とは -この物質的エネルギー場とかさなりあって存在しているのが、二番目のエネルギー場、すなわちわたしたちが「カー(Ka)」と読んでいるもの。
・「プラーナ体」- プラーナとは、古代からの伝承を受けつぐヨギたちが、「酸素のなかに存在する生命維持に不可欠な力であるが、酸素と呼ばれるものとは異なる」と解いている。
・プラーナは広大な植物繁茂域や水流域において増強する。
・生命力であるプラーナは、肉体と「カー」つまりプラーナ体の両方に浸透している。
・この「カー」は、実際に物質的エネルギー場の最初のレベルである肉体のすみずみまでゆきわたっている生命力の源 |
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| 2011.6.10 |
ワシントンで38度超
アメリカでは熱波の影響で北東部を中心に猛暑が続いており、首都ワシントンでは9日、最高気温が38度を超え、6月としては137年前の過去最高と並ぶ暑さとなりました。
アメリカでは、南西部から暖かい空気が流れ込んでいる影響で、今週、北東部を中心に記録的な猛暑となっている。首都ワシントンでも気温がぐんぐん上がり、9日午後4時には38度9分を記録。これは、6月としては137年前の1874年に観測した過去最高の気温に並ぶ暑さ。
…シカゴから観光に訪れたという男性は、「今すぐプールに飛び込みたい気分です。日陰を探しながら歩いています」と話していた。9日は、同じ北東部のニューアークで38度9分、ボルチモアでも37度8分を記録し、いずれも記録的な猛暑となっている。アメリカの気象当局によると、10日から徐々に暑さが和らぐところが出てくるということですが、なるべく屋外での活動を控えるよう呼びかけている。(NHKニュース 6月10日 8時17分)
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| 2011.6.13 |
イタリアで国民投票
・【ローマ藤原章生】イタリアで12.13の両日、将来の原子力利用の是非を問う国民投票があり、12日午後10時(日本時間13日午前5時)時点で投票率が41%を超えた。投票成立には「有権者過半数の参加」が必要で、地元メディアなどは過去の国民投票の動向から、初日の投票率が3割を超えるかどうかが焦点とみていた。国民の多くが東京電力福島第1原発事故で原発に嫌悪感を示しており、同事故後世界初の国民審判による「原発拒絶」が濃厚となった。
・国民投票で問われたのは、原発のほかに、水事業の民営化と首相ら要職者の公判出廷免除など。投票は13日午後3時(同午後10時)に締め切られ、即日開票される。
・原発をめぐってはドイツ政府が今月、2022年までの原発全廃を決めたが、イタリアには現在、原発がない。87年11月、原発建設地を自治体ではなく国が優先的に決めることなどの是非を問う国民投票で拒否され、稼働中の全原子炉が90年までに閉鎖された。
・今回の投票は、ベルルスコーニ政権が08年の就任以来、フランス政府などの協力で20年の稼働を目指し今年5月に制定した「原発再開法」に反対かどうかについて、「はい」(原発建設反対)か「いいえ」(法令の維持)を選ぶもの。
・投票の実施は、野党議員や住民による署名、申請で今年1月に決定。事前の世論調査では「原発推進」派が過半数を占めたが、3月の福島原発事故で「原発嫌悪」のムードが一気に広がった。
このため、原発を再開したいベルルスコーニ首相や右翼政党「北部同盟」のボッシ党首ら政権重鎮は棄権を表明し、支持者に投票に参加しないよう呼びかけてきた。イタリアは全電力の約7%をスイス、フランスから輸入。電気料金は欧州一高く、原発先進国のフランスより8割高い。
毎日新聞 2011年6月13日 11時39分(最終更新 6月13日 12時08分)より抜粋
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| 2011.6.21 |
土砂災害への警戒続く=西日本で激しい雨 6月21日(火)8時23分配信
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| 2011.6.24 |
豪暑と熱中症
厚生労働省は2011年6月24日、昨年2010年における熱中症による死亡者が1718人に達し、熱中症周りの統計を撮り始めた1964年以来最大値となったことを発表した。
これまでは2007年の904人だった。発生場所では「家の中、家の庭」がもっとも多く45.6%、世代構成別では60代以降で人数が急増する傾向が見受けられる。
2010年は「豪暑」と表現しても良いほど(※気象用語として「豪暑」は無い)の猛烈な暑さを記録したが、熱中症による犠牲者も暑さに伴う形で増加する形となってしまった。
今日、埼玉県・熊谷で39.8度(6月としては観測史上最高)を記録 |
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| 2011.6.25 |
ウェークアップと94歳現役の肥田舜太郎医師
・穏やかな表情、若々しいお顔で広島の原子力爆投下後の一般市民の健康への影響について語った。新陳代謝などはその人がもつ精神力や生き方などによって多大な影響があるという。
・WEBで初めて彼の講演記録を読んで驚いた。
・肥田舜太郎(1917年生まれの内科医-94歳でも現役)の運命と使命
・原発なしで暮らしたい |
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| 2011.6.29 |
猛暑列島
本州や中部地方は梅雨入りするも、集中豪雨は降ったが全体としては降水量が少ない。
日本列島は29日、晴れ間が広がり、西日本や東日本、北日本の太平洋側で気温が上昇した。
74地点で35度以上の猛暑日、511地点で30度以上の真夏日となり、いずれも今年最多を記録。東京・大手町では今年初の猛暑日となる35.1度を観測し、各地で6月の最高気温を更新した。 |
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| 2011.7.1 |
37年ぶり電力使用制限令発動、大口電力使用家に対して15%義務付け
・東日本大震災後の電力不足を受けて、政府は7月1日、東京電力、東北電力管内にある大規模工場など大口電力需要家に対して昨年比15%の節電を義務付ける電力使用制限令を発動する。
・第1次石油危機があった昭和49年以来37年ぶりの発動で、不測の大規模停電を防止するのが狙いだ。これに合わせて東電と東北電は30日以降、翌日や当日の電力需給についてより詳細な見通しを発表し、利用者に一層の節電を促す。
・政府が電力使用制限令を発動するのは、震災で被災した東電、東北電管内の原子力発電所が停止し、電力の供給力が著しく落ち込んでいるからだ。
東電管内では29日、電力需要が震災後最大の4570万キロワットに達し、最大供給力の4900万キロワットの93%を超えた。需要が供給を超えれば、不測の大規模停電を引き起こす恐れがある。
・東電は7月末までに震災で停止した火力発電を復旧させるなどして、最大供給力を5520万キロワットまで引き上げる方針だ。しかし昨年夏は、7月20日に電力需要が5700万キロワットを超えており、「節電が不可欠」(経済産業省幹部)な状況にある。2011.6.30 06:10 MSN産経ニュース
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| 2011.7.4 |
原子力発電所(以下「原発」という)について
原発所数は54基-アメリカ、フランスに次いで第3位
東日本大震災で停止した原発は11基。
原発の実験は1950年代~米ソを中心として人体実験も含めて行われてきた。
『原発ジプシー』(げんぱつジプシー)について
日本のフリーライターである堀江邦夫が1979年に発表したノンフィクション。
・日本において原発の定期点検時には、原発を運転する電力会社の正社員ではなく関電プラントなど原発の保全業務を担当する会社の下請け企業に一時的に雇用された労働者が、点検業務にあたる。
・ノンフィクションライターである堀江は1978年9月から翌1979年4月にかけて、実際に労働者として原子力発電所での作業に従事した。
・美浜原発(関西電力)、 福島第一原発(東京電力)、敦賀原発(日本原子力発電)で就労した経験をもとに彼ら労働者をジプシーになぞらえて「原発ジプシー」と呼んだ。
・1984年には文庫版の発刊に伴い加筆が行われ、2011年には、本文中堀江以外の人物に関する記述の多くを削除し『原発労働記』と改題して発刊された。
なお、1979年に初版を出した現代書館からも、2011年5月『原発ジプシー』〔増補改訂版〕として復刊されているが、こちらはノーカットで収録・加筆されており、さらに、文庫本の『原発労働記』では削除された1984年文庫版への「あとがき」も収録されている。
・文庫版のあとがきによれば、出版後に反響として300通以上の手紙が寄せられた。また、電力会社が本書では仮名であった登場人物の本名を割り出そうと「血まなこになっている」との後日談が、かつての同僚からもたらされてもいる。
著者の問題提起
・給与のピンハネ-日当15000円に対し、本人5500円、
・労働災害-筆者が作業中に3週間の怪我を負った際には、事故を隠したいなどの理由により、雇用した下請け会社の安全管理者より、治療費を会社で負担し休養中の給与も補償するとの申し出を受けている。
・労働者の被爆-労働者の放射線被曝を防ぐ意識が低かった頃は、人手が足りなければ放射線管理教育もせずに放射線管理区域に労働者を入れて被曝させるなど、放射線の管理が杜撰であった例。
・外国人就労者-ゼネラル・エレクトリックの労働者が日本に来て福島原発の修理をしたり、敦賀原発など他の原発でも就労している事例。
外国人労働者には日本人労働者より高い数値にセットしたアラームメータを与えられ、1日に700ミリレムを被曝するものの数日で交代する例もあった。給料は非常に高額であったが、彼らの出身はスラム街であったり、刑務所を出た者であったりしたと言われていた。計画線量が日本人労働者の10倍であった事例も。
山岸涼子 『パエートン』 http://usio.feliseed.net/paetone/
肥田 舜太郎
・肥田氏は、28歳の時に広島で軍医として自らも(宿命的に?)被爆しながら、多くの被爆者の医療、救援活動を続けてきた。
・世界各国を回って被爆について語り継ぎ、特に内部被曝の問題についても追求してきた。
・現在、94歳ながら講演や翻訳の活動を続けている。
菅谷 昭(すげのや・あきら)
現・松本市長
25年前のチェルノブイリ原発事故の後、ベラルーシに渡り、5年半現地で甲状腺がんの子どもの治療にあった外科医。 |
森住 卓
『楽園に降った死の灰 マーシャル諸島』
『ムスタファの村 イラク共和国』
『六本足の子牛 カザフスタン共和国』
『原発ジプシー』
堀江 邦夫
山岸涼子 『パエートン』
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| 2011.7.9 |
南スーダン誕生
・時事通信 7月9日(土)6時2分配信
【ロンドン時事】スーダン南部が9日午前0時(日本時間同6時)、スーダンから独立し、新国家「南スーダン共和国」が誕生した。
・新大統領の下、豊富な石油資源を生かし、新国家の構築を目指す。
・アフリカの独立国誕生は1993年のエリトリア以来。
・南スーダンは面積約60万平方キロ、人口は850万人。主流派はキリスト教徒で、イスラム教徒の多い北部スーダンからの独立を求めていた。
・2005年からは北部側との包括和平合意(CPA)に基づき、6年間にわたる暫定統治が行われていた。
・大統領には、現在スーダン南部自治政府で大統領を務めるキール氏が就任。同氏は北部側との内戦に早い段階からゲリラとして参加したとされ、CPA締結まで戦闘を指揮するなどしていた。
・南スーダンは今後、速やかに国連に加盟する方針。国連安保理は加盟を推薦する決議案を13日にも採択する見通しという。この決議が国連総会で3分の2以上で承認されれば、193番目の加盟国になる。
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| 2011.7.15 |
放射性物質:セシウム汚染牛肉9都道府県流通
福島県南相馬市の畜産農家が出荷した黒毛和牛11頭から暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された問題で、同じ農家が出荷した別の6頭の牛肉が5都府県の食肉販売・卸売業者に販売されていたことが東京都の調査で分かった。
さらに少なくとも9都道府県に流通し、148キロ以上が小売店などで売られたが、厚生労働省は「継続的に大量摂取しなければ健康に影響はない」としている。
流通が確認されたのは、北海道、東京、神奈川、千葉、静岡、愛知、大阪、徳島、高知の各都道府県。
静岡市保健所は11日、市内の業者が27.8キロの肉を仕入れ、残っていた肉から1キロ当たり1998ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表。一部は飲食店などで客に出されたという。東京都によると、都内の卸売業者が保管していた肉から、最大で暫定規制値の6.8倍に当たる3400ベクレルが検出された。
大阪府も11日、2頭分の肉が府内を中心に流通していたと発表。うち数キロ分が贈答用として消費された可能性があるという。横浜市では小売店で52キロ分が販売された。愛媛県によると、17.6キロ分が県内の業者を通じて高知、徳島両県のスーパーに送られ、販売されたという。愛媛県内での流通は確認されていない。
◇餌の稲わら7万5000ベクレル (毎日JPより一部抜粋)
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| 2011.7.17 |
なでしこJAPAN 日本が初優勝 米国をPK戦で振り切る
【フランクフルト共同】サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会最終日は17日、フランクフルトで満員の4万8817人の観衆を集めて決勝を行い、国際サッカー連盟(FIFA)ランキング4位の日本は2―2からのPK戦で同1位の米国を3―1で振り切り、初優勝した。
6度目の出場で初めて決勝に進んだ日本は1点を追う後半36分に宮間(岡山湯郷)のゴールで追い付き、1―2の延長後半12分にも左CKから主将の沢(INAC)が同点とした。PK戦ではGK海堀(INAC)が1、3人目を止めた。米国は3大会ぶり3度目の世界一を逃した。
・PK勝ちは記録上は引き分けとなるため、米国との通算対戦成績は4分け21敗。沢は5ゴールで得点王になり、最優秀選手にも選ばれた。
佐々木則夫・日本女子代表監督の話
(PK戦では)意外に冷静だった。ここまでくれば十分だから。本当にびっくり。ちっちゃな娘たちが粘り強くやってくれた。
写真:米国を破り初優勝を果たし、トロフィーを掲げて喜ぶ沢(中央)ら日本イレブン=フランクフルト(ロイター=共同通信より抜粋)
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| 2011.7.18 |
碌山美術館
いわさきちひろ
諏訪大社
片倉館 感動でした!! 話は続きました。 |
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| 2011.7.20 |
自転車並みの速度、台風6号各地で記録的大雨 西日本では被害拡大
・大型で強い台風6号は県内への上陸はなかったものの県内全域を25メートル以上の暴風域に巻き込みながら通過した。
・20日、記録的な豪雨に見舞われた馬路村では降り始めからの総雨量が1199ミリに達した。同日午前7時までの総雨量(72時間雨量)と、19日の24時間雨量も851・5ミリを記録し、いずれも全国の観測史上最大記録を更新した。四万十市では増水した四万十川に流された男性が死亡したほか、女性2人がけがをした。道路崩落や農作物、漁業にも被害が相次ぎ、県内各地に大きなつめ跡を残した。(毎日JPより一部) |
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| 2011.7.21 |
『ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ』トム・ケニオン、ヴァージニア・エッセン著 ナチュラルスピリット社
少し前に『ライトボディの目覚め』を読んだ。
タイトルにあるように「ハトホル」と呼ばれる集合意識からのメッセージが書かれている。ハトホルとは古代エジプトにおける天空・豊饒の女神の名であるが、本書での「ハトホル」とはハトホル女神そのもののことではなくハトホル女神を通して古代文明から影響を与えてきた存在のことである。彼らは既にアセンションを経験した存在であり、今まさに私達人類がそのアセンションの真っただ中にいるため、必要と思われる情報を提供しアドバイスをしてくれている。
大変謙虚で思いやりのある口調だと思った。
あまり有名な本ではないのではないか?だが、私の心にゆっくりと入って来るものがあった。
・まさに読むべき、出会うべきタイミングで読んだと思えた。 |
『ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ』
トム・ケニオン、ヴァージニア・エッセン著 ナチュラルスピリット社 |
| 2011.7.22 |
中国の各地:真夏の雹で被害(2011.07.12) 2人死亡、数万人が被災
テレビのニュースで聞いた覚えがあった。正確な情報が知りたく、検索してみた。
中国の河北、内蒙古、吉林、山東各省・自治区の広い範囲で雹による被害が発生、数万人が被災、2人が死亡した。
○河北省
人民政庁は、保定市と張家口市内の4県で10日、雹災害が発生したと発表。12日午前9時の時点で、被災者は約3000人に達し、1人が死亡した。また、農作物の被災面積は約300ヘクタール、うち約100ヘクタールは収穫ゼロの被害が発生した。直接経済損失は400万元を上回った。
○内蒙古自治区
8日から10日にかけて、赤峰市、フルンボイル(呼倫貝爾)市、ヒンガン(興安)盟の9県(市、区、旗)が次々とヒョウによる被害に見舞われた。12日午前9時現在での被災者は2万8000人で、110人が緊急疎開した。農作物の被災面積は6200ヘクタールで、うち1300ヘクタールが収穫不能となった。直接経済損失は約2700万元に上る。
○吉林省
吉林市舒蘭市、延辺朝鮮族自治州和竜市、白山市大源区の各地でも、8日から10日にかけてヒョウ災害が発生した。12日午前9時の統計データでは、被災者は1万2000人、農作物の被災面積は2900ヘクタール、うち700ヘクタールあまりが収穫不能。直接経済損失は3000万元以上に上る。
○山東省
東営市東営区、濰坊市、浜州市鄒平県、莱蕪市鋼城区などが雹による被害を受けた。12日午前9時時点の被災者は1万5000人、1人が死亡した。農作物の被災面積は約400ヘクタール、100棟以上の住宅が倒壊、直接経済損失は2800万元あまりに達した。(2011.07.12中国新聞社)HPより転載
2011-04-18にも珠江デルタで大風豪雨雹 18人死亡
・広東省気象局によると、広東省珠江デルタ地域で17日正午頃、豪雨、大風、雹の災害が発生したということである。
・民政部によると、18日現在、災害による死者は18人、155人が負傷したということである。
・被害を受けたのは広州、佛山、東莞、中山、肇慶の5市で、被災した農地は506ヘクタール、直接的な経済損失額は5000万元(約6億3500万円)に上ったということである。(「中国国際放送局 日本語部」より2011年4月18日)HPより転載
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| 2011.7.26 |
中国の脱線事故、35人死亡 共産党政権に衝撃
中国浙江省温州市で23日夜におきた高速鉄道の追突・脱線事故は、高架から転落した4車両の乗客を含む35人が死亡、けが人は192人に達した。中国鉄道省は事故の原因を「落雷による設備故障」と説明するにとどめているが、緊急停止の安全制御システムや信号、連絡体制などに問題があった可能性がある。
脱線し高架から車両が一部(2車両が)落下した。一夜明け、現場に作業員らが集まった。asahi.com参照
中国:高速鉄道脱線 先頭車両、砕き埋める 「証拠隠滅」批判の声
【温州(中国浙江省)隅俊之】中国浙江省温州市で23日に起きた高速鉄道の追突事故で、鉄道省の王勇平報道官は事故発生から丸1日が過ぎた24日深夜、現地で初めて記者会見し、追突した列車から運行記録装置(ブラックボックス)を回収したことを明らかにし、「状況が判明すれば直ちに公表する」と明言した。追突した列車の運転士(死亡)と運行管理センターとのやりとりなど、事故の人的要因の有無も大きな焦点になりそうだ。
一方、事故現場では24日午前、高架橋から落下した先頭車両が重機で粉々に砕かれ、土中に埋められた。計器類がある運転室も埋められたため、インターネット上では「証拠隠滅ではないのか」との批判が高まっており、事故原因の情報開示がどこまで進むかも焦点に浮上している。事故は浙江省杭州発福建省福州南行きのD3115列車が停止し、後続の北京南発福州行きのD301列車が追突。報道官は国営新華社通信などの取材に「落雷による設備故障が原因」と語ったが、会見では「具体的な原因は調査中」と述べるにとどめた。毎日JPより抜粋
中国:高速鉄道脱線 通常速度で追突か再開列車、116キロで現場通過
【中国・高速鉄道車内で隅俊之】中国浙江省温州市で23日起きた200人以上が死傷した高速鉄道の追突事故で、追突した列車は通常速度の時速115キロ前後で停車していた列車に激突していた可能性の高いことがわかった。ダイヤがほぼ正常に戻った26日、記者は事故現場を通る区間に乗車し、高速列車が事故現場を時速116キロで走行したのを客車内の速度表示で確認した。また、追突した列車の乗客は激突2秒前に118キロの速度表示を見たと地元紙に証言。自動列車制御装置が機能しなかったことを裏付けた形だ。
記者は26日午後、事故現場を通過する雁蕩山駅から温州南駅まで上海虹橋駅発アモイ行きのD3203に乗った。16両編成の列車はほぼ満員。200人以上の死傷者を出した大惨事だったが、気に留める様子はなかった。普段からよく利用するという飲料会社の男性社員(28)は「速くて便利。運転再開を待っていた」と語った。毎日JPより抜粋
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| 2011.7.27 |
日本でゲリラ豪雨
・日本でも、局地的な激しい雨に見舞われる一日となりました。仮設住宅の屋根を叩く雨音。午後4時ごろの岩手県陸前高田市で仮設住宅が建つ学校のグラウンドは水浸しとなり、突然の雨に作業を中断する作業員の姿も・・・。
・この大雨は上空に流れ込んだ強い寒気の影響で大気の状態が不安定になったことによるもので、各地で局地的な激しい雨に見舞われました。
・名古屋市では水煙の中を車が行き交い、排水が追いつかない場所では大きな水溜りも・・・。こうしたゲリラ豪雨で注意が必要なのが、いわゆる都市型水害です。「今年は特に去年に比べにわか雨、雷雨が起こりやすくなっている」
・今年は、特に「ゲリラ豪雨」への警戒が必要です。「ゲリラ豪雨は太平洋高気圧が弱まった時に起きる。去年は大猛暑で高気圧が非常に強かったが、ところが今年台風6号が去った後、急に高気圧が弱まって上空には寒気、地上付近には湿った空気が入り込んで、それでにわか雨や雷雨が増えたんですね。日本だけでなく朝鮮半島も同じで、韓国でも大きな被害が出ている」
・「2008年マンホールで作業中の作業員が流される事故があった。あの時、一気に雲が湧いて激しい雨が降り、マンホールに入った。自分の頭上で降ってなくても、他のところで降った雨が川に入り増水などによる事故が多い。周りにも気をつけてほしい」(MBS毎日放送 お天気キャスター 森田正光氏)一部掲載(27日22:16)
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| 2011.7.27 |
デニス・バンクス
インディアン名 ナワ・カミッグで、1936年にミネソタ州北部のオジブエ族リーチレイク・リザベーションで生まれました。
1978年にサンフランシスコからワシントンDCまでの大陸横断平和行進“ザ・ロンゲスト・ウォーク”(もっとも長いウォーク)を成功させ、同年より“セイクリッド・ラン”(直訳ですが、「聖なる走り」という意味合いです)で世界中に環境保護のメッセージを伝える。
1988年に“聖なる魂”の著書で朝日新聞ノンフィクション大賞を受賞。
1999年からリーチレイクでカヌーレースやドラムを通して若者の教育に尽力するとともに、名産のメーブルシロップやワイルドライス等の自然食の普及にもカを注ぐ。
2004年には自伝“オジブエ・ウォーリア”を米国で発表しました。現在、ソニー・ピクチャーズで映画化の話が進んでおり、主演にジョニー・デップが名乗りをあげるなど、今最も注目されている米国人の一人。※オジブエ族は別名チプワまたはアニシナベとも言われる。
デニス・バンクス、日本への祈り 石川史江訳 ~福島原子力発電所の危機的状況の中で~
北山 耕平
アメリカ在住時の1979年、ネバダ州の砂漠地帯でのアメリカ先住民族の老人“ローリング・サンダー”との出会いをきっかけに、環太平洋の先住民族とその精神世界に関心を深める。
'80年代から現在に至るまで、そうした分野の研究・紹介を精力的に行っている。
インディアンのゴースト・ダンスの歌
『蝶になる日』 吉丸 房江より
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| 2011.7.29 |
新宿中村屋と中村屋サロン、-ボルシチとカレー
ヴィック・ムニーズ
東郷青児美術館での「現代アート展」での特にヴィック・ムニーズのゴミの山から素材を集めてのアートと彼と関わることによって自立への道を歩んだ人々の姿に感動!
http://www.tokyo-ws.org/archive/2008/12/post-1.shtml |
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| 2011.8.2 |
「千年に一度の巨大地震の世紀」首都圏直下型や3連動型の可能性も
東日本大震災規模とされる平安時代の貞観(じょうがん)地震(869年)や関東直下型地震、東海・東南海・南海地震の3連動とみられる仁和(にんな)地震など9世紀に起きた地震が、阪神大震災(平成7年)以降の地震の状況と酷似していることが、産業技術総合研究所の寒川(さんがわ)旭(あきら)・招聘(しょうへい)研究員(地震考古学)の分析でわかった。
近い将来に首都圏直下型や3連動型地震が起きる可能性が高いとの見解を示し、「千年に一度の巨大地震の世紀になるかもしれない」と警鐘を鳴らす。(産経新聞より) |
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| 2011.8.6と9 |
広島長崎への原爆投下と終戦記念日に向けて脱原発と平和への祈り |
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| 2011.8.9 |
教科書に載せたいSP!(TBSテレビ番組)
世界に50カ国以上もあるという独裁国家の中から、世界が注目の独裁者10人を紹介
権力があれば何でもできる!それが独裁者だ!
(1)誕生パーティーにマイケルジャクソンを呼んでしまうブルネイのボルキア国王!
(2)美女が大好きで美女を守る法律を作ったベラルーシのルカシェンコ大統領!
(3)若者の支持を得るためにラップでCDデビューしたウガンダのムセベニ大統領!
(4)星占いを信じて、首都まで移転したミャンマーのタン・シュエ終身国家元首。
(5)自分は偉大なる科学者だと信じ、エイズ治療薬を作り国民に飲ませたガンビアのジャメ大統領。
2人の独裁者の意外な行動を紹介
(6)史上最悪の独裁者と呼ばれるヒトラー。彼は、演説テクニックを悪用し、民衆を洗脳していたという。
(7)北朝鮮の金正日総書記、彼が支配する北朝鮮の平均月収はわずか136円。豚肉にいたっては給料1か月分を超えるとも言われている。「でも肉が食べたい!」。⇒「なんちゃって肉」。⇒原料は大豆のしぼりかす。
(8)虐殺の罪で、国際指名手配を受けているスーダンのバシル大統領。彼が君臨する独裁国家に女性ディレクターが潜入取材!そこで出会ったのは、大虐殺から逃れ難民として生きる一人の少女だった。亡くなった兄への想い・・・悲惨な暮らしの中で芽生えた小さな夢。
7月に南部スーダンが独立し、世界中から注目されているスーダンのリアルな「今」を紹介。
(9)莫大なオイルマネーを武器に、世界の有名企業やサッカーチームなどあらゆるモノを買収するカタールのハマド首長。自国民を手厚くサポートし、労働力は外国から連れてくる。170万人いるカタール人口の7割近くが外国人労働者と言われており、なんと警察官まで外国人!しかし、肝心の天然資源はあと数十年で無くなる恐れが・・・。
(10)過去にも番組で紹介したトルクメニスタンのニヤゾフ元大統領。
自分の銅像を街中に設置した大統領が作った意外な法律。それは「歌手の口パク禁止令」
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| 2011.8.10 |
ホ・オポノポノ年賀状がきっかけで旧友に会う。旧友の不思議な体験とレイキについて知る。ハトホルの書との関連に驚く。 |
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| 2011.8.17 |
ハトホルの書まとめ。エクササイズについて。 |
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| 2011.8.19 |
直伝霊気について
⇒ 1922年、1987年代
・現在、日本に伝わっているレイキは、99.9%が西洋レイキ。(いわゆる逆輸入)。
・直傳靈氣は、昭和13年に海外レイキの祖林忠次郎直伝で山口千代子が霊気療法を学び、60年以上もの間、霊気療法を実践し、四男忠夫に伝え、現在も施術、霊授を実施している日本生まれ、日本育ちの心身改善臼井(甕男)霊気療法である。
宇宙(太陽)からの靈氣療法(ヒーリング)]
・宇宙(太陽)からの靈氣(エネルギー)を受け取り、施術者(ヒーラー)が自分の身体を通して増幅し患者に与える作業
・未知なるエネルギーによって患者自身の持つ自然治癒力を目覚めさせる。
・そのために手を当てたり、かざしたりする。
・宇宙(太陽)から絶えず靈氣(エネルギー)が発生している。そのエネルギーは物理的なエネルギーと比べて圧倒的に速く、しかも微細に振動しています。「サトル(微細)エネルギー」とも呼ばれる。
・施術者(ヒーラー)は宇宙(太陽)から靈氣(エネルギー)と波長を合わせることが大切になる。それには患者のために能力を使わせていただけることに感謝し、更に五戒の教え(今日だけは、怒るな、心配すな、感謝して、業を励め、人に親切に)を実行すること。
・患者は、靈氣(エネルギー)を受ける能力を持っているのだが、病人というのはその能力が冬眠状態なのだ。だから施術者(ヒーラー)の身体を通して、そういった能力を目覚めさせる働きをするのが靈氣療法(ヒーリング)なのだ。 |
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| 2011.8.19 |
新藤 兼人
・1912年、広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町)に生まれる。兼人は広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散。活動写真に惹かれ、山向こうの広島市内へ足繁く通い夜遅く提灯を下げて帰宅した。
・1933年、尾道の兄宅に居候中に見た山中貞雄の映画『盤嶽の一生』に感激し映画を志す。
・1年半の自転車問屋の臨時雇いで金を貯め、刑事をしていた兄の紹介で京都府警の刑事の伝手を頼りに1934年、京都へ出る。
・志望していた映画助監督への道は狭く、さらに1年ほどたった後、入ることが出来たのは新興キネマ現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる。満州国が帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた長靴を履き辛い水仕事を1年ほどする。
・撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知る。
・新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術監督であり美術部長である水谷浩に師事。美術助手として美術デザインを担当した。このおかげで、その後の近代映画協会の監督作品の多くでは、経費削減の意味もあって、自ら美術も担当することが多かった。仲間からは酷評されても暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。
・家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。
・2010年の時点で日本最高齢の現役映画監督であり、世界でもマノエル・デ・オリヴェイラに次ぐ位置にあったが、同年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表したが、まだ作りたい気持ちも表した。近年は、高齢で移動に車いすが欠かせなくなっている。 |
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| 2011.8.22 |
堀 文子
・もともと、特に絵がすきだったわけじゃないんです。あるとき、学校での自分の成績を分析してみたら、大した努力もしていないのに、評価が高かったのが絵でした。
・「美にかかわる仕事をしていたら間違っても人を殺すようなことはしないだろう」それくらいの気持ちで絵画の世界に入ったんです。ただ、私が生まれ育った時代というものが影響していると思います。…5歳の時に関東大震災を経験し、10代のころには2.26事件にあいました。
・日本がどんどん戦争へと傾いていった時代。そこに自由は全くなく、脱出することもできない。そんな時代に育ちましたから…。今でも権力主義の臭いがするものには決して近づきませんし、自由であることを何よりも大切にしています。
・そもそも、私は自分を芸術家とは思っていません。世の中の不思議さ、美しさ、感動したものを記録する職人です。理屈は必要ない、絵はもっと原始的なものなんです。(経営情報8月号より) |
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| 2011.8.25 |
ヴィシュヌ神の生まれ変わり
・ディーパク・パスワン(Deepak Paswan)君は、生まれながらに、腹部に寄生性双生児が結合しており、合わせて4本の腕と4本の脚があった。
・手術には彼の成長とインド在住の父親の年収の10倍ものお金が必要だった。
・ディーパク君が生まれ住んでいた町では心身へのいじめや、サーカス団が人身売買の話を持ちかけることもあったが、両親の愛情(特に母親の言葉)や移り住んだビハール(Bihar)州の村の信心深い人びとが
4本の腕を持つとされるヴィシュヌ(Vishnu)神の生まれ変わりとしてあがめて、育てられていた。
・しかし家族は彼の健全な成長のために、腕と脚の分離手術を求めていた。すると、村長やカースト制(身分制度)を超えたダダン議員のはからいで、新聞で報道されることとなり、それを見た医師が名乗りをあげ、バンガロール(Bangalore)のフォーティス病院(Fortis
Hospital)で 手術が実現した。高額な手術代は、病院が負担したという。
・下層カーストに属する父親は手術が「奇跡」だと称賛。 息子が「他の男の子と同じように」学校に行けることを喜んだ。もちろん、少年本人の喜びはひとしお。普通に走れるとこにも普通ではない喜びがあった。(奇跡体験!アンビリーバボー)
・インドでは2007年にも、ラクシュミ(Lakshmi Tatma)ちゃんという生まれつき8本の手足を持つ女の子が分離手術に成功している。
・古代ヒンドゥー教の神は複数の手を持つものが多いため、その容姿からヒンドゥー教の最高神であるヴィシュヌ(Vishnu)の妻「ラクシュミ」(美と幸運をつかさどる神)の名をつけられたという。
・彼女も「寄生性双胎」で、本来生まれてくる双子のもう一人の体を分離しないと、成長阻害や命の危険性があるため、切り離し手術が必要だった。(テレビ番組にて) |
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| 2011.8.27 |
・今日は家族の記念日!
・二十数年前に神を試したこととつながっている。
そして、私の今日がある。
・今朝のインスピレーションで、このコーナーに自分史を重ね合わせていくこととなった。
昨夜のつどいから
ソマリアの現状
・2010年7月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は、難民流出の状況を発表した。
・それによると、ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6ヶ月で約3万人。
・2009年同期の4万4000人から3分の1近く減少した。アデン湾向岸のイエメンへの難民も2009年同期の1万3000人から6700人に減少した。事務所の報道官は、減少は安全でなく不安定さを増していると記者会見で語った。
人権
・ソマリアはイスラムを基礎とする国家であり、サウジ・イエメン・イラン・アフガニスタンなどと同様ブラジャーを着用した女性に対し公開鞭打ちが執行されていた。強盗犯に断手刑を執行された事例もある。
9歳くらいでも婚約が認められる。
政治
・バーレ政権時代の最盛期には社会主義の名の下強力な軍事独裁が敷かれ、治安は比較的安定していた。しかしながら政権末期には首都モガディシュを除くほぼすべての地域を掌握できておらず、「モガディシュ市長」または「モガディシオ市長」とされることもあった。
1992年に、バーレ大統領は国外追放された。追放後、ソマリアには中央政府が存在しない状態が続いている。政権崩壊後は地方豪族による分割支配が進行し、互いの勢力を攻撃しあうなど紛争状態が続いている。
経済
・内戦で経済は壊滅、崩壊状態。世界最貧国の一つで、平和基金会が発表した失敗国家ランキングでは3年連続で第1位に位置しており、イギリス情報誌のエコノミスト 治安ランキングワースト10では第2位。(2008年)また、内戦で大量の難民が発生しており、各国からの援助が頼りの状態である。主要輸出品はバナナ、家畜、皮革。主要輸入品は原油、石油製品、食料品、機械類など。地下に石油・ボーキサイトなどを含有する地層が存在するが、未開発である。
・主産業は、バナナを中心とする農業、ラクダ(飼育数世界1位)・羊・ヤギなどの畜産業。畜産業の経済に占める比率はGDPの40%、輸出収入の65%に達する。農産品の加工を軸とした小規模な軽工業はGDPの10%に達する。
・皮肉なことに、最近では1隻あたり100万ドルといわれる海賊業も主要な外貨獲得源になっている。
染色家 吉岡 幸雄
http://www.sachio-yoshioka.com/2011/0901.html
課外授業 ようこそ先輩
久しぶりに見ることになったこの番組!
染色家の吉岡さんと実際に藍を使った草木染めを体験し、今まで知らなかった自然からの色に出会うことで、自然の中には無限に色があることを感じ始めます。
子どもたちのそんな子どもたちに吉岡さんが出した課題は「家族を表現する色」を考えてくること。次の授業ではその色を布に染めるという。
試行錯誤の中で家族とのつながりの中でこだわってこだわって言葉と色を創り出していく子どもたち…。
深い感動とともに新しい世界に踏み込んでいく子どもたちは、次々に五感を駆使して「世界にただ一つの色」と名前を生み出していった。⇒明笑色、母私色、黄太陽色、クスの葉色、黄金色…
アメリカ
ニュージャージー州、ニューヨークを中心にハリケーン「アイリーン」により家が流されたり、道路が冠水したりして、大きな被害を受けた。 |
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| 2011.9.2 |
野田内閣、閣僚名簿発表
野田佳彦新首相は2日午前、新内閣の顔触れを決めた。藤村修官房長官は閣僚名簿を発表し「適材適所だ。ドジョウのように泥にまみれて仕事をして、政治を前進させたい」と語った。首相任命式・閣僚認証式を経て、民主、国民新両党連立の新内閣が正式に発足する。 |
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| 2011.9.3 |
台風12号
・各地に大きな被害をもたらした台風12号は岡山県内でも記録的な大雨を降らせた。台風は3日午後6時ごろ、倉敷市付近に上陸した後、時速約10キロと自転車並みに遅く北上、県内に6時間以上とどまったとみられる。県内に上陸した台風は、98年10月17日の台風10号以来13年ぶり。岡山市内などで大勢の人が避難し、市民生活に大きな影響が出た。21万人に避難勧告した岡山市は情報伝達にもたつき、課題も残った。
・例年、8月9月に中国上空から張り出してくるジェット気流がないという気象異常のため大型で記録的なノロノロ台風が大きな被害をもたらすこととなった。 |
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| 2011.9.4 |
土光 敏夫と 母 登美
明治4年8月8日生まれ。土光敏夫の母。岡山県出身。
昭和16年、亡夫の一周忌に念願であった女学校の創設を宣言。その当時の御年70才というから驚きです!
「人間生きているうち一度は鬼の口に飛び込まねばなりません」という覚悟で、戦時中学校教育の重要性を説き、無一文から「自分が死んでも香典は要らないから生きているうちにください」とまわりの農家を口説いて回り、とうとう念願であった戦争をしない国づくり、幸せな社会づくりのための女子教育を実現すべく奔走したそうです。
ほとんど独力で寄付集め、諸交渉をおこない、とうとう、戦争真っ只中の昭和17年 橘女学校創立 校主土光登美。17年横浜鶴見に橘学苑(現橘女子高)を開校する。戦時下、教育方針は、成績第1主義ではなく、「正しきものは強くあれ」という登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。
一、 心すなおに真実を求めよう
一、 生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう
一、 正しく強く生きよう という三つの言葉を遺した。
しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、73歳で他界。
夫もであったが、日蓮宗に深く帰依した女性。(温厚な夫に比べると厳しい女性であったという。親戚の土光●●さんの記憶より)。土光は母の気性を強く受け継いだ・・・
(テレビ朝日、9月4日 10時~「サンデー・フロントライン」 特集より)
その他の登美の名言
・国の滅びるは悪によらずして、その愚による。
土光 敏夫と第二次臨時行政調査会
・この時、土光さんは石川島芝浦タービンの専務で大変な激務での中、お母様の遺志を継いで二代目学園理事長に就任。
・土光さんは、その後石川島播磨・東芝の重役、経団連会長になってからも、横浜鶴見区の学校から近いご自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通っていた。
このころの年収は5千万円はあったというが、その多くは、母が創立した女学校「橘学苑」(現在は共学)の支援にあてられていたという。
・自宅の応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、決して会社を私利私欲のために使わず、学校教育に力を注いだ。自身の生活費は月10万円と言われていた。
・敏夫は中学校の受験に3度失敗。関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。
1936年(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946年(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
・1950年(昭和25年)、経営の危機に本社に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。
・1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959年(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
・1965年(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966年(昭和41年)に再建に成功する。
・1974年(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。
・1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
- 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
- 増税によらない財政再建の実現。
- 各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
- 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
の四箇条の申し入れを行い実現を条件とした。
行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄-JR・専売公社-JT・電電公社-NTT)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。
謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。
・行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念
行革の顔 土光敏夫』(1982年(昭和57年)7月23日)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。
敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
・戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
・穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
・とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシにキャベツの外葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。
昭和61年、電電公社や国鉄の民営化をやり遂げた臨調は解散したが、その功績を認められ、土光さんは民間人では初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章された。
*-*-*
受勲の際、土光さんが「個人は質素に、国は豊かに」と、おしゃったのは有名な話だ。
そんな土光さんの、座右の銘は、『日に新たに、日日に新たなり、また、日に新たなり』
という、中国古典の「大学」に出てくる言葉です。
この言葉について、土光さんは以下のようにおしゃっていたそうです。
「一日の決算は一日のうちにやる。失敗もあるであろう。
しかし、昨日を悔やむこともしないし、明日を思い煩うこともしない。
新たに今日という清浄無垢な日を迎える。
ぼくはこれを銘として、毎朝『今日を精いっぱい生きよう』と誓い、全力を傾けて生きるのだ。」
昭和63年8月4日、土光敏夫さんは91歳で老衰のため没。 |
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| 2011.9.6 |
津波、水害の恐ろしさ
・前日は波に向う一艘の船の映像。(船長の機転で絶妙のタイミングで船のエンジンを一旦切ったことが奇跡の全員生還、船の無損傷につながった。)
・東北関東大震災での大津波の恐ろしさ⇒地震の際、その後避難しながらホームビデオを片手に避難する人の姿が結構多かった。こんな映像を一体どこから撮っているのだろう…?と疑問に思っていたところ、やはり、その撮影者は最後には命からがら学校の石碑、さらには石碑から流れてきた瓦礫を足場にして木に登って一夜を明かしたのだという。当人は「津波がこんなに恐ろしいものだとは!私もバカだった」と言っていた。
・勝浦町の被害の惨状も映像で見た。川沿いの家、土砂崩れ、土砂崩れによる水の流れの変化による被害が目立った。一家と娘さんの人生における特別な「ハレの日」。その中、公務にあたった町長さんと自宅で家を守った妻・娘さんの本当に大変な最後。「変わり果てた娘さんを見た許嫁の方の言葉「泣いている涙が見える」からも、生まれてくる前の準備があるとするなら、わざわざ、一家でこのような大変な御役目を引き受けてくださったのではないか」と思えてならない。
勝浦町の隣町に我が家の親戚があった。やはり川の増水のため、1階床上浸水とライフラインが切断されているとのこと。(「みのもんたの朝ズバ」の映像より)
魚肉ソーセージ90日
・材料成分表をチェックさえすれば★安い★ヘルシー★高栄養価★常温で保存可★食べやすい
・これからの保存食として活用できそう。
牛乳60日、野菜ジュース最大2年、豆乳、豆腐は冷蔵300日、
・パッケージにより保存期間が違うので要チェック! |
3.11丸ごとアーカイブス |
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地震や津波 先人の智恵・先人の教え・先人の教訓と「東北関東大震災」 3.11現代の「貴重な体験」の記録・保管方法 その①
『千年震災 繰り返す地震と津波の歴史に学ぶ』 都司嘉宣(つじ・よしのぶ)
地震学者が教える先人の知恵
・村の高台の稲むらに火をつけて、村人を津波から救った浜口梧陵(ごりょう)の名は、戦前の小学生は皆知っていた。教科書で習ったからである。戦後の教科書からは、はずされた。梧陵の事績は、忘れられた。偉人と認めなくなった。ということは、自然の威力を、さほど脅威に思わなくなったわけだ。地震や津波の実体を、どれだけ学んでいただろうか。
・そんな時に、「東日本大震災」に遭遇した。今からでも遅くはあるまい。近い将来、いや応もなく見せつけられる。活動期に入った、という識者の声もある。備える必要がある。何といっても、先人の知恵に学ぶのが一番だろう。
①岩手県普代村:
⇒
:★☆高さ15.5メートルを超えるA.『太田名部防潮堤』とB.『安家川の河口から800m上流の水門』の2つの要塞。
・・・・・・【明治(1896年)三陸津波の教訓】からの備え。
⇒
死者ゼロ不明1人。
当時の和村幸得・村長が主張し譲らなかった。・・A.『太田名部防潮堤』全長155m×15.5m≪万里の長城と揶揄された≫
A.防潮堤は1967年に5800万円かけて県が建設。
B.水門は1984年に35億円投じて完成。
・・・・・・・・・・2011年4月4日読売新聞朝刊31面[社会]参照のこと。
≪新たな時代≫
TBSの「報道特集」という番組で興味ある報告がされていた。
「なぜ、神社の手前で止まった津波」
先人の知恵
「福島県の沿岸を調べていくと、不思議な現象が確認された。
東日本大震災で起きた津波の浸水域の線上に多くの神社が無傷で残っていたのだ。
今回、私たちの取材で浮かび上がってきたのは、何百年・何千年の昔から伝わる先人たちの知恵、いわば「いにしえの警告」とも呼べるものだった。」
相馬市長がその地方に残る古い「言い伝え」を話されていた。
「津波の時は神社まで逃げると助かる。」実際に、神社に避難して助かっている。
その場所から撮影された映像も公開されていました。すぐ足もとまで濁流が押し寄せていた。
また、平安時代前期862年に起きた「貞観地震」の時の津波の浸水域ともほとんど一致しているというデータも紹介されていました。子孫のために、そこに神社を建立し、その記憶を残したのだ。
≪龍神の怒りを止めたその場所は、霊的なパワーがある聖域だということで、神社を建立したとも考えられる。
津波が押し寄せてきた時、たまたまその場所にのがれ、命が助かった人々の感謝の波動が、その場所に蓄積されている、パワースポットということだ。≫
その神社で、目の前を流れる津波の濁流を見たら、私たちはどう感じるでしょうか。
自然に対する恐怖というより「畏怖」を感じ、手を合わせて祈っている自分を想像しています。
また、次のような内容も紹介されていました。
東北電力の「女川原発」は被害を免れ、東京電力の「福島原発」は大被害を受けましたが、その津波の想定の違い。
東北電力は、過去の津波の被害を調べてその高さ14.8m(津波は9.1mと想定)を設定した。
東京電力は、その敷地を20メートルも削り取り、建てた。
(※そればかりか、もともと30mの台地だったのに、20mも削って海抜10mに建設しました。硬い岩盤が欲しかったそうです。やわらかい地盤だとパイルを打ち込まなければならず、コストアップになる。固い地盤まで削り?、建物を強固に作りたいと合理的?に考えたからです。⇔詳細は不明)
津波については、その都合で5.8mしか想定しなかった。
いま在る自分に感謝しています 「いま蘇る幣立神宮」さんのサイトより一部転載
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3.11丸ごとアーカイブス
『千年震災 繰り返す地震と津波の歴史に学ぶ』
都司嘉宣(つじ・よしのぶ)著
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地震や津波 先人の智恵・先人の教え・先人の教訓と「東北関東大震災」 3.11現代の「貴重な体験」の記録・保管方法 その②
①岩手県普代村
⇒■高さ15.5メートルを超えるA.『太田名部防潮堤』とB.『安家川の河口から800m上流の水門』の2つの要塞。
・【明治(1896年)三陸津波の教訓】からの備え。 ⇒ 死者ゼロ不明1人。
当時の和村幸得・村長が主張し譲らなかった。・・A.『太田名部防潮堤』全長155m×15.5m≪万里の長城と揶揄された≫
A.防潮堤は1967年に5800万円かけて県が建設。
B.水門は1984年に35億円投じて完成。…2011年4月4日読売新聞朝刊31面[社会]参照。
②岩手県宮古市:重茂半島東端(姉吉地区)
⇒■海抜60mにある“先人の戒めの石碑”【碑文:高き住居は児孫の和楽。】1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後に建てられた。碑の文句は【想へ惨禍の大津浪此処より下に家を建てるな】と続く。(⇒写真はYOMIURI ONLINE)
全文
高き住居は児孫の和楽
想へ惨禍の大津波(大津波の災いを忘れるな)
此処より下に家を建てるな
明治二十九年にも昭和八年にも津波は此処まで来て
部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ
幾年経るとも要心あれ
⇒1933年後に建立:2011年は家屋に被害なく12世帯40人のすべての家屋を守った。(地震の直後、車で学校へ子ども3人を迎えに行った30代の女性は、帰りに海沿いの道を使い、親子ともども巨大な波に押し流された。)
・この地区は、1896年明治三陸津波 、 1933年昭和の三陸大津波の際の生存者は2人と4人。
幼いころから、≪石碑の教えを破るな≫といい聞かされてきた。…2011年3月30日読売新聞朝刊33面[社会]参照。
■岩手県田野畑村の津波石
海岸から36メートル、標高25メートルの場所にあった。ここまで津波が来たという伝説があったのだが、誰もまさかこんな高いところまで人間の背よりも高く、三人ぐらいで取り囲まなければならないような、20トンもある大きな石が流されてくるとは信じていなかったそうだ。
今回の津波は、津波石の手前まできたとか。
③宮城県松島町
⇒■自然の松島の島々が防波堤・波減効果をなした。
・島の一部が崩落したが、湾内に広がる町は、海岸線の商店街の1階は泥水浸かったが、死者1名と。伊達家の所縁のある寺たる瑞巌寺などは津波には見舞われてない。…2011年3月23日読売新聞朝刊35面[社会]参照。
④石巻水浜集落
⇒■集落近くの市の支所前には、「地震があったら津波の用心」と刻まれた石碑(石碑は今回の津波で流されてしまった)
・湾を襲った津波は最高約20メートルに達し、約130戸のうち9割以上が流出。だが、住民約380人の大半(98%)は波がくるまでに、高台に登り難を逃れた。地区では毎年、高台に上がる訓練を実施している。「水浜のもんは、高台までの一番近い道を体で覚えている」という。「貴重品やアルバムはすぐに持ち出せるよう、リュックサックにまとめている」と話す住民もいた。集落には1人暮らしのお年寄りも多かったが、伊藤さんは「どこの家に誰がいるか、頭に入っている」。自身も独居高齢者を家から連れ出し、背中を押して高台を目指した。今回、被害が大きかった地域では、荷物を持ち出そうとしたり、車で逃げようとして渋滞にはまり、逃げ遅れたケースも目立つが、「命さえ助かれば、後は何とか生きていける。とにかく逃げること」という。
・高台にある避難所に逃げたが、集落は孤立した。入り組んだ地形の沿岸部にある集落は石巻市中心部から30キロ以上離れ、当初、道路はがれきや土砂で寸断された。4日間は完全に隔絶されたが、全く慌てなかったという。もともと市内から離れたこの地域は米や缶詰などの保存食を備蓄する習慣があり、水が引いてから被害に遭わなかった家に備蓄された食料を全員で分け合った。さらにガソリンを節約するため、集落中の燃料をまとめて一台の車だけを使用、数日たってから一本だけ通った道を使って買い出しや、親類などへの連絡を効率的におこなった。
・高台の避難所には約120人が共同生活を送る。まだ電気、水道がなく、電話は通じない。さらにホタテ養殖が県内一盛んだったこの集落の船約50隻も4隻しか残らなかった。しかし、伊藤さんは「われわれに悲壮感はない。支え合ったみんなとなら、またやっていける」と話した。
⑤全員無事の「大船渡市立越喜来(おぎらい)⇒(津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなった⇒詳細は2011.3)」と「岩泉町立小本(おもと)小学校」
⇒■対照的な小学校がある。生徒の7割、教師の9割が犠牲になった「石巻市大川小学校」。
・これら3校の「立地」は、極めて酷似している。前面に「川」、背面に「山」がある。
・3校とも裏の山に逃げれば、津波の被害から逃れることができた。(事実、全員無事の2校は山に登って難を逃れた。)
・最大の児童被害を出した「石巻市大川小学校」は、安全な裏山に避難しなかった。
■逆に、「裏山は斜面が急で登りにくい」という理由から、地震から40分後に津波が迫る「川の堤防」へと向かってしまった。その結果が、生徒7割、教師9割の散々なる犠牲である。
・この大川小学校があった地域は、ハザードマップ(災害予測図)によれば「津波の浸水区域」から外れており、まさか校舎の2階まで津波に沈むとは思ってもいなかったのである。
そのため、校庭が水につかるような事態は想定されておらず、「児童をどこに誘導すべきかも、はっきり決まっていなかった」のである。「どこに逃げるべきか?」と議論がなされたのは、児童が校庭に集まってからであり、意見は喧々諤々。不幸にも、強力な決定権をもつ校長は不在だった。
・震災前、大川小学校の保護者からは、「万一の場合、裏山に避難できるように『通路を整備』してはどうか」という意見が寄せられていたという。しかし、残念ながら、この意見は実現しなかった。
・これに対し、児童全員無事の前出2校では、地域の人たちの強い要望により、震災数ヶ月前に「避難通路」が設置されていた。この2校では、避難通路が明確に確立されていることで、教師も児童も「迷いなく」その道をひた走って逃げることができた。その避難通路の費用は100万円ほど。
この差は、取り戻すことができないほどに大きかった。
※You Tube「証言! 大川小学校の悲劇 その1・2 東日本大震災津波 TSUNAMI」:
※大川小に通う二人の子どもを亡くした狩野正子さん談。達也君は好奇心旺盛な子で、「達也新聞」を作っていた。たびたび地震や津波の怖さを綴っていた。地震から4日後、父親が手掛かりを求めて息子の教室に入っていくと突然瓦礫の下から蝉の鳴き声のような音が聞こえてきたという。音の出どころを探っていくと、その音は徐々に普通の防犯ブザーの音となり、たどっていくとそれは何と亡き息子のランドセルについていたものだった。(一度は海水に浸かった。)しかも、そのブザーは父親がランドセルを胸に抱えて家に帰りつくと同時にピタリと止まったのだという。「お父さんに見つけて欲しい」と思ったと思うと。
娘美咲ちゃんとは地震前日に自宅で漢字の練習をした。その文字がなんと強風、そして一番最後が「津波」。まだ習っていない字で、うまく書けないと母娘で一生懸命練習したという。「漢字だけではなくって、津波がくるときは高い所に逃げるんだよって教えとけばよかったかな…」
この一家の体験もまた、勝浦の町長さん一家と同様に、大切な大切な体験をし、私達に語り継いでくれる御役目をしてくれているのではないか。
⑥「釜石の奇跡」
■釜石市の鵜住居町にあった鵜住居小学校と釜石東中学校
激しい津波が襲い、学校も波に沈みました。にもかかわらず、子どもたちは、自分たちの判断で行動し、年長の生徒や児童が幼い子やお年寄りの手をとって高台まで避難、全員が命をとりとめたのです。子どもたちは、自分たちの力で奇跡
を起こしたのです。(NPO法人「育て上げ」ネット玄田さんのブログより)
■釜石市の根浜地区
根浜の人たちは、60戸。その全戸が全壊した。15人が亡くなり、4人が行方不明になった。そんななか、人々は、がれきの中から、冷蔵庫を掘り出し、みんなの食料を見つけ、旅館のお風呂の水で、ご飯を炊いた。暖をとるため、瓦礫を集め、薪のかわりにした。薬もみんなでかき集め、励ましあいながら、せっかく助かった命を、ひとりの脱落者も出さないよう、頑張った。
・しかし、臨時の避難所となった地域の旅館(宝来館)は、相変わらず津波から、安全とは言えないため、泣く泣くみんなは、それぞれの避難所に別れる決断をする。旅館のおかみさんの岩崎さんが、大漁旗(今まで客の見送り用に使っていたもの。流出したのを拾い戻すことができた)を振って、送り出す。おかみさんは、その後も、根浜通信というミニコミをつくり、人々が永遠に散り散りにならないよう、結び目の役割を果たそうと奮闘する。
根浜の名前は、海岸に咲く、ハマナスから来ているという。そのハマナスが、大津波に耐え、新しい芽をつけてくれていた。何という生命力だろう・・・
※You Tube「釜石の津波 女将 1/2・2/2 宝来館 岩崎昭子」
※NHK「ハマナスの咲くふるさとにもどりたい~岩手県釜石・根浜地区~-被災地 再起への記録-」2011.5.8放送
⇒3,000人近い小・中学生がいる岩手県釜石市で、子供たちの生存率が99.8%だったという奇跡である。犠牲になった5人の生徒は、残念ながら学校管理下にはいなかった。
・「奇跡」とは報道されたものの、この犠牲の少なさは、地道な「防災訓練」のタマモノである。
その防災訓練とは?
・まず上がるのが、「想定に囚われるな」。-決してハザードマップ(災害予測図)を信じてはいけないというのである。(先述の通り、最大の児童被害を出した「大川小学校」の例)。
・釜石市でも同様、ハザードマップ外の小学校は、「自分の学校は大丈夫だ」ということで、変に安心してしまっていた。この現状に強烈な不安を抱いた片田敏孝氏(※主に自然災害に対する防災研究、とりわけ、ハザードマップの作成など自然災害のシミュレーションや、災害時の情報伝達などの研究を専門とする。特に、最近は「避難勧告を出しても避難しない人たち」に対する対策の立案研究にも取り組んでいる。岩手県釜石市防災・危機管理アドバイザー)は、「想定は想定に過ぎない。たとえ先生が大丈夫だと言っても安全だと思ってはいけない。」と子供たちに諭した。
・その結果、指定の避難所に到達してなお、子供たちは「先生、ここじゃダメだ!」と、さらなる避難を敢行。指定の避難所は、新たな避難所に到着した「わずか30秒後」には津波にさらわれた。(もし、想定に囚われていたら、全員が犠牲者になっていた。)
・さらに片田氏は諭す。「他人を救うよりも、まず自分の命を守れ」。「誰よりも先に、まず自分が逃げろ」と教えたのだ。
・「真っ先に逃げるには余程の『勇気』がいる。非常ベルが鳴って真っ先に逃げるのは、『弱虫でおっちょこちょい』のように思われるかもしれない。」「それでも逃げろ!」
・そう教えられていた子供たちは、今回の大津波でも、「大声を出しながら、全力で逃げた」。
大挙して避難する子供たちを見て、津波に疑心暗鬼だった「住民たち」も、子供たちにつられるように避難を開始した。これが片田氏の最大の狙いであった。子供たちは見事に避難の波を生み出すことに成功したのである。
「たいていの人間は、イザという時に『逃げるという決断』がなかなかできない。その決断の遅れが死を招く。」⇒「大川小学校」が、校庭に集まってなお協議を繰り返している。
・災害時になれば、誰しも「身内」の安全を気にかけ、「逃げる」行為を後回しにしてしまう。まさか、自分だけが真っ先に逃げるわけにもいかないと思ってしまうのだ。片田氏は、それでも「真っ先に逃げろ」と子供たちに諭した。「家の人にはこう言いなさい。『イザという時、僕は必ず逃げる。だからお父さんもお母さんも僕のことは気にせずに、必ず逃げて欲しい』と」
・東北地方には、「津波てんでんこ」という教えが伝わる。津波が来たら、「てんでバラバラ」に逃げよという教えである。そうしないと、家族や地域が全滅してしまうからだ。お互いが逃げのびることを信じて、あえてバラバラに散るのだ。この行為は、中途半端な信頼関係では実現することが極めて難しい。我が子を置いて逃げるのか?この教えは、先人たちの「苦渋の決断」である。「津波のたびに、家族の絆が家族全滅を招いた不幸」を目の当たりにしてきた人々にしかできない決断である。
本当の絆の意味をわかっていなければ、決してできない勇断である。
釜石市の奇跡は、徹底した意識改革の成果である。
■世の一般常識からは逸脱しているような教えを、必死で子供たちに教えてきた好結果である。
日本の常識では、ややもすると全滅という憂き目に遭いかねない。
アメリカでは、日本よりも個人の危機意識が強い。
「街で一人倒れていたら助けろ。二人倒れていたら用心しろ。もし、三人も倒れているようなら、真っ先に逃げろ!」とあるアメリカ人は学校で教えられたという。
日本人は、リスクを「過小に見積もる」傾向があるという。
「自分に都合の良い情報を大きく見積もり、都合の悪い情報を小さく見積もる」という心理作用が強く働くのだ。そのため、防災に関する備えは疎(おろそ)かになりやすい。
なにせ、防災の成果が現れるのは、「災害に遭って、何事もなかった時」だけである。
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| 2011.9.7 |
地震や津波 先人の智恵・先人の教え・先人の教訓と「東北関東大震災」 3.11現代の「貴重な体験」の記録・保管方法 その③
■宮城県南の沿岸部
津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたことが、東北大東北アジア研究センターの平川新教授(江戸時代史)らのグループの調査で分かった。平川教授は「過去の津波の浸水域を避けて、街道が整備された可能性が高い。自然と共存するための先人の知恵ではないか」としている。
グループは震災後の国土地理院の航空写真を基に津波浸水域図を作製し、旧街道や宿場町の地図と照合した=地図=。現在の岩沼市にあった「岩沼宿」から水戸へと続いていた、太平洋岸の主要街道「浜街道」に着目。岩沼宿から宮城県山元町の「坂元宿」までの街道と宿場の大部分が、浸水域からわずかに内陸部に位置し、被害を免れていた。
浜街道周辺はほぼ400年おきに津波に襲われている。1611年には慶長三陸津波が発生し、仙台藩領内でも1783人が亡くなったという記録が残る。
■宮城県仙台市若林区の浪分(なみわけ)神社
かつて大津波が押し寄せたとき、この神社辺りで波が静まったと伝えられる。
神社は海岸から直線距離で5.5キロも離れているので、まさか津波など来るはずも無いと考えられていた。しかし今回の津波は手前2キロまで到達した。もし高速道路が堤防の役目をしなかったら、確実に津波は届いていたことだろう。
地元の人は津波がここまで到達した話を聞いたこともなかった。1702年建立の神社なそうなので、たぶん慶長三陸津波葉ここまで到達したのだろう。
今回の津波で、地元の人たちははじめて「波分神社」という名前に納得したそうだ。
■岩手県大槌町の浪板地区
11日、昭和三陸地震(1933年)の津波の教訓を伝える石碑が、岩手県大槌町の浪板地区で見つかった。
震災後、連日捜し歩いていた同地区の漁師、大下敏彦さん(73)は「宝だ」と喜んだ。 高さ2メートルほどの石碑は震災前にあった場所から150メートルほど流されていた。
「地震があったら津波の用心せよ」「津波が来たら高い所へ逃げよ」「危険地帯に住居をするな」といった教訓が読み取れる。
大下さんは「『おっきな石だぁ』ってだけで(震災前には)読んでない人もいるはずだ」と独力で捜していたが、 がれき撤去をする自衛隊員らにも注意を呼びかけていた。石碑近くの自宅を流され、避難所で暮らすだけに「先人の教えを大切にするんだ」と笑顔になった。
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●宮古市田老の防波堤
⇒■日本一の防潮堤(陸上にあるもの)!! ⇒ チリ地震には影響を受けず。⇒海外からの見学者も
・津波防波堤は総延長2433m・高さ10mと日本一。
「約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名があり、1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた「過去」がある。
防潮堤(防波堤とはいわない)建設は半世紀近くかけて78年に完成。総工事費は約50億円。
こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のよう。
岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。 」しかし、日本一の防潮堤が突破された。
防潮堤を過信していた、「防災宣言の町」と宣言して防災の意識や行動を忘れるようでは宣言しないほうがいい、とインタビューに応える声もあった。(人間の力の限界が見えた?)
●釜石市の防波堤
⇒ギネス記録(世界一)の長さ。20m・高さ6m・全長2km(防波堤の基礎水深63m)
建設費用1200億円を投じ建設。・・・竣工して約30年を費やし完成。一瞬にして、崩壊。
●釜石市の根浜地区の松林
防潮林はないよりはあったほうがよい、…
●岩手県陸前高田市にあった「高田松原」
高田松原は、1667年(寛文7年)高田の豪商、菅野杢之助が黒松を植栽。仙台藩と高田住民の協力を得て6200本の黒松を植林した。その後、松坂新右エ門によって享保年間(1716-1736年)にさらに増林。7万本もの松林は、長らく岩手県を代表する景勝の一つで、「日本百景」や「日本の森・滝・渚 全国協議会」による日本の森100選にも選定されていた。
・この松原も、塩害に苦しむ農家を助けようと地元の豪商が私財を投じて防潮林だった。過去の津波では被害防止に役立ったという。
・3月11日大きな津波によりそのほぼ全てがなぎ倒されました…が、奇跡的に1本だけ倒れずに残っている。地元では、その松を不屈の精神を感じて『希望の松』と呼ぶ人もいる。※戒めの松?
SankeiPhoto「JAPAN-EARTHQUAKEVol.24」
・クローン化⇒長男ノビル、次男タエル、三男イノチ、四男ツナグ。東日本大震災の津波にのまれながら生き残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」。クローン技術で苗4本が育ち、漫画家のやなせたかしさん(92)が名命。(2011.6.28)
・奇跡の一本松蘇生断念(2011.12.13)共にasahi.comより
■3.11では震災直後から復興の過程まで、マスコミ、自衛隊や公的機関、町の監視カメラだけでなく一般の人たちによるホームビデオや携帯電話の動画撮影機能、写真なども多数残り、すでにHPやブログはもちろんのこと、You Tubeなどにも投稿されていて、公的機関や大学の研究室などが中心となってそれらの資料の取りまとめと活用が待たれている。
※「温故知新。智恵を持って有事」に備えることこそが真のリーダーの役割。誰もが軽んじやすい「有事」を見据えてこそのリーダーである。優秀なリーダーほど今こそ「最大の防災」に対する姿勢が求められ、「想定外」は最大の恥であろう。
・また、国民の誰しもが何かしらかのリーダーとなり得る。「有事」を人任せにするわけにはいかない。全員がこうした意識を持つことで「最大の防災」へと道がつながる。
釜石の奇跡は、子どもたちをも立派に育てあげた、見事なる全員リーダーシップにより達成された「当然の成果」と言えよう。
・高台に学校や役場や住宅を建設。海の近くの低地は公園、農業用地、太陽光発電プラント、いざという時に避難可能な高層の津波待避シェルターなどを配置する、などの具体的はプランも必要ではないか。
・今後もし大地震や津波が来ても、後の世代に顔向けができるように智恵を絞ることが、この怖ろしい津波を体験した世代の責務ではないか。
・更には過去の石碑や「伝承」を残した「先人の智恵」と現代人の「動画」や「画像」、そして、有史以来、洋の東西を問わず残されている二つの預言(3つ?)も検証して、皆が安心して暮らせるような街づくりを目指していこうではないか。
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津波てんでこ
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| 2011.9.8 |
地震や津波 東北以外の先人の智恵・先人の教え・先人の教訓と現代の「貴重な体験」の記録・保管方法 その④ その他の地域にて
■大阪市・木津(きづ)川の大正橋たもとの石碑
「また同じような地震が来るだろう。そのときは津波が来ることを心得ていて船で避難してはいけない」。
・石碑が立ったのは1855年7月。前年の12月、安政の東南海と南海の二つの地震が2日連続で起こった。揺れが続いていたため多くの市民が小舟に乗って避難していた。そこを南海地震の津波が襲って舟は上流に押しやられた。次々に橋に激突、折り重なった。
・1707年の巨大な宝永地震でも、舟で逃げようとした多くの人が同じ場所で死んだ。同じ過ちを繰り返して多くの命を失っており「先祖が伝えてきた教訓が生かされなかった悔しさがにじんでいる」(都司(つじ)嘉宣東大地震研究所准教授)。
・それが冒頭の言葉につながった。碑文は次のような趣旨で結ぶ。
「この文を将来にわたって常に読みやすくするため、近くに住んでいる人は毎年墨を入れ直しなさい」。津波の恐ろしさを後世に伝え、子孫を守ろうとする先人の意気込みが墨入れを守らせている。
■宮崎市の加江田川河口の外所(とんどころ)村
・地盤沈下で海に沈み、以後50年ごとに石碑が1基ずつ立てられる話は有名だ。
・日向灘地震でも同じ教えがある。
■古くから不動産屋をやっている方と宅地の探し方について話をしていた時に、
「家を建てる時は必ず古地図を見るように」とアドバイスされたことがある。昔の地図を見ると、かつてはどこに川が流れていたとか、湿田だったとか、沼地がどこにあった、などということが分かる。
今の河川は、昔は湾曲して流れていた川を直線的に整備していますが、いざ堤防が切れて洪水になると、昔の川の跡を水が流れることも多いのです。危ない土地が予想できる。」 |
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| 2011.9.8~14 |
津波からの身の守り方
・車を使って津波から逃げるか? それとも、車から出て避難所まで走って逃げるか?
仙台取材班はタクシーを使って救助活動を行っていたのだが、外の様子を見て、自分たちのところに津波が押し寄せてきていることに気付く。彼らはこのままタクシーで逃げることも考えたのだが、それでは津波に飲み込まれると判断し、走って逃げることを決意。
走って逃げている途中、彼らは無事に避難所を発見し、なんとか屋内に逃げ込むことができた。そして、後ろをふと振り返ってみると、そこには激しい濁流が流れており、あと一歩避難が遅れていれば巻き込まれるという間一髪の状況だった。
・また、彼らが避難所から先ほどいた道路を見てみると、自分たちの乗っていたタクシーが津波によって押し流されているのを発見。つまり、あの時にタクシーで逃げようとしていたら、今頃津波の中だったということだ。
・しかし彼らがほっとしたのも束の間、外を見回すと、壁の上に女性一人、木の上に男性一人、そして車の上に子ども二人を抱えて救助を待つ男性一人がいることに気がついた。(※まず、命綱を渡して)彼らはすぐさまその人たちの救助にあたり、なんとか無事に全員救出することに成功。
▼予兆をいち早くつかむ(油断は禁物。警報に従い、念には念を入れよ。側溝から2mもの水がふき上がっていた。井戸が濁ったり枯れたりした。)
▼物への執着を捨てる・物を取りに戻らない。非常用リックを用意しておく。
▼「津波てんでこ」。大人でも自分のことで精一杯。まず自分のことに責任を持つ。
▼防潮堤や建物等を過信しない。
▼川を避け、堅牢な高台を目指す⇒車は使わない。車に乗っていたら、しかるべきところまで移動し、早く降りる。高台もしくは堅牢な高い建物をめざす。
・波がきたらできるだけ瓦礫をよけられる堅牢な建物、もしくは引き波をかわせるような位置にある建物の隙間に入り込む。
・押し波と引き波がある。最初は押し波が多いが、ケースバイケース。
▼瓦礫や漂流物の危険をかわす。
▼あおり風(強い風。建物や路地の間を吹き抜けることがある)に気をつける。
▼津波火災に気をつける。⇒流れ出した重油と瓦礫に一旦火がつくと鎮火が難しい。気仙沼では導火線に火がつくかのように10分で3キロも燃え広がり、すべての鎮火に2週間かかった。
▼引き波にさらわれない。
▼沖に流されたら…-夜間は救助船が見えてから、携帯の灯りを(バッテリーを考慮して)振る。
⇒このことを元に、まさに、終末を生きているわたし自身の身の守り方についてまとめつつ、身近な人から一人づつでも取り次ぎをさせていただければ、と思う。 |
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| 2011.9.8 |
ネイティブ・アメリカン10の戒律
1.地球は私たちの母であり、その母を見守りなさい。
2.あなたに関わる全ての人々との関係を重んじよ。
3.こころを開き、偉大なるスピリットとつながりなさい。
4.全ての生きとし生けるものは神聖である。尊敬を持って接すること。
5.地球からの恵みは必要なだけいただきなさい。
6.全ての人のためになることをしなさい。
7.毎日、感謝の気持ちを偉大なるスピリットに伝えなさい。
8.他の人のためになる真実だけを話しなさい。
9.自然のリズム、日の出、日没に沿って行動しなさい。
10.足跡を残さないように人生を楽しみなさい。
《
アメリカ先住民族チェロキーの恩恵の祈り
》
天国の暖かい風が あなたの家にそっと吹きますように
そして、偉大なるスピリットよ
あなたがその内にまします全ての者に祝福を
あなたのモカシン(革靴)が 降り積もった雪の上に 幸せの足跡を残しますように
そして虹が あなたの肩にいつも触れていますように
私の祖先に敬意を表して |
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| 2011.9.9 |
9日午前の東京株式市場で日経平均株価は小幅に続伸した。
前引けは前日比7円99銭(0.09%)高い8801円11銭だった。
9日午前の東京外国為替市場で、円相場は小幅ながら3日続落。12時時点では1ドル=77円47~50銭前後と、前日の17時時点と比べて7銭の円安・ドル高水準だった。 |
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| 2011.9.9 |
聖マラキの予言-信ぴょう性は?
1 ケレスティヌス2世 1143~1144 テペレ川の城
2 キウス2世 1144~1145
追われた敵
3 エウゲニスウス3世 1145~1153 大きな山
…
106 ピオ12世
1939~1958 天使の牧者
107 ヨハネ23世 1958~1963 牧者と水夫
108 パウロ6世 1963~1978 花のなかの花
109 ヨハネ・パウロ1世
1978~1978 月の半分
110 ヨハネ・パウロ2世
1978~2005 太陽の労働
111 ベネティクト16世
2005~ オリーブの栄光
112 ローマ聖庁が最後の迫害を受ける間、ローマ人ペテロが法王の座に就く。
ローマのペテロは多くの苦難のさなか、子羊を司牧する。
この苦難が去ると七つの丘の町(ローマ)は崩壊し、恐るべき審判が人びとに下される。
おわり
・現在の法王であるベネティクト16世がここ数年のうちに死去し、最後の法王ローマのペテロが法王に就くとき、恐るべき破局が起きることが予言されている。
・ペテロとはイエス・キリストの弟子の12使徒の一人でイエス・キリストが捕らえられたときに、グル(師匠)であるイエス・キリストを3度知らないと言った裏切り者。その例えで、「ローマ人ペテロ」と予言されている。
・さらに「おわり」とは? |
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| 2011.9.9 |
新約聖書「イエスの預言」
・人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名乗って現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとほ聞くであろう。注意していなさい。慌ててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。
・民は民に、国は国に対して敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、飢饉が起こり、また地震があるであろう。しかし、すべてはこれらは産みの苦しみの始めである。そのとは人々は、あなた方を苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなた方は、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎しみ合うであろう。また多くの偽預言者が起こって、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。・しかし、最後まで堪え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界へ宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ第24章4~14)
・エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ第21章20)・「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家から物を取り出そうとして下に降りるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳の飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の始めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな艱難が起こるからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもいないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。」(マタイ第24章15~23)
・「しかし。、その時に起こる艱難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光りを放つことを止め、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。またそのとき、地の全ての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使いたちをつかわして、天の果てから果てに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」(マタイ第24章29~31)
・「義のために迫害されてきた人達は、幸いである。天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなた方を罵り、また迫害し、あなた方に対して偽って様々な悪口を言うときには、あなた方は、幸いである。喜べ、天においてあなた方の受ける報いは大きい。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ第5章10~12) |
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| 2011.9.9 |
第四世界の浄めの日の9つの前兆 ホピの予言
・ホピ族は、アメリカ南西部の四州にまたがる不毛の砂漠地帯、フォー・コーナーズにそびえ立つ3つの高台に住む少数民族である。
・人口は1万人足らず(7000人とも)。雨も滅多に降らず、岩石質で樹木もほとんどないこの高台(ブラック・メサ)は、ホピ族にとっては世界の中心であり、最も神聖な場所である。それは、彼らが最初にこの世界に現れたときに、世界の守護神マサウウから、世界が終わるときまで清く保っておくように委ねられた場所なのだ。(中略)
・ホピ・スポークスマンとして世界的に名が知られるトマス・バニヤッカによれば、大陸渡来前のことまで含めれば、彼らの歴史は約5万年の長きにわたるという。彼らはさらに、「未来」の歴史までも岩に刻み、あるいは代々語り継いできた。
・ホピの予言は、ここ20年ばかりの間に世界の注目を集め始めた。広島と長崎への原爆投下が、彼らの予言の中に記録されていたという話は有名だ。
白い兄弟はサークルをクロスに替えにやってくる
そしてわれわれに、白人のように生きることを強制するだろう
彼らはこの聖なる大地を掘り返し、
そこで搾取したものから「灰の詰まったひょうたん」を造るだろう
その「灰の詰まったひょうたん」が地上に投下されれば、
すべてを燃えつくし、一瞬で地上は灰になる
多くの病が長く続き、医者も薬ももはや何の役にも立たない
この土地を先祖から2千年以上にわたって守ってきたといいますが、スー族、ナバホ族、…等、他のネイティブアメリカンが住み慣れた土地を強制移住させられたのに比べ、ホピ族だけは移住を逃れてきました。それは彼らの住む土地があまりにも不毛過ぎていて、利用価値がないと判断されたからです。それほど、ホピ族は物質的には何もない生活をしてきたのです。
しかし、何も無かったはずのこの地からウラニウムが採掘され、それが精製されてヒロシマ、ナガサキに原爆として投下されたといいます。ホピの有名な予言には有名な「灰の詰まったひょうたん」というのがあり、上記のように述べています。
この予言が成就したことで、「世の終わり」が近いと感じたホピ族は、代々言い伝えられてきた数々の予言を公に公開しなければならないとする教えを実行に移したといいます。
実際に原爆が開発されるまで、その意味するところを知る者はだれもいなかったのだ。
・ホピにとって、これらの「予言」はむしろ「前兆」だった。
それは、われわれが生きている「第四番目」の世界が終わり、次の「第五番目」の新世界が出現するときに起こるという「大浄めの日」の前兆なのである。ホピは自分たちのもつ歴史と予言によって、第四世界も今や終わりに近づいていることを知っている。
・かつての三つの世界は、いずれも創造主の掟を忘れ、人類が物質主義、利己主義に陥ったことによって自滅した。そして、今の第四世界もまた、かつての世界と同じ末期症状を呈している。
・われわれの地球がふたたび浄められる日が遠くないことを知った彼らは、それまで秘密にされてきた予言と創造主の教えをあかるみに出し、世界に対して最後の警告者の役目を自ら担うことになった。第四世界の浄めの日の前兆について、彼らは幾つもの興味深い予言を提示している。(中略)
・フェザーという名のホピの長老はこういった。
「第四の世界はまもなく終わり、第五の世界が始まるだろう。どこの長老も知っていることだ。その前兆は長年の間に成就してきた。もう、ほとんど残されていない」。
老人は全部で九つの前兆を話した。
第一は、「白い肌の者たちが大陸にやってきて、雷で敵を打つ。」⇒銃を下げた白人
第二は、「声で一杯になった木の糸車の到来」⇒白人の幌馬車隊
第三は、「バッファローに似ているが、角の長く大きい獣」⇒白人が連れてきた牛
第四は、「鉄の蛇が平原を通る」⇒鉄道が大陸を横断した
第五は、「巨大な蜘蛛の巣が地上をおおう」⇒電線がアメリカ全土を蜘蛛の巣状におおった。
第六は、「大地に石の川が交差する」⇒ハイウェーが建設さた。
老人は、次に、未来の予言として三つ列挙した。
第七は、「海が黒く変色して、それによって沢山の生物が死ぬ」⇒70年代初頭に世界各地で頻発した大規模な石油流出事故。これによって海洋は黒く汚染され、多くの生物が死んだ。
第八は、「ロングヘアーの若者が部族国家に加わり、インディアンの生き方と知恵を学ぶ」⇒70年代中頃に若者の間で盛んになったヒッピー文化
最後の第九番目の兆しは「あなたは天の住居のことを耳にするだろう。それは大音響とともに落ちてくる。それは青い星のようにみえるだろう。これが落ちてまもなく、わが民の儀式は終わるのじゃ」。⇒現在のホピ族の多くは、アメリカの宇宙計画に関係したものととらえているようだ。(中略) |
ホピ 宇宙からの予言
ルドルフ・カイザー・著 林 陽・解説 徳間書店 1995年刊
『ホピ・宇宙からの聖書』
―神・人・宗教の原点 アメリカ大陸最古のインディアン
(1993/12)
30人の長老たちの話を集めた
フランク・ウォーターズ・著
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| 2011.9.9 |
食料危機対策
・自給
・それができない人はなるべく食料と水を備蓄する。 浄水器を買う。
そして日頃から食べる回数、食べる量を減らす訓練をする。
・いきなり断食するときついです。一日一食ができれば断食もできる。少しずつ慣らしていく。
・人間は野菜ジュースや青汁だけも生きていけるものなのだ。
人間、食べなくても少し、ビタミンなど取っていれば生きていける。体内にそういうシステムがある。それを知っていて、その観念のある人は食べ物がなくなってもジュースだけ飲んでれば生きていける。だからその観念を培うことが重要なのだ。
・食べないと死ぬと思っている人は食べ物がなくなって、食べられなくなったら本当に餓死する。
・難病も完治、仙人に
(食べない人びとから)甲田光雄
『「食べること、やめました」一日青汁一杯だけで元気に13年』森美智代
「不食の会」-山田鷹夫
・7月に上記の件を話題にしたことがありましたが、あらためて、びっくり! |
「餓死迫る日本」 |
| 2011.9.9 |
日月神示(ひふみ神示)-今一番大切な言葉
五十黙示録 第07巻 五葉の巻 第十六帖 (昭和36年代の言葉)
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。
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| 2011.9.10 |
深層崩壊
・山崩れや崖崩れのうち、滑り面が深部で発生し、表土層だけでなく深層の地盤までが崩壊する規模の大きな崩壊現象。降水量が400ミリを超えると発生しやすいとされる。
・深層崩壊による災害は、土砂による直接の被害のほか、川をせき止めて出来る「土砂ダム」が決壊して起きる二次被害、谷や渓流を岩石や大量の水が流れ落ちる「土石流」などがある。
( 2011-09-10 朝日新聞 朝刊 静岡全県 2地方 ) 国土交通省
・紀伊土砂崩れ「深層崩壊」の可能性
台風12号に伴い紀伊半島各地に大きな被害をもたらした土砂崩れは、岩盤の深い部分から大きく崩れる「深層崩壊」の可能性があるという。
過去の事例
【日時】 平成9年7月10日 午前0時45分頃
【場所】 鹿児島県出水市境町針原地区 針原川土石流災害
【規模】 約15万m3
【被害】 死者21名、負傷者13名、全壊家屋29棟
【雨量】 連続雨量400.5mm
水俣市土石流(H15.7)
・鰐塚山山系の土石流(H17 9)
【日時】 平成17年9月6日 午後9時30分頃
【場所】 宮崎県東臼杵郡美郷町野々尾(旧西郷村)耳川天然ダム災害
【規模】 約300万m3
【被害】 人的被害なし
【雨量】 連続雨量約1300
・モラコット台風による小林村の天然ダム(H21 8) |
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| 2011.9.11 |
日月神示と牛ステーキ
今日は9.11と3.11後半年のメモリアルデー
・子ども一人に日月神示の取り次ぎ
・日曜日に名古屋に出る用があったので、野菜のオーガニックレストラン&駐車場完備情報を入手。ところがである、メインディッシュを連れ合いと違うものを選択。同じ金額ならばとついつい私は「牛ロースステーキ」をオーダーしてしまった。日月神示に出会って以来、約半年?久しぶりに自らの選択での牛肉。肉食についての神示は知っていたのにである。とりたてて神に捧げることも忘れていた。
そして、オーガニックのサラダバーとスープ、ソフトドリンクをぱくぱく堪能。
最後に、理想通り、大事なご用もできて、とても幸せな思いで帰途についた。
・家に着くとちょうど7時。今日は9.11と3.11後半年のメモリアルデー。族で少し迷ったが「鉄腕DASH」を選択。見ながら少しずつ食事を作っていたら、番組が終わるころに急激に気分が悪くなってきて食事どころではなくなってしまった。昼食で満たされていたので、元々少ししかつくらなかったが、ご飯類が食べられず、それにやたら眠くなってしまい、家族に許しを得てさっさと寝支度をさせてもらった。
・あらためて、日月神示=ひふみ神示を通読させていただくこととした。
・神の臣民の食べ方についてきちんと書かれている。 |
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| 2011.9.12 |
改心・身魂みがき・掃除への気づき
昨夜、横になって気づいたこと、反省したことを今日からさらに実行あるのみ。
あと、残るはメール配信。 |
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| 2011.9.13~15 |
新つ世となれる、岩戸開く。神祀れ
ひふみ神示 第01巻 上つ巻 / (うへつまき)より
▼二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから
みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。
▼いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、…
早う神祀れ、まつれ、まつらえ、調和(まつり)、何事も真通理(まつり)が第一、神にまつはりて来い…
▼この知らせをよく読みて呉れよ。みつげを世に広めて呉れよ。早く知らさねば日本がつぶれる様なことになるから。日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。いづくも土にかへると申してあろうが、東京も元の土に一ときはかえるから、その積りでゐて呉れよ。残る者の身も一度は死ぬことあるぞ、死んでからまた生き返るぞ、三分の一の臣民になるぞ、これからがいよいよの時ざぞ。
▼岩戸が明けたら一度に分かる。残る者の身も一度は死ぬことあるぞ、死んでからまた生き返るぞ、三分の一の臣民になるぞ、これからがいよいよの時ざぞ。
▼初めの御用はこれで済みたから、早うお山開いて呉れよ。お山開いたら、次の世の仕組書かすぞ、一月の間に書いて呉れた神示(ふで)は「上つ巻」として後の世に残して呉れよ、これから一月の間に書かす神示は次の世の、神の世の仕組の神示ざから、それは「下つ巻」として後の世に残さすぞ、その積りで気をつけて呉れよ。御苦労なれども世界の臣民の為ざから、何事も神の申すこと、すなをに聞いて下されよ。
▼世はことごとに統一し、神世の礎極まる時代来る。新つ世、世が迫って岩戸があいた。弥勒の世… |
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2011.9.16~
~11.28 |
静岡県富士宮市の異常湧水
・現在、市内淀師地区を中心として、地下水位が上昇し、異常湧水の現象が起きています。淀師地区等における出水について、「富士宮市異常湧水警戒本部」を9月16日(金)午前9時に設置しました。地下水位の上昇については、例年以上の雨量が5月より観測されていることや、8月には台風12号、9月には台風15号の影響により、短期間に大雨が集中し降ったことが、異常湧水の原因と考えられます。
・地下水位観測井戸である湧玉観測井戸では、通常時の水位が標高117~118mで推移するところ、9月中旬以降は標高119mを超えており、例年より高い水位となっています。
・大雨が降ってからまだあまり時間も経過しておらず、また現在も地下水位は上昇傾向にあることから、市は、今後も警戒体制を継続します。
・湧玉観測井戸(基準観測井戸-湧水情報連絡会議の開催基準水位119m)ピーク 119.77m(10月15日)
・11月28日現在
観測水位は若干下がっていますが、依然として水位の高い状態が続いています。今後も降雨の状況、水位の変化を確認しながら、警戒を続けていきます。
富士宮市HPより |
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| 2011.9.25 |
ワンガリ・マータイさんと「もったいない」
・(Wangari Muta Maathai, 1940年4月1日 - 2011年9月25日)は、ケニア出身の女性環境保護活動家。ナイロビ大学初の女性教授となった。
2004年12月10日に「持続可能な開発、民主主義と平和への貢献」のため、環境分野の活動家としては史上初のノーベル平和賞を受賞した。アフリカ人女性としても史上初。関西学院大学、早稲田大学名誉博士など
1940年、ケニア中部の農家の娘として生まれ、アメリカ、カンザス州のベネディクティン・カレッジ卒業後、ピッツバーグ大学、ナイロビ大学で等で博士号(獣医学)を取得し。
1971年にはナイロビ大学教授に就任した。
1977年にグリーン・ベルト・ムーブメントを設立して土壌の浸食と砂漠化を防止する植林活動を開始。1986年にアフリカン・グリーン・ベルト・ネットワークへ改称後、アフリカ大陸全土で植林活動を行い、民主化や持続可能な開発の推進に取り組む。
また、独裁政権下にあったケニアにおいて、公然と政権を批判したことで数度の逮捕と投獄を経験。女であるにもかかわらず意志が強すぎ、コントロール不可能であると夫が国に訴え離婚させられた経験ももつ。
2002年に国会議員となり、2003年から環境・天然資源・野生動物省の副大臣を務め、ケニア・マジンジラ緑の党を設立して代表も務めている。
2005年3月28日、アフリカ連合経済社会文化会議の初代議長に選出された。
・2005年2月14日から10日間、京都議定書関連行事出席のため来日した際、日本語の「もったいない」という言葉を知って感銘を受け、同年3月に国連女性地位委員会で出席者全員と「もったいない」と唱和したこともある。「MOTTAINAI」キャンペーンとして展開している。
・2009年5月には旭日大綬章の伝達を受け、同年12月には国連平和大使に任命された。
・2011年9月25日、ガンのためにケニアの首都:ナイロビの病院にて急逝。71歳没。
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2011.9.26
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サウジアラビア
・厳格なイスラム教国のサウジアラビアが、女性の参政権を初めて認めることになり、周辺のアラブ諸国の民主化運動に刺激されてサウジアラビア国内で高まっている女性の権利拡大を求める声を、政府が聞き入れたという見方が出ている。
・同国は、イスラム教を厳格に適用して男性を中心とした保守的な社会制度がしかれ、女性は政治に参加する権利が一切、認められていない。しかし、アブドラ国王は、25日、演説を行い、
▼「地方評議会」では4年後に予定されている次の選挙から女性の立候補と投票の権利を認める
▼国会に当たる「諮問評議会」については、国王が初めて女性の議員を任命する方針を明らかにした。
▼サウジアラビアでは、「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の民主化運動の高まりに刺激され、女性たちの間では、女性の参政権を認めるよう訴える運動がインターネットなどを通じて広がっていた。
・サウジアラビアの女性たちの間では、禁止されている車の運転を巡っても、無免許で運転に踏み切る動きが広がっており(インターネット活用)、今後、そうした分野での変革につながるか注目される。⇒ムチ打ちの刑に
(NHKニュースより)
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| 2011.9.26 |
RSウイルス感染症、今冬に大流行の恐れ
・乳幼児に気管支炎や肺炎などを起こす「RSウイルス感染症」が流行している。国立感染症研究所によると、調査データがある2004年以降、この時期の患者数としては最多となった。感染研感染症情報センターによると、例年は秋から冬に流行するが、今年は6月下旬から患者が増え始めた。最新の1週間(9月12~18日)に全国の定点医療機関から報告された患者は1414人で、昨年10月末とほぼ同水準。東京や大阪、宮崎が多かった。
・札幌医科大小児科の堤裕幸教授によると、RSウイルスは患者の鼻水やたんに含まれる。せきやくしゃみ、ウイルスがついた手指を通じて感染。4、5日で鼻水やせき、発熱症状が出て、肺炎や呼吸困難で入院する子もいる。ワクチンや効く抗ウイルス薬はない。(asahi.com)
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| 2011.9.28 |
「死の泥」が新たな汚染源に 放射能、汚染スパイラルが止まらない。
福島第一原発にたまり続ける汚染水。処理のための浄化装置が本格稼働を始める。でも、稼働すれば一安心、とはいかないのが放射能の怖いところだ。[掲載]AERA(2011年6月27日号、3700字)
放射性物質の汚泥 新たな基準
・東日本を中心に各地の下水処理施設の汚泥などから放射性物質が検出されている問題
で、 農林水産省は放射性セシウムの濃度が1キログラム当たり200ベクレル以下のものについては、 流通ルートなどを管理したうえで、肥料として利用できるとする新たな基準をまとめた。
・この問題は、東日本を中心に各地の下水処理施設の汚泥などから放射性物質が相次いで検出されているものだ。政府は、先週、放射性物質が検出された汚泥などの取り扱いについて、
肥料用としては一律に「出荷を自粛する」とした方針を示しましたが、農林水産省は、24日、 新たに肥料に使う場合の基準をまとめた。 |
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| 2011.9.30 |
新聞エコバッグの作り方 |
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| 2011.10.1 |
佐吉の現役自動織機
・津市の臼井織布は、今も「伊勢木綿」を織り続けるただ1軒の工場だ。かつての伊勢別街道に面した店に入り、土間を奥に進むと、別棟の工場が見えてくる。引き戸を開けると、80年以上前に作られた織機がリズミカルな音を奏でる。
・日本の繊維産業の勃興を支えた豊田式織機会社、後身の豊和工業と、名古屋織機が作った力織機が2列に並ぶ。1列11台で計22台。奥にもさらに2列の織機が据えられているが、今は動かしていないためシートがかけられている。 「3社の織機は部品が共通しているんです」と、社長の臼井成生さん(53)。稼働している22台のうち半数の11台が、豊田佐吉が考案した「Y式織機」だ。
・Y式は1915年(大正4年)から23年(同12年)にかけて製造された。後に佐吉が発明するG式自動織機と同様に外部からの動力で動くが、よこ糸が切れると自動的にシャトルを交換するG式と異なり、Y式ではまだ人手が必要だった。
・それでも、値段が手ごろだったうえに耐久性に優れていたため人気を集めた。豊田自動織機製作所(愛知県刈谷市)は「約4万3000台が製造された。構造も簡単だったので模倣品も数多く作られた」と話す。同社によると、現役で働いているのは数少なく、臼井さんの工場のほかに、千葉県で民芸品製作に使われているという。
・ Y式は無地の小幅の布を織る。臼井さんの工場では縞や格子柄も織れるように改良している。頭上で回転する軸から動力を伝える革製のベルトも今では珍しい。部品はすでになく、廃棄された織機から集めたり、特注で作ったりして大事に動かしている。
・戦争中には軍から供出を求められ、1959年の伊勢湾台風では工場の半分が水につかった。昭和40年代には国による織機の買い上げ。つらいできごとを乗り越えてきた織機の音は、今も力強い。(村田博明)
【あしあと】伊勢木綿は江戸時代、津地方の重要な産物だった。江戸へは、いったん松阪を通って「松阪木綿」として販売されていたが、明治維新後は伊勢木綿の名で売られるようになった。工場だけでなく、農家で副業としても織られ、ピーク時の大正時代には、工場を含めて約1400軒が織っていたという。YOMIURI ONLINEより
和風総本家 9月29日放送 世界を変えた!ニッポンの職人
・三重県津市にある臼井織布にある昔ながらの機械。約100年前に製造された自動織機が動き続けており、明治ぐらいから各地で色んな人が手織り機を使っていたが、現在臼井織布の機械だけが残っている。日々の綿ぼこり取りから始まり、メンテナンスに関する申し送りも代々しっかり受け継がれているのだという。
1867年、静岡の貧しい農家兼大工の長男として生まれた佐吉は、家業を継ぐべく小さい頃から大工の修行をした。母親が夜な夜な織っていた織機に興味を持ち、佐吉が18歳になったころ発明家の道を歩むことになった。織布産業に目をつけ、11年間の開発期間を経て、織機の自動化に成功した。木鉄混製動力織機を完成させ、モーターで歯車を動かして布を作り、織布の世界に革命をもたらした。その後も小幅動力織機I式や鉄製広幅動力織機L式などを作り出し、鉄製小幅動力織機Y式は今も現役の織機である。織るスピードが遅いため柔らかい糸でも使え、それが衣服の肌さわりにも活きている。
佐吉は世界初の自動で糸を補充しながら運転できる無停止杼換式自動織機を完成させた。佐吉は自動車産業へと進出し、自動織り機を作ったのはトヨタグループの創設者のその他であった。その他は、新たに発明した商品は、長期的な試験を行い欠点を克服した上で商品化していった。
⇒佐吉と知多半島での足跡
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| 2011.10.1~2 |
ゴールデン・スランバー(黄金のまどろみ)
・伊坂幸太郎著『ゴールデンスランバー』(新潮社刊)
・中村義洋監督で全国東宝系(2010年1月30日公開)
・2011年3月12日にフジテレビの「土曜プレミアム」で地上波初放送される予定だったが、前日の3月11日に本作の舞台である東北地方で東北地方太平洋沖地震が起こった影響で休止となった。その後、同年10月1日に改めて放送された。
・私自身、このタイミングでこの映画を見ることになるとは! |
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| 2011.10.6 |
霊性の時代の夜明け
・昨日、仕事をとおして、またまた不思議なご縁のある方との再会を果たすことができました。
・シャーリーマクレーン⇒エドガー・ケーシー… 20年前にいざなわれた不思議な世界の広がりと、その後、特に最近の自分自身の気付きをお伝えしたいと思っていたら、何と、その方の方からごくごく自然に最近の境地を話してくださいました。
ありがとうございました。
⇒ 霊性の時代の夜明け
E21 世の終わり より
現在、あなたたちの惑星地球には、神の国からの「愛」が津波のように押し寄せている。それは、あなたたちの目覚めをたすけ、保証する。いたるところに、あなたたちの目覚めが差し迫っている兆しが見てとれる。あなたたちが、それに気付かずにいることは不可能であろう。あなたたちが今という時期に生まれてきて、このファンタスチックな出来事の真っただ中にいるということを喜びなさい。
あらゆる苦痛、悩み、葛藤、不和、不協和音、不信、失望などは終わりを迎える――永遠に。それが神の意志であり、そして、あなたたちの意志である。なぜなら、あなたたちは神と一体だからである。あなたたちの意志は神の意志と同一である。ただ、あなたたちは一時的にそれを忘れたに過ぎない。そして、その状態が終わる時は近付いている。それが「世の終わり」という言葉の意味するものなのである。
あなたたちが目覚める前には、いくらかの混乱や不安があるであろう。なぜなら、深い眠りから完全に目覚めるのは、大きな変化だからである。巨大な一歩である。それは、あなたたちが朝になって深い眠りから覚めたときに「何がどうなっているのかよくわからない」という感覚を感じるのに、いくらか似ている。
心配しなくてよい。あなたたちはもうすぐ完全に目覚める。そして、自分が本当は何であったかということに気づく。神を知り、あなたに個人的に向けられた神の愛の素晴らしさを知ることは、あなたたちにとって最高の喜びの時になるであろう。
目覚めを待つ間、あなたの光を高く掲げ続けなさい。あらゆる瞬間に愛と共感を示し、愛がもたらす平和の中で安らぎなさい。幻想の世界の中であっても、偶然に起こることはない。すべてのことは、意図を持って起こるのであり、その意図とは、学び進化することである。それが、あなたたちがしてきたことである。あなたたちの進化の速度は、目覚めへの準備が進むにつれて急速にあがっている。そして、その時が来るまで、あがり続けるであろう。
あらゆる瞬間に、あらゆる状況に対して、心を開きなさい。あなたを包みこんでいる愛を受入れ、吸収しなさい。その愛を、あなたが交わる人と分かち合いなさい。そうすれば、その人たちもその愛に包まれ、その愛をあなたと分かち合うであろう。あなたが交わり、しかも、あなたと同じような態度で応答しない人は、恐れと苦痛に捕えられており、あなたの愛と受容を絶対的に必要としている人である。その人たちはあなたのエネルギー場に入るだけでそれを受け取るであろう。
あなたは、この愛のエネルギーの交流をするのに、何もする必要はない。ただ、攻撃や防御をしないようにしなさい。それは、あなたから出ていく愛の流れをせき止める。攻撃に対して防御をしないのは怖いことに見えるかも知れない。しかし、思い起こしなさい。攻撃は、自分の価値を信じることができない人の、愛と受容を求める絶望的な叫びなのである。 |
霊性時代の夜明け |
| 2011.10.7 |
NY他全米56か所で二万人?デモ-「格差をなくせ」
原発復旧工事従事者 3人死亡?
アップル社とスティーブン・ポール・ジョブズ
1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。
スティーブ・ウォズニアック、ロン・ウェイン、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。
また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続けた。
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| 2011.10.7 |
霊的縦糸と横糸
切ってはならん。切ってもきれん。
先祖の誰ひとり欠けても今の自分はない。有り難し。
ごめんなさい。ありがとうございます。 |
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| 2011.10.7 |
2011年のノーベル平和賞
・リベリアのエレン・サーリーフ大統領(72)、
05年にアフリカで初めて民主的に選ばれた女性大統領。リベリアでは独裁政権下で14年にわたって内戦が続き、貧困が深刻化した。サーリーフさんは大統領に就任後、政府への女性登用など女性の支援に力を注ぎながら国家の立て直しをはかった。
・同国の平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)、
ボウイーさんは女性の参政権を訴え、宗派や民族を超えて女性を組織化した。サーリーフさんとも連携し、非暴力による民主化運動の先頭に立った。
・イエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32)
長期独裁政権が続くイエメンのジャーナリスト。NGOを創設し、女性の権利や表現の自由を訴え、「アラブの春」と呼ばれる中東の民主化運動にイエメンで関わってきた。
の3人に授与すると発表した。
紛争解決や民主化に女性が大きな力を発揮できることを示した功績を評価した。
ノーベル賞委員会は授賞理由で、3人を「女性の安全のため、平和構築に女性が参加する権利のために、非暴力で闘った」とたたえた。asahi.comより
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| 2011.10.10 |
麻賀多神社
・佐倉市-1社⇒佐倉駅下車
・成田市-2社(台方と船型の2か所。ひふみ神示ゆかりの神社)⇒成田からのバスがない場合は公津の杜よりタクシーにて片道約¥2000-
・思いがけず、ひふみ神示が降ろされたというゆかりの神社に参拝することができた。あらためて今年1年の不思議なつながりが見えてくるような小旅行となった。特にクライマックスにふさわしい麻賀多神社詣でだった。 |
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| 2011.10.11 |
鈴木巴那さんのお母さん
・地震発生から7カ月。宮城県石巻市立大川小学校の死者・行方不明者は74人になった。鈴木さん夫妻は愛娘・長女の巴那(はな)さん(小4)の帰りを待ち続けている。
・宮城県石巻市の震災の津波で息子の堅登君(小6)を亡くした。長男の遺体は先に発見されたが、巴那さんを含む児童4人の手掛かりはない。皆の懸命の捜索にもかかわらず、5月以降、大川小付近では不明児童の発見が途絶えた。お母さんは捜索打ち切りの不安を抱え、祈る思いで毎日現場に通った。
・5か月の節目に合わせて11日、兄弟が通っていた音楽教室の有志が遺族を招き、巴那さんの発見を願う演奏会を開いた。会場には2人の席も用意され、巴那さんが発表会で着るはずだった淡いピンクのドレスが置かれた。演目の最後を飾ったのは、巴那さんがピアノで弾く予定だった「Close to you(クローズトゥーユー)」。
「心を込めて演奏してくれるみんなの姿に巴那が重なって…」。お母さんさんは涙が止まらなかった。
・演奏会では、子どもや先生、母親ら一人一人がピアノのそばに置かれた二人と震災で亡くなった義母の写真に手を合わせた。「巴那にはみんなの思いがきっと伝わっている。帰ってくると信じ、待っていてあげたい」。お母さんはそっと涙をぬぐった。
・その後も夫婦は毎日のように小学校にある祭壇に通って巴那さんに手紙を書き続けている。そして、この震災で「人と人のつながりの大事さ」を心から深く知った、とも語った。朝ズバより |
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| 2011.10.12 |
過去を記憶する心臓
・「原発性肺高血圧症」という難病に冒されていたクレア・シルビアが、唯一助かる可能性のある「心肺(心臓と肺)同時移植手術」を受け、順調に回復したことから始まる。
・しかし、その後意外な変化が現れていることに気づく。
・嗜好が変わる-今まで好きでなかったビールが飲みたくなったり、大嫌いなピーマンが大好きになったり、フライドチキンが食べたくなるなど。
身のこなしが変わる-活動的になり、歩き方が男性的になる。
・ついには不思議な夢をも見るようになる-夢に現れてきた見知らぬ若者T・L⇒ティム。あるとき、直感的に彼が自分のドナーだと確信。この一連の変化は移植された心臓と肺になんらかのかかわりがあるのではないかという考えに至り、クレアは真相を探るべく行動に移す。⇒びっくりするようなことがわかった!!「ザ!世界仰天ニュース」2011.8/10放送分より |
『記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記』(クレア・シルヴィア他)
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| 2011.10.13 |
アラブ春の今、シリア
・エコノミスト調べの民主主義ランクでは152位のシリア。(1位はノルウェー、アメリカは17位、日本は22位、167位は北朝鮮)
・親の代から約40年間シリアの統治を継続するこの国の政治家は反政府デモを弾圧し、多数の死者を出していることで「殺人マシン」と言われ世界中から非難を受けている。その政治家の特徴から「キリンみたいだ」といえば即刻逮捕。タクシーの中で油断して政府の批判を口にすれば、運転手が密告して逮捕につながることは日常茶飯事という。
1982年にハマという街で政治家に対する大規模なデモが発生し、アサド前大統領は無差別破壊と爆撃を命じて街ごと潰してしまった。死者の数1~3万人とも。シリアの恐怖政治を象徴するハマの大虐殺である。
・今年8月にも、そのアサド前大統領の息子はデモを戦車隊で鎮圧させ、電気・電話・物流を遮断。海から陸に向けて艦砲射撃を行って街を攻撃したという。また、海外のジャーナリストは入国できないため、その国内の様子は携帯電話のカメラで撮り、インターネットに投稿された映像でしか見ることは出来ない。また、日本で暮らすシリア人男性は「シリアでは電話が盗聴されている。シリアにいる人と通話すると、逆にこちらが相手を心配してしまう。」と語った。
・リビアには軍事介入を行った欧米諸国だったが、シリアには軍事介入を行っていない。軍事介入には多額の費用が必要となるため、石油資源のないシリアに軍事介入を行う意思が無い。また、中東の安定化のために容易に介入できないという点もある。欧米諸国がシリアに介入した場合、パレスチナのハマス、レバノンのヒズボラ、イランは…。イスラエルをめぐる中東情勢問題があるという。
池上彰が伝える世界の今
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| 2011.10.13 |
広がる放射能汚染
・横浜市港北区のマンション屋上から猛毒の放射性物質、ストロンチウム90が検出されたことが12日までに分かった。福島第1原発事故で放出されたものとみられ、原発から100キロ圏外で検出されるのは初めて。専門家は「すでに広く飛散している。どこにでも(ストロンチウムが)あるということをきちんと認識すべき」と警鐘を鳴らしている。ストロンチウムの半減期は29年。
・千葉県船橋市金堀町の「ふなばしアンデルセン公園」の一角で、市民団体が12日に放射線量を測定したところ、毎時5・82マイクロ・シーベルトが検出されていたことがわかった。市民団体によると、2階建ての施設の雨どいから雨水が流れ落ちる地点で、地面から1センチの高さを測定した。これを受け、市が13日午前、同じ場所を測定したが、1・41マイクロ・シーベルトだったため、再度調査を行うという。
・東京都世田谷区の住宅街の歩道で毎時2・71マイクロ・シーベルトの放射線量が検出された問題で、区は13日、歩道に隣接する民家の敷地を含めた周辺で、より詳細な放射線量の調査を実施。
再調査で毎時3マイクロ・シーベルトを超える値を計測した。⇒後日、この件に関しては放射能汚染物質そのものが発見され、福島原発との関連性がないことが分かった。YOMIURI ONLINEより
⇒世田谷のホットスポットは近くに数ヶ所見つかり、埋め立て事業時の廃棄物と判明⇒産業廃棄物による新築住宅の放射能汚染の中国版は以前に報道されてされていた。
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| 2011.10.13 |
生涯現役
・日野原重明さん2011.10.4で満100歳に
・竹浪正造さん(93)の処女作『はげましてはげまされて 93歳正造じいちゃん56年間のまんが絵日記』(廣済堂出版)が週間1.5万部を売り上げ15位に初登場した。
今年は99歳でデビューした詩人・柴田トヨさんの処女作『くじけないで』(飛鳥新社)が実売100万部を突破するなど、書籍界では高齢者の作品がロングヒットを記録。93歳の新星が漫画界にどのような新風を吹き込むのか?
注目を集めそうだ。オリコンより
・彼の名前はまったく思い出せなかったが、その作風から彼の絵をテレビで見たときの衝撃の記憶は蘇った。 |
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| 2011.10.13 |
防災や緊急時の多数派同調バイアス、正常性バイアス
・韓国地下鉄火災事件
・2003年2月18日午前9時53分、通勤ラッシュが一段落したした韓国・大邱(テグ)市、中央路(チュアンノ)駅で地下鉄放火事件が発生。この事件で約200人の尊い人命が奪われた。事件後新聞などで公表された中に、地下鉄車内で乗客が出火後の状況を写した写真(左)があった。煙が充満しつつある車内に乗客(10人くらい)が座席で押し黙って座っているという不思議な写真だった。
「なぜ逃げようとしないのだろうか?」
・これは「多数派同調バイアス」(majority synching bias)と「正常性バイアス」(Normalcy bias)によって非常呪縛(Emergency
spell)に支配されてしまった結果であろうと思い至った。
・バイアス(bias)とは、心理学的には「偏見」「先入観」「思い込み」などと定義されている。
「多数派同調バイアス」と「正常性バイアス」は認知バイアスの一部と認識されている。
私は緊急時における「非常呪縛」(Emergency
spell)とよんでいる。
・特に災害や事件などの非日常の状況が発生したときの「無思考状態」に陥ったときや、あれもこれもやらなければならないと思ったときに「優先すべき行動が混乱しわからなくなってしまう」。
・煙が駅と車内に充満したとしたら、心の警報が鳴り響き、客観的には直ちに避難するなどの緊急行動をとると思うのが自然だが、過去経験したことのない出来事が突然身の回りに出来したとき、その周囲に存在する多数の人の行動に左右されてしまうのだ。それはその人が過去様々な局面で繰り返してきた行動パターンでもある。
・どうして良いか分からない時、周囲の人と同じ行動を取ることで乗り越えてきた経験、つまり迷ったときは周囲の人の動きを探りながら同じ行動をとることが安全と考える「多数派同調バイアス」(集団同調性バイアス)という呪縛に支配されてしまうのだ。こうした心理が同じ境遇に陥った乗客同士にも働いたものと考えられる。加えて、こんなことは起こるはずのない信じられない出来事と捉え、リアル(現実)ではなくヴァーチャル(仮想)ではないかという心理が働き、異常事態というスイッチが入らない状態、つまり「正常性バイアス」が働いてしまったものと思われる。ある番組で、この写真に写っていた人で助かった若者を探し、その時の心理状況を聞いたところ「最初は、まさかこんな大変な火災が発生していたとは思わなかった」「みんながじっとしているので自分もじっとしていた」と話していた。まさに、正常性バイアス、多数派同調バイアスという非常呪縛に縛られた結果だったのだ。
・「その後、誰かが火事だと言ったので、慌ててガラスを割って逃げて助かった、ほかの人のことは分からない」とのことだった。このように集団の場合ほど「非常呪縛」(Emergency
spell)に陥りやすく逃げ遅れる可能性が高いという。
・神奈川県平塚市の防災無線の事件-1981年10月31日午後9時3分ごろ、神奈川県平塚市 防災無線、非常放送の緊急メッセージは野バラのメロディーの後、市長からのメッセージが流れた。
・大切なのは発災時「日常」から「非日常」、「平常」から「非常」、「通常」から「異常」へ心を切り替えさせること。
・特別の力が働かない限り同じ運動を繰り返すという運動の「慣性の法則」がありますが、日常においても人は日常生活が平穏に継続する時空に棲んでいます。いわば「日常継続思考の法則」という慣性が働いています。ですから、突発的な出来事が起きたとしてもすぐには対応できない。
・何らかの力を外部から与える事によって、はじめて臨機応変の行動に移れる。
・発災時における防災無線、非常放送などに期待されるのは「リスク予兆認知バイアス」の非常呪縛から解放し、緊急事態スイッチをONにすることなのです。そして、リスクの早期「気づき」を促進するためには、実践的防災知識と意識付けが重要だ。
・東北関東大震災でも閖上地区の最初の指定避難所付近でそのような行動が多く見られたことが確認されている。
防災対策が進まない理由のひとつに「認知不協和」
・「近い将来大地震が発生すると思いますか」と聞くと、80%以上の人が「ハイ」と答える。
・それなのに「なぜ耐震対策をしないか」という不思議。
・そこには市民の隠された防災心理がある。「地震が発生する確率が高い」という認識と同時に「このままでは自宅が倒壊する恐れがある」それなのに「自分は何もしていない」とすると、そこに受け入れがたい矛盾が生じる。
・その矛盾を解決するためには自分に都合のよい言い訳を見つける。
・「大地震がきたからといって、すべての家がつぶれるわけはない」
「すべての場所が震度7になることもない」
「阪神・淡路大震災のとき、古い家でも倒れなかったものもあった」「だから、たぶん自分の家は大丈夫…」という風に、懸念を軽減するための魔法の言葉を都合よく捜し、それにすがって矛盾を解決し心の安らぎを得ようとする。これを心理学では「認知不協和」という。
・実際には矛盾(認知不協和)は何も解決されているわけでなく、とりあえず目先の不安を考えないようにするための方便を自らつくりだし心のバランスをとる。この何の根拠もない「安全の思い込み」がある限り、防災対策を必死で考えようとしないのだ。
・こうした考え方を払拭させるためには、都合のよい思い込みを超える意識付け、インパクトのあるモチベーションを持たせることしかない。今、行政や企業がコストとエネルギーを傾注しなければならないのは、市民や社員への意識啓発だ。箱物やシステムを作るよりも、防波堤を高くすることよりも、まず一人ひとりの危機意識を目覚めさせ心の堤防を高くすることだ。防災システム研究所より |
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2011.10.17~
10.28(大潮)
~11.9朝現在も好転せず |
タイと記録的な大洪水
・タイの洪水が早ければ今週中にも首都バンコクを直撃し、危険な水準に達する見通しになり、同国政府が警戒を呼びかけている。同国は7月末以来、モンスーンによる豪雨で少なくとも過去50年で最悪の洪水に見舞われており、被害が深刻化している。
・首相はテレビ演説などを通し、約70億立方メートルの水がタイ北部からバンコクに向かって流れ込んでおり、バンコクを流れるチャオプラヤー川が氾濫する危険性があると説明。AP通信によると、約400基の送水ポンプを同川沿いに設置し、バンコク郊外には7本の放水路を準備している。
・人口約600万のバンコクは市内の大部分が海抜2メートル未満に位置しているため、洪水の被害を受けやすい。今回のバンコクの洪水は、1995年に約120億バーツ(約297億6000万円)の損害をもたらした洪水を上回る可能性があるという。15~17日にかけては高潮も予想され、同市での洪水悪化の懸念材料となっている。同国の災害予防軽減局の8日の発表によると、7月25日以降の大雨の影響による死者は少なくとも253人にのぼる。77県中約30県で浸水した状態が続いている。
・タイ商業会議所大学は今年の洪水の被害総額は1300億バーツに達すると見積もっている。(SankeiBizより)
・洪水で動物園からワニが100匹以上、脱走。注意を呼び掛け懸賞金をかけて捕獲に尽力している。
・感電死者が死者の10%に達した。
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| 2011.10.17 |
人類は今も進化し続けていることが判明/カナダ離島住人に共通の遺伝子変化
・急激なテクノロジーの発展に伴い、人類は動物本来の特性を失ったといわれる昨今。しかしその説に反して、人間は生き物として変わることなく進化を繰り返している。・進化とは、生活していく状況に応じて柔軟に対応していくことを指す。私たちは、自分でも気がつかないうちに今もなお進化を続けている。
・カナダ・ケベック州に位置する人口僅か1200人ほどの離島、L`lsle-aux-Coudres。研究チームは人間が進化を続けていることを証明するために、この島に住む女性たちの出生死や結婚・出産を1799~1940年までのおよそ140年もの間調査し続けてきた。
・140年という長い歳月をかけて、島の女性たちの平均初産年齢が26歳から22歳へと若返っていたということと女性たちの生活環境および経済状況なども考慮しても、全女性の3分の1に共通の遺伝子変化が起きていた。
・研究チームを率いたカナダ・ケベック大学で教授を務める遺伝子学者エマニュエル・ミロット氏の見解では、島の女性たちは生殖の開始を早めることで人口増加を図るという自然淘汰を行った。実際に、1720年~1773年まで島に暮らした人間は僅か30家族のみで、それ以上増えるということはなかった。しかしその後、細かな遺伝子レベルの変化を重ねて、初産年齢を早めるというかたちで人口を増やしていった。・そもそも女性たちがこの島に住むことを選択したのも、確実に遺伝子を残すために適した環境だったからとの見方が強く、以後起きた遺伝子の変化も、女性たちがたくさんの子供の出生を望んだからだとみられている。子供を育てるための豊富な時間と、それが許される環境。そしてそれに伴うよう女性自身が遺伝子レベルで進化したことによって、この小さな離島の人口はゆっくりと、しかし着実に増加していった。
・人類進化の痕跡はこれだけに留まらず、世界各地で確認されている。過去5000年間、本来口にすることがなかった乳糖に人間が慣れ、頻繁に食されるようになったこと。そして高地に住むチベット民族が、酸素濃度が薄くてもその地に適応していること。これらも人類進化の一部なのだ。現代の生活の中にどっぷりつかっていると全く気が付かないであろう、人間の進化という事実。でもきっと、過去を振り返れば環境に適応していったという経験があるはずだ。どんなに小さなことでも進化のひとつだとするならば、人間もやはり動物の一種にすぎないのだ。2011/10/13 20:17 yahoo ネタリカより |
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| 2011.10.18 |
酔仙酒造、間借りしての福幸の酒販売再開-雪っこの1銘柄のみながら |
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| 2011.10.20 |
喜び神ぞ、神喜ぶ「嬉し嬉しの世」
・「喜」は御馳走を盛った様。にぎやかに笑って食事をすることを示す。御馳走を供え、または音楽を奏でて喜ぶことをさす。
・「喜ぶ」⇒「嬉しい」。この文字に何と大きな気づき・悟りがあったことか。 |
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| 2011.10.22 |
動物と話せる女性ハイジとある日突然動けなくなった犬のロムとの対話
・山岡一家で飼われているミニチュアダックスフントのロムは、ある日、原因不明の状態になり半年以上寝たきりの状態が続いている。家族は、どうして今の状態になったのかということと、突然鳴き続けることがあり、それが何を伝えようとしているのかを知りたいと話していた。
・ハイジは土の匂いを感じ取り畑で走り回っている様子を伝えると、山岡さんはとても好きで追いかけるのが大変だったと語った。
・さらにハイジは好奇心の強いロムが道に落ちていた白い錠剤のイメージを伝えた。普通に買える薬や農薬1錠でも犬の体調を奪うものがあり、ハイジは奇跡的な回復を待つしか無いとした。
・ハイジはロムの悲しみについて、何が起きたのか未だに理解できず、理由がわからないまま苦しみ続けていると話した。
・また、ロムが倒れたときに家族がおじいさんを攻めたことを話した。ハイジは、ロムが倒れたときに家族がおじいさんを責めたことがあるのでは、と切りだすと、家族はそのことを認めた。ハイジはロムがみんな仲間だと伝えていることを話し、更にロムの楽しいときのイメージを絵にして伝えた。それは、鈴菜ちゃんのために開かれた誕生バースデーのケーキのイメージだった。動物の中でも、特に犬は楽しい思い出や辛い思い出を長い間覚えていると話した。
・最後に、ロムはハイジを通してまた僕は走れるようになると伝えた。天才!志村どうぶつ園より
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| 2011.10.24 |
トルコ東部で地震
・23日午後発生したマグニチュード(M)7.2の地震で、シャヒン内相は、「少なくとも東部ワンで100人、エルジシュで117人が死亡した。1090人以上が負傷している」と明らかにした。死傷者数は大幅に増える可能性が高い。国内のレスキュー隊約1300人と軍が現地入りし、重機も使って徹夜で救助作業を続けた。
トルコ赤新月社によると、ワンで10棟、エルジシュで80棟以上の建物が倒壊した。APによると、崩壊した建物の周辺では、生き埋めになった負傷者を助け出そうと、人々がスコップや素手でがれきを掘り返している。夜に入っても強い余震が続き、屋内は危険なため、戸外でたき火をして過ごす住民も多いという。
米地質調査所の観測では、発生後約10時間以内に周辺でM5以上の余震が4回あり、うち1回はM6を記録した。トルコは地震多発地帯に位置し、99年に北西部の大地震で約1万7000人が犠牲となったほか、昨年3月には東部でM6の地震が起き、約50人が死亡した。今回地震があったワン近郊でも、76年に約4000人が死亡する地震があった。ヤフーニュースより |
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| 2011.10.25 |
円、21日NYで一時1ドル75.78円にも、最高値を更新。
24日、東京時間午前のドル円為替レートは76.3円台。先週末のニューヨーク市場でドル円が史上最高値をつけたためドルが反発する展開。円の高値警戒感に加え、短期筋がドルロング(ドル買いポジション)で介入待ちのスタンスを取っているとの見方もあり、ドル優勢の格好。国内勢は76円近辺で買い指値を重ねているとの見方が出ていることもドルには追い風となっているようだ。ヤフーニュースより |
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| 2011.10.26 |
今日は特別な日、一層深く広くつきぬ「祈り」をはじめる日
・今日もまたとてもとても特別な日となった。心からあなたに、私に、世界に、宇宙に「おめでとう」。そして、大き神に「ありがとうございます」。
・日月神示の「謄写よいぞ」をはじめた日。 |
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| 2011.10.30 |
親族の縦糸と横糸
・命の糸をしっかり紡いで、丈夫な織物とすることを誓った日。感謝感謝。 |
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| 2011.10.31 |
中国ガン村の惨状 あるボランティア女性の報告
・マレーシア在住の中国系女性・唐米豌さんは2002年からの7年間、中国のガン村で患者を支援するボランティア活動を続けてきた。
・2009年、彼女がガン村の惨状をまとめた文章を発表して以来、中国政府のブラックリストに載せられて、入国禁止となった。唐さんは、「この7年間、私は命の尊さを真に理解できた。そして、自分は以前どれほど贅沢だったか、どれほど浪費していたかを思い知らされた」という。
以下は彼女が明らかにした内容の概略である。
・中国には200か所以上のガン村が存在するといわれている。私は広東省の医療チームに同行して、河南省の30か所のガン村を訪れていた。これらは皆外国人が立ち入り禁止の地域であり、一部の村の入り口には柵が設けられており、村に入っても勝手に質問したりしてはならない。むろん写真撮影は絶対禁止。ただ、中国人の顔を持つ私は真相を知ることができた。
・中国の農村部を歩き回って7年間、私が最も驚いたのは、極貧村でもなければ、江西省での地震でもなく、ガン村の現状である。
・湖北省には唐河という河があり、河南省の区域に入る と唐白河と呼ばれた。川沿いには200か所以上の村があり、各村の世帯数は200余りで、人口は約1千人。そこの外資系企業の工場が汚水を川に垂れ流しているため、唐白河全流域がひどく汚染されている。沿岸の村の人々はその川の水で生活しているため、多くの村民が末期ガンを患っていた。医療チームの女性看護師は、一度その川の水で手を洗っただけで、指が腐乱しだした。
・半年以上排便していないガン児童
・自腹で、ガン村でボランティア活動
・最大の悲しみ:一粒のキャンディ
・強盗に遭い負傷して国に帰る
この一件の後、神様が私を助けてくれていると感じた。ガン村での体験を書いた「血染綿花地」(血に染まった綿花の地)が、第三回星雲文学賞で短編小説の特別優秀賞を獲得した。賞金の額は、私が当時奪われたお金と同額だった。神様が私にお金を返してくれたのだ。
・ガン村の子どもには明日がない
・オリンピックの盛大な式典と村人の命
・外国人はガン村立ち入り禁止
・中国を離れてから、唐さんはガン村の真相を本にまとめて発表した。彼女は依然として、中国で貧困者支援のボランティア活動を続けたいという。「しかし今、私は中国への入国が禁止されている。ブラックリストに載ったのだ」
・唐さんは外国人が見ることのできない、そして、多くの中国人が関心のない現実を図らずも見ることができた。彼女は、自分が目の当たりにしたのは氷山の一角に過ぎないという。「中国では一体、どれほどのガン村があるのか、知る術もない。控えめな統計でも、中国の農村部では3億人以上が安全な生活用水がない」という。(HPより)
・中国メディアによると、こうした「がん村」は周辺に20か所。死因の7割ががんともいう。「身内の結婚に不利だから、がんにかかっても人には言わない。死んで初めて
わかるんだ」。陳口村で病人家庭を訪ねようとしたら、こう答えが返ってきた。04年末の推計では、高濃度のフッ素やヒ素などの汚染で、安全基準以下の水を飲む農民は、全国に約2億2千500万人いる。井戸水汚染に政府無策 (2006年3月6日
讀賣新聞朝刊)
フィリピンのスモーキーマウンテンと四ノ宮監督
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090623/162208/
カンボジアのごみの山とスラム
ガーナ-煙の中の子どもたち
・ガーナ共和国の支援を行っているNPO法人のHPEE JAPANの久保浩子さんが登場。
・ガーナでは、使えなくなった電気製品が大量にあるが、本来なら家電製品の輸入は、法律で厳しく取り締まられており、処理に困った先進国の業者と、ガーナ国内の儲けたいグループが手を組んで、違法に輸入されている。
・子どもたちは、処理業者からテレビやパソコンのコードをもらって焼き、中の銅線を取り除いているが、その煙は有害物質であり、15歳のダガラ・アンダニの足には、やけどの痕がある。収入はわずか1ドルで何とか食いつないでいる。
・こうした銅は大手輸出業者に運ばれ、先進国に戻っていく。
・ダガラ・アンダニの後をついていくと、友人ら4人と住んでおり、彼は体に染み付いた体の匂いを落とすため、入念に体を洗っていた。夜はロウソクの光だけで寝る。翌日はあいにくの雨で仕事ができず、お金を手に入れることはできなかった。
ダガラ・アンダニは3年ぶりに故郷へ帰ったが、彼は祖母に、彼が家を出た後に、母親が家を出たことを聞いた。そして久しぶりに父に会ったが、父は、見覚えのない傷跡が足にあることを知った。ダガラ・アンダニは約770円のお金を父に渡し、故郷をまた後にしてコードを焼く仕事に戻った。彼はお金をたくさん稼いで、大きな家を建て、そこで家族とみんなで住む夢を持っていた。
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| 2011.10.31 |
世界の人口が70億人に
10月31日、世界の人口が70億人に達したと国連人口基金(UNFPA)が発表した。この日生まれた子には、UNFPA東京事務所から申請に応じて「70億人目の赤ちゃんの一人」の認定証が発行されるという。(Yomiuri Online)
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| 2011.11.1 |
TPPと規制緩和問題
・農業以外にも24項目に及ぶ規制緩和と関税撤廃を目的としたもの。
・その推進を狙うアメリカの意図さえ明らかになってきた。資本主義経済を主導してきたのは米国であり、ほどすべての分野で攻勢をかけることができる。
デメリット-参加をすればまず間違いなく日本という国の文化そのものが崩壊する。
・すなわち、まずは農業分野での日本農業の破壊である。更に、アメリカ基準での農薬残留規制の緩和や、遺伝子組み換え農作物の表示を外す、そして牛肉などのBSE対策での生後20ヶ月までの牛肉輸入制限の撤廃等など、米国基準の適用を画策している。
・日本の金融、保険、医療、通信、建設、食品、物流、サービス、IT等ほぼすべての分野が例外なく適用され、下手をすると各国の法治国家の法を超えてTPPの決定事項が優先される事になる。
これらの分野をアメリカ基準に規制を緩和させ、日本の皆保険制度を潰して、全ての医療を民間保険会社、すなわちアメリカ資本の保険会社に肩代わりさせるものである。あるいは、簡保、郵貯を完全民営化させ、ハゲタカファンドに奪い取らせようとするものだ。
・農業以外の分野でも日本の根幹を揺るがせ、完璧にアメリカ型の新自由主義、格差社会を日本社会に持ち込もうとするものである。
・関税が撤廃されるから、日本の輸出が伸び、経済成長が図られ、雇用が伸びるといわれる。現状、歴史的円高である。関税が、ほんの少し撤廃されたからといって、更に円高が進行すれば、その競争力や利益は吹っ飛ぶ。
・労働者にとっては人の移動の自由さえ図られる。企業は、使い捨て労働として外国人労働者を雇い入れ、労働条件は無茶苦茶、そして使い捨てるのだ。日本の労働者は、ますます雇用の場がなくなってくる。現状、日本の農業、漁業などの大規模法人は、外国人「研修生」で成り立っている。
・農業は規模拡大すれば、国際競争力や輸出さえ出来るのか。20~50ヘクタールに規模拡大したところで、アメリカやオーストラリアの規模には太刀打ちできない。
・日本の農産物は高品質だから、充分国際競争力があると言うが、福島原発事故の放射性物質の飛散もあって、輸出などそんなにたやすいことではない。そのような農産物を輸出するべきではない。
・日本の国土の70%は山林である。農業の規模拡大や効率化を図るということは、とりもなおさず中山間地の農地は効率の面から放棄するということである。そうすれば、耕作放棄地はものすごい規模で拡大していく。それは、国土の荒廃が一挙に進んでしまうことでもあるのだ。自然災害は、放棄された山林や耕作放棄地の影響で、一挙に拡大するだろう。
・都会への水源はズタズタに寸断される。
・バランスのいい人口構成は崩れる。
・世界規模で食糧危機が発生すれば、たちまち日本社会は食糧危機に陥る。そこへ、遺伝子組み換え食料や残留農薬規制撤廃によって、食の危険はますます拡大する。
URL:http://luna-organic.org/tpp/tpp-1-1.html
メリットは? |
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| 2011.11.3 |
ファイト・レメディ(エ―ション)と献身の花、マリーゴールド
・マリーゴールドの意は「聖母マリアの黄金の花」。
・マリーゴールドは特殊な能力を秘めている。
■害虫を駆除(線虫なども)
■有害物質を吸い取る
■花期が長く、美しい。乾燥に強く品種により、切り花にも鉢植え、路地植えにも適する。
ギャローデット大学
・アメリカ合衆国ワシントンD.C.にある聴覚障害者のための大学。私立大学でありながら、連邦議会より多額の補助金を受けている。この大学の教員であった言語学者ウィリアム・ストーキー(William
Stokoe)が1960年に発表した論文「手話の構造」は、手話が自然言語であることを初めて指摘したものとして知られる。
・大学内でのコミュニケーション手段はアメリカ手話(ASL)と書記英語。アメリカ手話は、学生、スタッフ、教職員、学長など、全ての人が習得。
・ギャローデット大学は世界中から留学生を受け入れている。
・聾学校の校長になったり連邦政府高官を務めた人や、聾関係団体のリーダーとして活躍する者など多くの人材を輩出している。また、芸術分野で活動し、高い評価を得ている卒業生もいる(全米ろう者劇団の創立メンバーの一人で舞台におけるパイオニア的な役割を担った俳優、トニー賞を獲得した聾の女優や手話ダンサーズの「ワイルド・ザッパーズ」など)。今井絵里子が息子のためにも取材 |
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| 2011.11.5 |
タキイ種苗の取り組み
創業176年の教え "一粒万倍"経営 ~良いタネを売れば会社は発展するが一粒でも悪い物を売れば 会社は潰れる~
・1974年 日本中の大根に革命を起こした"青首大根"の開発!
・それから10年後、トマトの代名詞になった"桃太郎"を開発!
・毎年2000品種の中から新種を育成し、10年かけて商品化されるのはわずか1種類という究極の製造業、常に10年先の市場を見通す開発力でリストラも借金も一切なし!176年も続く奇跡のもの作り企業・タキイ種苗
・5代目瀧井 傳一が跡継ぎ問題、自給率の低下と悲鳴を上げるニッポン農業をタネから救う!
大ヒット連発!日本の食卓を支える 驚異のパワー!
・節電対策として今年の夏に流行った緑のカーテンなど、手軽に出来る家庭菜園のブームが起きている。マンションのベランダで主婦が簡単に始めるベランダ菜園もあれば、町中の市民農園も急増している。そんな家庭菜園で素人が簡単に育てることができるものから、プロ農家が頼りにする商品まで、実に幅広く展開するのがタキイ商品、実はタキイ
世界で4番目の種苗メーカー(野菜種子)なのだ。定評あるのがその商品開発力、今や世界で主流のF1交配種の生産に成功したのもタキイが最初、あの青首大根も桃太郎トマトも、人参、…どれも日本でトップシェアなのだ。
・10年後のトレンドを見越して膨大な資金を投入して新種を開発し続けている。例えばトマトの桃太郎は85年の発表以来、毎年「寒さに強い」「病気に強い」といった新種の桃太郎を発表し続け今やその種類は24種類にも上る。消費者に「おいしい」と支持されるのはもちろん、かつ農家が作りやすい究極のタネを作り続けるのだ。⇒「温暖化に強いトマトづくり」。「30万種の種の保存」「遺伝子組み換えをしない」…
・発芽率では国の基準を10%以上超の90%の種を内部基準にするほどこだわる。「タネ屋は信頼を売る商売。一粒たりとも悪い種は売りたくない」
5代目の経営改革… 日本の農業を近代化せよ!
・"タネ屋はタネに徹すべし" タキイに代々伝わる教え…しかし5代目・傳一はその教えを破り、タネを売るだけのタネ屋から脱却を遂げた改革者だ。
・海外事業に力を注いだ80年代、現地で愕然とさせられたのが近代化された農業の姿だった。
「このままでは日本の農業が手遅れになる」この危機感を胸に、傳一は近代化に取り組む。
タネは大きくコーティング加工することで、農家は播きやすくなって作業効率がUP。
・後継者不足で人手が足りない農家向けに、タネから苗をつくって販売する育成事業にも踏み出した。(社内の猛反発を説得)
ニッポンの農業を守るのは俺たちだ! "人作り""もの作り"
・全寮制「タキイ園芸専門学校」
・10年先、世界で勝ち残る野菜作りが着々と進んでいる。そのひとつが"機能性野菜"と言われる新ジャンル。見た目は変わらなくても栄養価が高いといった、他社との差別化を図る商品が今、世に出回り始めている。付加価値の高い野菜を作り、農家もタキイも日本の農業も救われる明日のタネを撒こうとしているのだ。カンブリア宮殿(2011年10月27日放送より)
・1947年、戦後の食糧難の中で農業の担い手を育てようと、当時は京都にあった研究農場に併設(現在は滋賀県湖南市)。全寮制で18~24歳の男子限定。これまで3040人が卒業し、今年は本科生(一年生)52人と専攻科生(二年生)17人が学ぶ。
・授業料と寮費は無料だが、実習は過酷で規律も厳しい。後継者不足が続く一方、地に足を着け、労働実感の得られる仕事として関心を抱く人も増えている農業。土と向き合い、仲間と過ごす日々の中で、日本の農業を担う若者たちが育っていく。
・タキイ種苗(京都市)が運営する「タキイ研究農場付属園芸専門学校」の農場の敷地は約七十ヘクタール、東京ドーム十五個分の広さ。畑に移動するときは、いつも駆け足。
・授業は実習が中心。本科生は年間千五百時間の実習と三百五十時間の講義がある。ナスやキュウリといった果菜類、大根やニンジンなどの根菜類、葉菜類のキャベツや白菜、花卉(かき)-。実習はグループに分かれ、ハウスや露地などで栽培する。機械を使わず、夏の炎天下での畝づくりも人力作業。福嶋雅明校長は「自分の足で畑を歩き、土を見極める経験が大切。機械しか知らないのと、手作業を知った上で機械を使うのとでは、大きく違う」と語る。
・農場は、新しい品種を研究開発する育種の現場。生徒は社員と共に栽培を担い、農場側は「農業の最新知識や技術を惜しみなく与える」(福嶋校長)。…
・本科生は相部屋で、食事や消灯の時間が決められ、携帯電話の使用も制限される。整理整頓は必須。福嶋校長は「農業の勉強以前の基本を教えているだけ。農機具庫がきれいな農家は収益を上げている」と指摘する。(中日新聞Webニュース 2011年10月14日より)
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| 2011.11.6 |
・抱きしめてびわ湖
・桜ライン、陸前高田にて |
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| 2011.11.6 |
常滑市大野町の濱薬師、海音寺で60年に1度の御開帳
・海中から引き揚げられたお薬師さま
・雨でお堂ともども流されたお薬師さま
・海音寺と養老郡養老町下笠地区との末永い今でも続く交流。
このフラフラっと、何かに導かれるように最後にもう一歩足、恩波楼まで足をのばしたいと思った。そうだ!連れ合いの撮った写真だ!すると、その手前で浜薬師さんの幟旗がはためいていたのだった。友人2人の声に導かれてついていくと思いがけないエピソードと素晴らしい仏像写真と思いのこもった解説を聞かせていただくことができた。 |
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| 2011.11.9 |
リンカーンフォーラム - 愛知県常滑市の市長選 |
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| 2011.11.10 |
・20119.16 生活保護受給者が200万人を突破 生活保護3兆円の衝撃
・2011.11.9 生活保護の受給者は、今年7月現在で205万人を超え、戦後の混乱期の水準を上回り
、過去最多を更新。 NHKニュース、ドキュメンタリー番組より
生活保護に関する厚生労働省の統計 |
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| 2011.11.10 |
デンマークのロラン島と自然エネルギー
・テレビの番組を途中から見ることになったが、思わずメモを取らずにはいられなかった。
デンマークの自然エネルギーについての番組だった。
・かつて、デンマークは、オイルショックの影響で電気不足になってしまい、国が原発導入を決め、比較的大都市に近いロラン島で、原発を作る予定だった。
・そのとき、原発について、「市民にも考えさせて」という少人数の訴えから始まり、国の原子力委員会の委員長の決断により、三年間考える猶予期間が出来、原発賛否の客観的資料(小学生でもわかるようにし、賛成と反対の意見を左右両ページに見開きで比較できるようにした)も国民にしっかり示され、しだいに国民も知識を増していった。
・元教師のウフェさんを委員長とする原子力委員会(?)は圧力もかかり、2年で解散に追い込まれた。しかし、委員会や市民代表は、あくまで反対決定の前にまず「充分に知ること」を望み、行動した。
国、経済界、マスコミ、なども原発推進であり、大変な中を頑張ったという。当初3年の計画だった委員会を2年で解散させられることがきっかけとなり、市民の運動がより大きくなり、広まっていったという。)
・結局、1985年、デンマークは原発ではなく自然エネルギー導入を決めた。
・国民がエネルギーについて考えるようになり、例えばメゴーさんは「ハーモニー作戦」を展開。農機具メーカーが風力発電機の支柱部分を担当、というように国内の企業が分担して効率のよい発電システムを開発した結果、自然エネルギー関連の産業が育ち、近年では波のエネルギーを活用した「静か・ハイブリッドタイプ」の発電機が開発された。
・また、エネルギー消費が年々増えた日本に比べると、家電商品には消費電力表示もされて、購入時の価格よりもランニングコストが重視される体制が出来上がっているという。
・デンマークのエネルギー消費は増えず、一人当たりのエネルギー消費が日本より小さいにも関わらず、国民の一人当たりの総生産の量は日本よりも大きくなっている。
・このことにより、エネルギー面だけでなく、ロラン島で生活する人の生き方も変えていった。
・この島の電力エネルギーのほぼ全てが風力発電などの自然エネルギーで賄われている。
■ロラン島-広い牧草地と涼しい気候、なんだか北海道に来たみたい。
起伏がなく、平らな土地が続く。なんと、島の一番高い標高が25メートル!平らな島だから風がよく通り、風量発電にはピッタリの場所なんだとか。
■風車だらけ-島の西側と南側の海岸線には風力発電の風車がびっしり。
南側にはさらに洋上風力発電の群れ。そして、内陸には個人所有の風車が並んでいる。個人所有の風車の年間収入と、農業の年間収入と半分半分ぐらいだとのこと。それだけ聞くとうらやましいなあ。
■ビール、うまし-急がない、怒らない。月曜日から木曜日まで朝8時ごろから16時ごろまで仕事。金曜日は半日。午後からはビールを飲み始める。なんでも、残業代がベラボウに高いそうで、企業が残業をさせないのだとか。…
■もぬけのから-土曜日は家族で買い物、日曜日は家でまったりが定番。だから日曜は店もレストランもどこもかしこもお休み。街にひとっ子1人いないぞ。静かだ~。みなさん、家で家族との時間を大事にしてるんだな。…。
■収穫!!!-ちょうどロラン島名産のりんごの収穫時期。りんごは農家が作るものではなく、「自分ち」にあるもの。ほかにも家庭菜園でさまざまなものを作っていて、自分のところで食べきれないものは、家の前で無人販売する。風も「収穫」して「地域で分け合う」という言い方をする。(建設の仕方にもファンドを作るなど、きちんとしたシステムが整えられていた)食も電気も“地産地消”かぁ、なるほど。
■財布ピ~ンチ!-しかし出費がかさむ。消費税は25%、レストランでの食事は、節約しても昼食一人2000円超え、夕食一人4000円を超えることも!住民の皆さんは、収入の半分は税金で徴収されるんだそう。医療費、教育費は…
■正しく休む-…。2週間もいたら、「正しく休む」ロラン島の人たちが普通に思えてきた。無理して働かない。皆が休みたいんだから、店が開いていない不便さも受け入れる=誰もがちょっとずつガマンすることで、みんながハッピーになる。それが自然にできるって、すごいことだと思った。
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2011.11.15
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エネルギー攻防戦~ 密着!孫正義の4カ月 ~
・今年8月、"自然エネルギー"の普及を目指した「再生可能エネルギー特別措置法」が成立した。これで、太陽光や風力などで起こした電気の全量を、電力会社が買い取ることが義務付けられた。しかし、自然エネルギーが本当に普及していくためには、乗り越えなければならない壁がいくつもある・・・。
・ソフトバンクに先駆けて、太陽光発電に乗り出した中小企業がある。その名も「おひさま農場」。耕作放棄地などに太陽光発電所を造り、土地を有効活用すると共に、農家の収入を下支えするビジネスモデルを作ろうというのだ。この「おひさま農場」を始めたのは、半導体製造装置メーカーの「インターアクション」。リーマンショック以降、業績が大幅に落ち込んでいた。そして新たな収益の柱を育てようと、福島第一原発事故の後に太陽光発電事業に乗り出した。
8月、山梨県北杜市の農村でソーラー発電の"一号機"が稼働し、作った電気を東京電力に売りはじめた。2年前にスタートした「余剰電力買い取り制度」を活用し、1キロワットアワーあたり40円の価格で10年間、電気を買い取ってくれる契約を東京電力と結んだ。しかし、すぐに問題が発生した。行政から太陽光パネルの撤去を命じられたのだ。「おひさま農場」の行方は
・ソフトバンクの孫正義社長は、全国の耕作放棄地にメガソーラー(大規模太陽光発電所)を建設する構想を打ち出した。地域活性化を期待する35もの自治体が参加を決めた。
・7月13日。秋田県のホテルの一室に、35の道府県の知事が集まった。孫社長が提唱した「自然エネルギー協議会」が発足した。知事たちの狙いは、孫社長がぶち上げた「電田プロジェクト構想」の誘致。ソフトバンクが1ヵ所当たり80億円を投じ、日本全国に10程度のメガソーラー(大規模太陽光発電所)を建設するというものだ。
・さらに、日本とアジア地域を送電網で結ぶという壮大なプロジェクトの構想まで披露した。しかし・・・当初の計画通りには物事が進んでいかない。
・その上、ソフトバンクの携帯電話事業に大きな利益をもたらしてきたスマートフォンの「iPhone」が、ライバルのKDDIからも発売されることになった・・・。そんな状況の中でも、孫氏はエネルギー事業を続けていくのか?真の狙いはどこにあるのか?
ガイアの夜明けより |
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| 2011.11.17 |
国交開始25周年、新婚旅行を兼ねたブータン国王夫妻来日、日本の国会で演説
■「皆様は大災害に静かな威厳をもって対処された」
ブータン国王: 天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。
妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。
ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。
私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。
皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。
このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。
皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。
■「ブータンは小さな国ではありますが強い国でもあります」
ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心からいまお話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。
ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。
「両国民の絆をより強め深めるため不断の努力を行う 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。
「両国民の絆をより強め深めるため不断の努力を行う」写真
今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。
改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、(英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。
「(ゾンカ語での祈りが捧げられる)」
ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。 ニコニコ動画より
■ブータン王国と同国において唯一にして史上初の外国人受爵、ダショーの称号を与えられた西岡京治(けいじ)とのつながり
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| 2011.11.17 |
ブータン国王学生たちに語る(慶應大学にて)
「携帯電話に例えられるように世界は科学の進歩によって発展した。しかし、不公平な経済成長や環境破壊という課題が突きつけられている」と指摘。そのうえで、ブータンがGNH=国民総幸福という、経済成長だけではなく伝統や文化を守り、国民の幸せを重視する国造りを進めていることに触れ、「私たちの世代は真の発展とは何なのかを考え直すことが求められており、そうすることで本当に持続可能な成長が実現できる」と述べ、学生たちに勉学や研究などに励むよう声をかけた。NHKニュースWEBより |
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| 2011.11.18 |
ブータン国王夫妻、、福島の相馬市を訪問、高僧を伴っての慰霊鎮魂の祈りと小学生に龍の話
・事の始まりは9月末。ブータン王国のティンレイ首相が、被災地・福島県相馬市の桜丘小学校を訪問した。関係者の話によると、ブータン国内でも東北が被災した様子が報道され、原発事故による懸念が広がっているとのこと。風評被害をなくすために、原発近くの被災地訪問を強く希望されたのだという。国王夫妻による相馬への訪問は、こういった背景のなかで決定したようだ。
・小学校訪問で国王陛下が子供たちに話した「龍」のお話が忘れられない。掴みで国王は龍を見たことがあるという。それはこんな龍だった。「自分の体験の上に存在し、経験によって大きくなるという心の中の龍。自分の龍を鍛錬して、感情などをコントロールすることが大切」というもので、ブータンの子供たちにもお話して聞かせるそうです。 以上ニュースによる記憶とネットブログより
・ワンチュク国王は、ブータンの国旗に描かれ国のシンボルともなっている「竜」の物語を引用し、「竜は私たちみんなの心の中に居て、『経験』を食べて成長します。だから、私たちは日増しに強くなるのです」と述べ、児童たちを励ましました。NHKニュースWEBより
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| 2011.11.20 |
常滑市長選挙投票日、投票率は過去最低の48.84%
常滑市長選は20日に投票があり、即日開票の結果、現職の片岡憲彦氏=無所属=が12,579票、新顔で元市議会副議長の藤井友二氏=同=8,836票
を破り、再選した。投票率は過去最低の48.84%(前回54.47%)だった。 |
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| 2011.11.20 |
アウン・サン・スー・チーさん選挙に出馬
・ミャンマー(ビルマ)の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)は18日、次の選挙にスー・チーさんが出馬すると発表した。NLDは政党として再登録した上で、今後実施されるすべての議会選挙への参加を予定している。
・NLDは、ミャンマーで約30年ぶりの自由選挙となった90年の総選挙で8割以上の議席を獲得したが、軍事政権は選挙結果を認めなかった。
・スー・チーさんが出馬を予定する次の選挙は、新政府の閣僚指名に伴い空席となっている48議席をめぐる補欠選挙だが、実施日はまだ決まっていない。
・前回の総選挙は2010年11月に行われたが、ミャンマーで総選挙が行われたのは実に20年ぶりのことだった。同選挙では軍事政権が勝利宣言をしたが、世界中から「いかさま選挙」との批判の声が上がった。
・スー・チーさんとNLDは同選挙をボイコットした。軍政は法を制定し、NLDに対してスー・チーさんを引き続き指導者に据えて違法政党となるか、あるいはスー・チーさんを追放して選挙に参加するかの選択を迫った。
・ミャンマーで絶大な人気を誇るスー・チーさんは、長年軍事独裁政権に反対したため、過去21年間のうち15年間自宅で軟禁されていたが、昨年解放された。(CNN)
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| 2011.11.21 |
佐野有美のアルバム「あきらめないで」が第53回日本レコード大賞 企画賞を受賞
・1990年に愛知県内で、両腕と右足がない「先天性四肢欠損症」で生まれる。幼少期は児童育児施設に育てられる。小学校入学時に、教育委員会は養護学校に入るように薦めたが、家族はそれを押し切り健常者と同じ学校で授業を受けさせた。
・高校時代、チアガール部に所属。
・2009年に日本テレビで放送された「24時間テレビ「愛は地球を救う」」で、「手足のない車椅子のチアガール」として紹介され注目を集める。
・高卒後、企業に就職して働く傍ら、自伝エッセー「手足のないチアリーダー」と、詩集「あきらめないで」を上梓。
・2011年、詩集が自らの歌によってCD化。東海地方を中心として、講演活動も積極的に行っている。最近まで地元のミニFM局のDJ番組でアシスタントを務めるなども。 |
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| 2011.11.25 |
聖カタリナ、アレクサンドリアのカタリナ
・その生涯は多くの種類の伝説で成り立っている。
・カタリナはエジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘だった。彼女は当時最高の教育を受けたと言われる。カタリナは両親に向かって、名声、富、容姿と知性で自分を超える男でなければ結婚しないと宣言した。カタリナの母は秘密裡にキリスト教に改宗しており、娘を隠者の元へ送り出した。その隠者はカタリナに「その方(キリスト)の美は太陽の輝きよりも勝り、知性は万物を治める。富は世界の隅々にまで広がっている」と説いたという。
・幻視をした彼女は洗礼を受け、キリスト教徒となった。彼女は幻想の中で天国へ運ばれ、そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたという(神秘の結婚)。
・皇帝を訪問して話したいというカタリナの物語は時のローマ皇帝マクセンティウスの元にも届き、彼女は皇帝にキリスト教徒を迫害するやり方は間違っていると説こうとした。伝説では、カタリナは皇后を改宗させることに成功し、彼女は皇帝が送り込んだ50人の異教の賢者たちを論破したため、彼らの多くはすぐに殺されてしまった。
・皇帝はカタリナに言い寄って失敗すると、彼女を牢へ入れるよう命じた。彼女が改宗させた人々がカタリナを訪問すると、彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられた。しかしカタリナが車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため、彼女は斬首刑にされた。
・伝説は後にさらに推敲され、天使がカタリナの遺体をシナイ山に運んだという。そこには6世紀に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって建立された聖カタリナ修道院がある。修道院は548年から565年の間に建設された。修道院は今も残り、初期キリスト教芸術、建築、輝かしい手書き写本など有名な所蔵品を持つ。
・彼女の第一の象徴となるのは釘打ちされた車輪である。このことから、『カタリナの車輪』として知られるようになり、多くのキリスト教会で11月25日のカタリナの祝祭日が祝われる。しかし、ロシア正教会では、女帝エカチェリーナ2世(ロシア語名のエカテリーナはラテン語名カタリナと同義)が、自分の守護聖人と正教の祝日『生神女進堂祭』を分け合うことを望まなかったことから、12月7日(グレゴリウス暦の日付。ユリウス暦の11月24日に相当)とされている。 |
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| 2011.11.27 |
大阪維新の会、大阪知事・大阪市長ダブル選挙で圧勝
・大阪市長選で当選を確実にした前府知事で地域政党・大阪維新の会代表の橋下徹氏(42)は27日夜、大阪市内で記者団に対し「行政組織はこの選挙結果をきちんと受け止めるように。有権者の判断は民主主義の一番重い判断だ」と述べ、行政改革を進める考えを強調した。
・「大阪市長は市民の票しか得ていない。大阪全体のことは府知事が責任を持つ。府と市の100年にわたる争いに終止符を打ちたい。広域行政は知事の決定に従っていきたい」とも語り、二元行政の解消に意欲を示した。YomiuriOnlineより |
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| 2011.28 |
日本にもあった!静岡県富士宮市の異常湧水
・2011.9.16~現在、市内淀師地区を中心として、地下水位が上昇し、異常湧水の現象が起きている。淀師地区等における出水について、「富士宮市異常湧水警戒本部」設置。市は今後も警戒体制を継続。
・湧玉観測井戸(基準観測井戸-湧水情報連絡会議の開催基準水位119m)ピーク 119.77m(10月15日)
・11月28日現在、観測水位は若干下がっていますが、依然として水位の高い状態が続いています。今後も降雨の状況、水位の変化を確認しながら、警戒を続けていきます。
富士宮市HPより |
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| 2011.12.3 |
東北コットンプロジェクト ⇒農業の六次産業化(六次産業(ろくじさんぎょう)とは、農業や水産業などの第一次産業が食品加工・流通販売にも業務展開している経営形態を表す、今村奈良臣(いまむら ならおみ)が提唱した。また、このような経営の多角化を6次産業化と呼ぶ。
復興の狼煙(のろし)ポスタープロジェクト |
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| 2011.12.8 |
龍蛇族直系の日本人よ! その超潜在パワーのすべてを解き放て
・日月神示
・渡辺 大起『宇宙船 満つるとき』
オイカイワタチとワンダラー 宇宙からの黙示録 http://oikaiwatachi.jp/
・木村 秋則『すべては宇宙の采配』
の紹介に改めてまたまた目からうろこの想い。
このタイミングでこの本が届くとは!
その内容はあまり意識してなかったことだった!凄すぎる~! |
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| 2011.12.10 |
好天に恵まれ、日本各地で皆既月食観察(次回は3年後)…私は… |
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| 2011.12.10 |
太陽の道
空見つ 大和の国
奈良・大和盆地に「太陽の道」 一直線上に遺跡・社寺
●大鳥大社●大坂山(穴虫峠)●箸墓古墳●檜原神社●長谷寺●室生寺 ●伊勢斎宮跡
■万葉集の冒頭に登場する枕ことば「そらみつ」は「大和(の国)」にかかる。
・日本書紀に記された謎の言葉「空見つ日本(やまと)の国」が語源で、「大空から眺めて良い国だと選ばれた」の意。「天の岩船」というUFOを思わせる飛行物体に乗ったニギハヤヒノミコトが「国の中心地」に着陸し、後に神武天皇が「畝傍山の東南の橿原(かしはら)の地」を「ここは国の真中だ」と考えて今の奈良県橿原市に都を置いたという伝承に由来する。
・大和盆地を「空から」の視点で研究した説は少なくない。多くの学者が認める定説ではないが、歴史ファンを魅了してきた「太陽の道」「聖なるライン」など、「空見つ日本」の異説がある。
・「あれは稲作と密接につながる太陽信仰、つまり日本人の信仰の原点にかかわる話だった。だから多くの人の心に響いたのでしょう」と振り返るのは、「大和の原像」(大和書房、1973年)で「太陽の道」を提唱した小川光三さん。著名な仏像写真家でもある。「太陽の道」は80年にテレビのNHK特集「知られざる古代~謎の北緯34度32分をゆく」で紹介され、多くのファンを生んだ。
・卑弥呼の墓説もある箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺をはじめ、大和盆地を中心とする著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直線に並び、東は三重県の伊勢斎宮跡、西は堺市の大鳥大社(さらに淡路島の遺跡や古社)まで延びるという。
・この「一直線」は「ほぼ一直線」であり、南北にずれる遺跡もあるのだが、記紀神話などとの奇妙な暗合が「太陽の道」説に説得力を与えた。
・檜原神社の近く、ほぼ真西にある前方後円墳、箸墓古墳は「倭の女王・卑弥呼」の墓ではないかとされ、周辺の纒向遺跡を「邪馬台国」とする説もある。
・日本書紀によれば、箸墓古墳は「昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで人民が連なって手渡しにして運んだ」(「全現代語訳 日本書紀(上)」講談社学術文庫より)。大和盆地の西端の大坂山から、東端の箸墓古墳まで、バケツリレーのように人が連なったという。まるで「太陽の道」のラインを暗示しているかのよう。
・檜原神社のしめ縄の下から大和盆地を眺めると、西に二上山の美しい山容が見える。二上山の北側、穴虫峠が檜原神社の真西にあたる。この峠道は逢坂(大坂)道とも呼ばれた。小川さんは「大和の原像」にこう書いている。「(檜原神社の)社頭から穴虫峠への落日の見える日は、正確に春分又は秋分の日に当たることになる」
●高千穂●剣山(四国)●吉野山●伊勢神宮●富士山●江戸城●鹿島神社
・「ふしぎ発見! 明治神宮 2011.12.10放送」で上記ラインを「太陽の道」と紹介
■檜原神社と伊勢斎宮跡の2つはほとんどずれなく同じ緯度にあり、天照大神(日の神=太陽神といわれる)でつながっている。
・長らく宮中にまつられていた天照大神は、第10代崇神天皇の時代に初めて宮中を離れ、皇女トヨスキイリヒメノミコト(初代の斎王)に託され大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に移される。笠縫邑の有力な伝承地が檜原神社だ。次の第11代垂仁天皇は皇女ヤマトヒメノミコトに天照大神を託す。
・ヤマトヒメは大神が鎮まる場所を求め長い旅に出て、大和の笠縫邑から伊勢にたどりつく。それで檜原神社は「元伊勢」と呼ばれる。
■古代の遺跡や聖地、古墳、神社などはある一定の法則に従って配置されていると言われ、その線を延長すると、東は伊勢の斎宮から西は淡路島の伊勢までを結ぶ北緯34度32分のラインが浮かび上がる。西のお伊勢さんと呼ばれる「伊勢久留麻神社」や、現在でも女人禁制の「石上神社」などがある。
・大和・纒向の地に大和朝廷が誕生し、邪馬台国以来受け継いでいた「太陽祭祀」(「太陽の道」)を行なう。神奈備山の三輪山を起点として、そこからの冬至の日の出を望む地へ初期の王墓群(祭壇)と、その延長線上に鏡作集団の祭祀場(後の鏡作神社)が設けられる。そして、西日本(中でも吉備)の弥生時代の墓性を母体にした纒向石塚古墳などの初期王墓群が、やがて前方後円墳へと発展する。また、邪馬台国以来の伝統などをふまえた銘と図柄をもつ鏡(三角縁神獣鏡)が作られる。前方後円墳・三角縁神獣鏡は、大和朝廷の権威の象徴として以後、その勢力の及ぶ各地へ広まっていく。
・遥か2000年以上前の弥生時代、稲作と共に始められた「太陽の道」(太陽祭祀)は、時移りその姿を変えながらも連綿として続いている。
・冬至=新年と考えれば、現在の私達が正月に初詣や初日の出を拝む風習はここからくる。それは何よりもまた、私達日本人に稲作農耕民族の血が流れていることの証明である。
■レイライン
・イギリスの専売特許ではなく、世界各地で、あるいは国の境を越えた長大なラインも報告されている。 もちろん、日本でもいくつもレイラインと思える聖地を結ぶ直線が見つかっている。
・日本で代表的なものといえば、奈良の長谷寺、三輪山、桧原神社、国津神社、箸墓が線上に浮かぶ「太陽の道」や「御来光の道」がある。龍の道
・レイラインという言葉は、イギリスで生まれたもので、「レイ」とは「光」のこと。光が一直線に進むように、聖地を刺し貫くことからそう呼ばれた。また、最初にこのラインを発見(再発見)したアマチュア考古学者のアルフレッド・ワトキンスが、ライン上に、 「レイ」という名の付く地名が多いことからそう名づけたともいわれる。
・イギリスでは、ワトキンスの報告以降、レイラインを見つけ出し、そこを訪ねて、太古の歴史を探る「レイラインハンター」たちが多く存在している。 イギリスでは、レイラインの多くは、ケルトあるいはそれ以前の時代にまで遡る遺跡を結んでいるといわれ、
そこには、ストーンヘンジや、ミステリーサークルの出現地なども含まれている。
・レイラインの多くは、春分の日や秋分の日、冬至、夏至といった日の太陽に関係している。 そのことから、これは太古の人たちが暦として利用したのではないかといった説もある。
だが、「御来光の道」では、人間が築きようもない自然地形が多く含まれる上に、規模が大きすぎて、「暦」説には当てはまらないだろう。
■「御来光の道」
・春分の日と秋分の日に、太平洋から登った曙光が貫くレイラインで、 その線上には、千葉県の上総一の宮、神奈川の寒川神社、静岡の富士浅間神社、富士山頂、日蓮宗の霊山として名高い七面山、琵琶湖の中に浮かぶ竹生島、大山、出雲大社の北に位置する日御崎神社と、名だたる聖地が並ぶ。
・日本国内でレイラインと考えられるものは、他にも多数ある。中には、北斗七星の形に聖地が配列されていたり、 鬼門や裏鬼門、四神相応を連想させる配置など、陰陽道や風水の影響を受けていると思われるものも多い。陰陽道や風水といったものは、太古からのプリミティヴ(原始的)な信仰を経験則に基づいて体系化していったものだから、根を辿れば、他のレイラインと共通する部分も多いはずだ。
■鹿島神宮と諏訪大社
・「古事記」の「国譲り」の話で、勝った建御雷神が鹿島神宮のご祭神で、負けて諏訪まで逃げた建御名方神が、諏訪大社のご祭神で、その二つの神社が、ほぼ東西に並んでいる。
・日本でも、神社などが、夏至や冬至、春分・秋分など、太陽のライン上に並ぶケースが多く、よく鳥居の方向が、夏至や冬至の太陽の方角と一致するケースも多くあり、自然暦として活用されていたのではないか。 |
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| 2011.12.12 |
アスリート、モニーク・ファンデルホルストの奇跡
・パラリンピックの手押し自転車競技で2つの銀メダルを受賞した女子選手。
交通事故に遭い、再起不能かと思いきや、医学的に説明できないほどの奇跡の回復を遂げました。
・自転車に乗っているのは、オランダ人のモニーク・ファン・デル・ボルストさん(写真あり)。かつては事故などで脊髄を損傷し、下半身、両脚に麻痺が残っていました。
・北京パラリンピックのハンドサイクル=手押し自転車競技で2つの銀メダルを獲得した後、ロンドン・パラリンピックを目指してトレーニングしていたところ、今度は自転車との衝突事故に遭います。そして、リハビリを重ねた数か月後に奇跡は起きました。
・「すごくハッピーでした。子どもが歩き方を覚えるみたいに感じました。転んで、また立ち上がって、また転んで」
・ついに歩くことができたモニークさん、先週、オランダの自転車競技のプロチームと契約を結び、2016年、リオでのオリンピックに出場するという、夢への第一歩を踏み出しました。(2011.09日18:47 TBSニュースより。みのもんたの朝ズバ!でも)
・身体障害者の国際スポーツ大会「パラリンピック」のメダリストが、五輪出場という快挙に向けて走りだした。ロイター通信によると、08年北京パラリンピックの女子車いす競技で銀メダル2個を獲得したオランダ人モニク・ファンデルホルストさん(27)は、昨年3月の練習中に自転車にはねられ、腰を強打した。リハビリを続けると、13歳で受けた足首手術が原因で下半身まひになって以来、両足が初めて動くようになったという。「昨年7月に自分の足で1歩、歩けた。赤ちゃんが歩き始めた時みたい」と笑顔を見せた。担当医は「奇跡だ。説明がつかない」と驚いている。
・ファンデルホルストさんは、同11月に歩行ができるまで回復した後、退院。所属先で車いすチームから自転車チームに“異動”した。16年ブラジル・リオデジャネイロ五輪に自転車競技での出場を目指す。現在の脚力ではチームメートに追い付かないが、車いす競技での抜群の成績から、トップレベルの脚力になる日は近いと期待されている。
・09年には障害者で初めてハワイのアイアンマン世界選手権で優勝。母国で障害者対象の年間最優秀スポーツ選手に輝いた。
・所属チームのユニホームに身を包み、競技用自転車のロードレーサーで快走する姿には、早くも力強さが漂う。「久しぶりに鏡の前で、自分が立っている姿を見た時は、ものすごくうれしかった。今の目標は、うれしい時に両足でジャンプできるようになること」。五輪出場だけでなく、表彰台の上でジャンプする日が近いかもしれない。[2011年12月10日8時21分 紙面から] 日刊スポーツWEB版 |
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| 2011.12.13 |
写真の力を信じ、南三陸町を取り続ける佐藤信一
神社の系譜 なぜそこにあるのか 宮元 健次 |
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| 2011.12.14 |
ごはんや松の根亭 10/31オープン!
・岩手県釜石市根浜地区の宝来館では、被災したお食事処「松の根亭」の仮店舗として釜石市役所が建設をすすめる仮設店舗にて、10月31日より営業を再開。
・3.11の東日本大震災以来、被害の大きかった鵜住居地域では食事を取るところが絶対的に不足しており地域の皆さんに喜んでいただける、気軽に出入りできるごはんやを目指してスタートした。
・本館営業再開は2012年1月の予定。
『津波記憶石碑』
2011年(平成23)12月9日㈮午後13:15~<BR>津波の記憶を石碑に刻み、後世に教訓を伝えていくプロジェクトが、根浜海岸の宝来館で除幕式を迎えました。
宝来館で『津波記憶石碑』が建立、除幕式
・2011年(平成23)12月9日㈮午後13:15~津波の記憶として
教訓→「とにかく上へ上へ逃げよ。でんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで、津波が来たことそして、裏山へ逃げ多くの人が助かったことも後世に伝えてほしい。」と石碑に刻み、後世に教訓を伝えていくプロジェクトが、根浜海岸の宝来館で除幕式を迎えた。 |
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2011.12.15
6時14分 |
イラク戦争の終結宣言
・2003.3より9年近くに及んだイラク戦争を巡って、アメリカのオバマ大統領は、日本時間の15日未明に行った演説で、「きょうをもってわれわれは戦争を終結する」と述べた。
・オバマ大統領は14日、南部ノースカロライナ州の陸軍基地で、イラクからの帰還兵らを前にイラク戦争を巡る演説を行った。
・この中で、オバマ大統領は、兵士たちに「国に戻ってきたことを歓迎する。お帰りなさい」と繰り返し語りかけ、みずからが約束した、アメリカ兵のイラクからの撤退が予定どおり年内に完了するとの見通しを示しました。そのうえで、「アメリカ軍の歴史の中で、非常に大きな出来事が終わる。きょうをもって、われわれは戦争を終結する」と述べ、イラク戦争の終結を宣言した。
・また、オバマ大統領は、「イラクをみずからの代表を選挙で決めることができる、自立し安定した国にすることができた」と述べ、戦争の成果を強調しました。しかし、イラク戦争では合わせて150万人のアメリカ兵が現地に派遣され、このうちのおよそ4500人が死亡。イラク市民は12万人にのぼるとも。
・オバマ大統領は、「戦争にはさまざまな困難があった。国内でも賛否両論があった」と述べ、みずからが反対してきたイラク戦争によって、アメリカ自身にも多くの犠牲がもたらされたことを指摘しました。NHK ニュースWEBより
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| 2011.12.19 |
もう一つの2012年問題始まる?
金日成死去
・2011年12月17日8時30分、心筋梗塞のために死去したと伝えている。
・日本では同年12月19日、北朝鮮の国営メディアである朝鮮中央テレビなどにより死去が報道された。(正午から黒い喪服姿の女性アナウンサーが特別放送として、キム総書記が死去したことを涙ぐみながら伝えた。※有名女性アナウンサーはその50日ほど前からテレビから姿を消していた)朝鮮中央通信は金正日が「地方視察及び指導に向かう列車の中で12月17日午前8時半、過労により息を引き取った」と伝えた。NHK WEBニュースも参照 |
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| 2012.1.1 |
謹賀新年 |
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| 2012.1.1 |
アセンションについて
・子どもたちの知人をとおして子どもたちからも「アセンション」について語られ、予定通り離れていた家族の話題とする。予期に反して全員が必ずしも満足のいく受けとめかたをしてくれたわけではなかったが、それもまた予期通りともいえる。とにかく、貴重な時間をいただけた。有難かった。 |
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| 2012.1.8 |
一年の計は元旦にあり
・明け方、宇宙ステーションにまつわるカラーの夢で目覚めた。
・年明けより1週間以上が過ぎていたが、大切な時間を過ごす。 |
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| 2012.1.12 |
リクエスト本、木村秋則さんの『すべては宇宙の采配』届く!
やはり、びっくりな内容だった。
▼目次 第1章 不思議の始まり マンダラ/別の時間/たった1度の1等賞/就職・見合い/きっかけ/初めて見たUFO 第2章 泥沼にて 親父/書店の奇跡/儀式/ハガキ/ラパウル/運転手/言霊/家族愛/出会い/父親参観 第3章 許された日々 35歳の夜/自然の楽園/微生物/活かして生きる/木に話す/癌と仲良く/金属にも魂/約束/農業ルネッサンス/名誉回復/世界一 第4章 まだ足りない 拉致/一致/龍、再び/共鳴/気づいていないわたし
▼脳科学者・茂木健一郎氏推薦
木村さんが出会った信じられない体験。それは、木村さんにとっては幻覚ではなく、紛れもない真実である。自分が出会ったことを真正面から受け入れる真摯さ。だからこそ、木村さんは「奇跡のりんご」を作ることができたのだ。 |
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| 2012.1.17 |
誰にでも一人はついていてくれる守護霊様、私の守護霊様
今まで教育してくださって有り難う、朝の目覚めとともに、改めて実感しました。
阪神淡路大震災より17年
「!」な言葉を聞いた日。これも守護霊様のお陰様様なのでしょう。 |
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| 2012.1.19 |
冤罪二俣事件と山崎兵八刑事の生き様
・『現場刑事の告発』という1冊の本は戦後最大のミステリーと呼ばれる二俣事件を担当した刑事・山崎兵八がその詳細を綴り、自費出版したものだ。
・山崎刑事の緻密な捜査、対する理不尽な上司岡本警部補の捜査に対する言動。
・岡本警部補には、もう一つ裏の顔があった。部下にチンピラ連中を引っ張ってこさせては、拷問によって自白させるという、恐るべき事情聴取を行っていたのだ!中にはその後、命を落とした者もいるという。拷問でやってもいない罪を認めさせる、えん罪製造警部補だったのだ!!
これ以上を潔白を主張し続ければ命がなくなると、須藤は全てを諦めて、やってもいない殺人を自白したのだ。その自白は、岡本警部補の筋書き通りだった・・・。
・とはいえ、国家警察が決めた事に対して、田舎町の刑事が対抗する術はなかった。山崎刑事は悩んだ。…当時山崎刑事は一家6人を支える大黒柱だったのだ。しかし、このままでは須藤は確実に殺される。本当にそれで良いのか?思い悩む日々が続いた。
・そして…山崎刑事はついに警察を辞職する決意を固め、大手新聞社3社に『須藤満雄はえん罪である』という内容の手紙を送ったのだ。すると、ある新聞社から反応があった。だが…新聞社からニュースの効果を考えて現職のまま告発してくれないかという打診があった。現職のまま告発すれば、懲戒免職となり、家族に迷惑がかかるのは明らかだった。だが、結局は記者の熱意に押切られ、山崎刑事は現職のまま告発へと踏み切ったのである。
・この一世一代の大英断は、全国紙の一面を飾った。だがその直後、突然自宅謹慎を命じられた。そして、告発から1ヵ月後、当初須藤の判決が言い渡されるはずだった裁判は急遽そこで山崎刑事の証言が行われる事になった。だが、裁判が始まると、裁判長は事件の核心には触れない意地悪な質問ばかりしてきたという。証言は裁判長の質問の答弁以外できないことになっているため、そのままでは須藤の無罪を証明するのは難しい、山崎刑事は須藤は犯人ではないと言う旨の証言を裁判長が質問をする隙を与えずに1時間半ほど須藤被告を助けるため、人生をかけて証言したのである。
・だが、須藤には死刑判決が下された。
・さらなる悲劇、山崎刑事は偽証罪で逮捕された。山崎刑事は拘留され、その後一方的に『妄想性痴呆症精神病者』と診断されたのである。そして逮捕から33日後、精神異常という理由で釈放され、偽証罪も不起訴。当然警察を辞職することとなった。
・その後、須藤被告は控訴したが、東京高裁で控訴棄却。ついに須藤さんの死刑が確定したのだ!
・山崎刑事が法廷で須藤さんのえん罪を証言する直前、山崎家では親族一同が集められ、緊急会議が行われていた。そして・・・翌日の朝早く、親戚から絶縁を言い渡された。
そして山崎刑事は偽証罪で逮捕、拘置所に拘留されたのだ。さらに、残された家族には突然家の電気が切られるという悪質な嫌がらせがあった。
・拘留から33日後、山崎刑事は釈放された。精神病と認定され偽証罪は不起訴となった。精神異常ということで免許証は取り上げられてしまった。山崎さんはしかたなく、新聞配達を始めた。妻・まささんは、道路工事などの仕事をして子供を養った。
・だが事件から3年後、思わぬ吉報が入る。日本弁護士連合会の働きにより行われていた裁判で、自白だけの証拠は不当であるとして、最高裁が須藤さんの死刑判決を破棄したのだ!
・そして昭和32年、無罪確定。死刑判決が下ってから破棄されたのは、日本の裁判史上これが初めてである。
・だが、事件から10年後、山崎家にとんでもない事件が起こる。次男・正二が学校から帰って来て、家の前の柿の木に登っていたところ、家の母屋に誰かが入っていくのが見えた。その直後、母屋から息良いよく煙が上がり、家は全焼した。だが、何と警察は正二さんが火をつけたと決めつけ、一方的に連行したのだ。駐在所では10人ほどの刑事と警官が正二さんを囲んだ。山崎さんは絶対に口を挟まないと約束させられ、部屋に居ることを許された。
・警察は正二さんがこたつの火をイタズラして火事になったのではないかと追求したのだ。夜の11時を過ぎても昼も夜も食事を与えられず、延々その尋問は続いたのだ。すると、目の前に親子丼が出された。しかし、食べようとしたら「火遊びをして火をつけたと言えば食べていいよ」と警官に言われた。正二さんは「いらない」と、食べなかったが、山崎さんの目が正二さんに「もういい、うんって言って良い。お前の事は俺が一番分かっているから。後の事は俺が責任をとるから」と言っているように見えたという。そして、ついに正二さんは「はい」と言ってしまった。とたんに、警官から責め立てられた。しかし、正二さんはその後の記憶がなくなってしまっているという。その後、親子丼も食べられなくなったという。結局、妻・まささんの火の不始末ということで、この件はおさめられた。(実は自宅には、山崎さんが自らのえん罪と闘うために調べ上げた事件の資料が山のようにあったのだ。)
・職だけではなく、名誉や信用、さらに家までも失った山崎さんの告発。その告発から11年が過ぎようとしていたときだった。民間の弁護士達によって、えん罪救済措置が結成され、岡本警部補が関わったえん罪が次々と暴露され始めたのだ。岡本警部補には次々と疑惑が浮き上がり、昭和38年、警察を退職。そのわずか2ヵ月後、脳出血で死亡した。享年55だった。
・時が経ち、次々とえん罪事件が明らかになるなか、山崎さんの人権侵害についても日本弁護士連合が乗り出したが結局国は認めず、山崎さんは精神異常者のレッテルを貼られたままの生活を強いられた。
・ある日、山崎さんが脳梗塞で倒れてしまった。長いリハビリ生活が始まった。病気を患った山崎さんは、まるで生きる屍のようだったと言う。そんな時、長女・澄子さんが二俣事件のことを書いてみたらどうかと提案。山崎さんは、事件のことを文章に書き始めた。そこには、生きがいを見つけた山崎さんの姿があった。
・そして、平成9年11月1日、『現場刑事の告発』は、自費出版という形で製本されたのだ。山崎家ではタブーとされ、一切の詳細が語られていなかった過去が、今活字となって蘇ったのだ。告発直前、妻・まささんは納得しなかったという。しかし、「もし須藤君が私たちの子供だったらどう思う。黙って見過ごしができるだろうか」と山崎さんが言うと「どんな苦労があっても一緒について行きます」と言ったという。
・平成14年、山崎さんは名誉回復できぬまま89年の生涯を閉じた。父が綴った一冊の本によって、初めて事件の真実、そして家族への思いを知った山崎さんの家族。正義を貫くため、人生をかけて告発した山崎刑事、頑固故、家族にまで誤解を与えてきた。
しかし、その生き様は、執念とともに、確かに後世に残ったのだ。 奇跡体験!アンビリーバボーより |
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| 2012.1.19 |
スー・チーさん補欠選挙に立候補
・4月に行われる議会の補欠選挙を巡って、18日、最大都市ヤンゴンの選挙区から立候補した。
・ミャンマーの補欠選挙は、ことし4月1日に、議会の上下両院と地方議会の合わせて48議席を巡って行われる予定。選挙管理員会を訪れ、議会下院の補欠選挙への立候補を届け出た。この地区は、ヤンゴンの中でも比較的、貧困層が多く住むとされる地域で、スー・チーさん自身の希望でこの選挙区からの立候補が決まったという。 |
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| 2012.1.22 |
芽楽にて杉本充個展
抽象画といえどもやはり、「色が集まってくる」のだとか。 |
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| 2012.123 |
ダークマター
・宇宙が何でできているかを調べてみると、われわれが知っている、陽子や中性子など”目に見える”(観測されている)物質は全体の約4パーセントにすぎません。その5~6倍は未知の物質(ダークマター)が占めていると考えられます。残りはダークエネルギーと呼ばれている正体不明のものです(図1)。これまで観測に利用されてきたのは、光やX線、赤外線などの電磁波ですが、”暗黒”物質というのは、電磁波での観測では見ることができないため、”暗黒(ダーク)”という呼び名がついています。
ダークマター存在の証拠はいくつもある
・ダークマターは様々な観測からその存在が示唆されてきました。1970年代後半、渦巻き銀河の回転速度分布を観測し、銀河内の明るい星や星間ガスではない、光では観測できないが重力を感じる物質の存在を立証しました(図2)。また、非常に重い物質(すなわち大きな重力)があると光が曲げられる、という「重力レンズ効果」からもダークマターの存在を示す証拠が得られています。
宇宙の成り立ちと密接に関わるダークマター
・さらに、現在の宇宙は、銀河、銀河団、何もない空洞などが複雑に連なった大規模構造を形作っていることがわかってきました。この成り立ちは次のように考えられています。初期の宇宙のわずかなゆらぎ(図3)からダークマターの密度に差が生じ、密度の濃いところは重力によってさらにダークマターを引き寄せていき、しだいに目に見える物質であるチリやガスも引き寄せ、やがて星や銀河が形成されていきました。このようにダークマターは宇宙の成り立ちに非常に密接に関わっているのです。
観測の成功は新しい物理と宇宙の謎の解明につながる
・ダークマターの正体は分かっていませんが、これらの観測事実からいくつかのその性質が推測されます。(1)電荷を持たず、(2)非常に重く、(3)安定である、ことです。このような物質は、現在われわれが知っている素粒子では説明ができません。新しい理論に基づく、未発見の素粒子が必要となります。その候補の一つがニュートラリーノと呼ばれる素粒子です。
・われわれの身の回りにもダークマターは1リットル当たり約1個ほど存在すると考えられています。しかし、いまだ実験的に直接捕えられていません。ダークマターの直接観測は、現在の宇宙物理の最も大きな課題の一つです。直接観測に成功すれば、その正体を解明する手がかりが得られます。そして、ダークマターの正体が分かれば、宇宙創成メカニズムの理解が大きく進展すると考えられます。 東京大学宇宙線研究所より |
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| 2012.1.23 |
2009年公開の映画『Knowing 』をテレビ版、録画したものを見た。ラストが…!! |
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| 2012.1.24 |
文字職人・「夢ありがとう」めっせー字の杉浦誠司(せいじ)さん、常滑で講演
夢-僕と関わった方が元気になり、幸せになる。
テーマは「今こそ和心(わごころ)」
誠司さんの「今」は小学校のころの壮絶な体験に根ざすものだったのですね。
人生の転機に「ごめんなさい」と「ありがとう」、⇒「感謝」は本当に大切でした。(「ホ・オポノポノ」ですね。)インターネット(HPやEメール)を介してのコミュニケーション力も大切ですね。
「夢ありがとう」の文字がきっかけで、文字職人という職業を創り出した誠司さん。学校での講演会や東北関東大震災などを通しても言葉の持つ力を感じ、自らの仕事に対する意義を確信されたそうです。
そんな誠司さんだからこそ、学校給食の前の「いただきます」の所作?儀式?の変化にも大きな気づきがあるのでしょう。
子どもたちから学んだことも謙虚に話せるのでしょう。
侘び寂びは「和美・差美」とも。調和と個性ですね。
書をたしなみ、作務衣に手ぬぐい下駄といういでたちで、「和心」について語ってくれたこのお話はまだあと2回続きが残っているのだそうです。
昨年6月にテレビで拝見、大感動するも、残念ながら杉浦誠司さんのお名前はすっかり忘れていましたが、「夢 ありがとう」の文字が入った広報チラシが有難いご縁で私の手に届けられて、まるで運命の歯車が回り出したかのようでした。(諸事情により、まだこの会に所属していないのです。)
そして、ほんの少し早めに伺えたことで、会の皆々様からのご配慮をいただき、彼のオフィシャルサイトで見つけた
「公私共に苦難の時、ある日、”夢”という漢字と”ありがとう”という平仮名が夢でフラッシュバックし、これを組み合わせて作った「夢・ありがとう」を代表とする「めっせー字」があっという間に口コミで広がる。 」
について自身の言葉でしっかりお聞きすることができました。
……納得でした。
関係者の皆様、本当にこの素晴らしいご縁をありがとうございました。
さて、あと2回、どんなご縁がいただけるものでしょうか…(ずうずうしくも) |
文字職人 夢ありがとう

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| 2012.1.25 |
2度もの臨死体験をした木内鶴彦さんの『生き方は星空が教えてくれる』を通読 |
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| 1.31 |
文字職人・「夢ありがとう」めっせー字の杉浦誠司(せいじ)さんの講演会その2に参加できるかもしれません!! |
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| 2012.2. |
全盲の天才画家 驚異の能力
・1月26放送分を見ました。全盲のジョンさんの生い立ちと奇跡と感動の今!再生して見ました!
・彼がこのように絵を描ける秘密、それは飛び抜けた記憶力。そして、視覚を失った事で触角が異常に発達し、立体的に物をとらえる空間認識能力が鍛えられたためだという。その証拠に、食事の仕度から片付け、パソコンでメールを打つなど、全盲とは思えない完璧な暮らしぶりを取材していた。
・しかし、 位置や形が分かっても、なぜ色が分かるのか?日本人の盲目のイラストレーターエム・ナマエさんの場合とは違うようだし…。すると、スタッフが絵の具の色を尋ねてみる。ジョンさんは絵の具に触れただけで色を完璧に言い当てた。
絵の具を触ったときの感触の違いで、それぞれの色の違いを感じとっているというのだ!!しかも、原色ばかりではなく混色までも!!
・ジョンさんの場合は、視覚を補うために指先の触覚が発達し(代償機能)、絵の具の質感の違いを識別可能になったのだ。 現在、識別可能な色の数はなんと1000色以上なのだとか!!それを絶妙なバランスで配置して、陰影や奥行きを生み出している。とにかく、感動でした。「奇跡体験!アンビリーバボー」より
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| 2012.2.3 |
節分
この冬、豪雪のため日本全国で756人もの人が死亡している、という。ネットニュースではすぐに見つからなかったので、半信半疑だった。(朝ズバッ!より)⇒2/7へ |
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| 2012.2.5 |
NHK総合TV番組、『天空の棚田に生きる ~秘境 雲南~』
・美しい棚田の風景が映し出された瞬間、とっさに「一発録画ボタン」を押した。
・そして、タイトルが現れ、それは雲南省、中国の棚田の風景だということがわかった。「紅河ハニ族の棚田」。総面積は5万4千ヘクタール、国連食糧農業機関が世界農業遺産に認定した“世界最大の棚田群”だという。2013年には世界文化遺産に登録されるとも。
最大勾配75度にもなる急峻な斜面を、標高1800メートルまで切り拓いた“天空の棚田”。
・今や世界一の棚田を、1300年もの歳月をかけて、(日本では平安朝から)築き上げ、変わらぬ暮らしぶりで守り続けてきた、少数民族・ハニ族の人々。しかも、彼らは文字を持たないため、全て歌などの口伝で伝えてきたのだという。他民族に追われ、奥深いこの地にたどり着いた彼らは、気の遠くなるような労力で山肌を耕し、独自の「溝長」をはじめとする独自の相互扶助の理念と灌漑技術による農法を伝承していた。森や霧など自然と生活排水をも巧みに利用するため、豚を飼い、棚田では、魚(鯉)を育てながらの一つの巨大な循環システムとなっていた。
水を大切にするとともに、一本の木をも不用意には切ってはならないという掟もあった。この21世紀に本当に生き延びるべきなのはこういった自給自足的生活を続ける技術のある少数民族であるべきと思えてならない。 NHKスペシャル |
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| 2012.2.7 |
豪雪
豪雪に加え立春の日差しで雪崩などの危険性が高まっている。すでに全国で雪による死者の数は1100人超となった。(朝ズバッ!より) |
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| 2012.2.7 |
ヨーロッパでは全土を覆う記録的な大寒波
・ルーマニアは雪のために各地で道路が封鎖され、6日までに少なくとも39人が死亡。30以上の市町村が孤立して200市町村が停電に見舞われ、首都ブカレストの交通も混乱に陥った。避難所や病院には数百人が詰めかけており、今後も3日間は暴風雪が続く見通し。
・ウクライナでも氷点下10度を下回る厳しい冷え込みが来週まで続くと予想され、これまでに少なくとも122人が死亡、1500人以上が入院した。
寒波による死者はロシアで64人、ポーランドで53人に上っている。
・スペインでも積雪があったほか、ベルギーの首都ブリュッセルも悪天候のため交通が混乱。ロンドンのヒースロー国際空港は5日、約7センチの積雪のため全便のうち半数が欠航となったが、6日は通常通りの運航を再開した。
・イタリアは週末から5日にかけて各地で停電の被害が広がった。首都ローマに近いアニエーネ地域では、約1メートルの積雪で送電塔が倒壊し、32ある自治体の大半が停電。救急車は通行できず、家畜の世話ができなくなるなどの影響も出ているといい、地元市長は「1956年以来最悪の雪で悲惨な状況になっている。軍による救援が必要だ」と訴えた。
・ローマでも4日に異例の積雪があり、市内は渋滞が発生。観光名所のコロッセオも85年以来の雪に覆われた。6日は学校が休校となり、官公庁も閉庁している。(CNN) |
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| 2012.2.8 |
今朝の夢
・また、アセンションにかかわるもの。 |
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| 2012.2.9 |
浅川さんの龍蛇族シリーズ、2巻目を返却
木村さんの『奇跡を起こす 見えないものを見る力』をリクエスト |
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| 2012.2.11 |
船井さんの『二つの真実』 |
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| 2012.2.16 |
なわさんのダイアリー復活!!
今年になってパワーアップされて更新されていました。
日本には先達が沢山おられます。
とにもかくにも、どこまでいっても、怖れや不安を払拭する、まず自分自身の身魂磨き。
心のネットワークをつないでいこう。
ブレのない、この想い、大切にしていこう!! |
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| 2012.216. |
愛知県沖でメタンハイドレート試掘開始。もっと簡単に取れる日本海側で早く!
“燃える氷”採掘開始。 夢のエネルギー採掘技術手探り、コストに課題 産経新聞」
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2012.2.17
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船中八策と維新八策
次期衆院選に向けた「大阪維新の会」の事実上のマニフェスト(政権公約)。
幕末の志士、坂本龍馬が起草したとされる8カ条の国家構想にちなんだネーミング。
橋下徹大阪市長は13日の同会全体会議で、「決定でき、責任を取る民主主義」
①統治機構の再構築②行財政改革③教育改革④公務員制度改革⑤社会保障制度改革⑥経済政策⑦外交・安全保障⑧憲法改正-
具体的には①首相公選制②教育関連条例案③職員基本条例案の法制化④消費税増税⑤TPP参加⑥日米同盟の堅持⑦憲法改正発議要件の緩和、道州制等次期衆院選に向けた「大阪維新の会」の事実上のマニフェスト(政権公約)。産経ニュース |
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| 2012.2.18 |
いのち輝いて-なっちゃんを偲ぶ会
世界で最も贅沢なコーヒー豆、ブルボン・ポワントゥ
フランス国王ルイ14世、15世や、フランスの文豪バルザックも愛飲していたと言われ、歴史にその名を残しながらも幻のコーヒーと呼ばれていた「ブルボンポワントゥ」。
世界で唯一、フランス海外県マダガスカルのレユニオン島でのみ栽培されている、コーヒーの原種に限りなく近い、非常に希少な品種「ブルボンポワントゥ」。(※TVで見たクイズによると、コーヒーは一般的に種独占のため、生豆ではなく焙煎してから輸出をしていたという。そのせいもあり、ブルボン・ポワントゥも例外ではなく、独占種であった。)空白の65年の時を経て、日本の上島珈琲(UCC)が協力し、1999年より8年の歳月をかけて見事復活を遂げ、早5回目の収穫を迎えている。ちなみに100g¥8400なり。 |
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| 2012.2.19 |
天皇陛下、すめらみこと、心臓のバイパス手術
・今月11日に狭心症と診断され、18日に心臓の冠動脈のバイパス手術を受けられた天皇陛下、手術は予定時間より短く、術後の経過も順調なご様子。
・この手術を執刀した順天堂大学医学部の心臓血管外科教授・天野篤医師の経歴が「凄い」とネット掲示板などで話題となっていることを初めて知った。
3年の浪人生活を経て、日本大学医学部卒業。関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)・亀田総合病院・新東京病院心臓血管外科部長・昭和大学横浜市北部病院循環器センター長兼教授を経て、2002年順天堂大学医学部教授。
尚、順天堂医院の他、新東京病院(千葉県松戸市)では、非常勤として現在も外来診察も行なっている。(産経新聞)
何だかブラックジャック先生を思い出してしまいました。
医者も人もまず、「志」じゃぁないですか?
また、適材適所というか、
自分だけに与えられた稀有の使命、それにも気づかないと…。
IPS細胞を開発して世界に影響を与え、「生命の未来を変えた男」と言われる山中伸弥氏は、整形外科での研修医時代、不器用だったため臨床医を諦め、研究者の道へと進むことになったとのことでした。(NHK 「プロフェッショナル」)
更に、その時、重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形し健康だったときの面影を残さない(プロフェッショナル)その姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになったとも。 |
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| 2012.2.20 |
五日市 剛さんと『ツキを呼ぶ魔法の言葉』講演、1周年記念日
この1年間のツキ、ありがとう!!
「意志と意識と感謝」の話が今もリフレイン中です。
東京電力「福島第一原発」へ取材許可
・バスが下車許可も。国内で稼働中の原発は54基中2基(2012.2.24 産経ニュース)
・映像より、放射線防護服をまとっての作業の難しさが想像できる。今日まで現場で日々命がけで作業してこられた皆様に頭が下がる。 |
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| 2012.2.21 |
杉浦誠司さんの第二回目の講演テーマは「見えない力を活かす」
ちょっと気になる、不思議な「月(とツキ)の法則」の話…
朝と夜のリセット法、ユメージ
力愛不二、日に三省す、イチローさんの「日々新たな」「もしも、…」の話…、
本当に聞かせていただけてよかったです。
詳しいことは是非、ご本人にお会いして聞くとともにそのパワーを頂いてください…!!
それまでにお時間のある方は⇒文字職人 夢ありがとうへ
今日の講演がきっかけ早速一つ、行動しました。
ありがとうございました。 |

文字職人 夢ありがとう |
| 2012.2.21 |
木村さんの『奇跡を起こす 見えないものを見る力』まとめ、更新
H市母子殺害事件と遺族の言葉
マスコミをとおしての報道を見聞きするたびに、胸が締め付けられるような怒りや苦しみや悲しみ…あらゆるネガティブな感情が騒ぎたつ事件だった。
それに対して、あまりに対照的なご遺族の方の心情や言動ときたら!!
察するに余りがあった。
本当に、13年にも及ぶ長い長い間、社会のために遺族のM氏が、よくぞこの大変なお役目を一人で引き受けられ、日本人を代表して、最後まで尽力されたと思えてなりませんでした。(M氏の今回の?弁護士の方の不条理な体験も知りましたが。)
1999年(平成11年)4月以来、過ぎ去った13年という月日が、私自身の心境を祖父母の心境に変えていました。娘(嫁)や孫…の世代、繋がる・広がる・続く命のことを思わずにはいられませんでした。
罪を犯してしまった人に対しては余りに無力だと思っていましたが、ホ・オポノポノに出会った今、小さい一歩ですがやれることからやっていかなければならない、と思えました。
本当にごめんなさい。許してください。心からありがとう。愛しています。
・2000年3月、無期懲役の1審判決後、Mさんは「遺族だって、回復しないといけないんです、被害から。人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには、死ぬほど努力しないといけないんです」と語り、やり場のない怒りをあらわにしていた、という。
・「18歳と30日」だった元少年の死刑確定は記録が残る66年以降、最年少となる。
・「何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は、冷酷、残虐にして非人間的な所業」「遺族の被害感情はしゅん烈を極めている」20日の最高裁判決は被告の罪を激しく非難し、遺族感情にも触れた。
・私が色々な方と手を携えてやった活動が正しかったか、正しくなかったかは私が言うことではなく、歴史が判断することだと思うが、何もしなければ始まらない。小さな一歩でも始めれば、社会が変ると実感できた。司法制度を変えることができたのは良かったと思う。今後は、市井の会社員なのできちんと仕事をして、納税をして、一市民として社会の役に立てるようにしたい。特に社会に出て、活動することは考えていない。
・この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい。
・私自身、200●年にある女性と籍を入れて、細々と家庭を持っている。それには色々な理由があるが、私自身、1人で生きていくことがとてもつらくなり、精神的にまいっていた。そして、とてもすばらしい方と出会えたこともあった。いろいろ悩んだし、相手も考えたと思うが、私を支えてくれるということで、今、細々とだが、2人で生活している。その彼女は命日には一緒にお墓に行って、手を合わせてくれている。その人のおかげで、こういった場に立てる。感謝している。2012年02月21日 産経新聞
彼の近況を知って思わず号泣した。天よ、神よありがとう!!
大きなお役目を果たされる中で、幸せであるべき人は幸せでいてほしい。どんな境遇にあっても、皆努力して自分自身の幸せを感じられる心を持ちたいものだ。適度に声をかけ合っていけるコミュニティの中で暮らしていきたいものだ。
やはり、天や神は厳然としてあり、人として生きる方向が示されていると思う。自他の幸せを祈り、自他の夢を語り合い、互いに支え合える社会を築いていきたいものだ。
ちょうど、テレビ放映版の『ザ・インタープリター』(シルビア役:ニコール・キッドマン主演)の録画を初めて見た。シルビアのクー族(※調べたところアフリカにはないという)にある習わしを話した「自分が憎んでいる者が溺れているとき、あなたは助けてやれる?」。「復讐は悲しみの安易な産物にすぎない。クー族の人々は、腕を縛り上げて船から落とし、その命を助ければ憎しみや悲しみから解放される」と考えているという。このタイミングのせいか、この(※正確にはこんなような)セリフがやけに耳に残った。 |
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| 2012.2.23 |
世界最後の?狩猟民族「ハッザ族、太古の暮らしを守る」-2009年12月
NHK 地球イチバン「地球でイチバンのシンプルライフ~タンザニア・ハッザ~」
・おそらく、地球でイチバン“モノを持たない”シンプルライフを送る人々。貯金なし、不動産なし、財産なし…、カレンダーも時計もない。ただ、狩りに使う弓やサンダルの靴底には個を表すこだわりがあった。
・1グループは20~30人くらい。時々他グループの若者が現れ、いわゆる武者修行にくる。食べ物を分けてもらい、生きていく技やノウハウを教えてもらいまた、自分のグループに帰っていくという習わしがある。
・最近では観光客との交流?(見学を受け入れている)もある。
・とても明るく楽しく平和に暮らす人々。心配も、ストレスも、心の荷物もないようにみえる。宍戸開がタンザニアに暮らす、とってもシンプルな生き方をする人々の生き方をレポートしていた。 |
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| 2012.2.25 |
原因と結果の法則、善因善果の法則、及び、
使命・お役目、天知る・吾知る
・我が国において戦後だけでも、政治家やマスコミ関係者、宗教団体、大企業、法曹、各界の皆々様には一庶民にはわかりかねる、大変な人生の選択とその幕引きがあった。
この世界一安全といわれる、しかも、戦後の日本においておやである。
・人々の心が「水晶のように澄み切った」「光かがやくの世」の到来に向けて、先に身罷った方々の大いなる魂の鎮魂のためにホ・オポノポノの祈りをささげる。
・大役を果たされ、帰幽された皆々様、ありがとうございました。 |
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| 2012.2.26 |
ちた健康塾 1回目、1月29日に続き2回目の参加
初めての名都美術館にて、初めての堀文子展 |
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| 2012.3.1 |
脳に潜む「Xシステム」-「反射性」の英訳「Reflexive」の「X」
・無意識のうちに身体が覚えるように制御するシステム
・例えば、寿司職人が握るシャリの量、寿司ネタの大きさによってシャリの量を調節
・小脳と関連-関節などに存在する感覚受容器から刺激を受けて筋肉の緊張を保ち、筋肉運動の調節をつかさどる機能をもつ部分
・反射区の位置は、背側骨間筋(はいそくこっかんきん)。手足の指を動かす筋肉。背側骨間筋は、第一趾から第二趾の基節骨に付着している。
・「Xシステム」を鍛える方法とは、「直感」を鍛えること。
・「タキサイキア現象」-事故前などに周りの景色がスローモーションのように見えるという現象がある。記憶を司る「海馬(かいば)」が、危険を強く感じると、風景が「コマ送り」されるのだという。この「タキサイア現象」が起ることによって、脳は「Xシステム」の発揮に集中できることにより効果が大きくなる。
・適度な恐怖によって脳内にドーパミンなどの快楽成分が分泌される。
よって余計な情報がシャット・アウトされて「Xシステム」の威力が大きくなった。⇒いわゆる、「火事場のバカ力」 「放送500回SP!!すべての奇跡には理由がある!」 |
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| 2012.3.1 |
サードマン現象
・1983年4月、大学院生のジェームズ・セビニーさんがカナディアン・ロッキーへ登山をしていた時、大きな雪崩におそわれ遭難。ジェームズさんは数時間後に意識を取り戻したものの背骨、両腕を骨折し友人は死んでしまっていました。意識はもうろうとし、死を意識した瞬間、見えない存在を感じたんだそう。その見えない存在は「諦めてはいけない!がんばりなさい!」と声をかけてきたんだそうです。さらに、その見えない存在はキャンプまでの道のりも指示してくれたんだとか。そしてジェームズさんは見えない存在により無事に生還をはたせたんだそう。
・実はこの見えない存在に助けられたのはジェームズさんだけではないのです。宇宙ステーションの乗組員や、海難事故、南極探検隊など死と隣合わせになり生還した人に見えない存在に遭遇した人は少なくないという。
・この謎の存在はサードマン現象というもの。この見えない存在が見えるのは高山病などの一種である脳浮腫が原因とも言われているそう。しかし、脳科学者の篠原菊紀さんによると脳浮腫や低酸素状態など病的な状態でなくても、真っ暗闇の場所で「お化けが出るよ!」と言われているような所に行くと妙な存在を感じたりすることは当たり前に起こるという。
・アメリカの脳神経外科医ワイルダー・グライヴス・ペンフィールドはてんかん患者を治療するために意識のある被験者の頭蓋骨を切り開き、脳のどの部分を切除すれば機能が回復するか試験したんだそう。ペンフィールドはこと時電気で側頭葉を刺激すると被験者が「自分の身体が浮かびあがる」「魂が肉体から離れていく」という感覚におそわれることを偶然つきとめた。
・このように人間は極限状態に陥った時、側頭葉に何らかの刺激が加わり脳の誤作動(不思議な力が働いている)によりサードマン現象が生じたのではないかと考える学者もいる。「奇跡体験!アンビリバボー」 |
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| 2012.3.3 |
大野さんと「ぜんぶわたしの世界」
マサイマラ国立公園と「ニャクエリの森」 「ニャクエリの森」は太古からの原生林で、同公園内に奇跡的に残っている。レポーターがニャクエリの森を守るためのマサイ族の会合の模様を伝えた。ニャクエリの森に住むマサイ族は、サバンナの生態系を守るための道を模索しており、国連が開催した気候変動会議でも森の重要性を訴えている。世界ふしぎ発見!より |
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| 2012.3.4 |
木内鶴彦講演会『授かった使命と明るい未来へのヒント』於いてウィンクあいち 13:30~ |
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| 2012.3.5 |
AKB48の増田有華
・2歳の頃に14か所もの腫瘍が見られた。腫瘍は広範囲に渡っていたため手術は困難。しかも有華さんは先天性の免疫不全で、免疫力が通常の人の三分の一しかなかった。当然、抗癌剤治療の選択は出来ず、ただ免疫を強化する薬を投与するしか方法はなかった。
・そんなある日のこと、お父さんは病室にギターを持ち込んだ。父はいつも有華さんのために歌を歌い、病室であっても自分の家のように、クリスマスもお正月も家族は出来る限り楽しく一緒に過ごした。
・すると、驚くべき事が起こった。ゆかさんの体調が回復し、一時帰宅を許可されたのだ。ちなみにそのころのゆかさんの将来の夢は「歌手」。それから数カ月後、有華さんの体からは腫瘍が消滅していた。抗癌剤を使わずに腫瘍が消滅するのは通常考えられず、非常に稀な例だという。両親の懸命の看病のせいで、「幸せホルモン」が沢山でたのか、医者も首をかしげるような奇跡がおこり回復、現在は完治した。※ボランティア活動をしている人にうつ病は少ない。地域のつながりが強い街では成人病になる率が低い。 3/1 奇跡体験!アンビリーバボー 500回記念より
※さぞかし、この「ごご両親・ご家族の話」に励まされるご家族が多いことでしょう。
※「幸せホルモン」-「オキシトシン=愛情のホルモンとも呼ばれている。恋愛、夫婦間においても、相手との絆を深めるホルモンである。」(近藤保彦先生)
・「子供の頃オキシトシンをよく分泌した子供はストレスから脳を守り、大人になって自分が子育てをする際にも上手に出来るようになる。さらにオキシトシンは子供の学習能力まで高めてくれる。」「オキシトシンは成人した他人同士の信頼関係にも関与している。」(白川嘉継 医学博士)
・他に、セロトニン、ドーパミン
AKB48の篠田麻里子
・『AKB48 オープニングメンバーオーディション』を受けるものの不合格となった(当人説「オーディションに間に合わなかった」)。AKB48劇場内カフェ「48's
Cafe」(2008年閉店)のスタッフ(カフェっ娘)になることを打診され、12月のAKB48活動開始時より、カフェスタッフの仕事を始めた。
2006年1月17日、AKB48のお気に入りメンバー人気投票でカフェっ娘にもかかわらず1位になったことを聞きつけた秋元康により、AKB48のメンバーに抜擢された。その際「12曲の歌と振り付けを覚えろ、時間は次の公演までの4日間」という条件をつけられたため、寝る間を削って覚えて間に合わせ、22日夜の公演にて初ステージを飾った。 はなまるカフェ より |
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| 2012.3.6 |
コロッケのお母さんの『あおいくま』
あ→あせるな お→おこるな い→いばるな く→くさるな ま→まけるな
母が教えてくれたこの言葉が、どんな時も僕を支えてくれた! という。 |
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| 2012.3.25 |
象のランディと日本人初の象使いになった少年(青年)坂本哲夢
・気難しく暴れん坊(※にみえた)だったランディは哲夢さんがいちばん可愛がった象だった。そして、ランディもまた哲夢さんと心の交流をしていた。中学生で単身タイにわたり、立派な象使いとなって帰国。順風満帆に見えた、夢半ばの20才という若さで交通事故により、突然の永遠の別れの日がきてしまったのだ。お母さんの判断で葬式に参列したランディ。お葬式のときにランディは哲夢さんが入った棺との別れを惜しんで大きな鳴き声をあげ、目から涙を流したという。『志村どうぶつえん』より |
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| 2012.3.25 |
約50年前、日本人移民として鹿児島からドミニカに渡った田畑初さん
・ドミニカの移住問題では、様々なことがあった。好条件を約束され向かった先には苛酷な環境が広がっており、「移民ではなく棄民だ」としてドミニカに移住されて大変なご苦労をされた方々が国を相手取り、裁判となったという。
・「強制ではなく希望で来たわけだから・・・来たからにはがんばるだけ」と祖国、日本を訴えることはしませんでした。結局最後まで残ったのは田畑さんだけだったという。
・田畑さんは過酷な環境でご自分の運命を切り開いていった方なのでしょうね。
・とにかく、テレビで拝見した御年93才という柔和なお顔。ご家族にもいろいろなことがあったようですが、そのにじみ出る人柄の魅力に惹きつけられた。
・ドミニカ共和国とハイチとの国境沿いに位置するアグアネグラに田畑ファームはある。
しかしながらこれまでの苦悩は凄まじいもで、地獄のような生活だったそうです。長い間、水道もなく雨水をためての生活、お風呂は五右衛門風呂、電話線すら開通しませんでした。(現在は?五右衛門風呂は今も現役だった。)
・それでも田畑さんはコーヒー作りに命をかけ、魂のコーヒーが出来上がった。ここまでやってこれたのは家族のためであり、おかげだと語る。
・入植して間もない頃、ハイチ人から譲り受けた一本のコーヒー苗を祈る気持ちで山の斜面に植え、コーヒー園を育て上げたという。田畑さん一家が丹精込めたコーヒーが本当に美味しそうだった。番組名不明
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| 2012.4.2 |
スー・チーさん、演説
ミャンマーの民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんは補選での勝利から一夜明けた2日午前、最大都市ヤンゴンの国民民主連盟(NLD)本部で演説し、
「新しい時代の幕開けとなることを望む」と述べた。【時事通信社】 |
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| 2012年 |
デビッド・ヤング牧師とホピの長老ホワイトフェザーの出会い
ことごとく成就したホピの9つの前兆
・「今の四番目の世界はまもなく終わることになるだろう。そして第五の世界がはじまる。各地のエルダーとされる人たちはみなこの事実を知っている。新しい世界の到来を告げる御しるしはこれまでにいくつか確認され、残された御しるしもあとわずかだ」
・第一の御しるし われわれに伝えられているのはパハンナのごとき白い肌の人たちの到来。この人たちはパハンナのように生きることはなく、自分たちのものでもない大地を取りあげて、敵を稲妻で打ちのめす。
(銃)~
・最後の第九の御しるし 天界の居住施設が大音声とともに落下して地表に激突。青き星が姿を現し、そのあとをおいかけるようにホピの人たちの儀式が止むとき。
このようなしるしとともにとてつもない破壊の時が訪れる。
・世界は前に後ろにと激しく揺り動くだろう。
そしてじきに、再建のときがやってきたあとすぐに、バハンナが帰ってくる。
彼は第五番目の世界の夜明けを運んでくるだろう。
われわれの心の中に彼の知恵の種を植えつけることだろう。
種は必ず植えつけられることになっている。
その知恵が五番目の世界への移行を円滑なものとするだろう。
・「ロードプラン」、岩絵
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1570622.html |
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| 2012年 |
古のネイティブアメリカン ホピ(平和の民)の長老ダン・エベヘマから全人類へのメッセージ http://hyla.jp/dan.htm より一部抜粋
■私たちの前に立ちはだかるこの大いなる試練の中で、大切な役割をあなたが・果たせるよう、神に祈りなさい。
地球に平和をもたらすため。
・私たちホピは、今でも聖なる石版を守り、真の白い兄弟を待っている。
・他にも、地上に創造主の平和を取り戻すため、真剣に取り組んでいる人たちがいる。
・善き人でありなさい、我が子たちよ。
・そして、平和と和合を見据えた善いことを考えなさい。
・地上の全ての生命が平和でありますように。
・家族や親族や国同士がお互い平和でありますように。
・創造主のもとでなら、それはさほどむずかしいことではない。
・住む場所や種族が違っても、私たちは毎日、同じ父なる太陽の愛の光を受け、母なる大地の恵みを受けているではないか。
結局、最後には私たちはひとつなのだ。http://hyla.jp/hopi.htm
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| 2012年12月21日 |
予言の民より 「ホピの道」 生き残るために
大地との調和と生命への祝福 http://hyla.jp/guide.htm
1.箱船に乗ったら、創造主とマサウウに、あなた自身の誓約を立てなさい。それはあなたの宗教を変えることではない。
箱船が創造主とのつながりを持つための働きをするからといって、特定の宗教の場ではないし、また他の宗教に優る宗教だと見なされることもない。
あなたは特定の宗教に加わる必要さえない。
神聖なる創造主を信じるだけで充分。
このメッセージは、永遠がどうこうとか、来世はどうとかいう類のものではない。
ただひとつ「生き残り」のためのものなのだ。
2.質素に生きよ。マサウウがそうするように。物質文明に溺れてしまってはならない。
3.自制しなさい。
4.自給自足しなさい。
ひとりひとりが、来るべき山を越えるための準備をせよ。
準備してしすぎることはない。
それが長きにわたるかも知れないからだ。
都会に住んでいる者は、もし明日、全ての食料供給が絶たれたらどうするのか、考えておかねばならない。
これはホピが生活の中で自然に考えてきたことで、数千年にもわたって生き延びることを可能にした戦術のひとつでもあるのだ。
ホピは長い経験から、環境というものは1年1年大きく変わりうることを知っており、毎年秋には翌年1年間充分に食べてゆけるだけの食料を備蓄する。
だからもし何か悪いことが起きても、大丈夫なのだ。
我々も予言にあるような災害に襲われた時に備え、家族が生き延るために充分の腐らない食物を備蓄しておかねばならない。
5.優先すべきものを、見直せ。注意深く選ぶのだ。
6.創造主の願いは、我々を救うことにある。ホピと共に世界を救おう。
7.心で思うことは、それを実行することと同じだと思え。
何かすることを頭に思い浮かべるのは、それを実際に行動におこすより重要な意味を持つこともあるのだ。
8.命を尊重し、環境を神聖なものと考えよ。
9.一連の儀式を通じて、箱船でダンスをすることがある。
我々がしようとしていることは真剣そのものだが、うまくいくはずだ。
それを知っていれば、我々は歓びと充実感に浸ることができる。
だから、ソヤル(翌年の準備をするための儀式)を行っている16日間以外は、いつでも好きな時に音楽を聴き、また踊ればいいのだ。
カチナ(霊人の踊り)や仮面なしの踊りも、元は創造主が造ったものだから。ホピはほとんど一年中社交のためのダンスを行っている。
創造主は、セックスを楽しむことも許している。
それが健康的で、責任感のあるものならば。
10.12月の初めには、全世界のために祈りをささげよ。
この季節に行われるのは、翌年を迎えるために、気持ち、心の準備をすることなのだ。
この期間、あなたは世界と調和することになり、この時の意識があなたを包み込み、翌年のあなたの行動に影響を与えるのだ。
もし世界中の人々がこれを行えば、どれほど素晴らしいことになるか。
11.12月21日、他の人たちを「ホピの魂の箱船」に案内しなさい。 |
http://hyla.jp/guide.htm
http://hyla.jp/hopi.htm |
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■2012年の黙示録
■霊性進化の道
■霊性の時代の夜明け - ブログより「愛と光のエネルギー」
魂のインターネット - 目には愛を、目には愛を |
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人類に対する危機、5つのキーワード
1)地球温暖化
2)太陽活動の異常
3)フォトンベルト- 1991年、アメリカのロバート・スタンレーが太陽系はフォトン・ベルトに1万年~1万1000年ごとに出会い、2万4000~2万6000年かけて横ぎっていると報告。「フォトン」とは電磁的エネルギーの最小の粒子である「素粒子」のこと。質量は0、寿命は無限大。フォトン・ベルトとは電磁波が素粒子の姿をとった状態を指す。
■太陽が先に突入した場合-太陽光が地球にまったく届かない日が3~5日続く可能性がある。また、フォトン・ベルトの高密度の光子によって「ヴァン・アレン帯」(イオンや電子などエネルギーの高い粒子が地球をドーナツ状に取り巻いている領域)が影響を受けると大気が圧縮、または拡散する現象が起きるとの指摘もある。
■⇒目を開けていられないほどの閃光が最低3日は続く。人間は網膜に深刻な損傷を負う可能性が高い。ポール・シフトが起きることも考えられる。
■降り注ぐ光子エネルギーによって、世界中の核保有施設で爆発事故が発生する可能性がある。最悪の場合、核実験施設や核保有施設で爆発事故が発生する可能性も…一説によれば、2012年12月には地球はフォトン・ベルト内に完全に入ってしまうという。
4)ポールシフト
5)迫りくる「惑星X」
『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』より |
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| 2012 |
ダリル・アンカとバシャール(地球外生命体)
ダリル・アンカ~「バシャールとの出会い」(1986⇔24年前⇔2010)
2012年は、地球人類の覚醒の臨界点。
それは、「地球上の14万4千人が覚醒したとき」だという。
バシャールの2012年についての考え方は極めて明確で、大きく言って3つある。
1つはエネルギーの変化
1つはオープン・コンタクト
1つはパラレル・アースへの分化-
感情的にならないためには?
カルマ
バシャール~「あなたの人生に影響するものとは?」
「3次元、4次元~5次元移行について」
バシャール~「2010-2012 緊急・重大メッセージ」 ⇒ 2010~2015年の過ごし方が大事 |
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| 2012 |
マヤ文明-太陽崇拝
・マヤ暦-ハアブ暦(農業等)とツォルキン暦(祭事や宗教的儀式)
・時間とは過去から現在、未来へという一方通行的な流れにあるものではなく、あるサイクルの中で一巡すると、再び過去につながる循環的なもの、という独特な時間に関する概念を持っていた
・トルテカ族の記録『クアウティトラン』および『チマルポポカ絵文書』によると、世界は5つの時代に区分され、すでに4つの時代が終わっているという。
・マヤ文明衰退後に興隆してきたアステカ時代の人々が、マヤの叡智を後世に伝えるために作った「アステカ・カレンダー」にも「5つの太陽の時代」が表されている。-現代は最後の第5の時代。
・第一の時代-洪水、第二の時代-暴風雨、第三の時代-燃え盛る炎、第四の時代-血と火の雨によって滅んだ(その時代の文明の終わり、次の時代への移り変わりを表している)。
・マヤ研究家、モーリス・コットレル-太陽の磁場エネルギーが最大周期、約5000年≒「太陽の時代」の一周期(約5128年)⇒太陽の磁場エネルギーの変化⇒約11年を周期とする太陽黒点活動は異常気象や穀物の凶作・不作の原因となる他、重大な社会的・経済的事件も黒点活動と同期するかのように起きていることから、人間の精神にもなんらかの影響をおよぼすと考えられている。⇒ツタンカーメンやブッダ、キリストなど世界的な宗教家や偉人が生まれたのは太陽活動の極大・極小期にあたる。⇒コットレルによると、5000年周期で訪れる太陽磁場エネルギーの変化は、このとき太陽から地球へ向けて降り注ぐイオン粒子の嵐は、人体の細胞をDNAレベルで変化させるほど激しいものだという。⇒2012/5/20の金環食⇒ラマト(時代の変化、古い時代の終焉と新しい時代の始まり)
以上、『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』
・1773年に有名なパレンケの遺跡が再発見された。
・パレンケの遺跡は白く輝く石灰岩でできている。ルネサンス時代の石工の技量にも匹敵。
・多くの主要な建物の壁に書かれた碑文が徐々に解読されてきた。
・マヤ人は最低限の生活必需品のほかには私有財産をほとんど持たなかった。マヤ人は原始的な道具で大地を耕し、トウモロコシその他2、3の作物を育てていた。その一方で、豪華に盛装したマヤの統治者は、土地の豊饒を祈って、風変わりで、面倒な儀式を行なった。マヤは階層社会で、統治者と農民がはっきり区別されていた。
・マヤの民は卓越した天文学者であった。
・マヤ人は自分たちが、太陽の「第五の時代」を生きていると信じていた。さらに、現代の人間が創造される前には、4つの民族と4つの時代があったという。
ところが、この古い時代は大激変のためにすっかり破壊され、わずかな生存者が過去の話を伝えるばかりとなった。
・マヤの年代学によれば、「現代」は紀元前3114年8月12日に始まり、2012年12月22日に終わるとされる。このとき地球は、壊滅的な大地震のためにふたたび破局を迎えるのだという。
・エドガー・ケイシーはアトランティスがふたたび浮上することを予言しただけでなく、千年紀(ミレニアム)を迎えるにあたって別の重要な「地球の変化」が起こると述べた。
モーリス・コットレルと同じく、ケイシーは磁極の移動が大規模な崩壊を引き起こすと考えていた。その多くは地球史を通じてみると周期的に繰り返される性質があり、地形上の変化や運動をともなっていたようだ。
しかし、世界がこれほど人口過密になったことはない。ケイシーの予言が現実のものになったら、人間がかつて経験したことのない最大級の惨事になる。ケイシーは、アメリカの東西岸に沿った広い地域が、アトランティスのように、押し寄せてくる海の波の下に消えるだろうと述べている。同時にヨーロッパでも、この「大陸」の海岸部は洪水に呑み込まれ、気候も急激に変化してひどく寒くなるという。これは旧アトランティス大陸が上昇してメキシコ湾流を引き裂き、ヨーロッパの「暖房システム」を断ち切ってしまうために起こるのだ。
・ケイシーは、極の変化がほかの気候変化も引き起こすと述べている。今日の極地方と熱帯地方がもっと温和な気候になるというのだ。
・これらの予言はいずれも、現在の時代が西暦2012年に終わるというマヤの信仰とよく合致する。もっとも、このような地球変化の起こるメカニズムについてケイシーは述べていない。だが、いまやコットレルの新しい太陽黒点論によって、われわれはその因果関係を解く理論を得た。
太陽の磁場こそ、地球の磁場の逆転を引き起こし、激変と結びついているのだ。そうした出来事をどのように考えるべきか。それは今後の問題だ。しかし、警告がなかったとは、もはや言えないのである。
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| 2013 |
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2014
60歳 |
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| 2015 |
(地球が崩壊に近い危機) |
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| 2016 |
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| 2017 |
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| 2018 |
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2019
65歳 |
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| 2020 |
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| 2025 |
地球温暖化と食料問題の観点から地球崩壊説 |
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| 2036 |
ジョン・タイターがいた時代 |
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| 2050 |
地球温暖化問題から地球の平均気温が?℃上昇
最悪の場合2100年までに6.4度上昇
このような予測にどんな意味があるのか? |
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| 2126.7下旬 |
地球崩壊の危機
木内鶴彦氏が1992年に再発見したスウィフト・タットル彗星の次回の回帰予定日。
直径約20キロもあり、わずか15日ほど回帰がズレただけで地球に衝突してしまう。 |
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スピリチュアルな生き方とは
この大宇宙と調和的な関係を持ちながら、内なる平和と愛、感謝に基づいた生き方をすることである。ある特定の宗教に所属して、その教えに従いながら、さまざまな儀式的な行為を行なうという意味ではない。
スピリチュアリティとは、難しく複雑なことではなく、ごくシンプルなこと。
何より実践・行動が大切 |
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ソウルメイト:より更に親密な関係をツインソウル(ツインフレーム)。
魂の伴侶、過去世において何らかの人間関係にあった人たちが再び現世で出会い、同じ使命や達成すべき目的を共有するために関わる関係のこと
ソウルメイトの役割
1.あなたの強い正義感的煩悩を取り除くソウルメイト
2.あなたの人生の目的を気づかせてくれるソウルメイト
3.あなたの人生の目的を達成するための能力を気づかせてくれるソウルメイト
4.あなたの人生の目的を達成するためにサポートしてくれるソウルメイト
5.あなたを癒し続けるソウルメイト
ソウルフレンド:親、兄弟、友人
ソウルファミリー:人生を共に生きる特定のグループ
グループソウル:、「あなたの魂は大きなグループの一員であり、決して自分だけのものではない。この世は魂を磨くためにあり、そのため多くの苦しみがあるが、必ず幸福もあり報われる。私達は選ばれてこの世に生まれてきたのであり、修業することで、仲間である自分達も救われる。あなたは決して一人ではなく、仲間が応援し常に見守ってくれている」
「類魂」=「グループソウルの法則」
予言と預言
地球外知的生命との最初の公式なコンタクトが行われるまでに何が起こるかを観察しようと思えば、未来の歴史に関する確実な年表を作らなければならない。その際、正確な日付をあげることは将来の出来事を不都合に変化させ、また多くの人間にパニックを引き起こすので妥当ではないと思う。なぜなら未来について知れば、多くのことを変えようとの試みがなされるが、これらのことは決して変えることができないからである。というのはこれは変更できる預言ではなく、予言であるからである。
このような理由から私自身にはわかっているが、日付を述べることを控えたい。
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●ロジャー・ウォルシュほか『トランスパーソナル宣言』シャーマニズム
●謝世輝
●C・Mブリストル
●リチャード・ワイズマン
★パルテン・ギャツォ
中国で投獄・虐待され続けたチベット僧(彼を描いた映画が「雪の下の炎」)。彼が釈放された理由には、イタリアのアムネスティなどの働きかけがあったのだという
★劉暁波 ノーベル平和賞授賞に対し、中国政府が出席を妨害
・超心理学史
・スーパーネイチャーⅠ、Ⅱ
・精神生物学
『死後世界へのソウルガイド&ナビゲーション』 、原著者は上記のAl Miner (アル・マイナー)およびLama Sing(ラマ・シング)。ラマ・シング
・一人になった母に捧げたい絵本『わすれられないおくりもの』。
- 富山県(富山平野)呉羽山の羽根飛登行所は日本国内専用、つまり国内線の空港、石川県羽咋市にある羽根飛行場は世界各地を回るための国際線用だった。太古の昔に空飛ぶ船があり、天皇がそれに乗って万国を巡行していたという。
- 富山県の立山町にはUFOの目撃者が異常に多い尖山(とがりやま、とんがりやま)という古代日本のピラミッドが存在する(標高559m)。「神代の万国史」に挿入された巻頭写真の説明には、「トンガリ山は上古第二十四代天仁仁杵身光天皇(アメノニニギノスメラミコト)の神殿のアトである」と書かれている。これは神殿「アメトツチヒラミツト」で、天皇はそこから「天の浮舟」(あめのうきふね:UFO)に乗り、全世界を飛行したとされている(サンデー毎日ピラミッド特集、北日本新聞、名古屋タイムズ(1984年6月))
《参照》『ネオスピリチュアルアセンション』 エハン・デラヴィ/中山康直/白峰由鵬/澤野大樹
《参照》『宇宙戦争 ソリトンの鍵』 光悠白峰 (明窓出版)《前編》
《参照》『神との対話 ③』ニール・ドナルド・ウォルシュ(サンマーク出版)《後編》
《参照》『仏陀からキリストへ』ルドルフ・シュタイナー(風の薔薇)
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■しみじみ・・・-…。風車にも生活にもマイナス面はあるけれど、それを上回るプラス面があれば、手間がかかってもそっちを選ぶ。手間を惜しまない生き方。もしかして、これが幸せの根本なのかなあ・・・。 以上NHK「地球イチバン 100%自然エネルギーの島!」より ロラン島
・バルト海の西端、シェラン島の南西、ファルスター島の西にある。
面積は1,243平方キロメートル、2006年時点の人口は68,224名。最高所の標高が25mしかない低平な島である。
『共生の大地 -新しい経済が始まる-』岩波新書 1994年 内橋克人著
『デンマークという国 自然エネルギー先進国』合同出版 2003年 ケンジ・ステファン・スズキ(こちらは積んどく本となっていた。反省)