霊的史実
主として
活躍した年代

西暦年
精神世界的、歴史・政治史的見地からみた重要史実
地球環境的見地からみた重要史実
経済史的見地からみた重要史実
その他の歴史的史実
内容
1848年 2000年 2010年1月 2011年1月 2012年1月2013年1月
書籍
その他資料

霊的見地からみた史実とは
霊界通信=霊界から地上界へ通信が届けられる方法やメッセージが存在する

(1) スピリットが語る。

霊言現象 スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で「
お告げ」とか「口寄せ」と呼ばれているもの。変性意識、変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。トランス状態(変性意識状態の一種)、トランスパーソナル心理学アデプトプログラム(意識の成長を促進するプログラム。)
自動言語・直接談話現象 霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもの。霊媒から離れた空中から直接声がする。

(2) スピリットが書く⇒エリザベス・キューブラー・ロスと死亡した元患者のエピソード、『スピリットランド』
自動書記現象 通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合。「おふでさき」。『波動の法則』
直接書記現象 神と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもの。絵画や記号、暗号などの場合もある。

(3)
人間の幽体離脱(体外離脱)による次元や時間を超えた探索体験がある
音響現象、物体の出現・消失・物体を通り抜ける、物品引寄せ、化学的現象(発光・芳香・心霊写真)、耐火現象、浮揚現象、物質化現象、塑型、人体の変化、心理的心霊現象
写真撮影、テープレコーダーでの録音等による記録、モンロー研究所
・治療中に自身の過去世体験を語る⇒前世療法。臨死、幽体離脱中に過去生や未来を体験する。
アクシデントによる体験(臨死体験) ⇒ 実験的・訓練的体験 ⇒ 日常的な体験へ 
=幽体・体外離脱 ⇒ 死後(霊的)世界探索、探求

(4) チャネリング 常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人など)とコミュニケーションをすること。
1980年代以降米国でさかんにこの意味で使われるようになり広まった。チャネリングを行う人をchannel(チャネル、チャンネル )、あるいはchanneler(チャネラー) と呼ぶ。
人生の意味とは?
過去生、現生、来生はあるのか?

この現生をどう生きるのか??
私は一体何をしに生まれて来たのか?

本当に「皆仲良く暮らす」とはどんな暮らし方??

「楽しく」生きるとは??

本当に人生に必要なものとは?

そして、私たちはこれからどこへ行き着こうとしているのか?

計らずも
こんな情報に出会っていったのもひとえに
勝手にソウルメイト」との会話がきっかけです。

まとめ「12の救い
は当ページ最後へ

いよいよ行動・実践へ!!

特に出典がないものはwikipediaを中心にネットからの情報収集メモです。
46億年前 地球誕生
45億年前 月誕生  
 
太陽系は星間ガスの渦から始まった。重たい物質だけが渦の中心に集まり太陽のもととなった。太陽に近い場所では、比較的重い物質、鉱物や岩石などがぶつかり合いながら大きな結晶に成長していく。太陽を中心にさまざまな重さの物質の塊が惑星となり、軌道を描くようになっていった。
・太陽系で生命が誕生したのは地球だけ。太陽からの距離、惑星を構成する成分、その他さまざまな条件が奇跡的な確率で積み重ねられた結果だった。

水が液体の状態を保っていられるのにちょうどよい距離に位置していたのが地球だった。
・原初の海で最初の生命が生まれた。藻のような植物性プランクトン光合成により酸素⇒。動物性の微生物循環
・植物が海岸から少しずつ陸上に進出、地球誕生から地表の大部分が植物によって覆われるまでに要した時間は8億年
生命体は地球の環境バランスを整える。生命体はよりよい循環を地球上にもたらすため存在する」
というたった一つの目的のもとに増えていった。
・太古の地球は植物中心の生態系。適度な死が必要。肉食獣は体内に植物を栄養化する酵素を持っていないため、草食獣の内臓を食べることによって生命を保っている。⇒進化論では生命体は自らの種をより繁殖させることが可能なように、厳しい自然環境に適応していくかたちで自らの肉体を進化させていったという言い方をするが、私が見てきた世界は、自らの種を繁栄させるためではなく、地球環境のバランスを整え、より長く生命が循環し続けられることを目的に進化していた。そして、種々雑多な生命のバランスを管理するものとして、進化の最終段階で生まれてきたのが人間だった自ら学習し、物事を考え、発想し創造する能力をもつ生命体がどうしても必要となってきたのだ。それはちょうど縁のないお盆の上に置かれたビー玉を落とさないようにバランスをとりつづけるビー玉に似ている。たえずそのときの状況や変化に合わせてバランスをとりつづけなければならない。
地球の歴史を見ることによって、膨大な意識のなかからこのことを読み取った。⇒こうして「人は何のために存在しているのか」という問いに対する答えを手に入れた。

『生き方は星空が教えてくれる』より
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
40億年前 宇宙の奇跡である生命誕生?
 

 
2億8900万年前 

人類創世
・人類創成はこれが初めではなく、2億8900万年前、地球創造を計画した創造神たちによってシリウス人(おおいぬ座)、オリオン人、アルデバラン人(おうし座)、ケンタウルス人、プレアデス人(おうし座)が派遣され、すでにおこなわれてきた。
・初期の
水棲恐竜を遺伝子操作して、人類の原型を造ったとされている。
・かれらは勝手に人類を創造したわけではなく、かつて地球に住んでいたことがあるので
生きた図書館であるこの星に鍵となる種族を造るよう命じられたという。
・彼らは人間に悪意を持ってはいない。もちろん害をなす意図は、断じない。
・それが理由で世界各地の
原住民が、われわれはどこそこの星からきた、深い関係を持っているという神話を言い伝えている。(要調査)

 
 
 
6500万年前 恐竜絶滅。1億数千万年もの間繁栄
1850万年前  第3根本人種レムリア時代の中期
・サナット・クマラは、地球の惑星ロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るために、「大いなる犠牲」として、1850万年前に金星からやって来たとされる。
・サナット・クマラは、当時から現在までも、エーテル体を纏っている。
・サナット・クマラは、104人のクマラ方と共に地球に到来された。クマラ方は、炎の天主方などとも呼ばれる。
・105人のクマラ方の内、現在では4人だけが地球に留まっている。即ち、サナット・クマラと、「活動の仏陀 (プラチエカ仏陀)」などと呼ばれるクマラ方の3人とである。
・サナット・クマラは、モンゴルのゴビ砂漠上空の、エーテル界の上位亜界に、地球のエネルギー・センター(中心)、人間における頭頂チャクラに相応する「シャンバラ」を発生させ、そこに住む。
・サナット・クマラが地球にやって来た当時、1850万年前は第3根本人種レムリア時代の中期であった。
・当時の人類は、動物状態におけるは完成していたが、まだ本当の人間ではなかった。即ち、動物としての魂が宿る器に過ぎず、人間としての魂が宿る器ではなかった。
・サナット・クマラは炎の主方と共に、人間としての進化の道にいる魂を、人間として転生させるために、動物人間であった地上人類の進化を促進したとされる。これにより、地上人類は本当の意味で人間となったのである。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より
 
800~900万年前 第4根本人種アトランティス時代の中期
・サナット・クマラは、第4根本人種アトランティス時代の中期(800~900万年前)、地上人類の進化を更に促進するために、秘教的イニシエーションのプロセスを地上人類を授ける。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より
 
300万年前 人類誕生
45万年前 アヌンナキ、地球に飛来⇒そのことが書き記されたのがほんの数千年前。『大いなる秘密(上)』 P76  
20万年前 人間誕生
・20~30万年前、レプテリアンの遺伝子交配プログラムによって、同じく爬虫類型異星人であったアヌンナキと人間との混血種が創り出された?『大いなる秘密(上)』 P133
⇒「この地球上におけるレプテリアン以外の異星人が人類と交配する可能性」?
 

Y染色体アダム(Yせんしょくたいアダム)
Y染色体系譜を遡った場合に、人類共通の男系祖先とみなせる概念上の人物である。ヒトのY染色体は男性から男性へと遺伝する。通常、Y染色体は男性の細胞核中に1本単独で存在し、相同染色体対を作らず、擬似常染色体領域と呼ばれる一部の領域を除いて、染色体の乗換えは起きない。このことから、Y染色体の特異的な領域(MSY, male specific region of Y chromosome)に生じている突然変異を特定することで、「人類共通の男系祖先」が一人に収斂する年代が推定されている。
・「人類共通の男系祖先」であるY染色体アダムは、20-30万年前の一人だと推定される。これはミトコンドリア・イブの年代とおおむね一致している。これは、それ以前にY染色体がなかったということを意味するのではなく、Y染色体は何十万年も前から存在していたが、そのほとんどは、途中で絶えてしまい、今もなお存在しているもののなかで一番古いものは20-30万年前のものだ、というだけのことである。現時点のY染色体は、数万年もたてば、すべて滅びてしまう。そして未来における何らかのY染色体をもつ誰かが、数万年後の世界にとってY染色体アダムとなる。Wikipedia 

 
約5万年前 ムー(レムリア)の人々の多くが北アメリカへ⇒南アメリカへ  『バシャール×坂本政道』
4万年前  最古の笛
初期の楽器
ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟の遺跡で人類がハゲワシの骨やマンモスの牙を彫って作った”
フルート”をドイツの大学の研究チームが発掘し、ネイチャー電子版に発表。アフリカから欧州に到着したばかりのクロマニョン人による最も初期の楽器とみられる。3万5000年前のものか?

確実に最古の笛と考えられているものはドイツ、ウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛で約36000年前のものであり、現生人類が使用したと考えられている。Wikipedia「世界最古の笛
ネイチャー電子版
新聞2009.6.25付けより

英オックスフォード大学は、同校と独テュービンゲン大学の研究者が、世界最古の楽器と見られるマンモスの牙とトリ[ハゲワシ]の骨によるフルートのコレクションについて、時代を特定したと発表した。同じ深さの採掘で見つかったほかの骨が、放射性炭素年代測定で40,000年前のものであることがわかったのだ。.livedoornews2012.5.31
http://news.livedoor.com/article/image_detail/6612240/?img_id=3331595
3万5千年から4万年ほど前  ホーレ・フェルスのヴィーナス
は2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス像
この時代はじめの初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。描かれているのはおそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。Wikipedia 
3万5千年前 ライオンマン(ライオンレディー)
この獅子頭の象牙彫刻は、まずライオンマン(直訳すると "ライオン人")、次いでライオンレディ()と呼ばれた。これは世界最古の動物形象の彫刻であると同時に、いわゆる彫刻として知られる最古のもののひとつである。この彫刻は、動物に人間の性質を擬した擬人化であると解釈されているが、神の表現である可能性もある。発見されたのと同じ地層の放射性炭素年代測定により、この小立像は約32,000年前のものとされている。これは考古学上、オーリニャック文化のものとされている。Wikipedia
     
約3万2000年前   洞窟壁画
有史以前の、洞窟や岩壁の壁面および天井部に描かれた絵の総称。
現存する人類最古の絵画である。壁画は4万年前の後期旧石器時代より製作されている。これらは社会的に敬われていた年長者や、シャーマンによる作品であると広く一般に信じられている。 
・約3万2000年前ショーヴェ洞窟、現存する人類最古の絵画。バロン・ポン・ダルク近郊、フランス
・約18,500年前頃のもの、約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる―アルタミラ洞窟、カンタブリア州サンティジャーナ・デル・マル近郊、スペイン
ラ・マルシュ洞窟、リュサック・レ・シャトー近郊、フランス
・15,000年前―ラスコー洞窟、旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれた。、フランス
コスキュール海底洞窟、マルセイユ近郊にある入り口が海面下にある洞窟、フランス 
 
約3万2000年前  ショーヴェ洞窟(フランス)
現存する人類最古の絵画。
バロン・ポン・ダルク近郊。ハイエナの絵もある。 Wikipedia
 
3万年前~
1万2000年前
ムー(レムリア)の人々、アトランティスへ?
・アメリカの東海岸、キューバ、プエルトリコ、フロリダの一部、バハマ
・アトランティス時代、地球は氷河期⇒海面は約300フィート低かった。
・科学技術は約2万年前~1万5000年前にピーク
・空中浮揚について理解。クリスタルを振動させて電力や光をつくる方法
・空気よりも軽い船、長距離コミュニケ―ションの手段
ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーに分裂⇒軍事的征服者⇒崩壊
 『バシャール×坂本政道』
25000年前  ローセルのヴィーナス(角を持つヴィーナス)
旧石器時代の数々のヴィーナス像の中でもその造形性によって名高いこのレリーフ(浅浮彫り)は、20世紀初頭(1911年)にフランス、ローセルの岩陰で発掘されました。この女性像が意味するところは謎のままですが、その豊満な体つきや手にした角は、豊穣や多産と関係するとも考えられます。

25,000年前頃
石灰岩 縦54cm 横36cm 厚さ15cm
アキテーヌ博物館
TBS
 
紀元前22,000年から20,000年
(約24,000年から22,000年前) 

ヴィレンドルフのヴィーナス
ヴィレンドルフの女」としても知られる、女性の姿をかたどった高さ 11.1cm (4-3/8インチ) のスティアトパイグス (steatopygous、臀部突出) 型小像。
ウィーン自然史博物館の蒐集品の一部。
1908年に、オーストリアのヴィレンドルフ近くの旧石器時代の遺跡で、同国出身の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが発見した。
この小像は、その地方では産出しないウーライト (魚卵状石灰岩) を彫刻して造られており、また代赭で染められていた。
1990年時点における、遺跡の層序に関する再分析においては、前22,000年から20,000年(約24,000年から22,000年前)に彫刻されたと推定された。小像の起源や、制作方法、文化的意味などについては、ほとんど知られていない。
この小像は、写実的な肖像というより、むしろ理想化された女性の姿を表している。像の女陰、乳房、膨張した腹部は非常に顕著であり、多産・豊穣との密接な関係を示唆している。小さな腕は乳房の上でまとまっており、像には明瞭な顔面がない。頭部は、組み紐の巻いたものや、目、頭飾りの一種と考えられるもので覆われている。Wikipedia 


Wikipedia
2万2000年前  ブラッサンプイの貴婦人像
マンモスの牙に女性の顔が彫刻された2万2000年も前の驚くべき例のひとつです。マンモスの牙に彫った高さ4センチもない小さな像。
フードをかぶった婦人ともよばれ、人間の顔を精緻に表現したもっとも古い作品といわれる。
国立考古学博物館
 
1万9000年前  レスピューグのヴィーナス(フランス)
旧石器時代。1922年フランス南西部洞窟より発見。現物はマンモスの牙製。
人類学博物館蔵
 
 
18,500年前~13,000年前  アルタミラの洞窟壁画(スペイン)
壁画は、ソリュトレ期に属する約18,500年前頃のものと、マドレーヌ期前期頃の約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる。約13,000年前に落石によって洞窟の入り口が閉ざされたと考えられ、これにより幸運にも壁画は外気から遮断され、理想状態に保存がされている。Wikipedia 写真は複製
 
16,500年前~
3,000年前
縄文時代
子ども向けの本だったが、『縄文人の智恵』に感動
約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、
地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、
世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。=土器時代
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。

縄文人
旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。
この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4-9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている。日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。Wikipedia

縄文人-父系のルーツ
父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は従来考えられてきたよりも色濃く古モンゴロイド的縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。

崎谷満の分析では、日本人は主にY染色体ハプログループD1bの縄文系とハプログループO1b2の弥生系を起源とする事が明らかになった。

『縄文人の智恵』
 
  15000年前 月の誕生
月誕生は15000年前、すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいた。
大量に増えた水は地球の質量を変化させ重力を増加させた
月の誕生により、地球は月の引力の干渉を受けることにもなった。
海の潮の干満もこのときから始まった。
『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦) 
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
 15000年前 人類誕生と最初の試練
当時は海対陸の比は1:3⇒現在は3:7(月は存在していなかった?)。
質量が少ないため、重力も弱かった。水圧から解放された動物は重力の弱い陸上で巨大化していった。
最初の試練が訪れた。大量の水を含んだ巨大彗星が地球に大接近した。火星付近まで到達したとき、水分が気化して太陽よりも巨大なガス状の天体に変化した。ガスは地表に近づくにしたがい冷え、雨となって降り注ぎ、大地の三分の一が水底に沈むほどの大雨が地球に降り注いだ。
人類は避難するも大多数が死亡恐竜は絶滅
⇒月誕生後にわずかに生き残った人類は山を下り、再び文明を築く努力を重ねたが文字通り、ゼロからのスタートだった。『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦)
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
15,000年前  ラスコー洞窟壁画
アルタミラ洞窟壁画と並ぶ先史時代(フランコ・カンタブリア美術)の美術作品。
1940年9月、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見された。
洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれていた。Wikipedia 
 12000~19000年前 粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)と日本最古の土偶
三重県松阪市飯南町粥見字井尻で1996年(平成8年)に発見された縄文時代草創期の遺跡。
県指定史跡。日本最古級の土偶が出土した。現在は「粥見井尻遺跡公園」として残されている。
平成8年9月、松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で縄文時代草創期の土偶が、ほぼ完全な形で発見された。Wikipedia

今から時代をさかのぼること約1万2千年から9千年。土器や弓矢が使われ始めた縄文時代草創期のもので日本最古のものとみられています。
女性の上半身を形どった、全長6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶ですが、縄文時代の精神文化誕生をひもとき、その時代の人々の暮し、 社会の様子などを解明していく上で大きなヒントになるものと全国から注目されました。観光三重HP

粥見井尻遺跡から2つの土偶が発見され、そのうち1つはほぼ完全な形で、もう1つは頭だけのものが別々の竪穴住居跡から発見されました。2点とも同じ大きさ、形で、砂粒の混じりの少ない粘土が使われ、明るい黄土色をしています。まさかのまつさか
日本最古の土偶
14000年前   北海道帯広市の大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4000年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、日欧研究チームが10日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川をさかのぼったサケ・マス類の可能性があるという。。(時事通信)   
 13000年前

国内最古級の土偶出土「相谷熊原遺跡」
滋賀県東近江市永源寺相谷町の「相谷熊原遺跡」で、女性をかたどったとみられる約1万3千年前(縄文時代草創期)の国内最古級の土偶が見つかり、県文化財保護協会が29日、発表した。縄文草創期としては、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で出土した2点に次ぎ3例目。同協会は「出現期の土偶の在り方を探る上で貴重な史料」としている。竪穴建物跡も5棟見つかり、近畿地方で縄文草創期の集落跡が見つかるのは初めて。土偶は建物跡から出てきた。
同協会によると、土偶は高さ3.1センチ、最大幅2.7センチ、重さ約15グラム。豊満な乳房と腰のくびれを表し、女性像とみられる。胴体部分だけを表現し、腕や脚はない。頭部もなかったが、首付近に深さ約2センチの穴が開けられていた。
底部は平らで、直立するように作られていたが、縄文の草創期や早期の土偶には見られない特徴という。1万3千年前という時期は、建物跡から見つかった土器に付着していた炭化物を放射性炭素年代測定法で分析。粥見井尻遺跡の土偶との共通点はほとんどないとしている。 201/5/29 日本経済新聞 

 指先大のふくよか土偶
12000年前  鳥浜貝塚
福井県若狭町に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000~5,000年前)の集落遺跡。保存良好な木製遺物等1376点が国の重要文化財に指定されている。
放射性炭素年代測定法によると、地下7メートルで今から約1万2000年前(縄文時代草創期)、約6メートルで約8000年前(縄文時代早期)、約3メートル下で約5500年前(縄文時代前期)であり、ムラは縄文時代前期の6000年~5500年前が最盛期であったことが分かった。
世界最古のウルシ
1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ1万2600年前のウルシの枝であることが判った。ウルシは奈良時代以前に大陸から持ち込まれたとこれまで考えられていたが、さらにかなりさかのぼった縄文時代初期の可能性もあるが、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。
丸木舟
1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。
 
   
11000年前  高度な技術を持った文明が地球的大変動によって壊滅し、「黄金時代」はその幕を閉じた。『大いなる秘密(上)』P76   
 10,000年前
(紀元前8000年)
集合意識ハトホル
古代エジプト文明
が存在していた。集合意識ハトホルは地球と関わりを持っていた。ピラミッド建造に関与はない。
ピラミッドには埋葬室を備えたものも少なくないが、第一の目的はエネルギー発振装置としての機能にあった。当時の秘儀参入者たちは特定の数学的比率で地取りされた指定場所に入った。そのようなエネルギー生成母体に入ることでそうでなければとうてい不可能な「大いなる宇宙」や「大いなる神秘」の知識の伝授を成し遂げられた。
・エネルギー網、すなわちグリッドの創造を促進させることができた。地球上のこのグリッド構造は新たなグリッドを支えるという明確な目的ですえられた。今日ではキリスト意識のグリッドと呼ばれ、ナザレのイエスとして知られるあなたがたの師が献身的努力を手向けたおりに顕在化したもの。
・この大いなる存在が務めに着手したとき、複数のピラミッドからなるグリッドが、その新しい波動を支援した。そして、そのキリスト意識の波動をもつグリッドは今日まで継続的に強化をされてきている。ピラミッドはいくつもの意識レベルにまたがる多目的な機能をもつ装置だった。(P31~)
Q:中央アメリカとメキシコ全域には何百基ものピラミッドが散在しているいに関わらずまだ、存在さえ知られていないといいますが。
・ジャングルにすっかり覆われていますからもっともな話です。
Q:ピラミッドは地球全域にわたり、あらゆる場所に建てられていたのでしょうか。
・そうです。一つの文明によってではなく、多くの様々な文明によって造られました。それでも建造にたずさわった存在ないし文明は、直観と「大いなる神秘」に関する知識によって、みな深い意識レベルでつながっていた。そして自分たちのしていることをエネルギーという見地からきちんと理解していた。特定の指導的な建築家によってすべての施工が行われたわけでもなく、3次元的時空間で特定の指導者たちのあいだに示し合わせがあったわけでもない。ピラミッドはすべてそれぞれの場所ごとに建造されたが、明らかに同じ源を共有し、いずれの場合も外部からの支援を受けていたのです。
Q:惑星外からの支援ということでしょうか。
・そうです。プレアデス人やシリウス人などから支援を受けていました。
『ハトホルの書』より
 『ハトホルの書』
  シュメール文明、メソポタミア文明
メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。
 
紀元前6000年~
紀元前5000年頃
エジプト文明
牧畜(古代)、それに、農耕(古代)による交換経済は、紀元前6000年~紀元前5000年頃には、既に定着していた。そして灌漑農業が創始したときには、ファラオによる公共事業が行われた。また、周辺文明であるメソポタミアそれにヒクソスとの対立は、交易の範囲が拡大していたことを示してい
(巨石と太陽)ギザの3大ピラミッド 
紀元前5500年~紀元前3500年  ウバイド文化(Ubaid culture, 紀元前5500年ごろ - 紀元前3500年ごろ)はメソポタミアに誕生した先史文化。イラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイド(al-`Ubaid, العبيد‎)という遺丘(テル)で発見された、新石器時代から銅器時代の遺跡が、この文化を代表する。この文化はメソポタミア南部の沖積平野での最古の文化で、紀元前6500年ごろからメソポタミアに広がり始め、紀元前4000年ごろから始まるウルク文化へと引き継がれた。灌漑農業の導入による農業の飛躍的発展、車輪の導入、銅器時代などがウバイド期に始まっている。  銅器時代
紀元前5000年代  P85紀元前5000年代に形成された西ヨーロッパの村落社会では,先祖を敬う確固とした宗教が形作られていった。この宗教は,巨石建造物が発明されたことによって,明確な形をとるようになった。こうした建造物は,生前に強い影響力を持っていた死者たちを守り,その記憶を維持するために,象徴として考え出されたものである。巨石建造物の永遠性や,その築造に注ぎ込まれた途方もないエネルギー。それは,この建造物を造る際に用いられた技術や,そこで行われた儀式を知ることで明らかになる。  『巨石文化の謎』紀元前5000年代 
   
   
紀元前4800年 縄文人-勾玉(まがたま)の分布
遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが判明しており、縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしていたことが考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。Wikipediaより
 
紀元前4000~3500年  巨石遺構巨石記念物
・研究史―20世紀に発明された放射性炭素年代測定で、この技術によれば巨石記念物の多く(※カルナック列石、ストーンヘンジ、マルタ島など)は、ケルト人はおろか、ピラミッドすら建っていない紀元前4000年から3500年ごろに着工されたものであると判明した。こうしてこれらは現在おおよそ新石器時代のものであるとみなされている。
・担い手―ヨーロッパにおける巨石記念物の分布は、ハプログループR1b (Y染色体)の高頻度域と見事に一致している。このグループは新石器時代にヨーロッパに農耕をもたらした集団と考えられる。現在はバスク人に90%以上に見られることから、バスク語に近い言語(バスコン語)を話していたことが想定される。 Wikipediaより
 
約5300年前 アイスマン
(英語: Iceman)は、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷(海抜3,210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラである。
エッツィ(Ötzi)の愛称で知られる他、英語圏ではエッツィ・ジ・アイスマン(Ötzi the Iceman)、ハウスラプヨッホの男(Man from Hauslabjoch)などとも呼ばれる。 
2012年に初めて実施された解凍調査の結果、瞳、髪の色は茶色、肌の色は白色、身長160cm、体重50kg、骨からのデータにより年齢47才前後、筋肉質な体型だと解明された。血液型はO型、乳糖不耐症の因子を持ち牛乳が苦手だった可能性が高い(そもそも、古代人の多くは乳糖不耐症の因子を持っており、ヨーロッパにおいて乳製品の飲食が広まったのは古代ローマ時代以降である)。腰椎すべり症を患っており、腰痛持ちであった事が考えられる。…Wikipedia
 
紀元前
3650~1400年頃 

ミノア文明(クレタ文明)
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。

紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。

クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。

初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。

ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた。しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している。Wikipedia 

青銅器文明
(巨石)ミケーネの獅子門
5000年
~4000年前
縄文中期 
土偶-縄文のビーナス(じょうもんのビーナス)
縄文時代中期に製作されたと見られる土偶。妊婦を象っており、高さは27cm、重さ2.14kgである。「土偶」の名称で国宝に指定されている。茅野市尖石縄文考古館所蔵。 Wikipedia 
縄文のビーナス 
国宝
約4,500年前縄文時代中期 

土偶-縄文の女神
平成4年年8月4日から6日にかけ、調査区内の落ち込み遺構の直径2.5m程、地下1mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足など5つに割れた土偶が相次ぎ出土し、復元を進めた結果、45cmと日本最大の土偶であることが分かりました。
色調は、全体で淡い赤褐色で、半円形を呈し、複数の穿孔(せんこう)が見られる頭部には、顔面の表現はなく、両側には耳飾りを意識した孔があります。
腕を省略し、角ばった肩からW字に乳房が張り出し、腹部には妊産婦を表現し、突き出した個所にヘソをあらわす刺突が見られます。背中には背骨を表す正中線が臀部まで垂下し臀部は後部に突き出た「出尻形」を呈しています。脚部端部は分離しておらず、立像として自立する工夫としてパンタロン風に裾広の形状です。底面には比較的広い抉(えぐ)りが見られ、焼きむらを避ける工夫が見られます。
この立像土偶は均整のとれた八頭身の美しい容貌から、いつしか『縄文の女神』と呼ばれるようになりました。
土偶はまじないのため割られたりして投棄されるものが普通ですが、今回は、狭い範囲から全身が出土し、しかも数cmから10cm程度のもの30体ほどが周囲から見つかっています。
土偶の位置付けについて、当時山形県教育委員会文化課の職員として発掘調査を担当された佐々木洋治氏は「他の土偶が儀式が終わればすぐに壊されるのと違って、ある程度の期間、安置されるなど中心的な土偶であった可能性が高く、生命を産む女性をかたどり健康祈願やまじないなどに使ったのではないか」と評し、土偶に詳しい国学院大学、小林達雄名誉教授は「これだけ大きい土偶の発見により粘土製の土偶がすべて同じ性格をもつのではなく、土偶に役割分担があることが解明される糸口になる貴重な発見」と評価しています。 国宝縄文の女神

縄文の女神
国宝
山形県立博物館
紀元前3100年~2900年  アイルランド、ニューグレンジと太陽光
紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設された。つまり約5000年前のものである。放射性炭素年代測定によれば、エジプトのギザの大ピラミッドよりも500年ほど古く、ストーンヘンジよりも約1000年先行している。 
アイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。世界的にも有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な先史時代の遺跡である。1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている。
ロッホクル、ニューグレンジなどは、天体観測も行っていたダーナ神族とかかわりがあり、ひとつのレイラインを形成していてラインはフランスにある巨石群にまでつながっている、ともされる(Wikipedia)
 
     
紀元前
3100~2000年頃
ストーンヘンジと太陽礼拝
・ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。
・遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。
・ストーンヘンジの名声は、その考古学的重要性や、古代の天文学的役割によるものだけではなく、訪れた人々に無形の影響、クリストファー・チッペンデールが「この場所の肉体的感覚」と記した、合理的・科学的な観点を超越した何かを与えるところにある。このことが、古代人の大いなる業績の象徴として、そして考古学の主流を今なお打ち負かしている何かの象徴としてのこの遺跡の霊的な役割、および単なる科学的な説明ではそれを正当化できないという信条をさまざまなグループに示した。
・アルフレッド・アトキンスは、この遺跡から他の遺跡へつながる3本のレイ・ラインを発見した。 Wikipedia





(巨石と太陽)
5000年前
紀元前3000年 
ラス・シクラス遺跡
2006年6月20と21日の朝日新聞にペルーで発見された「シクラス遺跡」が大きく記載されました。
中南米にはマヤ、アステカ、インカ文明が有名ですが、今回判明したシクラス遺跡は、それらをはるかに超え、4800年も前にさかのぼる文明です。エジプトやメソポタミアなど四大文明と並び、今までの歴史を覆すほどの大発見です。ペルーの有名なマチュピチュやナスカの地上絵より、歴史的重大さを持っている。

シクラ
石のかわりに紙を詰めてあります。
石と石を繋ぐ植物のネットがほどよいクッションになって、優れた耐震構造をもつ強固な壁を作ることができた、という。
http://www.latenamerica.com/andes.html 
 
紀元前2500年
縄文時代中期 
土偶―十字形板状土偶
北日本の円筒土器文化に属する土偶。北日本では、中期以降も板状の土偶が造られつづけた。

・なぜこの形?
・顔が縄文人ぽくないのでは。

・なぜ下ばきは三角のショートブリーフ?
・胸には乳房というより、…とにかく女性には見えない。 
 縄文時代
 後期 
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)
・秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。
・大湯環状列石には日時計状組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡にもある。 
4000年前
紀元前2000年

縄文時代後期前半  
土偶- 「仮面の女神」
このの愛称をもつこの土偶は、長野県茅野(ちの)市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶。全長は34センチメートル、重量は2.7キログラムあります。(※国内最大級)
顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。
遺跡のほぼ中央にある、お墓と考えられる穴が密集する場所で、穴の中に横たわるように埋められた状態で出土しました。右足が壊れて胴体から外れていましたが、これは人為的に取り外したことが明らかになりました。お墓に一緒に埋納されたものか、あるいはこの土偶だけが単独で埋められたものかは、今後の研究を待たねばなりません。
「仮面の女神」の顔面は逆三角形の仮面がつけられた表現になっています。茅野市尖石縄文考古館
 仮面の女神
(大型) 
平成26年に国宝指定
  土偶―筒形土偶
注目される遺物としては土偶があります。筒形土偶やハート型土偶が出土しており、二個体の筒形土偶が隣接して出土した例は、全国的にも珍しいものです
西ヶ原貝塚から出土した、「筒形土偶の顔」「注口土器」などが発掘された日本列島2009で展示される予定です。 平成21年5月現在 東京都スポーツ文化事業団 
 
縄文時代後期 土偶-ハート形土偶
縄文時代後期の前半の関東地方及び東北地方南部で多く造られた。
ハート形の顔については、仮面をかぶった姿とも、顔そのものをデフォルメしたものとも考えられているが、いずれであるかは判明していない。

1)群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)出土
縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。第二次世界大戦中の1941年、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)大字郷原で行われた国鉄長野原線郷原駅(現在のJR吾妻線郷原駅)建設工事に際し、調査を行ったところ発見された(郷原古墳)。戦後の1951年に公式発表され、一大センセーションを巻き起こした
女性像であるといわれ、妊娠線・産道が表現されている。ハート形の顔は考古学界のみならず美術界でも評価が高い。1965年に国の重要文化財に指定された。Wikipedia

2)長野県富士見町坂上遺跡出土
八ヶ岳の南西麓の坂上(さかうえ)遺跡から出土した、全身がほぼ完存する中実の立像土偶。
文化遺産オンライン 
1)群馬県
 
2)長野県
文化遺産オンライン 
  土偶―山形土偶
頭が山形であるため分類上つけられた
千葉県
加曾利貝塚ギャラリー
 

茨城県 椎塚貝塚 
縄文時代後期後半から晩期前半




縄文時代晩期
土偶-みみずく土偶
縄文時代後期後半から晩期前半の関東地方でみられるみみずく土偶と呼ばれる土偶である。
顔は刻み目を施した隆帯で輪郭が縁取られ、円板を貼り付けて目と口が表現される。このユーモラスな顔が鳥のみみずくに似ていることから、その名が付けられた。

埼玉県さいたま市岩槻区真福寺出土、重要文化財
 本例もその名に違わず、ハート形の顔の輪郭に大きく丸い目と口がかわいらしく表現されている。頭から突き出たたくさんの突起は櫛や髪型が表現されているともいわれ、また耳に貼り付けた円板は耳飾りが表されたとも考えられている。大きく立体的に作られた頭と比較して胴部は扁平で、肩から伸びる短い両腕と対照的に両脚は長く作られる。全身は赤彩がよく残り、胴部には胸と肩からへそへかけて隆帯が貼り付けられ、腰部には鋸歯文を描かれ、脚部には縄文が施文される。
 土偶の造形表現は、縄文人の造形力の豊かさを知るだけではなく、髪型や装身具、さらには服飾といった風俗を考えるための大切な材料である。 

埼玉県、赤城遺跡より出土
祭祀遺物集中地点より出土している。
後期後葉から晩期前葉にかけて関東地方を中心に作られる木菟(みみずく)土偶の系譜を引く土偶で、中空・大型化したも のである。同様の土偶は埼玉、千葉、茨城県下に分布するが、出土例は多くない。桶川市の後谷(うしろや)遺跡からは、そっくりな土偶が出土しており、両遺 跡間の交流を物語っている。文様や施文の手法などから安行(あんぎょう)文化の中から派生した土偶と考えられる。埼玉県埋蔵文化財調査事業団









2600年前
紀元前600年頃
マヤ文明-太陽崇拝
中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」 ―― それがマヤ文明。
ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのか。
・1つはマヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないこと。
・2つめはマヤ文明が「考古学の常識を超えた古代文明」だったこと。
・3つめは、最も重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って「予言のテクノロジー」を操っていたこと。
・巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていた。
・マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らか。
たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡
紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。
ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。その中心に華麗な都があった。大小3000個もの真紅のピラミッド群石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていた。その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがない。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7~8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物である。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかる。
・メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもあった。考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいる。
こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきた。
・「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」
・「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」など
・古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していた。
古代マヤの地で「白人の到来」が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実。
・古代マヤの予言者たちはこうも予言。「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、1バクトゥン=14万4000日です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなる。
この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう物質文明の崩壊
予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのか。答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されている。
オーパーツ
クリスタル・スカル
『謎のクリスタルスカル』

ボブ・フィクス著
『時を超える聖伝説』

マヤ神話
『ポポル・ヴフ』

ククルカン
マヤカレンダー
マヤピラミッド-大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群

ティカル遺跡

紀元前2500年~2000年 

リング・オブ・ブロッガー(the Ring of Brodgar / Brogar)
スコットランドのメインランド島にある新石器時代のヘンジ(英語版)と環状列石の遺跡群である。
環状列石は、ステネス湖(英語版)ハーレー湖(英語版)という二つの入り江に挟まれた小さな地峡にある。環の中心地はいまだに考古学者たちが発掘しておらず、科学的な年代特定にも至っていない。建造物群の年代も未確定のままである。しかし、一般的には紀元前2500年から紀元前2000年に建てられたものと考えられており、それゆえネスに建てられた新石器時代の巨大建造物群の名残であったということである。環の直径は104 m で、イギリス諸島では三番目に大きなものである。ヘンジはもともと60基の石から成り立っていたが、20世紀末の段階では、立ったまま残っていたのは27基だけである。Wikipedia

 
 
  土偶-巳を戴く神子 
藤内遺跡より出土
正面からの写真ではわかりづらいが、この土偶を背面からみると、頭の上にとぐろを巻いた蛇が載っている。頭頂で螺旋をなす造形の先端には、土器に表された蛇の口と同じような深い切れ込みがある。それゆえ、とぐろを巻いた蛇だと認められる。
この時代の人面深鉢の造形のなかには頭上に蛇を戴いた作がみられるが、土偶では他に類例をみない。井戸尻考古館  
⇒※さて、この土偶の真価は?  サンデー毎日
 
  メソポタミアと古代メソポタミア文明
ギリシャ語で「複数の河の間」の意)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、現在のイラクの一部にあたる。
古代メソポタミア文明 は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

ゼカリア・シッチンと惑星「ニビル」の仮説
学術的には認められていない。
 
紀元前2000年 ミノア文明(ミノア文明・クレタ文明)アトランティス
(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれるが、クレタ文明と呼ばれる事もある。
紀元前1600年頃の後期ミノア期
各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退化を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。
紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発に巻き込まれたとする説を唱えた。
軍事的になったアトランティスとの衝突 
紀元前1500年頃 

ヒンドゥー教
バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。
紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。
彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。
その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。

神々への信仰と同時に輪廻解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
 ブラフマー:宇宙の創造を司る神
 ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
 シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神  は一体をなすとされている。
・現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。
・ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。 

 
3,500年前
紀元前1500年
縄文時代後期後半
土偶-中空土偶-茅空(かっくう)
出土地周辺には縄文時代後期の墳墓群の可能性があることが判明し、著保内野(ちょぼないの)遺跡として登録された。出土した土偶は1979年(昭和54年)重要文化財に指定された。しかしながら、当時の調査は調査期間とその範囲に限界があり、遺跡の調査としては決して十分なものではなかった。
発見された土偶は、高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1,745gで、中空土偶としては国内最大級である。出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」をとって「茅空(かっくう)」という愛称がつけられている。 Wikipedia

北海道初の国宝「中空土偶」を常設展示しているのは、道の駅機能を併せもつ博物館「縄文文化交流センター」 
中空土偶
国宝
 
3,500年前
紀元前1500年
縄文時代後期後半 
土偶-合掌土偶
東北北部では、縄文時代前・中期に十字形板状土偶(両腕を左右に突き出した十字形の土偶)が多く出土している。縄文時代後期前半に入ると、前・中期で顔が扁平に表現されていたものが、立体的となり前方に突出し、両足も表わされるようになる。後期後半はお腹を膨らませ、妊婦を表現しているものや蹲踞姿勢でポーズをとる土偶が出現する。

蹲踞(そんきょ)注1 姿勢の土偶は、腕組みをするものが多いが、手を合わせ合掌しているポーズをとるものは、本遺跡出土の土偶と青森県つがる市石神遺跡の土偶だけである。ただし、石神遺跡の土偶は頭部と胴体が別々のものが接合され、全体像を捉えることが出来ない。土偶は一般に、完全な形をしているものは非常に少なく、どこかの部分が欠損しているものが多い。
風張遺跡の合掌土偶は、完全な形で残っており、他の土偶と比較してより精巧に作られている。八戸市HP 

合掌土偶
国宝

紀元前1450年
~1150年頃 
ミケーネ文明
・紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。
紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。
・ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的
Wikipediaより  
 
紀元前14世紀 

アメンホテプ4世とアテン・アメン信仰
アテン
アトン (Aten) は、エジプトの太陽神。動物的、
人間的形態である他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現される。
初期には従来の太陽神ラーと同一視されるが、その後神性は薄れ、天体としての太陽を表すようになった。ツタンカーメンの父でもある、アメンホテプ4世が特に崇拝した。

アメンホテプ4世の治世に於いて、アメン信仰は全盛期を迎える。
だが、アメンを讃えていたエジプトの神官たちがファラオをも凌ぐ権勢を誇ったために、王権を強化する目的でアメンホテプ4世はアマルナ宗教改革を断行した。
妻ネフェルティティの影響もありアテンを唯一神とし、自分の名も『アクエンアテン』に改めた。
しかし他の神々の祭祀を停止したり、アメンの文字を削ったりするなど、その改革があまりにも急激だった上に神官団の抵抗が激しく、最終的に宗教改革は失敗に終わる。
アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、ツタンカーメン王の時代にアメン信仰に戻り、アテン信仰は消滅した。
同時にアテンは、アマルナ改革以前の天体としての扱いに戻された。

事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、この時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。

ちなみにアクエンアテンの治世年と、出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤハウェ(ヤーウェ)の原形とする異説も存在する。 

 
  太陽崇拝
太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。
古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテン一神崇拝を行った。太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘーリオス)がある。メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。 
 
紀元前13世紀頃  バラモン教
・紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
・紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
・紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。
・しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。
・新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
・1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
・1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
・4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。 
 
紀元前1300年頃  第19王朝のファラオ、セティ1世と巫女、オンム・セティ(ドロシー・イーディー)
1903年生まれ
考古学者。古代エジプトのファラオ「セティ1世」の寵愛を受けた巫女の記憶を持つ不思議な女性。
オンムセティの言う通りに掘って嘘だった事が無いというほど、そこから古代エジプトの遺物が出てきている。 
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)
  旧約聖書と創世記   
紀元前13世紀頃 

モーセ
・(ヘブライ語: מֹשֶׁה‎ Mōšeh、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses, Moses、アラビア語: موسىٰ‎ Mūsā)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー※トーラーとは、旧約聖書の最初の5つの書である。モーゼの五書律法(りっぽう)とも呼ばれる。これらはモーセが書いたという伝承があったのでモーセ五書と言われるが、近代以降の文書仮説では異なる時代の合成文書であるという仮説を立て、モーセが直接書いたという説を否定する。)の著者であるとされてきた。
・『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトのヘブライ人家族に生まれたが、新生児を殺害することを命じたファラオの命令を逃れるためにナイル川に流され、王族に拾われて育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた。エジプトから民を率いて脱出したモーセは40年にわたって荒野をさまよったが、約束の土地を目前にして世を去ったという。

『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄と姉がいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親を乳母として王女に雇われることができた。
・成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられイスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗った。
・エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、ヘブライ人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶し、なかなか許そうとしなかった。そのため十の災いがエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が撃たれた。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と酵母を入れないパンを食べた。神はこの出来事を記念として行うよう命じた。これが「過越祭」の起源である。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。紅海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた。しかし、後を追って紅海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ。
・その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられた蜜入りのウェファースのような味の白い食料を人々は「マナ」と呼んだ。やがて人々がシナイ山に近づくと、神が山上に現れ、モーセは山に登って十戒を受けた。さらに神はヘブライ人と契約を交わした。

正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合
主が唯一の神であること

  1. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  2. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
  3. 安息日を守ること
  4. を敬うこと
  5. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  6. 姦淫をしてはいけないこと
  7. 盗んではいけないこと
  8. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
  9. 隣人の家をむさぼってはいけないこと 

カトリック教会・ルーテル教会の場合  わたしはあなたの主なる神である。

  1. わたしのほかに神があってはならない。
  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
  4. あなたの父母を敬え。
  5. 殺してはならない。
  6. 姦淫してはならない。
  7. 盗んではならない。
  8. 隣人に関して偽証してはならない。
  9. 隣人の妻を欲してはならない。
  10. 隣人の財産を欲してはならない

・1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。
・ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝している。

『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。
・続く『レビ記』『民数記』『申命記』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。モーセは石版の破片を入れた『契約の箱』を先頭にシナイ山を出発し、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上ではモーセとアロンへの反逆が行われたり、不平を言う民を罰する民に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たため、モーセが青銅の蛇を示して民を救った出来事などがあった。
・モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。「メリバの泉で神が聖なることを示さなかった」ことにより、約束の国に入ることを許されず、ヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている。
・モーセの死後、その従者であったヌンの子ヨシュアが後継者となり、神の民を導いた。
・ムーサー(モーセ)はイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。
レビ族

 
 
  ニムロド
ヘブライ語: נמרוד‎)は旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章においてクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。  
 
  ダビデ王とソロモン
ダビデヘブライ語: דוד‎ Dāwīḏ (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβίδ, ラテン語: David, アラビア語: داود‎ Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデダヴィドとも。
羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となった。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、…
イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。
英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。 詳細は不明 
 
紀元前1280年頃 

ユダヤ教の成立

・モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。
・カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。

紀元前1020年頃
イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分立する。

紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。
バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。
この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。

紀元前539年
この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。

死生観
ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。
最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂(来世)を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄(来世)に落ちると考えられている。

問題点
欧人がユダヤ人を差別するのは、西欧人がローマ帝国によってキリスト教を押し付けられ、元来の民族宗教を捨てさせられ、元来の神々を悪魔とされたところに起源がある。
そこで本来ならローマ帝国とキリスト教に向くはずの恨みが、転移のメカニズムによって、強者とつながりのある弱者に向かう。強者に攻撃を向けることは危険だからである。ローマ帝国や、自分たちがどっぷりつかっているキリスト教を攻撃できず、キリスト教の母胎となってユダヤ教を攻撃するのである。
つまり反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義であるという。

ユダヤ人差別の深層心理  『影の現象学 (講談社学術文庫)
ナチスドイツは、すべてをユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団のまとまり、統一性を高めた。集団の影の面をすべて、いけにえの羊に押し付け、自分たちはあくまで正しい人間として行動する、と。
ユングは、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりに抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現と見ていた。本能の抑制を徳とするキリスト教への、影の反逆であると理解したのである。

一神教vs多神教
一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする(攻撃者との同一視のメカニズム)。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。
多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。
その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。 

 
3,000年前
紀元前1000年
(紀元前10世紀)、
約10000年前、人類は農耕とともに母系制から父系制へと移行したと言われる。
(高群逸枝 『女性の歴史』)
6000年前、急激な乾燥化による飢饉が引き金となって、ついに人類初の略奪闘争=戦争が始まった。(河合隼雄説?)
 
約3,000年前
(紀元前10世紀)頃~3世紀中頃まで
弥生時代
 北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つ
 
縄文時代には戦争がなかったと言う説とあったという説があります。たしかに、縄文時代のはじめのころ(草創期)の愛媛県上黒岩洞窟からは、骨製先の尖った道具が刺さった男性の腰の骨が出土しています。そして、以後、縄文時代の各時期に矢尻が刺さった人骨が見つかっています。しかし、縄文人骨の全体からは、極少数であり、これを争いとするか、事故と考えるかは研究者によって違いがあります。つまり、戦争と考えるほどの証拠は不十分なのが縄文時代です。
 ところが、弥生時代に入ると、戦いの証拠が格段に増加します。特に弥生時代のはじめの頃の北部九州では、武器で殺された多くの人骨が、一箇所にまとまって見つかったりします。弥生時代を戦争のはじまりの時代と言う人もいます。
 その戦争の原因は、人口増加にともなう開発によるもので、土地や水などの資源をめぐる争いと考える研究者は多いようです。これは言いかえれば、食料争いです。直接的に今日の晩ご飯を食べるというものではなく、今後、何年分の食料を蓄えるというのも、結局は食料確保の問題ですから、戦いの理由のひとつには、間違いなく食べ物の争いがあったと言えます。totigikenn maizou
 
   
     
   
   
 
(前1000年~前400年) 
縄文時代晩期
土偶-遮光器土偶
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。
一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。
1)亀ヶ岡(青森県つがる市)重要文化財
縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化とも言う。
2)手代(てしろ)森遺跡(岩手県盛岡市)重要文化財-文化遺産オンライン
3)恵比須田遺跡(宮城県田尻町重要文化財-文化遺産オンライン
4)泉沢貝塚(宮城県石巻市)県指定有形文化財
Wikipedia

大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。
東京国立博物館

5)山形県飽海郡遊佐町杉沢遺跡
 右の頭髪部などを若干欠損するほかは、ほぼ完形の中空の土偶である。目はいわゆる遮光器(しゃこうき)状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、磨消縄文(すりけしじょうもん)の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。
 出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。

6)その他  月刊ムー
1)亀ヶ岡
 

3)恵比須田

  土偶-宮城県、鍛冶沢遺跡
完成形 
 
  土偶-北海道室蘭市輪西町
中空の全身立像。北海道における完成形の土偶の出土例は少ない。東北地方の晩期亀ヶ岡文化期に特徴的な「遮光器土偶」をまねたものと考えられるが,形や文様にかなり変容した様相がうかがえる。両腕,両足の下面,および股間部に小孔があけられている。 
 
  土偶-日本出土の土偶
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の調査によれば、日本全国の出土総数は15000体ほどである。武藤、譽田(2014)は、18,000点程度としている。出土分布は(※沖縄以外の全県から出してはいるものの東日本に偏っており、西日本での出土はまれである。千葉県佐倉市にある吉見台遺跡からは、600個以上の土偶が出土している。Wikipedia

⇒1992年3月 八重樫純樹氏を中心に 第37集 「土偶とその情報」として出土した土偶とそれらにまつわる情報ががデータベース化された。国立歴史民俗博物館
   
 紀元前10世紀  古代核戦争説
・核爆弾が空中で爆発すると、数百万度という超高温の火球が出現し、超高温の熱線と致死量の放射線が周囲に放射される。同時に空気が一気に加熱されることで爆発的に膨張し、衝撃波が発生する。この衝撃波が地表に達すると、地表の土や埃が舞い上がるため、地表ではあたり一面が暗くなる。さらに、爆発時の放射線により土壌等が汚染され、放射能を持つようになる。・紀元前10世紀頃に起きた大戦争を語り伝えた「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味する『マハーバーラタ』をはじめ、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』、『リグ・ヴェーダ』には、この大気圏内核爆発を想像させる記述が見つかっている。
・超高温の火球=太陽が一万個集まった光り輝く柱
・強烈な熱線=池の水が蒸発、猛火に焼かれた木々のように倒れる戦士たち、火傷で逃げまどう戦象(軍事用の象)、灰と化す住民
・衝撃波=恐ろしい風、うなる雲、揺れ動く太陽
・衝撃波で舞い上がる土埃=方向感覚を見失うほどの濃い闇
・放射能汚染=髪の毛や爪が抜け落ちた死体、毒された食物、鎧を脱ぎ捨てて体を水で洗う生存者
以上のように、記述は具体的で、広島での被爆体験談とも酷似しており、とても想像だけで書いたとは考えにくいというのが肯定論者の主張である。(Wikipedia)
 『バシャール×坂本政道』 
⇒核兵器の使用はアトランティスよりももっと以前にあった。

ガラス化した遺物、核シェルター
キリスト生誕は太陽暦4月7日であるとの研究結果がある。
仏教の開祖とされる釈迦も、その誕生日は4月8日であるとされるが、これも歴史的に裏付けがない。
仏陀(ブッダ、buddha)
・釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。
・35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。これを成道という。
・仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)。
・仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。
・釈迦の一切経では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事を説かれている。(たとえば、阿弥陀経)
・この地球上には釈迦以外に仏の悟りを開いた人はいない

・近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けてニューエイジと呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在をブッダと呼ぶ伝統が一部に広まった。
紀元前550~  ゾロアスター教祆教(けんきょう)マズダー教
記録で確認できる世界最古の創唱宗教
・開祖はゾロアスター、聖典は『アヴェスター』
・「ヨハネの黙示録」と『アヴェスター』の「ザームヤズド・ヤスト」の記述と酷似
・紀元前7世紀頃に成立。人類史上初めて明確に「終末」を未来の出来事として語るようになった。「聖戦」「世界の終末」「死者の復活」「最後の審判」「最終戦争」「神の勝利」「永遠の王国」といったセム系宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に共通する終末イメージのほとんどのパターンが含まれている。⇒このイメージは3000年近く人類の終末論に影響を与えつづけてきた。
・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。
・開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。
・光の象徴としての純粋な「」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。
(小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』)
 (小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』)
  数秘術
・数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名なピタゴラスと言われている。
彼は「数秘術の父」として知られているが、その数千年前のギリシャ中国エジプトローマでも数秘術が使われていた事を示す証拠が存在している。当時は、許された者にのみ、口頭でその情報が伝えられていたようである。 
西洋占星術易学等と並ぶ占術の一つで、ピタゴラス式やカバラ等が有名である。「数秘学」とも言う。 一般的な占術の方法は「命術」で、占う対象の生年月日西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法である。
 
前469~
前399.4.27
ソクラテス
・古代ギリシアの哲学者。
・ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は、弟子の哲学者プラトンや歴史家クセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ紹介されている。
・「汝自身を知れ」(古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのはソクラテスを含み、少なくとも6人いるといわれている。)
・ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑を言い渡される。
・神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだ。「悪法もまた法なり
・紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして毒ニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。
・著述をしなかった理由-ソクラテスは、書記言語が野放しの状態の普及を激しく非難していた。話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。
ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからだという。ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。
・後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことが伺える)。
・一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。
・このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまづき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。
無知の知ソクラテスの弁証法、産婆術(助産術)、
・名言-「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」「だが、良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる」
紀元前246~221年頃 の始皇帝の兵馬傭坑出土のクロムメッキの
西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代。
それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明。
紀元前150~100年 アンティキティラ島の機械
ギリシャ人によって作られた世界最古の歯車式アナログコンピュータが発見された。
アンティキティラ島の機械
紀元1世紀中頃

キリスト教
・「キリスト教」の発生時を決定するのは難しい。今日の学問は、イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。
イエスはキリスト教の基盤を用意した人物であり、教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。
・教会の伝承は、自らの始点をエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。
・今日の学問は、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くエルサレム神殿崩壊の後と推定する。
・当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。

エルサレム教会とアンティオキア教会の対立

・エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。かならずしもヘレニストではないと思われる新約聖書筆者もギリシア語で著述しているのはこのためと今日では考えられている。
・アンティオキア教会の後援で宣教活動をしたパウロは、異邦人改宗者に対して割礼、食物禁忌、律法遵守を免除したため、エルサレム教会から猛反発を受け、各地のキリスト教共同体で論争や分裂が起きた。
・当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。

ユダヤ教からのキリスト教の自立
・紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派ヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。

エルサレム教会の没落と福音書の出現
・ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。
・ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。
・新約聖書学者の多くは共観福音書ヨハネによる福音書ヨハネの黙示録公同書簡の成立をユダヤ戦争以降に見ているが、これには異論もある。
・イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源
・キリスト教の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。
・理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。・『新約聖書』のほか、ユダヤ教の聖典でもある『旧約聖書』を教典とする。
・新約聖書の大枠は、4世紀ごろ確立されたが、旧約聖書の範囲は教派により異なる。
・一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。
・現在、キリスト教の教派はおもにギリシャなど東地中海沿岸諸国およびロシア、米国に広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントがある。ほか数は少数ながら、エチオピア・エジプト・イラク・シリア・アルメニア・インドに跨がって信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。

紀元前60年

ミトラス教
ミトラ教またはミスラス教(英語:Mithraism)は、古代ローマで繁栄した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。
・信者組織は7つの位階を持ち(大烏花嫁兵士獅子ペルシア人太陽の使者)、入信には試練をともなう入信式があった。
・ミトラス教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが、ローマ帝国で確認されるミトラス教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラス教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。

 
紀元前4年頃 ~ 紀元後28年頃 イエス・キリストとキリスト教
・キリスト教においては、カトリック、正教会、プロテスタントの多くにおいて三位一体の教義(キリスト教で、父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。
大多数のキリスト教が受け入れる中心的教義・教理。 )の元に、神の子である救世主として信仰の対象となっており、他の宗派でも最高の預言者、開祖とされている。
・イスラム教においてはマルヤムの子イーサ(マリアの子イエス)として、ムハンマドに先立つ偉大な預言者の一人とされる。
・現在では消滅した世界宗教マニ教においても、釈迦、ザラスシュトラ(ゾロアスター)と並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。
西方グノーシス主義においては、イエスはアイオーンであり、悪であるこの世に落ちて苦しむ霊を救うため、プレーローマの永遠世界より訪れた真実開示者(救世主)とされた。
バハーイー教シーク教においても、偉大な預言者であり聖者として高い尊敬を集めている。
・イスラム教においても、ユダヤ教の預言者とともにイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れている。
イスラム教では、「マルヤムの子イーサー」(マリアの子イエス、 (??s? ibn Maryam))と呼ばれるが、『クルアーン』の記述によればアッラーフの奇蹟によってマリアの体内に創造された特殊な出自であるが、他の預言者同様「アーダムの子=人間」のひとりであって、決して「アッラーフの子キリスト」とは認められていない。
・『クルアーン』はイーサー(イエス)をたびたび記載しており、死者蘇生や誕生直後に口を利いたといった奇蹟の数々が明言されている。
・一方でアッラーフは人類を含め一切の被造物を超越した存在でありかつ創造主であり、アッラーフ自身が「子を産みもしなければ産まれもしない」ために、イーサーが「アッラーフ」であることも「アッラーフの子」であることも明確に否定している。
 1世紀頃 ヒンドゥー教とバガヴァッド・ギータ
バガヴァド・ギーター、神の詩) はインドの宗教書の一つで、ヒンドゥー教の重要な聖典の一つ。一部に『神の詩』。18章の叙事詩『マハーバーラタ』の一部であり、サンスクリットで書かれた詩編。クリシュナと主人公のアルジュナ王子の対話形。クリシュナ(=ヴィシュヌ、インドに生まれた人物は最高神の化身)と一体化し、我を捨て持って生まれた義務(ダルマ)を遂行することを説いた。インドにおいては『バガヴァッド・ギーター』の占める地位は大きく、時にヴェーダより重要とされることもある。(Wikipediaより)
 
三大預言書と諸書の一つ、「ダニエル書」「イザヤ書」
・アモツの子イザヤは神に幻を見せられる。神からの預言はほとんどが明確なヴィジョンをともなった幻として示される。
「さあ、わがわが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで、見よ、主はその御座を出て、地に住むものにその罪を問われる。」(「イザヤ書」26章) 「エレミヤ書」「エゼキエル書」 『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』より
 210年(~275年)ごろ

マニ教(摩尼教、英: Manichaeism
サーサーン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。
ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。
マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)代表的な宗教とされてきたが、中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている。

 
234年
8月23日
諸葛孔明「誡子書」-その時歴史は動いた」タイトル-死せる孔明・中国を動かす
・蜀(しょく)の丞相だった諸葛孔明(しょかつこうめい)が子孫に残した家訓。その家訓は「誡子書(かいししょ)」-「子を誡(いまし)める書」として、今も諸葛孔明の子孫が住む諸葛鎮という村の大公堂に保管されている。
・中国南部に孔明の子孫が暮らす諸葛鎮という村が見つかった。
・住民はほとんどが「諸葛」姓で、村は迷路として作られている。
・路地の奥の不思議な文様に秘められた孔明の教えとは何か。
1)優れた人は静かに身を修め、徳を養う。
2)無欲でなければ志は立たず
3)おだやかでなければ道は遠い。
4)学問は静から、才能は学から生まれる。
5)学ぶことで才能は開花する。
6)志がなければ学問の完成はない。


「世界ふしぎ発見」より
・Q孔明は、長期遠征(戦)になる際、兵士に戦場で農業をさせ、食糧を自給自足していた。中でも、必ず畑に植えるように指導したといわれるその野菜は、胃腸によく、痩せた土地でもよく育ち、捨てるところがないので兵士が育てるのに適した野菜だった。中国では今でも”諸葛菜”と呼ばれている。その野菜とは?
⇒A蕪(かぶ)
・Q孔明の教えで、諸葛村の人たちが代々受け継いでいる職業とは?
⇒A”良き宰相(政治家)になれなければ、良き医者になれ”。
現在もそれが守られ、諸葛村の人々は漢方薬などの輸入も仕切っているとか。

9世紀、忽然と消えてしまった諸葛一族が1000年後の1992年に発見された。それは諸葛村(諸葛孔明の子孫の村)と呼ばれる八卦の陣形をした村で、
 村の周囲にある八つの山(外八卦)に隠れていたため、長期間発見されなかった。八卦の陣形の村の設計図や諸葛家の系図が公開され、諸葛孔明の子孫と認められたとか。現在、人口4,000人。

→村全体が八卦の陣形に設計されており、初めての者は迷子になる。
紀元前200年~200年までの約400年間  銅鐸の謎
2015.5月、淡路島で銅鐸7個新大発見!! 
謎の青銅器『銅鐸』淡路島で新発見!!
(NHK解説アーカイブス)
 
3世紀半ばすぎ~7世紀末までの約400年間 古墳時代
卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。
封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。
姫・彦制霊能を活用した政治(高群逸枝説)

東北地方三角縁神獣鏡出土全国では540面以上出土-239年~頃か?
会津大塚山古墳福島県会津若松市、東北地方最古級、古墳時代前期[4世紀]、1972年(昭和47年)国の史跡に指定された。
Wikipedia
三角縁神獣鏡は魔鏡!!
(NHK解説アーカイブス)


三角縁神獣鏡は陽光鏡
(NHK解説アーカイブス)
4世紀~

サンマリノ(San Marino)
イタリア半島の中部に位置する国家。首都は国名と同じくサンマリノ。周囲は全てイタリアで、世界で5番目に小さな国(ミニ国家)である。また、現存する世界最古の共和国。-+*-
伝説によれば、キリスト教への迫害を逃れるために、石工マリーノによって西暦301年に建設された信徒たちの共同体が起源。
1291年に教皇によって独立を認められている。
つまりは中世~ルネッサンス期にイタリアに乱立した小国家の最後の生き残りにして、現存する最古の共和国
1862年にイタリア王国と条約を結んだことで近代主権国家としての地位を確立。1992年に国連加盟。
・周囲をイタリア共和国に囲まれた小国が、今のいままで存続してきたのは、何も偶然ではなく、建国以来のこの国の精神が今なお息づいているためということが出来る。
・何よりも平和を、そしてその平和を守るために自由と中立を志す国という方向性があるようだ。
・軍隊らしい軍隊も持たず、隣国の争い事には中立であり続け、侵入者に対しては山頂の砦で防御を固めることにより、自国を守り抜くスタイルを貫き通している。
・また、フランス革命後の混乱にあったフランスにおいて、イタリア方面担当の軍総司令官としてイタリア半島へとやってきたナポレオン・ボナパルトが、サン・マリノ共和国に共感し、食料と武器を届けたこと、平和を目指すサン・マリノは食料はもらったものの、武器は丁重に返したという。
・現在でも、ひとりの人間に権力が集中しないよう国家の代表は2人で半年交代という体制になっている。

574.2.7

622.4.8
聖徳太子と仏教
610~ イスラム教
・唯一神、アッラー(一般名詞。日本語で「神さまー」)という。
・神様の名前はあえて言えば「ヤハウェ」。キリスト教徒が信じているのと同じ神様をイスラム教は信仰している。
・イエスはユダヤ教を改革しようとし、キリスト教の神様はユダヤ教と同じ「ヤハウェ」。
・同じ神をイスラム教も信じ、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えている。
ムハンマド(マホメッド)が神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちだ。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認め、さらに、イエスも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。
・ただし、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではなく、言い残した言葉がたくさんあったという。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」。神さまは今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはないという
ムハンマドが他の人間と違うのはそこだけで、他に奇跡を起こしたりとか特別な能力を持っていたりということはない。
・イスラムとは「神への帰依」という意味。帰依とは「深く信仰し、その教えに従う」という意味。「イスラム教」とは「神を信仰する宗教」という意味。
・イスラム教徒のことを「ムスリム」といい、意味は「神に帰依した人々」。
・神がかり状態のムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」。この「コーラン」は、神の言葉そのもので、神がムハンマドの肉体を通じて語りかけ、それをリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたもの(アラビア語)。
・「啓典の民」とは、イスラム教徒が同じ神を信仰しているユダヤ教徒、キリスト教徒を呼ぶ言い方。
イスラム教徒の義務---ムスリムの「おつとめ」は「六信五行(ろくしんごぎょう)」
・「六信」とは「神」「天使」「啓典(コーラン)」「預言者」「来世」「天命」の六つ。
・イスラムでも最後の審判はあり、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」。
・「五行」は、「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。
・「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えること。声に出さなければダメ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれる。
630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊した。イスラム教の特徴の一つに偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのだが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は、当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかだ。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになるから、一神教の教義に反することになる。

聖職者の存在を認めない
・イスラム教ではお坊さん、聖職者はいない。信者はすべて対等で牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていない。
・商人の倫理を重視。商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。
・ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していた。ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよい。
・人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。結婚の前に離婚の条件を決めておく。夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしている。人は弱いから決して、永遠の愛は誓わない。同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つので、弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す。
・ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。【参考図書】片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書)

・ムハンマドは預言者であった。彼は世間からあざけられ、精神病患者と決めつけられてしまった。10年間にわたる彼の布教の報酬は追放と貧困と嘲笑だけだった。
・それから10年後には彼は全アラブの指導者となり、メッカを支配し、…広大な地域に強い影響力を持つ世界的宗教のリーダーになっていた。この宗教の教えは基本的に「言葉の力」「祈りの力」「神と人間との触れ合い
、この三つの要素から成り立っていた。
・610年のある夜(当時四十才)ムハンマドは、ヒラーの洞穴で祈りや瞑想していた時、「読め(アラビア語の〈イクラア〉」という耳にした。ムハンマドは、驚いて平伏し、「私は読むことが、できないのです」とその声に答えるも、ムハンマドが最後に「私は何を読んだら、よいのでしょうか」と震えながらたずねるまで、その「読め」という命令はくり返された。
・「読め、創造したまえる方、なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもうた方、何も知らなかった人間に、教えたもう方であられる。」(クルアーン第九六章 第一-五節)
・これは、ガブリエル大天使が目前に現れ「ムハンマドよ。汝は神の使いである」と告げた。上記コーランの冒頭の言葉によるとガブリエルが現れ、巻物で彼の喉首を押さえるようにして「これを誦」と言ったという。これが最初の啓示だった。
・その後まもなく彼の妻ハディージャは、イスラームに帰依した最初の人になった。
・この最初の啓示があってから、アッラーは天使ガブリエルを通してムハンマドに啓示を与え、彼がアッラーの教えを広め、誤った人々に正道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられた。
・この時からムハンマドはイスラームの布教活動をはじめ、神の唯一性、アッラーへの帰依偶像崇拝のおろかさ、及び現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来を人々に説きはじめた。その当時の宗教はただ単に信心だけでしたが、イスラームは、行動を伴わない単なる信心は全く無意味で人間生活には無益なものであることを人々に強く説いた。
・クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言している。「言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アッラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る何ものもない。」(クルアーン第一-二章 第一-四節)
・アッラーからのお告げはきわめて簡単で基本的なものだったが、メッカの多くの偶像崇拝者たちには、きわめて危険な挑戦と脅威に感じられた。彼等はこれまでの自分達の生活様式変えたくはなく、また偶像をすててしまっては自分達の力も失われるものと心配して、ついにきわめて残酷で執拗なやり方でムハンマドを迫害しはじめた。しかし、アッラーに守られている人を実際に傷つけることは誰もできなかった
・630年1月カーバの神殿にある360個の偶像をすべて破壊。
・ムハンマドはユダヤ教徒やキリスト教徒にも門を開き、唯一の神を信ずる人なら誰でも迎えいれた。
しかし、彼らはムハンマドの説く「人は皆平等」という信念すら受け入れようとはしなかった。それゆえ、ムハンマドの信念のために殺された人間は一人だけではなかった。
・その後何世紀も過ぎてから、十字軍がエルサレムを侵略し、男女を問わずイスラム教徒を殺戮した。しかし、キリスト教徒は一つのイスラムの教えを受け継がなければならなかった。それは学問の場、すなわち「大学」を作る必要性についてである。『思考は現実化する-携帯版』 「最後の預言者 トーマス・サグリュー」P315~319より一部抜粋
 天武天皇(第40代、631~686年)

殺生肉食禁断の詔勅の公布
・仏教とともに、渡来人が押し寄せてきた時代である。
・縄文日本の基幹を脅かす出来事なので、国民に詔勅を出した。

その次は、大陸から非常な勢いで新しい文明とか技術とか、政治制度とか、より先進的、理知的、攻撃的、強欲的、暴力的、効率的、人為的、階級差別的なものが入ってくるでしょ。それを古墳時代といってね、大きな古墳を権力者のトップ、王とか大豪族たちの陵墓として造ったのが古墳時代。その時代には中国大陸から、縄文日本とは異質な家畜制度が入ってきたわけ。牛とか馬とか、羊は入ってないですね。主として、牛や馬ですね。
・危険な
家畜制度が入ってきて日本に定着させようという危うい絶妙の機をとらえて、天武天皇(第四十代、六三一~六八六年)が出現された。その天武天皇が、七世紀の後半に、「殺生肉食禁断の詔勅」(せっしょうにくじききんだんのしょうちょく)というのを出したわけ。殺生というのは生き物を殺すのね。それから肉を食べる。殺生と肉食を禁止する詔勅を出したんです。
・そのあと三人の天皇も最初の「殺生肉食禁断の詔勅」をより強化する方向で詔勅を出している。合計四度出しているんです。最後の四回目は京都に都を移した桓武天皇(第五十代、七三七~八〇六年)。
・だから天武天皇から桓武天皇まで四度、殺生肉食禁断の詔勅が出て。それでね、その後ずっと幕末まで、千二百年間も、世界でも稀に見るまったく正しい基本的な国是として日本はもっていきました。
・つまり野生動物を家畜として飼育して、それを基礎とした文明というのは、これは一見いいようで、非常な危険性を孕んでいるものだというふうに
直感的にみて天皇の詔勅になり、日本全体の国是として守られた。それで、なぜ家畜制度が危険かということは、…全面的に、理論的に分析してどうこうというんじゃなくて、ですよ、勘。そこでひょいと危険を回避したんです。 『まもなく日本が世界を救います』より

 
751~753

鑑真来日
奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。
その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡死去。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明。
752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使・藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流して日本に到着できなかったが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て(最初の渡海企図は743年夏のことだった)仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

 
   
13~15世紀 ナン・マドール遺跡ナン・マトール遺跡・Nan Madol)
ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の巨石構築物群である。ナン・マトールとは「天と地の間」「神々と人間との間に広がる空間」という意味。総面積40m2の92の人工島からなり、伝承によると行政、儀礼、埋葬などそれぞれの島で機能分担していたと言われる。伝承や遺物の検証からすると政治・宗教の拠点となった水城であったと考えられる。
1128~1307

テンプル騎士団
ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔は金融機関としてのものだった。
もともとは入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。ここで特筆すべきは、巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出したことである。
このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行っている。
1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された
さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いた会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定。
フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった。資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちは処刑された。

 1210

聖フランチェスコ
以前から、若いフランチェスコは「キリストの愛は生きている、だが、どこに生きているのだろうか...」と探しあぐねていました。癩者に接吻するようにという神の促しがあったのでしょう。そして遂に、癩者のなかにキリストの愛が生きているということを知ったのです。こうして福音に確信を見出した彼は、祈祷の最中に聞こえてきた早く言って私の家を修繕しなさいという神の声に従い、それまでの裕福な生活を捨てて無一文になり、神と人々に奉仕する生活に入ることを決意します。古い教会堂を修理し、人々に神の言葉と回心を告げ、労働をして生活の糧を得、それが得られない時には托鉢をするという生活を自らが選択したのです。全ては神に対する愛ゆえになされたことでした。
 やがて、フランチェスコの周りには、彼と志を同じくする若者たちが集まるようになりました。彼らは会則に基づいて、貧しさのうちに生活をし、祈りに時を過ごし、神の言葉と回心を告げ、平和について語り、病人の看護と労働に従事するようになります。そして、この小さな共同体が12人になった1210年、当時の教皇インノセント3世から「原始会則」と呼ばれる会則の認可と修道会設立の許可を得ます。こうして、「小さき兄弟会(Ordo Fratrum Minorum)」という修道会が設立されたのでした。 

 
  聖フランチェスコと聖クララ
修道生活に入る前の若いフランチェスコは、友達におごるのが好きで、派手に騒ぐことが多かったのですが、酒宴の最中に独り道に出て、星を眺めていることもあったそうです。その彼が「何を考えているのか」と問われると、「神のことを考えている」と答えます。「嫁さんのことでも考えたらどうか」とからかわれると、「結婚か、おれは神とめあわされることを思っていたのだよ」と言ったというのです。そんな彼の前にクララという娘が現れます。
クララはアッシジの貴族の娘ですから、ブルジョワの息子フランチェスコよりも高い身分であったと思われます。ところが彼女は気まぐれな青年、時には狂気の青年とさえ見られたこともあるみすぼらしい修道士フランチェスコに心から傾倒し、彼と理想を分かち合うことを決意します。
そして、フランチェスコに「私もあなたのようにひたすらキリストを慕って生きたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と相談します。フランチェスコは忠言を与えて、「あなたの抱いている夢を捨てなさい、世の中の喜びをすべてあきらめなさい、そして、できるだけ貧しい生活に入り、祈りと禁欲を続けなさい」と言います。彼女は感動し、1212年3月のある日、日曜日のミサに参列した際に両親や兄弟に申し出て、裕福な生活と訣別することを宣言します。
そして、全くフランチェスコに倣って生涯を終えるのです。フランチェスコ会が西欧キリスト教世界に歴史的な影響を及ぼし、後世大修道会になったように、聖クララ会も代表的な女子修道会になります。この両巨頭とでも呼ぶべき2人はアッシジの隣人同士でした。  
 
1310.61 マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」
数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」 ( Mirouer des simples ames ) は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていた。
 この著作の著者が、マルグリット・ポレート ( Marguerite Porete 1310年6月1日没 )であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者 R.グァルニエーリによる1946年の論文だった。
 マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されている。
 異端審問の裁判記録によれば、マルグリットは、エノー ( Hainaut ) 出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年、カンブレ ( Canmbrai )の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ ( Valenciennes ) 広場で焼かれた。
 1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となったた。フランス管区総審問官パリのギョーム ( Guillaume de Paris 1314年没 ) の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が、審理された。
 マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えなかった。
 5月31日、再背教者 ( relapse ) として有罪の宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が、執行された。
 ある年代記は、彼女の毅然とした態度が、群衆の涙を誘ったと伝えている。
15~18世紀 魔女狩り
かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、もともと民衆の間から起こった魔女狩りはこの間にかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑されたと考えられている。
1425~1428

ジャンヌ・ダルク
ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる
後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。
ジャンヌは「」に従い、1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
到着直前に伝令使は、ジャンヌの手紙を持って一足先にシノンに入った。その知らせを聞いた王太子シャルルは、ジャンヌと会う際にちょっとした芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、二人きりで話をすることになった。
そしてジャンヌはシャルルに、「」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をした。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。
ジャンヌは後の処刑裁判でも、この時の秘密の話についての内容を証言することをかたくなに拒み続けたため、どのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、王太子であったシャルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。

1371~1434

鄭和(ていわ)
中国代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったとされる。
彼がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
・歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっているが最近、マゼランよりも100年ほど前の14233年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした

1515.3.28
~1582.10.4 

アラブのテレジア
 彼女は闘病中に自分は「回想」という最も低い段階から「平和への献身」もしくは「(神との)合一への献身」という段階まで引き上げられ、それは完全なる恍惚感の一つであると告白した。これは頻繁に鮮やかな「涙の祝福」を伴うものであった。ローマ・カトリックの道徳的なと許されうる罪との区別が彼女には分かり始め、そして、罪深い不正の非常に恐ろしい秘密と原罪の先天的な性質の問題に行き当たった。このことにより、彼女は人間の生まれながらの完全な無力さを意識することが、神への絶対的服従の必要性につながるのだと考えた。
 彼女の超自然的な経験の中にある神聖ではないサタンの要素について、様々な彼女の友人たちの側では、それが彼女を自分に課した最もひどい苦行かつ禁欲へと導く暗示であり、それは彼女の普段の禁欲主義をはるかに超越したものであると捉えていた。
 (1556年頃)その状態は、彼女がフランシスコ・ボルハに告解を行い、彼からそれを許されるまで続いた。
 1559年の聖ペトロの日 (6月29日・月曜日) に、彼女はキリストは目には見えなくても、肉体を持って彼女の前に現前するのだと固く信じるようになった。このビジョンは、2年以上もの間ほとんど途切れることなく続いた。
 また別のビジョンでは、天使が彼女の心臓を繰り返し激しく槍で突き刺した。それは、前例のない、いわば霊的身体の痛みを引き起こした。このエピソードの記憶は、彼女が生涯を通じて持っていたイエスの生命と忍耐との合一の情熱が発せられたおおもとであり、また、彼女のイメージ上のモットー「主よ、私を苦しめるか殺すかしてください」として常に記されていた涙の中に集約される長い愛と苦悩の奮闘を、終わらせようと決心する原動力となった。 

 
1517.11.1

⇒1534年へ

マルティン・ルターと免罪符
煉獄の霊魂の贖宥(しょくゆう)の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。
ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端となった。⇒宗教改革へ

贖宥(しょくゆう)状とは
元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。
西方教会で考えられた罪のゆるしのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全にゆるされると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」である。⇒1534年へ

1452年4月15 1519年5月2日 レオナルド・ダ・ビンチとダビンチコード
ルネッサンス(文芸復興運動)-三大発明は印刷・火薬・羅針盤
宗教以前の時代に回帰する必要があった。ダビンチの魔方陣とは??
⇒蒸気機関車の発明により産業革命へ
1531~ 聖母予言
聖母マリアが、ある特定の選ばれた人物の前に現れてメッセージを告げる「聖母預言」が始まったのは、残っている記録によれば、5、6世紀ころからである。
このような聖母出現は記録に残っているだけでも数千に及ぶ

聖母預言抜粋
1531年 メキシコ 、ホアン・ディエゴの前に聖母出現の事件
1830年 フランス パリ 、ゾエ・チャサリン・ラブレの前に聖母出現の事件
1846年 フランス ラ・サット、マキシマン・ジローとメラニー・マシューの前に聖母出現の事件 「ラサッ(レ)ト36の告知」 終末預言⇒
1858年 フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件 有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉
1534

マルティン・ルターと聖書
ルターは精力的な活動の一方で聖書の翻訳事業も続けており、1534年に念願だったドイツ語旧約聖書も完成し、出版された。ルターは旧約聖書の諸書の選択において、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ:ギリシア語旧約聖書)にあってマソラ本(ユダヤ教徒によって編纂されたヘブライ語聖書)にないものを、聖書正典でないと確認して旧約聖書から排除した。
ルターの新約聖書観については二種類の見解がある。

ルターとは
ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。
もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。
宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。
元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる(なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)。

1539~ マルティン・ルターと地動説
最初に宗教的な問題として地動説を批判した。
ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。
~1543

ニコラウス・コペルニクスと地動説
(ラテン語名:Nicolaus Copernicus、ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者である。
当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。
これは天文学史上最も重要な再発見とされる。コペルニクスはまた、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。

1549 フランシスコ・ザビエルと日本人、ヤジロウ(ヤジロー)
・弥次郎。または当時の音韻からアンジロウ[アンジロー]、洋風にアンジェロ[天使の意]という。
1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される。
・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本(西日本)で布教・宣教活動に従事した。
・ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。霊名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」(聖信のパウロ)。また、同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。
日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
・1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。
1555

ルターと宗教改革
ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。
宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持を得た。農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったトマス・ミュンツァーがこれに呼応し、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いたが、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。

~1572 インカ帝国滅亡
南北4000km、人口1000万人にも及ぶ強大な国として繁栄。
・1533年、侵略を企てた、わずか168人のスペイン人たちによって、アッサリと滅ぼされた。
・時は、アタワルパ王の時代、インカ帝国は天然痘などの病気が流行り、内戦が勃発するなど治安が不安定になっていた。インカの預言者によると、「顔の色が白くて、アゴひげを生やした人間」が、救世主として現われるとされていた。
その予言通りに、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人たちが現われ、フランシスコ・ピサロは、王を捕らえる。囚われの身となったアタワルパは、言われたとおり部屋一杯の「金製品」を身代金としてスペイン人たちに差し出すが、処刑されてしまう。
16~17世紀 魔女狩り
・16世紀から17世紀、さらに限定すると1590年代、1630年ごろ、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。
・ローマ・カトリックは女性が生来持っていると言われる霊的能力、霊視や輪廻転生などに関する直感と教義と相違に対する不安から女性を迫害したのではないか?
1564年 ~1615~1642 ガリレオ・ガリレイと地動説
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。
1616年に、ローマ教皇庁はコペルニクス説を禁ずる布告を出した。
1616年と1633年の2度、地動説を唱えたガリレイは、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。
しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている
1631年 姦淫聖書
英国で出版された聖書で、「not」を書き漏らし、「汝、姦淫すべし」との版が流通したためこれをそう呼ぶ。
1665年  アイザック・ニュートンと万有引力の法則
リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのではないか」と着想した。
地上では物体に対して地面(地球)に引きよせる方向で外力が働くことは、(ガリレオなどの貢献もあり)ニュートンの時代には理解されていた。ニュートンが行った変革というのは、同様のことが天の世界でも起きている、つまり宇宙ならばどこでも働いている、という形で提示したことにある(そして同時に、地球が物体を一方的に引くのではなく、全ての質量を持つ物体が相互に引き合っている事と、天体もまた質量を持つ物体のひとつに過ぎない事)。「law of universal gravitation 万有引力の法則」という表現は、それを表している。 
 
1678~
1681
カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot)
イングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。
 
1686~
1768
白隠 慧鶴(はくいん えかく)禅師と健康法、内観法軟酥なんその法
駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法(放下着と数息観(すそくかん)と丹田呼吸の姿勢。)を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。
また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
彼は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自らの悟りの機縁となった「隻手音声」と「趙州無字」の問いを、公案の第一に位置づけ、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。
軟酥の法自己暗示によって潜在意識を変えさせる精神療法)を確立。
1690年ごろ アイザック・ニュートンの科学革命とキリスト教
・地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。
・また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道(楕円、放物線など)について示した。
・また、光の粒子説を唱えたことでも知られている。
・また、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。
・ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。
・また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
・これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。
・あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。
・万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示した、ともされる。
・後の時代に、科学者らは上記のような方法論が、「実証主義による近代科学の礎になった]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。
・これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とも言う。
ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。
その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』に纏められた。
この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。
・絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。
・ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。
「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。
またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定はニュートンが異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派に属していた事を示し、ケインズは「恐ろしい秘密」とコメントしている。
1692.3.1~ セイラム魔女裁判と集団ヒステリー
・アメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で200名近い村人が魔女として告発され,無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として著名
 
1694 

イングランド銀行(イングランドぎんこう、英: Bank of England
・イギリスの中央銀行。
・軍事費を調達する目的で創設。本店がシティのスレッドニードル通りに所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」と呼ばれることがある。なお、歴史的には、「英蘭銀行」と表記されることもままあった。
・創立時は大同盟戦争とウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなか。当時は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。また、政府を通してイギリス東インド会社、ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた。
・昔から内外のユダヤ人がその経営に深くかかわり、彼らは国債市場と国家債務を膨張させた。政府と国策を共にする関係にありながらナショナリズムとは距離をとるという独立した姿勢が貫かれている。 

 

アーミッシュ
電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話等)も家庭内にはない。
原則として、現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を営む。
服装はきわめて質素。
ペンシルベニア州のアーミッシュは、日常生活ではきわめて古い時代の技術しか使わない。このため自動車は運転できない(ただし旅行の際は別)。商用電源は使用できないが、風車・水車によって蓄電池に充電した電気は利用できる。本段落が伝聞調になっているのは、アーミッシュがあまりその生活について語らず、写真撮影は宗教上の理由から拒否されることが多い。ただしこれらの宗教上の制限は、成人になるまでは猶予される。したがって、未成年ならば自動車運転免許を持つアーミッシュも存在する。
成人になる際、アーミッシュであり続けることを拒否することもできるが、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。
政治的には、「神が正しい人物を大統領に選ぶ」との信条から、積極的に有権者として関わることはなかった。しかし、2004年の大統領選挙では、激戦州となったペンシルバニアやオハイオのアーミッシュに共和党が宗教的紐帯を根拠とし支持を広げたという。専用の教会建物はなく、民家の家具を片付けて利用する。

~1714 貝原 益軒(かいばら えきけん)
江戸時代の本草学者、儒学者。明治時代に西洋の生物学や農学の分野がもたらされるまでは、日本史上最高の生物学者であり農学者である。
益軒といえば『養生訓』。これは江戸時代に出版された本のなかでロングセラー第一位であり、現在でも買える凄い本で、85歳で亡くなるすこし前(1713年頃)に書かれたという。
今から約300年前の江戸時代に、心身相関を説いている。
益軒はこの本の執筆態度として、「古典にある説を簡単に解説したもので、一方自分で試みて効果のあったことを記した」との旨を語っている。
生き方を説く場合には避けて通ることの出来ない基本となっている本だと言える。
⇒中村天風にも影響。
1736.1.19~1819.8.25 ジェームズ・ワットと産業革命
スコットランドの発明家、エンジニアであり、トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず世界中で産業革命の推進に貢献した。
~1744~ 安藤昌益(あんどう しょうえき)-八戸で講演。身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張。平等思想。
自然真営道』の内容は、共産主義・農本主義・エコロジーに通じるとされている。
日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判。
発見者・狩野亨吉(こうきち)をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。
安藤昌益
『自然真営道』
~1772


1744.4



83歳没
エマヌエル・スウェーデンボルグ(イギリス)
・最初のスピリチュアリスト
・アンドリュー・ジャクソン・ディビスが師と仰いだ。
・多彩な科学者だったが、55歳で科学者であることを断念した。
・父はスウェーデン王室の祈祷所の牧師で、生まれながらにしてキリスト教と深いかかわりがあった。
幼くして霊的な素質を持っていた。神がかりになったことも…
1759.9.19(71歳)のときに旅先で自宅近くの火災を霊視した。
『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P49~)

・83・4年の生涯の前半を科学者、後半を神学者として過ごす。
(・科学者時代には多々の不思議なインスピレーションも??)
・52?54?56?歳ごろから幻視体験(幽体離脱、自らは「死ぬ方法」と名付けた)をいくどとなく体験。百回以上とも
1744年4月ロンドンで最初のキリストの幻視を体験する。
キリストが現れ、「
人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。
・1743.7月~1年以上体験した「夢日記」を記録。
(※・1745年の4月にもキリストの再来今までの世間向きの学問をいっさい捨てて
霊的な仕事に専念するように命じられたという. 『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P47)

・それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく
膨大な量の神学的著作を残す。
・神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。カントが「それが霊界についてであるという点を除けば、これ以上理性的な本はないくらいである」と述べたほど、その内容からうかがえる著者の精神は健全そのものである。
すでに人望厚い科学者として、押しも押されもしない専門的地位と社会的名声を築いていた。

・晩年こうした体験に基づき16冊の大著を書き記した。
『天界と地獄』
科学者としての丹念な分析と論理性をもった死後の世界観は、それまでのキリスト教の考えを根本から覆すような画期的なものであった。
死後の世界をはじめて科学者の目を通して研究したもので、人類思想史上大きな足跡を残した。

・その内容は、今日のスピリチュアリズムと比較しても大枠で一致する。ただ時代の影響で、その貴重な体験とみごとな分析にもかかわらず、キリスト教の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあることも事実である。

・キリストが肉体を通じて人間と繋がっていることは認めるものの、あくまでも神の現れとしてキリストを見、キリストに帰依する以外に人間の持つ汚れを清める方法はないと考える。
・キリストは肉体という地上の部分を持ち、聖霊はキリストの「働き」。「神」は「愛」に対応、「子」は「叡智」、「聖霊」は「働き」に対応。
この「愛、叡智、働き」の三位一体は人間レベルにおける「魂、心、体」に対応する。
照応の理論
・地上にあるもので天上にないものは何もない。
自然界に存在するものはすべて天上(霊界)に本の姿を宿している。
人間が考えることはすべて天界にその因子を有する。

・天界の主はキリスト。…
・霊界には時間も空間も無い。すべては心の状態の変化のみ。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P55~)

・1772.3.29、83歳で、メソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーに手紙を送り、予告通りの日にこの世を去る。


エマニュエル・スウェデンボルグ  Emanuel  Swedenbolg  1688-1772
スウェーデン人。自然科学、数学、物理学、哲学、心理学など20もの学問分野で、多くの業績を上げた天才であると同時に、巨大な霊能力の所有者としても世界中に知られる。1747年、いっさいの科学的研究の活動を放棄し、後半生の約30年間、心霊的な生活と霊界の研究に没頭した。生きながら霊界に出入りする「霊的生涯」を送り、ヨーロッパ中の大きな話題を集めた。彼が霊界で見聞、実体験してきたことを書き記した膨大な著書は、現在もロンドンの大英博物館に保管されている。1772年3月29日、自分が予言した日に没し、いまなお人類史上最大の不思議な人物とされる。(Wikipedia)


・スウェーデンボルグについてはその巨人的な才能や霊界探訪者としての側面ばかりが強調されがちだが、人物としては愛の人であったことを多くの人は知らない。その神学的な反対者たちでさえ、彼の誠実で勤勉で親切な人柄を攻撃することはできなかったという。

・ただ時代的影響は免れえず、その貴重な体験と見事な分析にもかかわらず、キリスト教思想の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあります。霊性進化の道より
カントが『ある霊視者の夢』発行
※カントは調査のため会見を申し込んだが断られたとも言われている。
~1758~ 

ブードゥー(あるいは「ヴードゥー」)教
この呼び方は英語で、ハイチや西アフリカではヴォドゥンVodun)と呼び習わされている。ヴォドゥンとは西アフリカのフォン語(Fon)で「精霊」の意味。ヴォドゥンはベナンなどの西アフリカで広く信じられており、ベナンの国教となっている。キューバのサンテリアやブラジルのカンドンブレ、マクンバ(英語版)といった信仰・呪術の仲間である。もっとも近年はカリブから欧米への移民が相次いでいるため、欧米各国でも移民の一世、二世らによって信仰されている。
「宗教」と規定されることがあるが、教義や教典がなく、また宗教法人として認可された教団が皆無で、布教活動もしないため、民間信仰といった方が現状に即しているといえる。その儀式は太鼓を使ったダンスや歌、動物の生贄(いけにえ)、神が乗り移る「神懸かり」などからなる。ブードゥーを取り仕切る神官は「ウンガン(英語版)」(フォン語: hùn gan、英語: Houngan)と呼ばれる。サンテリアやカンドンブレ、アフリカの民間信仰なども含めたブードゥーならびに類似信仰の信者は、全世界で五千万人にも上るという。これはチベット仏教の三千万人を遙かにしのぐ数字である。

フランソワ・マッカンダル(François Mackandal, 1758年没)は、ハイチのマルーンの最も有名な指導者の一人。マルーンは主に、プランテーションから逃亡し山地や丘陵地帯で生き存え、ほかの元奴隷たちと結集し共同体を形成していた黒人奴隷のことを指す。マッカンダルは、ハイチのプランテーションの逃亡奴隷であり、ブードゥー教の司祭、ウンガン (houngan) であった。彼はマルーンを、島のフランス人農園主の対抗勢力に導いた。
以上、Wikipedia 

 

1771~
1776~
フリーメイソンイルミナティグラントリアン
・フリーメーソンーは大別して、英米系と大陸系に二分される。ドイツでは、インゴルシュタット大学の教員アダム・ヴァイスハウプトによって1776年にイルミナティという秘密結社(「啓明結社」とも「光明回」とも訳される。渋澤龍彦は著書『秘密結社の手帳』のなかで「バヴァリア幻想教団」と呼んでいる)が創設された。
この結社はイギリス系のフリーメーソンリーとは違って、超越的存在(神)を認めず、君主制を妥当し、急進的に共和制の政権を樹立しようとする純然たる政治的秘密結社であった。このイルミナティをフリーメーソンリーの一つとみなす論者は少なくないが、メンバーが重複していただけで、別の結社であると考えるのが適切なようである。
 「バヴァリア幻想教団とフリーメーソンとを混同する歴史家もいるが、両者はまったく別のものである。ただ、フリーメーソンの非政治主義にあきたらず、メーソンのなかから幻想球団へ加入した者も、大勢いたらしい」と、渋澤龍彦も前掲書のなかで述べている。結局、このイルミナティは1785年に、バヴァリア選挙候カール・テオドールによって禁止令が出され、90年にはほぼ消滅したといわれている。
グランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリー
世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。
日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。言い換えるならば、イギリス系の「正統」フリーメーソンリーは、一世紀近くもの間、グラントリアンを「承認」し続けてきたわけである(その後、フランス・グランド・ロッジとグラントリアンが再統合して1914年にグランド・ロッジ・ナツィオナルが創設され、イギリス系メーソンリーとの間に承認関係が復活した)。一時絶縁したとはいえ、歴史的にこの無神論的政治結社と「まったく無関係」とは言い切れないだろう。
1773 フランツ・アントン・メスメルとメスメリズム
「動物引力」による治療を開始。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
メスメルは患者たちを、個別療法と集団療法の両方で治療した。
1780年までに、メスメルには個別治療が可能な数以上の患者がいて、それで「baquet(バケツ)」として知られる集団治療法を確立。その治療を見たあるイギリス人医者は、次のように記述している。
部屋の中央に約1フィート半(45cm)の高さの器が置かれていて、ここではそれを「baquet(バケツ)」と呼んでいる。回りに20人の人々が楽に座れるくらいの大きさである。それを覆う蓋の端近くに、それを囲む人々と同じ数の穴が開けられている。その穴の中に、患者に適用されることになっている体の部分に応えるために、右側に曲がった、高さの異なる鉄棒を挿し込む。鉄棒の他にbaquetと患者の1人を繋ぐロープもあり、その患者から他の患者に次々と手渡されて、ロープは円になる。最も著しい効果はメスメルが近づいたことで生み出される。メスメルは患者に触れることなく、手または目の決まった動きだけで「流体」を伝達すると言われる。私はその効果を目撃したという人、手の動きで痙攣が引き起こされ、除去されたという人の何人かと以前話したことがある……。
1776~1849 調所 広郷ずしょ ひろさと)と『薩摩燃ゆ!』
薩摩藩の財政立て直し。安永5年(1776年) - 嘉永元年(1849年)⇒村田清風(長州藩)
1789~ サミュエル・ハーネマンホメオパシー
(1755年ドイツ、マイセンに生まれる)によって始められた。
ハーネマンは科学に関する多くの書物を著した。中でも最も有名なものは、砒素中毒に関する専門書。批評家達は後に、あんなインチキ医者にさえならなければハーネマンは偉大な科学者になっただろうにと言ったとされている。
1789年に彼はライプチヒに引っ越し、梅毒に関する専門書を出版。同種療法、同毒療法、同病療法)を確立。
1795

葛飾北斎 北斎宗理の号も
彼は生涯に30回と頻繁に改号。現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星及び北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。
この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
また、93回に上るとされる引越しの多さも有名(一日に3回引っ越したこともあるという)。
当然、食生活も大変乱れていたが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑(くわい)だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。

『ライフ誌-この1000年で最も重要な業績を残した世界の人物100人』-に選ばれた唯一の日本人
1744~
1812没
ロスチャイルド家金融業
初代のアシュケナージ・タルムードのユダヤ系ドイツ人であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年)がドイツのフランクフルト・アム・マインで開いた古銭商・両替商に端を発し、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世との結びつきで経営の基礎を築いた。ヨーロッパに支店網を築き、彼の5人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築いた。
1807 ヘーゲル-精神現象学、ヘーゲルの体系は神の体系に代わる物。「われは人間なり」
カント、デカルト、ルソーら近代西欧思想の祖 神に対して人間一般を対置。
近代(西欧)合理主義により労働は報酬を出来高払い制に。
労働⇒国家⇒世界
賃金のために働き、生き甲斐は他のところで⇒レジャー、サービス業の発展⇒人は機械にあらず
1820~ フローレンス・ナイチンゲール(イギリス)
イギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者、近代看護教育の生みの親。
本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。⇒後述
社稷自治   
1760年~1834年

水野 南北
江戸時代中期の頃の観相学の大家。当時、日本一の観相家といわれ「節食開運説」を唱えた人物。
大坂阿波座(大阪市西区)に生まれたが、幼くして両親を亡くし叔父夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職から「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となった。刃傷沙汰を繰り返し、 18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。
出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。こうした体験から観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究を実施して観相学を究め、南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
しかし、そこまで研鑚を 積み重ねても従来の観相学では百発百中とはいえず、悩んだ末に伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い断食を続けるのさなか天啓が訪れる。食は命なり!』~「人の命運は総て食にあり南北は喝破した。

1769~1814 ナポレオンの欧州席巻とロンドンのネイサン、パリのジェームス、ロスチャイルド
特にロンドンのネイサン(1777-1836年)とパリのジェームスが成功を収めた。ネイサンはナポレオンが欧州を席巻する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通した。
ジェームスは当時の成長産業だった鉄道に着目し、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していった。
1783

塙保己一と群書類従
幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。
手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ。
天明3年(1783年)に検校となる。天明4年(1784年)、和歌を日野資枝(ひのすけき)に学ぶ。寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。
『群書類従』666冊が完成したのは、保己一が74歳のときである。34歳のときに決心してから41年後となる。
また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になり、同年9月に死去。四男忠宝が跡を継いだ。
嘉永4年(1851年)、保己一が編纂した『令義解』に女医の前例が書かれていることを根拠に女医の道が開かれ、荻野吟子が日本初の国公認の女医第一号となった。それまでは医者は男性しかなることができなかった。
ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、1937年に来日した際、記念館を訪れている

伊能忠敬(ただたか)地図作りのために江戸を出発
・江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的状態。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域窮民を救済
・こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。
・50歳を迎えた忠敬は、家督を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。
・浅草に星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)32歳の門下生となった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだった。
・至時は昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
・この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。)忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と
・1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。(しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠。)
・半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量は多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった。
・1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
・1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
・1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
・忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったという。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き見下すことを改めたという。
・忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線を徒歩で一周という偉業。彼は地図と共に人間の底知れぬ可能性を後世の私たちに残した。
・地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)より

214枚の日本大図 
※’04年、名古屋ドームにて
(撮影kooichi.ikaiさん)
1806

ルイス・クラーク探検隊発見隊

1780~
1814~
1850

黒住宗忠-黒住教(くろずみきょう)
岡山県岡山市今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に日本三大新宗教の一つに数えられる。

黒住 宗忠 (くろずみ むねただ)  1780~1850
神道系の新宗教のさきがけとなる黒住教を開いた幕末の神道家。 備前の神社の神職だった。
黒住宗忠は、安永9年11月26日の冬至の日に、現代の岡山県に位置した備前国御野郡中野村の今村宮に仕える禰宜の家に三男として生まれる。
幼名を権吉(ごんきち)といい、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったといい、「黒住の孝行息子」と周囲からあだ名されたという。神職を継いでからは、左京宗忠と改名している。
文化9年(1812年)8月、実母・黒住つたが腹痛のため寝込んでしまい、次いで実父・黒住宗繁も同じような腹痛となる。宗忠は懸命に看病を行なうが、次々と両親を失う結果となり、極度の絶望状態に陥り、やせ衰えて行く中で翌年の11月頃には自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまう。
しかし、文化11年(1814年)11月11日、病気のため死を覚悟したは太陽を拝む(日拝)中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したと言われる。
以後、嘉永3年(1850年)に死ぬまで、布教や病者の救済をした。享年71。
皇室や公家の中に宗忠に帰依する者が多く、宗忠の死後、神道の権威とされた吉田家より「宗忠霊神」、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都神楽岡に宗忠神社が創建された。
宗忠神社は慶応元年(1865年)4月18日、孝明天皇によって勅願所となり(孝明天皇が定めた勅願所は宗忠神社のみである)、翌年2月7日従四位下の神階を宣下された。

1820
仙童 寅吉
文政3年(1820年)の秋、天狗小僧と呼ばれたひとりの少年が脚光を浴びた。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのだ。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものであり、多くの人々がその情報を求めて彼の話を聞きにやってきた。平田篤胤もそのひとりだった。寅吉15歳、平田45歳のことだった。

勝五郎再生記聞
文政5年(1822年)、武蔵国多摩の百姓の倅、勝五郎(当時8歳)が何気なく発した問いがこの事件のきっかけだった。勝五郎は生まれる前のことを誰もが記憶しているものとそのときまで信じていたのだ。自分が人と違っていることに気付いた勝五郎は誰にもいわないよう懇願するのだが、やがて家族にも知られるところとなり、前世での出来事、命を落としたときのこと、死後に出会った謎の人物のこと、この家に生まれたいきさつ等をとつとつと、しかし詳細に語る。
半信半疑の祖母に手を引かれ、とうとう前世に住んでいたという村へ出かけたところ、そこには勝五郎が語ったとおりの風景があり、家族が暮らしていたのだった……。江戸の世を騒がせた輪廻転生の話。http://d.hatena.ne.jp/supernil/20091210/1260352735
『仙境異聞・
勝五郎再生記聞』
平田篤胤
1822~

平田篤胤と『仙境異聞』
・篤胤は、天狗小僧を通じて異界・幽冥の世界の有様を聞き出した。1822年(文政5年)にはその聞書きをまとめた『仙境異聞』を出版。
・これに対して、周囲からは少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判された。しかし、本人は至って真剣であり、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。
『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。
49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献の研究をし、さらに異国に於ける仙人や神の存在についての研究をして行く。 

 
1830

モルモン教
・末日聖徒イエス・キリスト教会は、ジョセフ・スミス・ジュニア(1805年 - 1844年)によって1830年アメリカ合衆国にて設立された。
・ジョセフ・スミス・ジュニアによれば、彼は14歳の時(1820年)、当時の教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、新約聖書ヤコブの手紙一章5節を読み、どの教会が真実であるかを神に祈り求めたところ、実際に神とイエス・キリストを見、言葉を交わしたとされる。ジョセフによれば、彼はどの教会にも加わってはいけないと告げられ、イエスキリストの教会を再び地上に回復するために神から召されたとされる。教会の信条によると、回復が必要であったのは、イエスキリストと12使徒(イエスの弟子)の死後、神の神聖な儀式を行うための神権(神の権能)が地上から失われており、完全なる教義や儀式も聖書の人の解釈によって失われていたからだとされている。
14歳だった少年ジョセフはどの教会に加入するべきか迷い、正しい教会がどれであるか知りたいと願った。ジョセフは聖書に答えを求めて、「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)という一節を見つけ、神に尋ねる決心をした。
ジョセフは、1820年の春、近くの森に行き、ひざまずいて祈ったところ、神より示現を受けたと主張している
一夫多妻について。
創始者ジョセフ・スミスは、教義として、一部の指導者は神により多妻を認められているとし、教会員は一夫多妻を実施していた。 これは当時の倫理感から一般市民の強い反発を招いた。その後合衆国にて一夫多妻を違法とし、一夫多妻者の移民を禁止する法律ならびに、一夫多妻を指導する宗教の財産を没収するという、モルモン教を対象とした法律(Edmunds-Tucker Act :エドモンド/タッカー令)等が成立すると、教会は信教の自由を根拠に裁判で争ったが敗訴し、破産の危機に陥った。
・神権は1832年のサスケハナ川のほとりで、イエス・キリストの弟子であるヨハネ、ペテロ、ヤコブがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーに天使として現われ按手により再び回復されてからいまだに受け継がれており、そのことによりジョセフ・スミスから生ける預言者による神の啓示は続いていると信じている。

1837~1851 パックス・ブリタニカ
英国によるビクトリア女王の治世と世界平和の時代
1838年(江戸-天保9年)~ 中山 みき天理教
金光教・黒住教とともに日本三大新宗教の一つに数えられる。
みき31才(文政11年)の頃のこと、みきは、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が、当時絶体絶命と云われたほうそうにかかるという事件に遭遇することとなった。
計らずもみきの子二人と預かり子が、当時の流行病であったほうそうに罹かるという事件がおこった。どうしたわけか、みきの子供はどの子も快癒に向い無事となったのに対し、預かり子の方は熱気がずっと続き、一心込めての看病にも拘らず、回復の気配を見せず、みきの大いに慌てることとなった。
無理な願いでは御座いますが、預かり子の身の上難しいところ、どうかお助け下さいませ。その代わりに、この子の命を助けてもらうためには、願わくば世継の男の子一人を残して頂けさえ致しますれば、娘二人の命まで召されるとも厭いません。更にご無理を云わして頂けますなら、この預かり子に80迄の寿命を授かり下されませ。このようなお願いをお聞き届け頂きますにつき、もし娘二人の命にて不足で御座いますなら、願満ちました暁には私の命をも差しだします。私の身命を差し上げます以上、爾来、お召しまされようとも御用にお使いあそばされましょうとも不足を申しません」。と、概ねこのように誓ったと云う。
他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出すというのである。みきは、この預かり子救済の過程で、各地の神仏にすがり又一心不乱に祈り、この預かり子の命さえ助かるならば、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となった。こうしたみきの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。

長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みきみずから加持代となり、このとき、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。 (天理教では、この日を「立教の元一日」としている)
みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民におしみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。
教祖中山みき亡き後、本席という立場の飯降伊蔵に同じ霊が降霊、自動筆記による教典有り。
世界(鎖国の世において)一列皆兄弟、他人というはさらにないぞやといい、心の埃を取れという。
神がかりとなる前の逸話、教祖となってからも天理にのっとった生き方、人々の規範となりうる生き方が示されている。

1842年  フランツ・アントン・メスメルジェームズブライド
ドイツの医師。動物磁気と呼ばれるものの提唱者。メスメルは動物磁気と呼んだが、他の人たちはそれをメスメリズム(mesmerism)と呼んだ。
メスメルの概念と実践の発展が、1842年のジェームズ・ブライドによる催眠術の開発をもたらした。メスメルの名前はmesmerize(催眠術をかける)の由来となった。
 
1846

アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis)
米国の霊覚者。
キャッツキル山で啓示を受ける。(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
思想的にスピリチュアリズムを先取りした哲学書を出版して後のスピリチュアリズムに多大な影響を与え、「スピリチュアリズムのヨハネ」と言われた。(下記#スピリチュアリズムの勃興を予告した人物を参照)。
奴隷制度廃止運動家、女性開放運動家、禁酒運動家でもあり、スピリチュアリズムの思想によって社会に影響を与えた最初の人と言える。
ニューヨーク州のオレンジ郡ブルーミングローブ生まれ。家が貧しく、教育はほとんど受けていない。成長すると、靴屋の徒弟となった。
生まれつき霊視能力があったらしく、母が死去したときに輝くような野原に美しい家のビジョンを見て、母が行ったところだと思ったという。

1843年、17歳で近くの町の講演会に出かけて催眠術にかけられ、催眠状態で透視能力や読心能力を発揮できることに気づく。さらに実験を続けるうち、特殊な能力が発達した。(メスメリズムとの邂逅
この能力を生かすべく最初は(※ウィリアム・リビングストンと共に)病気の治療を始め、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。しかし、催眠状態に入ると演説することが多くなり、入神講演出版がライフワークであることを認識して治療院を閉鎖した。
1846年、20歳で入神講演の内容をまとめ、
第一部「大自然の摂理-※その聖なる啓示と人類への声」、
第二部「大自然の啓示」、
第三部「人類に告ぐ」の三部作として出版した。
(原文:The principles of nature, her divine relations, and a voice to mankind

1847年、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが『自然の原理』The Principles of Natureという本を出版した。 デイヴィスは入神状態を経験し、入神状態で口述した内容が他の人によって15ヵ月にわたり書き留められ、それが『自然の原理』としてまとめられた。
本は反響を呼びロングセラーとなり30年間で34版を数えた
『自然の原理』は三部構成-、
第一部の「自然の原理」では、世界は心と物の二つから成り立っているが、物質も心も本質的には霊的である。
第二部の「自然の聖なる啓示」に、宇宙の創造、星雲の形成、太陽系の誕生、地球生命の発達などを説明しており(ダーウィンの『進化論』の発表より10年以上も前の段階でデイヴィスはこうした説明を行った)。
そしてスピリチュアリズムの重要な部分、つまり霊界とは何か、霊界はどういう構造なのか、人は死ぬとどうなるのか、といったことが書かれている。
そのためこの本は、後に「スピリチュアリズムのバイブル」と呼ばれるようになった。
肉体と霊とはもともと一体であるが、年をとるにつれて肉体は衰えて霊(精神)の思うとおりには動かなくなるので、霊はそれまで肉体に充満していたエーテル的な物質を吸収して霊体をつくり霊界での生活に備えるのだ、とした。
そしてこうしたことは霊が低い次元から、より高い次元へと移動することであって、死とはそうした次元の移動にすぎない、とした。そして、死とはあらゆる現象の中で最も賛美すべきものであって、皆がその到来を楽しみに待ち、それに感謝すべきだ、と述べた。肉体を脱してまず入る世界をデイヴィスは「第二界」と呼んだ。
その後に第三界から第七界まである。第二界では肉眼の代わりに霊的な視力を得ることになり、地上の人間を見ても肉体は見えず、霊体しか見えない、と述べた。
同じ第二界にいるもの同士は声を使わず思念だけで交流できる。
第二界には3つの社会(グループ)があり、宇宙の目的、宇宙の役割、人間の宇宙における役割などといった宇宙の真理を学ぶとする。 また、霊界全体は、魂同士が引き合う力、および魂が向上を目指す力が原動力となって発展してゆく、とした。
これは大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えたといわれる。

大自然の摂理」では個人的な意識の死後存続、霊こそが実在であること、霊や霊界の描写、イエスは神ではなく規範とすべき人間であったことなどが述べられ、現在のスピリチュアリズムとたいへんよく似ている。
大自然の啓示」では宇宙、太陽系の歴史や人類にいたる生命の進化について書かれている。この中で海王星と冥王星が発見される前にその存在を指摘したことは話題になった。

人類に告ぐ」では理想的な経済・社会基盤について述べている。
後にスピリチュアリストたちの活動が盛んになってくると喜んで支持し、自らを「スピリチュアリスト」とした。
しかし、哲学的思想をなおざりにして物理的現象にばかり夢中になる傾向がスピリチュアリズムに出てくるとこれを嫌い、1880年には自分の哲学は「調和哲学」(※54歳のとき。この頃には自力で入神状態に入ることも出来るようになっていた。自分を霊的感応状態におくことによって霊界から自由に情報を入手できた。欲しい知識が自由に流れ込んでくる。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P47)だと宣言して、スピリチュアリズムと袂を分かってしまった。
その後も精力的に出版を続け、1910年に死去。

1848年のハイズビルのフォックス家事件以降に起こったスピリチュアリズムの勃興を予告した人物としても知られている。『スピリチュアリズムの真髄』(ジョン・レナード著(国書刊行会発行))に詳しい説明があるが、この本は現在絶版となっている。
彼の著作である第二部「大自然の啓示」には、後のハイズビル事件(フォックス家事件)を予言する記述が見られる。
肉体の中にいる霊と、より高い世界にいる霊とが交信する。…間もなくそれは生きた人間がやってみせる形で行なわれるだろう。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P35)
・…。その時、現在火星や木星や土星の住民たちの間に行なわれているように、人間の内部が開かれて霊的な交流が達成されることになる新時代の到来を、世界の人々は大歓迎するだろう。(〃 P45)

・聖書の言葉には誤謬があり、全体は不完全な物語。
・キリストについては「三位一体」説にある「神の子」であることを否定し、比類ない高潔な人格と抜群の霊能力を持った宗教改革家としている。(〃 P55)

『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P38にて補足

デ-ビスの著述がすすむにつれて、協力者だったブッシュ教授の態度が一変。敬虔なキリスト教徒である教授がスピリチュアリスト的な考え方についていけなくなったためだと言われている。
1846.9.19  フランス、ラ・サレット他各地で予言を託す聖母
・聖母マリアの顕現は5世紀までさかのぼる。
・初期は主に正しい信仰の在り方と指針を人々に教戒していた。
・フランス南東部の、ラ・サレットに聖母マリアが出現。
ラ・サレットは標高 1,000~2400メートルの高地にあり、現在でも人口わずか 70人ほどの小村ながら、ルルドに次ぐフランスの聖母マリア巡礼地となっている。
・二人の子どもがサレットの山中で、見慣れない服装をし、輝く光に包まれた貴婦人に出会った。貴婦人は岩に腰掛け、顔を手で覆って泣いていた。
人々の犯しつづける罪があまりに重く、もう支えきれないと嘆いた。
このままでは世界は破滅する、
…他36の預言を残した。←1531年へ
・転換点となり、もっぱら終末預言的な内容が増え始めた。
その後も聖母の出現は続き、現在も世界各地から報告されている。
この200年間聖母マリアは一貫して言いつづけているのだ。「悔い改めよ」と。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』
 
 1848.2. 1848年革命
フランス2月革命はヨーロッパ各地へ伝播し、この内、特にドイツ連邦、オーストリアで起こった運動を3月革命と言う。
1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。
ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。
 
 1848.2.24 『共産党宣言』
・カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによる弁証法的唯物論『共産党宣言』
 
   物理的心霊現象の時代の幕開け  
1848.3.31~
現代スピリチュアリズム元年
近代心霊研究の始まり-一般霊との交霊
アメリカのニューヨーク北部の小さな村ハイズビルで起こったフォックス家事件(=ハイズビル事件とも言う)に始まる。 
ハイズビルに住むフォックス夫妻には、マーガレット(11歳)とケート(9歳)という二人の娘がいた。いつの頃からか、夫人と二人の娘は夜になると不思議な物音がすることに気づくようになる。やがてラップ音やノック音がしたり家具が動いたりするようになる。
 1848年の3月31日の晩、前夜の騒音で家中の者が不眠になっていたので、その日は早くから床に入った。するとまたコツコツと窓を叩く音がする。はじめは怖がっていたが、今ではもうすっかり慣れた娘の一人が、パチンパチンと指を鳴らして、「お化けさん、真似をしてごらん」と言うと、同じ数だけ叩く音がする。娘たちは面白がって遊び始めたので、夫人が試しに、その場の誰にも答えられないような質問をしてみようと思いつき、「私の子ども全員(前夫との子供も含めて)の年齢を上から順番にラップ音で答えてください」と言った。すると即座にすべての子どもの年齢が正確に返ってきた。そこで夫人は、「正しい答えをしていますが、あなたは人間ですか?」と尋ねてみた。ラップ音はない。「あなたは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」ラップ音二回。さらに質問を続け、「もし傷ついた霊ならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、即座にラップ音が二回鳴って家全体が振動した。
それで驚いて近所の人達を呼び集め大騒ぎになった。ドゥラスという人が中心になって、アルファベットを早口で言って、霊に望みの箇所で音を鳴らしてもらうといった繰り返しで、とうとう一つの通信文を獲得する
それによると、音を鳴らした霊は、五年前にこの家に泊まって殺されたチャールズ・ロズマと言う名前の31歳の行商人で、五百ドル奪われ地下室に埋められた、というのである。
それで翌日、皆で地下室を掘ったら水が出ていったん作業を中止したが、その年の夏、水が引いたので再掘したら本当に毛髪と歯と骨が出てきたという。
(この事件に自作自演説もある。)(ニューヨークでも新聞はこぞって姉妹を嘲弄した。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P18)

フォックス家の知人であるアイザック・ポストは、ロチェスターのリーの家でアルファベット表を使って交霊実験を行ったところ次のような霊界からのメッセージを受信した。
「友よ。あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光なのである。それを、あなた方はもはや圧し隠そうとしてはならないのだ。あなた方がその義務を行うとき、神はあなた方を護り、善き霊たちがあなた方を見守るであろう」(「新霊交思想の研究」田中千代松著、37頁)

その後このメセージを実行しようとする人が増えていき、
18491114日、ロチェスターのコリンシアン・ホールで最初の公開交霊会が開かれた。

地球上のあまりの惨状を前にして、霊界では高級霊達が結集し、一致団結して「地球人類救済」に乗り出すことになりました。そのための大プロジェクトが立案され、計画にそって綿密な準備が進められました。
そして1848年に、地上世界に向けて計画が実行に移されることになりました。
それが地上のスピリチュアリズム運動の開始だったのです。


心霊現象の歴史分析
1、物理的心霊現象の時代
・1848年のアメリカのニューヨーク北部の小さな村ハイズビルのフォックス家の事件がスピリチュアリズムの原点
・物理的心霊現象の時代であり、物理的な心霊現象を顕す霊媒が中心だった。

1848 米国史上初の男女平等、婦人の投票権を求める運動
・女性が霊能に気付き、神からの贈り物と思い、社会での独立や地位向上のために最大限に利用しようとしたとしても不思議ではない。
・社会の良識に背く新しい女たち
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P29
1850年代 パリの上流社会では「お宅のテーブルの具合はどうですか?
(降霊会における招霊実験をテーブル・ターニング)」というのうが挨拶代わりとなった。
1854~1856
の2年間

フローレンス・ナイチンゲールと看護学と赤十字(一部前述)
wikipediaより
・裕福な家庭で両親の(※補足-1818年に結婚、1821年新婚旅行から帰国。先に姉が誕生)3年間の、新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで次女として生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。
・幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。
・しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
・その後ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
・ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給で、生活費は、年間500ポンド、数少ない理解者の父が出していた。
・就職に反対する母、姉と険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。・・しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員・により、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
・事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。
・11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。
ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出した。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
・スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。
・後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
・ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
・この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。
・1856年3月30日パリで平和条約が締結される。4月29日クリミア戦争終結。
7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。
・11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。(※皆を納得させるための手法として考案)これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。
・ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
・ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。(※ナイチンゲール記章-二人は面識はなく手紙のやりとりをしていた。ボランティア活動には否定的だったため、デュナンの活動には非協力的だったようだ)
・ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。
・超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。
・戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられる。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。
・その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。
・彼女自身が負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争の2年だけであり、むしろその象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。彼女自身はクリミア戦争で熱病にかかり37歳(1857年)の頃から虚脱状態になやまされ残り55年間は病床の日々を送った。(以上Wikipediaより)
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フローレンス・ナイチンゲールが聞いた「神の声」とは
まず彼女は「神の声を聞いた人」です。
彼女は生涯に4回(1837,1851,1854, 1861)神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕を するためでした。
1)運命の1837年2月7日。フローレンスは神の声を聞きます。神は彼女 にこう言いました。『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはど うすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。
彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。そして 翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。1847年からはローマ の保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。
2)その後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて2回 ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びます。
そして1851年他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という2度目 の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。
3)現地に行ってみるとそれはひどいものでした。彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。この時彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なものでした。単なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフの様式は今でも使われています。彼女はこの手法の考案者として後に英国統 計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
このクリ ミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。
帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛生管理についても助言をしました。しかしこのクリミア戦争ではさすがに激務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。
4)この頃から彼女は夜の時間に文筆活動をするようになります。昼間は看護活動や後身の指導に当たり、夜は本を書くというのは大変な負荷ですが彼女は公的な場所への出席をできるだけ減らして、そういった時間にあてていきま した。彼女は生涯に150冊の本12000通の手紙を書いています。その手紙の大半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答でした。(※⇒ナイチンゲール書簡集) 1860年6月24日にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにで きました。彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をはらいます。
翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について質問を受けています。
その年彼女は4度目の神の声を聞きました。
1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する 声明を出しました。1887年には英国看護協会の設立に助力しました。そして 1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。そして 1910年8月13日、90歳の高齢で亡くなりました。
彼女は25歳の時の最初の求婚の他に2度プロポーズをされています。2度目 はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭 の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断っています。3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノープに譲って(!!)しまいました。 彼女は病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境であるとして、近代的な看 護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。彼女はまた 自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということ を実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。彼女はまた女性にも家庭に引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだという ことを実践してみせてくれました。彼女はそういう意味でクリミアの天使であっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもあ りました。 以上、フローレンス・ナイチンゲールより
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「ナイチンゲールの年表」より 神の声についての調査
1820年、両親の新婚旅行中のフィレンツェ(英語名:フローレンス)で次女として生まれる。現在「看護の日」(ナイチンゲール記念日)になっている。
1829年、カトリック解放法が成立。国教会徒でない人でも公職に就けるようになる。
1830年、父はハンプシャー州の州長官に就任し、州の行政と治安の責任者にる。
1832年、父は自らがケンブリッジで習ったような教育を娘達に授ける。
1)最初の神からの啓示を受ける。自らの寝室に茨の冠をかぶったキリストが光り輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(「To My Service」)」と言われる。
1839年、一家はヨーロッパ旅行から帰国。フローレンスとパーテノープはビクトリア女王に拝謁。
1840年、イギリスでは大変な飢饉と不況に襲われる。ナイチンゲール家の人びともリーハースト荘の近くの農村地帯を病人を見舞って歩く。
毎日のように自分に語りかけてくる神の声を自覚。「私を愛せ!」 
日常生活を送る中でも突如トランス状態になり、白昼夢を見、恍惚とする。胸の中から声が響いてくる。そうした経験を日記に記す。

1844年、看護婦として病院で数ヶ月働きたいと言い出す。その後、隣の村の自分の家に自立して、「教養ある女性のための誓約によらない、プロテスタントの婦人団体のようなものを」設立したいと言い出す。家族に大反対される。
1845年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断る。
1847年、ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと出会う。帰国後ハーバート夫妻との親しい交際が始まる。
1848年、チャドウィック(イギリスの都市の人口の死亡率の高さと平均寿命の短さを調べて、衛生改革を訴えた運動家)をリーダーとして保険局が作られて全国的な衛生活動を行なう。その頃イギリスは大規模なコレラの流行に見舞われ、二度のコレラで両方とも2万人を超える死者を出す。
2)1852年、再びキリストが現れ、「救助者になれ!(To Be a Deliverer)」という二度目の啓示を受ける。
1854年、ロンドンタイムスの特派員ウィリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の後方部隊が如何に悲惨な状況にあるかということがを新聞に載り、世論は沸騰する。
1854年10月21日クリミアでの奉仕を申し出るフローレンスの手紙と、同じく奉仕を彼女に求めるシドニー・ハーバートの手紙が郵便局ですれ違う。「 トルコにおけるイギリス陸軍病院看護婦監督 」の公式任命が下り、シスター24人、職業看護婦14人の計38人の看護団を組織して出発。
1854年11月、当初医師達は看護婦を病室入れることを拒んでいたが、インカーマンの激戦で大量の傷病兵が送られてきたため、入院者が12,000人以上に増え、スクタリの病院はパニック状態となる。フローレンス達は看護に没頭する。
3)クリミアで彼女は3度目の神の声を聞く。
1855年、2月旧友のパーマストン卿が首相となる。首相は二つの委員会、補給問題を査察する『マクネル・タロッチ委員会』と、『衛生委員会』を戦地に派遣する。衛生委員会の働きで給水・排水と換気の問題が改善され、この後死亡率が急激に下がる。
・スクタリの病院の死亡率42パーセント。一方、もっと劣悪な補給と看護状態だったバラクラヴァは死亡率13パーセントであったことが後にわかる。
・娯楽施設をつくり、兵士がお酒や売春婦に走らないようにし、節約した金を本国の家族に送金できるようにシステムを作った。その後半年の間に7万1千ポンドが送金された。
・病院の修復を一旦裁可されたが、150名の職人のストライキで大蔵大臣が手を引いたため、新たに200人の職人を雇い、自分の財源から費用を支払い、期日までに病室を増やし、新たに500人の傷病兵を受け入れる。彼女がクリミアに滞在中に、支出した個人財産は7000ポンドに及ぶ。
・前線の病院を視察。その後クリミア熱(チフスか?)で倒れる。二週間危篤の状態になって生死の境を彷徨う。このニュースにイギリスの世論は沸騰する。
シドニー・ハーバートの呼びかけによって『
ナイチンゲール基金』が集められる。
1856、ジョン・ホール医師とフローレンスとの深刻な対立は、ホール医師が本国にむかってフローレンスを中傷する文章を次々と送っていたため有名になる。
同年3月、陸軍大臣のパンミュア大臣から、フローレンス・ナイチンゲールの指揮下に全て従うようにという手紙が届く。パンミュア大臣から密命を帯びて派遣されたレフロイ大佐の報告からフローレンスの方が全て正しいという判定が下る。

・バラクラヴァの病院に乗り込む。この旅行の際、ホール軍医は「どんな種類の食糧も彼女に供給されないように、命令を出す。」 しかし先見の明のあるフローレンスは大量に食糧を用意し、10日間の旅中、食事をすることが出来た。アイルランドの修道女達は国に帰る。
・4月29日クリミア戦争終結。
・この戦争の死者は2万1千人。内、病死した人が1万6千人。多くは伝染病による死亡者。この間、フローレンスは2千人を超える人の臨終に立ち会う。

・同年7月、スクタリを後にして帰国の途に着く。自分が偶像化され、虚像が一人歩きすることを恐れ、スミスという偽名を使用して人知れず帰国するなど、人前に出ることを避けた。本国で民衆は熱狂して迎える。女王はブローチを贈り勲功を讃える。
1857スクタリの死亡率の高さは、衛生状態の悪さが原因であることを理解したときにフローレンスは壊れ始める。自分がよかれと思ってした活動によって結果的に大勢の人びとを死に至らしめてしまった。フローレンスは自分の責任を感じて苦しむ。全く食事を受け付けなくなり、衰弱する。
1861、自分がスクタリの病院に送られた意味を考える。これは間違いなく神の意志だった。自分が間違いを犯すことさえも神の計画の一部だったのだ。神は私が間違いに気づき、間違いから教訓を学ぶという方法で私を教育なさろうとしているんだと信じる。
・インドのための『ロイヤル・コミッション』を立ち上げる。衛生学者であるファー博士とサザランド博士を委員に任命し、インドの衛生改善を指導。兵士の死亡率を下げていく。現地の人達にも各地に衛生委員会を作ることを呼びかける。カルカッタやマドラスなどの大きな都市に下水道を引こうと努力する。飢餓から救うために政治家達にインドに灌漑用水を引くことを呼びかける。のちにフローレンスは『インドの母』と呼ばれるようになる。
1893、シカゴ博覧会で、看護の本質に関するナイチンゲールの信念を明確にした演説が行われた。「この職業は一つの芸術であり、科学である」と記述している。
1907、女性としては初めて、メリット勲章を授与される。
1910、90歳で死去。 
「ナイチンゲールの年表」より

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現役ナースさんのHP ナイチンゲールのお話より
1)一般論的ナイチンゲール
1848年から1849年にかけてイギリスのロンドンでは、2回にわたりコレラが大流行します。その頃彼女は、エジプトへ旅行をした後、1850年から1851年の間、2回ドイツの看護学校へ行き、看護理論を学びます。そして、1851年に『
他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい』と、2度目の神のお告げを賜ります。彼女は、その後も貧しい人や病む人のために奉仕を続けます。
 1853年、ナイチンゲール33歳のときに、病院の看護監督に就任します。


 1859年、ナイチンゲールは“看護のバイブル”といわれる『
看護覚書き』を刊行します。また、同じ年に『病院覚書き』という本が刊行されました。彼女は、看護に貢献しただけでなく、『病院覚書き』を発表したことにより、これが医学の大発展につながり、医療全体にもかなり貢献しています。

 そして翌年の1860年、イギリスのロンドンにある聖トーマス病院に、彼女は最初の看護学校を設立します。1861年には、助産婦養成所を開設しますが、こちらのほうは7年後に閉鎖されました。1860年は、アメリカで南北戦争が勃発しており、彼女はアメリカから衛生管理についての質問もいけています。また、彼女はこの年に
4度目の神のお告げを賜ります。彼女は、生涯の中で4度“神のお告げ”を賜ったといわれています。

 1872年、国際赤十字のアンリー・ジュナンは、ナイチンゲールを高く評価する声明を発表しました。…
 1887年、イギリスでは『
英国看護協会』が設立され、ナイチンゲールも設立に助力しています。そして、1907年には、イギリスではこの章を頂くことはかなり名誉なことといわれている『メリット勲章』なるものを、女性では初めて授与されています。

 ナイチンゲールは、クリミア戦争後看護のみならず医療全体においてかなりの貢献をしてきました。しかし、数多くの彼女の功績は全てベッドの上でされたことでした。残りの54年間の生涯をほとんど人とは会おうとしないで引きこもりの生活をしていたようです。彼女は周りの人たちにはよく「私は心臓病で死にそう」と訴えていたそうです。
 1910年8月13日、こうしてナイチンゲールは90年の生涯に幕を閉じました。イギリスでは、ロンドン市内にある著名な人たちを葬る墓地に彼女も加えられる話も出ていましたが、自らの希望で彼女の両親が眠るイングランドのハンプシャー州にあるロムジィ近くのイースト・ウィロー教会の墓地に、彼女は両親と共に眠っています。

2)ナイチンゲールのもう一つの顔
ナイチンゲール家はとても裕福でした。しかし、彼女はすでに6歳のときには、その裕福な生活に不安や罪悪感を抱いていました。そして、『
白日夢癖』・『食卓恐怖症』が出現します。白日夢とは、簡単に言うと空想のことで、現実に満たすことができない欲求を、空想で満たすことでストレスを解消しようとする現われのことです(※いろいろな解釈があるようです。もっと重要な意味がある場合があります。⇒ブルース・モーエンと白昼夢)また、食卓恐怖症とは対人恐怖症の一種で、人前に出ると意識してしまい緊張感が増して対人関係を避けようという行動が出てきます。彼女は、他の人たちと同じように振舞えないのではないかと不安を抱き、食事のときもナイフやフォークで何か過ちを起こすのではないかと思い込み、皆といっしょに食事をとることを拒否していました。これらの症状は神経症の類で、神経症はまだ自分自身で症状を自覚して病識がある状態のことです。彼女は、晩年自分を振り返ったときに、「幼い頃、自分は他の人と違うのではないか、と強迫観念に捕われていた」と語っています。彼女は夢の中へ夢の中へと逃げていってしまったのでしょうね。
3)看護覚書とナイチンゲールの理論
看護の要素は『新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること』と書かれており、療養環境を整えることが大切であると語っています。それは、人間の健康を回復する目的であると語っています。つまり、彼女は看護の目的とは、『
健康の増進』とはっきりと述べています。そして、病気の治癒力とは人間がもっている『自然の力』であると語っています。
ナイチンゲールは『看護の仕事は、快活な、幸福な、希望にみちた
精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、快活な女性こそ、本当の看護婦といえるのです(ナイチンゲール書簡集より)』と、言葉を残しています。彼女の生きた時代には、身分階級というものがあり、看護の仕事をするものは下層階級の女性であり、暗いイメージがつきまとっていたことも影響しているかもしれません。現在でも、看護というお仕事は3K・5K、もしかしたら9Kなどといわれており、過酷な仕事であって自分に犠牲をはらってでも『奉仕の精神』で務めるようなイメージがつきまとっています。彼女は、その象徴のようにあがめられてきました。ですが、彼女はそのようなイメージとは違い、看護という職業を確立しようと考えていた人です。彼女は、看護の原点をみつめ、看護の歴史を築き、世界中に看護の独自性を広めました。そして、彼女の理論を超えてさまざまな看護理論が発表されている現在では、残念ながら彼女の理論は忘れ去られていることも事実です。現在の、看護理論の主流はアメリカの看護理論です。日本でも、アメリカの看護理論を取り入れており、そのままの理論を取り入れようとしているために、さまざまな問題が生じているのも事実です。つまり、日本人の生活環境にそぐわないということです。その点、彼女の理論は『看護とは何か』ということを突き詰めていて、単純といえば単純であり、基本といえばこれが基本なのです。

またナイチンゲールは『
日々の健康上の知識や看護の知識は、つまり病気にかからないような、あるいは病気から回復できるような状態にからだを整える知識は、もっと重視されてよい。こうした知識は誰もが身につけておくべきものであって、それは専門家のみが身につけうる医学知識とははっきり区別されるべきである(看護覚え書より)』と書き残しています。彼女の時代には、まだまだ看護婦という職業は確立されてはいませんでした。そんな状況の中で、彼女は看護の知識と医学の知識をはっきり別けるべきだと既に考えています。そして、看護の視点で病気をみつめるように訴えています。彼女自身の生命観から看護独自の視点で『病気とは何か』ということを説いています。彼女はこんなエピソードも語っています。「ある非常に優れた医師が、肺炎をどう治療するかと聞かれたとき『私は肺炎は治療しません。私は肺炎にかかっている人を治療するのです』答えたのであるが、それにもかかわらず、病気でなく病人を看護するということは、看護そのものと医師との違いのひとつである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)」と。彼女の看護のあり方は、からだの中には自然に回復する治癒力があり、その回復していく道程が順調に進むように療養の環境を整えることによって、生命力を支えることと説いています。それと、彼女は『看護は生きた身体と生きた心と身体と心が一体となって表現された感情とに働きかけるのである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)』と、説いています。こうして、彼女は『何が看護で何が看護でないか』ということを、明確にしていきました。

『看護覚え書』の第1版が印刷されたのはクリミア戦争から帰還して2年後の1859年12月のことでした。クリミア戦争前は、上流階級の人々の周りで生活していたナイチンゲールは、クリミア戦争を機に下層階級の人々のために尽くします。ナイチンゲールの理論には、単に病人を対象にしただけでなく、兵士・貧民・インドの人々といった存在が大きく影響しています。ナイチンゲールの著書150篇のうち、4分の3にあたる48篇が、1850年代の末から1860年代の末までの10年間に書かれています。しかも、この48篇のうちにはナイチンゲールの代表作も多く、ナイチンゲールはこの10年間で勢力的に執筆活動を行い、この期間にナイチンゲールの理論は形成されたといってよいでしょう。

全ての人たちが健康への最善の機会を与えられるような方法が学習され実践されますように!』と1893年にナイチンゲールは夢を語っています。世界でも、医学への考え方は変化してきており、疾患を直す医学から疾患を予防する医学へと徐々に移りつつあります。看護も傷病者だけを看るのではなく、疾患を持っていない人に対しても必要なのではないかと考えられるようになってきて、今もなお看護学の中ではいろんな看護理論が生まれています。彼女の夢は、世界中の人たちへのメッセージではなかったかと思います。誰もがいつも健康でいられますようにという彼女の願いは誰もが想うことですよね。看護には知識や技術は当然備わっていなければならないものではあるけれど、私自身が看護する心を失わないでいたいものだと思います。 ナイチンゲールのお話 現役ナースさんのHP

1859~

金光大神(こんこう だいじん) - 明治16年(1883年)10月10日)は宗教家・金光教教祖。戸籍名は金光大陣
備中国浅口郡占見村字香取(現岡山県浅口市金光町)の農家・香取十平(かんどり じゅうへい)・しもの次男として生まれる。
幼名は源七(げんしち)。1825年11月26日、同郡大谷村(現浅口市金光町)の農家・養嗣子に迎えられ、川手文治郎(かわて ぶんじろう)と改名した。
1831年(天保2年)、浅尾藩主に蒔田広運が就任し、藩主の幼名(荘次郎)と同一音の「次郎名」が禁止されたため、文治郎も川手国太郎(くにたろう)と改名した。
1836年(天保7年)8月6日、養父が死去した。臨終に際しての養父の遺言により、赤沢姓に改め赤沢国太郎となった。
1844年(天保15年)、赤沢文治(あかざわ ぶんじ)に改名した。
他の村人から「信心文さ」と呼ばれるぐらい、当時の民間信仰に手厚く丁寧で、人望もあり、田畑も増やし村の自作農家では十指に入るほどの成功を収めたが、三度の自宅建築のたびに家族や飼牛を亡くし、村人等は金神の祟り「金神七殺」と恐れたという。
1855年(安政2年)年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」(てんちかねのかみ)の声を聞いたとしている。
1857年(安政4年)、実弟の香取繁右衛門(かんどり しげえもん)に金神の神懸かりがあり、その後金神の祈祷者となったことから弟を通じて金神を主として信仰しはじめ、次第に自らも金神の啓示が分かるようになり、数々の不思議な体験をした。
1859年(安政6年)10月21日、神示(立教神伝)により農業をやめて「取次」業に専念するようになった。
1868年(明治元年)、神から「生神金光大神」という神号を受けたとされる。明治新政府が戸籍を編成する際、名前を「金光大神」と届け出たが、戸籍には「神」の代わりに同音の「陣」を用い「金光大陣」と記載された。1883年(明治16年)10月10日に死去した。
なお、篤信者に与えられる神号としての金光大神は他にも、斉藤重右衛門(笠岡金光大神)、片岡次郎四郎(才崎金光大神)に与えられており、区別して教祖金光大神または生神金光大神と呼ぶ場合がある。

1851~1879

ダーウィンと種の起源と宗教観
・典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。
・彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。種の変化を調査しているとき博物学の友人たちがそのような考えを、神授的な社会秩序をむしばむ恐るべき異教で、英国国教会の特権的な地位を批判するための反国教会主義者か無神論者による急進的な主張の一種だ、と考えていることを知っていた。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると思っていた。
1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した
・1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。このセクションは『自伝』が出版されるときにエマと息子のフランシスによって削除された。
・1958年に孫娘ノラ・バーロウによって出版された新しい版では削除された全てのセクションが元通りおさめられている。
・1879年に書かれた書簡では、自分はもっとも極端な考えに触れた時であっても神の存在を否定すると言う意味における無神論ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べている。
・晩年のダーウィンの友は、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れるダーウィンの遅疑逡巡を回想している。

1852~ W.R.ハイデン夫人の渡英により英国にスピリチュアリズムが飛び火
・メスメリズムの講師とともに渡英
・優れたサイコメトリスト
・叩音によってアルファベットを確かめながら、霊と交信
・数学者のオーガスタス・ド・モーガンと社会主義者のロバート・オーエンに影響
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P68
1854 スピリチュアリズム究明の建議書が米国国会に提出される。13,000人が署名。
1855 シアトル首長の手紙-父は空 母は大地
1854年アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスはインディアンたちの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。
翌年それに対しインディアンの首長シアトルはこの条例に署名し、大統領に宛て手紙を出した。
父は空 母は大地
1855~ 霊媒の王、ダニエル・ダングラス・ホーム(D・D・ホーム)
・少年の頃から透視能力
・22歳でアメリカから渡英、ロンドンへ。
・「食客」となり、次第に時代の寵児となる。
・彼の降霊会と知識人によるその反応をコナン・ドイルが報告
・離れたところに置いたアコーディオンを手を触れずに演奏、物品や自身を浮遊させた。著名人に大々的な浮揚を証言させた。
・潔白、オープンな態度で人気。
・自分の霊能に対してもてなしとか個人的な贈り物以外、報酬はいっさい受け取らなかったと言われる。1857年にパリのユニオンクラブで公開実験が行なわれたとき、5万フランという巨額な謝礼を、自分は生命が永遠であるということを知らせる使命のために来ているのだからと言って断った。そのときもその日暮らしの風来坊で健康に不安があったのである。
・ナポレオン三世とアレクサンドル2世に贔屓を受けた。
霊能が1年間停止される、というメッセージが霊界から届き、ローマ・カトリック教に改宗するなど受難の後半生が待っていたが、最後まで霊能を飯のタネにせず、潔癖な暮らしぶりで53歳で亡くなった。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P81~
1856(7年は改定版)
10年間
アラン・カル(ー)デック(イポリット・レオン・デニザール・リヴェイユ)と『霊の書』
フランスの心霊運動の基礎を築く。
スピリティズムという用語はフランスからラテン系諸国に広まった。
天体には全て生物がいる。各天体の物理的構造は皆違っている。
地球は、その居住者の肉体的・精神的資質の点では、この太陽系の惑星の中でも、最低のものの一つである。 火星は、ある点では、地球の人類よりも低い。
・木星は、あらゆる点で、地球人よりはるかに優れている。
太陽は肉体をもつ者の住む世界ではないが、高級霊達の集まる場所である。天体の大きさ、太陽からの距離は、その天体の進歩程度とは必ずしも関係はない。即ち、金星は地球よりも進歩しており、土星は木星よりは進歩していない。
再生はすべて地球上とは限らない。多くの天体で再生が行われる。現在我々が生きているこの地球は、我々にとって最初の地上生活でもないし、また最後でもない。しかし、最も物質的な生活の中の一つであり、完全からは最も遠いものである。

「アラン」も「カルディック」も彼の前世のときの名前として降霊会のときに示されたもの。
高級霊たちがカルディックに重要な宗教的役割を与え、指導するとのメッセージを送ってきた。カルディックはさまざまな質問を用意して霊との対話を繰り返し、2年後に新しい宗教観それを伝道すべき自分の使命とを確信するに至った。
1856年に『霊の書』、翌年に改訂版を刊行
「スピリティスム」と名乗った。
フランスはもとより、南米にも伝播、とくにブラジルに信奉者が多い。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P187
アラン・カルディック
『霊の書』
~1856~ エマ・ハーディング・ブリテン(Emma Hardinge Britten,
イギリスの霊媒兼作家、編集者、音楽家。精力的な講演活動や出版でスピリチュアリズムの普及に大きく貢献した。
幼い頃から音楽の才能があり、劇場にも出演し、11歳で人に教えるほどだった。
宗教的にはオルペウス教の結社などに親しんで育ち、スピリチュアリストとして活動するようになってからも古代のシンボル秘儀に関する発言がみられる。また、子供の頃に夢遊病でメスメリズムによる「磁気治療」を受けたことがあり、これは後のスピリチュアリズム信奉の基礎になったという。
直接のきっかけとなった事件は1856年に起こった。エマは米国の劇場に出演するため、母と共に汽船「パシフィック号」に乗って海を渡った。
後日、エマはパシフィック号が運んでくる予定の小荷物を受け取りに港に行ったが、「嵐のため船の到着が遅れている」と知らされ、手ぶらで宿に帰った。その晩エマは霊の存在を感じて驚き、母に相談した。すでにハイズビル事件(1848年)を知っていた母はテーブルの上にアルファベットを書いた紙を置き、エマに霊と交信させた。得られたメッセージは、
「パシフィック号のフィリップ・スミスだ。エマ、私が死んだことを知らせに来た。パシフィック号は遭難して、乗員は全員死亡した。船と乗員の行方については、今後いっさい何の手がかりも得られないだろう」というものだった。エマはメッセージを疑ったまま眠れぬ一夜を過ごし、翌朝霊媒のケロッグ夫人のところに行ってみた。夫人はエマに会うなりトランス状態になり、同じメッセージを語った。パシフィック号の遭難は後に確認されたという。
この事件の後、エマはスピリチュアリズム運動に身を投じ、霊媒能力とパフォーマンスの才能を生かして積極的に交霊会や講演旅行を行った。(※「スピリチュアリズムの女パウロ」と言われるほどの第一流の伝道師となる『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189)
なお一時期、神智学の創始者ヘレナ・ブラバッキー夫人にも接近するが、すぐに疎遠になっている。
やがて米国の保守的な地域を中心にスピリチュアリズムに対する反対運動が起き、嫌がらせや脅迫で危険を感じた母の勧めで英国に戻った。

1890年には数多いスピリチュアリスト・チャーチの連帯を目指してNational Spiritualists' Federation(後のSpiritualist's National Union, SNU)を創設。旗印として掲げられた7ヶ条は、エマが理想的社会主義哲学者のロバート・オーエンから自動書記で得たものであるという。
1890年「スピリチュアリスト国民連合(NFS)」設立とその綱領で今日に至るまで「スピリチュアリズムの七綱領」として認められている。
キリスト教国以外に広まるにつれて全部を容認できないスピリチュアリストも出てきたために、現在では以下の最も基本的な二つの綱領を認めることとなっている。
1892年にアメリカで「全米スピリチュアリスト連合」設立
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189
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国際スピリチュアリスト連合(The Spiritualists’ National Union)がエ(ン)マ・ハーディング・ブリテン夫人の霊界通信により、スピリチュアリストとはなにかの定義となるスピリチュアリスト七大綱領を発表しました。その内容は以下の通りです。
  1.神は全人類の父である
  2.人類はみな兄弟姉妹である
  3.霊的世界と地上界との間には霊的交わりがあり、人類は天使の支配を受ける  4.人間の魂は死後も存続する
  5.自分の行為には自分が責任を取らねばならない
  6.地上での行為は死後、善悪それぞれに報いが生じる
  7.いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている


しかし、この綱領は(※キリスト教国以外では)誤解を生じる表現などがあり、シルバーバーチなどの霊界通信『シルバーバーチの霊訓』)でも、その問題点が指摘されています。
私(一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事 江原啓之)がその誤謬を正し、より理解しやすい表現に訂正したものが「スピリチュアリズム八つの法則」です。
  1、霊魂の法則
  2、階層の法則
  3、波長の法則
  4、守護の法則
  5、類魂の法則
  6、因果の法則
  7、運命の法則
  8、幸福の法則

私は以上のように新たなる綱領を提示し、スピリチュアリズムまたスピリチュアリストの生き方を日本で伝えて参りました。
スピリチュアリズム(霊的真理)こそ、人類に伝えられた幸福の生き方であり福音であると確信いたします。かつてカントが述べたように、現世を物質的価値観として捉える生き方では、正直者が馬鹿を見る生き方となり、不条理な世界観に心を曇らせるばかりで刹那的人生観しか見いだせません。
しかし、霊的価値観の視点は、正義に希望の光を与えるものであり、前向きな人生観へと変えて行くものです。心の乱世といえる混沌とした今の時代、スピリチュアリズムは大いなる幸福への福音であると確信いたします。

日本では「スピリチュアル」という言葉をどう訳すか議論されています。なぜなら、一番的確と思われる「霊性」という言葉を用いれば「霊(たましい)」を認めざるをえなくなるからです。WHO(世界保健機構)でも1998年に、人間の健康の条件の中に「スピリチュアリティー」という言葉を加えることが、議論された事もあるのです。

 

グレート・ホワイト・ブラザーフッド(Great White Brotherhood)
神智学やその影響を受けたニューエイジ思想で信じられている超自然的人物の集団
・日本語表記としては「聖白色同胞団」「大白色聖同胞団」「大いなる白色同胞団」がある。
ブラヴァツキー夫人はこの集団に属する。
・クートフーミやモリヤといったマハートマー(大師、マスター)から教えを授かったと主張した。
・チャールズ・ウェブスター・リードビーターによれば同胞団のリーダーはサナト・クマーラである。
Ascended Master Teachingの教義によればサナト・クマーラがこの集団を創設した。
・同胞団の本拠地はゴビ砂漠上空のエーテル界に存在するシャンバラに築かれた。 

 
「原罪」「人間の堕落」「永遠の劫火」などの教会のドグマに強い敵意
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P79
1858
フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件
有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」
南フランスのスペイン国境に近いピレネー山脈の麓に、人口一万五千人のルルド(Lourdes)という町がある。
そこの洞窟から湧き出す「聖なる水」で病気や身体の障害が治るというので、非キリスト教徒を含めて毎年数百万人にのぼる巡礼者が世界中からこの地を訪れる。
(1972年の統計では三百五十万人でしたが、そのうち八万人が、身体障害者や病人)
洞窟の内部には有名なマリアの聖堂があり、重病人や松葉杖をつきながらやって来た人達が泉の「聖なる水」を飲み、「聖水浴」をして、聖母マリア様に祈りを捧げると奇跡が起こって病気が治り、また歩けるようになって松葉杖を残して国に帰るのだそうです。
・ルルドが名高い巡礼地になったきっかけは、1858年2月11日に当時十四才の貧しい粉屋の娘マリー・ベルナデットが、薪拾いに行ったマッサビエル洞窟の中で聖母マリアを見たことから始まります。
2月25日に聖母は娘に「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇跡が起きる」と告げました。
翌日ある盲人がこの泉で水を飲み、顔を洗うと目が見えるようになり、その事実が知れ渡ると、大勢の病人がこの洞窟を訪れるようになりました。これがルルド巡礼の起源ですが、聖母マリアはベルナデットの眼前に、合計18回出現したと言われています
この泉の水を科学的に調査したところ、特別な成分は含まれておらず、山から流れ出る清水と全く変わらぬ成分なのだそうです。にもかかわらず、多くの重病人の奇跡的治癒が実際に起きるといわれています。
この現象はカトリック信者と医者を含む科学者との間で、またカトリック教会とフランス政府との間でそれ以後、論争の種となりました。
1859~

赤沢文治(川手文治郎)と金光教
安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。

現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である。(金光町の町名は金光教の本部があることから付けられた。)
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長がいる。日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者を有する。

従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという特徴を持つ。信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。 (本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)

1860~ 国安 仙人
 11歳のとき、聖良仙人が来訪。それを転機として12年、岩木山、八甲田山、開聞岳、国見山などを渡り歩き、
五穀断ちをはじめとする仙界修行をし、海上歩行をはじめ、物品引き寄せ、千里眼、念力、テレポーテーションと、神仙家随一の神通力を発揮した。― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)
  著者の不二龍彦氏が、「この章で扱う神仙家(①~④の4人)のなかでも、真に神通力第一と呼ぶにふさわしいのは、明治期の大仙人・国安仙人である」と述べているほどの人物。 その国安仙人の生活ぶりは、ある意味では今日の日本人と正反対の内容となっている。
  彼のふだんの生活ぶりをザッと紹介しておこう。そこには、なるほどそれでこそ仙人といったエピソードが充ち満ちている。
  中国の神仙関係の書物を読むと、仙人修行者は肉や魚の類はもちろん、穀物を断って心身を浄化するということが必ず書かれている。そして、仙人になると、
ほとんどものを食べる必要がなくなるというのだが、国安仙人もまさにそうだった。魚介鳥獣を食わず、穀類・野菜類も食わず、もっぱら木の実を常食としていて、それも、あれば食し、無ければ自分から買って食べることはなかった。
  しかも国安仙人の買い物というのは、すべて売り手のいいなりで、決して値切るということがない。そのため高く売りつけられることもあったが、仙人はまるで意に介することはなかった。
  そもそも国安仙人には、物欲というものがまるでなかった。自分を飾るとか、うまいものを食うとか、神仏のためと称して豪壮な家を構えるといった俗情は完全に欠落しており、寄進にしても、信者が惜しんで出す金は受けつけなかった。信者がそのそぶりを毛筋ほども見せない場合でも、仙人には相手の心の内が手に取るように見えていたらしく、黙って返してよこしたという。
                       ―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)

  この国安仙人は幼名を米太郎といい、万延元年(1860年)に江戸深川に生まれています。そして明治3年、11歳の年に人生の転機が訪れるのです。米太郎の前に聖良仙人と名乗る白髪の老人が忽然と現れて、「我は前世からの約束で、今日、汝を訪れたのである。これより行を積み徳を積んで、人助けをせよ。そのために汝を時々仙界に呼んで修行をさせるであろう」と告げたのです。以下は本文を引用してご紹介します。

  こう語り終えるやいなや、聖良仙人はためらう米太郎の襟首をつかみ、あっという間にいずこかの山中に連れ去った。かくして米太郎の仙界修行が始まったのである。
  仙童寅吉や宮地水位も語っていたことだが、仙人に導かれて仙境に入るという場合、それは霊体や幽体を飛ばすとか、意識だけを飛ばすというのとは違う。そうしたケースもあるにはあるが、多くは
体ごと異境に参入してしまうらしいのである。
  合理的に解釈したいタイプは、こうした異境へのトリップを、何らかの特殊な意識体験だろうということで片づける。麻薬などのトリップと同じ体験と見なすわけである。しかし、実際に仙境に遊んだという者は、そんな合理的解釈を拒絶する。水位も
体ごと移行するといっているし、寅吉も杉山僧正のもとに出向くときには旅支度をしている
  のちに国安仙人は、
弟子の前でトリップの現場を何度も実地に見せているが、そのときには必ず「体ごと消え失せた」と弟子や信者は報告している。今流にいうと、テレポートしてしまうらしいのである。
―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)


  実はこれと同じ出来事が、『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(ベアード・T・スポールディング著/霞ヶ関書房)の中に載っている。
  この本の第3章「肉体の自由自在なる出現・消滅」のなかで、エミール師という人物が、著者をはじめとする調査団の目の前で、自由に肉体を消したり、現したりした事実が述べられています。その「肉体の出現・消滅の原理」を、エミール師は次のように述べています。
  ‥‥わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料が存在する「普遍なるもの」の中にいったん奉還したのです。
  それから私の
神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、ついにこの部屋の此処で具体化し再現して、皆さんにも見えるようになる――というわけです。
  この過程のいったいどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。 ―― 『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(霞ヶ関書房)

http://www001.upp.so-net.ne.jp/apocalypse2012/karma24.html
1861~63 ウィリアム・マムラーと心霊写真
ボストンで彫金仕事をしていたマムラーが友人の写真スタジオで自分の写真を撮ったところ、12年前に死んだ従妹が写っていた。
このことが評判になり、やがて、心霊写真に専念するようになった。
「門前市を成す」ありさまとなり、ほかにも心霊写真家たちが輩出するようになったが、いわゆる生き霊が写るようになって風向きが変わった。
1868年にはニューヨークに移住し、仕事は繁盛したが、やがてある新聞記者に訴えられ、長い裁判沙汰となり1884年に貧困の中で死を迎えるに至った。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P177
1860年代

ウィリアム・クルックスと心霊研究とケイティ・キング(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏)
物理学に留まらず、様々な分野における研究を行った。
例えば、テンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究といったものである。
1860年代の後半から心霊現象の研究をはじめた。「心霊研究はこの人から始まる」と言われた。
「心霊現象研究協会」(SPR:Society for Psychical Research)の創設メンバーに加わり、1896年には会長に就任した。

19世紀半ば~

ニューソートNew Thought、新思考)
米国で始まった宗教運動の一。
谷口雅春光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるという考え方。
マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する。
・人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
・原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
・全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
・人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
・正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
・愛の力は神の意志の地上的表現である。


日本でも著作がベストセラーになっている英国出身の牧師ジョセフ・マーフィーなど、いわゆる成功哲学の著者の多くが、これに属する人々である。
また、
ニューエイジの源流のひとつである。
ニューソート団体の多くは、お互いに緩やかな結びつきの単立のキリスト教会の形を取ることが多く、その結果、海外ではニューソートの一派としても知られている日本の新宗教、生長の家は、世界最大のニューソート団体ということになっている。

近年ではニューソート思想にニューエイジ(「チャネリング」と呼ばれるシャーマン的な入神行為によってもたらされる「神からの啓示」を教義とする神秘主義思想)の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。
日本ではA Course in Miraclesの分派、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏(神との対話シリーズ)の一派、分派など判別が付かないほどに入り乱れている。
各々の信奉者が集まり勉強会と称した読書会なども盛んである。

『マーフィーの法則』
『超意識』坂本政道
神との対話シリーズ 
1861~1863 アメリカ大統領リンカーン-霊界通信に大変関心をもち霊媒を通して交霊会
フォックス家事件後約十年の1861年(南北戦争が始まった年)から三年間、リンカーンは、ネティ・コルバーンという若い女性霊媒と交流している。
交霊会には常に大勢の同席者がいた。はじめての交霊会で、霊側は一時間以上国事についてのアドバイスをするが、霊媒ネティに意識が戻ってから、リンカーンは彼女に次のように言っている。
「あなたは大変非凡な才能をお持ちのようだが、それが神から与えられたものであることに、わたしは一点の疑いも抱いていない。わたしはおそらく、ここにいる誰よりも、いま伝えられたことの重要性を理解しているつもりですよ……」
霊側がリンカーンに勧めたアドバイスの一つは、奴隷解放の実施を遅らせないことであった。
彼は結果的に霊界通信に従って六百万人の奴隷を解放した。
また霊側は、南北戦争で士気の低下した北軍兵士を元気づける一番の方法は、大統領自らフレデリックスバーグの前線に赴くことであると説得した。リンカーンがそれを実行すると、兵士たちの戦意が驚くほど向上したという。
映画「ナショナル・トレジャー」-リンカーン暗殺者の日記 -目と脳が痺れる、ものすごい映画だ!リンカーン暗殺事件も自由の女神像の秘密も歴代大統領までも暗号の共犯者だと知らせ、人類最大のミステリーの真相を明かしたのだから…荒俣 宏

歴史学者であり冒険家のベン・ゲイツは、テンプル騎士団の秘宝の秘密を受け継ぐ一族の末裔。秘宝は、当時のフリーメイソンらによってイギリスの手に渡らないようにアメリカ建国時に封印されたという。
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P19
  映画
『ナショナル・トレジャー』
1862 アンリ・デュナンと国際支援組織・赤十字国際委員会
アンリ・デュナンはソルフェリーノでイタリア統一戦争に遭遇し、自ら救援活動を行った。1862年、彼はその体験を「ソルフェリーノの思い出」に書いて出版し、国際的な救援組織の必要性を説きました。この本がきっかけとなり、ヨーロッパ各国は史上はじめての国際支援組織・赤十字国際委員会を設立。
「ソルフェリーノの思い出」の中で、デュナンは「平和愛好者団体が抱く希望や期待は実現し難いだろう」と書いています。デュナンがその平和愛好者の1人として文中に記したサン・ピエール師は、ヨーロッパの戦争を防ぐには国家連合が最善だと主張した作家でした。デュナンは戦争が避けがたいものならば、せめてその被害を少しでも防ぐための組織が必要だと主張した。⇒EUへ
1852~
~1852
~1904
宮地水位
1852年(嘉永5年)12月18日土佐国潮江村(現高知市土居町)で潮江天満宮の祠官(しかん)の家に生まれる。父は常磐、母は熊沢弥平の次女。幼名は政衛(まさえ)。本名は堅磐(かきわ)。
1862年(10歳)父常磐の影響で、この頃より
異界に出入りする
1864年(12歳)潮江天満宮の神主となる。以降、神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞を広める。
1869年(17歳)手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝。途中鉱山を発見。
1873年(21歳)東京下谷の学舎で一時期講授補役を勤める。
1882年(30歳)皇典講究所の委員に任じられる。
1892年(40歳)この頃顕微鏡を入手して昆虫や粘菌類を研究
1904年(53歳)晩年の5年は病床に伏す。明治37年3月2日帰天。
<後世に与えた影響> 
* 異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖。神格概念の骨格は平田篤胤の“仙境異聞”の世界に負っているが、神集岳神界、万霊岳神界の概念は先人未発のもの。本来、機密である神界の情報を書物で公にしたのは、人間界にも神界を知らしめるべきとの使命によるものでその意義は大きい。
<特筆すべき生活>
* 10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回にわたって肉身のまま異界を往来し、その記録を「異境備忘録」に残す。死去の際は、棺が大音響とともに閃光を発し、その棺は軽く、尸解(しか)の特徴がでていたという。(尸解とは、肉体の死を待たずに法術により肉身を消し、自己の本体たる霊物を神仙界に遷すという)
* 幽界交信者には無学や独断的傾向の人が多いが、水位は和漢洋の学問を修めた博識多才の人で、門人は3,000人以上いたという。
友清歓真によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。 
 
~1867

江戸幕府終焉、大政奉還
・徳川家の人がむなしく亡びなかったのは、天璋院(篤姫)の働きによるところが実に大きい。二百数十年続いた徳川幕府の体制が崩壊しようとする時、徳川家の人々はもちろん、それに連なるどれほど多くの人々が、動乱のあおりを受けて苦しむことになっていたか。
・その時に当たり、天は人を見捨て賜わず、篤姫なる人物を、徳川の大奥に配し、局面を大きく動かし賜うた。
・島津の分家に生まれ、将軍の正室「御台所」に登りつめた。夫の徳川家定は心身ともに虚弱だったため、ただでさえ多くの人々の想念渦巻く中で、動乱がいっそう人心を惑乱させる中で己を持し、官軍の江戸総攻撃をくい止めて、江戸城の無血開城を実現する陰の力となった。自分が嫁いだ徳川の家を保持し、徳川宗家十六代の家達(いえさと)を養育し、大奥女中たちの生活の面倒をみ、篤姫によって、日本国が利益を得た。

 
  徳川 家達(とくがわ いえさと)
・徳川宗家16代当主で、もと田安徳川家7代当主
・幼名は「亀之助」。号は「静岳」。従一位大勲位公爵。第4代貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、第6代日本赤十字社社長などを歴任するほどの優秀なる人材だった。
・「天璋院篤姫」の英才教育を受け続けただけのことはある、素晴らしい人生であった。
 
明治維新
1867~1872

開始時期については諸説あるが、狭義では
明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い。
日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする。
終了時期についても、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説ある。
薩摩藩の調所(ずしょ)笑左衛門広郷(ひろさと)と同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風がいる。

1868
9/ 8~
明治元年  
福沢諭吉
・文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた。
・福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
大隈重信
安政6年
明治3年
1870
中村正直とサミュエル・スマイルズと「天は自ら助くるものを助く」
スマイルズは自立した個人の勤労倫理を説いた。その主張は「天は自ら助くるものを助く」という格言に要約される。『セルフ・ヘルプ=Self-Help (西国立志編 原名 自助論)』はこの格言を引くことで始まるが、産業革命後に登場した中産階級の人々に向けて、市民社会を生きる上で大切な市民道徳とその実践を、平明な言葉と実例で説き、19世紀の後半から20世紀の初めにかけて世界的に読まれた。日本人はその影響感化をもっとも深く受けた国民である。
「天は自ら助くるものを助く」は中村がスマイルズの『セルフ・ヘルプ=Self-Help (自助論)』として日本語に訳したとき巻頭に掲げた。
朗々たる響きも手伝ってこの格言は明治日本の人口に膾炙した。日本語の諺と化したといってよい。それというのも、この自助の教えこそ、明治日本に高らかにこだました時代精神ともなったからである
「余を作りし者はこの書なり」とは国木田独歩の短編『非凡なる凡人』の主人公が『西国立志編』に対して感謝の念をこめて発した言葉である。(『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク 中村正直と西国立志編』平川祐弘 P3~)
今では二人とも忘れられた啓蒙思想家、19世紀のベストセラーとなってしまった。日本で官学の諸学校が整備される以前は中村の私塾同人社は福沢の慶応義塾と並んで日本で最も評判の高い学校であった。
人口3000千万の頃に出版部数は100万部に達した(〃)
1870

パリのロスチャイルドとバチカン
資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたバチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。

ハンフリー・デービー
化学者。ファラデーを見出した。

マイケル・ファラデー
貧しい階級出身。数々の業績で知られるイギリスの化学者・物理学者。

1864~1912 ジェームズ・アレン(イギリス)-『考えるヒント・生きるヒント』『原因と結果の法則』4部作 (聖書につぐロングセラーの一つ) ①原因と結果の法則②幸福への道③困難を超えて④輝かしい人生へ

「私たちは、自分が考えたとおりの人間になる」
「思考は現実化する」
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。-喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果


アレンにとって、彼の哲学はもはや哲学ではなく、真実そのもの、つまり明確な経験的知識であった。
彼の妻リリーによれば、アレンは、「人々への何らかのメッセージがあるときにだけ書き、それがメッセージであるためには、彼が人生の中で実際に試してみて、良いものであることを確認したものでなくてはならなかった」という。彼自身、『As a Man Thinketh』の前書きの中で、「この小冊子は、私の瞑想と体験の結果である」と明言してもいる。
イングランド南岸の静かな保養地、イルフラクームに住み、毎朝夜明け前に、近くの小高い丘の中腹までゆっくりと登っていく。それが、アレンの一日の始まりだった。その丘からは、自宅と海が一望できたという。そこに一時間ほどとどまり瞑想した後で、家に戻り、午前中を執筆活動にあて、午後になると家庭菜園での農作業に精を出す、というのが彼の日課だったようだ。
夕方以降は、知人や友人たちとの会話に興じることが多かったらしい。彼の哲学に興味を持った人たちの訪問を、頻繁に受けていたようである
「アレンは、夜になるといつも、黒のビロード地のスーツを着ていた。そして、彼の家を訪れた我々小グループに、瞑想や哲学、トルストイや仏陀について、また、どんな生き物をも絶対に殺すべきではない(筆者注=おそらく、食用にする生き物は除いて)、といったようなことを、静かに語って聞かせたものだった。我々の誰もが、彼のキリストを思わせるような風貌と、穏やかな語り口、そして特に、毎朝夜明け前に丘に登ってと交信していたという事実に、若干、ある種の恐れのようなものを感じていた
成功哲学の祖、ナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに強い影響を与えた。
心は、創造の達人
「心は、創造の達人です。そして、私たちは心であり、思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、さまざまな喜びを、また悲しみを、みずから生み出しています。私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。私たちをとりまく環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません」
人生の創り手
「自分こそが自分の人生の創り手である」
思いと人格
「私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません」
思いと環境
「自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれるものである」ということを熟知しています」
思いと健康
「きれいな思いは、きれいな習慣を創りだします。自分の心を洗わない聖者は、聖者ではありません」
思いと目標
「人間を目標に向かわせるパワーは、「自分はそれを達成できる」という信念から生まれます。疑いや恐れは、その信念にとって最大の敵です」
思いと成功
「人間は、もし成功をめざすならば、自分の欲望のかなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです」
ビジョン
気高い夢を見ることです。あなたは、あなたが夢見た人間になるでしょう。あなたの理想は、あなたの未来を予言するものにほかなりません」
穏やかな心
「穏やかな心は、真実の海のなか・・・・・・水面から遠く離れた、いかなる嵐の影響もおよばない永遠の静寂のなか・・・・・・に住んでいます」
『考えるヒント・生きるヒント』
  『原因と結果の法則』
『As a Man Thinketh』
1867

大政奉還(たいせいほうかん)
江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件。

1870~ 九鬼 盛隆
日本における断易(五行易)の中興の祖。
九鬼盛隆は1870年(明治3年)、三重県の熊野九鬼の浦に生まれた。
彼の一族は、戦国時代に活躍したあの九鬼水軍の子孫であり、彼自身23代目の嫡流であった。
幼児期から漢文を学び、中国の思想に強い関心を持った。
青年時代には仏教、神道、キリスト教を学んだが、これに満足せず、最も真理に近い思想は中国哲学、特に「易経」にあると考えるに至る。そして、大陸に渡り、研究を深めた。
1904年、漢学の大家で、明治天皇に「易経」の講義をしたことでも知られる碩学、東京帝国大学教授の根本通明に師事し、内弟子となる。
そして、「易経」すなわち「周易」の研究に全霊を注ぎ込み、独自の理論を築いて行く。そして、国学院大學の講師として教鞭をとった。根元教授の著書とされる「周易講義」も、実は多忙な教授に代わり、彼がゴーストライターを勤めて書いたものらしい。
しかし、当初彼は「易経」すなわち「周易」の研究が中心であり、「断易」(五行易)の類は、「古来多くの儒者等の排斥論に気触れ」まったく興味をもっていなかったという。
だが、ある日、ふとしたきっかけから、断易の書を読み、その魅力に取り付かれたという。そして、周易から断易へと倉変えをする。そして、後半生を断易の研究に捧げることになるのである。
彼の最大の業績は2冊の名著、「断易精温」と「断易真義」を著したことであろう。
当時の断易は、江戸時代の誤訳の多い本や中国であっても内容の混乱した本などが参考にされ、混乱状態にあった。九鬼以前にも優れた研究者は居たが、正確な占法は普及するには至らなかった。
彼は、そんな中、中国の書籍の中でも理論的に優れた書物を選抜し、これを整理統合し、上記の大冊にまとめあげたのである。
現代の断易の研究者達は、彼の著書にも暦などには若干のミスがあるとしながらも、彼を「断易の中興の祖」、「正確な断易の普及のきっかけを作った大恩人」と、その業績は高く評価している。
(が、初心者向けには、今ではもっと親切な本が出ており、ある程度慣れるまでは、彼の著書は読まない方が良いという。これには私も同感である。)
彼は、易とは「神からの託宣」であると考えた。この点においては、周易の高島嘉右衛門と同意見であった。実際、嘉右衛門も、彼を高く評価しており、彼に卦の解釈を依頼したケースからも明らかだ。
しかし、九鬼は、「」に関しては、高島嘉右衛門以上に、深く関わった。
彼は「神がかり」を経験し、それに深く耽溺してゆくのである。
きっかけは、大本教である。それ以前にも、彼は神と感応する機会はあったらしい。だが、それはさほど深いものではなかった。しかし、大正8年頃、大本教の機関紙「神霊界」を読み、それが真実であるかを占ったところ、「魔の眷属である」との結果を得て、これを退けたが、これは彼が鎮魂帰神やお筆先に関心を持つきっかけとなった。
翌年、隣家で起こったポルターガイスト現象がきっかけとなり、霊現象の存在を確信する。
劇的な事件が起こるのは、その年の10月である。
宇都宮に松川勇という敬神家が居て、本田亀次という霊媒を通じて神がかりを行っていた。しかし、松川は古典や神道に関する知識が少なく、審神者(さにわ)をうまく勤められずにいた。
すると、突然、本田にかかった神は、「静岡市に住む友清歓真を呼べ」と託宣した。この時、松川は友清のことは全く知らなかったという。
こうして、古神道の大家、友清が呼ばれると、続いて神は、友清に対して「九鬼盛隆を呼び、ここに参列させよ」と託宣した。
かくして、面識の無い友清と九鬼が、そこに呼び出されたわけであるが、二人は本田の語る託宣の内容に感動し、驚愕する。そして、これは本物であると確信するに至る。
そして、神は霊媒の本田を九鬼にゆだね、審神者(さにわ)の役を務めるように命じたのである。
こうした九鬼の古神道関係の記録は、「惟神本道」という著書に書かれている。
さらに、夏目漱石や平田篤胤の霊も降り、この交霊記録は「未耕地の開拓者」や「本道真義」などにまとめられた。
彼は一種の終末論にも近い思想を持っていた。彼は、「使命を忘れ、迷妄に陥った日本はその報いを受ける。」と。既に大正14年に日米開戦と日本が壊滅的打撃を蒙った後、敗戦することを予言していたと言われる。
しかし、本田との共同作業も大正15年をもって終わる。
その後、各地を転々とした後、自分の娘に霊媒の才能を見て、彼女を霊媒として育てようとしたが、本田ほどの成果を挙げることはできなかったらしい。
その後、彼は多少の門人を育てながら、静かに余生をすごした。
彼もまた、高島(※嘉右衛門)同様に、他人から乞われて易を立てても、報酬を要求することは一切なかった。
昭和16年に、彼は予言していた日本の敗戦を見ることも無く世を去った。
「断易精温」 九鬼盛隆 八幡書店、「断易真義」 九鬼盛隆、「日本神人伝」 不二龍彦 学研
「断易入門」 菅原壮 東洋書店
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/kuki.htm
 1851 D.D.ヒューム(ホーム)-前述-
1851年 叔母の家を出て、熱狂的信奉者の支援を受けるようになる。ハーバード大学の調査グループがヒュームを調べ、現象が本物であることを証言。
・1855年 22歳で渡英し、一大センセーションを巻き起こす。
 
 1850年代~
1874
クルックス博士と物質化したケーティ・キング霊の研究-前述-
彼は一八六三年、英国学士院会員に選ばれ、一八九七年にはサーの称号を受け、後には英国学士院をはじめ、化学協会・電気技師協会・英国学術協会の会長を歴任。
その間、タリウム元素の発見、クルックス放電管の発明などで世界的な名声を博しました。文字どおり英国科学界だけでなく、世界科学界のトップの立場にいた人物でした。
(一)空中浮遊――霊媒者ホームとクルックス博士
(二)物体移動・物体浮遊――エクトプラズムの存在
(三)物質化現象(幽霊現象)

・そのクルックス博士が、本格的に心霊研究に乗り出す際に出した声明文
――
「まだ何ひとつ理解していない問題について、見解だの意見だのといったものを持ち合わせてはいない……一切の先入観を持たずに研究に入りたい。この研究の結果、間違いないと確信した情報はいつでも提供しよう……」そしてこの声明文は、「科学によってスピリチュアリズムの愚にもつかない現象を追放しよう!」。
・クルックス博士は――「信じがたいことだが事実である」との霊魂の存在を認める声明を出した。これが出版されると、英国中に大センセーションを巻き起こした。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-1_03.htm
 
1872~1892
約20年間

『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。
スティントン・モーゼス(イギリス)『霊訓』(『The Spirit Teachings』)
『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。
アラン・カーデック(カルデック)の『霊の書』、モーリス・バーバネルの『シルバー・バーチの霊言』と並んで世界の三大通信と言われている。

特長は(1)大小の敲音、(2)種々の光、(3)種々の香気、(4)種々の楽声、(5)直接書記-文字が直接現れた(6)卓子テーブル、椅子其他物品の浮揚、(7)物品引寄、(8)直接談話、(9)霊言と複数の人格、霊

スティントン・モーゼスを霊媒とした霊界通信
『霊訓』 HPで解説しているのはどういいう立場の誰??
解説
第一章  幽明の交通とその目途
第二章  健全な生活
第三章  幽明間の交渉
第四章  各種の霊媒能力
われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天ぎようてんの星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それけそう言った人格は尊い。友よ、おちついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心をもって心とせよ。又慈悲深く、寛厚かんこうにして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心をもって心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神のしもべの克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、きよく、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意をもっこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、また常に温顔をもっこれを迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。
第五章  幽明交通と環境

交霊には『肉体が健全で感覚が鋭敏でその上心が受動的』な人が選ばれる。
第六章  夫婦関係
第七章  真の宗教
第八章  神霊主義

(一)神の認識と崇敬。 ……神に対する責務。
(二)同胞への貢献。 ……隣人に対する責務。

    イ、自己の肉体を守る。
    ロ、自己の知識を開発す。
(三) ハ、真理を求める。
    ニ、善行を励む。
    ホ、幽明交通を講ず。

……自己に対する責務。

第九章  啓示の真意義
主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、ことごとくあてはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代の関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』――これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
第十章  進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
※キリスト教の牧師であると同時に強力な霊媒だった。
さまざまなメッセージの送り手が現れ、その数は49名になったが、それを統括するのは「インペレーター」と名乗るものだった。いわゆる「背後霊団」がこの事業を組織的に行なっていたということになる。
署名に添えて十字の印を残した。現在は「心霊研究大学」に1冊欠けて24冊のノートブックのうちの23冊が残っている。
送られてきた内容は牧師として自分の意志にまったく反するものであり、しばしば反対意見を述べたが、それに対してさらに強い意見が送られてきた。…対話体で書かれている。
重要な主題は現存するキリスト教の錯誤や迷妄を正そうとするところにあり、まさにモーゼスのような熱心なキリスト教徒なら飛び上がりかねないような内容であった。
…われわれの仕事は、イエスがユダヤ教に対してしたと同じことをキリスト教に対してすることである。形骸化した内容を精神的なものとし、新しい生命を吹き込むのだ。」というのが霊団の賢人たちの趣旨である。
あらゆる行為は絶対不変の因果律の支配を受けるが故に「地獄」とは自分の行為がもたらす魂の苦悩の状態であり、それがすなわち「罰」なのであって、神が下す復讐の鞭などではない。
日常の幸福は… 宗教的信条とは関わりのないものである。

『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P191~
1875

スエズ運河と英国
ロンドンのロスチャイルドは、政府に運河買収の資金を提供。
1875年サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった。この決断をした首相のベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された。

1877(明治10年) ライブツィヒ大学物理・天文学教授ヨハン・ツェルナー、ヘンリー・スレードの霊能を調査
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1879.3.14~1955.4.18 アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)
1882(明治15年) 心霊研究協会(SPR)設立。
初代会長ヘンリー・シジウイック。現在に残る世界最古の心霊研究機関(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表)
1863~
1888~
1907

長南 年恵(ちょうなん としえ)
明治時代の霊能者、超能力者。現在の山形県鶴岡市出身。本名、登志恵(鶴岡市戸籍研究による)。
20歳のころからほとんど食事をとらず、口にするものは生水程度であったという。
また、空気中から神水などの様々な物を取り出すなど、多くの不思議な現象を起こしている。
弟の長南雄吉は、大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役で、雄吉が見た年恵の20歳以後の超常現象などの記録を、後年、心霊研究家の浅野和三郎がまとめて発表している。

1884 ヘンリー・セイバートとセイバート委員会
遺言により、ペンシルベニア大学に寄付された6万ドルを資金として、スピリチュアリズム調査研究を目的として出来た委員会
トーマス・ハザードが顧問として加わった。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P148
1884 井上円了「妖怪学」を始める。
日本の心霊研究の先駆け 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1856.7.9~
1884~
1943

ニコラ・テスラ
ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)で生まれる。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会
。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。
兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。
1880年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見。1881年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営電信局に就職。23歳でプラハ大学を卒業したらしい(その後、エジソン社のフランス法人に勤めたともされている)。
1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用される。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失うこととなる。

1885 ボストンにアメリカ心霊研究協会(ASPR)設立。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1885~
1887~

ホジソンとパイパー夫人
ASPRの役員を務め、併せてパイパー夫人の調査をするため、ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ・ペラムと知り合い、親しい友人となった。
1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、英国に招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くのSPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた
パイパー夫人は、心霊研究史上、最高の霊媒と言われている。彼女は、実に多くの科学者たちの調査実験の対象となって、近代心霊研究成立のために大きな貢献をした。
夫人は1885年に、有名な心理学者W・ジェームズ博士の調査を受け、多大な成功を収めた。それ以来45年間に数百回にも及ぶ調査実験を受けている。
1889~1890年には、オリバー・ロッジやマイヤースの監視の中、きわめて厳格な条件下で88回の実験を受けています。この実験の結果が、オリバー・ロッジをスピリチュアリストに転向させるきっかけとなった。
1892年、ジョージ・ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼はパイパー夫人の交霊会に登場した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。
ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった。
1897年、パイパー夫人を通じて現れる霊が「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となる。
調査は15年間続いた。

1888~
1952

友清 歓真(ともきよ よしさね)
新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。
元名は友清九吾(ともきよ きゅうご)。号は磐山(ばんざん)、無方斎(むほうさい)、半仙老人(はんせんろうじん)、如甕道人など…。
友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。
また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている)

1889

ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール (en:Max Dessoir)により「超心理学という言葉が造語された。

1856~
1939

ジークムント・フロイトと精神分析
ユダヤ系オーストリア人の精神分析家、精神科医。
人間の無意識に注目し精神分析を創始した。
無意識の発見は数多ある人類の発見の一つであるが、「実在」としてとりだせないために批判も多い。しかし、戦争や宗教を考えるに当たっては避けては通れない道である。
フロイトの生い立ちから人生に数々の考えるべきヒントがある、と言う学者もまた少なくない。
フロイトのような心理学者の場合、その人がどのように育ち精神的発達をしたかは、精神分析学を提唱する上でかなり関わってきます。なので、フロイトについて学ぶなら、生い立ちも知っておく必要があるのです。
フロイトは両親がどちらともユダヤ人で、フロイトも当然ユダヤ人の貧しい家庭に育ちました。
とても複雑な家庭で、フロイトが生まれた時、父親であるヤコブ・フロイトは3度目の結婚でした。 なので、フロイトが生まれる前から、ヤコブには2人の息子がいました。フロイトが生まれる頃には彼らの子供が生まれていて、その子供がフロイトにとっては遊び相手でした。 フロイトは甥と遊んでいた事になります。
母親であるアマリエにとって、フロイトは長男でした。その後、男の子が2人、女の子が5人生まれ、中にはユリウスという生後8ヶ月で死んでしまった子もいました。 普通弟や妹が生まれると、上の子は親の愛情を求めて嫉妬したりすることもありますが、フロイトの場合は弟や妹達が生まれた後も、子供達の中で1番かわいがられました。

フロイトは賢い子供でした。
フロイトは多くの書物に目を向け、8才の時にはすでにシェークスピアを原文で読んでいました。
文学、歴史、武勇伝など、さまざまな書物を読むことが好きだったようです。
さらに、ギリシア語、ラテン語、英語など、言語においても優れていたようです。

また、フロイトはユダヤ人であったためさまざまな差別を受けました。 考え方なども大きく関わっています。
フロイトが生まれた当時、オーストリアではまだ「ユダヤ人迫害」が禁止されたばかりで、 まだまだ何をするにも許可がいったり、「よそ者」扱いされる事がたびたびありました。 そして
ユダヤ人であった事が、フロイトの人生に大きく関わってきます。
ユダヤ人であったため、嫌な思いをする事もたびたびありました。
例えば、フロイトは電車に乗っていて、 窓を開けようとしたら「見下げたユダヤ野郎!」とはきすてるように言われました。
このことは相当ショックだったらしく、フロイトはその後『汽車恐怖症』になってしまいました。 また、フロイトが父から聞いた話で、ある日父親が歩道を歩いていると、
キリスト教徒にぶつかられ、帽子を橋の下のぬかるみに投げられました。
「それでどうしたの?」とフロイトが聞くと、何も抵抗せずに帽子を拾って帰った、と言われました。 フロイトは父の行動に対してショックを受けたそうです。 これら以外にもさまざまな差別やショックを受け、フロイトは「いつか見返してやる」という気持ちになったそうです。

そしてフロイトにとって憧れのヒーローはハンニバルになりました。
ハンニバルの父親はハンニバルに、ローマ人への復讐を誓わせました。
父の復讐に燃えるハンニバルが、フロイトにとっては、ユダヤ人がカトリック社会にはむかうようなものと重なって見えたそうです。

フロイトが成長するにつれて、ユダヤ人迫害はますます強くなりました。
そのため、彼は長期にわたって、ウィ-ン大学医学部の講師として働いていましたが、ずっと教授にはなれませんでした。最終的に、フロイトの患者が絵画を文部大臣に献上したので、フロイトはやっと教授になれたのでした。

ナチスの迫害によってロンドンに逃れそこで癌のため亡くなった。

1875~1961 カール・グスタフ・ユングの治療法
精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。
フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906-13年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた
またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。
・ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。
ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。
晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。
ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。
ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。
能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。
夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している唯一の現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。
夢の分析はフロイトが既に重視していたことであったが、フロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
ユングはフロイトとの決別以後も治療を続けた。ただ、彼は人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的創造力を信頼した。
また、日本のユング心理学はその心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れたことでも知られている。

ユングの自伝
「私は存在したものの、成就したものの束である」

ユングも、その晩年にの臨死体験をしている。彼の場合は、「宇宙との一体感」を語っているわけではないが、自己への囚われや執着からの解放という点ではかなりはっきりとした自覚を持っている。
自伝『ユング自伝―思い出・夢・思想 』のなかで、69歳でのその体験をつぎのように語る。 (自伝は、全二巻に分かれており、この体験が語られるのは二巻目である
ユングは幼少期からかなり特異な体験をしています。牧師の子として生まれながら、伝統に染まったキリスト教徒としての生活には違和感を覚えていました。
また、
霊的な要素を強く有しており、そうした側面がユング心理学を形づくっていったことは間違いありません。子どものときから自分の中に二人の人格(スイス人の少年としてのNo.1と老賢者としてのNo.2)がいることを自覚しています。
幼少期からたびたび
象徴的な夢を見ており、それを詳細に記憶しています。自伝を書いたときすでにユングは80歳を超えていたわけですから、これほど鮮明にそれらの夢を覚えているのは驚くべきことです。
ユングの霊的な素養は母方から受け継いだもののようです。両親の結婚生活はあまりうまくいっていなかったと書いていますが、父は牧師でありながら、本当の意味での霊的な生活や信仰を体験として持っていたとは言い難かったようです
ユングが精神医学者になることを決意する契機となったのは、自宅で起こった霊的な現象でした。母の隣にあったテーブルがいきなり大きな音を発して割れたり、自宅の棚にしまわれていた鋼のナイフが砕けるという事件があったのです。こうした素養が彼を優秀な精神分析家にした面は少なくないと思われます。
69歳のときに心筋梗塞と脚の骨折によって臨死体験と思える経験をしています。地球をはなれ高みから見下ろしているユングを連れ戻すために、主治医が原初的形態としてやってきます。これで彼は生き返るのですが、そのことに不満を抱くと同時に主治医の命が危ないと危惧します。そして、間もなくその心配どおり主治医は亡くなるのです。
死後の生命」という章をもうけてそのことについても考察しています。死後の生活について、そういうものがあると欲しているわけではないが、それらは存在し、偏見によって抑圧しなければ、表現力を与えられると述べ、次のように言っています。
----批判的な合理性は、死後の世界についての考えを多くの神秘的な考えと共に、除去してしまったようである。これは、現代では殆どの人が、自分意識を同一視し、自分について自ら知っていることのみが自分であると考えているためにこそ、生じたことである。
しかし、このような知識がいかに限定されたものであるかは、心理学を生かじりしたものでさえ明らかである。合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。
しかし、多くのことが未だに見出されるだろうに、それを、われわれの現在の限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ
1875~1965

アルベルト・シュヴァイツァー
・ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。
・30歳の時、医療伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている。「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれている。
・他に音楽にも精通し、バッハ研究でも有名。
・20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。彼は生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。
・1875年に当時、ドイツ帝国領だったカイザースベルク、(現在のフランス領アルザス・オー=ラン県のケゼルスベール)で牧師の子として生まれる。
・当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類であった。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をして、相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」と叫んだ。これを聞て心に激しい衝撃を受け、「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」と、子供心に本気で苦悩したというこの時に抱いた苦悩こそ、その後の彼の一生を決定付ける重要な出来事であった。
・7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。ストラスブール大学で、神学博士・哲学博士を取得する。哲学博士の論文は『カントの宗教哲学』であった。
・21歳の時、「30歳までは芸術と科学を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意して、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に学ぶ。これは、キリストが30歳から布教活動を始めたという故事に倣ったものであった。
・38歳の時に医学博士を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。
・41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュヴァイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。
・保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。
・第二次世界大戦後は広島と長崎に原子爆弾を落とされたのを知り、核問題を中心に反戦運動を展開。1953年には、ノーベル平和賞を受賞する。
・晩年もランバレネにおいて医療活動を展開していた。
・1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。
・思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも日本語訳あり)があるが、いずれも一級の研究書として、研究者らに受け入れられている。
・神学者としての著作の『イエス伝』は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価が高い。
・他にゲーテやインド思想などにも言及しており、なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。
・その一方で、一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュヴァイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない
自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実である。現に、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため、アフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義・侵略戦争・植民地支配のシンボルと見なしている者も少なくない。とはいえ、「黒人は人間ではない」と見なして露骨に差別・排除する習慣が当たり前であった当時のヨーロッパ全体の風潮と比較すれば、曲がりなりにも白人と黒人を「兄弟」として位置付けていたシュバイツァーの思想はそれなりに進歩的だったとも言える。

19~20世紀

チャネリング (channeling) とは、常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の存在・神・死者(霊界人)・未来人・宇宙人など)から、特別な能力によって情報を交信することチャネリングを行う霊媒者をチャネラーと呼ぶ。シャーマニズムの一種。
古代の多くの聖典と呼ばれる書物は、チャネリングによって書かれたともいわれている。チャネリングは瞑想状態(変性意識状態)で行うことが多いが、それは限定条件ではなく、通常の意識状態でも可能とされる。日本では特にバシャールや神との対話が知られる。また、これを行う人物としてエドガー・ケイシーが知られる。
19世紀から20世紀に掛けてイギリスを中心に西洋諸国に普及したスピリチュアリズムでは、シルバーバーチ、ホワイトイーグルが知られている。チャネラーとして、モーリス・バーバネル、グレース・クックなどが存在した。

スピリチュアリズム
これは新しい時代の科学だった、少なくとも科学の仲間入りをしようとした、ということである。19世紀の科学の誕生と発展を抜きにしては考えることが出来ないことだ。
ナンダ・フォダーは彼の『心霊科学事典』の中の「スピリチュアリズム」の項で、スピリチュアリズムの最も簡潔な定義はかつて全米スピリチュアリスト連盟が採択した「スピリチュアリズムとは、霊媒が霊界の住人たちとの交信によって一般に提供した事実に基づく科学、哲学、宗教である。」と真っ先に「科学」を挙げている。さらに「スピリチュアリズムが『科学』になるのは、霊媒によって提供される事実や幽霊やポルターガイストなどの自然発生的霊現象を調査し、分析し、分類するからである」と言う。…スピリチュアリズムの誕生が当時発展途上にあった科学(特に物理学と化学)と密接に結びついたことは疑いのないことである。
叩音(…)と共に霊界からの通信が送られてきたというのは、当時始まったばかりのモールス符合による電信になんとよく似ていることだろう。実際霊媒たちが叩音と共に降霊会を始め、「叩音霊媒」という名さえもらったのはこの頃だけで、今ではほとんど稀な現象である。また、科学実験の対象として有名な人体や物品の空中浮揚や幽霊の出現などのいわゆる「物理現象」が盛んに起こったのもD・D・ホームが活躍した1850年代~70年代にかけての初期の頃である。
彼らはなぜ夢中になったのか。
人間はどこから来てどこへ行くのか、という今まで人類が解けなっかた疑問を解決する鍵になるかもしれない」とスピリチュアリズムに期待した…。
30年もの研究の後で言ったシャルル・リシェの言葉を借りれば
私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである
しかもこの言葉を理解するのに現代まで一世紀以上の歳月がかかっている。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P209~

スピリチュアリズムとキリスト教
微妙な関係にある。当時の思想的危機は今日の人間の想像を上回るものだったと思われる。唯物論が盛んになって、今まで平穏だったキリスト教社会を揺るがせ始めたのだ。唯物論を推進した最大の原動力は進化論だった。…。それに加えて『共産党宣言』や『資本論』の発表…世はまさに唯物思想一色になるのではないかと思われた。これに真っ向から立ち向かったのがスピリチュアリズムである。
人間の魂は肉体とは異なり霊界に根拠を持ち、霊的に進化したものだという考えは、同じ「進化論」でも根本的に違う。
一方スピリチュアリズムはキリスト教会に不満を抱くものの福音ともなった。その最大の理由は神の罰が無いことである。
スピリチュアリズムの説く死後の世界では同じ考えや好みを持つ者同士が集まって社会を作る。…。人間同士が地上の思いを死後まで引きずってきて自分で作り出す因果応報の世界なのである。したがって「最後の裁判」のような神の怒りと罰などは無い。神は常に愛の心を持って人間を救おうとしているというのがスピリチュアリズムの霊界である。
死後の世界でも人間はすべて自分に責任を持たねばならない。神の指図ではなく、自分の考えと行為とが霊界における自分の立場を決める。その人間の魂の精進によってより高い世界に行くことが出来るので、神の世界に近づこうと永遠に努力を続ける。これがスピリチュアリズムの「進化論」である。
ナンダ・フォダーは『心霊科学事典』の「スピリチュアリズム」の項でコナン・ドイルの次の言葉を引用している。
スピリチュアリズムはどの宗教の中にも入って行けない者のための宗教である。
どの宗教を信じていても、その信仰を強める働きがある。

1891 二宮 尊徳(にのみや そんとく)
天明7年(1787年) - 安政3年1856年)没後の1891年に従4位が追贈された。
    精神的心霊現象の時代へ  
1891~1892 ユーサピア・パラディーノとダミアニ夫人とキアイア博士とチェザーレ・ロンブローゾ
ユーサピア・パラディーノはナポリ在住の女性霊媒
それまでに著名になったのは主としてイギリスとアメリカだった。
キアイア博士から手紙をもらった犯罪心理学者のチェザーレ・ロンブローゾが数人の科学者と共にナポリを訪れ、ユーサピアの霊能を調査。
「彼女はインドのゴム人形のように奇妙な人体部分を作り出す新種の自動創生装置です。いったい彼女には幾つ手足があるのでしょう。…」

彼女をめぐって17回にも及ぶさらに大掛かりな実験が行なわれた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P149~
1849~

~1892~

~1912
ウィリアム・トーマス・ステッド
ステッドは、イギリスの著名なジャーナリスト。
その彼が1892年、自分に自動書記の能力があることに気がつく。
その後、彼はスピリチュアリストとしての人生を歩むようになる。
霊媒としての彼の傑作は、死去した仕事仲間の友人ジュリア・エイムスからの霊界通信を編集した著書、『ジュリアからの音信』がよく知られている。
1893年、彼は自分がスピリチュアリズムを信奉していることを公の場で告白した。
それに先立つ1883年、彼は自身で創刊した『レビュー・オブ・レビュー』誌の中で、大西洋の氷山に大型定期船が衝突して沈没するという作品を書いている。
1909年、故ジュリアからの要望として、霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる。
その29年後の1912年、その記事がまさに予言となったようなタイタニック号の沈没事故が起きた。ステッドはニューヨークのカーネギーホールへ招かれて講演するためにタイタニック号に乗船していた。そしてタイタニック号とともに大西洋に没することになった。
「ジュリア顕幽連絡局」は資金難で一時中断するが、1914年にステッドの友人の支援で「ステッド局」として再開した。
死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もし、1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがあるという。
その後、ステッドは霊界から、ウッドマンという霊能者を通じて娘のエステルに通信(自動書記)を送ってきた。彼自身の他界直後の状況や幽界の様子がリアルに伝えられている。それが『ブルーアイランド』として出版され大反響を巻き起こした。
1936年に故ステッドの要望により「ステッド局」を廃止。
スピリチュアリズム普及会(旧・心の道場)第1公式サイトより
ジュリアからの音信
『レビュー・オブ・レビュー』誌
『ブルーアイランド』
1892~ 地質学者のアルベルト・ハイムと臨死体験の研究
というのは、欧米では登山時の事故で自身が臨死体験したことをきっかけに研究を行い1892年に発表し先鞭をつけた。
その後、アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが1918年に、
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に、
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが1926年に、
それぞれ無関係に研究を発表したものの、その後1970年代までは(ごくわずかの例外を除いて)研究は途絶えた。
⇒エリザベス・キューブラー・ロスやレイモンド・ムーディへ
本居宣長と山岡鉄舟
晴れてよし、くもりてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり
1890年代
~1900年代

シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)⇒1910年代へ
・「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。
・1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。
ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ドイツのナチスに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」とも呼ばれている。
・この文書は1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている。
そして、1890年代末から1900年代初めにかけてロシア帝国内務省警察部警備局により捏造されたとする説が有力である。
1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死したため(実は原因は伝染病)、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。
・ロシア革命によって、日本を含め世界中にこの文書は広がった。一般人だけでなく、ヒトラーやヘンリー・フォードなどもこの文書を熱狂的に支持した。ロシアではソビエト時代になると発禁本とされた。
⇒日本への影響は1918年へ

1892年(明治25年)~ 出口なおと大本(おおもと)教
出口なお
に降りた国祖・国之常立神の神示を立教の原点とする教派神道系の教団⇒出口王仁三郎
明治25年(1892年)2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」と呼ばれるものへとなって行く
大正5年(1916年)10月の神島参拝で、出口なおの筆先に「未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊・・・」という神示があり、これによって出口なおは、婿養子の上田こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る。
教団では、この時を境に未見真実から見真実となったと言われているが、なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある。 出口王仁三郎-『伊都能売神諭』

大本神諭(おおもとしんゆ)
お筆先を編集した文書集 1892年(明治25年)、現在の住居表示で言うところの京都府綾部市本宮町に住む女性、出口なおに、艮の金神(うしとらのこんじん)という男性の神格を表す高次の神霊が神懸りし、出口なおに筆と紙をもたせ、その神霊が出口なおの身体を駆使して文字を記していくという現象自動書記があったと伝えられている。その量は膨大であり、半紙にて5万枚以上にも及んだと伝えられている。
当時、行政当局により宗教法人設立が厳しく監視され制限されていたので、出口なおは一時同じく神道であるところの金光教の地方教会の世話になり、名を借りて活動を進めていた時代があったと記録されている。
その後、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が活動を補佐するようになって組織的に発展していった。宗教法人大本(以下、大本と略す)では、このとき書かれたものをお筆先と称して、大本の最高聖典となって残されている。
大本神諭は非常に疑問の多い文書である。この文書は実際、出口王仁三郎のみにしか、筆先の編集作成は出来ないとされていたにも関わらず、海軍出身の浅野和三郎が筆先から神諭への編纂に携わったという逸話もあり、その真偽が問われている。浅野和三郎が編纂した箇所がどの部分で、どれだけの量、またはどれだけのパーセンテージで編纂したのかは正確に判明していない。つまり、それは大本神諭が艮の金神を含めた神霊たちのそれであるという確証は薄らいでくることを意味している。
また、出口王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である出口王仁三郎も疑問に満ちたことを発言している。 『年月日と組立等を、開祖なおに尋(たず)ね乍(なが)ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』
ということを大正8年、京都府警に発言しているが、この発言自体が物議を醸している。
神諭は筆先がベースであるとは公然として発表されることでありながらも、この発言内容をみると出口王仁三郎の創作であるという可能性も浮上してきており、大本にとっては大本神諭の存在意義そのものが疑問視される。

~1893 フォックス姉妹晩年のスキャンダルと3姉妹の死、そして『スピリチュアリズムに対する死の一撃』
長女リーをはじめとしてケイト、マーガレットと続いて他界した。
ナンダ・フォダーによれば死の床にあったマーガレットを看取った女性医師の証言が1905年のニューヨーク法医学会の会合であったそうで、手も足ももはや動かすことのできぬマーガレットの霊界への問いかけに対して天井から、壁から、叩音が鳴り続けたという。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P199~
1896 宮沢賢治と三度の大地震
宮沢賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。
誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。

1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。
死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。
誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。
地震直後に詩人の大木実へあてた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。
1879.12.30~
1896.6.17
~1950.4.14

ラマナ・マハルシ
・南インドのタミル・ナードゥ州のマドゥライ市のティルチュリ村で生まれる。
ヴェンカタラマン・アイヤル
と名付けられる。生家は現在、父の名スンダラム・アイヤルにちなみスンダラ・マンディランと名づけられ、聖なる場所として残されている。
・1896年6月17日、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、肉体を自分とみなすエゴとしての「私」が消え、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(アートマン)または真実(理)こそが私であると悟る。
・土日ごとに寺院を訪れ、熱烈な宗教的な喜びをもって寺院の周りを回る敬けんな性格であったが、特別に宗教的な書籍に親しんだり、瞑想などの修練をしたことはなかった。
・同年8月末、巡礼都市であるティルバンナーマライの古来よりシヴァ神の顕現とされるアルナーチャラの丘に呼ばれるように家を出て、生涯をアルナーチャラから離れることはなかった。ティルバンナーマライに来た当初、沈黙を守っていたが、自然とその存在は知られるようになり、次第に多くの人々が訪れるようになった。
・ラマナ・マハルシという名前は、1907年ごろに訪問したガナパティ・サストリによって命名され、以後広まった。最初の頃は、アルナーチャラの周辺にある寺院や洞穴に住んでいたが、1922年12月ごろから、アルナーチャラのふもとにある、母親のアルガンマルのお墓がある場所に定住し、そこが現在のラマナ・アシュラムに発展した。
・午後8時ごろに死去。亡骸はサマーディ・ホールの地下に安置されている。現在のアシュラムはマハルシの実弟の孫にあたるV.S.ラマナンにより管理されており、世界各国から訪問する信奉者を受け入れている。
・マハルシの教えは、不二元論にたどれるが、自身は何らかの思想や哲学を教えているという思いはなく、ただ自らの体験を語っていた
難解な聖典の教え
を、その本質を把握して明確に説明することができ、数多くの質問者の疑問を晴らした。
・言葉での教えより、モウナ(沈黙、静寂)こそが最も力を持っているとたびたび語っている。ここでの、モウナは単に言葉を発っさないことではなく、こころがその源(真我)に溶けこみ、別に存在していない在り方を意味している。
・マハルシは、モウナは「永遠の雄弁」であると表現し、言葉を発することはその力の妨げになると言っている。実際に、マハルシに会いに来た人が、目と目を合わせるだけでこころが落ち着き、今まで味わったことのない幸福感に包まれたというような話が、マハルシとの思い出を収録した『FACE TO FACE WITH SRI RAMANA MAHARSHI』などの本の中でよく語られている。(Wikipediaの写真を見て納得!!)
・「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、エゴが消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我こそ私であると悟る。これは、ヴィチャーラ・マッガ(探求の道)またはジニャーナ・マッガ(知恵の道)と呼ばれる。この悟りは、常に自らが真我であることに気づくことであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。探求は、真我を見えなくしている障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。
マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議とあらわしている。
・悟りへのまっすぐなもうひとつの道として、バクティ(献身、帰依)も教えている(バクティ・マッガ)。バクティは神などの至高の存在に自分自身を明け渡す(委ねる)ことである。その達成において、自分自身の欲望は完全に消える。バクティとジニャーナには優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質による。マハルシは、バクティはジニャーナの母という表現をしている。ちなみに、神・師(グル)・真我は同じものの異なる呼び名である。
・他の修行の道を否定せず、自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。『ウパデーサ・マンジャリ(英:Spiritual Instruction)』のなかでストゥーティ、ジャパ、ディアーナ、ヨーガ(プラーナーヤーマ)などが説明されている。それらの伝統的な修練でつちかった一点への集中力は、真我の探求を容易にする。
・マハルシは、真我を悟るために、大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。今世で修練なくして悟ったものは、前世ですでに必要な修練を終えているからである。
・悟るための助けになるものとして菜食(ニンニクなどは除く)を最も優れたものとして勧めている。菜食により、心に落ち着き(サットヴァ)の性質が増す。
・マハルシの教えは、ヨーガの一種として、ジニャーナ・ヨーガとあらわされることもある。ジニャーナは、「Knowledge」と英訳され、日本語では「知識」や「知恵」となる。このジニャーナは主体(私)が対象を知ることで得られる相対的な知識とは異なり、主体と対象という二元性を越える「真我もしくは神以外何も存在しない。私や私のものは存在しない」という体験的知識である。この絶対的な知識も含め、すべての知識は最終的に放棄される。絶対的な知識は無知を破ることで役目を終える。
・アシュラムの周りに住む動物にたいして優しく接していた。アシュラムの敷地内には現在もマハルシが作らせた鹿、カラス、犬、牛のお墓が大切に残されている。アシュラムで飼っていた牛のラクシュミが亡くなった際、マハルシはラクシュミは真我を悟ったという内容の詩をうたった。
・聖者として特別扱いされることを好まず、平等を重視していた。食事のお布施のある場合は、かならず皆で平等に分配し、特別に自分だけに用意された食べ物は受け取らなかった。自分の食事が人より多く盛られているのに気付くと、厳しくしかった。医療もアシュラムに住む人が自分と同じ扱いを受けられるようになってはじめて、受けるようになった。
・キリスト教やイスラム教をはじめとする様々な宗教・宗派にたいして非常に寛容であり、宗教間の優劣を説かず、それぞれに通底する真理を説いた。対話しに来た相手の信仰を傷つけないで導くよう配慮していた。

189712.4~1963

岡本天明と日月神示(ひつきしんじ)
・神典研究家で画家
・日月神示は明治30年12月4日~1963年(昭和38年)4月7日に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊より自動書記によって降ろされたとされる神示、神典である。原文はほとんどが漢数字、かな文字、記号の混じった文体で構成され抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。
・その難解さから当初は書記した天明自身もほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者の協力などで少しづつ解読が進み天明亡き後も妻である岡本三典、1917年(大正6年)11月9日-2009年(平成21年)6月23日の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われている。
しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれている箇所もあり解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的で、その為に仮訳という副題を添えての発表も有った。
・日月神示の構成は本巻38巻と補巻1巻の計39巻から成る。
・別名「ひふみ神示」または、「一二三神示」とも呼ばれる。
・上記の他にも神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻有り、天明は「これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかった。
・1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになった。
三千世界の大洗濯と大峠
神示には過去にも世の建替は6度あったとあり、今後に起こるとされる大建替で7度目だという。そして、これが最後なのだとも書記されている
過去6度のそれぞれについてはその全てが現界のみの建替でしかなかった為に、すぐに元に戻り根本的な大建替にはならなかったのだという。そして、今後に起こるとされる大建替では過去にあったそれらとは全く異なり、この現界はもちろんの事、神界、霊界、幽界等も含めた全ての世界に起こり、天明が最初に麻賀多神社の社務所で書記させられたように、文字通りこの世始まって二度とない苦労になるのだとされる。

中矢伸一
1900
心霊研究の黄金時代終わる
SPR初代会長ヘンリー・シジウイック死去
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
   心霊研究の黄金時代終わる  
1900  北シベリアのベレゾフカ川岸でマンモス発見!!
されたという通報を受け、1901年5月3日、ロシア科学アカデミーの動物学者オットー・ヘルツとオイゲン・ピッツェンマイヤーらはペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)を出発した。鉄道で5月14日にイルクーツク、6月14日に馬車と舟でヤクーツクに、9月9日に現地に到着した。
マンモスは腐敗するも残存した頭蓋骨と地中に埋没した下半身という半ば立ち上がった姿勢をしていた。これを運搬用に解体し、1902年2月18日に帰還した。復元された標本はベレゾフカのマンモスと呼ばれ、皇帝・ニコライ2世とアレクサンドラ皇后も見学した。 
 ⇒2012.10月へ
1900 ヘレン・ケラー
ラドクリフ大学(現ハーバード大学)へ入学。
Life is either a daring adventure or nothing.「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か」

・ヘレン・ケラーにスウェーデンボルグを紹介したのは「ジョン・ヒッツ」という人物である(故鳥田四郎牧師はジョン・ヒッツを「牧師」と呼んでおられるが、彼が牧師であったかどうかは定かでないことから、敬称を省略する)。ちなみに、このヒッツという人物、ヘレン・ケラーの伝記類のほとんどに登場してこない。唯一『世界の伝記42 ヘレン・ケラー』(山主敏子著 ぎょうせい)にその関係が書かれていた。本書を参考にヘレン・ケラーがスウェーデンボルグを知る経緯について要約して紹介する。
・幼い頃からヘレンは、この世のすべてのものを創造したのは誰だろうという疑問を持っていた。それに対してサリバンは、「母なる自然が創った」と話して聞かせていた。最初はそれで納得していたヘレンであったが、自ら手に触れるものには「みんな生命がある」と感じ、創造主に対する好奇心は増すばかりであった。そして神について考えるようになり、フィリップス・ブルックスという神父から「神は愛なり」というキリスト教の教えを学んだ。しかしそれでもヘレンは神の愛と「物質世界」との関係がはっきりつかめずにいた。そんな時、ヘレンはジョン・ヒッツに出会うのである。十三歳の時であった。これから先のエピソードは『世界の伝記』からそのまま紹介する。
・ヘレンはこの人から、スウェーデンボルグの『天国と地獄』という本を貰って読み、すっかりその思想に魅せられて、スウェーデンボルグの考え方をもっと研究したいと思い、ヒッツに頼んだ。ヒッツはヘレンの役に立ちそうなものを点字に打って、送ってくれた。
・ともあれヘレンは彼の宗教書にすっかり心酔してしまった。彼女は自分もまた霊的な体験を持ったと信じ、それをサリバンに語ったこともある。日本スウェーデンボルグ協会 HPより

『天国と地獄』
 ~
1900~
1945
カール・オーガスト・ウィックランド博士と心霊治療
スウェーデン生まれの米国精神科医。妻アンナを霊媒とし、霊界の医療団(Mercy Band マーシーバンド)とともに精神病の治療を行った。
・ダラム医科大学で精神医学を専攻して1900年に卒業。
1909-18年には国立シカゴ精神病学会の会長を務め、その後ロサンジェルスに移住し、国立精神病学会の研究機関で精神科医として働いた。
・ウィックランド博士が心霊現象に興味を持つようになったきっかけは患者だった。
・心霊現象を調べるため交霊会に出席するうちに、妻のアンナに優れた霊媒能力があることがわかり、やがて妻を通して、霊界の医療団から治療に協力するよう要請を受ける。
人間に憑依した霊は混乱した精神状態にあり、感覚的にも地上人に近く、霊界の医療団を見たり声を聞いたりできず、治療を受けることもできない。そのため、一度博士の妻の体を借りて霊を説得する必要があるという。
・治療ではまずアンナが霊の憑依を確認し、博士たちが患者に軽い電気ショックを与えて、憑依している霊をアンナに乗り移らせた。次に博士が霊に状況を説明し、自分の肉体の死を認めるようにもっていった
・次に、霊の生前の様子を聞いて問題点をはっきりさせ、それを乗り越えて霊界に行くよう説得する。
・霊が納得して霊界に向かう気が起きると、霊界の医療団の協力で家族が迎えに来たり、霊が自ら離れて行ったりして「除霊」が完了する。(⇒※モンロー研で学んだ人々と魂の救出の方法と酷似)
・治療が終了し、霊が離れると、患者は生来の人格を取り戻した。患者によっては多数の霊が憑依しているため、数回にわたる治療が行われた。また、どうしても説得に応じない霊は、霊界の医療団が隔離し、特別に治療したらしい。
・狂信的な宗教者に間違った信仰を教え込まれた者や、わがまま一杯に育った青年、麻薬中毒患者などの例が挙げられている。
⇒『神科医ウィックランド博士の迷える霊との対話―精神病を除霊で治した医師の30年 スピリチュアリズムによる人類への警告』1993/8
1877~
1901~
1945
エドガー・ケーシー(アメリカ)
・7・8歳の頃-両親に”人の姿をした幻”を見たり、彼らと話したりすることができると話している。最近死んだばかりの親戚が現れて彼の生まれる前に起こった事柄を教えてくれたと言って両親を面食らわせることもあった(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P22~)
・9歳の頃、ついに父親は息子に新品の聖書を買い与えた。…
祈る機会さえあれば「病人を癒す機会が与えられますように」と少年は神に訴えかけた。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P22)
・13.4才のころに「神がもし自分のことをちゃんと見守ってくれているのなら、その証を示してください。」「これこそ神の愛の表れにほかならないというようなことを、人々のために、自分ができるようになりますように」と祈っていたという。⇒この祈りの最中に最初の不思議が起きる
いつもの隠れ家で聖書の「マノアの夢想」を読んでいると、突然ハミングが聞こえ、…光輝く姿※女性が見えた。「汝の祈りは聞き届けられた。汝は何を欲するのか
敬虔な気持ちで答えた。
病気の人々、とりわけ病気の子どもたちの助けとなることを。また、仲間たち、人々を愛することを……
後に彼は「汝が正しく力を使う限り、人助けをするための力が与えられるだろうと、そのとき告げられた」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P24~)
・1901年3月31日父母の見守る中で催眠術の暗示を受けて自分の声を取り戻すための治療法を試した。アラン・レインという催眠術師も立会い、声が戻った。このことがホプキンスビルの新聞に報道された。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P28~)
・彼の得意とする手法はリーディング
まず、彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識を引き出す。
次に、それに基づいて個人の体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。彼のリーディングの(速記等の)記録は約14000件(1901~1944年の間に全16000件以上)にもおよび、米国のAssociation for Research and Enlightenmentで利用可能な状態で保管されている。彼の表層意識が答えているわけではないので、予言者というより、治療者・回答者であるとされる。
そして、未来のことは確定しているわけではなく、人の意思にかかっているときっぱり言い切っている。「眠れる心霊診断家」。

第二次世界大戦の勃発と終戦をズバリ予告
もし人々が祈り、また祈ったように生きるならば、無事に過ぎるだろう」という神の声であったが、その声は人々には届かなかった。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P34~)

1910.8.10娘を助けてもらったもののお金を受け取らないケイシーに対し、C.H.ディートリッヒは感謝の気持ちを公証人作成の口述書にすることにした。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P69~)

この仕事(リーディングのこと)の動機が邪悪な場合は、逆にエドガー・ケイシーの肉体は危険にさらされることになるというのだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P74)

ケイシーはリーディングが本当に神の意志に従うことなのか、自分が本当に神の意志を伝えるに相応しい人物なのか、という問題について、生涯、疑問や不安を持ち続けていたが、家族にふりかかった問題を解決したときには、無条件に自分の幸運に感謝した。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P77)

近年彼の方法でALS、リウマチ、MS、エイズ、パーキンソン病、がんなど難病を治癒した人が何人も出てきている。また、彼の方法を利用しがんなどの手当てをしている療法に、ホクシー療法がある。この彼が言った心、体、魂を治し健康な体と精神をこの世に存在させる療法をケイシー療法と呼び、それを応用しているクリニックも米国にある(AREクリニック)。

ケンタッキー州ホプキンスビル出身。 幼少期より予言を行い始める。 保険のセールスをしていたが、咽頭をこわし、会話がままならなくなり写真家に転向。 ノストラダムスジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われているようだが、彼の予言者的な部分は一部分であり、半数以上が病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるもので自己治療に貢献している。

ケイシーの勧める物理療法は大きく分けて4つ。ケイシーの死後もレイリーがそのリーディングを研究。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P140~)

1923年にオハイオ州に住む裕福な印刷会社の経営者アーサー・ラマーズが「人生の意味はそもそも何なのか?個人の才能や欠陥、罪や徳は一体どうして現れるのか?生まれたときから死ぬときまで、人間に不平等がついて回るのはどうしてなのか?…」これがのちの2500件にのぼるライフ・リーディングとよばれるものの始まりとなった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P88~)

1923.8.10アーサー・ラマーズの依頼を受け、「生まれ変わり」の事実を語っている。
リーディングができるようになったのは”神の意志”によると考える以上、それぞれの時点ではどんなに”常識”に反するように感じられたとしても、謙虚な気持ちで受け止めるべきであるという結論を彼は出していた。このエドガー・ケイシーの大決心によってわれわれは人類誕生の謎も、現代の人類が抱える危機をも知ることができたわけである。
リーディングによれば、すべての人間は、利己的な心を捨て、自分より不幸な人を助けたいという気持ちを持ち続けることによってのみ、自分の可能性をフルに開花させることができるというのである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P145~)

1936.6庭園を耕していて真昼の幻影を見、書斎にこもり、何時間も後に姿を見せたケイシーは第二次世界大戦が近づき、何百万人もの死者が出る兆候があったと説明した。それは、意識のある彼に対する神からの緊急メッセージだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P102~)

1936年
地球が神の地上として真理で満たされた時代に、この肉体、エドガー・ケイシーは復活され、浄化され、解放されよう。」つまり、この時こそケイシーはこの物質現象界へ輪廻転生してくる必要性から解放される。

ケイシーと妻と秘書の3人が医師の資格がないのに医療行為をしたとしてデトロイト警察に逮捕され、判決が出た夜に夢を見た。
汝の同胞になすことは、汝が汝の神と汝自身になすことであるゆえ、汝が自我を捨てて他人に尽くすなら、神は汝に栄光を与え、汝の行為と汝の同胞との関係において『解放者』としての資格を与えるだろう。忘れぬように心せよ。どんな裁きの時も、誘惑の時も、神は常に汝の側におられることを。また、汝が滅びることを望んではおられないことを。意志を強く持て。神は常に汝とともにおられる。恐れてはならない

すべての結果には原因がある。
もし、人が現在の自分の考えや行為は、前世の代償を払わされているのだと感じたとしたら、カルマの法則に諦めを感じるのではなく、将来(来世)のために正しい生き方をしようという勇気が湧いてくるに違いない。
カルマの法則の目的は、モラルを高め、精神的な成長を助けることにある。
カルマは”生きる条件”を作り出しはするが、そこから自分に相応しいものを選択して行動に移すのは人間の意志である。その意志の力によって、その霊魂が前世で作り出したカルマ的パターンも変えることができる。
カルマには各集団に共通なものがある。民族・人種にもカルマがある。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P158~)

宇宙に最初に存在したのは唯一の精神(スピリット)であった。心の力、生命のエネルギーの巨大な海が全宇宙のすみずみにまでいきわたっていた。それは全知全能で、すべての根源であった。「宇宙の力」「すべてのもの」「生命のエッセンス」--こうした言葉で表されるものが永遠の神であり宇宙と人間生成の「第一原因」※意識)であった。
「第二原因」は願望※意思)であった。精神は活動し、自分自身を自分の外へ発展させることで個々の生命のうごめきを示し、いろいろな形に自分を現す。この生命の震えの中にアミリウス=光が生まれた。光こそ、精神が最初に形をとって自己を現したものである。…
最初の創造物は”考え”である。
光は自由な意志理性を付与されていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P168~)

すべての物質は精神を持ち、その精神は、創造者と別だとはいえ、創造者の意志を体現したものであった。
創造の力は宇宙全体に及んでいる。
第一の法則は愛。
第二の法則は繁殖。
第三の法則は進化、成長、発展

意識のレベルとして3つのものを生み出した。
第一の意識
第二に潜在意識⇒記憶の貯蔵庫、第一と第三の意識の架け橋となる。
第三に超意識⇒魂そのものとつながる
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P171~)

現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。
核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。
人類のカルマ神のカルマ
「…。神が障害を取り除いてくださるかもしれない。それはあなたが信仰、愛、忍耐、親切、柔和を持った時である」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P184~)

1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)

「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。
ライフ・リーディングは2500件を数え…、…ありとあらゆるテーマについてリーディングを与え、トータルでおよそ50000ページ近くの資料が今に残されている。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P29)

宇宙について
ケイシーの説く輪廻転生によると、私たちは死後それまでの霊的成長に応じて、また次回の転生に必要な精神的特性を培うために、ほとんどの人は太陽系内のいくつかの惑星に霊的次元において滞在する。これは太陽系内のそれぞれの惑星が、魂の成長にとって必要な学びの場を提供してくれるためである。
現代に生きる私たちは、平均すると数十年から数百年の周期で生まれ変わっている。 この転生期に、私たちは平均して4つくらいの惑星に滞在するという。 ただし、この惑星滞在はあくまで霊的次元の話であって、肉体をもって各惑星で生活しているわけではない。 『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』より
エドガー・ケーシー
奇跡の生涯

エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について
1901.10.2 明治34年I.A.メモリアルデー  
1901 マイヤース、病死
人間の意識顕在と潜在(サブリミナル)とに分けて考察した最初の一人。
複数潜在意識説⇒1903年に遺著『人間個性とその死後の存在』出版
『人間個性とその死後の存在』
1901

ミルトン・エリクソンMilton H〔yland〕 Erickson,
催眠療法家として知られる精神科医、心理学者。 彼はアメリカ臨床催眠学会の創始者で、初代会長も勤めた。アメリカ精神療法協会、アメリカ心理学会、アメリカ精神病理学会などのメンバー。晩年は催眠の臨床性・実践性向上のため、精力的にワークショップを開き世界各国を行脚した。にもかかわらず、日本への訪問は3度目のポリオ発病のため、ついにかなわなかった。そのため、日本人で彼の教えを受けた人間は高石昇、柴田出など数少ない。

1905 ポーツマス条約と小村寿太郎
1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議ポーツマス会議ポーツマス講和会議と呼ぶ。
1905

シャルル・ロベール・リシェ(Charles Robert Richet)はフランスの生理学者。
1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父、心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の会長もつとめている。
1893年には話題になっていたイタリア人霊媒エウサビア・パラディーノを調査する過程で、ギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせて「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。
・晩年の感想-
私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである。」『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P25

1905  特殊相対性理論
アルベルト・アインシュタイン
が発表
慣性系に対する電磁気学および力学の理論である。特殊相対論と呼ばれる事もある。
 
1906 地球の平均気温上昇問題が始まっていた。
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0220a/start.html
1902~1925 ルドルフ・シュタイナー-神秘学など(ドイツ)
20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた
アントロポゾフィー(人智学)発展の第一段階 1902~1909
1900年代からは神秘的な結社「神智学協会」に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。
「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同会を脱退。
自ら「人智学協会」を設立した。「アントロポゾフィー」(人智学)という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。
シュタイナー教育バイオダイナミック農法
アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
晩年 1924-1925
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。
また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う。(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後のは人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)いかにして高次の世界を認識するか
『いかにして超感覚的世界の
認識を獲得するか』
いかにして高次の世界を認識するか』 
1904.2.8~1905.9.5
日露戦争
日露戦争ロスチャイルド家
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争
日本が戦争を行う際、膨大な戦費をまかなうため日英同盟を根拠にして外貨建て国債をロンドンで発行した。当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を断わったが、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフを紹介した。そして、氏が支援を申し出たため、外債募集に成功した。
日本は戦争に勝ったがロシアから賠償金を獲得できず、ジェイコブ・シフに金利を払い続けた。この為に、「日露戦争で最も利益を得たのはジェイコブ・シフ」と言われ、一時はジョン・モルガンのモルガン財閥と並立する存在になった。
バクー油田
一方で、ロスチャイルド家はロシアの石油開発に巨額の投資を行っていた。
バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭には、世界の石油生産の過半を占めた。
この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼルバイジャン人やアルメニア人の政治・経済・文化活動の中心となった。

アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『ノーベル兄弟石油会社』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。
この活況は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧まで続いた。
1904~81 オンム・セティ
本名をドロシー・ルイーズ・イーディーというイギリス人白人女性。
オンム・セティとは、「セティの母」という意味である。彼女は一度結婚し、セティという名の一人息子がいた。その息子の名は、3千年前の恋人、セティ1世からとられたものである。
彼女は、3歳の時に自宅の階段で転げ落ちて意識を失うという事故に見舞われた。かけつけた医師は、両親にドロシーの死亡を告げたが、奇跡的に息を吹き返したという。
この事故を契機に、古代エジプトのヴィジョンを見るようになる。
やがて自分が三千年前に、エジプトのアビドスの神殿の巫女であったこと、そして時のファラオのセティ1世と道ならぬ恋に落ち、彼の子を身ごもってしまい、巫女の身でありながら妊娠したことを追及され、相手の名前を告げることなく自殺したという事実を知ることになる。
さらに、三千年前の恋人であったファラオのセティ1世の霊と交友、対話するといった前世体験を、その死の時まで持ち続けたのである。 また、古代エジプトの宗教を信じ、三千年前と同じように、神殿に香や供物を捧げ続けたのである。
その晩年は、収入も財産もほとんどなく、質素な服をまとって、掘っ立て小屋でネコやガチョウと同居しながら送った オンム・セティの表の顔は、エジプト考古局の職員であり、ヒエログリフを解し、高度なドローイング技術を持ち、セティ一世神殿のレリーフの理解度の深さにおいて、エジプト学者たちから一目置かれる存在であった、という。 とはいえ、その生涯は、傍目には、決して幸福といえるものではなかったようだ。
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと
古代エジプトの謎』(学研)
1910 福来友吉が念写発見
四国、丸亀にて長尾郁子念写事件
1911  モーリス・メーテルリンクと『青い鳥』
最も大きな成功作は『青い鳥 (L'Oiseau bleu)』だった。
※2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。
1911年にノーベル文学賞を受賞。作品の主題は「死と生命の意味」だった。 
 
1912~ ウッドロウ・ウィルソン
第28代アメリカ合衆国大統領

後に、「果たしてウィルソンか?」http://www.books.x0.com/bunko/b14/b14t01.shtml
 
 
1912.4.14

タイタニック号
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。
犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(他に1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)であり、当時世界最悪の海難事故であった。
その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
事故の前に巨大船沈没の詩や小説が発表され、ウィリアム・T・ステッドはタイタニック号の乗客として事故死。短編小説『アドミラル号』が発表され、その細部があまりに一致していたため、事故後に書かれた小説だと勘違いされたほどだった。
予知的小説として、1898年に発表されたモーガン・ロバートソンの『タイタン号の遭難』が最も的中率が高いとされた。⇒モーガンは後にピストル自殺

タイタニック号のシンクロニティ」として数々の不思議な一致が起こっている。

1912
7/30~
 大正元年  
1914  ウィリアム・トーマス・ステッドと『邦題 ジュリアからの便り』
1914年、生前ステッドが受け取ったとしていた、ジュリアからの1895-1912年までの通信を After Death or Letters from Julia (邦題 死後-ジュリアからの便り)として娘のエステルが発表。
死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もしていたとされている。
1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがある。
ジュリアの音信』
1912?~
10年~
1922年9月
エステル・ステッドが『ブルーアイランド』出版
スピリチュアリズムが明かす死後の世界 エステル・ステッド著
1912年4月15日、英国の豪華客船“タイタニック号”が、その処女航海において北大西洋上で氷山と激突、2000余名の乗客のうち1500余名の生命とともに海の藻屑と消えました。父・ウィリアム・ステッドからの
自動書記による霊界通信
☆ 父から通信が届けられるまでの経緯
☆ まえがき(霊界のウィリアム・ステッドから)
1 章  タイタニック号の沈没直後
2 章  ブルーアイランドに到着
3 章  ブルーアイランドの建造物
4 章  ブルーアイランドの生活
5 章  良心の声
6 章  初めての地上界との交信
7 章  思念の力
8 章  霊界から要求したい条件
9 章  自由と摂理
10 章  予知現象の原理
11 章  実相の世界
12 章  “無限”への旅の始まり
13 章  個人的存在の彼方へ
☆ おしまいに  
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/blue-island.html
『ブルーアイランド』 

1912~1995
83才没
スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生)
・元キプロス政府印刷局の労働者だった男性
・スピリチュアリズムに関わる人々の間では「ザ・ヒーラー(世界一のヒーラー)」
・「20世紀における最も偉大な霊性の教師」と呼ばれ、最大限の尊敬を集めている人物。
・彼は生涯を通じて無償で多くの人々を癒し、無条件の愛を示し続けたヒーラーであり、霊的な真理を教え続けた教師でした。
・ダスカロスは1912年、キプロスという島国に生まれ、95年に亡くなるまで首都ニコシアにほど近い、ストロヴォロスで生活
・自分の名前が知られないように努めていた彼は生前から、周囲の人々にただ「ダスカロス」 ( ギリシャ語で「先生」を意味する ) と呼ばれていました。
幼少期から目に見えないガイドと会話し、またごく自然に他人の考えていることがわかった。卓越した意見を述べて大人を驚かせることも多く、小学校ですでに先生たちの学問上の問題を助けることもあった。
すべての過去生を覚えていて現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、トルコ語、ラテン語、ロシア語、英語、フランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラム語、そして古代エジプトの象形文字など数多くの言語に通じ、イギリスに留学した際には、哲学博士と神学博士その他の学位も取得している。
・キリストであるジョシュア・イマヌエルが生きていた時代に最年少の弟子だったダスカロスには、生涯を通じてヨハナン (福音書の著者であるヨハネ) が霊的なガイドとして連れ添っていた。
・立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生するなど、奇跡のようなヒーリングを行なうこともできた。しかし、ヒーリングは聖霊によってなされるもので自分はそのチャンネルにすぎないと考えるダスカロスは、大勢の人を癒しながら決して謝礼や治療費を受け取ることがなかったといいます。
・彼の家はそんな噂を聞きつけた人であふれ、時には一日に80人以上の人々が癒しを求めてやって来ることもありましたが、ダスカロスはどんな時も拒むことなく人々を受け入れ、“神聖なる計画”の一部である本人のカルマが許す限り、その人は必ず癒されたそうです。
彼が行なう驚異的なヒーリングを目にして「奇跡だ!」と騒ぎ立てる人も少なくありませんでしたが、そんな時、決まってダスカロスは「奇跡でも何でもない。自然の法則を知っていれば、誰にでもできることなんだ」と語り、また人々が感謝しようとすると、いつもこう言って遮りました。
私ではなく、神に感謝してください」と。
・世界中から様々な人々が教えを求めて訪れました(多くの著名な霊的リーダーたちが欧米から彼のもとを訪れました)。しかし、こうした“教え”に関しても、ダスカロスは「自分は単にヨハナンや他のマスターたちのチャンネルに過ぎない」と強調していました。
・また口ぐせのように「真理の探究者にとって、名声とは罠なんだ」と語り誰にも自分のことを書かせず、インタビューも受けつけませんでした。こうして彼は細心の注意を払って脚光を浴びる危険性を避けながら、83年の生涯を他者への愛に捧げ、市井の人として生きたのです。
・そんなダスカロスが、取材の申し出に「(ヒーリングや教えについて)私の手柄にしないという条件を守るなら」と名前を伏せて書くことを許可した唯一の相手、それが過去生からの縁があったキリアコス・マルキデスでした。アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)は85年に出版されると欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えました。
・ダスカロスは第一級の覚者であり、真のヒーラー魂の医師でしたが、中でも人生の関心事は周りの人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある人々の手助けをすることだったといいます。
・そのため、彼は定期的に「サークル」と呼ばれる勉強会を開き、“旅立つ準備のある人々”を対象に、自由な雰囲気の中で真理について、聖霊との共同作業であるヒーリングや精神修養の具体的な方法について、やはり無償で教えていたのです。
・このサークルは彼が亡くなった今も世界的に広がり、欧米を中心にたくさんのサークルが、ダスカロスの遺した著作や講義のテープやビデオを使っての自主学習を続けています(ヒーリング同様、天から受け取ったものは無償で与えるべき…、というダスカロスの教えに従って、これらのサークルも無償で運営されています)。
・また、生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めませんでした。それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからでしょう。
・ダスカロスは矮小化された、特定の宗教的イメージがつきまとう「神」という言葉も極力避け、“絶対無限の存在”という表現を好んで使っていました。真理の探究には宗教や民族の違いはもちろんのこと、時間や場所さえも超越した愛と理性、そして“神聖なる計画を理解することが重要だと、彼は考えていたのです。
・ダスカロスはよく、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思います。
・ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くうエゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めました。多くの人々にアピールする意識の覚醒、ヒーリングや霊的能力の修得といった華やかな表の部分ではなく、奥深く地道な ― だからこそ確かな力となる ― 真の霊的教えの実践を説いた教師、それがダスカロスだったのです。
・ダスカロスは7歳のときにヨハナンから<7つの約束>を授けられ、その導きによって自分の学校の先生たちを相手にサークルを始めたといいます。
 <7つの約束>を読むと厳しい戒律のような印象を受ける人がいるかもしれませんが、これは戒律でも、破ることが許されない誓いでもありません。ダスカロスはサークルに入門する生徒たちを「真理の探究者」(Researchers of Truth)と呼んで、7歳のときに自分が授けられたものを、彼らと分かち合いました。それは、真理の探究者ならば心に刻むべき“約束”、それが<7つの約束>だと考えたからなのでしょう。

ダスカロスは7歳の時に、指導霊であるヨハネから7つの約束をさせられます。
彼はその約束を生涯守り抜いたそうです。
7つの約束とは
1、いつどこにいても、私もその一部である絶対無限の存在に、心をこめて奉仕します。
2、いつどこにいても、私には神聖なる計画に奉仕する準備ができています。
3、いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖な贈り物」である
思考と言葉を正しく使います。
4、最も賢明なる神聖なる法則が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を言うことなく、忍耐を持って受け入れます。
5、私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意を持って兄弟姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。
6、私のあらゆる
思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に一致することを目的にして、毎日絶対無限の存在について瞑想し、熟考します。
7、私のあらゆる
思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか毎晩、確認します。

7つの約束>の中でも、とりわけダスカロスが重要性を強調したのが、7つめの約束である「内省」です。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも賞賛することもなく、第三者として客観的に点検する。不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる。これを習慣化することによって、
感情と思考をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、
それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは考えていたのです。

7番目のエクササイズ
日々の内省は毎晩、眠りにつく前の、潜在意識に入りやすいタイミングで行います。
ベッドに座ってもいいし、眠ってしまわなければ、横になっても構いません。
完全にリラックスして、まず、朝起きた時から順を追って、今日一日にあったことをすべて思い出します。
一つひとつの出会い、出来事をもう一度見つめなおしてください。
この時、自分自身や誰かを責めることなく、客観的な第三者の目で見つめることが大切です。
そして、慈悲と寛大な心を持って、自分自身に次のように質問します。

思ったり感じたりすべきでなかったことで、思ったり感じたりしてしまったことは何か?
思ったり感じたりすべきだったことで、思ったり感じたりしなかったことは何か?
言うべきでなかったことで、言ってしまったことは何か?
言うべきだったことで、言わなかったことは何か?
すべきではなかったことで、してしまったことは何か?
すべきだったことで、しなかったことは何か?


内省の目的は、自分自身や他の人々を責めることではなく
(ましてや賞賛することではなく)ただ公平な目で、自らの思考や行動を観察することにあります。
その上で、気付いた点から自らの言動を改めるように努力しましょう。
こうして内省を続けていくと、だんだんと自分自身を観察することに熟達していきます。
そしてやがて、道徳面においても、霊的、神秘的な人生の側面においても成長を加速していることにづくはずです。
ダスカロスの教えの多くは、かつてキリストが12人の弟子に与えたものと同じ、<エソテリック・ティーチング>(秘儀的な教え)と呼ばれる内容だといいます。
エソテリック・ティーチング>とは、
古代エジプトの時代から高位の僧だけに脈々と伝えられた秘儀・秘教です。なぜ、こうした教えが一般の人々に長く隠されてきたというと、霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうからだとダスカロスは語っていました。
どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合のダメージや“負債”はいっそう大きくなってしまうのです
自身も、修養を重ね、着実に意識の覚醒に向かいながら大きく階段を踏み外した人々を、実際にたくさん見てきたのだと思います。
そして、そんな彼らの姿に胸を痛めていたからこそ、「内省」の重要性を説き、<7つの約束>によって日々エゴイズムを減らしながら、急がず一歩ずつ確実に意識の階段を昇っていくように警笛を鳴らし続けたのでしょう。
 ……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさい
と優しく囁き続ける人、それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。
『メッセンジャー』
1913~ ジョージ・ヴェール・オーエン牧師と『ベールの彼方の生活(全4巻)』
キリスト教の牧師であるジョージ・ヴェール・オーエンは
聖職者で「霊団」の指示による自動書記によってこの本を書いたことなど、モーゼスとよく似ている
最初は亡くなった母からメッセージが伝えられたが、そのうち母に代わって何人もの「霊」が通信してくるようになり、1913年にはオーエンの守護霊の「ザブディール」と名乗る人物がメッセージを送ってきた。高級霊たちの一大階層があり、自分は彼らの代表者としてオーエンに霊界の真実を伝えるのだという。
新聞王のノースクリフ卿が感銘を受け、日曜週刊紙『ウィークリー・ディスパッチ』に連載(
1920年)売り上げを急速に伸ばしたが、いっさい原稿料を受け取らなかった
この大反響を快く思わなかった英国国教会はこれを快く思わず圧力を加えた
。オーエンはついに、自らその職(イングランド北西部のウォーリントン近郊の町の副司祭)を辞した。その後スピリチュアリスト教会の牧師として生活するようになった。
この『ベールの彼方の生活』でモーゼスの『霊訓』と違う点は、
各層に分かれている霊界の構造とそれぞれの状況が詳しく色彩豊かに目の前に浮かぶように書かれていることだ。
それと共に宇宙創造の過程を視野に入れた想像力の広さや鉱物界、植物界、動物界、人間界などに関する知識の豊富さ等の点でスウェーデンボルグの記述が彷彿され、この巨人の霊的な影響下で書かれたのではないかという憶測を生んでいる。古典的な文章の美しさも第一級のものだ。

読者は
全宇宙が各界における高級霊団によって組織され運営されていること
至高の界からの霊的エネルギーによって各界が創造され、統一されていること
存在の原理である「」と「波動」が物質にどのように作用し、その進歩にどのように関わっているか、等を知ることができる。また、地獄や極楽の様相についても、実際にその場にいるかのように生き生きと書かれている。さらに霊界の上には光も届かぬほどの遥かな高みがあり、個々の霊の無限の進歩が続いていることを知るのである。
『ベールの彼方の生活(全4巻)』
1832.12.24~
~1914.10.17
高島嘉右衛門
~1914年(大正3年)10月16日)は横浜の実業家および易断家。
伊藤博文に指南。暗殺も予言
占いは売らない
易と横浜港第二次工事の資金調達のエピソード
明治18年、請われて皇典講究所で行った「神道実用論」と題する講演の中で、嘉右衛門はこう語っている。を「神と人をつなぐ電信機」と見、「占告神示説」(卦(け)を神のお告げとする説)の立場を貫き通した嘉右衛門の、生涯変わることのない信念だった。
明治21年7月21日の大雨の話 「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」より
自らの死期を予言して位牌を作らせ、持っていた。観相学の大家桜井大路とのやりとりのエピソードが残っている。
高島嘉右衛門 「日本神人伝」不二龍彦著より
『高島易断』
「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」
1914(大正3年) アルバート・シュレンク・ノティング『物質化の諸現象』を出版
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1914  エヴァンジェリン・アダムズとホロスコープ
・1914年に運勢の占いを禁じていたニューヨーク州の法令違反で告訴されたが、裁判で占星術の正しさを証明し、撤回させたという逸話を持つ。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』
・当時開業していたニューヨークの町の「まじないを禁止する」と法律に違反するとして逮捕されたが、裁判所で裁判官にホロスコープを渡され、それを読み解くように言われたという。
・それを、何の予備知識もなしに、ホロスコープを読み解き(裁判官の息子の物で、見事にその性格と人物像について述べた)、これを契機に、占星学はでたらめではないという認識が成立し、裁判で見事勝利を勝ち取った。この実績により、アメリカでは、占星術をいかがわしい占いの類とは一線を画した科学的なものという見解がひろまった。
 
1914 宮沢賢治と法華経
1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。
退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。
1914~1918

第一次世界大戦( World War I)は、にかけて戦われた世界規模の大戦争。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。第二次世界大戦が勃発する以前は大戦争(The Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれる。当初には諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった。

1915 浅野和三郎と三男の病
3男が原因不明の病に⇒女行者に11.4日に完治するとのお告げ
妻の多慶子に霊能、昭和4年には二男新樹の死をきっかけに霊言現象がおきるようになった。⇒『新樹の通信』(約6年間に及ぶ)
英文学者を止めて大本教に入信。
1923.3発起人となって東京に「心霊科学研究会」設立
1925.7大本教脱退
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P276~
『新樹の通信』
1915~16 

一般相対性理論
一般相対性原理と一般共変性原理および等価原理を理論的な柱とし、リーマン幾何学を数学的土台として構築された古典論的な重力場の理論であり、古典物理学の金字塔である。
測地線の方程式とアインシュタイン方程式(重力場の方程式)が帰結である。
時間と空間を結びつけるこの理論では、アイザック・ニュートンによって万有引力として説明された現象が、もはやニュートン力学的な意味での力ではなく、時空連続体の歪みとして説明される。

一般相対性理論では、次のことが予測される。
重力レンズ効果   膨張宇宙 ブラックホール 時間の遅れ など

 
1918~

シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)の日本への影響 ← 前述は1800~1900年代
⇒シオニズム(ヘブライ語: ציונות‎, Zionism 英:ザイオニズム)とはは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。)
・1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。
・シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。
・後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させた
・自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。
・海軍の犬塚惟重も独自に訳本を出版している。
・安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。
・また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。戦前戦中は少年向け小説にもユダヤの陰謀をネタに使った物が多数あり、一般に広がっていた。
・1986年宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた。
・近年でも、太田龍の補訳による『シオン長老の議定書』(2004年)が出版され、反ユダヤ主義者の根強さを語る。

1916 第一次世界大戦の影響と『レイモンド』ベストセラーに
スピリチュアリズムは一部の社会的に余裕のある人間や好事家や研究者の対象ではなくなり、生活上の必要事となっていた。
戦争で家族のメンバーを失った人々が戦死した肉親と交流したいと願い、霊能者の許を訪れるようになった。

その傾向に拍車をかけ象徴的な出来事となったのがオリヴァー・ロッジの『レイモンド、または生と死』の出版だった。
ロッジは英国を代表する物理学者だった。理論物理学の功績で「サー」の称号を授与され英国における心霊研究の重鎮だった。
『レイモンド』は戦死した陸軍少尉だった彼の息子のレイモンドとの霊媒を通じての対話を柱として書かれたものである。霊界におけるレイモンドの身元証明と霊界で彼が見聞したことを父に伝えるというもので、それを通じてロッジ自身が信ずる死後の世界の存在の具体的な証拠を示そうとするものである。通信を媒介したのはレナード夫人やパイパー夫人という当時最高と言われた霊媒たちだった。
…。霊界にあるシガーや…があまりにも具体的に書いてあるために、ロッジは世間から嘲笑され非難を受けた。親子の情がこういうものを書かせる免罪符となっていいものだろうか、と皮肉る科学者もいた。
ロッジはしかし、自分の心霊研究は長い経歴を持つものであり、以前は他人の経験を対象としたのだが、今回は自分自身の経験に代わっただけに過ぎない、自分の立場に変わりはない、と述べている。実際『レイモンド』によって、彼は霊魂説を受け入れる立場を今までになく明確にしたのである。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P202~
オリヴァー・ロッジ
『レイモンド、または生と死』
1917 バルフォア宣言とイスラエル建国
ロスチャイルド家は第一次世界大戦の際にユダヤ人国家の建国を約束させる(バルフォア宣言:後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。
1917 ルシア他3人の幼女とファチマ(ポルトガルの中央部)の大予言
  コンノケンイチ-今野健一『月のUFOとファティマ第3の秘密』
  縄文人(なわふみひと)解説
  2012年の黙示録
7/13以降毎月ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
・第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。
第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
・第三の予言は、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。
私たちは一体何のためにこの世に生まれてきたのか?
私達のこの生の目的は何なのか?
私達はなぜ今ここにいるのか?
私達の存在利する理由は何なのか?

聖母はすぐにそれを教える。
私達は天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、そうすることによって、天主と共なる永遠の福楽を得るために創造された。
私達は永遠の生命を得るために生まれてきた。
この地上の生活においてただ一つのことだけが本当に重要だ。
つまり、永遠の生命を勝ちうるか否か、ということだ。
私たちの主はこう言われた。
「たとえ全世界を儲けても、
魂を失ったら何の益になるだろうか?」と。
そして第三の予言とは。今はそれが明らかにされたが、その中に教皇の暗殺も含まれていた。現教皇は1981年5月13日の暗殺未遂事件ががそれに当たると話しておられる。教皇様は聖母の御保護で、凶弾がわずかに急所を外れたと言っておられる。
『月のUFOと
ファティマ第3の秘密』
1918 ジェームズ・ヒスロップと臨死体験の研究
アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが発表
1918 ギュスターブ・ジュレー-フランス
もともとは内科の医師だったが、若くして生命界を支配する“魂の力”とでもいうべき未知の原動力の存在を確信し、生物の発生や進化の現象は、すべてこの神秘的な力のなせるわざにほかならないと主張した(すでに31歳のときに、このテーマについて著書を発表している)。
ジュレーはやがて自説を裏づける心霊現象の研究に没頭するようになり、1910年代にエバ・Cによる物質化現象を目のあたりにすると、医者の道にキッパリ別れを告げて、心霊研究の道一筋にうちこむようになった。
そして1918年にパリで公の設立をみた「国際心霊科学研究所」の初代所長に迎えられてからは、深い学識に裏打ちされた思想性豊かな心霊研究家として、国際的にエネルギッシュな活動を続けたが、1924年に惜しくも飛行機事故で急逝した。
1918~19 スペインかぜ
全世界的に流行したインフルエンザのパンデミックである。
感染者6億人、死者4000~5000万人。
発生源は1918年3月米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近。
その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。CDC によれば、既に1915年にインフルエンザと肺炎による死亡率が米国で増加しているが、発生源は依然不明としている。
新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
米国発であるにもかかわらずスペインかぜと呼ぶのは情報がスペイン発であったためである。当時は第一次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり大戦とは無関係だった。
一説によると、この大流行により多くの死者が出たため、第一次世界大戦終結が早まったと言われている。
近代史で習わない
人々
水野 広徳(ひろのり)
第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を私費で視察。
戦時下である1度目の視察の後に1917年(大正6年)に東京朝日新聞に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京や大阪が灰になる可能性を早くも指摘。
戦後の2度目の際にはその惨状を目の当たりにし、一転して反戦思想家に転じ反戦・平和論を説いた。
1921年(大正10年)には東京日日新聞に文章を発表して謹慎処分を受け、この問題をきっかけに、慰留する海軍を自ら退役。
1941年(昭和16年)2月26日、遂に軍部の執筆禁止者リストに載る。
1945年(昭和20年)、腸閉塞を発症し、10月18日、遺書に「百年後の知己を待つ」と書き残し生涯を閉じた。
高群 逸枝と夫
民間での研究家。母系性、結婚の形態の研究、卑弥呼の時代の姫彦制の研究、母性我的世界観を提言
杉山 茂丸~泰道~龍丸 親子3代
1955年、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。
インドの飢餓を救うため私財を投げ打って植林。グリーンファーザーの異名。
国際会議に出るも日本国と時の首相佐藤栄作の支援無し。友人に借金の末、大役を果たす。
1859~
1918~1930
コナン・ドイル(イギリス)-『人類へのスーパーメッセージ
1859年生まれ。
イギリスのエディンバラ大学医学部卒業。開業医となるが32歳で執筆活動に専念。『シャーロック・ホームズ』のシリーズは世界的に有名。歴史小説、科学小説でも知られる。
20代のときから心霊学に関心を抱き、研究を続ける。
1918年以降は
心霊主義者として執筆、講演などに活躍。
晩年は
第一次世界大戦での息子の死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。
交霊会心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。
そして、コティングリー妖精事件において大失態を演じてしまった。
彼の行動は当然学者であるロッジとは大いに違っていた。「スピリチュアリズムのパウロ」と言われたほどに精力的に世界各地を行脚して回り、講演に、討論に、執筆に、
スピリチュアリズムこそは人類の福音であり、愛する者を失った人々の最大の慰めであることを説き続けた
1916年にはすでに「死者との交流を信じる」一文を書いているが、『新しい啓示』と『生命の言葉』を出版してはっきりとスピリチュアリズムのために闘うことを明言し、伝道の行脚を始めたのは1918年息子が死の床にあった年のことである。
これ(スピリチュアリズム)が心の底から受け容れられると世界の全思想に徹底的変化を与えて練りなおすことになるとに相違ないと知った瞬間から、私は、このことのために働くのはよいことだと思い、またこれと比べれば、私の過去の仕事は無にひとしい、と知った。『ホームズ物語』
あるスピリチュアリストの名誉がSPRの機関誌によって傷つけられたことに強く反論し、SPRとの36年間の縁を断ち切る手紙を病の床から書いて送り、世間を驚かせた。
1930年7.7没。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P205~
コナン・ドイル
『新しい啓示』
『生命の言葉』
1919 山田 治朗吉
明治から大正・昭和初期にかけて活動した剣術家
1919年、雑誌『新時代 第3巻第1号p. 154』において、関東大震災の到来を予言する。
1920~ モーリス・バーバネルとシルバーバーチ
シルバーバーチは1920年にイギリスにおいてイギリス人青年モーリス・バーバネル(1902-1981、当時18歳)を霊媒として語った霊とされているものの名である。英語でシラカンバの意味。
1924年、モーリス・バーバネルはイギリス人ジャーナリストハンネン・スワッファーと出会い、以後イギリスのロンドンにある彼の自宅で霊交会を行うようになる。この霊交会をハンネン・スワッファー・ホームサークルと名づけ、モーリス・バーバネルに憑依するシルバーバーチはこの霊交会において指導霊としての地位を築き、以後60年間に渡って近代心霊主義的教訓を説いた。
バーバネルは、1932年にスワッファーらの支援を受けて心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』を創刊し同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった
 
1847~1931
1920年代~
トーマス・エジソン と オカルト研究
エジソンはオカルト・超自然的なものに魅せられるという一面もあった。
ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じていて、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席した事もある。
来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置 (Spirit Phone) を研究。
エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた。
エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。
エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだと考えていた。
エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、
宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録する事で発明としていたに過ぎない」のだという。
「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意(真意は天才は1%の汗と99%のひらめきだった
1921.6.30

アルフレッド・ワトキンスとレイライン
・ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディンを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。
・彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた。
・しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。

「Boundaries and Landmarks
(大地に引かれた境界と名所旧跡)」
1921.10
(大正10年)

第一次大本弾圧事件による検挙
・その数年前から、大本は出口王仁三郎二代教主輔を中核として教勢を拡大させていた。
・1919年(大正8年)11月18日には亀山城(明智光秀の居城)を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。
・また1920年(大正9年)8月17日に大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する。
・一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎や谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた。社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた。
・日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた。そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威を脅かしかねなかったのである。内務省は一部の著作を発禁処分とし、京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告した。原敬総理大臣は1920年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した。

 
1922 ~ 友清 歓真(ともきよ よしさね)と霊啓
新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。
友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。
また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている)
 
1922

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)とレイキ(霊気)
・現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者。
・生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)。
・職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざま。
・その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末にの師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。
・断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。
数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

・悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。
・1922年4月に指導法や五戒
今日丈けは 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけ(げ)め 人に親切に
朝夕合掌して心に念じ 口に唱へよ
を定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
・現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。
・日本式と西洋式
・日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、臼井甕男から林忠次郎へ(21もしくは20人のうちの一人)から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨ(たかたはわよ)から海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(直傳霊氣、霊気)」と区別する。

1923

関東大震災(かんとうだいしんさい)
(大正12年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震
・千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害を与えた。

1923 ボッツァーノと臨死体験の研究
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に研究成果を発表
   
1923~
1937~
国際スピリチュアリスト連盟(ISFというの略称の国際組織で、二、三年に一度の割で不定期に開催)の総会開催
第一回は1923年にベルギー
第二回は1925年にパリで(名誉会長はコナン・ドイル)、
第三回は0928年にロンドンで、といったぐあいに開かれ、その後は2年に一度のペースで開催されている。
第三回総会には日本から
浅野和三郎福来友吉が出席して演説し注目を集めた。
浅野は海軍機関学校(現防衛大学校)教授。心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。
さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。
伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春氏が居る。
1937年、スコットランドのグラスゴーにて、
シルバー・バーチは特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。
十七章  スピリチュアリズムの第一線で働く
         人々への励ましのメッセージ


スピリチュアリズムが地上に展開を始めてからしばらくの間(1930年頃まで)は、物理的心霊現象が頻出していました。まさに奇跡の連続と言ってもいいような状況でした。
そしてその不思議な現象を、当時の一流の科学者達が調査実験に乗り出しました。ほとんどの科学者は初めは心霊現象に懐疑的でしたが、研究を進める中で生々しい現象を突きつけられ、例外なく霊の存在を認めるようになっていきました。

より内面的な現象へ、より精神的・霊的要素の多い現象へと変化していきます。それが「スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)」だったのです。
1930年頃より、スピリチュアリズムの中からスピリチュアル・ヒーリングが起こされるようになりました。そしてその後、スピリチュアル・ヒーリングはスピリチュアリズムの中心的な
心霊現象に発展して現在に至っています。
スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)の目的は、いまだに霊の存在を知らない人々にそれを教え、人間は死後も“霊”として生き続けることを示すことです。霊が霊界から地上人に働きかけることができる事実を伝え、地球人類の「霊的覚醒」を促すことにあります。これがスピリチュアル・ヒーリングの目的です。
スピリチュアル・ヒーリングは“病気治療”という医学的手段を用いて「
霊的覚醒と霊的救い」をもたらそうとするものであり、病気を治すことが本来の目的ではありません。これが一般の治療(ヒーリング)と心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)の根本的な違いです。
スピリチュアリズムの初期には、物理的心霊現象という華々しい現象が演出されましたが、スピリチュアル・ヒーリングの世界でも、霊性が未熟な地域では派手な心霊治療が演出されます。それがフィリピンやブラジルなどで見られる“心霊手術”です。こうした人目を惹くようなスピリチュアル・ヒーリングは、いつまでも存在する必要はありません。
やがて
手当てや軽い接触といった一般的なヒーリング形式に変化していくようになります。
1925
大正14年
 
 大正14年Y.Y.メモリアルデー   
 1925? 「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフと『ノースクリフの帰還』とハネン・スワッファー
世界的に有名な日刊紙Daily Mailを創刊し、八十種類を超える雑誌を出版したノースクリフ卿は、本名をウィリアム・ハームズワースといい、1865年にアイルランドで生まれ、1922年に57歳でロンドンで没した。
 その一番弟子のような存在だったスワッファーは、後に評論家として「フリート街の法王」の異名を取る程の存在となった。
米国の「ウォール街」が金融の中心地であるように、フリート街は新聞社が軒を連ねるジャーナリズムの中心地で、そこの法王と呼ばれるということは「泣く子も黙るご意見番」といった意味が込められていた。
 本書はこの二人の子弟関係を扱ったものであるが、実はそれは地上時代のことではなく、死後三年も経たないうちにデニス・ブラッドレー・ホームサークルに出現して、愛称の「スワッフ」の呼び名で語りかけた。死後の存続など全く信じていなかったスワッファーは、何度も出席してノースクリフと名乗る[霊]と対話を重ねて行くうちに、否定しようにも否定出来ない完璧な証拠を見せ付けられて、ついに人間個性の死後存続を信じるようになった。その経過を綴ったのが本書である。
http://jisatsudame.com/archives/7705869.html
『ノースクリフの帰還』
 
1926 ウィリアム・フレッチャー・バレットと臨死体験
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが研究成果を発表
1926 コナン・ドイル、『スピリチュアリズムの歴史』出版
念写の写真術も記述
『スピリチュアリズムの歴史』
1857~1926 エミール・クーエと潜在意識と自己暗示
フランス人、サジェッション(自己暗示法)の創始者、暗示で奇跡的治療を行なう
暗示は、潜在意識へインプットするためのプログラムであり、この鍵である暗示を適切に潜在意識へインプットできれば、潜在意識はそのプログラムにしたがって、全力をあげて動き出す
① ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神状態となって現われる。
② ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。
1926
12/25~ 
昭和元年  
1927 ウィリアム・マクドゥーガルとJ.B.ライン
ライン革命と超心理学。スタンフォード大学での研究
霊媒を頼るのではなく、学生などの普通の人間を使って研究
⇒「心霊研究のアマチュア化」、霊能は万人のもの
心霊セミナー、心霊治療 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P?
1927~ ロバート・ハロルド・シュラー
アメリカの牧師。ニューソート(米国の新しい宗教運動家)の第一人者。
では、実際に取りかかることが出来る好機や可能性とはどんなもので、どこに潜んでいるのだろうか?
たとえば、明日にでも、もっと情け深くなれるではないか。
また、明日からさっそく、人を裁いたり、批判したりする悪癖を抑えることが出来るではないか。そして、そのような姿勢こそが、心の平安と愛とを、ますます豊かに与えてくれるのである。
困っているときこそ人を助けよ
。なぜなら、他人のために尽くすことによって、初めて自分の運勢も好転できるのである。
人生(宇宙)には、このような見えざる真理が厳存しているのである。
1927~
1930年代 
 W・T・パリッシュ、妻の病気治療をきっかけとして、1927年から心霊治療を開始
①.心霊治療の理解の前提
普及手段としての心霊治療
スピリチュアリズムの勃興期においては、物理的心霊現象は霊魂説を証明するための手段として用いられてきた。
1927年(注)以降は心霊治療(スピリット・ヒーリング)にその座を明け渡した。
心霊治療は回復不能であると診断された病が完治したという“事実そのもの”によって、霊魂説を証明しようとするもの。

このような心霊治療は霊界側の戦略に沿って登場したものであるが、これは従来からあった“心霊治療”を、スピリチュアリズム普及の手段として霊界側が活用したもの
現在では世界各地で宗教やスピリチュアリズム普及の手段として、心霊治療が行われている
心霊治療(スピリット・ヒーリング)のポイントである霊界の霊医の存在や、身体の二重構造を前提とした心霊治療のメカニズム(治癒する仕組み)などについては、ある程度の霊的知識―
死後も人間は霊として生き続ける」「霊的世界は存在する」「霊的世界とこの世とは交流がある」―
が前提になければ理解することはできない。
この霊魂説の理解が前提にあって、始めて患者は病の苦しみを通して
この世をどのように生きたら霊性向上が図れるか”、というスピリチュアリズム本来の目的にたどり着くことができる。

このような理由から、霊界の戦略転換の時期が1927年または1920年代~1930年代であったということになる。
東京シルバーバーチ読書会より
・霊界の戦略転換の時期は「生き方としてのスピリチュアリズム(霊的摂理に則った生き方)」を説いたシルバーバーチの出現時期とも連動している(1920年に出現し1935年頃に霊媒現象が軌道に乗った:4168、語る237参照)。
パリッシュが
始めた心霊治療は彼の死後(1946年)、「病気治療の使徒」と呼ばれたハリー・エドワーズによって引き継がれて1940年代後半以降、世界各地へ広まった。
 
1928.11.17 マージェリ・クランドンとジョージ・ヴァリアンタインと浅野和三郎
浅野は日本の心霊研究の基礎を作った。
マージェリはハーバード大学医学校の外科教授の妻でボストン在住。夫がアイルランドの心霊研究家クロフォードの著作を読み、興味を持ち、自宅で降霊会のまねごとをし、霊能が開発されるに至った。
浅野は11.17の夜、当時有名だったもう一人の霊媒ヴァリアンタインと他の実験の証言者と共にクランドン家に招待された。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P160~
1928~

アンドリュー・カーネギーとナポレオン・ヒル
・1908年、新聞記者として世界の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにインタビューをした事をきっかけに、「20年間無償で500名以上の成功者の研究をして、成功哲学を体系化してくれないか」と頼まれる。
・彼は「やらせてください」と即答。
それから20年間苦悩の末、約束通り、
1928年に『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)を執筆。
・ウッドロウ・ウィルソン大統領の補佐官、フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問官を務めた。
1937年『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)を発行。
1970年に87歳で死去。

ナポレオン・ヒル
『Law of Success』(16セッション)をまとめる
『成功哲学』
『心構えが奇蹟を生む』
 『思考は現実化する』
1928 ウィリアム・ホープと福来友吉
9.19日と29日の2回心霊写真をとってもらうために訪れた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P181~
1893~
1930~1985
谷口雅春と生長の家
1929年12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたということを機に仕事の傍ら神から受けたとする啓示等をまとめて
1930年3月1日に自費で修身書として雑誌『生長の家』1000部を創刊した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。
人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」の主張を雑誌で発表し、多くの購読者・賛同者を取得していく。
1931 アーサー・フィンドレーと「直接談話」のしくみ
・実業家で経済や財務、心霊問題について数多くの著作を残した。
・自分の館を寄贈してスピリチュアリストの活動拠点「アーサー・フィンドレー・カレッジ」を作った。
・ジョン・C・スローン(支配霊はホワイトフェザー)という直接談話に優れた霊媒による降霊会での詳細な報告
亡くなった自分の父との関係を明かされ、彼の霊能を信ずるようになった。
クロフォードが説くように、すべての物理的心霊現象はエクトプラズムによるものだという。
叩音、テーブルの浮上、霊の物質化などみなそうだが、「ダイレクト・ヴォイス(直接談話)」にもこの物質が大きく関わっているという。
エクトプラズムは霊媒や降霊会のメンバーの人体から出るだけでなく、霊界(フィンドレーの言う「エーテル界」)からも供給されるという。その成分については地上の言語で説明することが出来ないと言う。
エクトプラズムが直接霊人と霊媒の発声器官とを繋いでいる場合で、霊人が話すとその振動がエクトプラズムを伝わって霊媒の器官を動かし、声となって出る。(「異言」)
②「エーテル界の化学者」が霊媒や参加者、エーテル界から集めて作ったエクトプラズムを使って、まず手を造り、次にその手によって口や舌などを持つマスクを造る。それから「直接談話」をしようと思う「エーテル界の住人」がそのマスクに顔を突っ込み、口や舌や喉が自分に合うように調整してから話し始める。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174~
『エーテル界の縁で』
アーサー・フィンドレー
年に10回以上も増刷され続け、20カ国以上に翻訳された大ベスト・ロングセラー
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174 
1931 福来友吉、『透視と念写』をロンドンで出版
三田光一(福来が出会った日本最高の霊媒)と念写の実験-弘法大師と月の裏側の写真⇒1985年のNASA撮影の月の写真へ
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P240、P268
1931.5~ ハロルド・J・レイリー
博士は、アメリカのマッサージセラピー分野では開拓者的存在だった。彼は、ロックフェラーセンターのレイリー健康研究所の創設者で、カイロプラクターであり、物理療法士、自然療法の先駆者として世界的に知られていた。彼の顧客には、世界的な富豪や有名人(グラディス・ディビス・ターナー、ジャネット・トーマス、ジェームス・C・ウィンドサー他)がいた。
ケイシーのリーディングにより、さまざまな患者が、1931年の5月から彼の元に送られてくるようになり、彼はそうした患者をリーディング通りに治療した。
しばらくやっているうちに、私は治療者がなすべきことは、肉体自体が自らを治し始めるようにしてやるだけだということに気づいた。ひとたび血液やリンパや神経伝導のインパルスが組織に流れるようになると、肉体はその防衛線が打ち破られた箇所すべてで反撃を始めるのだ」
これが有史以前からの歴史を誇る東洋医学(漢方)ヨーガの思想と一致していることはまことに興味深い。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法
ケイシー自身は毎朝、垂直の姿勢から立ったり座ったりを繰り返し、その後、ストレッチングに似た床運動を行なっていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P132~)
実際にケイシ-と会ったのは、治療開始から2年後ことだった。
彼は、9000以上のケイシーメディカルリーディングを45年以上にも渡り、研究し、活用した。そして、ケイシーリーディングからのマッサージを「新しいヒーリングアート」と定義し、ケイシー・レイリーマッサージスクール(アメリカ・バージニア州)の開設に力をつくした。
レイリー博士の治療は、湿布やサウナ、入浴療法などの水治療法も含む。
エドガー・ケイシーの超能力健康法
1930年代の初め頃~1979年
女史が他界するまで
約50年間
グレース・クック女史とホワイトイーグルの霊示
・この霊示は、女史をチャネラー(霊媒)として約50年にわたって通信されたもの
・女史の口を通じて伝えられるイーグル霊の霊示は完璧に近いと考えられます。
・なぜかというと、2人は太古から二度にわたり、親子として次に師弟関係として再生するという深い霊縁を作ったのです。
・イーグル霊は太古に既にイニシエーション(魂が一段一段と目を覚まして進歩の階段を上ること)を通過している覚者です。クック女史は一つ前の前世で、イニシエーションを通過し、地上に再生する必要のない者になりました。
しかし、死の時、イーグル霊は女史の魂をはるか上方に連れて行き、地球の様子を見せました。女史はそこに渦巻く地上の混迷と苦しみの様を見て、もう一度地上転生を決意しました。これがグレース・クック女史で、この霊格の高さがホワイト・イーグルの高い霊示を伝えやすいものとしています。
・その霊示の本質は、「人は神の子である」ということ。それをイーグルは「キリスト神霊の子」と表現します。キリスト神霊とは霊太陽(宇宙を維持して生かしている根源の光)のことで、その分霊を受けているのが人間だというのです。
この「神の子」がスピリットで、それは心臓(ハート)チャクラに鎮座すると明言しています。これが「内在の神」です。
光への道
ホワイト・イーグルの霊示
桑原啓善・訳  でくのぼう出版  1994年刊

光への道――ホワイト・イーグルの霊示
1931 昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。(『天国の礎』より)  『天国の礎』P4より 
1931ごろ

長井 津(わたる)と真向法
・明治21年(1889年)10月福井県の越前岬に近い勝鬘寺と言う浄土真宗の寺に、9人兄弟の3男として生まれる。中学を中退して商売で身を立てようと単身上京し、大成建設の前身である大倉組に入社し、大倉財閥の大倉喜八郎に師事。
・30歳で呉支店長に出世して財を築くが、34歳の時に妻に先立たれる。
・多忙とストレスの続く生活の中、42歳の時に脳溢血に倒れ、左半身不随の身となる。
・医師からは不治と診断されて悶々と日々を送る中、精神の安定を求め、実家の勝鬘寺の経典の中から勝鬘経を紐解く。その中の「勝鬘及一家眷属頭面接足礼(勝鬘婦人と一族・従者達は、頭を仏の足に接して礼拝し、清浄な心を以て仏の真実の功徳を嘆称したてまつった)」と言う一節が目に留まった。この「頭面接足礼」とは五体投地礼の一種であり、両手を伸ばして相手の足を取り、腰を曲げて相手の足に自分の額を押し頂いて拝む最上の礼拝である。
・しかし、実際に行ってみると長井は全くこれを行うことが出来なかった。礼拝とは、釈迦の教えをありのままに拝聴する身構えが出来ていると言う意志表示であり、頭面接足礼が出来無ければ、素直に教えを聞く準備が出来ていないのだと考えた長井は、この礼拝の練習を毎日行う。
・これは後に真向法の第一体操と呼ばれるものになるが、この練習を3年の間行い、更に第二体操を編み出して練習に加えて繰り返している内に、次第に体が柔軟になり、不自由だった体が元の通り動いて、以前にも増して健康になっていった。
・この二つの体操に驚嘆すべき自然治癒力のあることを確信した長井は、これを世に広めようと努力するようになる。当初は「念仏体操」と称していたが、「礼拝体操」、「日本国民体操」、「昭和体操」、「中和柔和法」と名前を変えて行った。体操が二種類から四種類になるのは昭和18年頃から。
・昭和21年の正月に、長井津は二首和歌を詠み、その内の一首が
真澄空 唯一つなる み光を 仰ぎ拝(おろが)む 今日のたのしさ」と言う和歌であった。
・これを1月12日に「真澄空 唯一つなる み光を 真向仰げ 四方の国人」と改作し、ここから取って最終的に体操法を「真向法」(4種の体操)と名付けた。

1932 ジェラルディン・カミンズ女史と『永遠への道』
フレディック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが通信霊となって、自動書記霊媒として有名なカミンズという女性の4番目の作品としてこの年に発表された。
マイヤーズはまだ知己も地上に残っているいわば新参者からのメッセージだが、
7層に及ぶ霊界の構造各界の仕組みを説く構想力の壮大さと重厚な文章による説得力は『ヴェールの彼方の生活』に劣るものではない。
オリバー・ロッジは序文を寄せ、死後30年間(マイヤースがはっきりした通信を送れるようになるには、他の死後存続を確信していた者たちと比べると、時間がかかり、死後30年以上たってからのものだった。)にこれだけの理解に達した親友のなおも止まらぬ情熱と研鑽を讃えている。
生前彼が展開した「サマーランド」や「類魂」「複数潜在意識」説を思わせるものが記述されている。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P197~
マイヤースからの死後通信
1932 The Road to Immortarity (邦題:永遠の大道/ジェラルディン・カミンズ著、近藤千雄訳、心の道場刊)
1935 Beyond Human Personality
(邦題:個人的存在の彼方/ジェラルディン・カミンズ著、E.B.ギブス編/近藤千雄訳、心の道場刊)
  ワード博士(フランス)と『霊界探検記』(※オリヴァー・ロッジ卿の『死後の生存』とともに『天国の礎』で紹介されている)

この本が出版され、心霊研究はいよいよ盛んになったという事である。
ワード博士に到っては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回一時間位、椅子に座したまま無我の境地に入り、霊界へ赴くのである。
その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ霊界のあらゆる方面に対し、つぶさに霊界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の霊界知識を豊富にしたという事である。
これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。

もちろん西洋の霊界は日本とは余程相違のある点はやむを得ないが、私は最後において、日本及び泰西(たいせい)における霊界事象を種々の実例をもって解説するつもりである。
十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある事や、心霊大学まで創設されたという事を聞及んでいたが、その後大戦のためいかようになったか、今日の実状を知りたいと思っている。さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。」 (『霊界叢談』 http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより)
 (『霊界叢談』http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより)
1930年代 チャールズ・シェリントン卿とノーベル医学生理学賞
・人間は「心」と「脳」という二通りの基本要素で構成されているという可能性を認める考え方を正当だと考えた。
ワイルダー・ペンフィールドと脳の構造と機能、臨床神経外科的研究
・「コンピュータ的機構」と名づけられた部分は頭頂葉に位置し、脳の運動感覚機能を司っているのに対して、「心的機構」と名づけられた部分は、脳の解釈的能力を担っている。国際臨死体験研究学会設立(アメリカ)
1933 ディール・カーネギー
人を動かす原則1  批判も避難もしない。苦情も言わない。
人を動かす原則2  率直で誠実な評価を与える。

人に好かれる6原則

1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔で接する
3.名前は当人にとって、最も快い、最も大切な響きを持つことばであることを忘れない
4.聞き手にまわる
5.相手の関心を見抜いて話題にする。
6.重要感を与えるー誠意を込めて。

人を説得する原則10 人の美しい心情に呼びかける
人を変える9原則
1934 ジョセフ・バンクス・ラインとライン革命と超感覚的知覚と超心理学
「ESPカード」を使って実験
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P229~
1934・5年ごろ K・スチュアートとマラヤの夢理論(1951)
・スチュアート(1902-65)は1924-40年の間世界放浪
・その間1934、5年頃マラヤ(現マレーシア)に滞在し、そこの山地民セノイ族の夢の技法の調査をしたとされる。その調査に基づくというこの論文の趣旨は、セノイ族が平和な争いのない部族で、それは彼らが夢を共有するテクニックを有しているからだ、という所にある。
・この論文は、1969年にタートの『意識の変容した状態』という話題となった論集に掲載されたことをはじめ、1970年代以降もしばしばニューエイジャーから称賛を以て言及されている(ローザック、環境音楽のJ・ハッセル etc.)。
これに対して配布資料のドムホフは、彼の調査報告をでっちあげだと論じ、1960年代の米国の社会情勢によってこの論が注目されただけだと位置付けた。
明晰夢―夢見の技法 スティーヴン ラバージ
1935.12
(昭和10年)
第二次大本弾圧事件
12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。
王仁三郎は巡教先で検挙された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。
取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で起訴61名中16人が死亡している。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる。
 
 

ユダヤ人の迫害
・歴史の中で他教徒から非常に多くの迫害を受けているが、現代に至るまでユダヤ人は滅ぶことはなかった。迫害は、当時のキリスト教社会が信仰の自由を許さなかったこと、キリスト教の一部の神学者がイエス・キリストを殺害したのがユダヤ人としたこと、ユダヤ人はキリスト教社会やイスラム教社会で疎まれていた金貸しや錬金術師が多く、トラブルが多かったことが原因ではないかと考えられている。・18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、今では多くの大企業の設立者や科学者にユダヤ人が存在する。
・ユダヤ人はタルムード(「口伝律法」を収めた文書群)に従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると云われる。
・紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。
・今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるともいわれる 

 
 1935~ ナチスのロマ(ジプシー)絶滅政策
・ドイツにおいてはナチスが政権獲得後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。・ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。
・その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。
・ナチスは、ロマがアーリア系であることは知っていた。アーリア主義を掲げるナチスがロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚されると考えたためである。
・第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ナチスは再び多数のロマを抱えこむことになった。ナチスが「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ナチスの被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。
・第二次大戦までの多くの国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。
・第二次世界大戦のナチス迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年~ポーランド1964年)。
・スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした。
・1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくなかった。1999年のコソボ紛争では、彼らはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受けている。
・ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われている。しかしその起源はいずれの説も根拠を欠いたものが多く、現在でも定説は無い。
・スペインではマドリードの郊外ロスフォスコスがロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいる。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されている。
 
  ヒーリングの時代
ハリー・エドワーズなどを代表とする、病気などの癒しを目的とした霊媒が注目を集め活躍する時代へ
 
1935 岡田茂吉と世界救世教
大本に入信するも、
12月のある晩、神秘体験をし、自己の使命を悟る。
昭和9年、大本を離れ、世界救世教へ
全人類の病貧争からの脱出、
すなわち健康の実現、貧苦からの脱出、安全の実現を基礎として、新文明世界(=地上天国、理想世界)を創造することを目指した。

そして、そのような新文明世界は、3つの活動理念
「生命の芸術=精神性」「美の芸術=」「農の芸術=自然力を培い発展させることによって達成される、と説いた。健康で幸福なライフスタイルの実現
後に分派して崇教真光、など
 

 1935
ハリー・エドワーズとスピリチュアリズムと霊的治療
・霊的治療およびスピリチュアリズムとの接触があったのは一九三五年、この年である。・この前後のエピソードは本書にも述べられているが、スピリチュアリストのグループの交流と共に、まるで待ちかねたように生来の治療能力が開花したのである。
・その治療実績と影響力は日を追って増加し、年と共に霊的治療の至宝と仰がれるようになり、その名は英国全土ばかりか、世界中に知られるようになった。
http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-4.htmlより一部転載
ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」
 
1936.7~1939.3

スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española
第二共和政期のスペインで勃発した内戦。
第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
エドガー・ケイシーのリーディングの記録の中には16世紀のスペイン人たちがした代償に関するものがある。過去にスペイン人はアステカ文明を破壊し、殺戮をほしいままにした。その結果、
カルマの報いをいけることになった。内戦は起こるべくして起こった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P183~)

1937.4.17

中村久子とヘレン・ケラー
41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛したという。
翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。
1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。
65歳の時厚生大臣賞を受賞した。
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は以下の言葉を残している。
人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

1937~

日本レイキの後継者、林忠次郎と高田ハワヨ
・彼女は日系二世として日本とアメリカの言語と文化に通じていたため、西洋に日本のレイキを伝えるという役割に適しており業績は広く認められている。しかしながら高田はレイキを彼女の影響下に於て、ある意味「フランチャイズ」的に守ろうとしたとしてレイキ界では今なお論争が続いている。
・高田は日本生まれの両親の下に生まれ、カウアイ島の彼女の父が働く砂糖きび農園で育った。
・1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていた高田サイチと結婚。1930年10月東京でサイチは肺ガンの治療中に34歳で死亡。この時高田夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのため肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重いうつ病にもなり苦しむことになった。
・この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、高田は両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。
・手術が始まる直前の手術台の上で、ハワヨは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。
・高田は手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎(臼井甕男の直弟子)の診療所を教えてもらった。林は後にレイキの「グランドマスター」とされた人物で、林の治療により高田は毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと望むようになった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、高田は病院の手術医と話し、この医師が高田がレイキを学ぶことを許すように林を説得。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたことと、高田がとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。
・彼女は林の下で1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。
・1937年健康になった高田はレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。
・林は自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、彼の娘と共に高田を訪ねた。
・1938年の冬、高田は林から神秘伝(師範として他人にレイキを伝授できる)の伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。
高田は夢に林が現われたと言い、1940年第2次世界大戦が迫っていた東京に戻った。そこで林は高田の実績を評価して自分の後継者とした。
・林は日本海軍の予備役将校であり軍に復帰するように求められていたが、仏教徒であり平和主義者として多くの血が流される戦争に加担するよりはと切腹した。
・高田はハワイに戻ってから30年間レイキを教えたが、1970年まではファーストとセカンドディグリーのみを伝授した。彼女は多くのレイキのプラクティショナー(開業者)を養成したが、マスターは育てようとしなかった。
・1970年以降、亡くなる1980年までの間に高田はレイキのサードディグリーを伝授し、22人にマスターを伝授した。
・彼女はマスター伝授の指導に10,000USドルを科したため、レイキマスターを富裕層のためのエリートクラブにした、と非難された。林は妥当な「エネルギーの交換」だと弁明して、林に言われたとする、治療のためにお金を支払わない者は良くなろうとする動機を持てない、という趣旨の言葉を引き合いに出した。
・彼女の残したものは今は様々な形で混在している。
・現在、日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、林から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨから海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」と区別する。
・日本国内では林忠次郎から師範の伝授を受けた最後の1人である山口千代子が長年、家庭生活の中で実践してきた靈氣(レイキ)がある。それが現在の「直傳靈氣研究会(じきでんれいきけんきゅうかい)」(山口千代子の息子、山口忠夫設立)が普及しているレイキであり、「直傳靈氣(じきでんれいき)」という名称が使われている。

                       霊訓の時代
・世界中に様々な霊界通信が地上に示され、本当の生き方を模索することが注目された。
・シルバー・バーチなどが日本では有名だが、枚挙にいとまなく世界中で霊界通信が示された。
・人々も心霊現象への興味よりも、霊界が示す人生哲学に注目が集まった。
 
 1938~1993 『シルバーバーチの教え』刊行
世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが交霊会に出席したことで事態が一変、毎週定期的に交霊会、速記によって記録をとり『シルバーバーチの教え』として16冊が刊行された。
 
1877~
1945
エドガー・ケーシー(アメリカ)
主要な部分は1901年に前述
1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)
「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、
人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。
エドガー・ケーシー『奇跡の生涯

エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について
1939~1945 第二次世界大戦
1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線アジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争)より後を指すことが多い。
1905~
1939~

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』
・ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
・「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。
・フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。
・第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られ、恐怖の3年間を生き延びた。
・この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は英語版だけでも900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという。
・読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査でも、翻訳ドキュメント部門の第3位となったという。
・よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
・極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。
・学術関連などで度々日本にも訪れていた。
ロゴセラピーとは
「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意。
ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。

  1. 意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
  2. 意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
  3. 人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。

フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとする。人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。

『夜と霧』
1893~
1940~1966

マクロビオティック(正食)の祖、桜沢如一(ゆきかず)
・和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士の家系に生まれる。
・14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。
・その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。
・1924年には同会会長となり、同会の復興・指導に専念する。
・1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。
・1937年に帰国、『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
・1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、
・1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。
・その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。
・戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。
・1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが、受け入れられなかった。
・1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
・1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
・後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜⇒妻大森一慧(かずえ)「穀菜食」「食で運命が変わる」⇒宇宙法則研究会、岡田周三、菊池富美雄らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。

1941
昭和16年~
土光 敏夫と 母 登美
明治4年8月8日生まれ。土光敏夫の母。
昭和16年、亡夫の一周忌に念願であった女学校の創設を宣言。その当時の御年70才というから驚きです!
人間生きているうち一度は鬼の口に飛び込まねばなりません」という覚悟で、戦時中学校教育の重要性を説き、無一文から「自分が死んでも香典は要らないから生きているうちにください」とまわりの農家を口説いて回り、とうとう念願であった戦争をしない国づくり、幸せな社会づくりのための女子教育を実現すべく奔走した。
ほとんど独力で寄付集め、諸交渉をおこない、とうとう、戦争真っ只中の昭和17年 橘女学校創立  校主土光登美。17年横浜鶴見に橘学苑(現橘女子高)を開校する。戦時下、教育方針は、成績第1主義ではなく、「正しきものは強くあれ」という登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。
一、 心すなおに真実を求めよう
一、 生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう
一、 正しく強く生きよう
 
という三つの言葉を遺した。
しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、73歳で他界。
夫もであったが、日蓮宗に深く帰依した女性。(温厚な夫に比べると厳しい女性であったという。親戚の土光●●さんの記憶より)。土光は母の気性を強く受け継いだ・・・ (テレビ朝日、9月4日 10時~「サンデー・フロントライン」 特集より)
その他の登美の名言
国の滅びるは悪によらずして、その愚による。
 1942.5.20 クリッシー・ラング家での 霊媒ジョン・スローンをとおしての交霊会の記録  
1944.6.10~1961 岡本 天明と日月神示
・本名は信之。天明は「雅号」である。雅号とはいえ、「天明」とは!(後に「日月神示」へ)
・昭和19年-4月18日 - フーチ(扶乩)の実演会の審神者兼司会役を務める。
この際出てきた神名が「天之日月神」。後日、麻賀多神社の末社の神と判明。
・6月10日 - 天之日津久神社に参拝した折に自動書記現象がおきる。(日月神示「上つ巻」第一帖・第二帖を書記する。
・矢野祐太郎氏の奥さん(新(シン)女史)が大切なものと判断。
・1961年(昭和36年)9月1日- 最後の自動書記現象
  物理霊媒レスリー・フリントの自伝『暗闇の中の声』
レスリー・フリント(Leslie Flint,1911年 - 1994年)
著名な直接談話霊媒。史上最もテストされた霊媒
 『暗闇の中の声』
1945~15年間  ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信、テープレコーダで録音グリーン女史も関与
・1938年の永井健三、五十嵐悌二による交流バイアス方式の発明で、1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、実用に耐える長時間高音質録音が可能となった。
・1945年、ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信を始める以前は、その種の交信方法はほとんど見られなかった。また交霊会の記録は、参加者の記憶や暗闇の中で書き取られたメモに頼っていた。だがそうした形での記録は、内容自体が疑わしいとか、作り話で信頼できないものとして取り扱われがちであった。
・しかし戦争が終わって決定的な変化が訪れた。それは持ち運びのできる小型テープレコーダーが発明されたことである。ウッズは最新型のテープレコーダーを手に入れ、それを交霊会に持って行くようにした。
・これによって初めて、霊の語るすべての声を、そっくりそのまま記録し、それを関心のある人たちに聞かせることができるようになったのである。交霊会に参加できない人でも、まるでその場にいるかのように、霊媒の話を鮮明に聞くことができるようになったのである。
こちら(あの世)にきた人は最初、みんな同じようなことを考えます。彼らは急いで地上の友人や親戚の所に戻って、こちらの世界がいかに素晴らしいかを伝えたいと思うのです。“死は誰にでも訪れるごく自然な出来事なのです。死を怖がる必要は全くありません”と。今は地上のことをあまり気にしてはいけません。そのうちあなたが地上に戻って人々のお役に立つときがくるかもしれません
⇒『500に及ぶあの世からの現地報告』の資料となるテープ500本が15年間にわたって保存されていった。
⇒1961年、1966年、1972年へ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/life-after-death-03.htm
 
1945

初めての核実験
・開発は1942年からのマンハッタン計画で進められ、1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。
・1945年に原子爆弾はアメリカ合衆国が最初に開発に成功。
・初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ合衆国・ソ連を中心に約2,000回の核実験が行われている。
・詳細は「核実験の一覧」を参照(Wikipedia)

1945
(昭和20年)
白州 次郎
1945年、吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。
当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP某要人、マッカーサーをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
1946~1948  スウェーデンとフィンランドで葉巻型の奇妙な物体がソ連国境のほうに飛んで行ったという目撃情報。後の「ゴースト・ロケット」  『UFO事件の半世紀』
ロズウェル事件からMIB

(Men in brack)まで
1946 手塚治虫(17才)マンガでデビュー
1946  浅野和三郎、公益財団法人日本心霊科学協会設立
前身は心霊科学研究会及び東京心霊科学協会
 
1947  ハリー・エドワーズ
治療院(The Harry Edwards Spiritual Healing Sanctuary Trust)を創設
 
1947~1956

死海文書(しかいぶんしょ、しかいもんじょ)、または死海写本(しかいしゃほん)
1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。
文書は、ヘブライ語のほかにアラム語・ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる。

西暦の世紀の初め、キリスト教が教会の創健者たちによって一般に広められた頃に、
生まれ変わりの法則は教義の中から脱落してしまった。
エッセネ派の信仰が”生まれ変わりの法則”を根底に据えていたことが解明されてきている。
ユダヤ人の秘教カバラやグノーシス派の『聖書』の中にだけ生まれ変わりの法則が残されることになった。
(ケーシーの)リーディングによればバチカンにもピラミッドの中にも霊の永遠の進化を語る完璧な物語が現存していると言う。
イエスの奇跡=「復活」という言葉の本来の意味は”生まれ変わり”ということだったという。
カルマは行為の因果関係についての法則(カルマの法則)で、「汝が他者になせしごとく汝も他者からなされん」といったもの
・人間としての誕生の際にもたらされる。
・霊の心の内部の衝動で肉体の外で宇宙的世界において体験したものから生まれてくる。
・もう一つの感情や情緒は地上における生存の中で形作られたものである。
・カルマの目的はモラルを高め、精神的な成長を助けることにある。
・条件が揃うのにはたいへんな時間を要するが、それでも状況設定は正確になされていく。
神はだまされない。人は蒔いた種は自ら刈りとらねばならない
他人の重荷を分かち合い、悪いことを正そうとすることはただ他人のために善いことをしているというだけではない。同時に、自分のためにも善いカルマを作っているのである。すべての人間がこの考えに従って生きていけば、それは、よりよい世界を作ることにつながるはずである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P161~)

エッセネ派と死海写本の発見

1936年、エドガー・ケイシーのライフリーディングで予言。
この年、聖書考古学史上最大の発見と言われる「死海写本」がケイシーリーディングが言った正確に同じ場所で発掘され、その近くで古代エッセネ派の修道院跡が掘り出されて世界中の聖書学者の注目を浴びた。『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P31~)

1869~
1880~
1948
マハトマ・ガンジー
弁護士。インドの非暴力運動の指導者、政治家。
・「世界に変化を望むのなら、まず、あなた自身が変化を望むのなら、まず、あなた自身が変化しなければならない

明日ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ
  "Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
・『あなたの夢は何か、あなたの目的とするものは何か、
それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。

・「目的を見つけなさい。そうすれば大義はついてくる
   "Find purpose, the means will follow."
善きことは、カタツムリの速度で動く。
世界に変革を求めるなら、自分自身を変えることだ。
この世界の内に望む変化に、あなた自身が成ってみせなさい。
  ・"You should be the change that you want to see in the world."
「眼には眼を」で行けば、しまいには全世界が盲目になってしまう。
"An eye for an eye makes the whole world blind."
我々の信念は、常に燃え続ける灯火でなければならない。
それは我らに光明を与えるだけでなく、周囲をも照らすのだ。

『束縛があるからこそ 私は飛べるのだ、
悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ、
逆境があるからこそ 私は走れるのだ、
涙があるからこそ 私は前に進めるのだ。』
『非暴力とは、
悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、
暴力者の意志に対して全霊をなげうつことである。』
もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならば、
それは数百万の人々との憎しみを打ち消すに十分である。

「競争ではなく、協力こそ人間本来の生き方である」
「敵と相対するときには、その敵をで征服しなさい」
「君のすることはほとんど無意味だが、それでもしなくてはならない。なぜなら、それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためだからだ」
「重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにも分かるとは限らない。だが、正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ」
西洋文明
ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである。
"It is my firm opinion that Europe does not represent the spirit of God or Christianity but the spirit of Satan. And Satan’s successes are the greatest when he appears with the name of God on his lips."西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリストの[実践した]キリスト教の否定だと思う。
"I consider western Christianity in its practical working a negation of Christ’s Christianity."
1947.6.24
初めて空飛ぶ円盤目撃情報
ケネス・アーノルド事件
初めて空飛ぶ円盤が一般的に知れ渡るようになったのは、1947年6月24日にアメリカ人のケネス・アーノルドが、アメリカ、ワシントン州のカスケード山脈にあるレーニア山付近の上空を自家用飛行機で飛行していた際に、レーニア山の上空を飛行する9機の奇妙な物体を目撃し「皿のような形の9つの輝く物体が高度3000メートルを信じがたいスピードで飛んでいる」「投げた皿か円盤が水面上をスキップするように凄いスピードで飛んでいた」と報告したのが最初といわれている。
地元アメリカのマスコミはその物体を空飛ぶ円盤Flying Saucer)と名付けて大々的に報道し、その後同様の目撃談が相次いで報告された。
この事件を受け、アメリカFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官は直後の6月30日にUFOの目撃例を調査するプロジェクトを発足させた。
・アーノルドは未確認飛行物体の形状ではなく、その飛び方を説明するためにSaucerという語を使ったのであるが、報道で「空飛ぶ円盤」という呼び方が定着して以降は円盤型のUFOの目撃例が多くなったのは注目すべき点であろう。
この事件以降、目撃談が多く報告されるようになり、冷戦下のアメリカは一大UFOブームとなった。またこの事件を記念して6月24日はUFOの日とされている。
『UFO事件の半世紀』 
ロズウェル事件から
MIB(Men in brack)まで
 1947.7 ロズウェル事件(ロズウェルじけん、Roswell Incident)
アメリカ合衆国ニューメキシコ州ロズウェル付近で墜落したUFOが米軍によって回収されたとして有名になった事件。なお、付近といってもロズウェルからは70マイル離れていたが、ロズウェル陸軍飛行場(のちの ウォーカー空軍基地(1967年に閉鎖))が深く関わったため、ロズウェル事件と呼ばれる。世界で最も有名なUFO事件といわれている。 
『UFO事件の半世紀』 
ロズウェル事件から
MIB(Men in brack)まで
1947.8
昭和二十二年八月
 
世界救世教、宗教として発足  
1947~
1989
(42年間)

1991.8.29

カザフスタンのセミパラチンスク核実験場
・旧ソビエト連邦の核実験場のひとつであった。カザフ共和国(現カザフスタン)の北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km²(四国の面積にほぼ等しい)。
・1949年から1989年の間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。
・1947年にラヴレンチー・ベリヤによってこの場所が選ばれた。核実験の準備に伴い、実験場郊外に秘密都市セミパラチンスク-21(現在のクルチャトフ市)が建設され、関係者が集められた。
・ソ連最初の核実験RDS-1は1949年8月29日に行われた。
・実験を指揮した核物理学者のイーゴリ・クルチャトフは、後に、もし核実験が失敗したらスターリンの命により銃殺刑に処されることを覚悟していた、と述懐している。実際に秘密警察は逮捕の準備をしていたといわれる。
・その後、1953年8月12日の水爆装置実験(核融合そのものは失敗)、1955年11月22日の初の水爆実験、核の平和利用実験(下記参照)などが行われた。なお、RDS-6の実験に当たっては、付近の住民のうち一部の成人男子を放射能汚染地域に滞在させた(人体実験説)。
またベトナムの枯れ葉剤のようにここでも奇形児が生まれ、ホルマリン漬けで保存されている。
・その後放射能汚染による住民の健康被害が次第に広がり、地元の研究者たちによる調査が行われたものの、核実験を優先するソ連当局に黙殺され続けた。
・ソ連末期のグラスノスチにより実験の実態が明らかになると国際的な非難が高まり、1991年8月29日に実験場は正式に閉鎖された。
・セミパラチンスクの核実験で120万人が被爆し30万人ほどが放射能の後遺症を受けているが、結局ソ連政府(宗主国ロシア)から補償はなく、ソ連時代には訴えを一切聞いてはもらえなかった。

1948 5月14日、ユダヤ民族はイスラエル国家を再生
1948
近代スピリチュアリズム百年祭
1948年の近代スピリチュアリズム百年祭(ロンドンのアルバートホール)という大イベントにおいて、霊媒の代表として公開実験を行った。
エステル・ロバーツ夫人
サイキック・ニューズの編集長であったモーリス・バーバネルは、その著書『これが心霊の世界だ』の中でエステル・ロバーツ夫人の多彩な霊能力を絶賛し、それについて詳しく述べています。彼女は、直接談話・霊視・霊聴・サイコメトリー・アポーツ・心霊治療などのすべてに優れた霊能力を発揮している。

指導霊(支配霊)であるレッド・クラウドというレッド・インディアン霊が関わっている。指導霊レッド・クラウドによってあらゆる心霊現象が演出されているという。彼女は数千人の聴衆を前にして公開交霊会を催し、そこで霊視・霊聴力を発揮して、一面識もない参加者に関係する霊たちの特徴を細部にわたるまで指摘した。そして、すでに他界した家族や知人が確かに霊としてそこにいる証拠性のある事実を示した。

ヘレン・ヒューズ夫人
彼女は毎年、英国内を講演旅行し、家族や知人との死別を悲しむ人々に霊からのメッセージを伝え多くの慰めを与えてきた。彼女は特に霊視・霊聴能力に優れていた。公開交霊会では必ず、確実な証拠性を示す事実当事者しか知りえない事件・習慣・癖など)を提示し(シッティングという手法)、通信してくるのが紛れもなくその当事者に関係する霊であることを明らかにした。
『これが心霊の世界だ』
1951(昭和26年) 手塚治虫と『鉄腕アトム』
教育者や父母から批判が集中。
荒唐無稽、ロボットなんてできっこない。デタラメを描く、子どもたちの敵だ…
『ガラスの地球を救え』
P15
1951 サンフランシスコ講和条約
日本が主権回復に臨んだ締結の場では、白洲次郎の発案で英語の演説原稿を直前に巻紙に毛筆で書いた日本語に差し替えさせ、羽織袴姿で吉田茂に読み上げさせた。
1951 

HeLa(ヒーラ)細胞
ヒト子宮頸癌由来の細胞であり、1951年にジョージ・オットー・ゲイ (George Otto Gey) により分離され、細胞株として確立された。
動物の生きた細胞を実験室で培養する細胞培養(あるいは組織培養)の技術は、
19世紀のシドニー・リンガーによるカエル心臓の培養、
1885年ヴィルヘルム・ルーのニワトリ胚神経節の培養などの組織レベルからはじまった。その後、1907年にはロス・ハリソンのカエル神経細胞の培養に成功したことで、細胞レベルで行われるようになり、マウスなどの哺乳類を含め、さまざまな動物の細胞が培養されるようになった。
しかしヒト由来の細胞を安定に、数週間程度培養しつづけることには、多くの研究者が挑戦したにもかかわらず、ハリソンの実験以降の約50年間、誰も成功しなかった。
ジョージ・ゲイは、1940年にウィルトン・アール (Wilton Earle) とともに世界初の株化細胞(安定して増殖を繰り返す細胞)であるL細胞をマウスから作製することに成功した、当時の細胞培養研究の第一人者であった。彼もまた、ヒト細胞の培養に挑戦していたが、1951年2月8日、勤務していたジョンズ・ホプキンス病院で1つの小さな病理切片を入手した。子宮頸癌で診察を受けた、ヘンリエッタ・ラックスのものであった。彼は、この切片から世界初となるヒト細胞株の培養に成功し、彼女の名からアルファベット2文字ずつを取って、HeLa細胞と名付けて発表した。

HeLa細胞は継代培養されており、HeLaに由来するいくつかの株(HeLa S3など)も存在する。これらを含めて、すべてのHeLa細胞はラックスから切除された同じ腫瘍細胞の子孫である。これまでに世界中で培養されてきたHeLa細胞の塊の総計はヘンリエッタ・ラックスの身体の残りの部分をはるかに凌駕すると推定できる。(※不死化しており、60年以上増殖を続けている)Wikipedia

 
1926~
1951~
久司 道夫(くし みちお )とマクロビオテック
アメリカ合衆国のボストンを拠点に自然食マクロビオティックの研究、発展、普及に努めている。クシインスティチュートインターナショナル代表、久司財団会長、イーストウエスト財団会長、社団法人日本緑十字社社長。
・食養研究家・思想家の桜沢如一に師事したのち1949年11月にアメリカ合衆国へ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本などでも普及活動を行う。
・1949年ごろから、道夫は食事をマクロビオティックの方向へ改めていく。
・1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べている。
アレクシス・カレル
『人間-この未知なるもの』
1951

ゲシュタルト療法(ゲシュタルトりょうほう) 心理学。
ユダヤ人の精神科医、フレデリック・パールズ(フリッツ・パールズ)とその妻のローラにより、ゲシュタルト心理学、実存主義思想などを手がかりにはじめられたものである。"Ego, Hunger & Aggression -- A Revision of Freud's Theory and Method"(1942)が、その基本を述べた最初の著作とされ、1951年には"Gestalt Therapy -- Excitement and Growth in the Human Personality"が出版されている。彼は、その後日本にもやってきて、京都の大徳寺で禅の修業もしている。
「ゲシュタルト」(Gestalt)は、ドイツ語で「かたち」「形象」をいう言葉。直接は「ゲシュタルト心理学」から由来した言葉と思われるが、その意味づけは参禅体験などと深くつながっている。彼の考え方には、エーリヒ・フロムや鈴木大拙などの影響も色濃く見られる。東洋的な瞑想や精神統一の体験を基盤に取り込んだという点では、ユージン・ジェンドリンのフォーカシングと似ている。セラピーの姿勢としては、カール・ロジャーズの来談者中心療法などと一緒に人間性心理学(アブラハム・マズローの流れ)の中に分類されている。
このセラピーでは、過去になにをしたか、それはなぜなのかを問うことはしない、「今・ここ」で、「いかに」・話しているか、「なにを」・話しているかを問題にする。
それを気づき、体験すること、そこから身全霊的な気づき、覚醒を目指し、そこで自分自身であるという自由を取り戻すことを目的とする。
やり方としては、グループワークショップとして行われることが多い。
ゲシュタルト療法の手法というのは、心理学や哲学の手法を広く取り入れており、それらを精神と身体の完全統一という考え方に基づいて、セラピーの療法として統合したものである。この療法の目的とは、活動におけるより確立した独立と、自然な成長を阻害する障害物に対処する能力を、患者自身が獲得することを助けることにある。

1951~1952  ロレンゼン夫妻と民間のUFO研究グループ、空中現象研究機構(APRO)   『UFO事件の半世紀』
1952.7~8  プロジェクト・グラッジは862件のUFO目撃情報を受け取った。
イギリス、フランス、南米。一番多いのはアメリカだった。『ロナルド・ストーリー』
・ナッシュ=フォーテンベリー事件
・ジェット飛行士に円盤追撃命令、空軍はノーコメント、の見出しで劇的目撃事件『同上』
・『ライフ』の記事、ニューヨーク・タイムズの記事
 『UFO事件の半世紀』
1952.11.20  コンタクティ(UFOとの接触者)の登場 
・ジョージ・アダムスキー
 『UFO事件の半世紀』
1952 比嘉良丸の母と大国ミロク大社
1952~

水爆
・第二次世界大戦末期のマンハッタン計画後、アメリカ合衆国でエドワード・テラー、スタニスラフ・ウラムらによって開発が進められ、1952年11月1日、エニウェトク環礁で人類初の水爆実験、アイビー作戦 (Operation Ivy) が実施された。この作戦でアメリカはマイク (Mike) というコードネームで呼ばれる水爆の爆発実験に成功した。マイクの核出力は10.4メガトンであったが、常温常圧(例えば25℃, 1気圧)では気体である重水素や三重水素を零下二百数十度に冷却液化しなければならないため、そうした大規模な装置類の付属により、マイクの重量は65トンに及び、実用兵器には程遠いものであった(気体のままでは密度が低く、核融合反応が起きない)。

・ところが、翌1953年、ソビエト連邦が重水素などの熱核材料をリチウムと化合させて重水素化リチウム(固体)として用いた水爆の実験(RDS-6)に成功した(実際には水爆ではなかったといわれている)。この型では大掛かりな付属装置が不要なため水爆を小型軽量化できた。その後アメリカも熱核材料をリチウムで固体化した水爆を完成。
1954年、キャッスル作戦 (Operation Castle) が実施された。作戦の一つ、ブラボー (Bravo) 実験の成功により大幅な小型化に成功した。
・1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー (BRAVO) 、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被爆した。実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後に米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻にのぼるとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。…
・第五福竜丸の水爆災害(とりわけ久保山無線長(当時40歳)が「
原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言を遺して息を引き取った事)は、当時の日本国内に強烈な反核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へと移行することを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政府から受け、事件の決着を図った。
・更に米ソ両国で核実験が続けられ1955年から1956年には爆撃機にも搭載可能になり核兵器における威力対重量比が格段に増大する結果となった。いわゆるメガトン級核兵器の登場である。
・中国は1966年5月9日に120キロトンの最初の水爆実験に成功している。
1976年11月17日には4メガトンの実験に成功している。
この後中国では重水生産工場の運転が開始されている。

 1953 REM睡眠の発見  
 1954.9 ハリー・エドワーズ公開治療実験会
ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて公開治療実験会を催した。
この日に集まった人の数は六〇〇〇人を超え、この種のものとしては未曽有の規模のものであった。大司教の委員会から一七人以上の委員、教会治療委および英国医師会の代表らが列席した。これらの人々の前で彼は次々と、不治を宣告された病人たちに治療の実際的効果があらわれるのを実証してみせた。
この年、彼は新たに組織された英国霊的治療家連盟の会長に選出されている。
http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-4.html ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」より
 
 1955.2 五井(ごい)昌久と後の白光真宏会
1955年(昭和30年)2月、千葉県市川市に宗教法人「五井先生鑽仰会」を設立(なお、もともと「五井先生鑽仰会」は、五井を師と仰ぐ人々によって結成されたもので、のちに「白光真宏会」と改称。
当初の活動は、人生指導病気治療を主とした活動であったが、その根底にある思想は、人々の心が平和になることによる、大調和世界完全平和世界、地上天国)の実現であった。
  1. 人間は本来、神の分霊であって、業生ではない。
  2. 人間は守護霊・守護神によって常に守られている。
  3. この世の中のいかなる苦悩も、現われれば必ず消えてゆく。苦悩は消え去ってゆくのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても自分を愛し人を愛し、自分を赦し人を赦す愛と真と赦しの言行をなしつづけなさい。
  4. 自分を守っている守護霊・守護神への感謝の心を常に想い、世界平和の祈り(※)を祈りつづけなさい。

これを実行していると、個人も人類も真の救われ(正覚)を体得できる(個人人類同時成道)。
1)白光真宏会(本部は富士宮市)
2)World Peace Prayer Society
(本部はニューヨーク州)、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉を中心とした平和運動団体。非宗教の立場で平和への人類の叡智を結集することを目的とする
3)五井平和財団
(東京)
という三つの団体に受け継がれている。
■五井の教えは別名、守護霊守護神教とも呼ばれるくらい、守護霊・守護神の重要性を強調している。守護神とは神の救済面、愛の働き(神のもう一つの働きは法則である)の権化で、人類救済の任を帯びた偉大な光明体である。
守護霊は、守護神によって救済され、個人守護の任を与えられた、先祖の悟った霊である。
守護霊には、個人の主運を導く正守護霊と、仕事の面で補佐する副守護霊がある。人間が安心立命の心境に到達する第一歩は、自分の背後で見守っている守護霊・守護神の存在を認め、その守護に感謝することであると五井は説いている。

‥‥自然はなんて、美しいのだろう、私は自然の美しさの中に半ば融けこみながら、世の中から病苦を除き、貧苦を除かなければ、この美しさの中に全心を融けこませるわけにはゆかないのだなあ、と自分の責任ででもあるような痛い声を心のどこかできいていた。
私はその声に応えるように、「神様、どうぞ私のいのちを神様のおしごとにおつかい下さい」と、いつもの祈りを強くくりかえしながら歩いた。そのまま向岸へ渡る舟着場まで来て、土手を下りようとした瞬間「お前のいのちは神が貰った、覚悟はよいか」と電撃のような声がひびき渡った。
その声は頭の中での声でも、心の中の声でもなく、全く天からきた、意味をもったひびき、即ち天声であったのだ。それは確かに声であり、言葉である。
しかし、後日毎朝毎晩きかされた人声と等しきひびきの霊言ではなかった。私はそのひびきに一瞬の間隙もなく「はい」と心で応えた。
この時を境に私のすべては神のものとなり、個人の五井昌久、個我の五井昌久は消滅し去ったのである。しかし事態が表面に現われたのはかなり日時が経ってからであった。

 自叙伝『天と地をつなぐもの』
1955~
昭和30年

日本空飛ぶ円盤研究会(Japan Flying Sauser Research Association:JFSA)は、日本最初のUFOの研究団体設立。
同研究会は太平洋戦争で日本陸軍航空隊でレーダー装備を担当し、戦後は大蔵省印刷局に勤務していた荒井欣一が中心となった。
・三島由紀夫や石原慎太郎らが参加し、1955年に設立された。
・国内外の情報を収集する研究活動や講演活動、機関誌の発行を行う傍ら、その後の日本で設立されたUFO研究団体と関わりを持ち、影響を与えた。
・最盛期には約1,000名を超える会員を擁し、三島や石原のほかに北村小松、徳川夢声、糸川英夫、星新一、黛敏郎などの著名人も会員であったことで世間に知られるようになった。
・1960年代から団体としての活動は低下したが、荒井は2002年に死去するまで活動を続けた。

1952~
1956

モーリー・バーンスタインと催眠術とブライディ・マーフィー
・コロラド州の実業家でアマチュア催眠術師でもあったモーリー・バーンスタインは、地元に住む当時29歳の主婦、ヴァージニア・タイに催眠術をかけてみた。
・バーンスタインは、次第に年齢を下げていく退行催眠といわれる手法を試みていたのだが、さらに一歩進めて誕生前まで彼女の記憶を引き戻してみた。
・すると驚くべきことに、ヴァージニアは静かなアイルランド訛りで話し始め、「ブライディ・マーフィー」と名乗るアイルランド人女性の人格が出現したのである。
・催眠下の話によると、彼女は1798年にアイルランド南部のコークで、プロテスタントの法廷弁護士、ダンカン・マーフィーとその妻キャサリーンの娘として生まれたという。

・ブライディは60代の始めに転落事故で腰を骨折。ブライアンはよく面倒をみてくれたが、いつもひどく疲れた様子だったという。そしてついに1864年のある日曜日、ブライディは66歳で静かに息を引き取った・・・。
・この話を聞いたバーンスタインと証人として立ち会った人々は、ブライディの語った内容は詳細を極め、圧倒的な説得力があると感じた。アイルランド訛りも本物のように思われたし、あるときには、話だけでなく「モーニング・ジグ」というアイルランドの踊りを踊ったり、歌を歌ったこともあった。
・またバーンスタインによると、ヴァージニアは百科事典やその他の参考にできる本を一切持っておらず、図書館のカードもなければ本を読む習慣もなかったという。
・さらに、その後の調査ではヴァージニアがカトリックの式を挙げたという、聖テレサ教会の実在が確認されている。
その後の調査の結果事実とは違うことが判明
・後にメルヴィン・ハリスという放送作家の調査によれば、アメリカ人には19世紀のアイルランドの生活や習慣に詳しくなる機会があったのだという。それは、1893年にシカゴで開催されたコロンブス記念世界博覧会。その目玉の一つに巨大なアイルランド村があったという。村は大変人気を博し、閉会するまでのあいだに350万人もの入場者を記録。
・このときのアイルランド村が大成功だったため、1904年にはセントルイス博覧会でも村が建設された。おそらくヴァージニアは、人格形成期にこれらのアイルランド村を訪れた多くの人たちに会ったのだろう、とハリスは指摘している。

『ブライディ・マーフィーを探して』
1956年に出版
1954~1985
(28年間)
マーシャル諸島、ビキニ環礁と水爆被災
・マーシャル諸島には、自らの土地が核実験場の風下地域にあたり、「死の灰」を直接浴びたり、島々に残る「死の灰」を体内に取り込んだりして被害を受けた人たちがいる。ビキニ環礁とエニウェトク環礁で行われた67回に及ぶ核実験の「死の灰」は、風に運ばれ、マーシャル諸島民が暮らす島々にも降下していた。
・当時、ロンゲラップ環礁には82人が暮らしていて、母親の胎内には4人の子どもがいた。
1954年3月1日の早朝、ロンゲラップ環礁の西空一面にせん光が光った。それは「まるで太陽がもう一つ昇ってきたようだった」。「三度ぐらい、今まで聴いた事のないような爆音」が轟いた。
・爆心地から強い風が吹き、地面も揺れ「ヤシやタコノキの葉が激しく揺れ」、「押し倒されそうになった」人もいた。「戦争が始まったと、ヤシの茂みの方に逃げていく人もいた」。
・3月1日の昼頃、ロンゲラップ環礁の上空から、「死の灰」が降ってきた。
「死の灰」を浴びた住民は、夕方ごろから体にかゆみや痛みを感じ始め、発熱や吐き気など放射線の早期障害の兆候が見られ始めた。
・翌日、ほとんどの住民は、体調不良で寝込み、外に出られず、島の初等教育学校も臨時休校となった。しかし人々は、放射能汚染された食糧を口にし、汚染された水を使い生活せざるをえなかった。こうして住民82人と4人の胎児がヒバクした。
・人々は、実験の2日後に避難させられたものの、住民の間には「なぜ事前に避難をさせなかったのか」、「遅すぎた避難だった」との批判がある。
・ロンゲラップ環礁民は、3年間に及ぶ避難生活の後、アメリカが「安全宣言」を出したため、ロンゲラップ環礁に帰島した。しかし帰島者は、再び自らの島々を去る1985年まで28年間、ロンゲラップ環礁で残留していた「死の灰」によってさらなるヒバクをさせられたのであった。
米ブルックヘブン国立研究所による追跡調査のなかでも、帰島から約1年で、帰島者の体内蓄積量は放射性セシウム137が100倍、放射性ストロンチウム90が10倍に達していたことが確認されている。(原水爆禁止日本国民会議HPより)
1955 ローザ・パークス事件
米国公民権運動の活動家、縫製に従事した裁縫労働者である。1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。
これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件(Montgomery Bus Boycott)が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「
公民権運動の母」と呼ばれた。
⇒キング牧師へ
1955

水俣病と公害
環境汚染による食物連鎖によりひきおこされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)
1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。
この後、昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。

アルバート・アインシュタインの言葉
科学を真剣に追求している者は誰であれ、宇宙の法則の中に神の霊が顕在していることを確信するに至る。神の霊は人間の霊をはるかに凌ぎ、神の霊を前に人間は、自らの力のささやかなることを知り、謙虚にならざるを得ないのである。
?? アール・ナイチンゲール
1921年生まれ、
自己啓発の祖。
人間は自分が考えているような人間になる!!』――このタイトルを見て、ナポレオン・ヒルの古典的名著『思考は現実化する』(成功哲学の祖)を連想する人は多いだろう。それもそのはず、本書の著者、アール・ナイチンゲールは、ナポレオン・ヒルの教えを受け、自らも「人間開発の神様」と呼ばれた人物。
幸せとは、現在進行形で理想の世界を実感することだ。
1882~
1926年(昭和元年)~1955
岡田茂吉と世界救世教
たった50年前 とてつもない変化を地球にもたらした。
1956~ 第七光明期 地球最後の時(M・ドーリル 秘教真義より)
1956.10.10

イギリスのウィンズケール火災事故と放射能汚染
1947年核兵器の材料となるプルトニウムの生産を行うため、ウィンズケール原子力研究所が着工された。近くにあるプレストン市のウラン処理工場 Springfields と名前が似ていることから、混乱を避けるためにセラフィールドではなくウィンズケール (Windscale) の名前を採用した。こちらも付近の村の名前に由来する。
・1954年、英国原子力エネルギー機構 (UKAEA: United Kingdom Atomic Energy Authority、現在は AEA Technology plc.) が設立されるとともに、ウィンズケール原子力研究所より所有権が移動された。
1956年10月17日、ウィンズケールに隣接するコールダーホール原子力発電所が、マグノックス炉の方式で世界初の商用発電を開始し、名称も「ウィンズケール・アンド・コールダー研究所」 (Windscale and Calder Works) となった。
なお、世界初の原子力発電所は旧ソビエト連邦のオブニンスク発電所である。
1957年10月10日、ウィンズケール火災事故が起きる。この事故は世界初の原子炉重大事故となった。英国北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理工場)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。
・避難命令が出なかったため、地元住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け、数十人がその後、白血病で死亡した。

・現在の所、白血病発生率は全国平均の3倍。当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。なお、現在でも危険な状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロを汚染し、ヨウ素(ヨード)の危険性を知らせたことで有名である。また水蒸気爆発のおそれから、注水に手間取った。

・1971年、核兵器の研究および生産拠点としての操業終了に伴い、新たに設立された英国核燃料公社 (BNFL: British Nuclear Fuels Limited) に生産部門が吸収統合され、ウィンズケールの施設の大半が BNFL の管理下となった。

 1957 アジア風邪
4月頃香港で流行が始まる。
東南アジア各地、日本、オーストラリアなどへ広がる。
後に北米、ヨーロッパなど世界各地へ広まった。
世界約200万人が死亡
日本約300万人が罹患、7,700人以上が死亡
 
1957.9.29

ソ連  ウラル核惨事(ウラルかくさんじ)
・ソ連ウラル地方チェリャビンスク州で発生した原子力事故(爆発事故)。
また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生する事故等も包括することも多い。
・オジョルスク市(Ozyorsk)にある「マヤーク」(灯台の意味)は、兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための原子炉5基および再処理施設を持つプラントであり、1948年から建設された。プラントの周囲には技術者が居住する都市が造られ、チェリヤビンスク65という暗号名を持つ秘密都市として形成された。事故は、この施設を中心に発生した。国際原子力事象評価尺度でレベル6(大事故)。 ⇒1967年春 放射性廃棄物の飛散

1958(昭和33年) 吉田正一と「超自然科学研究会」とアメリカ人霊能者K.M.ラインハートの物理現象の実験研究
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P285
1960 イアン・スティーヴィンソンと「過去生の記憶とされるものから得られた死後生存を裏づける証拠」という論文
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248
1960.11.4 交霊会が後のネヴィレ・ランダル著『500に及ぶあの世からの現地報告』へ
1960年11月4日、ロンドンのあるアパートで、ウッズとグリーン女史、霊媒のフリントは、死後の世界からの“メッセージ”を得るため交霊会を行っていた。
 
1950年代後半
1961年 
グレイス・ローシャーと『ゴードンから愛を込めて』
本・書は、グレース・ローシャーの自動書記による霊界通信である。
ゴードンの通信の内容は、彼の死の直後の状況から、彼が仕事を与えられて幽界の各地を旅し、人々の救済に赴くいきさつが詳しく述べられている。また、これに関連して、幽界の様々な事象と、その世界で彼が学んだ幾つもの教訓が披露される。
・最も広く知られているイギリスの自動書記ライターの一人
・私がケンジントンの彼女のアパートを訪問したとき彼女は、自分は霊媒者ではないし、これまで交霊会に行こうとは考えたこともなかったと、きっぱりと言っていた。
彼女は1950年代後半のある日までは、ごく普通のクリスチャンであった。
・その日、彼女は座って友人に手紙を書いていた。突然、彼女は心的メッセージを受けたように感じた。「あなたの手をそこに置いたままにして、何が起きるか見ていなさい」という声がした。ほとんど同時に、彼女の手はただペンを握っているだけなのに、勝手に文字を書き始めた。そして“ゴードンから愛を込めて”と文字が記された。
・「誰がこれを書いているの?」と彼女は思った。するとペンが答えた。「私です。ゴードン、ゴードンです」四日後、彼女は勇気を奮い起こして再び同じようにペンを握った。すると三十分にわたってペンは書き続けた。彼女には、それは「ゴードン・バーディック」と全く同じ筆跡のように思われた。
実は彼は15カ月前、彼女と結婚するためにカナダのバンクーバーを出発する準備をしていた。しかし乗船予定の前夜、彼は急死したのである。
・彼女は教会の仲間に頼んで、自動書記によって書かれたサンプルと、生前のゴードンの書いた手紙を一緒に筆跡鑑定の専門家「F・T・ヒリガン」のもとへ送った。
後日、ヒリガンは二つの筆跡は同一人物によって書かれたものであると報告してきた。
・1961年、彼女は、『バーディックが死んだとき、彼に何が起きたのか』という本を出した。これは自動書記によって彼から送られてきたあの世の体験談をまとめたものである。
自動書記によって送られてきたバーディックの内容と、直接談話によって送られてきた内容を比較したとき、どのような違いがあるのだろうか?http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/life-after-death-25.htm

グレイス・ローシャーと『バーディックが死んだとき、彼に何が起きたのか(邦題 『ゴードンから愛を込めて』)』

・婚約者の死後、自動書記により本を出版。
・本書は、グレース・ローシャーの自動書記による霊界通信である。
ゴードン・バーディックの通信の内容は、彼の死の直後の状況から、彼が仕事を与えられて幽界の各地を旅し、人々の救済に赴くいきさつが詳しく述べられている。
また、これに関連して、幽界の様々な事象と、その世界で彼が学んだ幾つもの教訓が披露される。

ゴードンより愛をこめて
そちらの世界は、どんな様子なの
あなたは今、どこにいるの
僕に会わすべき最初の人は母である、と彼らは言った
僕はもう大丈夫だよ
二人を切り離すものは何もないんだ
僕であることを信じてほしい
死は存在しないんだ
僕は結局、きみの所へやった来た
一刻も、揺るがせにはできない〔ほか〕

『ゴードンから愛を込めて』
 『バーディックが死んだとき、
彼に何が起きたのか』
1963 

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングとブラックホールの特異点定理
イギリスの理論物理学者である。大英帝国勲章(CBE)受勲、FRS(王立協会フェロー)、FRA(ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツフェロー)。
一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表し世界的に名を知られた。1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」とする理論を提唱、1974年には「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表、量子宇宙論という分野を形作ることになった。現代宇宙論に多大な影響を与えている人物。 

 
 1966 ネヴィレ・ランダルと『500に及ぶあの世からの現地報告』  『500に及ぶあの世からの現地報告』 ネヴィレ・ランダル著
 1967  UFO研究会議、テーマは「UFOの20年」  『UFO事件の半世紀』
1960~1975

ベトナム戦争
・ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。1975年4月30日のサイゴン陥落時が終戦である。
・ベトナム戦争の本質として、独立戦争の終結時にフランスとアメリカ合衆国がベトナム全土の共産化を抑止するために、傀儡国家の南ベトナムを建国し、ジュネーヴ協定が定めた統一選挙が行われず、分断国家状態が継続されていたので、アメリカ合衆国の傀儡国家である南ベトナムを打倒してベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求める戦争という観点と、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」という観点もあり、二つの本質を合わせ持った戦争だった。

1944.6.10

1961.9.1
岡本天明、最後の自動書記現象となる。

五十黙示録第7巻五葉の巻(ひふみ神示 第三十七巻)

第十六帖
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄(いやさか)の仕組。
昭和三十六年九月一日(91)、旧七月二十二日(722)(1961)

最後に、五十黙示録第8巻(補巻)紫金の巻(ひふみ神示 第三十八巻)全14帖あり。
第十四帖
現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、生きることは死に向って進むこと、マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、神示を始めから読めば何事もありやかぞ。奥山はあってはならん無くてはならん存在であるぞ。善人の住むところ、悪人の休む処と申してあろう、奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ。八尋殿の左と右に宮が建つ、奥にも一つ。

日月神示
 1976  
1906~1980 ルース モンゴメリー(Ruth Montgomery,1912)の予言
ワシントンD.C.通信社のリポーターや新聞のコラムニストの経歴を持つ。
心霊現象の取材を行ううちに自動書記能力に目覚める。高名な霊能力者であったアーサー・フォードや他の存在がガイドとなって、自動筆記による数々の霊的な事象や超常現象を説明し、それらの書籍が次々とベストセラーとなる。

モンゴメリー女史は、1960年代から1980年代の半ばまで、多くの指導霊に助けられて著した
真理の探索(ASesrch tor the Truth)』、
未来への敷居(Threshold to tomorrow)』、
我々の間の異邦人(Strangers among Us)』などの著書を通じて、極移動の実像を詳細に伝えている
これは、まさに今まで言い続けてきた恐ろしい開闢の姿です。
即ち、宇宙一年の中で夏から秋に変わる時期に起こる秋開闢です。
しかし、終末ではなく、季節の変化で変わる新しい始まりなのです。
極移動が起こる前に、地球には様々な先触れが現れる。豪雪、暴風、洪水などが頻繁に発生し、気温をもさらに乱れてくる。実際的な地軸移動の前に、二つの特別な警告がある。地中海岸の島々、南アメリカ、カリフォルニアに散在している古い火山で爆発が起り、次いで悪性伝染病が蔓延るようになるだろう。その後、地球の大部分の地域で単発的な地震が発生し、北アメリカとアジア、そして南アメリカにわたる広範囲な地域で、古今未曾有の大きな津波が起るだろう。極移動が起きる数日間は、地球全体がまるで揺り篭で寝ている赤ん坊をあやすような振動を感じるだろう。-『Strangers among Us』
■ 地球上で生き残る人の数字は、一万人に一人を足し、それに一万を掛けたもの[(10.000+1)×10.000]である。
■ 極移動は地球が成熟する延長線上で起きるものである。地球の極移動は自然摂理で、地球自体の浄化(cleaning)のための必然的な過程である。-『Threshold to Tomorrow』より-
■ ニューヨークは水面下に消えてしまうだろう。フロリダ地域の大部分は沈み、点々と浮いている島地帯と化するだろう。ワシントンDCは荒廃化するものの、完全には破壊されない。
ほとんどの行楽地がなくなるが、バージニア海岸はわりと安全であろう。米国の東部と西部、英国、南アジアとヨーロッパの全地域はアトランテスの隆起によって氾濫され、大平洋ではレムリア大陸の一部が浮き上がるだろう。また、ハワイは海の底に沈むだろう。-『Strangers among Us』(p.228)
■ これまで神として崇められた霊魂が地球に戻って、生き残った人々が新しい秩序に適応するように助ける。その時の人類は、今と変わった人体構造を持ち、闘争と憎悪から解放され、霊的な成熟のために邁進するだろう。新時代の人たちは生命の存在意味を悟り、人間界と霊界の障壁がなくなる極移動の後に繰り広がる新時代(New age)は、最高の喜びと幸福の時代となるだろう。-『Threshold to Tomorrow』より-
■ その世界には究極的に統一した一つの政府が誕生する。戦争武器がなくなり、人類には二度とない幸福の時間帯になるだろう。未来の世界は、統治方法と信仰方法が一致する政教合一の様相を呈するだろう。-『Strangers among Us』(p.228)
真理の探索(ASesrch tor the Truth)』、
未来への敷居(Threshold to tomorrow)』、
我々の間の異邦人(Strangers among Us)』
1907~

1962年『沈黙の春』を出版
1964
レイチェル・ルイーズ・カーソン
1962年、沈黙の春を出版

幼少時は作家を志望。学生生活を経てアメリカ連邦漁業局に勤務。1941年『潮風の下で』、1951年『海辺』、1962年『沈黙の春』等の作品を発表。当時まだ顕在化していなかった、州当局によるDDTなどの合成化学物質の散布の蓄積が環境悪化を招くこと等の啓蒙活動に取り組んだ。
特に『沈黙の春』は、農薬類の問題を告発した書としてこれを読んだケネディ大統領が強く関心を示し、大統領諮問機関に調査を命じた。これを受けアメリカ委員会は、1963年農薬の環境破壊に関する情報公開を怠った政府の責任を厳しく追及。DDTの使用は以降全面的に禁止され、環境保護を支持する大きな運動が世界的に広がった。ただし後の研究では、「DDTの危険性」には疑問の余地もあり、その禁止によりマラリア患者激増という事態を引き起こしたとされる。
『沈黙の春』の執筆中に宣告を受け、病と戦いながらの執筆活動であったが、1964年4月14日に癌により死去。
『沈黙の春』
~2009.7.31 コラソン・アキノ
1963~

七沢賢治と伯家(はっけしんとう)神道
「言霊の第一人者であり、天皇家の祭祀システムだった白川神道の継承者」(「天皇祭祀を司っていた伯家神道」序文にて)。伯家神道とは何か。
※天武天皇が乱れた日本の国を建て直すときに、古から日本に伝わっていた教え(古神道)を、信仰として核心に持たなくてはいけないと気づき、その時信仰を受け持つ官職、即ち『神祇官』を定めました。
またその長官を『神祇伯』と言います。神祇官は、教義によって信仰を説くのではなく、宮中祭祀を司っていきました。これを称して伯家神道と言います。
神祇官は白川家が相伝していったため、白川神道とも言われます。この神祇官は、国家神道に取って代わる明治時代に終わりを告げます。そして最後の神祇伯である白川資長郷が昭和三十六年に帰幽し、白川家は途絶えます。

ところが、伯家神道で伝えられてきた貴重な教えは、井上正鐵(いのうえまさかね)や鬼倉足日公(おにくらたるひこ)らの精進によって今に伝えられております。
・七沢氏は昭和22年(1947)、甲府生まれ。早い時期から学校の勉強はそっちのけで、文学や哲学の本を読みあさっていた。特に高校時代に読んだ三島由紀夫の小説「英霊の声」に強い衝撃を受けた。その内容は、木村先生という審神(さにわ)者が主催する「帰神(かむがかり)の会」で、盲目の少年に二・二六事件で散った青年将校の霊をおろし、その霊の思いが切々と語られていくという内容である。
*審神者とは、祭祀を仕切り、神代(かみしろ)が受けた神意を解釈する役割を担う人。
・また、七沢氏は小さい頃から、自分がいつの間にか体から抜け出ていて、あわてて戻るという奇妙なこと(体外離脱)がしばしばあった。そのような少年期を過ごす中で、16歳のとき、啓示のような直観を受けた。「宇宙には意思がある」と。
・やがて東京の大学へ。東京にやる条件として、「宗教と哲学だけは専攻しない」というのが父親との約束だったが、当時は学生運動の真っただなか。学生運動でほとんど授業がなかったこともあり、水を得た魚のようにありとあらゆる宗教の門を叩いたという。
大学院時代は宗教学を専攻。・・・
・この頃に「小説すめらみこと」(森佐平著)で、「伯家神道」(はっけしんとう)の存在を知る。
“ここに大きな宝があるに違いない”と直感し、かつて伯家神道の調査にかかわった神社本庁の岡田氏、行法を受け継いでいる安見晴子氏、高濱浩氏と出会っていく。特に高濱氏は、自身の定年後に七沢氏に行法を授けることを約束する。
・七沢氏は1980年に結婚、1982年に甲府に戻り、奥様の久子さんは医療クリニックを開業。七沢氏は、久子さんともども「おみち」の修行を始める。白川の行法は一般的に「白川神道」、「伯家神道」と呼ばれ、門人たちはその行を「おみち」、「御修行」と呼ぶのだという。 
・1982年4月18日、定年となった高濱氏は、約束通り七沢氏の自宅を訪れ、八畳の和室にしめ縄を張り、神殿、神前を設けた。それからおよそ7年間、毎月七沢邸に4、5日滞在して、七沢氏に行を授け、1989年「あなたに、三種を伝授します」と伝える。
その翌月、かねてから体調を崩していた高濱氏は、他界した。
・七沢氏は今、「言霊学」においても第一人者といわれる。
大学院生時代に、国会図書館で小笠原孝次の著作「言霊百神」に出合い、日本語の一音一音を中心にした整然とした世界観に強い衝撃を受け、すぐさま小笠原孝次氏に電話し、その足で自宅を訪ね、その日から毎日のように通って教えをうける。

「言霊学」の中心は古事記の解釈で、七沢氏は次のように言っている。

私たちが普通に接している古事記は、江戸期の国学が生まれて以来の解釈で、端的に言うと、古事記には「言葉が神である」というメッセージが設立期から隠してある。ものすごい直感を持った人が、言葉が神だということを実感し、それを五十音に並べて、それを残すために、古事記に編みこんだに違いありません。

七沢氏が、著者佐々木重人氏の「生きている目的とは何ですか」の質問に答えた文のなかに、次の言葉がある。

 高濱浩先生は、最初に言いました。「あなた、神をこの手で掴(つか)みたいですか?」と。私は、ああ!いいなと思って、「はい、掴みたいです。」と答えて、それから御修行が始まりました。
 自分で神を掴まないと信仰になってしまいます。お拝んじゃ駄目なんです。祈ってすがるんじゃなくて、決意を表明して、神の働きのひとつになるためにご加勢くださいという姿勢です。

七沢先生が高濱浩先生から受けた教えは、実は一つだけだったという。
それは、「慢心してはいけません」ということでした。高濱先生は行法を伝えるたびに、毎回必ずこう言われていたそうです。神に通じ、言霊がわかればわかるほど出てくる感情かもしれません。
慢心(まんしん)」は、「満心」とも表現できます。主観的な心で満たされることが「慢心」につながります。慢心している自分を客観視することが必要になってきます。

結局、一人一人が神となるしかない。もともと、そういう存在としてあるのが人間であり、人間とは創造主の仮の宿りです。だからこそ自分自身で神をつかまないと信仰になってしまう。拝んではいけない。神にすがりつくのではなく、決意表明をして、神の働きの一つとなるためにご加勢くださいという姿勢が大事です。ですから、伯家神道には(祈願文としての)祝詞はなく、四つの祓があるだけなのです。 ―― 七沢賢治

1901~
1963
M.ドーリル博士と秘教真義
1901年アメリカに生まれ、1963年11月の感謝祭の日にこの世の肉体を捨てられました。本書第一部「聖者の教え」に出てくるセートンは、M.ドーリル博士ご自身のことを象徴的に書いておられる。
本書第一部は若干、自伝的な面も含んでいるのです。M.ドーリル博士は、生まれながらにしていくつもの
前世の記憶を保持してこられた稀有な方ですから、この世での学校教育は受ける必要は無かったのです。ですが、義務教育を受けないと父親が処罰されるというので、小学校の6年生のときだけ通学したといっておられます。
ドーリル先生は、23歳のときから8年間にわたってチベットと印度で偉大なる聖者たちから秘儀の奥義を学んでこられ、聖シャンバラの大師の使命を帯びてアメリカで、ブラザーフッド・オブ・ザ・ホワイト・テンプルという州公認の教会と大学とを創設されました。
我々の地球は、
これから二千年続く、地球最後の第七光明期に入っており(1956年から)、それに対する準備として聖シャンバラの計画のひとつとして作られた諸団体の一つがブラザーフッド団なのです。宗教的なことにあまりなじみの無い読者には、本書の内容の一部には信じ難い面や難解な点もあるかもしれませんが、世俗的常識にこだわらず心読することと、読み重ねることとによって徐々に視野が開けてくることでしょう。
宗教的知識の豊富な読者には、本書の内容で反発を感じられる面もあるかもしれませんが、先入観と既成概念にとらわれず虚心坦懐に読んでもらいたいと思います。
ドーリル先生の書いておられることは、全て
ご自身で実際に見聞体験されたことばかりなのであって、推論憶測や受け売りで書いておられるところは一箇所も無いのであるということを強調しておきます。
 
秘教真義-訳者(林 鐡造氏) はしがきによる

しばしば、我々は何かいやなこと、、聞きたくないこと、思いたくないことから心も意識も遮断し始めるものだということを知っていませんか。
世の中には、忘れてしまいたいこと、記憶から抹殺してしまいたいことが多いものだから、我々の記憶の中にはブランク(忘却)があるのである。
しかし、これは正常な方法での悪念の除去法ではないのである。
我々が意識の全力を挙げて、その悪念を変化させ、変質させ、ついにはそれを愛するようになるという方法で、その嫌な念を除去したわけではないからである。それが憎いからというので、何だろうと、追放し、消し去ってはいけないのである。その嫌なものに我々の
創造意識能力を振り向けて変化変質させて、それから神聖法則に生きなければならないのである。
を求める全ての真の求道者は、真理を系統的方法で探究することから始めるべきである。
誰に対しても最終的には
宇宙意識同調させるように導く、よく計画された方法に従うべきである。
 1963.9.1 500に及ぶあの世からの現地報告』より
・この日、たいそう権威のある高級霊からのメッセージが送られてきた。彼は名前を教えてほしいという要請には一切応じず、「ピエロとでも呼んでください」と答えるだけであった。その彼が語った。
・「霊媒者の所へ足を運ぶ多くの人々が、自分たちはただ座っているだけで、あの世の霊から自動的に通信が送られてくる、と愚かなことを考えています。もし少しでも真面目に考えてみるなら、あの世との交信はいつでもできるものではないこと、優れた成果はそう簡単に得られるものではないことに気がつくはずです。…
こちらの世界にはドグマはありません。地上人が思うような宗教はありません。こちらでは人々は自由に自分を表現し、自由に考えることができます。人間の生み出したつまらない限界・愚かさをはるかに超越した自由闊達な世界が存在します。こちらでは人々は自由に真理を語ることができます。
そして、その真理ゆえにわれわれは幸福を招来し、またそれを他人に与えることが可能になるのです
・“求めよ、さらば与えられん”と言われてきました。しかし現在の地上には、正しくドアを叩く人(真理を求める人)はほとんどいません。恐る恐る、少しだけドアを叩く人はいますが、彼らは、自分たちの問いかけに答えてくれる人さえいないことに驚くのです。また何がなんでもドアを開けようと必死になって叩く人もいます。しかし、そうしたからといってドアは開きません。また自分の全体重をかけてドアを押す人もいます。そしてドアは壊れて飛び散ってしまいます。
・彼らは、あまりにも物質的・肉欲的であったり、欲望に走り過ぎたり、または悪い意味で力み過ぎるため、開かれたドアを通して本当の霊的世界を覗き見ることができないのです。
皆さん方は、善意と誠実さと開かれた心を持って自分のできることをなさってください。そうすれば、こちらからの優れたメッセージを受け取ることができるのです。そして真に道を求める人々のために役に立つことができるようになるのです。
 
1963

「最後の奇蹟」「ファティマ第三の預言」
青山圭秀著 幻冬舎文庫 265P~
 1963年、あるドイツ系の新聞に掲載された記事がある。外交関係筋から入手したとしている。
そこの収められた「ファティマ第三の預言」は、いつものように、悔い改めを求める聖母の言葉から始まっていた。
「愛しいわたしの娘よ、心配はいりません。神の母であるわたしは、わたしの名において世界が次のことを知るよう、願っているのです。
それにより、あなたは激しい敵意を買うことになるでしょう。でもこれからわたしの言うことに耳を傾け、深く心にとどめなさい。
人類は善良にならなければなりません。これまで犯してきた、そして今も犯し続けている罪の許しを、願わなければならないのです。」

「さあ、いよいよわたしの名において、はっきり宣言するのです。
すべての人類の上に、大いなる罰が降りかかるでしょう。このことは、すでにラ・サットで二人の子供を通じて告げましたが、今、あなたの前で繰り返します」

「人類は、神が期待されたように進化しませんでした。御父に対する冒涜の態度をとりつづけ、今もなお、その恵をないがしろにしています。秩序の支配する場はどこにも見当たらず、悪魔は国家の首脳さえ支配し、世界の行く末を決定しています。

サタンは実際、教会の最高位まで首尾よく迎えられることでしょう。
サタンは偉大な科学者をそそのかし、人類を数分で滅ぼす兵器を開発させます。
権力者を影響下に置き、それを大量生産するよう仕向けます。
もし人類が拒否しないのであれば、わたしは、御子の怒りの腕を振り下ろさせないわけにはいきません。
世界や教会の指導者たちがこの動きを阻止しないのであれば、その仕事はわたしが引き受けることになります。


わたしは、御父にお願いし、裁きが人類に下るがままにするでしょう。
そしてそのときは、よろしいですか、神は、ノアの洪水よりも厳しく、仮借なく人類を罰したもうのです。
偉大な者も、力ある者も、とるに足らぬ者や弱い者と共に、非業の死を遂げるでしょう。」

「最後の奇蹟」
「ファティマ第三の預言」
 1963 11月22日のジョン・F・ケネディ(アメリカ)暗殺。
アメリカ政治および国際社会の大転換点となった。
黒人の公民権法も関連か?
 
1965  日韓基本条約
1965年、韓国は日本と日韓基本条約を結んだことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在価格では合計4兆5千億円相当。当時の韓国の国家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供与及び貸付けを得ることとなった。国際協力銀行によると1960年半ばから90年代までにトータル6000億円の円借款が行われ韓国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種インフラの開発や浦項総合製鉄をはじめとした企業の強化をおこなった。インフラ整備後は、日本の民間企業によって大規模な投資がおこなわれた。
韓国では、日本による多額の経済援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知らされていないため、多くの韓国人は自国が独力で経済成長を達成したと思っている。
 
 1966 イアン・スティーヴィンソンと『生まれ変わりを思わせる20例』の出版
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248
 
~1966 桜沢如一(ゆきかず)-マクロビオテックの創始者 前述
「無双原理・易」
この世を幸せな世界にしようと思うと必ず食に突き当たる。
1967

ソ連  放射性廃棄物の飛散
・放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されていたが、1967年春に干魃が発生した際に湖底が干上がって乾燥した。
・放射性物質を含む砂や泥が風にのって空気中に飛散したため、汚染地域が広がり周辺住民に放射物質による新たな健康被害を生むこととなった。
・また1950年代に河川に投棄されていた放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の健康被害を深刻なものとしている。

1887~
1968 
ピエトレルチーナのピオ神父没
(San Pio da Pietrelcina、Padre Pio da Pietrelcina、1887年5月25日 - 1968年9月23日)は、イタリア生まれのカプチン会の司祭。聖痕や病者の治癒や予言で有名である。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって1999年に列福され、2002年に列聖された。出生名はフランチェスコ・フォルジョーネ(Francesco Forgione)。一般にピオ神父またはピオ司祭として知られている。 
・1910年9月7日、ピオ神父が祈りを捧げていると、イエスと聖母マリアが現れて、神父に聖痕を与えた。医者は当惑し、その傷を恥ずかしく思った神父が主に祈ると、傷は治癒した。
・伝記によれば、この時期、肉体的疾病とともに、不思議な現象が起こり始めたという。それによると、夜になると神父の部屋から変な音が聞こえてきた。それはしばしば叫び声やうめき声だった。祈りの間、ピオ神父は心ここにあらずといった体で放心状態だった。また仲間の修道士は恍惚として宙に浮かぶピオ神父を見たと言っている。
・ピオ神父は、神の愛は苦悩と切り離すことができず、神のためにあらゆる苦しみを受けることは、魂が神に達する方法であると信じていた。神父はまるで地獄の最も深い穴の中にいるかのように、自身の魂が混沌とした迷路で迷い、完全な孤独に落ち込んでいると感じていた。霊的に苦悩している間、ピオ神父は、悪魔によって肉体にも魂にも攻撃を受けていたと神父の支持者は信じている。支持者らはまた、悪魔がピオ神父の苦しみを増すために、魔術を使ったと考えている。具体的には、「光の天使」を出現させたり、ピオ神父と霊的指導者との間で交わされた手紙を、書き換えたり破損したりした。オーガスティーン司祭がこのことを確認したのは、ピオ神父が以下のように述べたときである。
”悪魔は何も着ていない踊る裸の若い女や、磔にされた主、修道士の若い友人、霊的指導者、管区長、教皇ピウス10世、守護天使、聖フランチェスコ、聖母マリアの姿をとって現れました。
悪魔が私に対して怒りをぶちまけることをイエスがお許しになってから、今日で22日が過ぎました。司祭様、今までに我々の敵が私に与えた打撃によって、私の全身にはあざができています。私のむき出しの肉をたたくことができるように、何度か悪魔らは私のシャツさえ引き裂きました。”

バチカンにおける上級エクソシストのガブリエーレ・アモルト神父は取材の中で、ピオ神父は、霊が現前したとき、そのさいにもたらされる感情と心理状態を慎重に分析することで、それが本物のイエスや聖母または聖人なのか、あるいは悪魔によって作り出された幻影なのかを区別することができたと述べた。
・1918年9月20日に霊的穿刺の痛みが終わり、ピオ神父は深い安堵を得たと報告されている。その日、ピオ神父が聖母マリアの恩寵教会の聖歌隊席で祈りを捧げていると、神父に霊的穿刺を与えたのと同じ人物で、傷ついたキリストと思われる人物が再び現れ、ピオ神父はまた宗教的法悦を経験した。それが終った時、ピオ神父はキリストの5つの傷と同じ聖痕を体に受けていた。この時の聖痕は、その後の生涯の50年間、体から決して消えることはなかった。

・ピオ神父は心を読んだり、目撃者の証言によれば異なる2カ所に同時に存在する能力バイロケーション(さまざまな超自然現象を引き起こす能力があったと言われている。神父にまつわる超自然現象が報告されて、神父は有名になり伝説的存在となったが、当初はバチカンでさえ懐疑的であった。
・1947年、教皇庁立聖トマス・アクィナス大学(アンジェリクム大学)の学生で、後に教皇ヨハネパウロ2世となる若いポーランドの聖職者カロル・ユゼフ・ヴォイティワ神父が、ピオ神父を訪問した。ピオ神父はヴォイティワの告解を聞いたが、その際、神父はヴォイティワに、「更なる確認が必要ですが、いつかあなたはカトリック教会で最も高い地位につくでしょう。」と言った。 ヴォイティワ神父は、オーストリアのアルフォンス・スティックラー枢機卿に、それを打ち明けたという。スティックラー枢機卿によれば、敬虔の業で告げられたような教皇でなく、枢機卿になった時、ヴォイティワ神父は予言が成し遂げられたと考えたとも言う。(ヨハネパウロ2世の秘書スタニスワフ・ジヴィシュは予言について否定しており、ジョージ・ワイゲルによるヨハネパウロ2世の伝記Witness to Hopeは前述の訪問にふれているが、予言には言及していない。)口承によれば、ヴォイティワ枢機卿は1962年に、癌を患っていたポーランドの友人ヴァンダ・プウタフスカ博士のために祈りを捧げて欲しいとピオ神父に手紙で頼んだ。後にプウタフスカ博士のガンは自然治癒したとわかった。医師らはこの現象について説明することができなかった。
・1999年に出版された、アイルランドの聖職者マラキー・ジェラード・キャロルによるピオ神父の伝記では、盲目だったシチリアの女の子ジェンマ・デ・ジョルジが、ピオ神父を訪れた際に盲目が治ったとされる話を紹介している。
・ピオ神父は、聖ジャン=マリー・ヴィアンネに起きたと記されている出来事と同じく、サタンとその手下に対して体を張って戦い、そのことで外傷がさらに拡大したと言われている。神父は天使と意思の疎通を交わすことができ、自分に依頼がなくとも、恩恵と治癒をもたらしたと言われている。
・神父が亡くなった日、神秘主義者で神のしもべ、ベネズエラのカラカスに住むマリア・エスペランサ・デ・ビアンチーニによると、ピオ神父が幻視の中に現れて、「私は、さようならを言いに来ました。私の時間が来ました。今度はあなたの番です。」」と語り掛けたという。 そのときエスペランサの夫は、妻の顔がピオ神父の顔に変わるのを見た。次の日に、二人はピオ神父の訃報を耳にした。のちに人々は、エスペランサがミサの間に浮揚したり、バイロケーションを行ったりしたのを目撃したと主張した。

 
1880~1968 ヘレンケラーとスウェーデンボルグ 前述
・社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。
また、著作家としても書き続ける。
幼い頃からヘレンは、この世のすべてのものを創造したのは誰だろうという疑問を持っていた。それに対してサリバンは、「母なる自然が創った」と話して聞かせていた。最初はそれで納得していたヘレンであったが、自ら手に触れるものには「みんな生命がある」と感じ、創造主に対する好奇心は増すばかりであった。そして神について考えるようになり、フィリップス・ブルックスという神父から「神は愛なり」というキリスト教の教えを学んだ。しかしそれでもヘレンは神の愛と「物質世界」との関係がはっきりつかめずにいた。
・ヒッツはアメリカ駐在のスイス総領事として長年ワシントンにいた人で、後にはワシントンのヴォルタ局の局長になった。ヒッツはヘレンを心から愛し、またサリバンの仕事が、へレンだけではなく、世界的な意義を持っていることを理解し、高く評価していた。ヒッツはしばしばボストンやケンブリッジへへレンたちを訪ねてきた。ヘレンもまた、タスカンビアヘ帰る時には必ずワシントンで下車して、ヒッツに会うのを楽しみにしていた。ヒッツはいつも長い手紙をくれた。彼はその手紙をヘレンが自分で読めるようにと、点字を習ってヘレンが読みたがっている本を、点字に打ってくれた。
ヘレンはこの人から、スウェーデンボルグの『天国と地獄』という本を貰って読み、すっかりその思想に魅せられて、スウェーデンボルグの考え方をもっと研究したいと思い、ヒッツに頼んだ。ヒッツはヘレンの役に立ちそうなものを点字に打って、送ってくれた。
ヘレンは彼の宗教書にすっかり心酔してしまった。彼女は自分もまた霊的な体験を持ったと信じ、それをサリバンに語ったこともある。『世界の伝記』より
http://www.geocities.jp/swedenborgjsa/helen.html

『ヘレン・ケラー 光の中へ』 勇気を与えてくれるヘレン・ケラーの言葉
1 他界を見た天才科学者
2 恩人ヒッツ氏の導きで
3 スウェーデンボルグの肖像
4 「聖言」の秘められた意味
5 天界の生活
6 神は愛なり
7 歓びこそが生命
8 障害は神から与えられた試練
ヘレン・ケラーが心のよりどころとしたのは意外にも、スウェーデンボルグの教えだった。ヘレン・ケラー自らがその知られざる内面世界について綴った唯一の書。
本書のなかで彼女は、三重苦の自分を情熱的な人生へと導いたものが、異端と言われた愛の思想家スウェーデンボルグの教えであることを初めて明らかにした。
スウェーデンボルグ思想の解説という形をとってはいるが、ヘレン自身の体験に裏打ちされた熱いメッセージの書でもある。
「ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグの深い信奉者であったことを知る人は少ない。かくいう私も本書を読むまではその事実を知らなかった。本書を読んで私は驚き考えさせられた。感覚世界の中で目に見えない領分をよく知っている人は、真に目に見えない超感覚的世界の実在をよく知ることができるのかと」鎌田東二氏序文 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4839700680.html
ヘレン・ケラー 光の中へ
原書名:My Religion(Keller,Helen)
1929~1968 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。
キング牧師の名で知られる、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者的役割を果たした活動家。 「I Have a Dream」。黒人。
FBIから脅迫文が送られていた。その手紙が2014年公表された。

※民主主義は死に物狂いで手に入れたもの…キング牧師に対するFBIの脅迫状、全文公開 2014.11.17 ドニトエフ社会著者別 コメントを書く キング牧師というと黒人差別に反対し、I have a dreamという感動的な演説でもって非常に有名な人物です。そんなキング牧師に、当時のFBIが出した脅迫状が先ごろ全文公開されました。自殺を促すような脅し...

※マルコムX - 黒人、暗殺
※ジョン.F.ケネディ
 - 暗殺
1919~
1940~1968

中村天風(てんぷう)
日本の元祖「プラス志向」-三忽三行怒らず、怖れず、悲しまず」「正直、親切、愉快」-人生は心一つの置き所-
笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している
日露戦争で113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。
日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。
33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。
結核を治すため世界を飛び回り「 世界一の大学者ですらそう言うんだからもう駄目だ 」と失望のどん底で「 せめて日本で死のう 」とマルセイユの港を後にしますが、偶然にエジプトで停泊中、船に同乗していたヨガの大聖人カリアッパ師にめぐり会うのです。
おまえはまだ死ぬ運命にない
おまえが知らない方法で、助かる方法がある
私について来なさい。」
その言葉に「サーテンリー。(かしこまりました。)」
と一言答えて、行く先も知らないのに天風はカリアッパ師一行について行ってしまいます。
このカリアッパ師は、実は、「
カルマッパ・カキャブ・ドルジェ」(1871~1922)でラマ教カルマ・カギュ派の第十五世管長でありヨーガの大家だったのです。
吐血ばかりでやせ細り、死へ向かっていた中村天風はインドと東ネパールの国境に位置するカンチェンジュンガの山麓のコーグ村で厳しい修行に入ります。
滝の前で瞑想したり、師に出された課題をひたすら考えたり・・・。
それは、生きるために行なう背水の陣のごとき修行でした。
ヨーガでは、悟りや奥義を師から弟子に口で教える事はほとんどありません。
課題に関しての答えは、自分で見つけ出さなければいけないのです。

初めは、身体の調子にばかりとらわれていた天風。
師に「元気か?」と問われても
「どうも、調子がすぐれません。」と返す。
私は、お前の体の状態を問うているのではない。」とカリアッパ師。
瞑想と師とのやりとりの中で天風は、身体ばかりを意識するのではなく、「心の持ちよう」で生きていることそのものが変わってくる事を体得するのです。

やがて、インドの山奥で
無の境地を悟った中村天風。
それを悟ると、身体はみるみる良くなっていったそうです。

後に、中村天風は上海で孫文を助け革命運動に加わり帰国。
実業界に進出し、東京実業貯蔵銀行頭取、大日本製粉(いまの日清製粉)など数社の重役として活躍するのですが、
天風43歳のとき突然すべてを投げ打って、日比谷公園で
大道説法をはじめるのでした。『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』より
1919年(43歳)突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。
1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。松下幸之助他門下生多数。
1968年12月1日死去。享年92。

1968

カール・ウィックランドと除霊治療
アメリカ人の精神科医ウィックランドは、早くからスピリチュアリズムへの理解があり、交霊会を持っていました。あるとき霊界から提案を受けました。それは彼が扱っている精神病患者の多くが低級霊による憑依が原因となっているので、その霊を患者から引き離し、霊媒者である妻アンナに乗り移らせるので、霊と対応して目覚めさせ救ってほしいというものでした。そうして始めた除霊治療は30年間にわたり、おびただしい数の憑依霊と精神病患者が救われました。
この除霊治療についてまとめた著書『死者と(に?)交わる30年』が1968年に出版された初版は1924年)。これはスピリチュアリズムの心霊研究上、きわめて貴重な資料と言える。スピリチュアリズムの歴史より

『死者と(に?)交わる30年』
1968~1969

香港かぜ
H3N2が引き起こしたカテゴリ2に価するパンデミック。
H3N2とH2N2の抗原不連続変異が新型ウィルスとして一連の流布を引き起こした。
香港かぜでは1968年から1969年にかけて少なくともおおよそ50万人が亡くなったと考えられる。
また、アメリカでも500万人の罹患者が出ており、33000人が亡くなった。

この流行ではH3N2とH2N2の両方がトリインフルエンザと共通する遺伝子を含んでいたとされる。 この新型は豚が人型と鳥型の両方に感染して、すぐに人間に感染するようになった。 豚は彼らに分岐している亜型の再分類を証拠付けたため、豚はインフルエンザの中間的宿主であることを暗示した。 しかしながら、他の宿主も同様の複数の感染をすることができ、鳥から人間への直接感染も可能である。H1N1は鳥から直接人間に感染するようになった可能性もある。

1969 ラインと超心理学研究室
ラインが主導して1957年に設立された「超心理学協会」は、1969年に米国科学振興協会の下部機関に認定された。ラインが退職後、現在は大学からは独立した超心理学研究所として存在している。
 
1969

チャールズ・タートと『変性意識状態 Altered States of Consciounsness』
この著書で一躍有名になった。
変性意識状態」(日常的な意識状態、睡眠状態以外の意識状態)という言葉の生みの親。
サイキック(超能力)の実験的研究、テレパシー、夢、予知、遠隔視、肉体離脱などの現象の解明に取り組んでいる。

『変性意識状態Altered States of Consciounsness』
1969~1974 終末医療
1969年、アメリカの有名なフォト・ジャーナリズム雑誌『ライフ』がキューブラー・ロス博士の授業に注目して紹介し、全米に大反響を呼び、死にゆく人の心のケアを医療の課題として正面から訴えたキューブラー・ロス博士の名は全米に知れ渡った。
・アメリカではこれが契機となり、医大に終末医療の講座ができたり、 1974年にはアメリカ初のホスピスが誕生し、1976年には延命治療を望まない権利を認める自然死法が成立(カリフォルニア)。
・1982年には老人保健でホスピスケアが認められた。
ジャーナリズム雑誌『ライフ』がキューブラー・ロス博士の授業に注目して紹介
1970.1.3 ケイ・オバラの娘、エドワーダ・オバラが長い眠りにつく
エドワーダは、妹のコーリンと仲良く遊ぶ、とても従順なカソリック教徒だった。
1970年1月3日、わずか16歳の時に糖尿病で昏睡。
以後、母親のケイが、自宅で看病を続けていた。看病をはじめて39年目に入った2008年3月7日、ケイは天国へ旅立ち、その後、妹のコーリンが母の遺志を継ぎ、自宅で看病を続けた。⇒エドワーダは、2011年3月27日で58歳に。
ウエイン・W・ダイアー博士が『 "A Promise is a Promise" 眠りながら奇跡を起こす少女』として出版
『 "A Promise is a Promise" 
眠りながら奇跡を起こす少女』
1970~ ウィリアム・マクギャレー医博夫妻、エドガー・ケイシー医療リーディング診療所建設
のちに保養所、更正センターも備えた統合医療施設となり多大の成果
ウィリアム・マクギャレー
『奇跡のエドガー・ケイシー療法』
1971

コリン・ウィルソンとウィリアム・ジェームズの法則
1971年にコリン・ウィルソンは出版社の依頼で『オカルト』を発表した。
「オカルト」ブームの発端の一人である。この時期のウィルソンは宗教や心理学には強い関心を抱いていたが、オカルティズムに対しては懐疑的だった。ウィルソンはラスプーチンとグルジェフを、オカルティズムを超えて評価できる思想家であると考えている。
ウィリアム・ジェームズの超常現象に対する考察
それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている」に対し、コリン・ウィルソンは、これを「ウィリアム・ジェームズの法則」と名づけた。

↑古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われるが、果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。これに就いて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。訳して哲学行為主義であるが、これを私は宗教行為主義に替えたいと思うのである。
『天国の礎』P10より

1970~1980 「ニューエイジ」(New Age)(ニューエイジ・ムーブメントニューエイジ運動
アメリカ合衆国、とりわけ西海岸を発信源として、1970年代後半から80年代にかけて盛り上がり、その後商業化・ファッション化されることによって一般社会に浸透、現在に至るまで継続している、霊性復興運動およびその生産物全般、商業活動全般を指す場合が多い。
・字義通りには「新しい時代」であるが、新しい世界、新しい思想を含意する。
この表現の背景には、ヨハネの黙示録に見られ、一部のキリスト教徒が採用している千年思想がある。すなわち、神と悪魔の戦いが千年続き、最後に神が勝利して、ニューエイジ=新しい世界がやってくるというものである。
・基本的には、伝統的な教えの中から、古くて役に立たない教えを廃し、真の意味での教えを明らかにしようという運動である。
ニューエイジ運動は、60年代のカウンターカルチャーをその直接の起源とする。物質的な思考のみでなく、超自然的・精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放された、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする運動である。
・その中には、以下のような共通項をもつ、新旧の多様で雑多な要素が、互いに力動的に関わり合いながら共存している。
  • 反近代、反既存科学、脱西欧文明(禅や道教、チベット仏教などの東洋思想やネイティブ・アメリカンの思想、あるいは“異教”的文化への親和性)
  • ポジティブ・シンキング(個人に内在する力と可能性の強調)
  • 五感や身体性・主観的体験の重視
  • 論理的思考に対する直観的理解(「気づき」)の優位、
  • 快の感覚や欲望の肯定、
  • 旧来の社会道徳の否定と極端な自由主義の思想、
  • 汎神論的・宇宙神的存在あるいは「大いなる意志」への信仰と、万象に対するその介在を根拠とする「偶然性」の否定
  • 自然への回帰(しばしば人間以外の生物との精神的な交感を含む)
  • 女性性の尊重、など。

・具体的な構成要素としては、チャネリングリーディング瞑想法前世療法催眠療法等の心理療法ヨガ呼吸法さまざまな整体術等の身体技法、ホーリスティック医療心霊治療、アロマテラピー、オーラソーマ、パワーストーン、輪廻転生信仰、さまざまな波動系グッズなどを挙げることができる。
これらのうちのいくつかの物は一般に「オカルト」と呼ばれる領域に属する。
・その裾野部分では、ニューエイジは現代の行き過ぎた消費文明や経済的効率主義に対して警鐘を鳴らし、これを中和しようとするようなオールタナティヴな社会思潮として機能する可能性を期待されている。しかしその一方で、しばしば、その信奉者の理性的・論理的・科学的な思考力を鈍化させて批判力を鈍らせ、また極端な場合には、破壊的カルトやオカルト商法といった反社会的な形をとって立ち現れる。そのようなわけで、ニューエイジの功罪について、明快な評価を下すことは容易ではない。
・ニューエイジ的な価値観を信奉する人のことをニューエイジャーという。
・「ニューエイジ」という呼称は、具体的にはみずがめ座の時代(age of aquarius)を意味する。
・この呼称は西洋占星術に由来し、地球の歳差運動によって黄道上を移動し続けている春分点が、ちょうど20世紀の後半に、黄道十二星座のうお座からみずがめ座に入るとの主張による。ただし、実際には21世紀においても春分点はうお座のままである。
・上述の主張では春分点がうお座にあった時代は、ほぼキリスト生誕から現在までの約2000年間と重なる。
・さらに、キリスト教には、イエスをによって象徴させる慣わしがある。このことから、「ニューエイジ」という言葉には、今こそ既存の西洋文明・キリスト教の支配する時代が終息し、自由で解放された「新時代」(=みずがめ座の時代)の幕が開いた、という意味が込められている。
・この思想の内容として主要なことはone nessワンネスといわれる。つまり、この宇宙は唯ひとつであるというものである。ニューエイジの本質は破壊的なものではなく、新しい人類のライフスタイルの提案と、今の社会システムが完全ではないという問いかけ、また新たなライフスタイルはいつでも実現可能であるという積極的な働きかけにあるというのがチャネラーによる見解である。
しかし一方で、一見もっともらしいと思われる内容とひと目で分かる形式的・論理的破綻がニューエイジと呼ばれる運動の顕著な特徴であるという批判もある。
ニューエイジャーの間で流行った占いのようなものがある。ニューエイジを理解するひとつの例として紹介する。
何をするべきか迷ったとき-手近な本(または雑誌)を手に持ち、適当なページを開いて見る。適当なページを開くと、そこに人生のヒントとなることが書かれているという。ニューエイジャーいわく「偶然というものはない」。つまり、適当なページを開くことも偶然ではなく、そこにヒントが書かれているのも必然であるという。またゴータマ・ブッダの教えを引用し、たとえ、すごいヒントにであっても、またそれがヒントにならなくても、どちらにも「こだわるな」という。
・またニューエイジでは、しばしば宇宙人もしくはエンティティー(霊体、実体)という存在について語られる。これらの存在は神ではなく、信仰の対象ではないと説く。一部では熱狂的に信仰する人もいるが、ニューエイジャーにいわせれば、そういう依存する信仰はオールドエイジであるという。
・ニューエイジの特徴には「一元論」「汎神論」「自己聖化」「自己実現」などがある。

  • すべてでひとつである。
  • 偶然というものはない。
  • 弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
  • しなければならないことというものはない。
  • 善悪というものはない。
  • 信じる必要はない。
  • 努力はしなくてもよい。
  • 与えたものが返ってくる。
  • すべてのものは聖なるものである。
  • 人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
  • どんな現実も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。
  • アファーメーション(確認する)
やや共通認識事項
輪廻転生とカルマの法則
地球外知的生命との接触
過去の文明の周期と埋もれた文明の実在
人体におけるチャクラや霊的諸次元の存在
水晶・音・香・場所などが持つ神秘力
指導霊の実在
体外離脱や誕生前記憶の体験による霊魂の存在の確認
チャネラーやシャーマンの真正性

その他
超常的感覚や能力の実在
思考が現実を変える
現代こそ意識進化の時代
意識変化は宇宙的進化過程のひとこま

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ディヴッド・アイクの著書『大いなる秘密』に書かれている内容で、注目したいのは『ニューエイジ運動』の真相である。
1970年代後半から80年代にかけて、アメリカを中心に世界的なブームとなったニューエイジ運動の仕掛け人は、誰あろう、『バビロニアン・ブラザーフッド』そのものであったということだ。
しかもその中心人物が悪名高き「キッシンジャー」であったこと。
1970年代からその活動がなされてきたことであった。彼らの常套手段はいくつかの真実に多くの嘘をまぶし、人間の正しい判断基準を狂わすことであった。ニューエイジ運動もまたそのひとつであったようだ。
私も80年代のニューエイジ関連の書物には影響を受けた。ニューエイジ思想の代表的な著書も多数読んだ。しかし、その思想を知れば知るほど一種の違和感が芽生えてきたのである。とりわけ私が最も危惧したのは、ニューエイジ思想が持つ現実感覚の喪失であった。
・知人の中にもいたくニューエイジ思想にかぶれた者がいた。瞑想三昧の生活をし、あちこちで開かれるセミナーに参加しているうちに、彼が社会生活から遊離していくのが傍目にも感じられた。逢うたびにオーラの輝きは消え失せ、空ろな目をした無気力な人間となっていた。私が危惧したとおり、仕事はおろそかとなり、経済的に困窮し、最後は先物取引やマルチ商法に手を出して自己破産した。彼にとっては何のためのニューエイジ思想だったのだろうか。
・私は若い頃、故あって出家を真剣に考えたこともあったが、仏教の持つ厭世的で隠遁的な側面に嫌気がさして、考えを変えた経験があった。ニューエイジ思想の新しい概念は当初は新鮮に感じられたが、やがて自己の内面だけに閉じこもりがちになり、現実とのギャップが深くなることに気づき始めた。また私のような原日本人には、西洋的な神や天使達の名前は生理的に受けいれられなかった。ある日、私はそれまで読んだ総ての本を捨ててニューエイジとは決別した。今考えてみれば、正しい選択であったようだ。
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霊的戦いの対象/ ニューエイジ運動(New Age Movement) (1) 
ニューエイジが迫っています。誰も、どんな勢力も、突進してくるこの巨大な台風の進路に立ったら、災いを免れることはできません。ニューエイジ運動は、色々な服を着て、既に私たちの横に近く来ています。ただ私達が知らないだけなのです。敵が近くにいるのに、目に見えないのです。

ニューエイジの思想は、癌細胞のように地球の文化の中に深々と広がっていっています。カトリックは言うまでもなく、このまま行けば、キリスト教文化もまもなく犠牲になって消えるはずです。ニューエイジ運動は、小説の話ではありません。単純な文化運動でもなく、イスラム教圏の世界を掌握する祈りとも、そのスケールが違うのです。全人類を惑わし、創造主なる神様と救い主イエス・キリスト、そして救われた民を導き守って下さる聖霊の存在を知らなくさせることが、ニューエイジ運動の隠された目標です。

ニューエイジは、神智学(Theosophy: 神に対する知識を研究する分野)を土台にして、新しい時代を開こうという運動です。ニューエイジ信奉者は、神々に関する霊的な知識を、神に接する行為(チャネリング)を通じて得ます。ニューエイジの予言者は、チャネリングを通じて、悪霊が言ってくれるとおりに、助詞や助動詞のひとつも漏らさずに、本に編集して出します。その内容は、地球上のあらゆる宗教を統合(キリスト教以外のあらゆる宗教は、被造物崇拝であるから、これが可能)して、単一世界政府、単一世界経済体制、新時代指導者(反キリスト)を誕生させるということです。自分の終末を知っているサタンの最後の陰謀であり、作戦です。その計画と戦略の緻密性は、想像を超越するほどです。

これまでの6千年間の原始宗教から現代宗教に達するまで、数多くの宗教で人間を惑わしてきたサタンが、今は全世界に分散しているその勢力を一つに固まて、神様に敵対する一大宗教的クーデターを起こすということです。

しかし、ニューエイジ信奉者は、一様に平和と愛と一致など、美しいスローガンを掲げて人間は、みんな無限な可能性と創造力を持っていると主張します。彼らはまた、いままで人類は進化論的輪迴(カルマ)を通じて、これくらい発達したが、これからは各自が瞑想を通じて、個人の精神(consciousness)を一つに集めて、集団的、宇宙的精神の次元で昇華させて、新しい時代を開くべき時だと主張しています。

このために ニューエイジ運動は、アダムが堕落した以後、人間がやみの中で行なってきた(特に、バビロンとエジプトの) 秘密儀式、神秘主義、魔術、占術、心霊術、チャネリング、瞑想、フリーセックスなどの方法を動員しています。彼らは、これを通じて悪霊の世界と接して、人間の肉体的な限界と世界を抜け出して、神的な境地に到達するということです。

別の言い方をすれば、新時代運動は創世記3章事件の以後に現れた神様の救いの働きとともに並行してきたサタンの運動です。このニューエイジは、現在西洋の服を着ているのですが、実際には、仮装した最も古い宗教であるヒンドゥ教にその根をおいています。

ニューエイジ運動は、1875年ヘレナ・ブラヴァッキーというロシア出身の女性が米国でいろいろな霊媒者と神智学(接神学)協会を創設して、本格的に開始しました。その後に、英国出身の女性アーニー・ベサント(この協会の2代目会長)は、サタンの指示で宗教統合の実質的な基礎と運動の理論を体系化して、隠密に準備してきました。1975年にはマリリン・ファーガソンが彼女の本'水瓶座のたくらみ(アクエリアン革命)'で、自分の主張を全世界に公開しました。

もうひとりの重要な人物は'マイトレーヤの使命' の著者、ベンジャミン・クレームで、彼は1982年 ニューヨークタイムズ等 20個の主要新聞に "キリストは、今ここにいる"と宣言する全面広告を出しました。彼は新時代を開いて導いていくキリストは、既に用意されていて近いうちに現れるはずで、その日には世界中が直感的に彼が新時代を導いていく世界の指導者であるということを知っているようになることだと大言壮語しました。ニューエイジは、人類の人間性回復、汚染された環境の回復、真の平和と幸福を叫んで、新しい世界秩序、新しい世界化、新時代革命、新意識 などのスローガンを全面に出して、政治、経済(金融)、社会、文化、教育等に既に深く食い込んで、かたい組織を築いています。

彼らニューエイジ信奉者達は、イエス・キリストを話す者を最も恐れて憎みます救い主イエス・キリストを否認して'人間がすなわち神である'という主張を展開して、創造主なる神様を否認するようにさせます。これは、すなわち創世記 3章に現れて'善悪を知る木の実を食べれば、あなたは神様のようになる'とエバを惑わしたサタンの声です。人間の自尊心を極大化させて、神様を否認するようにさせるサタンの戦略、これがまさにこんにち米国などの先進社会を握っている最もかたい壁です。

こんにち、彼らの正体を知らなくて、ニューエイジに陥って苦しんでいる人々が、全世界で随所に広まっています。しかし、彼らは既に自分たちの力だけでは、この巨大な網から抜け出す力を失っている人々です。"きて私たちを助けてください!" "助けてください!"という心を痛める霊魂の泣き叫びが聞こえてきます。その霊魂をサタンの手から取り出して来る者はだれでしょうか。

ニューエイジの周辺部

ニューサイエンス
この考えの基本は、すべてがつながり合い断片的に切り刻むことができない包括的な全体であり、全体には部分総和以上のものがあるとし、関係性や全体に重点を置く全体論的(ホリスティック)な世界観と呼ばれるもの。ニューサイエンスは従来科学の対象になりにくかった生命現象や意識、心などもその範疇とした。
トランスパーソナル
心理学この代表がカウンセリングの創始者であるカールランソン、ロジャーズであり、また、生まれつき持っている能力を発揮するのが自己実現であるとの提唱者たるアブラハム、マズローであった。さらにユングの心理学や東洋思想が影響を及ぼしあって、1960年代後半にトランスパーソナル心理学がアメリカで誕生した。この心理学は、宗教における悟りや神秘体験とその意義を心理学の枠内で考え研究し、霊的次元の存在を前提とした人間理解に立って治癒を実践しようとするもので、精神科医療や臨床心理の実践に一定の影響を及ぼしている。
ヒューマン・ポテンシャル運動(自己啓発セミナー)
心理学の知識や技法、を用いて参加者の自己啓発や自己実現を目指すもので、日本では1980年代後半以降、自己啓発セミナーの名で広まった。セミナーを体験して、より宗教的、神秘的な自己変革に進んでいく参加者が少なくないといわれている。
ホリスティック医療運動
近代医療が人体を機械に見立て、病気とは部分を直すこととしていたのに対して、その部分の欠陥であるとして、治療はその全体としての身体、身体の一部の異常は全体の異常の現れと考えて全体論的(ホリスティック)医療を目指すもの。(世界保健機構)の健康の定義に、「霊的に健全な状態」という言葉を追加する提案がなされている。ホリスティック医療の登場に、医学界が根本的に変わろうとしている。ホスピス運動とも関連している。
マクロビオティック
厳格な玄米菜食を実践して、肉や果実を避ける独特の自然食の運動。東洋哲学に基づいて陰陽のバランスを重んじて現代病や成人病を治そうとする運動。
超越瞑想TM)-インドのヒンドゥー教導師マハリシ・マヘーシュ・ヨギが1958年に始めた瞑想法の運動。1日朝夕2回15分から20分間、マントラを唱えて瞑想することによって、潜在能力が開発するという。ある都市の1%の人がTMを実践すると社会環境が改善するという「1%効果」という考え方がある。東洋的瞑想法を、万人に受け入れやすい仕方で広めようとしたところにTMの大きな特徴があるといわれている。
神智学
ブラヴァァツキーやオルコットらによって1875年に神智学協会が結成された。西洋の神秘思想とスピリチュアリズム、さらにインドのヒンドゥー教や仏教、チベット密教の影響を受けて独自の秘教的な体系を打ち立てた。


日本における「精神世界」とアメリカの「ニューエイジとその周辺」はほぼ重なり合う。精神世界という用語を日本版ニューエイジ運動として使用されている。なお、1970年代以降、ニューエイジ運動は、「新しい意識や文明への移行が近い」という多くの人々の期待を集めて、先進国にとどまらず第三世界も含めて消費文化が発達した大都市において同時多発的に、多様な形態で展開している運動であるという。日本、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ大陸、オーストラリア、ニュージーランド韓国、ブラジル、タイ、ナイジェリアなどにその現象が見られるという。

「実はここで問題になっている運動、ないし新しい文化は、アメリカや日本の地域的な現象なのではなくグローバルな現象としてとらえた方が妥当であるというのが筆者が強調したい点である。過去の歴史上の宗教運動はいずれもある地域で発生して、他の地域に伝播するという形をとった。ところが、この運動は世界の各地で他の地域の運動の影響を受けつつも、それぞれ自生的に多様な形で展開しているのであり、相互影響的・同時多発的な運動と見るべきものである」(島薗進著「精神世界のゆくえ」P.48
『大いなる秘密』
1970~1989 国営農地開発事業
・旧農林省が1970年代、食料自給率アップと農業の大規模化を目指して始めた。公費約1兆8000億円を投じ、全国で農地の造成や区画整理、水利施設整備などを進めたが、土壌や水利不備の問題などから、事業は2003年に完了した。この間、国は減反政策や農産物の輸入自由化を進め、農家の高齢化もあって耕作放棄地が増えた。事業費負担は、国が約70~75%、都道府県が約20%、市町村と農家がそれぞれ約3~5%。負担金償還の影響を受け、岩手県藤沢町は05年、他市との合併協議が一時頓挫し、群馬県嬬恋村は09年、「早期健全化団体」に転落したこともあった。
農地整備、土地改良、農道整備、農業用水確保のダム建設などが展開され、事業化されたのは全国で176地区農業用ダムを含んだ場合の事業費の平均額は368億円。
 1971 1971年、フリント(本書『500に及ぶ…』の霊媒者)はシルバーバーチの交霊会に招待され、シルバーバーチと対談している。その際、フリントは自分が物理霊媒である立場から「スピリチュアリズムが広まるためには、もっと物理霊媒者を多く養成する必要があるのではないか」と主張。
それに対してシルバーバーチは、今の時代は、かつての物理霊媒現象に代わって心霊治療が中心になっていること、
とはいっても、いろいろな心霊レベルの人がいる以上、低いレベルに合わせた物理現象もそれなりに有意義であるという返事をし、フリントの物理霊媒が全面的に必要であるという意見を間接的に否定している。
 
1971~ ロバート・モンローとモンロー研究所
・ロバート・モンローという実業家が1971年にアメリカのバージニア州に体外離脱体験(OBE)とその先にある世界を研究する施設としてモンロー研究所を設立。
・エリザベス・キューブラー・ロスも体験談を自伝に綴った。
・『光の剣』の著者、クリスチアン・タル シャラー博士も在籍
『体外への旅』
『魂の体外旅行』
『究極の旅』
1971  ブラジルの心霊施術師ホセ・アリゴ没
http://www.gasite.org/library/ufo_no37/ 
アリゴの死後、ブラジルのエドソン・ケイロスが心霊手術を行うようになった。二人ともアドルフォ・フリッツというドイツ人医師が憑依していた可能性が高いと言われている。江原啓之『前世』P59より
 『錆びたナイフの奇蹟』
S・クリップナー/Aビジョルド共著
『魂の癒し手』
1972

『セスは語る -魂が永遠であること』-9冊のうちの最初の本
・セスの9冊の本の最初の本で、約30年前に出版された。米国では今も出版されている古典。
・チャネラーのJaneは1984年に55歳で死亡するも、セスがJaneを通して口述し、それを速記して出版まで努力した夫のRobは80歳を超えたが健在。
・本の副題にあるように、魂は永遠であり、その証拠に魂であるセスが本を書いている
・セスがJaneとは別の人格であることを確かめるために、Jane/Robは種々の心理学実験をやっている。詳しくはこの本で言及されている”Seth Material(1970)”という本に書かれている。(和訳なし。我々が死を迎えた後どうなるのか、もう一度生まれ直す自由があること、にも拘わらずどうして我々は前の人生を簡単には思い出せないのか…。セスは、アトランティスの前にすぐれた3つの文明が栄えたことを伝えている。3人のキリストの話も。
・9冊の本には数え切れないセスの知恵が在る。『あなた達各一人一人は、魂が生きながらえるためには肉体的には死ななければならないことを生まれながらにして知っているのです』、というメッセージです。
ならば、当のJaneの魂は今でも生きているの?
・Janeは1993年に米国の女性のチャネラーを通してRobにあてて1冊の本を書いている。その中で、彼女は、『こちら側には時間の概念がありません。そのため、ここに来て思うことは、地球上で最も貴重なものは時間です』と言っている。
死、輪廻、過去の文化、多次元的人格存在など広範囲に及んでいる。
・過去を書き換える、確率的偶然という概念についても書かれている。
現在は、過去の積み重ねの結果である。
だとしたら、現在が良くなっているのは、既に過去を良いものに書き換えたからに他ならないかもしれない。つまり、誰でも普段から無意識にやっていることを、意図的にやってみることを勧めているようです。
・ニューエイジの原点-1972年アメリカで初版発行以来、世界中で時代を超えて読み継がれている20世紀の歴史的名著。詩人ジェーン・ロバーツを通して美しく語られた「セス」の言葉が日本語にもなっている。

『セスは語る -魂が永遠であること』
1972 アポロ17号、
ハリソン・シュミットの撮影した地球
1972

ジェームズ・ラブロックとガイア仮説
・地球全体を1つのシステムとし、物理、化学、生物、人間といった多くの構成要素と考え、それがシステマティックに連動しているという考え方=これがまさにガイアだ=は1972年に「ガイア仮説」にまとめ上げた。
・そもそもの始まりはアポロ宇宙船が月に到達し、そこから美しく、鮮明な地球の写真を地上の人類に送りつけて来たことだった。人類は自らが住む地球像に大感激をした。無辺の空間にぽっかりと浮かぶ地球は、まるで生きた有機体ではないか、と感じ始めた。
・この考えに、汚染された地上の環境に関心を持ち、我らの地球は病みつつあるのではないか、それもそこに住む人類の手によって。そして、きわめて環境コンシャスな考え方「ガイア仮説」が生み出された。
・ラブロックによれば、およそ10万年前に一握りのヒトの集団が、動物を追い込むために森林に火を付けたことがすべての始まりだという。無精だが効率的な方法だった。狩猟の捕獲量は飛躍的に増えた。そして森林は焼けただれた地肌をさらすようになった。ヒトはこの時点で地球の破壊に着手したわけである。⇒それぞれの意識は全体を作り上げるうえでみな自分の役割を果たしている。だから、ガイアのある一部が、ガイア自身の別の一部に対して復讐をするなんていう考えは誤解だろう。(ブルース・モーエン死後探索4 P141より)

『ガイア仮説』
1970年代 ナンシー・アン・タッぺとインディゴチルドレン
(アメリカの超心理学者)が1982年(今から20年近くまえに!!)に「色(オーラの?)を通してあなたの人生を理解する方法」という本のなかで、色によって人間を分類した中で、藍色(インディゴブルー)がある。
1970年代に始めてインディゴの色を持つ赤ちゃんを見てから、そういう子供たちを探しつづけてきた。
そして4種類のタイプを発見しました。彼女の考えでは、10歳以下のこどもの90%はインディゴだという。
※1970年は地球が大きく変わった年だとか…
詳細が全く思い出せないのですが、今日インディゴチルドレンのことを知りました。
新しい価値観、新しい時代に向けて大きなうねりができつつあるのかもしれません。
いつの世も子どもは希望、未来です。
1970年代
~1980.12.8
ジョン・レノンとキリスト教に対する発言と平和運動
1960年代に世界的人気を得たビートルズの中心的メンバーであり、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作した。
1970年のビートルズ解散後はソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。
1980年12月8日(現地時間)、ニューヨークの自宅アパート「ダコタハウス」前においてファンを名のる男性により銃撃され死亡。

キリスト発言
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次のような発言を行なった。
「キリスト教は消えてなくなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先になくなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。
「僕がもし、“テレビがイエスより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕は神に反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。
僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。
僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

1973(昭和48年) ユリ・ゲラーの「スプーン曲げ」が有名になる。
1954~
1973~
ジュセリーノの予言(ブラジル)
1954年生まれ。9歳の頃から予言が始まり1973から予言を記録
1973 カトリック教会公認の聖母出現
日本の秋田の聖母。
1973年、アムステルダムの聖母像をモデルに作られた聖母像から涙(秋田大学が調査)、人類に回心を警告
1984年、教区司教が認可。
1988年ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が「信ずるに値する」との最終判断を下す。
秋田の聖母ホームページ
1973~

五島勉と日本におけるノストラダムスブーム
1973年11月25日に初版が発行されると、3ヶ月ほどで公称100万部を突破した。これは『朝日新聞』1974年3月2日朝刊の広告によるものだが、同広告ではこの本が戦後のミリオンセラーとしては15冊目であることも謳われている。出版ニュース社の調査では、1974年のノンフィクション部門ベストセラー1位、総合部門2位(1位は五木寛之訳『かもめのジョナサン』)となった。1998年8月時点で発行部数は209万部、450版となった。
こうした売れ行きによって何冊もの続編が刊行された。第五冊目の『ノストラダムスの大予言 5』(1986年)で一応「完結編」と銘打たれたものの、その後もなし崩しに『ノストラダムスの大予言・最終解答編』(1998年)までシリーズは続き、全10冊のシリーズとなった。
初巻の売れ行きには到底及ばなかったものの、シリーズ作品はいずれも売れ、ベストセラーランキングにもしばしば登場した。
本来「百詩篇集」などと訳されるべき『予言集』の主要部分の名称が、英訳からの転訳によって生じた誤訳である『諸世紀』となっていたり(ここでは『予言集』そのものの換称として用いられている)、架空の研究家の名前や創作と思われる詩や史料が登場していたり、いたずらに「1999年7の月」の詩を誇張したり、ノストラダムスの生涯に関する記述などにもかなりフィクションが含まれているなど、実際にはノストラダムスの予言解釈本というよりも、五島勉の小説という色合いが強いと指摘されている。
だが、と学会関係者が本格的に俎上にのせるまでの長い間、そういった問題点はほとんど指摘されることがなく、ノストラダムスの予言を扱ったテレビ番組などでも五島の著書に沿う形で紹介されることがあったため、この著書による誤ったノストラダムス像が多くの人びとに影響を与える結果となった。
また、『大予言』第一作は、当時の「終末ブーム」への便乗という執筆動機は明らかであるものの、地球規模の環境汚染や全面核戦争など、真摯な近未来の危機への警告書という体裁を一応はもっていた。反面、予言が間違いなく当たるものだということも強調されるという矛盾した姿勢が存在していた。これについては、外れたときの弁明の余地を残したのではないかという指摘もある。後のシリーズでは、中国人民解放軍のヨーロッパ侵略を予想するなど、国際情勢の読みを大きく誤った記述が見られるほか、ユダヤ陰謀論への言及などが見られるようになり、さらには(五島の著書に通底する)白人および欧米文明への嫌悪感などもより強く現れるようになった。
そして、続編でも創作と思われるエピソードが多用される傾向は変わることがなく、特に、「ブロワ城の問答」と呼ばれるエピソードは、他の多くの信奉者たちの著作にも影響を及ぼした。これは、ノストラダムスがカトリーヌ・ド・メディシスに対し、「恐怖の大王」の正体は目に見えないものだと語り、「恐怖の大王」の出現の前に「別のもの」が現れれば人類は救われると語ったとするエピソードだが、裏付けとなる史料が確認できておらず、五島の創作と指摘されている
宮崎哲弥や山本弘は、ベストセラーになったこの本が1980年代以降の新興宗教に少なからぬ影響を与えたと指摘している。実際、この時期の新興宗教には、自分の教団(もしくは教祖)こそが、上記の世界を救う「別のもの」であると主張するものも見られた。さらにこうした影響がその後のオウム真理教による地下鉄サリン事件発生の遠因になったと指摘する者たちもいる。
その他の影響としては、キリスト教やユダヤ教の終末論とはかけ離れた終末思想を生み出し、深刻に受け止めた若い世代の読者が、世界や日本の未来のみならず自己の未来をも暗澹たるものと考えてしまったため刹那的な行動に走ったり、将来設計を怠るなどの問題があったという見方がある。

1903~1981 オンム・セティことドロシー・イーディーと前世の記憶
・ドロシー・イーディーは、3才の時、階段から転げ落ち頭を強く打って意識を失ったことがあった。医者が駆けつけた時は、彼女は間違いなく死亡状態と思われた。そこで、死亡診断書を書こうとして、医者が再び遺体の安置されている部屋に戻ったところが、死んだと思われたドロシーは、息を吹き返し何事もなかったように無邪気ではしゃいでいたのである。
・これをきっかけに、ドロシーは、毎晩同じ夢を見るようになった。その夢の中には、果実のなった樹木がたくさんある庭と石の柱がたくさんある建物が頻繁にあらわれた。彼女は、ここが私の生まれた所だと信じ込むようになった。両親がイギリスのここがお前のうちだと何度言っても否定した。時には、最後に泣き出すこともしばしばだった。  
・7才になった時、雑誌に掲載された古代エジプトの写真にセティ1世の神殿を見つけたドロシーは、毎晩、自分の見る夢に出てくる建物はこの神殿に間違いないと言い張った。  
そして、樹木の一杯ある庭はどこで、どうして、みな壊れてしまっているのかと親に質問を繰り返す始末だった。   
・成長するにつれて、ドロシーは、自分が生前古代エジプト人だったという確信に取り憑かれるようになった。そして、転生に関心を持つグループに加わるようにもなった。   
・27才になった時、彼女は若いエジプト人の教員と出会い結婚した。そして、ついに荷物をまとめてエジプトに移り住んでしまった。  エジプトに住んでからも、近代的なカイロに住みたいという夫の希望に対して、彼女はピラミッドの見える場所に住居を構えたいと主張した。
・まもなく、夫妻には子供が生まれたが、彼女は夫の意志に逆らって自分の息子にセティと名づけてしまった。セティという名は紀元前1300年頃の第19王朝のファラオ、セティ1世にあやかったもの。
・結婚後、夫は、真夜中に起き上がるドロシーにしばしば眠りを中断させられた。彼女は、トランス状態になって、月明かりの中でひたすら紙面に何かを書きなぐるのである。彼女の書いたものはヒエログリフという古代エジプト文字で、彼女の生前における自分の体験を著わしているというのである。ドロシーの奇怪な行動はその後、一年あまりも続き、書き著した内容も、紙面にして70ページにも及んだ。 
・彼女が後に語ったことには、前世では、自分は14才のベントレシュトという女神官だった。
・彼女は、ふとしたことからセティ1世と恋に落ちた。やがて、彼女は妊娠したが、それは純潔を守るはずの神官にとって、掟を破る重罪に相当するものであった。…
・死んで変わり果てた彼女を目の当たりにしたセティ1世は、決して忘れはしないと涙ぐみながら誓ったらしい。彼女の話は、こうした過去のいきさつだけに留まらず、ドロシーが14才の頃になると、実際、セティ1世が毎夜、自分の枕元に訪れたと言い放った。逢瀬は何度も繰り返され、夫を持つ身になってもそれは続いたと言う。
・彼女が言うには、やがては、神殿のあったアビュドスの地に戻って、今度こそ神官として義務を全うすれば、自分が死んだ時、すべての罪は忘れられて今度こそセティ1世と永遠に結ばれるというのであった。
・結婚から3年後、夫と別居状態になったドロシーは、幼い息子を連れてギザの大ピラミッドの近くに移り住み、そこで、考古関係の助手をすることになった。それから20年も発掘と記録の作業に明け暮れたのである。そして、長い年月の後、とうとう念願のアビュドスの地に落ち着いた彼女は、セティ1世の神殿の遺跡に向かうと、香を焚き一晩中過ごす有り様であった。彼女が20年間もアビュドスの地に来なかったのは、何かが自分を妨げていたからだと述べている。
アビュドスで神殿の壁面のレリーフを記録する仕事に就いた彼女は、まもなく神殿の庭の位置を言い当てることになった。 
発掘してみると、切り株が多数見つかった。それは、かつて、ここに庭があったことを物語るものであった。その庭は、まさしく彼女が幼少の時から夢に出て来た庭だったのである。
・その後も、彼女は神殿の北側で地中に走るトンネルも発見した。
・彼女は、また神殿の地下には秘密の文書庫があり、ここにはいろいろな文書がたくさん詰まっていると言った。もし、これが発見されたら、ツタンカーメンの発見以上の価値があるだろうと述べている。
・彼女はその後、1981年に77才で亡くなるまでアビュドスの地に25年間留まった。周囲の人々は彼女のことを敬愛の意味を込めてオム・セティ(セティの母)と呼んだ。
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)
1908~1974 オスカーシンドラーとシンドラーのリスト
10月、シンドラーは、没収前はユダヤ人の所有になっていた落ちぶれたほうろう容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人の会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。クラクフの近くのザプロヴィツ Zablowic の小さな工場は、軍の厨房用品を製造して、急激な成長を遂げた。わずか3カ月で、工場は250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。
妻エミーリエとは1957年以来疎遠となっており、離婚こそしなかったものの終生出会うことはなかった。ヴァルトクライブルク にある彼女の墓には、次のような言葉がドイツ語で刻まれている。
たった一つの命を救うものは、全世界を救うのである。
1912~1995
83才没
スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生)
……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。
このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさい、と優しく囁き続ける人、それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。
1974~ ベンジャミン・クレーム
1922年生まれの英国人の画家。
1959年1月、その声はヒマラヤに住む覚者のものであると告げられた、それから連絡が始まった。
何週間かテレパシー交信の訓練を行った後、クレーム氏は覚者の中の覚者、マイトレーヤご自身、キリストであり、世界教師である方に話しかけられた。今から約20年以内に、私自身がやって来る。そして、もしあなたがそうすることを選べば、あなたは私の帰還にある役割を果たすようになるだろう」。
伝導瞑想は1974年、ベンジャミン・クレームによって初めて世界に紹介された。
以来この伝導瞑想は一切組織を作らず、無料で、完全な自由意志参加に基づく伝導瞑想グループとして、世界中に光のネットワークとして広がっている。クレームは毎年来日の際に、公開伝導瞑想会を通して伝導瞑想の普及にあたっている。
クレームの携える話を端的に言えば、今日の世界の激動と混乱は宇宙的なエネルギー(新しいエネルギーと古いエネルギーの間の)の相克が関係している。古いエネルギーの影響下で極限に達した人間の貪欲と行き過ぎた商業至上主義のためにこのままでは地球破滅へと向かいかねない困難な時代にわれわれはいる。しかし幸いにも今、われわれには人類を破滅から救うべく新しい時代の偉大な教師方の存在がある。世界の行く末は、究極的には民衆であるわれわれの選択にかかっているのですが、人類はすでに正しい選択をすることを、これらの存在はすでにご存じだという。世界が危機を乗り越えた時、人類を待つ輝かしい未来とは、いかなるものでしょうか?
大宣言の日、人類救済の日
人々は幼子に戻ったような気持ちになる。
世界中の人々がマイトレーヤーの呼びかけに応える、どう応えるかにかかっている。
1974~ ビル・モリソン(オーストラリア)
パーマカルチャー=パーマネント(永久)」、「カルチャー(文化)」、「アグリカルチャー(農業)」の3つの単語を組み合わせた造語。農作物、建築、エネルギーなどの要素を巧みに調和させ、自然界よりも効率のよい循環系の生態系の形成を目指している。
クリスタルウォーターズという集落では、81世帯220人のパーマカルチャーがコミュニティを築いて生活している。環境を考慮したエコハウスが立ち並び、パーマカルチャーの壮大な実験場とも呼ばれる。電気やガスはほとんど使わず、ゴミもほとんどない生活が送られている。年間1000人もの見学者が訪れる。
マレニーという町は、オーストラリアの地方の町としては他に類を見ない活況を呈している。特に産業があるわけでもなく、一時はかなり衰退したが、パーマカルチャーの思想を社会システムに導入。住民の共同組合の設立、住民主体の銀行の立ち上げ、地域通貨の導入などにより、活気を取り戻した。
1974.10.14~
1975.7
有吉佐和子
『複合汚染』
を朝日新聞に連載。連載中から大反響。連載終了前の1975年4月に新潮社から単行本上巻が出版され、7月に出版された下巻とあわせてベストセラーーに。
『複合汚染』
 1974.11 カレン・シルクウッドKaren Silkwood
アメリカ合衆国における労働組合活動家であり、原子力関連企業のカー・マギー社の核燃料製造プラントで行われていた、安全規則違反と不正行為を巡るスキャンダルの中、28歳で謎の死をとげた。
・カレンのプルトニウム汚染発覚から不審死に至るまでの一連の事件は、いわゆる「シルクウッド事件」として、一大原子力スキャンダルに発展し、1983年には『シルクウッド』というタイトルで映画化もされている。
 『シルクウッド』
1975(1977日本語訳) レイモンド・ムーディ(アメリカ)と 『かいまみた死後の世界』(Life after Life)
150名にインタビュー、実例として紹介したのはその一部
たちまちベストセラーに
1982年に行なわれたギャラップ世論調査によれば、生死の境をさまよっている間にいわゆる「臨死体験」者は3~4%もの確率だったが、ムーディが発表するまでは社会の意識には上らなかった。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P244
『かいまみた死後の世界』(Life after Life)
1975 エリザベス・キューブラ・ロスと『死ぬ瞬間』
約200人の臨死患者に聞き取りし、まとめたもの
死とその過程『死ぬ瞬間』
1975 福島正信とわら一本の革命
自然農法家・福岡正信氏の覚醒体験
そのとき思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」とい うことだったんです。"ない"ということがわかったような気がしたんです。  今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくな ってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。
『わら一本の革命』
1976.5~1981.3
5年弱、調査研究

1982、出版

マイクル・B・セイボムと『「あの世」からの帰還』 -臨死体験の医学的研究-
  ⇒15年後に『続「あの世」からの帰還』 -新たなる真実・47名の臨死体験-

メソジスト教会の日曜学校にて同じ大学で精神医学ソーシャルワーカーのサラ・クルージガーがレイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』を紹介
レイモンド・ムーディの出版の影響を受け、より科学的に臨床調査を開始。
フロリダ大学~アトランタのエモリー大学と職場の異動に伴い住居も移転
調査項目-補足-(ウィキペディアの臨死体験まとめとの比較)
  1. 自分が死んだという感じ-幻覚や夢との比較-(死の宣告
  2. 主な感情内容-自分の肉体が見えた時-(心の安らぎと静けさ
  3. 肉体から離れる感じ-物理的肉体を離れる、体外離脱をする
  4. 事物や出来事を見聞きしたか-具体的内容-
  5. 暗い空間-暗い空間へ移行する感じを体験したか-(暗いトンネル、トンネルのような筒状の中を通る
  6. 走馬灯的体験人生回顧(ライフレビューの体験
  7. 光-明るい光の存在に出会ったか、どう感じたか-光の生命、光の生命に出会う。神や自然光など
  8. 超俗的世界に入ること-肉体に戻れない地点や境界線を感じたか-境界あるいは限界、死後の世界との境目を見る
  9. 別の存在との出会い-他の霊的存在を感じたり見たりしたか-他者や死者との出会い
  10. 肉体に再び戻ること-自らの意思か、たまたまの結果か-蘇生
・3番目にインタビューした中年女性患者本人は、助かったことより自分が意識を失い臨死状態に陥っていたときに体験した事柄の方が死の淵から蘇ったことより重い、という。⇒数年を挟んで2度臨死体験
・60歳の白人男性患者は、この体験の中で生死の謎を解く「とてつもない秘密」を教えられたような気がした、という。
・大半が、その体験を的確に表現する言葉がなかなか見つからない、という。「説明すらできません」「この時のような感じは、日常生活ではまずまずありませんね」

まとめ

自己視型臨死体験
・時間を超越した感じ
・現実の出来事のような感じ
・自分が死んだという感じ-突然の心停止お起こした患者
俺は今死ぬところだ。自分が死んでいくのがわかる。何でみんな死をそんなにこわがるんだ。何でだ。こりゃあすばらしいことじゃないか
・支配的な感情-穏やかさ、安らぎ、落ち着きといった感情が支配的
・肉体から離れる
・物音が聞こえる
・「思念の旅」のような形で瞬間移動
・肉体に戻る

超俗型臨死体験

・暗い世界ないし空間
・光-太陽光、夕焼けの美しさ
・この世のものならぬ世界-有刺鉄線で分けられた世界、田園風景など
・他者との出会い-交信
・自分の一生を振り返る

複合型臨死体験

・116名にインタビュー、臨死状態の中で臨死体験をしたのは34/78≒43%(普通におこる)
・1分以上にわたって意識不明の状態を病院の中で続け、何らかの蘇生処置を受けたものでは臨死体験を起こすものがそれ以外のものと比べると多かった。
臨死体験群は死に対する不安が減少し、来世信仰が強まった。(体験しなかった群と回答がかなり異なる)
・こういう経験をさせていただいて、死後の世界があって死んだら何もなくなってしまうわけではないということがわかりました。
・余波体験-臨死体験後の体脱経験は3例、3人とも複数回
・常々「ぼくはまだ死にたくない。死ぬにはまだ早すぎる」⇒43才で体験⇒「できる限りのことをしようと思ってる。それでその時がくればその覚悟はできてる」と変化⇒3年後に若くして他界するも、自他ともすっかり覚悟し、覚悟させて亡くなった。
・来世に対する「新しい考え方」が定着すると毎日を懸命に生きようとする気持ちが表出することが多い。さらに死や未知なるものに対する恐怖にとらわれることがなくなるのである。
・生や死を理屈抜きに受け入れるようになり、結果、「死の意思」が強まるのではなく、「生きる意志」があらためて強化されるのである
「人間は昨日や明日には生きられない。今日この日のためにしか生きられない。…死を一度経験していますから、死ぬことは心配の種にはならないんです。」
・「すべての出来事はある目的に沿って起こるんだと思います。…この世の次にも何かあります。…あの世界は何か違ってましたね。…それがどういう命であれ、どういう形であれ、あの時も生きていたんです。」
臨死体験を通じて信仰心が高まるのが通例である。
・「でも、今はただ漫然と死ぬ時を待つんじゃなくて、生きがいにすべきことがたくさんあると思っています。」
・「私たちがこの世に生まれてきたのは、お互いに助け合うためだと思います。…私たちの世界で一番大切な法則は、愛です。」
・臨死生還者の大多数はこうした出来事を「死神」との遭遇としてどころか、静かで安らかなものとして語る。このような「データ」は医療制度の基本的姿勢や目的を明確化し、リードしていくうえで、もっと真剣に考えるべきものではなかろうか。それにより、重症患者や末期患者の要求を満たすことはできないものであろうか。
・生死の境目にある患者の生命を左右する強力な心理的要素-「生きる意志」-あるらしいことがわかる。⇒やり残したことがある、というような思い、残された家族に対する心配など…
『「あの世」からの帰還』 -臨死体験の医学的研究
1975 ダニオン・ブリンクリー(アメリカ)『未来からの生還』
雷にうたれて黒焦げになって「死亡」した1975年の死亡体験(臨死体験)の際に、向こう側の「光の存在」から百以上の予言を与えられ、それらがどんどん現実になりつつあること、またその体験の際に与えられた指示に基づいて、すべての人間が霊的世界の実在を経験できるヒーリングセンターを建設中であることなどが紹介されていた。
28分後に生還。

臨死体験者の意味
臨死体験者がもたらす知識として重要なのは、『パノラマ的人生のレビュー』の経験だ。苦痛に満ちた死の経験をくぐり抜けた後、そこにはすばらしい安らぎの感覚が訪れる。トンネルをくぐり抜けて光の中に出、そこで光の存在に出会う。そしてこのレビューで、自分の人生を振り返り、自分が感じたすべての感情を感じ、自分がこれまで行ってきたすべての行為を目のあたりにするんだ。自分と関係のあった自分以外のすべての人間や動物にもなり、その感情も経験するんだよ。これは僕にとっては特につらいことだった。1つのいいことに対して20の悪いことをしてきた、そんな人生だったからね。  大事な情報 リンク
『未来からの生還』
1954~
1976~
木内鶴彦
30分死亡体験(臨死体験)で得た情報(立花 隆著『臨死体験』に詳しい)
以下の内容は上記著書より書き換えたほうがよいかも…

1954年6月4日、長野県南佐久郡小海町生まれ。
木内さんは22歳の時に臨死体験をしたそうである。一度死んで、約30分後に蘇生した。普通では考えられないことで、立花隆さんに言わせると「臨死体験」ではなく「死亡体験」だと。そのとき木内さんは、死んでいる間に、どういう体験をしたかというと、過去未来をいろいろ旅をしてきたそうである。そこには、膨大な意識の情報があった。
まず死という体験をしてみて、最初に解ったことが、肉体と意識とは別であるということ。犬や猫や植物やバイ菌や、いろいろなすべての生き物は、実はひとつの意識体だということが解った。
臨死体験の中に、中年の自分がいて、あるお寺の畳の大きな部屋でアジアの留学生に星を通じて地球の大切さを一所懸命に話す自分がいた。また60歳くらいの自分の姿を見た。荒れ果てた大地、木もなんにもない砂漠のような状態のところにたたずむ自分。そこにかすかに、同じ時刻の同じ場所の映像があった。それは、緑の多いところで子どもたちに星を見せているじいさん。そのじいさんが自分らしい。これは割合でいうと99.999%は砂漠のようなところにたたずむ自分、0.001%は緑の中にいる自分。
そして、自分が中年になったとき、実際に高野山のお寺の畳の大きな部屋で、アジアの留学生に話す自分がいた。臨死体験のときに見た光景と、まったく同じ経験をしたそうである。木内さんが60歳になるのは、あと10年くらい先だそうだが、砂漠のようなところにたたずむ自分もたぶん現実になるだろうと言っていた。が、0.001%はすばらしい世界になる可能性もあるそうで、それはまったくお金のいらない社会、これが実現すると人間の進化の道となるそうだ。さて、私たちはどちらを経験するのだろうか…
立花 隆著
『臨死体験 上下』

1936~1976
83才没
ハリー・エドワーズ心霊治療
・世界にその名を知られた英国の心霊治療家。
・83歳で他界するまでのほぼ半生をスピリチュアリズムの普及活動と心霊治療による治療活動に捧げた。
・特に後半生の治療活動は目覚ましく、世界各地からの治療申し込みの手紙が30年間に延べ1400万通にも達している。その全てが実際の治療を受けたわけではないが、統計によると、氏の治療を受けた患者の80パーセントが“好転”し、そのうちの30パーセントが“完治”している。そうした患者はすべて医学によって“不治”の宣告を下された人ばかりであることを忘れてはならない。
・エドワーズ氏の無二の親友であり、ジャック・ウェバーの実験会の推進に終始協力した心霊ジャーナリストで霊媒のモーリス・バーバネル氏が、のちにエドワーズ氏の治療所を引き継ぐことになったレイ・ブランチ氏に対し「私が思うに、ヘンリー(ハリーのこと)はイエス・キリストが地上で行なったことよりも大きい仕事をしていると思う」と語ったことがある。

世界最高のヒーラー
1976年に83歳で亡くなるまで、何百万人もの人を、ハリー・エドワーズは治療しました。
ハリー・エドワーズが癒した人の中には、末期がん患者や歩けない人もいたそうです。
また、ハリー・エドワーズは、奇跡的な治療を行っても、報酬を一切受け取らず、無償で行っていました。
1946年に、イギリスのサリー州に治療院を創設して、直接、あるいは、遠隔で人々に心霊治療を行いました。
最盛期には、遠隔治療を希望する手紙が、週に一万通も届くほどの人気を集めたのです。
(ハリー・エドワーズが亡くなった後は、バートン夫妻がその治療院を引き継ぎましたが、現在は別の人が運営しています)
ハリー・エドワーズは、積極的に公開治療を行って、心霊治療を世に広める努力をしました。
そのため、英国医師会が、1959年には、英国心霊治療家連盟に、病院での心霊治療を許可しました。
また、1977年には、英国総合医学評議会が「英国心霊治療家連盟会員による心霊治療を患者に紹介したり、許可してもよい」という声明を出しました。
どちらも条件つきではありますが、心霊治療の効果が認められた証です。

ハリー・エドワーズ没

・その自記するところによると、前半生は霊的治療とは全くかかわりのない生活を送っており、霊的治療に従事したのは四〇の坂を越えてからのことである。
ある友人の奨めでスピリチュアリストの集会に出て、霊能力者から彼自身治療能力のあることを指摘され、半信半疑でその治療能力者開発グループに参加したのがきっかけであった。
・一九七六年、その恩恵を蒙った世界中の何百万人にものぼる人々に惜しまれながら没した。 http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-4.html ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」より 
3、ヒーリングの時代 3、ヒーリングの時代
・ハリー・エドワーズなどを代表とする、病気などの癒しを目的とした霊媒が注目を集め活躍した。
 
1976.4.5 四五天安門事件第一次天安門事件
天安門広場に捧げられた献花の撤去に怒った民衆と軍や警察との衝突。
1976 日月神示と原典
次の資料には23巻までの原文が掲載されている模様。
「原典日月神示(第一巻~第二十三巻)」岡本天明書記 岡本三典解説 新日本研究所 1976
1937~1976 高橋信次-GLA正法-『心の発見
10歳頃(1937年頃)から現在で言う「幽体離脱」現象のような霊現象を体験するようになり、その肉体の自分とは違う霊体の自分を「もう一人の自分」と呼び、その現象に幼心に疑問を持ち、以来約32年間、電子工学や物理学を修めつつ、探求を続けた(ただし、宗教には興味は向かわず、本人は全くの素人だとした)。

そして1968年頃から本格的な霊現象が起こるようになり、「ワン・ツー・スリー」や「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る霊からの通信を受け、それから、まもなくして執着を捨てた心の安らぎのある境地に到達し、その後、それらの霊魂は後のGLAの教義で言う「守護・指導霊」であったと明かされたという。
「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「守護霊」であるとし、後に歴史上のイエス・キリストその人であると知らされた。また、「ワン・ツー・スリー」と名乗った霊魂は、自らを信次の「指導霊」であるとし、後に歴史上のモーゼその人あると知らされた。
その後、彼らからの指導を受けて本格的に悟りの境地に到達した信次は、宗教家としての道を歩み、その経験を著作として著し始めた。また、人々の過去・現在・未来を見通す能力によって講演会等信次の下に集った人々を導き、また肉体を持たない「」を霊視(文字通り霊を目視すること)し、これと会話したり、人々に憑依している不調和な霊を取り除いたり(ただし、よほどでない限り、これらの霊に対して「神理」を説き、その非を悔い改めさせることが一般的であった)等、自身の講演会等において数多くの奇跡を残したとされる(高橋信次『心の発見 現証篇』参照)。
また、古代エジプト語、ヘブライ語、5世紀の中国語、古代マガダ語(マガダ国)等を話した。ただし信次は、これらはあくまで人々を救うため、天上界で予め約束されていた(また証明としての)「方便」であるとし、特に興味本位的に過度に現象にとらわれることを戒めた。これらは、モーセの時代にも、イエス・キリストの時代にも、ゴータマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)の時代にも、現れた現象だとされる(「現証」)。著書や講演会での発言等から見るならば、信次は「慈悲」と「愛」、そしてその実現のための実践として「八正道」、「反省」を重視し、これを説き続けたといえる。また、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの精神は、「法」(自然の法則、宇宙の法則)に発するものであると説いた。
会社経営や教団運営、信者の個人指導や著作の執筆等により、信次の睡眠時間は一日3-4時間という生活であったとされる。
1976年6月25日午前11時28分に、極度の疲労によるとされる肝臓と膵臓の悪化により、自身の予言通り(今回は48歳までしか計画していないとする)48歳で逝去した。
(ただし、信次48歳の1976年3月21日、和歌山での講演「魂の仕組みと正法」において、あと五年間、この世にとどまるとした)。
『心の発見』
1976~

ムハマド・ユヌスとグラミン銀行
・銀行の起源はチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌスが銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げたことにさかのぼる。
・銀行の創設者であるムハマド・ユヌスは、合衆国のヴァンタービルト大学で経済博士号を取得。
・1974年、バングラデシュで飢饉があった際、42の家族に総額27ドルという小額の融資をした。・それは高金利のローンによる圧迫で、売り物のための小額の支出にも金貸しに頼らざるを得ないという負担を無くすためである。ユヌスは、そのような(金利は年率20%近く、複利ではなく単利である。利子の総額は元本を上回ることがない。)小額融資を多くの人が利用できるようにすることで、バングラデシュの農村にはびこる貧困に対して良い影響を及ぼせると考えた。
・チッタゴンにあるバングラデシュ大学の地方経済プロジェクト、貧困者向けの金融サービス拡大理論の実証調査として銀行は始められた。
1976年に、ジョブラ村を代表とする大学周辺の村が、グラミン銀行からサービスを受ける最初の地域となった。銀行は成功し、プロジェクトはバングラデシュ中央銀行の支援もあって首都ダッカの北方にあるタンガイル県でも1979年に始められた。
銀行の成功は続き、バングラデシュの各地に広がるのにそれほど時間を必要としなかった。1983年10月2日のバングラデシュの政令によって、プロジェクトは独立銀行になった。
1998年のバングラデシュ洪水で同行の返済率は打撃を被ったが、システムの改良によってその後数年のうちに回復した。
銀行は今日全域に拡大し続け、農村の貧困者に小規模ローンを提供している。その成功を受け、40カ国以上で類似のプロジェクトがなされるようになり、世界銀行がグラミンタイプの金融計画を主導するようになった。
・銀行は複数のドナーから資金提供を受けていたが、主要な提供者は時間とともに変化した。初期には、非常に低い利率でドナー機関から資本の大半を提供されていた。1990年代半ばには、バングラデシュ中央銀行から資本の大部分を得るようになった。最近は、資金調達のために債券を発行している。債券はバングラデシュ政府より保証、援助されているが、なお公定歩合を上回った利率で売られている。
・グラミン銀行の特徴はそれが銀行の貧しい借り手によって所有されることである。そのほとんどは女性である。借り手が銀行の総資産の90%を所有し、残りの10%はバングラデシュ政府が所有している。
・2009年5月現在、銀行の借り手は787万を越え、2003年の312万人から2倍以上となった。その内97%が女性である 。銀行の成長は、カバーする村の数でも確認できる。
2009年5月現在、銀行の支店がある村は2003年の43,681村から、84,388村まで増え、2,556の支店に23,445人以上の従業員がいる。銀行は総額約4515億8000万タカ(約80億7000万ドル)を貸付、約4016億タカ(約71億6000万ドル)は返済されている。銀行は、1998年の95%の返済率から上昇し、97.86%になったと主張している。

1976
アンネリーゼ・ミシェルと悪魔祓い
16才の頃から震えなどの異変が身体に出始め、精神科医に「てんかん」と診断される。
薬を処方され暫くは落ち着いていたが、やがて普通のてんかんの症状を逸した症状が出始め、幻覚を見たり、身体を何かに持ち上げられベッドに何度も叩きつけられる。彼女の意思とは関係なく物凄い力で体を動かされたりする。 薬を飲んでも治まらず、やがて蜘蛛や蝿を食すようにもなり、自傷行為が酷くなる。とても本人の声とは思えない声で汚い言葉を吐いたり、彼女が知りもしないラテン語を喋るようにもなった。彼女は自分が悪魔に取り憑かれたのだと考えた。
1973年(20歳)の時、両親はついに教会に悪魔祓いを頼むが拒まれる。
医者にかかり再び薬を処方されるも症状とその現象は悪化していった。
1975年、22歳の時、ようやくヴュルツブルク司教会は悪魔祓いの許可を出し、カトリックのエルンスト・アルト司祭(41歳)とアーノルト・レンツ(67歳)がエクソシズム(悪魔祓い)を行う。司祭が「お前は誰だ?」と心に思うと、悪魔は返事をし、名を名乗った。アンネリーゼにはなんと6体もの悪魔が取り憑いていた。この際の肉声テープも存在する。(2011.4.12 テレビ番組で実際に聞いた)
6体の悪魔
  1. ルシファー(堕天してサタンとなったとされる地獄の王)
  2. カインアダムエヴァの息子。アベルという弟を殺し、人類最初の殺人者とされる)
  3. ユダ(十二使徒のひとり。キリストを裏切った)
  4. ネロ(キリスト教徒を迫害し後世暴君と評されたローマ皇帝)
  5. バレンティン・フライシュマン(1572年から1575年にかけてエットレーベン教区で司教を務めたが堕落した聖職者であった。4人の子供を持つも、女、酒、暴力に没頭し、司教館で撲殺事件を起こしたという記録を残す)
  6. ヒトラー(近代史のドイツの悪名高い独裁者)

2時間以上にわたるエクソシズムでマリアに関する言葉を悪魔に言わせて悪魔祓いは成功する。
しばらく後、アンネリーゼ・ミシェルはマリアに出会い、「悪魔に取り憑かれて苦しんでいる人が大勢居る。その為にもう一度悪魔に憑かれたまま、命を捧げてくれ」と頼まれる。 彼女は悩んだ挙句、マリアの言葉に従うことにする。そして悪魔に再び憑かれ食事も摂らなくなり1976年7月1日他界した。23歳であった。
まだ若いのに聖母マリアや悪魔に取り憑かれた人達の為に命を捧げたということで、彼女のお墓には沢山のキリスト教徒が来るという。 尚、その後彼女の両親と神父は起訴され、裁判の結果両親と神父は過失致死で懲役刑、執行猶予6ヶ月という判決を受ける。
この経緯は「エミリー・ローズ」という映画にもなった。(2011.4.12 テレビ番組で知った)

1977 イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち』
“生まれ変わり”の存在を科学的・論理的に追求し、ひたすらに現実を見つめ続けるイアン・スティーヴンソン達研究グループ。
彼らが、長年の研究により構築・洗練されたメソッドを用い、集め続けたデータを細心の配慮を持って提示、検証する。 事実、そこから導き出された可能性は明確に何かを物語る。
前世を記憶する子どもたち』
1977 ケン・ウィルバーと『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)
1973年に完成し、20以上の出版社に断られた後、1977年にQuest Booksより出版される。
『人は死ぬ時何を見るのか』
テイヤール・ド・シャルダン神父と『現象としての人間』
オメガ点
・人間の進化は精神の生成発展
・超人類的状態へと向かっているとする説
・根本的神性を自覚する、統一的な地球的精神が誕生すること。
この収束的な最終的状態たる地球での人類進化の頂点を「オメガ点」と呼んだ。

テイヤールの主張は、進化に関する科学的事実に基づいた記述を行いつつ、科学では実証されていないし、確認もできない想像領域で臆断的な命題を導入し、論理的誤謬の上に、その進化論を築いていると言うものである。

実証科学においては、テイヤールの誤謬は明確である。しかし、哲学的ヴィジョンとしては、オメガすなわちキリスト、全知全能の神が、進化の目的であり、進化の極致にあって神が生まれるとの思想は、二十世紀にあって独自な思想であった。

マンリー・ホール 神智学者
1978 精神世界という語は、1978年6月の新宿の紀伊国屋書店でのブックフェアの名称「瞑想の世界特集・精神世界の本」として使用されたのが最初といわれる。
1977~1978 ソ連かぜ
ソ連で流行したA/USSR/90/77 (H1N1)によって起こったインフルエンザのエピデミック(局地流行)である。 よく似た株によるインフルエンザが1947年から1957年にも流行したため、免疫を持たない23歳未満の子供や青年に感染した。パンデミックと言われることもあるが、主に青年のみに感染したため厳密にはパンデミックではない。1978年から1979年にかけて製造されたワクチンにはこのウイルスが含まれている。日本ではH1N1をソ連型、もしくはAソ連型と呼ぶこともある。
1978~1980 ラブキャナル(建設が中止されて使用禁止になっていた同市の運河のこと)事件
・1978年に米国ナイアガラ滝近くのラブキャナル運河(ニューヨーク州)で起きた有害化学物質による汚染事件。ラブキャナルは19世紀に水路として用いられたのち、1930年代以降は廃棄物の投棄がされていた。この運河を購入した地元化学合成会社が同運河に投棄した農薬・除草剤などの廃棄物が原因物質だった。1940年代から50年代にかけて酸や農薬などさまざまな化学物質を2万t以上投棄。当時の法律では合法な行為で、同社も1950年頃に大量の有害化学物質を廃棄していた。同社の廃棄物の中には、BHCやDDM、TCP、ベンゾクロライド、ダイオキシントリクロロエチレン等の猛毒物質も含まれていた。
・その後、運河は埋め立てられ、土地は同市にわずか1ドルで売却され、小学校や住宅などが建設された。埋立後約30年を経て投棄された化学物質等が漏出し、地下水土壌汚染の問題が表面化して、地域住民の健康調査でも流産や死産の発生率が高いことが確認され、周辺で降雨のたびに汚水の流出や悪臭の発生がみられるようになり、ガンにかかる住民が続出、社会問題となった。調査の結果、80種類を超える有害な化学物質が検出され、同州が政府の緊急財政支援を受けて土地の買い上げを行った。小学校は一次閉鎖、住民の一部は強制疎開、一帯は立入禁止となり、国家緊急災害区域に指定された。
ギブス,ロイス・マリー(1952年生まれ、アメリカの環境運動家)。1978年に表面化した「ラブキャナル事件」の中心人物。小学校に通うわが子のために、住民を率いて市、州、連邦政府と戦い、処分場跡地に開発された住宅地から全戸避難を勝ち取り、「スーパーファンド法」の設立に寄与。
1980年には、独自の住民組織(現「健康・環境・正義支援センター」、CHEJ)を設立、今なお地域住民を助けて環境正義の実現のために行動している。多くの環境賞を受賞している他、いくつかの大学から名誉学位を受けている。2003年にはノーベル平和賞の候補者になった

・1980年にはマスコミを通してロイスの言動に心を動かされたジミー・カーター大統領(当時)が一計を講じた。その後、非常事態宣言を発令。同地から約900世帯の住民が移転し、汚染地の浄化対策が行われた。
・事件の原因となった有害な化学物質を含む廃棄物は、投棄された当時は適法な許可に基づき埋め立てられたものであり、企業の責任を問うことは難しかった。しかし、同じように過去に投棄された有害物質による土壌・地下水汚染が相次いで発覚したため、米国では1980年、直接関与したかどうかにかかわらず、過去の汚染についても企業の浄化責任を問うことができる「スーパーファンド法(包括的環境対処補償責任法)」が1980年に制定、信託基金が設立された。環境goo、『ラブキャナル―産廃処分場跡地に住んで
主婦がホワイトハウスを動かした600日。書評より
ラブキャナル
―産廃処分場跡地に住んで
1897~
1945~
1979
清里の父 ポール・ラッシュ
GHQ将校として再来日

清里のもう一人の父、
安池興男「感激の至情、楽土を拓く 興男」
 4、霊訓の時代                      霊訓の時代

・世界中に様々な霊界通信が地上に示され、本当の生き方を模索することが注目された。
・シルバー・バーチなどが日本では有名ですが、枚挙にいとまなく世界中で霊界通信が示された。
・人々も心霊現象への興味よりも、霊界が示す人生哲学に注目が集まった。
 
1920
~1980
 約60年間
シルバーバーチ霊性進化の道
3大霊訓の一つ
霊媒モーリス・バーバネル(イギリス、79歳没)を通して約60年間にわたって「霊的真理」を語り続けた霊界のメッセンジャー
とスピリチュアリズム
・「私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。」

シルバーバーチは語る Teachings of Silver Birch A.W.オースティン編 / 近藤千雄 訳

希有の霊界通信、シルバーバーチの霊訓シリーズの一つ。その内容の深さ広さは
人類が手にした最高の真理と言えます。 中でも本書は最も分量が多く、テーマが多岐にわたり(23章)、シルバーバーチの思想の全体を知るのにふさわしいものです。 まさにシルバーバーチの入門書と言うべき一冊。
1920年~の10年は霊言の記録なし。
1938~1993年 世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが交霊会に出席したことで事態が一変、毎週定期的に交霊会、速記によって記録をとり『シルバーバーチの教え』として16冊が刊行された。


目次
編集者ノート
序文  ハンネン・スワッファー  ⇔ 1925年へ
一章  シルバーバーチの使命
二章  交霊会の目的
三章  地球浄化の大事業
四章  明日の世界
五章  絶対的摂理の存在
六章  ヒーリングの問題
七章  神とは何か
八章  祈りの効用
九章  キリスト教のどこが間違っているのか
十章  人工的教義と霊的真理
十一章 進化の土壌としての地上生活
十二章  死後の世界

十三章  霊界通信の難しさ
十四章  交霊会の舞台裏
十五章  交霊会についての誤解
十六章  睡眠中は何をしているのか
十七章  スピリチュアリズムの第一線で働く
         人々への励ましのメッセージ
十八章  霊界側から見た戦争
十九章   再生(生まれ変わり)
二十章  青年牧師との論争
二十一章 霊界でも祝うクリスマスとイースター
二十二章 シルバーバーチ、子供と語る
二十三章 さまざまな疑問に答える
シルバーバーチの祈り
シルバーバーチ霊性進化の道
  4、霊訓の時代
 
1980年代 ダリル・アンカバーシャル
彼らの交霊の記録が残っている。
バシャールの2012年についての考え方は極めて明確で、大きく言って3つある。

1つはエネルギーの変化。
1つはオープン・コンタクト。
そして
もう1つはパラレル・アースへの分化
 である。
バシャールによるチャネリング(霊界通信)の内容は、チャネラー(霊媒)であるダリル・アンカの潜在意識にある知識がトランス下で吐き出されたものか、あるいは単なる低級霊のからかいか?⇒「霊性進化の道」より
1981~ 土光 敏夫と母登美 ⇒ 女学校創立(昭和16年へ)

土光 敏夫と第二次臨時行政調査会

・この時、土光さんは石川島芝浦タービンの専務で大変な激務での中、お母様の遺志を継いで二代目学園理事長に就任。
・土光さんは、その後石川島播磨・東芝の重役、経団連会長になってからも、横浜鶴見区の学校から近いご自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通っていた。
このころの年収は5千万円はあったというが、その多くは、母が創立した女学校「橘学苑」(現在は共学)の支援にあてられていたという。
・自宅の応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ、決して会社を私利私欲のために使わず、学校教育に力を注いだ。自身の生活費は月10万円と言われていた。

・敏夫は中学校の受験に3度失敗。関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。
1936年(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946年(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。

・1950年(昭和25年)、経営の危機に本社に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。
・1960年(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959年(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
・1965年(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966年(昭和41年)に再建に成功する。
・1974年(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。
1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、

  1. 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  2. 増税によらない財政再建の実現。
  3. 各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  4. 3K(コメ国鉄健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

の四箇条の申し入れを行い実現を条件とした。
行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄-JR・専売公社-JT・電電公社-NTT)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。
謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。

・行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』(1982年(昭和57年)7月23日)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。
敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
・戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
・穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
・とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシにキャベツの外葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。

昭和61年、電電公社や国鉄の民営化をやり遂げた臨調は解散したが、その功績を認められ、土光さんは民間人では初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章された。

*-*-*
受勲の際、土光さんが「個人は質素に、国は豊かに」と、おしゃったのは有名な話だ。
そんな土光さんの、座右の銘は、『日に新たに、日日に新たなり、また、日に新たなり
という、中国古典の「大学」に出てくる言葉です。
この言葉について、土光さんは以下のようにおしゃっていたそうです。
「一日の決算は一日のうちにやる。失敗もあるであろう。
しかし、昨日を悔やむこともしないし、明日を思い煩うこともしない。
新たに今日という清浄無垢な日を迎える。
ぼくはこれを銘として、毎朝『今日を精いっぱい生きよう』と誓い、全力を傾けて生きるのだ。」
昭和63年8月4日、土光敏夫さんは91歳で老衰のため没。
1981.5

ファティマ第三の預言
・ダブリン発ロンドン行きアイルランド国際航空737型旅客機がロンドンのヒースロー空港に着陸寸前、ある男にハイジャックされた。
・当初、亡命か政治犯の釈放要求かと思われていたが、世界中が見守るなか事件発生から8時間後、犯人から奇妙な要求が出された。
・その要求とは「ファティマ第三の預言を世界中に公開せよ!」というものであった。逮捕された犯人は以前ローマ修道院にいた事があるジェームス・ダウニーというオーストラリアの修道士だった。・世界中に数ある奇蹟や預言の中でカトリック派の総本山バチカンが正式に認め、その内容をひた隠しにする「ファティマ第三の預言」というものがある。このことを世にしらしめることになったのがこのハイジャック事件だった。

1981 酋長ツイアビの演説集-日本語で初版出版された。
『パパラギ』 
岡崎照男・訳-はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

つまり、白人の世界でひとりの人間の重さを測るのは、気高さでもなく、勇気でもなく、心の輝きでもなくて、一日にどのくらいたくさんのお金を作ることができるか、どのくらいたくさんのお金を、地震があってもびくともしない、がんじょうな鉄の箱の中にしまっているかなのである。
他の人にかせいでもらったお金をためている白人が、たくさんいる。彼らはその金を、しっかりと守られたひとつの場所ヘ運んでゆく。ますますたくさん運んでゆく。するとある日、自分のために働いてくれる人はひとりもいらなくなる。というのは、お金そのものが、彼らのために働いてくれるのだ。魔法でもないのにどうしてそんなことができるのか、私にはどうしてもわからない。けれども、本当にそうなのだ。お金は幹から木の葉が生えるようにふえてゆき、たとえ眠っていてもこの人はますますお金持になる。…
『パパラギ』
1981 大川隆法-幸福の科学
信仰の対象は、地球系霊団の最高大霊、主エル・カンターレ。
基本教義-正しき心の探究と四正道(よんしょうどう)-愛・知・反省・発展
実在世界のほうが本当の世界であることは事実。
しかし、この世の世界を無駄にすることなく、この世の生き方が、あの世の生き方と合致し、一貫した生き方になるようにしなさい。この世とあの世を貫く生き方になるように生きなさい。
死んでから後悔することのないような生き方をしなさい。
各人は仏の生命の一部である。ただ、みんな、まったく同じであるかというと、そうではない。同じような素質は持っていながら、その発現の仕方、現れ方は違う。その活躍の仕方は違う。その幸福の求め方は違う。そこに個性というものが百花繚乱に花を咲かせる必要がある。個性的でありながら同時に仏の子として同じ使命を持っていなければいけない。
1981~
10年後にソビエト崩壊のフラッシュ
高木善之『転生と地球』
1981年4.27、社会人10年目の33歳の時に交通事故に遭い、意識不明の重体になりました。夢と希望を打ち砕かれて、病院のベッドで寝ながら、生き方や地球のことを真剣に考えました。「自分とは何か」「本当の幸せとは何か」、
そのときに見た未来において、ソ連が10年後、アメリカが20年後、地球が40年後に崩壊するという映像を見てきたそうで、見た後に意識を取り戻した。そして、彼が生き方を変えると心に誓うと不思議にも…
子ども時代からの謎の答えが得られました。(詳しくは書籍「転生と地球」へ)
『私の目的は地球を守る事ではありません。私の目的は幸せの実現です幸せとは何でしょう。自分だけのしあわせはありません。本当の幸せとは自分が幸せであり、みんなが幸せである事です。私は交通事故の体験で、全てのものが一つにつながっていること、ワンネスであることをしりました。一見バラバラに見えても本当はすべて根っこのところで一つにつながっていて、すべては調和の中でしかいきられなのです。それが自然というものです。しあわせは自然のなかにあり、しあわせは調和の中にあることに私は気づいたのです。自然のなかにすべてがあります。反対に自然を越えてはいかなるものも生存出来ないし、しあわせはない。自由はない、安心そのことをわかれば、人はしあわせになれます。』 ネットワーク『地球村』設立
高木善之
『転生と地球』
1982頃 大徳寺(伊藤さん)昭輝と氷川神社で奇跡的な体験
・明治時代、食肉業で財をなした伊藤家の四代目の後継ぎとして多くの従業員やお手伝いさんに囲まれ、広いお屋敷の中でお金というものを手に取ったこともなく、全くの「箱入り」状態で幼年期を過ごすも、中三の時に家業が傾きその生活が一変した。
・貧しいながらも楽しい高校生活を送り、大学入試を前にした十八歳の大晦日。近くの氷川神社にお参りをした彼の身に、常識では考えられない出来事が起こった。
・その日から三日間、赤い着物を着た見知らぬおばあさんが夢枕に立って「おぢばに来なさい。天理に来なさい」と真剣な顔で呼びかけた。
・その頃、大徳寺さんのお母さんは親交がある人の影響でどこに行けばよいのかすぐにわかったという。
・ご縁により、夢に出てくるおばあさんの言葉に従って初めて天理市にある天理教の本部に行くと奥の御殿で夢に出てきたおばあさんが待っていた。隣の人に誰ですかと尋ねたが、その人には何も見えない。ところが、彼には赤い衣を着たきれいなおばあさんが壇上から降りてきて、目の前でにっこり笑って「よく来たね」といった声まではっきり聞こえたのである。
しかし、その時は夢の約束を果たしたという安堵感だけで受験のためにすぐに東京に戻った。
・ところが、受験前のある日、いつもの神社で柏手を打ち、合格の祈願をして手を合わせていると、急に血の気が引き、心臓の鼓動が大きくなって、その場に倒れそうになった。
・そして、別の声が彼の口から出てきて「我は元の神である。約束の年限が来た。お前を神の社(やしろ)として貰い受ける」という言葉を発したのである。
・この日から食べ物は一切受けつけず、体は小刻みに震え続け、血を吐くような苦しみが三日三晩続いた。それが治まった時、天理教の教祖・中山みきが示したという教義を、老婆の声で語り始めたという。
・「神の社になれと言われても当時十八歳の私には何がなんだか分かりませんでした。言葉が勝手に出てきてしまうのです。父は私が気が違ったといって怒鳴りましたが、母はかぼってくれました」
・結局、彼はその後、天理教の修養科に進み、東京に戻ってからは親神様の命ずるままに従って多くの人に神の言葉を取りつぎ、迷っている人の相談に無償で乗るという「
おたすけ」の道に入ることになる。「『おたすけ』ではお金は取るなという親神様の命令で、母は脳溢血で倒れた父の看病で一家の生活は長男である私の肩にかかっていました。生活は苦しくアルバイトをしながら家族を支えるのは正直言って大変なものだった」

ほどなく元日本ペンクラブの会長で有名な芹沢光治良さんと運命の出会いをすることになる。
晩年の芹沢さんが、九十六歳で亡くなるまでに毎年一冊ずつ書き上げた「神の微笑」全八冊は、大徳寺さんの存在なしには完成しなかったと言える。
天界と地上界の関わりを見事なまでに書き表し人々を魅了したその作品の中に出てくる「神の言葉を取りつぐ伊藤青年」こそが大徳寺さんその人なのである。

その後、天理教という組織からも離れ、神奈川県湯河原にある天命庵で毎月八のつく日に訪れる一人一人に丁寧に神の言葉を取りついで「
おたすけ」をしている。
・この数年、釈迦やイエスの教えを取り違えた宗教者たちが、多くの若者に間違った教えを説いています。私は決して非難しているのではありません。「神とともに歩む」。そのことを多くの人は誤解しています。
神の啓示を受けた者はあたかもスーパーマンか超人のように思うでしょうが、それは間違いです。
本当に神の啓示を受けた者は、神の豊かで偉大な力が、あらゆる万物に働いていること、自分がその力によって生かされていることを知り、自分の無力を悟るのです。
今こそ一人一人が魂の救いの世界が本当にあることを信じて立ち上がってもらいたいのです。

その意味ではすべての人が
神懸かって生きてほしいと思っています。
これからも、どんな人の中にもある「
神の光」を見つけ出し、育てるお手伝いをしていきたいと思っています。
芹沢光治良
『神の微笑』
全八冊
■神の波動を感じて生きる

■いい話の新聞記事
1982 エドワード・B・ルウィン医師
1982年に、「昏睡からの覚醒」という画期的な著書を執筆、出版。人間能力開発研究所は、優れた神経外科医で、当研究所の研究チームの重要な一員でもあるミハイ・ディマンチェスク医師の協力のもとにその業績を引き継いでいます。
 1994年の人間の可能性に関する世界会議での講演で、ディマンチェスク医師は、昏睡から覚醒させる技術が、地元レベル、全国レベル、および国際レベルで受け入れられるようになるまでの、彼自身の長い旅路について語りました。
「昏睡からの覚醒」
1982

アルバート・エリスAlbert Ellis
アメリカの臨床心理学者。論理療法(Rational Therapy:RT)の創始者。
1982年、アメリカ心理学会による調査「20世紀に最も影響の大きかった心理療法家」ではカール・ロジャーズに次いで、堂々2位に選ばれた。また、1957年以降、論文への引用頻度でも一位を続けていた。

1983 立花 隆 『宇宙からの帰還』 中央公論社
以下の内容は著書より書き換えたほうがよいかも…

・ミッチェルは、アポロ14号に乗り込み透視の実験。
翌年、NASAをやめると、サンフランシスコに移り住んで、ESP研究所を設立。
・シュワイカート「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない
・エド・ギプスンは物理学者。スカイラブ4号。
宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は1人もいない
『宇宙からの帰還』
1983 脳内モルヒネが発見され、ネイチャーに掲載された。
2004 9月21日発行の『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)に掲載されて決着
1983年 ハワイ少数民族に伝承される、問題解決法 ―― ホ・オポノポノ ――
モナ・ナラマク・シメオナ女史((1913-1992)がネイティブハワイアンの伝統的高度医療専門家カフーナ・ラパアウとして、インスピレーションを得て、ホ・オポノポノの伝統を発展させたトレーニング法を編み出す。
これを、モナ女史が、現代社会で活用できるようアレンジしたのが「セルフ、アイデンティティ、スルー、ホ・オポノポノ(SITH)」。
最初の指導教育者として、医療施設や大学機関を含めた世界中でこのトレーニングの講演、指導にあたり、なかでも国連に招聘されて行ったトレーニングは3回。

1983年には、本願寺ホノルル別院とハワイ州議会により、その業績が讃えられ「人間州宝」を授与された。

多様な文化的・社会的背景からなる南北アメリカや欧州で実践されつつ、さまざまな国際会議、高等教育の場へも紹介されてきた。(国連、UNESCO、WHO(世界保健機関)、ハワイ州立大学ほか

⇒K.R女史、
イハレアカラ・ヒューレン博士へ継承⇒1983~博士はハワイ州立病院触法精神障碍者収容病棟へ

ホ・オポノポノの問題解決の基本は、
「どんな目の前の現実も、100%自分の記憶(潜在意識)の現れである」
として、その記憶を「クリーニング」するため、
自分の記憶に向かって
「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」「ありがとう」の4つの言葉を唱えること


これによって、問題の根本である自分自身の記憶を「クリーニング」すると、現実にも変化がもたらされるというもの。

⇒イハレアカラ・ヒューレン博士の活動
数年間ヨーロッパで活動⇒「日本に行きなさい」という声⇒博士「まだヨーロッパが終わっていないから行きたくない。」⇒上の方から「まずは日本から。後の世界へは日本から自然に発信されていく」と、何度も何度も聞こえたとのこと
今、世界中で「宇宙」との交信を始めている人々が続々と現われて、日本を訪れる人が増えている。
「まずは日本が変わるのだ。それがなければ、世界が変わらない」
「宇宙」だけがその答えを知り、「宇宙」だけがすべての疑問に答えを出せる。
何かちょっとした「疑問」が一つでもあれば、「わからない」をクリーニングする。

セルフアイデンティティ ホ・オポノポノとは
その目指すところは、「この地球上に人間として生を受けたことの個人的な意味」をより豊かに理解し、さらなる気付きへと歩みを深めること。
2日間の基礎 I クラスを通して、
・自己の存在を根源から観て、許し、受け入れ、大切にすること。
・「問題」の本質を知り、どんなレベルにおいても根本的・日常的に解決する方法を学ぶ。
一例として:
・自己-スピリチュアル、メンタル、エモーショナル、フィジカルなあらゆる側面
・家族、親族、先祖との関わり
・「いのち」ー妊娠、中絶、流産、自殺、死とその過程について
・経済事由や学業、不動産、物質のすべて など

『ウニヒピリ』
ホ・オポノポノ アジア
1983~1987 イハレアカラ・ヒューレン博士とホ・オポノポノの実践始まる
・ハワイの州立病院触法精神障害者病棟にて入院していた患者(法を犯しても罪を問えないような重度の精神病患者)に対して1度の面接もせずに、カルテに目を通し、ホ・オポノポノを実践することにより、ついには患者の変化、職員の変化、患者の退院、ひいてはその後入院患者が来なかったため、1年半後には病棟そのものが閉鎖されたという。

・モーナ・ナラマク・シメオナ女史もサポートしていたという。
 
1980年代 インドのヒンドゥー教導師マハリシ・マヘーシュ・ヨギと超越瞑想TM
日本のサラリーマンのストレス解消法として企業が導入。
・井深大、稲盛和夫らが影響をうけた。(ジョン・レノンとも関わり)
1934~
1983~
シャーリー・マクレーンと3部作
『アウトオンアリム』
全米で300万部を記録し、精神世界ブームを巻き起こした本。
世界的な宗教ブーム、精神世界ブームの発端となったのが、本書。
1983年にアメリカで刊行され、またたくまに300万部のミリオンセラーを記録。日本語版は1986年に刊行。
現在までに60刷りを販売し、日本でもベストセラーになった。
「愛と追憶の日々」で、アカデミー主演女優賞を獲得した著者は40代初めに世界中を飛び回る。
その中で、インドのヨガ教師から
前世のあることを示唆され、ヒマヤラのラマ僧との会見で、
デ・ジャブを覚え、スウエーデンの霊媒師から、精神世界の説明を受けるなど、奇妙で不思議な体験を繰り返す。
その結果、自らのこれまでの即物的な生活を反省し、ついには、俳優ピーター・セラーズの突然の死を予知したり、
体外離脱を経験するまでになる。
それまでは「実利的な合理主義者」だった著者が、オカルテイックな領域の存在を認めるに至るまでの経緯が、平易な文章で書かれている。それだけに、精神世界に対して疑いの目を向けるであろう大多数の人々にも、納得のいく仕上がりになっている。

『ダンシングインザライト』
『オールインザプレイング』
『ゴーイングウイズィン』
『ダンスホワイルユーキャン』
『カミーノ』

アメリカの女優で有名。
インスピレーションを受けて執筆。
チャクラやサムシンググレートについて
シャーリーとチャネリングする宇宙意識について
彼女が巡礼地スペインに行った旅について書かれている。そこで起こる不思議な体験。生まれる前の記憶。カルマのことなど…宇宙ができ始めたことなどまで書かれている。

アメリカのチャネリングブームの草分け

シャーリー・マクレーン「惑星生命体を語る」(You Tube)
シャーリー・マクレーン「体外離脱体験」(〃)
『アウトオンアリム』
『ダンシングインザライト』
『オールインザプレイング』
1984 中田正一とNGO「風の学校」
千葉県大多喜に事務局がある。
初代代表の故中田正一さんが、国際協力のための若い人の人材育成の場として、1984年「風の学校」を始める。その母体の「国際協力会」は、1967年に設立された。
今は、妻の中田章子さんが、代表をしている。
中田正一さんは、第二次世界大戦後、農林省で日本の農業の技術指導に力を注いでいたが、工業化と経済成長をまい進する日本での農業に失望し、アフガニスタン、バングラディッシュで、農業の技術指導に情熱を傾けるようになる。干ばつのため、水不足に苦しむ人々を見て、70歳で、井戸掘りを勉強する。
1984 寺山心一翁(しんいちろう)と右腎臓ガンの自然治癒
・1936年東京生れ。
・早稲田大学第一理工学部電気工学科卒業後、東芝に入社。半導体素子の研究、開発、試作に従事する。その後独立し、寺山コンサルタンツオフィスを設立(1980)。
・1984年に右腎臓ガンを患い、手術、抗がん剤、放射線治療という現代医学による治療にもかかわらず、ガンが右肺など他部位へ転移し、末期と診断されたのを機会に自宅で死を迎えるために退院。
・やがてガンに愛を送ることで深い気づきを得る。その後は、自らの直感に従い、副作用のない様々な自助療法などを取り入れ、からだとの調和をはかりながら自分に合う方法を統合的に取り入れ、やがてガンは自然治癒していった。
・現在は、朝日カルチャーセンターでの毎月一回の講義、国内外でのワークショップや講演をはじめ、がんの回復過程で自らが得た智慧として、すべての鍵は愛であること、意識を高め、感じる力を呼び戻すことの大切さを説き続けている。
1985 ダスカロスとメッセンジャー
アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)出版。
欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えた。
邦題『メッセンジャー』
太陽出版刊行
1985 福来友吉死後に後藤以紀が『月の裏側の念写の数理的検討』を出版
福来のもと、三田光一が念写した写真をNASAが作成した写真で検討。月面地図に31箇所の地点を定め、三田の写真と計算によって判定し確かめていったところ、31箇所すべてが一致。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P267
1986~

ダリル・アンカとバシャール(BASHAR)
1986年に初来日し、日本の精神世界・ニューエイジを信奉する人々の間に大ブームを起こしたアメリカ人のダリル・アンカ(1951年10月12日生)は1984年以来バーシャルという宇宙存在とチャネリングしている。

バーシャルはオリオン座近くの惑星エササニに住んでいて、個人ではなく複数の意識が合わさったような存在。エササニは物理的には不可視であり、エササニ星人はテレパシーで意思疎通するため言葉や名前も存在しないという。
バシャールという名前は本名ではなく、チャネラーのダリルがアラブのバックグラウンドを持つことに関連して、バシャール自身が、アラビア語で指揮官、存在、メッセンジャーといった意味を持つ「バシャール」という名前を付けたのだという。
インドの維持神ヴィシュヌの読み方を変えたものではないかともされている。

ワクワク(わくわく)
情熱(excitement, joy, love, passion)などを意味する言葉。
しばしば「ワクワクすることをしよう」という提言がなされる。
バシャールによれば、「ワクワクする」というのは「人生の中で真の自分を表現することの出来る波動」を表し、その波動は同じような波動を引き寄せるという。
自分のワクワクする気持ちに従って生きることが人生の目的であるとも発言している。

並行世界と選択
人間は何かを決断(選択)するたびに、その決断をした地球に意識のフォーカスを合わせているということ。

無時間
バシャールによれば、時間や時間の連続性といったものは人間が作り出した概念で、過去や未来などあらゆる時間が「いま、ここ」に同時に存在しているという。

2012年
バシャールの2012年についての考え方は極めて明確で、大きく言って3つある。
1つはエネルギーの変化
1つはオープン・コンタクト
そしてもう1つはパラレル・アースへの分化である。

パラレル・アース(地球)への分化
2012年にはポジティブなエネルギーが加速する一方で、パラレル・アースへの分化が始まる。加速するエネルギーはあらゆること、困難や苦悩といったネガティブな面も拡大するので、人によっては逆にブレイク・ダウンとなってしまう。 だからこそ、本来の自分を表現するワクワクする気持ちに従って生きることが重要となる。

現在地球には様々な観念、様々な波長が(自分の好きな波長も、そうでない波長も)同時に存在しているが、2012年を境に各々の波長に基づいてパラレル・アースへの分化が始まり、2015年以降はこの分化が加速する。
(2012年あたりに、今は1本でしかないエネルギーの光線が、人間の集合意識を象徴するある特殊なクリスタルに当たり、パラレル・アースへの分化が始まるとする。)
そして2025年~2035年には、それぞれの世界が遠く離れてしまい、最終的には自分の波長以外の現実を体験することは不可能になる。
具体的には、自分と異なる波長の人間とは離別する、死別する等して、様々な方法でそれらの人間が周囲から消えていなくなってしまい、ポジティブな世界ではポジティブなことだけが、ネガティブな世界ではネガティブなことだけが起きるようになる。
体験可能なパラレル・アースは無限に存在するが、自分がどのパラレル・アースへ移行するかは、2010年~2015年の5年間の過ごし方が最も重要となる。
パラレル・アースのポジティブな一方の極は、やがて宇宙文明の一員として迎えられるが、ネガティブな一方の極は、完全な破壊、破滅を体験することになる。
(その世界は核戦争で自らを滅ぼしてしまい、バシャール達が呼びかけても誰の返事もない、とても静かな世界だという。)

パラレル・アースへの分化については、本田健との対談「未来は、えらべる!」に詳しい。
1900~
1940~1986

杉原千畝
日本軍の樋口季一郎陸軍中将と共に、多くのユダヤ人を救った日本人として知られている。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給。ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られ、勇気ある人道的行為を行ったと評価されている。

1980年代後半~

ミハイル・ゴルバチョフとペレストロイカ
1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。
ロシア語で「再構築(改革)」を意味する(“пере”〔ペレ〕は「再び」を意味する接頭辞、“стройка”〔ストロイカ〕は「構築」「建設」を意味する単語)。
ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。
しかし結果として、高まる民主化圧力により一党独裁制は破綻し、ソ連崩壊へと到った。
現在では、共産圏の民主化を進めるとともに冷戦を終結させた政策として、主に旧ソ連以外の各国で高く評価されている。

 1981~ 近藤千雄(かずお)とスピリチュアリズム関連本の翻訳
幼少時、母に奇妙な出来事が起こる体験を見聞きする。戦後すぐ、兄を交通事故で亡くし、霊界への興味を持ち、浅野和三郎などの本を読むようになる。
高校時代、九州にやってきた霊能力者の間部詮敦(まなべあきあつ)に出会う。間部は知るはずの無い兄の想いを語り、聞いていた母は霊界の存在を確信する。近藤はそれに間接的に影響を受け、自身の道を決定付けた体験だと語る。
その後、交霊会などを体験。明治学院大学英文科卒業。在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1984年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。現在、霊界やスピリチュアリズム関連の多くの書籍を多数翻訳している。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/daiyogen52.html 近藤に霊界の存在を確信させた出来事
『コナンドイルの心霊学』
訳者あとがき 
1986.4.26 チェルノブイリ原発事故による放射能汚染
1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)に換算して約500発分の原爆投下に相当する量の放射性物質が撒き散らされたことから、「核戦争」とも表現された。
後に決められた国際原子力事象評価尺度(INES)において最悪のレベル7の参考事例として知られている。
4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れも相まって被害が拡大・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。現在は分離独立したウクライナに処理義務がある。
ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。
長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも言われるが、事故の放射線被曝がん白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある(詳しい議論はロシア語・英語版参照)。
直接チェルノブイリ原発をコントロールしているのはウクライナ共和国の陸軍で、軍人の話では3,000人が事故当日に即死した。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。
1986年8月のウィーンでのIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァシリー・レガソフは、広島原爆での結果から、4万人ががんで死亡するという推計を発表した。しかし、会議では4,000人と結論され、IAEAの公式見解となっており、2005年にも同じ数字が公式発表された。

1986

ダリル・アンカとバシャール(BASHAR)
・1986年に初来日し、日本の精神世界・ニューエイジを信奉する人々の間に大ブームを起こしたアメリカ人のダリル・アンカ(1951年10月12日生)がチャネリングするとされる宇宙存在。
・HPを公開し、今もってダリル以外の人とも交信可能という。⇒坂本政道

1986~ スローフード
1986頃、ローマの名所の1つのスペイン広場にマクドナルドが開店した。それが「ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる」という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。1986年、イタリア北部の町ブラ(Bra, ブラッとの表記も)で「スローフード」運動が始まった。当時、『ゴーラ』という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニがイタリア余暇・文化教会(ARCI=アルチ)という団体の一部門として、「アルチ・ゴーラ」という美食の会を作ったのが始まり。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁するイタリアの文化復興運動組織である。土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりを持つ。
1986 ブライアン・L・ワイス退行催眠療法とソウルメイト
アメリカの精神科医であるブライアン・L・ワイスによって催眠療法中に偶然発見され、1986年に出版された『Life Between Life』という本で世に知られるようになった。
退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(日本語では前世記憶という。以下この記事で記述。)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったりと治療に役立つともされ、多くのケースで施行された。(前世療法、退行催眠)⇒たけしのアンビリーバボーで治療の一例が紹介され、「ソウルメイト」という言葉が広く?知られるようになった。
『Life Between Life』
1987 イアン・スティーヴンソンと『前世を記憶する子どもたち』の出版
600例⇒2000例に。アメリカやカナダからの事例はほとんどなく、大部分はアジア(インド、セイロン、タイ、ビルマが約半数)
この研究により、ジョン・ベロフは『超心理学史』の中でスティーヴンソンの調査によって人間の記憶が大脳以外にも保持される証拠を得たことを高く評価
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P248
1987   UFO研究会議、テーマは「UFOの40年」 『UFO事件の半世紀』
ロズウェル事件からMIB
(Men in brack)まで
キース・トンプソン 
1988
ワードの死後の世界
原著者であるワードが、自動書記という方法で霊からの通信を受け取り、本物の霊界通信、すなわち、真実の死後の世界の姿を伝えたものを圧縮して書き直す。
コスモ・テン・パブリケーション1988年刊の新版。【「TRC MARC」の商品解説】
http://www5.ocn.ne.jp/~sl1848sb/newpage250.html
 ワードの死後の世界
1989

アルフレッド・エイヤーと臨死体験
1989年の彼の死の少し前、エイヤーは尋常ではない臨死体験をした後、メディアの取材を受けた。これが生涯にわたり有名な宗教的懐疑主義からの離反の一歩ではないのかと誤って解釈されたためである。その経験について、エイヤーは、「死が私という存在の終わりを意味することになるだろうという私の信念を揺さぶるものだった、最も私はそれが終わりであることを希望し続けるつもりだが」と語っている。

1928~1989.2.9 手塚治虫と火の鳥、三つ目がとおる、ブッダ
1989(平成元年)4.5 手塚治虫と『ガラスの地球を救え』 『ガラスの地球を救え』
1989.4.16 1989年4月16日にはこの地球上の物質の結晶構造全体と住人のすべてがライトボディ化第三レベルへと活性化された。『ライトボディの目覚め』(改訂版) 『ライトボディの目覚め』(改訂版
1989.6.4 六四天安門事件第二次天安門事件
民主化を求めるデモ隊と軍や警察との衝突。多数の死傷者を出した。
1989.9 この惑星(地球)はあなたがたに対する敵対パターンを解き放った。(P104~)
いままで地球に起こると予言されていたカタストロフィの多くが回避されたことを意味する。たとえ地震や噴火、洪水などという自然災害が起こっても命を失う人の数はたいてい最小限ですむでしょう。土地は大きく破壊されるかもしれませんが、これは物質から離れよという合図です。
『ライトボディの目覚め』(改訂版)
『ライトボディの目覚め』(改訂版)
1961~1989 ベルリンの壁崩壊
1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁。
東ドイツが建設した。冷戦時代の象徴、そしてドイツ分断の象徴とも言われたが、1989年11月10日に破壊され、現在は一部が記念碑的に残されている以外存在しない。ベルリンの壁は両ドイツ国境の直上ではなく、すべて東ドイツ領内に建設されていた。
1989 江原啓之、スピリチュアリズム研究所設立。⇒2011.3.31へ  
1990

キューバとスペシャル・ピリオド
・キューバの社会主義経済型適応について
・ソ連崩壊に伴い、1990年代にエネルギーの供給遮断を経験した。ソ連圏からの補助金付のエネルギー供給は100%止まったし、CIAによれば、1989~1993年で燃料輸入が71%と衰退したと評価している。米国エネルギー情報局(US Energy Information Administration)の最も控え目な見積りでさえ、キューバの石油や電力消費は1989~1992年で20%も下がった。
フィデル・カストロは1990年に「スペシャル・ピリオド」国家非常事態を宣言。
燃料やスペアパーツ不足で、機械は遊休化し、公共や民間交通も麻痺し、労働者は失業し、全国の工場も家庭も予測できない停電にさらされ、キューバ経済は事実上破綻した。
最も深刻な状況となったのは食料問題だった。
・平均的なキューバ人たちの栄養摂取量、とりわけ、タンパク質や脂肪摂取量は、基本要求水準以下まで落ち込む。牛肉の代わりにグレープフルーツの皮を細かく刻み、アパートで鶏肉を育てたり、バルコニーで家畜を飼育する人もいた。
都会でも、ホームレスやストリートチルドレンが現れることはなく、暴力、犯罪、自暴自棄、希望喪失もキューバの地区生活にはなかった。
・「スペシャル・ピリオド」の生活は困難ではあっとはいえ、その種の状況はほとんど起きなかった。
・温暖な気候や観光収入、海外からの送金、対外投資、国際援助もある程度は、危機に対処する助けにはなった。カストロ政権は北朝鮮の政権よりも人間味があり、試行錯誤をへたうえで、慎重な改革を実施し、国を観光のために開き、インフォーマル部門を合法化し、様々なローカルな自助支援が奨励された。
だが、本当の奇跡はキューバ人々たちによってなされた。
・キューバは非常に都市化が進んでいるが、典型的なバリオは都会の中の村、アーバン・ビレッジなのだ。各家庭は地区生活の中にしっかりと埋め込まれ、ほとんどが数世代の同居家族で、典型的な家庭には、おば、おじ、いとこも含まれ、バリオ内外の友人や親類との関係も緊密だ。
調査によれば、ハバナの脆弱な地区の86%の人々が親戚、97%が友人、そして、89%が地区からの支援に頼っていると言う。キューバ社会はコミュニティレベルでの団結が目覚ましい。
・ほとんどのキューバ人たちは、家族、友人、隣人に頼ることができ、このローカル・レベルでの連帯感、ソーシャル・キャピタルが、スペシャル・ピリオドへの対応の一助となった。
・「お互いが助け合わなければならず、危機は人々を団結させたのです」ある地区の住民は語る。人々を養ううえでは、伝統知識も決定的だった。
・農地のほとんどは1959年の革命後に集産化されたが、約4%のキューバの農民たちは自分たちの土地を保ち、11%は民間協同組合として組織化されていた。こうした独立農家は、国営農場よりも少ない燃料や農業化学資材の投入で運営され、危機への弾力性があった。
・家族農家は、貴重な伝統知識を保存しており、この知識が回復され、国営農場や都市農業での自給に貴重なノウハウを提供したのだった。地域自助努力の支援運動、有機農法、そして、キューバ在来の伝統知識を組み合わせることで、都市農業が促進されていった。
・家屋に近接した空き地や遊休地を人々は菜園に転換し、都市内のコンクリートブロックや都市周辺の遊休地が有機菜園へと変わった。野菜他の食料を生産するため人々は都市を耕し始め、1990年代半ばには、ハバナだけで何百個もの園芸クラブが設立された。あるハバナの都市生産者は「スペシャル・ピリオドが始まると、自分たちで園芸クラブを組織した。活動に家族全員がかかわることが強調された。私どもは、相互扶助を発展させたいと願い、種子や品種、そして、経験をわかちあいました。相互扶助、連帯の精神を達成し、農業生産について学んだのです」と。
・エコロジストたちは、スペシャル・ピリオドによるキューバ農業の転換を「有機農業の社会的実験、オルタナティブ・モデル」として絶賛している。だが、実際のところ、キューバの低投入型農業への転換は、エコロジー意識の高まりによってではなく、必要性によって突き動かされていた。
1990年代後半に経済状況が改善され、化学投入資材が広く利用できるようになると、キューバは工業型農業へと後戻り始める。革命後にカストロ政権は私産財産を凍結し、人々は狭い空間に閉じ込められた。そして、政権は政治的統制を強化するよりも、社会的なつながりを創り出すため、コミュニティ開発にかなりの投資をしてきた。
かくして、庶民は何とか暮らしてきた。
・「これは理想化すべきでことではない」と教授は何度も繰り返す。キューバ人たちが、1990年代初期から半ばにかけ、コミュニティの意識によって、悲惨な資源供給のショックをなんとか緩和したことは重要だし、北朝鮮と比較すれば、これがささやかな成果ではないことがわかる。(教授=ヨーグ・フリードリッヒ教授)

1990.3.26 林陽と『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』
…。このような警告がどのようにして私たちのところに着たか、それは問題ではありません。私たちは今まさにそのような状態のまっただなかにあって、すべてのしるしに取り囲まれています。変化はおころうとしています。やがて、地上のいくつかの部分はぬぐい去られてしまうでしょう。私はこのことを確信しています。現在私たちはそれが自分たちのいる場所に起こるかどうかを知りたいと思っています。しかし、私たちが正しく生きているかぎり、それがどこであろうと、大した違いはないでしょう。
『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P32~)
林 陽
『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』
1990(平成2年)8.15 五十嵐康彦と『エドガー・ケイシー日本人へ最後の警告』
1934.1.19の予言
「1998年、日本の大部分は海中に没するはずである」という予言をもとに現代を考察。

現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。
核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。

年と季節と場所については神の御名を呼び求めてきた者たち--神の召名のしるしを持ち、神から選ばれた体を持つ者のみにそれは告げ知らされるであろう
われわれは今や新しい天の配剤の転換の時期のただ中にいる。時々刻々と古いサイクルは終局に近づいていて正しい者だけが地球を相続することになる。
すべての原子も細胞も、それ自身が一つの世界であり、生命を与える同じ”精神”によって生かされている。そして、その精神は創造者の意志を体現したものである
人間はなんでも力を問題にする。金の力、地位の力、富の力、この力、あの力点。しかし、これは神の道ではなかったし、今後も神の道ではあり得ない。もし、本当のリーダーの資格を試すテストがあるとすれば、それは、
彼が人間の高い考えに奉仕し、人類全体に奉仕する道を選ぶかどうか、というテストであるべきだ

「神が示された生きた見本のように誰かの幸福のための道筋になってやることが、この実体(霊魂、ここではリーディングの対象)の地上における役割である。
弱きものよ、重き荷を背負う者よ、すべてわれわれのもとに来たれ。わが十字架をとりて汝が身に背負い、われに学べ』--これである。そして、実体はそれを見事にやり遂げるだろう。もし、できなければ、実体自身がアトランティスでそうだったように、また現代の多くの人たちがそうであるように、悲惨な間違いをすることになるだろう」
「この記録(アカシック・レコード)は各人の生命的実体(霊魂)が忍耐をもって時間と空間の中に書き記したものである。やがて自己が永遠なる存在(神)と同調一致できたときに開かれるのである。そして、この神の意識に同調することができた人たちにも、それは読み取ることができる。
すべての時間は一つであり、過去・現在・未来は一体だからである。
永遠なる法則である根本法則は、蒔いた種はいつか必ず刈り取らねばならないということである(霊魂不滅とカルマの法則)」とリーディングの中で繰り返し、主張した。
人間の生きる目的は、自分自身の心を完璧な一つの『全体(the whole)』と協調できる高さにまで高め、進化させることにある。そして、そうなった段階は、同時に自己の独立した個体性を認識している状態でもある。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P191~)

アトランティスのカルマの刈り取りの場が日本とアメリカであるに違いないと感じた。
勤勉で合理主義、自然の法則に従うことよりも物質至上主義。歪められた純血主義。
「アトランティス人の霊魂は両極端で中道を知らない。」
「神は、その霊魂が耐えられる以上の重荷を背負わすものではない。」
願わくは日本に救世主(メシア)が現れんことを…。
”その人”が日本に再臨せんことを…。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P226~)

『エドガー・ケイシー
日本人へ最後の警告』
1990.11   1990年11月、羽咋市主催の「第1回宇宙とUFO国際シンポジウム」開催
UFOの町・羽咋の由来
全国では「UFO神話のまち」として知られている羽咋市。その理由は、羽咋市に伝わる昔話の中に、「もしやUFOではないか」と思わせる物体が登場する『そうちぼん伝説』と言うお話が残っているからです。

このお話の中に登場する『そうはちぼん』とは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしています。そしてこの『そうちぼん』が、羽咋市の北の方角にある眉丈山の中腹を夜な夜な怪火を発して飛んでいたと言うのです。

そのほかにも、この『そうはちぼん』が飛んでいたとされる眉丈山の辺りには、「ナベが空から降ってきて人をさらう」と言うような神隠し伝説が残っていますし、羽咋市の正覚院というお寺に伝わる『気多(けた)古縁起』と言う古い巻物の中には、神力自在に飛ぶ物体が登場します。これらのお話から、もしかしたら大昔にUFOが来ていたかも知れないと言うことになり、羽咋市は「UFO神話のまち」となりました。
http://www.hakui.ne.jp/ufo/detail/15.html

「宇宙とUFO国際シンポジウム」
平成二年十一月開催された「宇宙とUFO国際シンポジウム」は内外から高い評価を受け、この成功を受けて旧自治省のリーディングプロジェクトとして採択され、宇宙開発・SETI(地球外知的生命探査)UFOをテーマとした宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」が平成八年七月オープンした。特筆すべきは、「国立の博物館でも玄関にあるロケットはレプリカ。この町の博物館には本物があった」「日本のスミソニアン」と新聞に書かれたように、実物の宇宙機材を中心として展示している点であり、直接NASAから百年間ただで借りたりしている。少しの勇気と知恵と行動力によって小さな町でも、住んでいて楽しい町となる。まちづくりへの提言は机上から生まれない現在進行形の中から出てくるものではないだろうか。
 UFOが、現代にとって異文化を象徴する第二の黒船であるならこうした不思議な伝承・伝説が残されている羽咋はまさに宇宙の出島であろう。コスモアイル羽咋の基本構想は「宇宙の出島能登─羽咋プロジェクト」と命名された。「UFO神話のまち─羽咋」はこうした背景のもとに生まれた。
           コスモアイル羽咋主任 高野誠鮮(じょうせん)
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/0107/html/t05.htm

羽咋市の『羽咋はくい』の地名の由来
羽咋の地名の由来は垂仁天皇の皇子磐衝別命がこの辺の領民を苦しめていた怪鳥を退治し、このとき皇子の連れてきた3匹の犬が怪鳥の羽を食い破ったという伝説がもととなっているとされる。それが「羽喰」の地名が起こりであり、現在の「羽咋」になったのではないかと伝えられる。ウィキペディアより
 
1990年代 臨死体験研究 第1回国際会議
1990年、ワシントン、ジョージタウン大学で。
13カ国300人の研究者と体験者を集め臨死研究の第1回国際会議開催。
立花隆氏はその国際会議に出席するとともに、NHKの大型ドキュメンタリー番組【臨死体験】を制作。その番組は1991年(平成3年)3月17日「NHKスペシャル」で放送された。
立花氏はテレビでは時間枠に相当影響があり取材した資料の1パーセントも番組で使われなかったと語っている。
『臨死体験』-文芸春秋でこの現象に関する連載を始めたことで臨死体験の存在は一挙に知られるようになった。
一種の臨死体験ブーム到来
1990年代 新世代ベア
・2009.9月、乗鞍岳の山頂付近で熊が人を襲い、9人が重軽傷を負った事故はまだ記憶に新しい。
本来熊は臆病な性格で人間が生活するエリアに姿を見せないとされている。なぜこのような事故が起きたのか。
・専門家に聞くと1990年代から熊に異変が起きているという。人家のすぐそばに暮らす熊がいるというのだ。それが「新世代ベアー」と呼ばれる若い熊だ。人里の周りには柿や栗など食べ物が多い。だんだんと生活圏が人間と近くなり、行動が大胆になってくる。そして、そこで生まれた子どもはもっと大胆になるという。メーテレHPバックナンバーより
なぜこのような事態となってきたのか。今後の対策は?⇒
知床自然センター

ジャスムヒーン(?)
・十数年間、ほとんど何も食べずにプラーナ)だけで生きている女性。その不思議な人は、世界各地で講演活動をし、日本にも来日したことのあるオーストラリア人。「プラーナ(光)」の研究をしている。
・メタフィジックス(形而上学)について20冊以上の本を出し、プラーナの栄養について調査し、国際的にレクチャーを行っている。
・彼女が本当に伝えているのは「断食」をすることではなく、瞑想などを通して宇宙の大いなる源とつながることで、とてつもない高い周波数のエネルギーを受け取ることができ、それによって、肉体自体も多大な滋養を得ることができること。
・彼女が開催するレクチャーのなかでは、「決してすべての人が、プラーナだけで生きていけるわけではないこと」を何度も強調している。
その人の魂の成長段階において、その人が受け取れるプラーナの割合も変化していくため、いきなりの「不食」は危険であるという。
・個人によって肉体的にも「食する」ことで栄養をとることも必要だという。
・そんな彼女のように「不食」という生き方をしなくても、高い周波数のエネルギーを受け取れるような「幸せレベルを上げる方法」がある。
■1つ読むたびに、それをしている自分を想像して、ひと呼吸してみることがポイント。
・顔が痛くなるほどたくさん笑う
・素敵な道を散歩する
・お気に入りの曲を聴く

・眠りから目が覚めたとき、あともう何時間か眠れる時間が残っているのがわかる
・新しい友達をつくる。もしくは長い付き合いの友達と時間をすごす  …
そして、結果を夢みること
・「素晴らしい!」「気持ちいい!」とたくさんの喜びを感じられるほどに周波数が上がっていって、生活スタイルもいい方向へシフトしていく。
・日々「幸せ!」と感じることで、私たちの波動が上がり、自然とまわりの波動もあがり、地球全体の波動もあがっていくと語っている。

1991
高木善之氏の臨死体験と符合?
事故後10年後ソビエト崩壊
20年後アメリカ崩壊
40年後世界崩壊
ソ連崩壊
党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日ロシア共和国と改称して主権宣言を行い、自らを大統領とした。
1991年ソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、同年12月26日ソ連は崩壊した。ロシアは旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体СНГ)加盟国のひとつとなった。ロシアは旧ソ連が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持し続けている。
1991 中村雅彦『臨死体験の世界』
1991

崎山克彦とフィリピン、カオハガン島
1991、日本人崎山克彦がこの島を購入。
以来、島の教育・医療・産業などを整備し、小規模ながら島内にロッジや公共トイレなどの宿泊施設を設けることでグリーンツーリズムの精神に基づく観光を島民の収入源にするなど、積極的に行動を起こしている。
崎山が自らの著書でカオハガン島の事を「何もなくて豊かな島」と紹介したことで、日本での知名度が上がり、観光客が増加した。
崎山は妻と共にアイランドキルト(カオハガンキルト)と呼ばれるキルト作りの指導など、様々な方法で島民たちの経済的自立を支援している。⇒「世界ナゼそこに?日本人」で紹介された。 

 
1991~ 中矢 伸一と日月神示
・東京生まれ。米国ワシントン州立コロンビア・ベースン・カレッジ卒。
「日本弥栄の会」代表。三年に及ぶ米国留学生活を通じ、日本と日本民族の特異性を自覚。
帰国後、英会話講師・翻訳・通訳業に携わる一方、神道系の歴史、宗教、思想などについて独自に研究を進める。
1991年、それまでの研究をまとめた『日月神示』(徳間書店)を刊行。
以後、関連した書籍を相次いで世に送り出す。これまでに刊行した著作は40冊以上
『日月神示』(徳間書店)
1991 片桐すみ子輪廻体験 過去世を見た人々の証言』  輪廻体験 過去世を見た
人々の証言
』 
1991

井深 大(まさる)とエスパー研究所
1991年(平成3年)にエスパー研究所をソニー社内に設立した。自称「超能力者」による透視能力やテレパシーの実験をはじめ、「気」の科学的な検証、幼児教育の研究などを行っていたという。

もともと井深は従来の科学の枠を超えた東洋的な思想に強い興味を持っていたとされるが、これを単なるオカルト的な疑似科学への傾倒と見るかどうかは見解が分かれる。
1998年(井深逝去の翌年)、同研究所は閉鎖された。

 1991 五日市 剛と初めてのイスラエルの旅  
1991~
2003~

戦争と劣化ウラン弾
1991年の湾岸戦争で、米軍がイラク戦車部隊に使用した。使用量は公式には約300トン。
・その後、NATO による PKF 多国籍軍がボスニア紛争およびコソボ紛争に介入し、ボスニアで約1万発、コソボでは約3万発の劣化ウラン弾を使用したことを公式に認めている。
2003年3月以降のイラク戦争でも、米軍は劣化ウラン弾を大量に使用したといわれている。人道支援・戦後復興支援のためにイラクに派遣された陸上自衛隊が駐留したサマーワ郊外においても、米軍がイラク戦争時に使用したものとみられる劣化ウラン弾が複数発見されている。

・劣化ウラン弾頭が着弾し、あるいは劣化ウラン装甲に被弾することによって劣化ウランが燃焼すると、酸化ウランの微粒子となり周囲に飛散する。これが体内に取り込まれた場合、内部被曝や化学的毒性による健康被害を引き起こすとして、その影響が懸念されている。

・湾岸戦争後の米軍の帰還兵などに「湾岸戦争症候群」と呼ばれる健康被害が確認されており、劣化ウランがその原因の一つではないかとする説がある。また過去にも劣化ウラン弾頭が使用されたボスニアやコソボ等の地域においては、白血病の罹患率や奇形児の出生率が増加した等と主張する健康被害が報告されている。
・これらの懸念や報告に対し、劣化ウラン弾頭や劣化ウラン装甲を使用する当事者であるアメリカ政府は劣化ウラン弾による健康被害を否定しており、この症状は劣化ウラン弾による影響ではなく、フセイン政権がかつて用いた化学兵器の残留物の影響という公式見解を発表している。
・また「湾岸戦争症候群」についても、イラク軍による油田破壊によって放散した化学物質の影響や、戦争前に兵士に投与された対化学戦用ワクチンの副作用によるものであるとする説もある。湾岸戦争に限定したそれらの説に加え、ボスニアやコソボを含む「白血病の罹患率や奇形児出生率の増加」に関するデータも、当事者として医療現場が主張する統計的な根拠や信頼性に対しては疑問があり、UNEP の公式報告書でも、ボスニア・コソボにおける劣化ウラン弾使用の放射線による影響を懸念・重要視しておらず、WHO は UNEP の収集したデータを基に「DU が紛争で使われた地域の住民や滞在していた民間人に対して、DU 毒性に関する医学的スクリーニングを行う健康上の理由はない」と結論づけている。これらは主に、DUの汚染が現場から数十m単位に限局されており一般住民が継続的にDUに曝露される可能性が極めて低いことが理由である。

1992 百匹目の猿とシンクロニティの証明 『ワンダーゾーン』 よみうりテレビ・編 青春出版社
・「なにか新しい行動を受け入れた生物が少しずつ増え、ある一定の数を超えると、その行動はその生き物全体にまで爆発的に広がっていく」という。
・この論になぞらえていうなら、芋洗いするサルは99匹目までは、ポツポツとしか増えなかったが、100匹を超えたとたん、いっぺんに島じゅうのサルが芋を洗うようになり、その行動は海を越えてなんらかの仕組みで別の群れにまで伝わってしまったというわけだ。